梅花の気品
豊島与志雄
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梅花の感じは、気品の感じである。
気品は一の芳香である。眼にも見えず、耳にも聞えない、或る風格から発する香である。甘くも酸くも辛くもなく、それらのあらゆる刺戟を超越した、得も云えぬ香である。人をして思わず鼻孔をふくらませる、無味無臭の香である。それと明かに捉え得ないが、それと明かに感じ識らるる、一種独特の香である。何処からともなく、何故にともなく、何処へともなく、自からに発散して漂っている、浮遊の香である。
それはまた、梅花の香である、薄すらと霧こめた未明の微光に、或は淋しい冬日の明るみに、或は佗びしい夕の靄に、或は冷々とした夜気に、仄かに織り込まれて、捉え難く触れ難く、ただ脈々と漂ってる、一種独特の梅花の香は、俗塵を絶した気品の香である。その香を感じてその花を求むるは、俗であり愚である。花の在処を求めずに、漂い来る芳香に心を澄す時、人は気品の本体を識るであろう。
気品はまた、一の凛乎たる気魄である。衆に媚びず、孤独を恐れず、自己の力によって自ら立ち、驕らず卑下せず、霜雪の寒にも自若として、己自身に微笑みかくる、揺ぎなき気魄である。肥大ならず、矮小ならず、膨張せず、萎縮せず、賑かからず、淋しからず、ただあるがままに満ち足って、空疎を知らず、漲溢を知らず、恐るることなく、蔑むことなき、清爽たる気魄である。
それはまた、梅花の気魄である。霜雪の寒さを凌ぎ、自らの力で花を開き、春に魁けして微笑み、而も驕ることなく、卑下することなく、爛漫たる賑かさもなく、荒凉たる淋しさもなく、ただ静に己の分を守って、寒空に芳香を漂わしてる姿は、まさに気品そのものの気魄である。しみじみと梅花に見入る時、恐怖や蔑視や悲哀や歓喜など、凡て心を乱すが如き情は静まって、ただ気高き気品の気魄に、人は自ら打たるるであろう。
気品はそれ自身の性質からして、清浄なる白色たるべきである。赤や青や黄など、何等かの色に染められた気品は、世に存しない。固より、赤や青や黄や紫など、そういう色彩が持ち得る気品はあるけれども、気品そのものの色はどこまでも白色である。然し単に白色のみでは足りない。純白の気分を破らない程度に於て、何等かの点彩を要する。鮮かなる一点の色彩を包んだ純白、それが気品の色である。
この気品の色はまた、梅花の色に見らるる。黎明や薄暮の微光の中に浮出す、ほの赤きまでの白色、白昼の外光や深夜の闇の中に浮出す、ほの蒼きまでの白色、または月光に輝らし出さるる、薄紫にまがうまでの白色、その白色の花弁の中に、花粉の黄を小さく点出した色彩は、気品そのものの色彩である。それに眸を凝らす時、人は自ら心すがすがしくなって、気品の妙趣を悟るであろう。
気品には一の渋味があり、而も同時に一つの新鮮味がある。気品は旧守でもなく、また新奇でもない。純粋の気品は、骨董と新考案とを包含し、両者を調和したものである。老と若と旧と新とをよせ集めて、而もその何れでもなく、老と旧との渋味を取り、若と新との新鮮味を取り来った、一種恒久的なものである。古さから来る拮屈傲峨と、新しさから来る自由暢達と、両者を具有してしっくりと落付いたものである。
この落付きはまた、梅花の樹に見らるる。鋭角度をなしてぐいぐいと曲った古木から、すいすいと若芽を伸し、若きを育つる力を内に蔵した老幹と、老を生かす力で伸び上る若枝とが、しっくりと一つの気分にまとまって、苔生した古い樹皮と、艶々しい新たな樹皮とが、一様に花を出し開かせているのは、まさに気品そのものの姿である。老いたる枝と若き枝とを択ばずに、一様に咲き匂ってる梅花を眺むる時、軽佻と鈍重とを超越した気品の沈静に、人は自ら味到するであろう。
気品はこの世に稀である。それは地上のものというよりも、寧ろ多く天上のものであり。この地上に在っては、その本来の面目を汚されるというのではないが、そこに在るにはあまりに清らかすぎる。然しながら、それを地上に引下して、己が所有とした所に、人の魂の朗かさがある。地上から天上へと人の魂がかけ渡した、多くの橋梁のうちの一つが、其処にあるとも云い得らるる。それ故に、気品は一の抽象であって、一の具象ではない。随って気品は、如何なる人にも親しまれ易い。
梅花の感じは気品の感じである。けれども梅花は、一の抽象ではなくて具象である。それ故に人に親しまれ難い。余りに芳ばしい香を漂わせ、余りに凛乎たる気魄を示し、余りに清らかな色彩に成り、余りに妙味ある樹に咲くが故に、人間離れのした感じを以て人を郤けがちである。然しながら、梅花に眸を定めその香に心を澄すことは、必ずしも詩人にとってばかりではなく、普通の吾々にとってもよい。なぜならばそれは、地上の息吹きに天上の息吹きを交えることだからである。新たな心を以て梅花に接し、新たな心を以て梅花に親しむことは、梅花に人間味が少いが故に益々、梅花が天上的であるが故に益々、人間にとってよいのである。
この意味に於て、真に梅花を観るには、雑沓の巷や、広い梅林や、人工的な盆栽や、または月明の夜、などよりも寧ろ、自由な清々とした境地に於てがよい。必ずしも美景を要しないが、ただ自然の風趣の害せられていない、のびやかな環境の中に、一本の老木が、自然のままの枝振に、ぽつりぽつりと花をつけ、仄かな香を漂わしてるのを、少し冷かな二月の夜明け、薄霧の晴れやらぬ頃、爽かな空気を吸い、小さな霜柱を踏みしだいて、ふと気付いたまま、何気なく足を止めて、しみじみと見入り嗅ぎ入る心持、それこそ真に梅花を観るの境地である。その一本の老樹のたたずまいと、その清らかな花の姿と、その脈々たる香と、その清冷な早朝の空気とは、ただ一つ梅花の気品となって、人の心にしみ通るであろう。それをも卑俗と云うものは、卑俗のみを知って高潔を知らぬ徒輩である。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月7日作成
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