霧の中
──「正夫の世界」──
豊島与志雄
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南正夫は、もう何もすることがなかった。無理を云って山の避暑地に九月半ばまで居残ったが、いずれは東京の家に、そして学校に、戻って行かなければならないのだ。なんだか変につまらない。ただ一人で、丘の斜面の草原の上に寝ころんでぼんやりしていると、いろいろなことが頭に浮んでくる。大空が、目のまわるほど深くて青い。白い雲が流れる。大気がひえびえとしている。遠くの山々が、ひっそりと、薄っペらで、紙細工のようだ。どこかで虫が鳴いている……。
ふいに、耳のすぐそばで、然し遠くから来るような調子で、正夫を呼ぶ声がする。ほう、「彼奴」だ。久しぶりにひょっこり出て来たのだ。小さな、すばしこい、怪しげな、とぼけた、おかしな奴で、人に話したって本当にされそうもない。名前もない奴なので、正夫はただチビと呼んでいる。もう馴れっこになっているし、一種の親しみさえ持っているので、別に驚きはしない。それに丁度、神話のことを考えていたところだ。神々や巨人や怪物や、いろんな妖精。チビだって、謂わば、神話の中のような者だ。
「久しぶりだね。」とチビは云った。
「うん。」と正夫は答えた。
「何をしてるんだい。」
「何にもしてやしないよ。」
「じゃあ、退屈だろう。」
「退屈だから、何にもしていないんだよ。」
「何にもしないから、退屈するんだ。」
「ちがうよ。退屈だから何にもしないのさ。」
「同じじゃないか。」
「ちがうよ。」
チビは耳をかいた。困った時の癖だ。そして暫く黙っていたが、正夫の目の中を覗きこんできた。
「じゃあ、何を考えていたんだい。」
「いろんなことだよ。」
「どんなこと?」
「神だの、巨人だの、人魚だの……。」
「ああ、大昔の話か。あんなこと、みんな嘘っぱちだろう。」
「嘘じゃないよ。」
「本当のことだと思ってるのか。」
「本当でもないさ。」
「そんなら嘘じゃないか。」
「本当でも嘘でも、どっちでもないんだ。」
「では何だい。」
「何だか知らないが、本当でも嘘でも、どっちでもないようなものが、あるんだよ。君には分らないだけだ。」
チビはまた耳をかいた。
「今だってあるよ。」
「何が?」
「そんなことが。こないだも……。」
すぐ向うの丘の、裾を廻ってる街道でのことだった。夕方近くで、うすく靄がたれこめてる中に、まだ明るみが浮き上ってる、へんに佗びしい頃だった。白い街道を、一台のトラックが走って来た。初めは小さく、兜虫のようにのろのろと、やがて大きくなり、早くなって、風のようにさっと通りすぎ、同時にごーっと音がし、白い埃をまきあげた。その時、麦か米か粉かの大きな袋が堆くつんである、その上から、人間が一つ、軽くふわりところがり落ち、それがこんどは重々しく地面にはねあがり、そしてぐったりとなった。トラックは走り去り、落ちた人間だけがそこに長くのびている。
あたりには誰もいなかった。何の声もなかった。やがてどこからか、子供が二三人出て来た。大人も出てきた。地面からわき出たようだ。地面からわきだして、そこに集ってきた。そしてまるく立並んだ。正夫もその中にはいった。そこに落し忘れられてるのは、襯衣の上に腹掛をし、地下足袋をはいた男で、仰向けに、手足を伸し、眼をとじ、口をあけて、眠ってるようだった。埃にまみれてるだけで、血も見えないし、怪我してるらしくもなかった。まわりにはもう、十人あまりの人が集っていた。
「それがみんな、どこからか、地面からわき出してきたんだ。」
「君もそうか。」
「僕はちがうさ。初めから見ていたんだから。」
「ほう……。まあなんだね、虫が死んだのが落ちてると、どこからか蟻が集ってくるようなもんだね。」
「その男はまだ死んでやしなかったんだ。」
まわりの人々は蟻のようにがやがや騒いで、その中の一人が、そっと男にさわってみ、抱き起そうとした。男はただぐったりしていて、また地面に長くなった。日焼けした顔が、なお真赤になっていた。ふーっと一つ大きな息をすると、またしんしんと静まってしまう。そして時々、だらりとのばした手先を、ぎゅーっと握りしめて、手首を痙攣的に起しかけるが、まただらりと指を開いてしまう。そんなことを何度もやった。
その手が、正夫の心の中で、もう一つの手と重なりあっている。もう一つの手は、母の手だ。──母は病院にはいっていたが、或る晩、正夫は慌しくその病室につれてゆかれた。扉をはいると、真正面が壁で、そこを左にまがると、ベッドがあった。電燈に覆いがしてあるので、水の中のような明るみだった。母は昏々と眠っている。息をしているかどうかも分らない。右手を布団の外に敷布の上になげ出していたが、その細そりした透いて見えるような手先が、ひどく美しく可愛かった。その手だけが、母の臨終についてのはっきりした印象だ。親指を掌の中に、そして他の指先も少し縮ませて、その手先だけを、手首のところからひょいと上げてとんと落し、丁度手の甲で敷布の上をたたくように、とんとんと二度ずつ、間をおいて動かしていた。何か合図をしてるかのようでもあれば、だるいのをごまかしてるかのようでもあった……。
正夫は心の中で、二つの手の動きのことを考えるのである。仰向にねそべって、両手を投げ出し、掌の方を上にして、すっかり力をぬいてしまう。そして時々、ぎゅーっと指を握りしめ、何かの努力か痙攣のように、じりじり手先をもちあげ、次にばたりとまた投げだすのだ。或は、指先を心持ちまげて自然にしておいて、時々、手の甲でとんとんと、何かの合図かだるい戯れかのように、手首を動かしてみるのだ。前の場合には、手先が驚くほど大きく重く、後の場合には、手先が驚くほど小さく軽い。
正夫は云った。
「僕は、死ぬ時は、お母さんのように手を動かすつもりだ。」
「そんなに勝手になるものか。」
「なるさ、自分のことだもの。」
「だが、おかしいね、君が死ぬことなんか考えるのは。」
「死ぬことじゃないんだ、死ぬ時のことだよ。」
「死ぬ時……。」
