潮風
──「小悪魔の記録」──
豊島与志雄



 棚の上に、支那の陶器の花瓶があった。いつも使われることがないので、俺はその中に綿をもちこんで、安楽な居場所を拵えておいた。その晩も、夜遅く、その中にはいってうとうとしていると、急に何か物音や人声がしたので、花瓶の口からのび上って、見ると、片野さんがとびこんできてるのだった。

 片野さんは酔っていた。一つ所に立ってることが出来ず、それかって椅子に掛けるのも面倒くさいらしく、ストーヴのまわりをふらふら廻っていた。

「今迄、どこを歩いてらしたの。」と芳枝さんが、きつい眼付をしてみせた。

「今迄? 何をねぼけてるんです。歩いてるのは今だけだ。第一、どこか、ぬれてますか。さあ、ぬれてるかぬれてないか、歩いてた証拠があるかないか、見てごらんなさい。だが、実は歩きたかった。霧のような雨が降っていて、いい晩ですよ。そいつを、むりに自動車くるまにのっけるもんだから……。意趣晴らしだ、一杯のまして下さい。」

「だめだめ、もう何時だと思って?」

「何時だって……。一体、女にとっては、何よりもかによりも、時間が一番大切らしい。それが、癪にさわることの一つ。それから……。」

「それから?」

「とにかく、一本だけ。」

 そして片野さんは、両の踵で器用に靴をぬいで、膝頭で小座敷の方へ上っていった。表からはいってくると、小椅子をそろえた卓子が五つ並んでる土間、それに続いて四畳半の座敷、それだけの店なのである。

 芳枝さんは、向うにぼんやり立ってる佐代子に用を云いつけておいて、小皿の膳を運んできて、瓦斯ストーヴに火をつけた。がその方へは手もかざさず、じっと相手の顔に眼を注いだ。

「どうしたの?」

 片野さんは、へんに神妙に彼女の顔を見返した。

「もう一時よ。」

「すみません。」そして片野さんはにやりと笑った。

「ばかね。あれから、家に帰らなかったんでしょう。」

 片野さんはうなずいたが、こんどは眼付で笑っていた。

「ちょっと、気にかかることがあってね……。実は、あちこち、飲みあるいちゃったんだ。何だか、知ってる人にみんな逢いたくなったのさ。勿論、女だけなんだが。もうこれから、酒をのむこともあるまい、すっかり真面目になってしまうんだ。今晩がさいごだ。だから、晴れやかにぱっと、知ってる女にみんな逢ってしまおうと──分ってるだろう、ただ顔を知ってるだけだよ、変な関係なんか一人だってありゃあしない──そのみんなに、ぱっと逢って、さよならって、ぱっと帰ってしまいたかったんだ。こういう気持、僕は嬉しかった。本当に君を愛してるからなんだ。ところが、君も僕を愛してる、本当に愛してるね、だから、君も多分、知ってる男にみんな逢ってみたい、ぱっとだよ、ぱっと逢ってみたい、そんな気になって、あっちこっちに電話でもかけて、そこまではよいが、なんしろ、相手は男だし、君の方は女だし、どんなことになるか分ったもんじゃないから……。」

「片野さん!」と彼女は叫んで、なおじっとその顔を見つめた。「今晩なにか、へんなことをしたんじゃない?」

「へんなことって……。」

「浮気かなにか。」

「そんなことをするくらいなら、君のことをこんなに心配しやしない。」

「あきれた。まるであたしだけが……どうすれば一体、安心が出来るの。そんな気持じゃあ、結婚でもしなければ、いつまでたってもだめよ。あんなに固く約束したじゃないの。」

