蓮
豊島与志雄
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私は蓮が好きである。泥池の中から真直に一茎を伸して、その頂に一つ葉や花や実をつける、あの独特な風情もよい。また、単に花からばかりでなく、葉や実や根などからまでも、仄かに漂い出してくる、あの清い素純な香もよい。その形、その香、そして泥土と水、凡てに原始的な幽玄な趣きがある。
田舎の子供達は、真白な蓮の根をぽきりと折って、中に通ってる八つの穴に何がはいってるかと、好奇の眼を見張りながら、いつまでもじいっと覗き込む。または葉の茎を折り取って、それを更に幾つにも小さく折って、折られた茎が細い糸でつながってゆくのを、面白そうにぶら下げて眺める。それにも倦きると、小川の清い水を葉の中にすくい込み、鮒や鯰の子を捕えてきて、その中に泳がせて楽しむ。或はまた、大きな花を取ってきて、その真白の花弁を一つ一つむしり取り、黄色い雄蕊雌蕊を中にのせ、宝を積んだ舟として、橋の上から川の真中に、幾つも幾つも流し浮べる。
蓮の葉や花が盂蘭盆の仏壇につきものとなっているのは、仏教の広まってる地方共通の周知の事柄である。が、或る地方では盂蘭盆の前七月七日の七夕祭が、可なり盛んに行われる。七八歳の子供達は、七夕に関係ある俳句や和歌や漢詩の類を、前々から習字しておいて、それを七夕の日の朝、普通の軸物くらいの大きさに清書し、床の間に掛けて、いろんな果物や野菜の類を供える。その後で、女の子は、色紙で小さな衣服を裁ち、男の子は、色紙の短冊に勝手な文句を書きちらし、それを青笹の枝に吊して、縁先の庭に立てる。そして、それらの文字のために用いられる硯の水は、蓮の葉にたまった露のしずくを最もよしとしてある。子供達は早朝から起き上って、夜のうちに蓮の葉にたまってる、水銀ようにとろりとした清い露のしずくを、いそいそとして集めに出かける。
そういう話を、一昨々年の夏、私は或る友人に向ってした。すると十日ばかりたって、美事な紅蓮の一鉢を植木屋から届けて来た。友人の名刺がついていた。私の手蹟が余り拙劣なので、蓮の葉の露を取って習字でもせよ、という謎かも知れないが、然し私には非常に嬉しかった。庭の真中に据えさして、仕事に疲れた眼を慰めた。径一尺余りの小さな鉢だったが、五六枚の葉をつけ、花を二つ開いていた。鉢の中の藻の間に、糸蚯蚓が沢山いたので、それを食い尽させるために、緋目高を四五匹放ったりした。
そのうちに、淡紅色の花弁が散ってゆき、葉も一二枚黒ずんで枯れていった。花の後の漏斗形の萼は、実を結ぶ様子もなく、小く萎びて立枯れてしまった。残りの葉も、まだ霜を受けない先に枯れかかった。鉢の中を覗いてみると、彎曲したこちこちの根が、土の上に痛ましく露出していた。恐らく蓮は、径一尺余りの小さな鉢の中で、充分に伸びることが出来ず、窮屈の余りに窒息しかけたのであろう。そう思うと、吾が愛するこの蓮のために、充分の泥と水とを与えてやりたくなった。
私は近くの瀬戸物屋へ出かけていって、其処にある一番大きな蓮鉢を買い求めた。径三尺ばかりの分厚なもので、田舎の広々とした蓮田には及びもつかないが、一二株の蓮の生長には充分らしかった。私はそれを日当りのよい所に据えて、庭の隅から掘り起した土を盛り、それを水にこねて、蓮を移し植えようとした。そこへ、叔父がひょっこりやって来た。漢籍や盆栽に親しんで日を送ってる叔父は、私の柄にもない仕事を見て、長い髯をなでながら笑い出した。そしてこんなことを云った。
──蓮は秋に動かすものでない。春の彼岸頃、旧根が腐って新芽が出だしたのを、逆様に移し植えるのを以て法とする。然し、凡そ花卉のうちでも、水ものは最も栽培困難としてある。素人流の育て方で、蓮の花を一つでも咲かせ得たら、それこそ園芸の天才である。
私はその天才になろうと欲した。そして叔父の意見を参考にして、蓮を移し植えるのを翌年の春まで延した。すると図らずも、意外な便宜を得た。
私の家へ、田舎から時々野菜物なんかを持って来てくれる、農家の老人があった。その老人が、蓮を育てたいという私の志望を聞いて、蓮には都会のこんな痩せた土では駄目だから、上等の肥えた土を進上しましょう、という好意を寄せてくれた。やがてその老人が、車につんで運んで来た土は、荒川岸の泥土とかで、壁土に用いても最上等なもので、色は少し灰色がかって、ねっとりとした重みのある濃密なものだった。
私はそれに力を得た。春の彼岸になるのを待って、小さな蓮鉢をひっくり返してみると、底の方に、か細い白根が腐らずに残っていた。でもそれだけでは、大きな鉢には足りないような気がした。で更に植木屋から、白蓮と紅蓮との苗根を一株ずつ取寄せ、その上田舎の老人に頼んで、普通の食用蓮の苗根をも取寄せ、それらを逆様に鉢の中へ植え込んだ。そして植木屋から聞き知った肥料として、大豆と干鯡とを与えた。