「そうだよ、いろいろな時があるだろう、死ぬ時、寝る時、御馳走をたべる時、笑う時、泣く時……。」
「ああ、その時か……。」
チビはそのまま黙りこんでしまった。彼が話の途中で黙りこむのは、何かにぶつかって当惑した証拠だ。──やがて、彼はぽつりと云った。
「人間て、不思議だなあ。ふだんは、何やかやつまらないことを、ひとに相談するくせに、死ぬ時になると、一人で黙ってるんだからなあ。」
正夫も、別な意味でではあるが、同じようなことを考えていた。彼は昂然と云い返した。
「それでいいじゃないか。」
最近の父の死のことを考えていたのである。
東京から伊豆大島へ通う船の上から、夜中に、正夫の父は姿を消してしまった。うち晴れた穏かな夜で、月が綺麗だった。南さんは酒を飲んで、だいぶ酔っていた。それだけのこときり何にも分らず、小さなスーツケース一つが残っていた。家を出る時南さんは、大島へ一二泊旅をしてくる、とだけ云い置いて、平素と変りはなかった。──過失死か自殺か、不明だった。新聞紙上には大体過失と報ぜられた。
万一の希望も空しく終り、三十五日目に一般の告別式が行われることとなり、その前夜、親しい者だけで、改めて仏事とも通夜ともつかない集りがあった。
故人の引伸し写真と位牌とを中心に、小さな気持よい祭壇が拵えてあった。特別の遺愛の品とてないので、いろんな身辺の品が一纒めにして置かれていた。万年筆、鉛筆、紙切ナイフ、補助の眼鏡、古い懐中時計、ネクタイピン、原稿紙の上にのってた形態の知れない鉄塊など、ごくありふれたがらくたが、遺骨の代りになったのである。そして美しい新鮮な花が祭壇を殆んど埋めつくし、その色彩と芳香は蝋燭の火や線香の煙を圧していた。故人が愛酒家だっただけに、集った者のうちにもそれが多く、一座は何となく宴席の趣きを呈した。若い人々の間では、社会や道徳や文化や芸術などの問題について元気な議論が交された。
正夫も遅くまで起きていた。家中のことを仕切ってる中根のおばさんは、その晩、へんに正夫を自由にさしておいてくれた。故人の旧友で、語学教師であり飜訳家である木原さんが、正夫を一同に一人一人紹介してくれた。正夫は果物をたべ、サンドウィッチをつまみ、酒も一二杯なめた。そしてもう十二時近い頃だったろうか、階下の奥の室の縁側で、真暗な庭の方をぼんやり眺めていると、木原さんがやって来た。木原さんは正夫の肩に手をかけながら、故人のことを話しだした。故人は近年、あらゆる意味で宙に浮いていたのだそうである。生活の意義を求めて得ず、道徳の根拠を求めて得ず、女性の魂を求めて得ず、而もそれらの追求は、一種の漠然たる恋愛的観望の形となり、その観望がいつまでも満されないために、人間や社会に対する蔑視が起り、蔑視が傲慢なものとなるに随って、彼自身は宙に浮いてしまったのだそうである。そんなこと、正夫にはよく分らなかったが、木原さんはしんみりと話してきかして、それから更に声をおとして、だから、精神が宙に浮いていたから、酒に酔ってもいたろうけれど、船から海に落ちるようなことになったのである……。その声があまり静かで、宙に漂っているようだったので、正夫はうっかり、率直に独語した、いいえ、お父さんは自分で海に飛びこんだんだ!
ちょっと、しいんとした。それから突然、大きな手が痙攣的に正夫の肩をつかみ、怒った声で、ばか、ばかなことを云うな! 木原さんは怒りながら泣いていた。正夫は呆気にとられた。父が自殺したって、それがなぜいけないんだ。海に飛びこんで消えてしまったのは、何かしら清らかで美しい。写真と位牌といろんながらくたと、そして花ばかりの、あの祭壇は、人の気持ちをすっきりさせるじゃないか。悲しいのは、父がいなくなったということだけだ。それと自殺とは別なことだ。そう思ってる正夫に、木原さんはなお、とぎれとぎれに云ってきかせるのだった。そんなことを考えちゃいけない、お父さんは誤って海に落ちたんだ……。そしてしまいに、正夫を引きよせ、抱きしめて、涙を流していた。正夫の頭にかかる息には、酒の匂いがしていた。木原さんまで酔っ払っている、どうしてみな酔っ払うんだろう。お父さんはよく酔っ払っていた。そんなことが、正夫には淋しかった。そしてしつこく黙りこんでしまったのである……。
「まだ悲しいかい。」とチビは尋ねた。
「何が?」
「お父さんが死んだことさ。」
「死んだことは何でもないよ。ただ、お父さんがいないのは、淋しいなあ。」
「ほう、そんなもんかね。だが、あの時だって、君はちっとも泣かなかったじゃないか。」
「あんな時には泣かないさ。」
「じゃあどんな時に泣くんだい。」
「どんな時って……。」
「泣いたことなんかないんだろう。」
「あまりない……いやあるよ、あったよ。」
「いつだい。」
「ずっと前だが……。」
まだ小さい頃だった。正夫は母に連れられて、田舎の家に行ったのである。まん円い眼鏡をかけてるお祖父さんがいた。広い大きな屋敷で、池があり、竹籔があり、大木が立並んでいた。蜜柑の木がたくさんあった。いろいろな虫がいた。美しい蜘蛛が網を張っていた。蛞蝓や蚯蚓のようなぬるぬるしたものは、ぞっとするほど嫌だったが、蜥蜴の綺麗な色には長く見とれたし、蛇には妙にひきつけられた。大きな蛇がいるという話だった。米倉の主で、鼠をとって食べてるそうだった。
或る時、夏蜜柑の木の根本に、大きな蛇がとぐろを巻いていた。正夫の手首ほどの大きさの青大将で、それがきれいに輪をまいて、真中から鎌首をもたげ、細長い鋭い舌をちろちろさしている。そっと寄っていくと、のろのろはい出して、びっくりするほど長くなり、見返りもせず、でも急ぎもせず、逃げていく。先廻りして前に出ると、するりと横にそれて、やはり見返りもせずに、のろのろはってゆく……。ひとをばかにしてるんだ。正夫は腹をたてて、いきなり走りよって、その首のあたりを掴んだ。ひやりとした。次に、肩と腰のあたりがひやりとした。蛇がのたくったのだろう。正夫はもう夢中で、手に力をこめて、家の方にやっていった。蛇は頭で正夫の手にからみつき、胴から下はだらりと、尾の方は地面にひきずっている。正夫はいつしか大きい声でわあわあ泣いていた。泣きながら、蛇をひきずって、家の中にはいっていった。怖ろしいのか、嬉しいのか、一生懸命なのか、とにかく無我夢中で、わあわあ泣いてるのだった……。
