金魚
豊島与志雄
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「金魚を見ると、僕はある春の一日のことを思い出して、いつも変な気持になる、」と云ってSが話したことを、そのまま三人称に書き下したのが、次の物語りである。
彼は愉快で堪らなかった。何故だか分らなかったが、心が軽く空中に漂っているような心地だった。愉快というものは、うち晴れた空に浮んでる雲のようなものだ、と彼は思った。
それは美しく晴れた春の日だった。
朝八時半に眼を覚した。考えてみると、丁度十時間ばかり眠ったらしかった。暫く床の中でぼんやりした後、起き上ると、頭が常になく爽かだった。
朝食を運んで来た女中の右の頬に、薄すらと黒いものがついていた。彼はその顔を見つめた。女中は一寸微笑みかけたが、慌てて右の袂を飜えして顔を拭いた。「まだついていますか、」と彼女は尋ねた。そのきょとんとした眼付が可笑しかった。
円くもり上って宝石のような光りを持ってる、小皿の中の鶏卵の黄味に、障子の硝子から射す朝日の光りが映っていた。
食後障子を開け放しながら、寝転んで煙草をふかしていると、縁側に小さな蜘蛛の子が、すうっとあるかないかの糸を垂れて下りてきて、そのまま何処かへふうわりと風に飛ばされてしまった。
春の日が照っていた。
「今日は一日何にもしないで暮そう。」と彼は独語した。
そのときふと、地方の友人へ書かなければならない手紙があるのを、彼は思い出した。「落付いてゆっくり手紙も書けない生活ほど惨めなものはない、」と誰かが言った言葉を、彼は頭に浮べた。彼は微笑んで手紙を書き出し、用件の次につまらないことを長々と書添えた。
何にもすることがなかった。
十時頃にその手紙を出しに外へ出た。
風がなくて暖かだった。桜の花がちっていた。彼は懐手をしたままぼんやり歩いていた。
電車通りに出ると、美しく飾り立てた時計屋の店先が眼に止った。小形な梨地の金側時計が一つあった。「いい時計だな、」と彼は思って、窓際に立ち止った。正札が裏返っていた。番頭が居た。
「その時計はいくらするんです。」と彼は尋ねた。
「これですか、正札より一割位はお引きしますが、如何でございましょう。」と番頭は答えながら、正札を表返した。三十八円と記してあった。彼はぼんやりそれを見ていたが、やがてふいと立ち去った。「あんな安いのは駄目だ、」と思った。
本屋の店先で雑誌を覗いていると、小僧が変な眼付でじろじろ見るので、彼は一寸心を曇らした。
「今日は一日愉快に暮すんだ、御馳走でも食べよう。」と彼は考えた。
友人を誘い出すのも億劫だったので、其処に在る一軒の洋食屋に飛び込んだ。二階には誰も他に客がなかった。
彼は窓際の椅子にゆったりと腰をかけて、街路の騒音に耳を傾けた。電車の響きがした。人の足音がした。それらを水の中ででも聞くような心地がした。室の中は静まり返って、白い天井と白い壁とで余りに明るかった。長くまたされた後に、皿が漸く運ばれてきた。腹がいい加減にふくらんでくると、ふと思い出して、中途から麦酒を一本取った。
食事がすむと、妙にぼんやりしてしまった。「暫く此処に居てもいいだろう、」と彼は云った。「はあどうぞ、」と給仕は慌てたように答えながら、片方の眉尻を下げ口を少し歪めて、変な顔をした。彼は可笑しくなった。笑を押えて眼を円くしながら、彼はも一脚の椅子の上に足を投げ出した。見ると、向うの卓子の上の大きな硝子鉢に、金魚が四五匹はいっていた。馬鹿に大きな鰭と尾とを動かして悠長に泳いでいた。彼は立ち上って覗きに行った。上から覗き込むと、小さな嫌な金魚だった。横から硝子越しに見ると、大きな立派なものになった。彼は感心した、自分も金魚を飼って見たくなった。急いで給仕を呼んで勘定を済した。
表に出て、金魚屋がありそうな方向へ歩いていると、その先の停留場で、先輩の木川に出逢った。彼はいきなり声をかけた。
「やあ、この頃いかがです。」
「え?」と木川は澄した顔で見返した。
「君この辺に金魚屋は知りませんか。」
「知りませんね。」
「何処かにあるでしょうね。」
その時電車が来た。「失敬、」と云い捨てて木川はそれに乗った。
彼はぼんやりその後姿を見送った。その時、自分が口に楊枝をくわえているのに気付いた。楊枝を口にくわえてぞんざいな口調で先輩に金魚屋を尋ねてる自分の姿が、頭に浮んだ。「木川は怒ってるかな、」と彼は考えた。取り返しのつかないことをしたような気がした。妙に薄ら寒くなった。
彼は下宿の方へ帰りかけた。「今日はいい日だ、」という朝からの気分が頭の隅にこびりついていた。「こんな気分を無駄にしてはつまらない、」と彼は考え直した。そして兎に角金魚を買って戻ることにきめた。
