明日
豊島与志雄


 或る男が、次のようなことを私に打明けた。──

 手紙というものは、どんなものでも、そう嫌なのはないけれど、ただ一つ、僕が当惑するのがある。近日ちょっとお伺いしたいのですが、御都合のよい時日を知らせて下さいませんか、云々、といったような手紙だ。殊に、返信用の葉書なんか封入してあると、全くまいる。

 先方では、忙しい時に訪問しては失礼だし、仕事中など邪魔してはいけないという、甚だ鄭重な意向であることは、それは分っている。然し僕にしてみれば、如何に忙しい最中でも、いきなり来て貰った方がいい。時日を指定するとなると、手紙では、少くとも中一日くらいの余裕を置かなくてはならない。そしてその時日には、必ず待っていなければならぬ義務が生ずる。そういう義務に縛られることが、僕には苦痛なんだ。それに大抵、そうした時に限って、仕事の予定が狂って、最後のぎりぎりの忙しい場合になっていたり、急に他の用事が出来たり、また、何かしら外出したくなったりするものだ。幾日の何時頃逢いましょうと、そういう予定が立派に立って、そして先方にも無駄足をかけずに済み、こちらでも仕事の邪魔をされずに済み、万事調子よくやっていける人は、実に仕合せだ。

 僕の予定は、一日くらいなら立てられる。朝のうち電話ででも打合せておけば、その日中のことなら、立派に約束を守られる。けれども、明日になると、もういけない。明日の負担を負わせられることは、今日の僕にとっては、堪え難いことになる。「今日」というものは、現実的に存在する。然し、予想されたる「明日」というものは、僕にとっては、現実的には存在しない。それはただ架空のものだ。その架空の中に置かれた現実的な義務は、僕には苦痛の種となる……。

 まあ大体右のような話だったが、それを話す時の彼は、頬に赤みがさして、内心苛立ってるようだった。その様子を見ながら私は、彼が異常な場合にいることを悟った。つまり、彼にとって、「明日」が凡て架空だというのは、あらゆる「明日」のことを呑みつくすほどの重大な、ただ一つの「明日」が存在するのであって、而もそれが、甚だしく不安定なものだということである。健康の問題か、思想の問題か、恋愛の問題か、金銭の問題か、而もそれがせっぱつまった事柄で、いつ彼の全生活を震撼させるか分らないようなものなのである。

 実際、彼は異常なそして危険な場合にいたことが、後で分った。

 ところで、そうした危険な場合、大抵は、それは間接的な表現を取る。重大な「明日」の存在が、普通の「明日」の否定を以て表現される。なぜだろう。世間体の故か。一種の体面の故か。或は、直接の表現に堪え得ないような貴重な脆いものがその中に含まっている故か。後になって、そのことを彼に話すと、彼は異様な微笑を浮べて答えた、実生活は文学とは異ると。

 それならば、文学ではどうだというのだろう。実際、文学では、普通の「明日」のないような人物や場合が、屡々探求される。それが文学の最も感動的な部分とさえも云える。そしてそれは、どんな風に表現されているだろうか。

      *

 文学に於ても、特殊なものは、間接な表現によって強く表明されることが多い。

 ゴンチャロフの「オブローモフ」の中に、面白い一節がある。オブローモフは移転を家主から迫られているが、考えただけでも、移転のごたごたに堪えることが出来ない。従僕のザハールはそれに対して、ふと、他の人達もみんな引越しをする、上手に引越しをする……と云い出す。その時、オブローモフは椅子から飛び上って怒鳴りつける。「他の人達は上手だって! そうか、俺がお前にとって、他の人達と同じだということは、今ようやく分った。」

 之は最も効果的な表現である。他の人達と同視されることを憤慨するのは、如何なる直接的な自己主張よりも、一層強い自己主張になる。自分はこうだああだと如何に説き立てても、他の人達と同視されるのを憤慨することには遠く及ばない。他の人達と同様だということを否定するのが、最も強い自己主張になる。

 恋愛などの場合は、こうした手法が屡々用いられる。一人の女を愛している時、その女を如何に深く愛するかと説くよりも、他のあらゆる女に一顧も与えないことを説く方が、より強くその愛が表現される。さまざまな美しい女性にとり巻かれても、それらに一瞥も与えないことは、つまりそれらを凡て無視することは、ただ一人の女性を重視することになる。