「ほんとに泣いちゃったよ。」
「そんな泣き方ってあるかい。」
「なぜだい。」
「そんなの、高いとこから落っこちる時、わあっと声をたてるようなもんじゃないか。」
「ちがうよ。」
「喧嘩して、相手を押えつけて、殴りつけながら、わあわあ声をたてるようなもんじゃないか。」
「ちがうよ。」
「そうかなあ。僕は一度も泣いたことなんかないから、分らないが……。」
「君はばかだからさ。」
「どうして?」
「ばかな奴は泣かないよ。」
「豪い奴が泣かないのさ。」
「豪い奴だって泣くよ。泣かないのは、ばかかひねこびれてる奴だけだ。」
チビは耳をかいて、目をぱちくりやった。正夫は得意になった。
「誰だって泣くさ。ただ、めったに本当に泣かないだけだ。君が云うように、涙ぐんでくよくよするのなら、女の児だって婆さんだって、しじゅうやってるよ。」
「しじゅうにこにこしてるよ。」
「そしてへんな時に、思いがけない時に、何でもない時に、しくしく泣きだすんだ。そしてひどいのになると……。」
正夫の東京の家の近くに、境内がのんびりと広い神社があって、その仁王門にたくさんの鳩が巣くっていた。よく人に馴れていて、掌の中の豆までつっつくのだった。幼児を背負った娘や子供の手を引いた婆さんなどが、そこの広場に幾人も見えた。日曜などには豆売りの女まで出ていた。
その人たちの中に、わりに上品に見える老婆が一人いた。誰も連れず、一人きりで、いつも豆を持っていて、それを長い間かかって鳩にやった。そしてきょとんとして、あたりを見廻したり、何か低く呟いたり、また石の腰掛に坐りこんで、頭を垂れてじっとしてることもあった。神社のまわりを、何度か廻ることもあった。拝殿の前にお詣りすることは決してなかった。
子供たちも、鳩も、そのお婆さんを見覚えていて、その周囲に集った。鳩はくくと喉を鳴らして一面に群れつどい、子供たちは目を輝かした。お婆さん自身だけがへんに没表情で、放心したようで、機械的に少しずつ豆を投げてやった。妙に人を寄せつけない縁遠いようなものがあった。その、震えてる唇は何を呟いてるのであろうか。石の腰掛の上で胸に垂れてる頭は何を考えてるのであろうか。どうかすると、雨の雫が木の葉にたまるように、皮膚のたるんでる頬に涙が、全く無心にかかってることがあった。小さな眼のすんだ光がふっと曇って、涙が睫毛いっぱいたまってることがあった。それでも彼女自身はやはり、冷く静まり返っていた。誰もその涙に注意を配る者はないようだった。本人も自分の涙を知らないようだった。
「あんな泣き方は、ほかでは見たことがない。変ってるよ。」と正夫は云った。
「その婆さんは、今でもいるのかい。」
「今年の春頃いたんだ。それから、もう出て来なくなった。」
「あの……草履をはいてた婆さんだろう。」
「うん。知ってるのかい。」
チビは肩をすくめて笑った。
「あれは、気狂だよ、もう死んだよ。」
「気狂いだって。」
「君はあとさきのことを知らないから、分らないんだ。ばかな話さ。」
その婆さんに、可愛いい孫娘が一人あった。四五歳の可愛いい盛りだ。それが孫だから、可愛いい以上だ。婆さんはそれをつれて、よく鳩と遊びに出て来た。その娘が、肺炎になって、病院で死んだ。婆さんほすっかりぼけてしまった。それから、一人であの神社に出て来るようになった。雨の日は、家でしくしく泣いている。天気になると、けろりとして、豆をもって鳩のところに遊びに来る。或る時、縁日の晩に、風呂敷いっぱい玩具を買いこんできた。花笄や、笛や、太鼓や、独楽や、花火や、木琴や、絵本や、積木なんか、いろいろなものを、座敷中にぶちまけたもんだから、家の者も、少しおかしいなと思いだした。
それから少したってからだ。婆さんは病院にやっていった。丁度院長の回診の時だ。大勢いっしょにはいってる三等病室で、院長は医員や看護婦を随えて、一わたり診てしまって、出て行こうとした。そこには、扉を背にして、一人の婆さんがつっ立っている。棒のようにつっ立って、頭をこまかく震わせて、ぎらぎらした目付で、室の中をじっと見廻している。だが本当は何も見ていないで、視線は宙に迷ってるのだ。その近くまで行って、院長は初めて気がついた。ぎょっとして立止った。婆さんは動こうともしない。ただならぬ気配になった。幸にも、医員のうちに、婆さんを見覚えてる者がいた。それから騒ぎで、ただぼんやりしてる婆さんを、いろいろ宥めすかしたり、道理を説いてきかしたり、しまいに看護婦をつけて送り届けた。
家の者たちは始末に困った。時々気がへんになるというだけで、狂人ときまったわけじゃない。すると気の利いた医者がいて、婆さんの室に、亡くなった娘の形見の着物を一枚、衣紋竹にかけて吊さした。ただぶら下ってるだけの着物だが、効果があった。それを見て、婆さんはおとなしくなった。それから寝ついた。四五日してぽっくり死んだ。吊された着物に息をとめられたようなものだ。然し静かな死に方だった。笊の上の鮒が、口をぱくっぱくっとやるように、最後に大きく口を二三度動かして、喉がぐるっと鳴って、それきりだった。
「僕はそれを見たんだよ。」とチビはいった。
正夫は黙っていた。
「どうしたんだい。」
正夫はまだ黙っていた。
「よく分らないのかい。僕にだってよくは分らないよ。おかしなものさ。恋人の着物をぶら下げておいて、撫でたり抱きしめたりする者もあれば、あの婆さんのように、ぶら下ってる娘の着物を見つめて、口をぱくぱくやって死ぬ者もあるし、僕にだってよく分らないよ。」
正夫はやはり黙っていた。
「今の話、君は恐がってるんだね。」
正夫は頭を振った。
「鳥のことを考えていたんだ。」
「鳥? 何の鳥だい。」
「何という鳥だったか……田舎に行くと、田園の中で、真暗な夜に、ほうほう……と鳴いてるのがいるだろう。」
「うん、いるよ。」