所が春がたけていっても、蓮の芽はなかなか出なかった。其代りに、鉢一面にぎらぎらとした油が浮き、青褐色の苔が泥の面に拡がっていった。そして六月のはじめ頃になって、小さな蓮の芽が出だしたけれども、その巻葉が開きかけると、しなしなと横に倒れて、四五寸くらいの大きさにしかならず、それもやがて縁の方から枯れていった。そしてただ油と水苔とだけが、鉢の中一杯に漂い浮び、泥の中からは泡が立ち、物の腐爛した臭気が発散して、清浄な蓮の花も匂いもその気配だに見せないで、いじけた小さな五六枚の葉だけが、枯れ残ってるのみだった。初め私は、蓮を盛んに肥らせるために、大豆を一合ばかりと干鯡を七八本やったのであるが、それが余りに多すぎて、蓮は肥料負けしてしまったのである。
「余り御馳走をやったので、消化不良になってしまった、」と私は、友人や叔父や田舎の老人などに答えた。そして鉢の中の油や水苔を、しきりに掬い出したけれど、また後から生じてくるし、鉢の中の泥全体が腐れ爛れたようになって、臭くて穢くて手のつけようがなかった。
植物の消化不良も、人間のそれと同じように、治療甚だ困難なものである。その上、自然の大地に於てならば、肥料はやがて地下深くへか四方へか、次第に放散してしまうであろうが、瀬戸の鉢の中に於ては、放散すべき場所がなくて、いつまでも其処に残っている。消化不良のいじけた小さな蓮では、それをなかなか吸収し了せるものではない。うっかりすれば、蓮の方が肥料の毒気に窒息させられるかも知れない。と云って、今更泥土を取換えるのは、夏の盛時に猶更危険である。私は悲しい気持で、ぼんやり蓮鉢を見守るの外はなかった。
ただ一つ私の心を慰めたことには、その蓮の葉を一枚、盂蘭盆の折、亡父と亡児との位牌のある仏壇に供えることが出来たのである。
「どうせ駄目な蓮ですから、葉を一枚取っても宜しいでしょう、」と妻は云って、一番新らしい綺麗な葉を切り取った。そして洗い清めたのを見ると、小さくはあるが、湍々していて、仄かな匂いをも持っていた。八百屋から来た蓮の葉に比べると、新しいだけに色艶もよかった。
それだけのことを唯一の収穫にして、私はいつしか蓮鉢を忘れがちになった。年を越して昨年の春、鉢の泥を半ば取換えてやろうかとも思ったが、それもつい不精から時期を過してしまった。そして暖くなるにつれて、鉢の中は油ぎってねちねちしてきたが、それと共に、一つ二つ蓮の巻葉が出だしてきた。強すぎる肥料のしみた泥土の中にも、根だけは生き残っていたものと見える。伸び出した葉は、前年と同じように小さないじけたものだったが、それだけにまた可憐でもあった。私はもう、花は勿論大きな葉をも期待せずに、その小さな葉だけで満足した。
七月の末から、私は妻や子供と一緒に、房州の外海岸へ行って、一夏を其処で過した。盛んに繁茂してる蓮田を見ると、自分の貧弱な鉢が思い出された。そして九月のはじめ家に帰ってきて、私は少なからず驚かされた。庭の鉢から、相当に大きな葉が、七八本も、真直に伸び出していた。
「花は……、」と留守の女中に私は尋ねた。咲かなかったという答えだったが、別に失望もしなかった。それだけ葉が生い茂るようでは、来年あたり花をつけるかも知れない、と私は思った。どうだい……という得意の眼付で、妻の顔を見返したし、またやがて、友人や叔父の顔をも見返してやった。
ただ悲しいことには、蓮の葉の裏面や柄に、油虫が沢山群っていた。鉢の上方に桃の一枝がさし出ていて、それから伝播したものらしい。私は惜し気もなくその桃の枝を切り去り、それから蓮の葉の油虫を鏖殺してやった。蓮の葉は勢を得たように、青々と茂っていった。もう余分の肥料も泥土に吸いつくされたらしく、水がさっぱりと澄んで、青い藻まで生えていて、蓮池特有の匂いも、気のせいばかりでなく実際に感ぜられた。それから霜時になると、枯蓮の趣きも充分に見られた。
そして、冬を越して今年の春である。今日彼岸の入りに、藁の覆いを取去ってみると、鉢の泥は肥えて黒ずみ、水は冷く澄み返り、所々に枯葉の柄が残っている。今に其処から、青々とした巻葉が伸び出し、それが円く大きく拡がって露のしずくを宿す頃には、更に花の蕾が伸び出してきて、夜明の光に音を立ててぱっと開くであろう、などと想像すると私は、蓮のうてなに坐すような清浄な心境を覚ゆる。それにしても、鉢の中に生き残ってるのは、紅蓮であろうか、白蓮であろうか、または普通の食用蓮であろうか、或はその三つ共であろうか。それはこの夏花の開く折の楽しみとしておいて、私はうららかな春日のさす縁側に蹲って、庭の蓮鉢の方へ眼をやりながら、フランスの友人が贈ってくれた、蓮の花弁で巻いた香り高い煙草を、心静かにくゆらすのである。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月7日作成
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