心当りの方面を歩き廻っていると、金魚屋が見付かった。狭い木戸を押して中にはいると、幾つもの池に種々な金魚が一杯はいっていた。彼は竜金の池に目をつけた。尾が大きく色がよくて、それが一番立派そうだった。お上さんを呼んで、「四五匹下さい、」と云った。
多くの群の中から、望みのものを選り出さなければならなかった。これと目星をつけて、白い鉢の中に掬い上げて買うと、それより他のものの方が立派なように思われた。他のを掬い上げて貰うと、更に立派なものが出てきた。彼は何度も選定を変えた。
「此処に居るのでお気に召さなければ、」とお上さんは云った、「上等のを二三日のうちに取り寄せてあげましょう。これでも上等の部ですが、お望みではどんなのでもありますから。」
彼はすっかりまごついてしまった。「これでよござんす、」と答えながらも、自分の選んだのが一番悪いもののような気がしてきた。尾が歪んでいたり、赤の工合が面白くなかったりした。彼は苛々してきた。そしてなお二三度選み直した後に、それで諦めた。
容器の問題になって、彼は更に困った。硝子の容器なら、そしてその家に在る一番大きな容器でも、二匹が精一杯だそうだった。彼は折角選んだ五匹の中から、更に二匹を選まなければならなかった。
硝子の容器に金魚を二匹入れ、上から新聞紙で包み、それを紐でぶら下げ、三円七十銭という驚いた価を払って、金魚屋から出てきた時、彼は陰鬱な気分に閉されてしまっていた。胸がむしゃくしゃしながら、心が滅入っていた。何のために金魚を買ったのか分らなくなった。日が西に傾いて、街路の空気が妙に慌しかった。彼は渋面をしながら、重い金魚入れを下げて、足を早めた。
下宿までは可なり遠かった。電車は込み合っていた。漸くのことで電車に乗ると、ぎっしり人込みの中に挟み込まれてしまった。金魚のことが気にかかった。然しどうにも仕様がなかった。片手で吊革につかまりながら、片手でやたらに肱を張って、金魚入れをかき抱くようにした。
無事に下宿の近くの停留場まで来ると、大きな金魚入れを下げては中々降りられなかった。まごまごしているうちに電車は動き出した。
「下りるよ、下りるよ、」と彼は叫んだ。「降りますか、お早く願います、」と車掌は云いながら、強く鈴の綱を引いた。電車は急に止った。ごとんと反動が来た。彼は人並に揺られて、金魚入れを落してしまった。硝子の容器が壊れた。水がぱっと飛び散った。立込んだ人々は、驚いて一時に飛び上った。「金魚だ、金魚だ!」という声がした。
彼は夢中になった。いきなり身を屈めて、泥床の上にはね廻っている二匹の金魚を両手に掴むと、それを振り廻しながら、むちゃくちゃに人を押し分けて、電車から飛び下りた。そして馳け出した。後から、叫び声とも笑い声ともつかない大勢の声が響いてきた。彼は我を忘れて馳けた。
下宿の側まで来ると、彼は初めて我に返った。両手には金魚を握りしめていた。掌にねとねとした不気味な感触があった。見ると、右手の金魚は腹が裂けて臓腑が出ていた。彼はぞっとして、金魚の死骸を其処に落した。金魚は鰭を張って、生きてるかのように立っていた。彼は嫌な気がした。足先で溝の中に蹴やると、汚い汚水の中に、臓腑のはみ出た大きな腹だけが、ぽかりと浮き出して見えた。眼を外らすと、左手にはまだ一匹の金魚を握っていた。
彼はそれを力強く溝の中に投げ込んだ。金魚は沈んだまま出てこなかった。然し初めの浮いてた奴の方は、どうにも仕様がなかった。彼は石を拾って投げつけた。大きな腹がぷかりぷかりと水に揺られて、向うへ流れて行った。そのうちに彼はたまらなく嫌な気持になった。
思い切って立ち去ると、掌が両方共ぬるぬるしていた。我慢が出来なかった。傍の電柱に掌をなすりつけた。
彼はぼんやり考え込んだ。而も何を考えてるのか自分でも知らないで、下宿に帰った。石鹸で手を洗ってると、先刻の沈んだまま出て来なかった金魚は、生きてたのではないかしらという気がしてきた。それを考えると更に堪らない気持になった。
彼は室にはいって寝転んだ。着物の裾が水にぬれていた。生臭い匂いとぬるぬるした感触とが頭について離れなかった。懐には出し忘れた手紙がはいっていた。
彼は陰鬱な気分の底に閉されてしまった。
「僕はあの日のことを考えると、馬鹿々々しいのか腹立しいのか分からなくなってしまう。それが僕の愉快なるべき一日だったんだからね。」そう云ってSは話の口を噤んだ。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月7日作成
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