「あれね、子供を探してるんだって話があるよ。子供がいなくなって、どこへ行ったか分らない。お母さんは心配して、あっちこっち探し廻った。いくら探しても分らない。しまいに鳥になって、夜通し歩きまわって、今でもやはりほうほう……と呼びつづけているんだって。」
「そんな話、君はほんとにするのかい。」
「作り話にきまってるさ。」
「じゃあ、どうなるんだい。」
「お婆さんのことから、その鳥を思い出したんだよ。僕はその鳥の声がとても好きだ。こっちに来る前、田舎に行ってた時、毎晩きいた。真暗な夜の田圃の中って、すごいよ。でもその鳥が鳴いてると、安心するんだ。どんな真暗な夜出ていっても、どこかで、ほうほう……鳴いてるんだ。」
正夫は田舎に半月ばかり行ってた間に、殆んど毎晩、川漁にいった。夜の川ほど神秘に満ちてるものはない。浅瀬があり、深い淵があり、洞窟があり、泥中のもの、陸上のもの、水中のもの、更に闇夜のものなど、あらゆるものがうろついているのである。
大きな河の浅瀬でする投網は、さほど面白くなかった。流し鈎の釣りもさほど面白くなかった。刃物での魚切りは少し変っているが、もう稲がのびすぎていた。
何よりも心躍るのは、ウケをつけておいて魚をとることだ。竹を細くわったのを煽んで、円い箍のまわりにとりつけ、先端はせばまるようにし、ねじりながら縄で結えられるようになっている。そして頭部の、いわば竹の簀子の円筒の中に、も一つ竹の簀子の漏斗形がとりつけてある。魚がその漏斗形のところから中にはいると、そこから逆に外に出ることはむずかしく、他に出口はなく、全くその中に囚えられてしまう。そのウケを、魚の通路につけて、そこからだけ水を通し、他は水草や泥でせき切ってしまうのである。
おもに水田と川との間の、畦の一部を切りとった水口に、ウケをつけるのだ。魚は習性として、夕方、いくらか暮れはじめる頃から、水田の中に餌をあさりにはいってゆく。そして朝早く払暁の頃に、多くはまた川に戻ってしまう。それ故夜になって、水口にウケをつけに行くのだ。水の流れが、田から川へか或は川から田へか、それは問題でない。田から川へ戻る魚がはいる向きにウケをつけておく。それを早朝、まだ朝日のささない頃に、引上げに行くのだ。
昼間ぶらぶら歩きまわって、魚のいそうな場所を物色し、そこの田の水口を一杯あけ放っておけば殊によい。
手頃な大きさのウケを二つばかりかついで、夜の九時頃出かける。闇夜が最もよいのだ。闇夜といっても、水の面はほんのり白い。それをたよりに、草深い小道をすたすたやって行く。堰の水音がしてるだけで、しいんとした夜である。水は川にも田にも満々と湛えている。川辺の猫柳が奇怪な形で蹲っている。時とすると、行手の道の上に、小坊主がすっくと立って、じゃぶりと川の中に飛びこむ。川獺のとんきょうな奴だ。それももう人を化かすことは出来ない。去年の秋には、村外れの爺さんの大きな藻蟹のウケに一匹はいりこんで、まんまと生捕られ、爺さんの自慢の毛皮となっている。河童なんかも、もう夢の世界に逃げこんでしまっている。それでも、夜の川辺には、何かしら奇怪な不気味なものがうろついている。だがみんな影だけだ。ほうほう鳥が、濁りのない落着いた声で鳴いている。ほう、ほう……ほう、ほう……。近いようでもあり、遠いようでもある。決して一つ処にじっとしていない。空には星がきらきら光っている。
目指す水口にやって行く。ウケを五分の四ほど水に沈め、他は水草や泥でせき切り、ウケの上にも水草や泥をのせておく。そして水を二三掬いあびせる。それですんだ。田にはたくさんの魚がのぼっていそうだ。魚ばかりではない。何かえたいの知れないものもいる。みんな、川に戻る時ウケにはいるんだ。大きな不安と期待……それが、家に帰るまで続き、夢の中にまで続く。
朝が楽しみだ。まだ太陽は出ない。白い朝、それからやがて赤い朝。道端の草にはしっとり露がおりている。大空の星がへんにぎらぎらしている。もう水田のものは川に戻ってしまったかしら? ウケのところまで、ゆっくり行くべきか早く行くべきか惑う。そして遂に、ウケに手をかける。ごつごつと手応えがするのは、大きいやつがはいってるのだ。引き上げる時に、ばちばちっとはねるのは、鮒や鯉や鮠だ。重くのっそりしてるのは、鯰や鰻や鰌だ。ウケからすーっと水が引いてしまう時は、失敗で、目高の類が四五匹か、或は全く何一つはいっていないこともある。うまくいった時には、ウケ半分ほどもはいっている。
正夫は毎晩ウケをつけにいった。一人では行けなかったが、その家に十七八歳の下男がいて、いつも一緒に行ってくれて、自分で大抵やってくれた。ほうほう鳥がいつもどこかで鳴いてるのが、楽しくもあり気強かった。或る晩、ウケを三つつけて、帰りかけると、遠くに燈火が一つ見えた。それが、水田の間の一筋の道を、こちらにやってくる。闇夜のなかの胸躍るような仕事のなかでは、燈火を持った者に出逢うのは嫌なことだ。どこかに隠れようかと躊躇してるうちに、燈火は非常な速さで近づいてくる。それが、大きな真赤な火で、提灯の光でもなく、電気燈の光でもなく、松明の光でもなく……えたいの知れない火の玉だ。その赤い火の玉が独りで、闇にとざされてる稲田の中の道を、音も立てずに凄い勢でやってくる。正夫たちはそこに棒立になって、次に水田の中に飛びこもうとした瞬間、火の玉はふっと消えた。眼の中まで真暗になり、髪の毛が逆立った。そしてどれくらいかたって、ほう、ほう……ほう、ほう……とあの澄んだなつかしい声が聞えてるのを最初に感じた。その時くらいほうほう鳥を嬉しく思ったことはない。
「その火の玉って何だい。」とチビは尋ねた。
「何だか分らない。」
チビはうそうそと笑った。
「そんなものがあるもんか。びくびくしてるから、気の迷いだ。」
「いやあるよ。ほんとに見たんだから。」
「見たような気がしたんだろう。」
「ほんとに見たんだ、二人とも。」
「二人とも……か。お化を見た者が二人あれば、お化がほんとにいることになる、そういうことかい。」
「どうだっていいよ。お化にしたって、いてもいなくてもどっちだっていいじゃないか。」