 こういうのは、比較の問題ではない。絶対的な問題である。

 ドストエフスキーの「悪霊」の中にあったことだと記憶しているが、面白い対話がある。

 A──「吾々は馬鹿だな。」

 B──「どうして君は馬鹿なんだ。」

 A──「僕は馬鹿じゃないさ。」

 B──「僕だって、君よりは馬鹿じゃないよ。」

 言葉は違うかも知れないが、こういう風な対話だと私は覚えている。ところで、おかしなことには、AもBも、自分は馬鹿ではないと云いながら、そして実際そうかも知れないが、それでもなお、吾々は馬鹿だということは否定されずに残る。この否定されずに残るものが、最も重要であって、この場合にはそれが最初に云われただけのことである。多くの場合、それは最初にも最後にも云われない。オブローモフの場合には、それが云われなかった。云われなかったけれども、云われる以上に主張された。

 文学に於て、いつも吾々が注目し考察するのは、云われる云われないに拘らず、その最も重要な一事である。前に述べた男の場合のただ一つの「明日」である。「明日」は僕にとって凡て架空だという言葉の裏の、本当に重大な一つの「明日」である。その「明日」を、どうして、直接に表現出来ないのであろうか。直接に表現出来ない所以を、彼は、実生活は文学とは異るという言葉で云ってのけた。実生活では実際、それは直接に表現し難い。何故かを説明することは今の私には興味がもてない。然し文学に於ても、何故直接に表現出来にくいのであろうか。吾々が注目し考察するのはそれであり、而も直接にそれを表現したいからこそ、実生活は文学とは異ると云い得るのである。それが直接に表現出来なければ、文学もやはり実生活同様まだるっこしいものに過ぎなくなる。

      *

 凡そ文学者は、普通の場合に於ても、「明日」を待っているであろうか。確実に予想され得る現実的な「明日」を待っているであろうか。

 前の「馬鹿云々」の話ではないが、一般に、吾々文学者には明日がない、ということが云い得られる。その時もし一人の文学者が、説者に尋ねるとする、どうして君には明日がないんだと。説者は恐らく答えるだろう、なあに、僕には明日はあるさ。すると、問者もこう云うだろう、僕にだって、君以上に明日がないということはないと。然しながら、両者の個人的な意見は、そのまま真実であるとしても、この場合は何等の力も持たず、ただ、吾々文学者には明日がないということだけが、生きて残る。

 文学者とはそういうものなのである。というより寧ろ、文学とはそういうものなのである。そしてこの場合の「明日」の否定は、前の或る男の話と同様、明日のあらゆる事柄を呑みつくすほどの、或る重大な不安定な「明日」の存在を意味する。そうした「明日」を、文学者は注視し思考しているし、それが文学の中核となるのである。

 卑俗の排除、偏見慣習の否定、日常性との闘争、不安懐疑の奥底の探求、そうした事柄はみな、右の事情から来る。

 文学者は、或る何等かの壁にぶつかって、虚無のうちに身を横たえなければならないことがある。然しながらこの虚無は、全然の虚無ではない。それは、重大な明日のために、普通の明日を否定することに外ならない。もし「明日」が全然存在しないとしたならば、どうなるか。自殺への途しかないであろう。それは「悪霊」のスタヴローギンの最後の場合である。

 虚無の中から創造されたもの、云い換えれば、否定の底に肯定される異常な「明日」を直接に表現されたものを、私は文学に要求したい。尤も、この直接の表現とは、創作技法上の形式を指すのではない。技法上の形式はどうでもよろしい。何等かの肉体的なつながりがあればよいのである。それはただ「何等かの」で差支えない。肉体的なつながりそのものが、文学に於ては直接の表現になる。

 ところで、一歩退いて考えれば、というのはつまり、余りにつきつめた物の云い方をしたので、一息ついて気を弛めてみれば、吾々は普通の場合、異常な「明日」を却って否定して、尋常な「明日」を肯定することが、屡々である。絶壁の上に立っていると、そこから墜落はしないことを知っていながら、墜落しはすまいかという疑懼のために後に引戻されることがある。これは日常性の復讐だ。この復讐は、強力であると共に誘惑的でさえある。日常性の復讐に敢然と対抗し得るだけの覚悟が必要であろう。

 最初に述べた或る男は、其後、私に次のようなことを云った。──あの当時僕は、所謂背水の陣を布いて生きていた。この背水の陣というものは、まかり間違えば、凡てを投り出して自殺するというような、そんななまやさしいものではない。異常な「明日」を責任を以て肯定するという、やさしいようで実は非常に困難な覚悟の肚をすえていたのだ。

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社

   1967(昭和42)年1110日第1刷発行

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2006年424日作成

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