録音集
豊島与志雄
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八月の中旬、立秋後、朝夕の微風にかすかな凉味が乗り初める頃、夜の明け方に、よく雨が降る。夜の間、大気が重く汗ばんで、のろく渦を巻いたり淀んだりしているなかに、どこからともなく軽い冷気が流れだして、木の葉がさらさらと揺れだすと、もう間もなく、東の空が白んで、地平線から、熔鉱炉のなかの鉱石のように真赤な太陽が、しずかにせり上ってくる。然しそれも僅かの間で、太陽の面はすぐ雲にかくれる。空低く、煙か霧かとも見える雲で、それがぱらぱらと、時にはさあーっと、雨を落してゆく。この雨、のぞきださなければ雨とも思えないような、また降りかかっても物を濡しそうには思えないような、乾燥した爽かな音なのである。
六月の末から七月の初めにかけて、いわゆる梅雨の頃、宵のうちによく雨が降る。人に気づかれないようにこっそりと日が暮れて、晴れてるのか曇ってるのか分らない空が、重々しく大地の上にのしかかって、あらゆるものの動作を鈍らせ、呼吸を遅滞させ、陰欝な気分を立てこめる時、濃い雨気が流れてしとしとと雨が降る。降るかとみれば、すぐに霽れ、霽れるかとみれば、また降っている。この雨、傘の中にでも、家の中までも、じめじめとしみとおってくるような、しめっぽい濡れきった音なのである。
雨にも──雨に対しておかしな言葉だけれど──乾燥した音と濡れた音とがある。
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雨戸を閉める音は、種々雑多であるが、その両極瑞に、ガタガタ……ピシャリ……というのと、スー……コトリ……というのとある。これを解説すれば、力一杯にガタガタと押しやって、ピシャリとぶっつけるのが前者で、力をぬいて静にスーっと押して、頃合をはかってコトリとやめるのが後者である。
この二つの気合は、その人の時々の気分にもよるが、そういう例外を除いて、尋常な場合だけをとれば、異った二つの気質を、そしてなお二つの生活様式を暗示する。
雨戸を閉める音をきいていると、その人の日常の挙措動作や暮し方から、気立や性質までが想像される。
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日常の対話で、音声の美醜は殆んど気付かれず、言葉の調子だけが主に感ぜられる。言葉の調子は表情や身振に直接関連しているが、音声は独立している故であろうか。
然るに、電話になると、言葉の調子の如何よりも、音声の美醜の方が、より多く感ぜられる。表情や身振の裏付のない言葉の調子そのものは、音声のために低い地位へ蹴落される。
そしてこの音声については、男性は別として、女性にあっては、美婦は多く悪声であり、醜婦は多く美声であって、顔の美と音声の美とはほぼ反比をなす。記録をとってみれば、例外は二十パーセントにすぎない。即ち八十パーセントまでは、音声の美と顔の美とは反比例する。──序ながら、他の調査によれば、教養の程度をぬきにして、単に筆蹟の巧拙だけから見る時、美婦は多く悪筆で、醜婦は多く美筆であって、その点右と同様の反比をなし、例外もほぼ二十パーセントにすぎないとかいう。
音声も悪く、筆蹟も拙く、さて面のみで、何の美人ぞやというわけか。そしてこれがまた、音楽や美術の方面に於て、真の天才婦人に美人少く、くだっては、芸に秀でた名妓に美人少き所以でもあろうか。
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或る若い女の告白に曰く──人の足音ほど面白いものはない。無関心な人の足音は、ただ音にすぎない。少しく関心をもつ人の足音は、その音につれて、膝のあたりまで眼に浮ぶ。少々愛する人の足音は、腰のあたりまで見えさせる。ほんとに愛する人の足音をきけば、その人の全身が眼に見える……。
これを真実だとすれば、足音をきくことによって、その人に対する愛の程度が測定出来るかも知れない。音だけに止るは無関心であり、音と共にイメージが喚起さるれば関心であり、そのイメージの如何によって、愛は半身に及び、やがて全身に及ぶ。
但し、愛と反対の憎悪の方面に於ては、如何であるか──聞きもらした。
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昼間は種々の雑音に邪魔されて駄目であるが、静かな夜間では、汽車の音をきいて、それが客車であるか貨車であるか、はっきり分るという人がある。