まだ母が生きてた頃は、晩の丁度六時に便所にはいるものではなかった。晩の丁度六時は、魔物が便所にはいってる時刻で、その時人がはいって行くと、身体のどこかを必ず掻きむしられる。祖母の時から、ずっと昔から、そうだったと、母は笑っていた。然し実際、正夫は時々、身体のどこかに自分で知らない掻き傷が出来た。晩の六時をうっかりしてたのである。そんなことも、母が亡くなって、誰もいわなくなると、もう起らなくなってしまった。
「そんなんだって、どつちだっていいじゃないか。」
チビは黙って正夫の顔を見ていた。
「どっちかにきめなくったっていいだろう。」
「そうだよ。」とチビはいった。
「じゃあなんだい。」
「それでいいんだよ。」
二人とも黙ってしまった。暫くしてチビは、ふと思い出したようにいった。
「君のお父さんは、それを、どっちかにきめたかったんだ。いや、不思議なことがあるようにって、望んでいたのかな。もう少し調子が狂っていたんだろう。いつか、夜中のことだったが……。」
夜中の二時頃だったろうか、南さんは前後不覚に酔いながらも、自動車の運転手に道筋を指示しつつ、自宅の前に辿りついた。以前は、山根さんが起きていて、姉とも妻ともつかない態度で何かと面倒をみてやったものだが、いろいろなことがあってからそれもなくなった。十二時になると彼女は寝てしまうし、正夫も既に眠っており、女中も寝てるのである。南さんは板塀をのりこして家にはいらなければならない。屋根のついてる門扉から少し離れたところ、勝手口に通ずる潜戸のわきに、高さ半メートルばかりの石の角材が植っている。もと塵芥箱をよせかけてあったものだが、今は石だけ残って車除けみたいになっている。南さんはそれに上り、板塀の頂にとびのり、そこにさし出てる百日紅の幹につかまり、内庭にはいり、竹の袖垣をまわり。玄関の戸を押開き、中にはいって戸締りをし、洗面所で顔と手を洗い、そしてまず茶の間に落着くのである。それらの行為は、ただ習慣と本能とに依るもので、如何に泥酔していても一分の狂いもなかった。
その夜も、そこまでは平素の通りだったが、用意されてる番茶を二三杯飲んでから、南さんは両腕を組んで考えこんだ。その顔は酒気も血色も引いて、冷たくしいんと蒼ざめている。眼は宙に据って動かない。それからふいに、皮肉な微笑を浮かべ、立上って押入から一枚の白紙を取り出し、それを餉台の上に拡げ、右の掌を平らに、白紙の上二三センチのところに差出して、じっと心意を凝らしてるようだった。手はかすかに震えるが、下の白紙は微動だにしない。暫くすると、彼は手を引込めて、ほーっと息をつく。また白紙を見つめて、右手をその上に差出す。そんなことを何度か繰返した後、彼はいきなり着物をぬぎすて、襯衣までぬぎ放し、下腹をなでさすり、じっと眼を定め息をこらして、白紙の上に右の掌をかざしながら、我を忘れて一生懸命になってるのだ。それにも拘わらず、不思議なことには、蒼ざめた頬の口もとに、皮肉な自嘲めいた笑いの影が浮んでいる。その裸体の半身像は、もう人間の姿じゃない……。
──少しばかげてますね。その、ちっとばかりのばかさ加減が、あなた自身の頭の隅っこにも引っかかってるので、到底、だめですよ。
チビの声に、それとも不成功のせいか、南さんは腹をたてて、白紙を引裂き、手に丸めて投げすててしまった……。
「あの時にも、もう僕は、君のお父さんを危いと思ったよ。」とチビは云った。
正夫は黙っていた。
「あんなことを、君には分らなかったのかい。」
「その……紙の上に手を差出すというのは、どうしてだい。」と正夫は尋ねた。
「普通の手品さ、ちょっとした薬品で出来る。紙には仕掛があるんだ。その紙の上に掌を差出しておくと、紙が持上って、掌にすいついてくる。それを、精神とか心霊とかの何かにしてしまうんだ。普通の紙じゃあ出来やしないよ。」
「出来そうだがなあ。」
「出来るもんか。出来るならやってごらんよ。だが、そんなこと、君のお父さんはよく知ってたんだよ。知ってながら、普通の紙でやってみた、そこんところがおかしいんだ。もっとも、初めから少しへんだったようだけれど……。」
或るカフェーの奥の室だ。二階と一階とが普通の広間──といっても狭いのだ──になっていて、二階の奥、一階のちょっとした調理場の真上のところに、小さな室が一つあった。この前の経営者、多分はマダムか何かの、寝室ででもあったのだろうが、今では、新たな主人の実験室ともなり応接室ともなっている。五十年配の独身者で、すばらしい珍奇な飲物を拵えるという念願をもっていて、外国の都会にならいくらもいそうだが、日本ではちょっと変ってる男だ。甘いのや辛いのや痛烈なのや、怪しげなカクテルを友人に試飲さしては喜んでいる。そしてなお、アマチュア・マジシァン・クラブの会員で、カクテルよりもこの方が腕前は確からしい。掌にすいつく紙は彼が考え出したもので、奇術と飲料との混血児だった。
その宮川のところで、南さんはその晩、二三の知人と共に、怪しげなカクテルを飲み、宮川の奇術を見、更に紙の実験をしたのである。その時誰かが、掌に紙がすいつくのは、薬品のせいばかりでなく、精神力も多少働くのではないかといい出し、それがきっかけで、酔余の競争が始まった。どういう薬品か、宮川はそれを秘密にしているが、紙の上に掌をかざしていると、掌の温度が紙にぬられている薬品に作用して、そこに化学的変化が起り、紙は掌の方へすいあげられるのである。随って、掌と紙との距離が近いほどよく、五センチと離れてはうまくいかない。それを、煙草一本ほどの距離でやってみせると、南さんは主張し出し執拗に努力してみた。精神力の支持者となったのである。敷島一本の長さを八センチ半とすれば、それだけの上から化学作用に精神力を加えて紙をすいあげるというのだ。用意の紙を何枚も出させ、額に汗を浮かべて、夢中になって手を差伸してるところは、正気の沙汰とは思えなかった。しまいには腹を立て、先に失敬するといいすてて、一人で出て行ってしまった。
それから一時間ばかりして、南さんは、一人、或る酒の店の木の卓によりかかり、酒をのみながら、黙然と考えこんでいた。そこへ、中年の男が一人はいって来た。狭い家で、卓子は幾つもなく、南さんの前が空いてるばかりだった。南さんは顔をあげ、躊躇してる男に向って、愛想よく前方の席をすすめ、自分の小皿を引寄せ、やって来た女中に卓子を拭わせ、そして初対面の男に向って、馴々しく話しかけた。酒というやつはへんなもので、全くやめてしまおうと思う日と、やたらに飲んでやれと思う日とがあって、中途半端にいい加減に飲むという気は、決して起らないもんですなあ……、とそんなだしぬけな話なのである。すると、ジャケツの上に背広をひっかけてる相手の男は、日焼けした顔に善良そうな笑みを浮かべ、指の節々が太く爪先がささくれてる頑丈な手で、用心深く猪口を口元に運びながら、煙草はやめたが、酒はなかなかやめられず、今日も女房に内緒でちょっとやってるんで、と変に淋しいことを云い出した。煙草をやめる時はハッカを用いた。もう八年になる──八年だ。酒はどうも身体にわるいが、工事請負の仕事の関係上、飲むことが多く、いくら飲んでも酔わないのが悪い癖で、多少中毒のきみらしい……。
──ほう、そうですか。中毒なんか構わないが、飲んでも酔わないというのは、そりゃあ実際悪い癖ですね。そんな悪い癖をもっていちゃあ、いつまでも駄目ですよ。酒をやめるには及ばないが、飲んだら酔うようになさい。それも肚の据え方ひとつですよ。へんなもので、相手が酔ってしまうと、こちらはいつまでも酔えなくなる。後手に廻るわけですね。先手に廻らなくちゃいけません。戦争と同じで、機先を制するってやつです。相手がなくて、一人でやってる時には、酒そのものが相手です。酒に対して機先を制してやるんです。一本……二本……或は三本、これで酔うんだと決心するんですね。酔うんだという肚をすえてかかるんです。それから次には、酒を軽蔑することです。酒をのみながら酒を軽蔑する、そこが大事なところです。飯をくいながら飯を軽蔑する、女を愛しながら女を軽蔑する、社会に生活しながら社会を軽蔑する、人間と交りながら人間を軽蔑する、酒をのみながら酒を軽薄する……そこから微妙な味がわいてくるし、ほんとに酔えますよ。それでもまだ面白くならなかったら、ほんとに酔えなかったら、みんなうっちゃってしまうんですね。酔ってやるぞという肚をすえて、本当のところは軽蔑してかかって、そして飲むんですね……。
そんな忠告をしながら、南さんは煙草をふかし酒を飲んでいたが、ふと、ああ奥さんが待っていらしたんですね、と相手を促して座を立たしてしまった。それから一人きりになって、へんに軽蔑的な嘲笑的な笑いを、何に対してだか、口元に漂わせながら、また一本飲んで、そこを出て行った。大して酔ってもいないような様子だったが、足がふらついていた。ふらつくというよりも、膝頭に力がないらしかった。街路を車道の方におりて、真直に歩いてゆく。その一歩一歩が、へんに弾力性を失っていて、今にも膝ががくりと折れてそこに坐ってしまいそうだった。重病の前や後に人はそういう歩き方をすることがある……。
「でも、病気じゃあなかったんだ。」と正夫は云った。
「それほど酔ってたんでもないよ。」
「力がぬけていたんだろう。」
「だからおかしいのさ。ひどく勉強したとか、夜眠れなかったとか、そんなんなら分るけれど……そして病気でもなかったんだとすると……。」
正夫は黙っていた。
「僕もいろいろ忠告してやったが、よく分らなかったようだ。」
「君の忠告なんか駄目さ。」
「なぜだい。」
「お父さんは何かほしかったんだと思うよ。」
「何がさ。」
「それが、僕にもよく分らないけれど……。」
「どうせつまらないものだろう。」
「だけど、へんなことがあるよ。」
「また、大昔の話か、お化の話かい。」
「ちがう……本当にあったことだよ。」
学校から、正夫は遠足に行ったことがある。同級の者だけそろって、高尾山に登った。山の上には、いろんな物を売ってるなかに、竹細工の笛がたくさんあった。たいていの者がそれを買った。神社に詣って、裏山で弁当をたべて、自由に遊べる時間になると、あちらでもこちらでも、笛を吹きならした。木立の中にはいっていって、小鳥を呼びよせるんだと、夢中になってる者たちもあった。その一人が、足をふみ外して、急な崖からころがり落ちた。ちょっとした木の茂みに隠されてる、穽みたいな崖だった。その中にすぽっと落ちこんだので、近くの者たちはびっくりした。それから騒ぎになった。先生も飛んできた。幸に、崖はそう高くなかった。廻り途をして、崖下に出ると、落ちた生徒はそこに倒れたまま、きょとんとしている。肱と膝とを少し擦りむいただけだ。おかしいのは、右手に何か握りしめていて、助け起こされ、介抱され、我に返って泣きだしても、なお右手を握りしめている。漸くその手を開かしてみると、笛ではなく、小石だった。どこで拾ったのか、恐らく転がり落ちる間際にだったろうが、それを一生懸命に握りしめてるのである。手を開かせてそれを捨てさせた時、彼は急にわっと激しく泣きだした。──それがあまりおかしかったので、石ころという綽名がついた。が当人は、石ころと云われると、ひどく怒って口も利かなかった。
「それがどうしたんだい。」とチビは尋ねた。
「それきりさ。」
「なあんだ、面白くもない。」
「でもねえ、夢のなかなんかで、高いところから落ちることがあるだろう。宙をすーっと落ちていく。とても恐いんだ。あんな時、石ころでも棒ぎれでもいいから、手にしっかり握りしめていたら、そんなに恐くないかも知れないよ。」
「どうかなあ。」
「君には分らないよ。」
「僕は夢なんかみないんだ。」
「だから、よく分らないんだ。」
チビは耳をかいた。正夫はやがて云った。
「本当は、石ころなんか握りしめるのは、極りわるいことさ。僕だったら、両手をひろげたまま落ちていくよ。」
「どっちだって同じさ。」
「ちがうよ。君に分らないだけだ。お父さんのことだって、君には分ってやしない。お父さんは、力がぬけてたけれど、それでも、海に飛びこむだけの力はあったんだ。両手をひろげたまま飛びこんだと思うよ。」