客車は滑り、貨車は軋る、というのが原則らしい。但しこれは特殊の用語で、なお説明すれば、たとえば汽身の車輪の周囲を二米として、二百米の距離を走るには、車輪は百回まわればよいわけである。然るに、それだけの距離を走るのに、客車の車輪は百回は回転しない、即ち多少滑りゆくのであるが、貨車の車輪は百回以上回転する、即ち多少軋るのである。──勿論この説は、速度や重量など理学を無視した凡そ非科学的なものであるが、心理的には正しいと当人は云う。そして彼は汽車の姿を見ずにその音響だけによって、客車か貨車かを云いあてるのである。
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音響とそれによる心理的イメージとが相反するのは、市内電車の、終電車と始発電車である。これは空気の澄明の度合や他の騒音の度合によるのであろうが、終電車の音は、眠たげで重々しく鈍く、始発電車の音は、晴れやかで軽く鋭い。然るに、電車の内部はどうであるか。終電車の乗客は、僅かな例外を除いて、そして女給車などを除いて、みな鋭く眼を光らせ、表情を緊張させ興奮の色まで帯びて、精力的である。始発電車の乗客は、やはり僅かな例外を除いて、みなうとうとしており、頬の肉はたるみ、蒼ざめ疲れはてて、少しの元気もない。知らない者は恐らく反対の想像をするであろうが、実状はまさしくそうである。この、深夜の乗客が元気であり、早朝の乗客が疲れはててるということが、何を語るかは別問題として、その実状は、電車の音響とまさしく正反対で、終電車の音は疲れはてており、始発電車の音は元気である。その音とその実景と、これほど相反するものは他に少い。
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常住不断に秒をきざんでる時計に、もし意識があって、自分で自分の音をきき続けたら如何でしょう、と尋ねた男がある。自分は現在その時計だ、と彼は云うのである。
初め、腸狭窄で手術を受けてから、病気や手術に対する恐怖のあまり、始終腹鳴りが気にかかっていた。そしていつしかその方へ極度の注意力が集中され、ごく微細な腸の鳴動もきき分けられるようになった。それが腸ばかりでなく、ひいては胃中の液体の音も聞きとられ、やがては、些細な気管の故障にも、呼吸音が聞き分けられた。そうなると、もう停止するところを知らず、平常でも、肺に出入する空気の音は固より、心臓の鼓動まで聞えてくる。云わば、常に自分の身体各部に聴診器をあててじっときき入ってるのと、全く同じ状態になってしまった。
彼はそれを神経衰弱のせいだとし、幻覚妄聴のせいだとしようとして、ひどく努力した。然し耳を自分の身体内部からそらすことが出来ず、呼吸と血の循環との規則的な音に、胃腸の蠕動の不規則な音が交錯して、その騒音に始終神経を刺激され、睡眠もよくとれないのだった。身体の内部は、暴風と激流と震動とのみで、いささかの静安もないのだ、と彼は云う。
そして彼は遂に発狂した。
思うに、彼の聴覚は触覚をもまきこみ、更にあらゆる内部感覚をもないまぜて、体内に大騒音を拵えだしたのであろうが、そうした騒音を記録出来ないものであろうか。
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隣室の私語はひどく神経を刺戟するものであるが、それよりも、襖一重の隣室で、ペンの音を立て、原稿紙の音をさせるのは、更に神経を刺戟するものだとは、某氏の言である。
支那には、隣室の紙声枕に通って転々すと、表現の妙を極めた卑猥な文句があるが、全然精神的な意味に於て、隣室のペンと原稿紙との音が枕に通って眠られないとは、如何にもありそうなことである。そしてこういう不眠は、どうにもやりばのない性質のものらしく思われる。それは、秋の深夜など、窓外の木の茂みに、さらさらと、風の音とも雨の音ともつかないものを耳にして、何かしらうすら寒く心がおののくことのある、あの不安と、同じ性質のものらしい。空虚な精神の危機である。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月25日作成
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