「そんなこと、豪かあないよ。」
「豪くはないさ。」
「じゃあ何だい。」
正夫は返事をしなかった。チビも口を噤んだ。二人とも妙に淋しいものにぶっつかったのである。
南さんの歩き方が少し怪しいのは、単に酔ってる時ばかりではなかった。ふだんでもどうかすると、膝の関節に弾力がなく、軽微な中風患者みたいに、ぎくしゃくした歩きようをした。それから、例えば茶碗とか箸とかを取る時、少し見当をちがえて、手がわきにそれることもあった。土瓶やコップを引っくり返すことも多かった。身体の平衡を取り失ってるらしかった。
然し南さん自身は、何か沈欝に考えこんだ様子で、そして泰然と落着きはらっていた。三島さんの伯父さんとかいう人が来た時なんか、南さんは愛想よくそれを二階に招じたのだった。──三島さんという若い女の人は、正夫も知っていた。いつか家に来た時、大理石と青い玻璃とで出来てる大きなインクスタンドを貰ったことがあった。背の低い中肉の女で、紫色と白線とが目立つ着物をきていた。眉がきれいに細長く弧をなしているのと、唇が薄くくっきりと際立ってるのとが、正夫の頭に刻みこまれた。両方とも画かれたものに違いなかった。その他のところは、眼も鼻も全体の顔立も正夫は覚えていない。──その三島さんの伯父さんとかがひどく憤慨してるのだと、山根のおばさんが南さんに話していた。ほんとにそんな挨拶をなすったのですか、というのだった。──私は彼女に、そのつど、十円とか二十円とか渡しておいた。こんどは何々を買おうといって、いつも喜んで貰っていったのだ。私はカフェーの女給なんかとそんなことがあっても、一文も出したことはないのだ。彼女にだけは金を払った。それで文句があるのですか、よく考えて貰いたい。──そんな挨拶をなすったのですかと、山根さんは穏かに聞いてるのだった。──その三島さんの伯父さんが、南さんと二階の室で一時間ばかり対談して、静に帰っていった。南さんは普通の訪問客を送り出す時と同様、平然としてそして鄭重だった。山根さんも取り澄していた。──其後、木原さんが来た時、山根さんはひどく怒ったらしかった。南さんは相当高利の金を千円かりて、それを三島さんの伯父さんに贈り、木原さんがその間にたって万事まるく納めたというのだ。これはゆすられたのではない、相手方に対する極度の蔑視の表示だ、というような南さんの気持を、木原さんはくどくどと説明してきかしたようだったが、山根さんは一向ききいれず、しまいには一切口を噤んでしまった。口を噤むのは憤慨のしるしだった。
へんにこんがらかったその事件は、家の中を冷たくしてしまった。然しも一つ南さん自身を冷たくさしたような事件があった。当時、南さんの知人や主として後輩の人などで、一種のグループが出来ていた。自由主義的な集りで、あらゆる意味での既成型、頭脳の習慣的な廻転を脱却して、本来の野性に立戻るという主張だったが、実際に於てはただ消極的な批判にのみ終っていて、何等の活動もしてはいなかった。そのうちの一人が、左翼運動に関係があるとかで拘引された。その救助運動について、南さんは公言した。──放っておくがいいんだ。個人主義攻撃の名によって、安価なセンチメンタリズムに左袒してはいけない。──それから次に、南さんは奉職先の学校当局から注意を受けた時、ああいうグループは一種の精神的娯楽機関で、酒の飲み仲間と同じものだと云った。──そういうことが人々に伝わって、南さんは二三の者から詰問されたらしいが、南さんは凡てを肯定して、そして、冷かな傲然たる態度を取っていた。
然しこの、三島さんの話もグループの話も、甚だ曖昧な漠然としたもので、正夫にもよくは分っていなかった。だがその頃、南さんはよく酒をのみ歩き、相当に放埓な生活をし、勉強などは殆んどせず、家にいる時は、寝ころんで何か考えてるかと思うと、いつのまにかうとうと眠ってるのだった。昼も夜もよく眠った。起きてる時は、何か落着きがなく、苛ら苛らして、二階の書斎に上ったり、庭におりたり、そして膝頭ががくがくし、手先が震え、眼付が沈んでいた。夜遅く外を歩き廻ることがよくあった。
或る夜、正夫はなんだか不安な気持で眼を覚した。何かの気配が自分の上におっかぶさってくるようだった。ぼんやり薄目をあいてみると、二燭光の電燈で、室の中が深々とぼやけている。その中に、大きな姿が自分の側にあった。その威圧に、身動きも出来なかったが、先方も不動のままだった。きちっと合わせた着物の襟、角ばった肩、斜にさし出されてる首、そして見覚えのある蒼ざめた顔が、顔全体が、こちらを覗きこんでいる。下から見上げると、接の骨と鼻の穴がいやに大きく、髪の毛が後ろに長々となびいてるような感じだ。正夫は大きく眼を開いて、じっと眺めた。眼がさめたの? と静かに囁く声がして、全体の姿がゆらりと動いた。静に眠るんだよ、とまた静かな声がして、父は頬の肉一つ動かさず、そのまま立上って、すーと出て行った。
正夫は半身を起こした。それから、向うに眠ってる山根さんの方に一瞥をなげ、そっと起上って、室から出て行った。父は茶の間に坐っていた。正夫の姿を見て、驚きもせず、やさしく微笑んだ。とてもいい晩だ、霧が一面にかけてるよ、といって立上った。正夫は着物をきてきた。父は玄関に待っていた。二人で外に出た。
十メートル先は見えないほどの、東京には珍らしい濃霧だった。まばらな街燈の光が、幾筋もの縞になって浮び、屋根の先や木の枝が宙にかかり、其他は一面に仄白い渦巻きだった。眼や鼻や唇にまで霧はしみこんできた。暫く黙って歩いているうち、南さんはふと足をとめて、ほう……と眺め入った。そこに、坂塀から檜葉の枝がさし出ていた。こんなのを見たことがあるかい、と南さんは正夫を顧みていった。すかして見ると、その檜葉の葉先に、一面に露がたまっていた。それが澄みきって、氷のようで、きらきら光っていた。雨の雫だってそんなにたくさんたまるものではない。霧がそこに水滴となって一面にくっついたのであろう。枝をゆすると、重々しくばらばら散る。よく見せてあげよう、と南さんはいって、正夫を胸に抱きあげた。正夫は眺め入り、それから枝を引張った。二人とも雫を頭から浴びた。そして笑った。また次の檜葉のところへ行った。正夫は枝を引張った。二人は雫を頭から浴びて笑った。
「あの晩のこと、なんだかへんだよ。」と正夫は云った。
「どうしてだい。」とチビは尋ねた。
「あんなに遅く、お父さんと一緒に外を歩いて、雫をかぶって遊んだのが、ふしぎだよ。あの頃、お父さんは僕のことをちっともかまってくれなかったし、僕もお父さんがなんだかきたならしかったんだもの。」
「きたならしいって?」
「いろんないやな匂いがしみついてるような気がしたんだ。」
「そうかも知れないさ。」
「そうじゃないよ。ただそんな気がしたんだ。」
「だから、露の雫をあびせて、清めてやったってわけかい。」
「そんなことをいう奴は、ばかだよ。」
チビは耳をかいて黙った。それからさも内緒らしく云った。
「君は知らないだろうが、あの晩、家に帰って、床にはいってから、お父さんは泣いていたよ。」
「うそだよ。僕は床にはいってから、うれしかった。」
「お父さんの方は、ほんとに泣いてたよ。」
「…………」
「眠ってからも、涙が眼から出ていたよ。」
「どっちだって同じことだ。」
「おかしいね、君はいつもちがうちがうっていうくせに、それだけが同じかい。」
「ちがうものはちがう、同じものは同じだ。」
「当り前じゃないか。」
「そうだよ、だから、それでいいんだ。」
「まあいいや。とにかく、霧の晩てへんなもんだな。」
「あれから僕は、霧の晩はいつも外を歩くことにしている。こないだも……。」
それは、晩ではなかった。然し山国の濃霧の日は、昼も晩と同じだった。なおよく云えば、永遠の夕方なのだ。温和な天気だったのが午後になって、霧が出てきて、それが刻々に濃くなり、深さも幅も分らない仄白い渦巻きとなった。正夫は外にとびだした。爪先上りに野原の中を、泳ぐように歩いていると、時々、森の一端が現われたり消えたりして、その向うには一層深い霧が淀んでいそうだった。正夫は森の方にやっていった。森はその辺みな闊葉樹で、その葉はただ濡れてるだけで、美しい露の玉はかかっていなかった。正夫はだんだん奥深く進んで行った。針葉樹の立交っているところに出た。然しその葉にも、美しい露の玉はあまりなかった。正夫はなお進んでいった。土地が次第に低く、谷間らしいところに出た。そこで森が切れていて、草地があり、その先は濃霧にとざされていた。
何か怪しい声がした。幾つもした。ちょっと静まって、また一度に聞えてきた。向うの、森の外れの木の上から来るらしかった。正夫は用心しいしい近よっていった。濃い霧のなかに、椎の木らしい茂みの中に、何か動いている。声を立てている。見ると、二三匹の猿だった。小さいのがないており、大きいのが頭をかいている。その向うにもまたいた。上の方にもいた。小さいのが枝から枝へ飛び移っており、大きいのが時々それを追っかけている。
正夫はそこに屈んで、じっと眺めていた。それから、くすっと笑った。彼は洋服を着ていた。傍の柴の小枝を折り取って、それを背中のバンドにさし、襟にさした。そして四つ匐いになって、徐々に猿の方へ近づいていった。柴の小枝と、四つ匐いの姿とのために、猿は正夫に気づかないらしい。正夫は椎の木の下まで行くことが出来た。すぐ上で、多くの猿がないたり、飛びまわったりしている。そのうちに小猿を一つ、正夫は生捕るつもりなのだ。だがまだ届きそうもない。椎の木の大きな幹に登れるかどうか、考えてみたが……その時、ふいに、正夫の肩にとびついたものがある。飛びつくと同時に、鋭い声をたてて木にかけ登り、それが合図か、多くの猿が一時になきたて、風が吹くような音を立てて、枝から枝へ、遠くに逃げていってしまった。正夫はそこへ一人ぽかんとしていた。
「ばかな奴だよ、逃げなくってもいいじゃないか。」と正夫はいった。
「君の方がばかさ、四つん匐いになったりして。平気で歩いていけばいいんだ。」とチビはいった。
「そんなことしたら、なお逃げちまうよ。」
「逃げやしないよ。初めから人間だと分っていれば、案外向うは平気なんだ。それを、四つん匐いなんかになってるんで、飛びついてみて、びっくりしたんだよ。」
正夫は暫く考えていたが、突然云った。
「ああ分ったよ。」
「何が?」
「君はいつもそんな考え方ばかりしているんだ。」
「…………」
「君が行ったって、猿は逃げやしないさ。だからそんなことを云うんだ。けれど、僕は君とは違うんだ。」
「そりゃあ違うさ。」
「いやそうじゃないよ。まるで違った別なものだよ。」
「それでどうなんだい。」
「それでいて、君はいつも、ひとも自分と同じものだと思ってるんだろう。」
「思ってやしないよ。」
「でもそういう考え方をしているよ。だからお父さんのことだって、君には分ってやしないんだ。僕のことだって分ってやしないよ。」
「そりゃあ、すっかりは分らないよ。」
「だから、あんまりへんなことを云うなよ。」
チビは耳をかいて、口を噤んだ。それから媚びるように云った。
「こんど、東京に帰ったら、霧の晩に歩いてみないかい。僕と一緒にだよ。木の葉に露の雫がたまってる時がいいね。そしたら、僕はどんな高いところにでも飛びあがって、みんなはらい落して、いくらでも浴せてやるよ。」
「うん、歩こう。」
正夫はただそう答えて、ぼんやり大空の雲を眺めた。
チビも黙りこんで、雲を眺めた。雲は空高く速く流れていた。正夫はふいに立上っていった。
「少し寒くなった。馳けてみようよ。」
二人は草原の中を走りだした。
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3)」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年5月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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