「だけどさ、いつもこうなんだけれど……。」

 佐代子が銚子を持ってくると彼はたて続けに杯をあげた。

「君と別れて、もう夕方だろう、一人でぼんやり街路まちを歩いてると、またすぐ君に逢いたくなるんだ。それが嬉しいようで淋しいようで、変梃なのさ。街路を通ってる女が、どれもこれも、まるで無関係な他国人のように見える。そして、俺ももしかすると、彼女がいなかったら──君のことだよ──彼女がいなかったら、それらの女たちの誰かと結婚するようになるかも知れなかったんだ、ざまあ見ろ、いい気味だ、とそんな気持がして、それから、ふと、空を仰いだりするひょうしに、君のことが憎らしくなるんだ。今はお互いに愛してるけれど、いつ、ほかに、僕に恋人が出来るかも知れないし、君に恋人が出来るかも知れない。その時は、互いに、隠さずに打明けると約束したね。その約束を守ってもらいたいんだ。君に恋人が出来たなら出来たで、そりゃあ仕方がない。はっきりそう云ってくれればいいんだ。だまされるのは一番たまらない。」

「じゃあも一度、何度も、はっきり約束するわ。」

 芳枝さんが小指を差し出すと、片野さんも小指を差出して、握りあって打ち振った。

「これでいいでしょう。何度くり返したって同じよ。そして約束を守って、しっかり生きていくの。もう無駄使いも止しましょうね。これから、お金を儲けることよ。二人でお金をたくさん儲けたら、それでいいじゃないの。結婚なんて、どうだっていいわ。」

 片野さんはうなずいたが、何やら浮かぬ顔色だった。芳枝さんの眉根にも、かすかな苛立ちがあった。

「佐代子!」と彼女は呼びたてた。「お銚子のお代りよ。どしどしつけといて頂戴。」

 ──こんな場面を見てると、俺はじれったくて仕様がないんだが、あんまり度々なので、もう諦めた。そしてただ一つ、ひそかに俺がほくそ笑むことがあった。それは金銭ということだ。一体二人が愛しあうようになって、もう三年ばかりになるが、愛しあってるだけでは足りないと見えて、始終何かしら嫉妬めいた口説が起るのだった。それかって、結婚するわけにもいかなかったらしい。片野さんは、嘗て或る女と同棲生活をしたことがあり、芳枝さんは、嘗て一年ばかり結婚生活をしたことがあるが、どちらもそれはきれいに清算されてるし、其後、ちょっとした情事もあるにはあったが、二年ばかりこの方、芳枝さんは堅く身を慎んでるし、片野さんは時々全くの浮気をやるくらいのもので、結婚しても差支えない筈だったが、そうはいかない隠れた理由があったのか、或は二人とも同棲生活に疑惑を懐いてたのか、或は多分、親戚知友の関係とか社会的地位とか云う変梃な障害があったのだろう。そのくせ、こうしていて後にはどうなるかという、下らない不安が大きくなっていったらしい。そのため、かるい嫉妬めいた口説がたえず、而もそれを二人とも楽しんでるようにさえ見えた。云わばそうしたことが愛の遊戯だったのかも知れない。そこで俺は見かねて、「金でも儲けなさい。」と二人の心に囁きこんでやった。俺は皮肉るつもりだったんだ。ところが、それが皮肉どころか、二人の最後の逃避所となって、金さえ儲ければ末長く安身立命出来るという観念が生じてしまった。勿論それはただ観念で、二人とも浪費家だから、片野さんの家には少しの財産があるが、そして芳枝さんの小料理屋は相当にやっていけてるが、金儲けなどということには縁遠かった。然し二人がいつもその観念に逃げこむのは、俺にとっては苦笑ものだ。だからちょっとからかってやりたくなるんだ……。

 片野さんは更に酔い、芳枝さんももう酔っていた。互に別れかねてる様子だった。片野さんはどこかへ行こうと云い出し、芳枝さんはここに泊っていけと云い出した。芳枝さんにしてみれば、昨晩家をあけたばかりだし、また夜遅いので途中も困るのだった。片野さんにしてみれば、よほど特別のことでもなければ、ここに泊っていくのは体裁がわるかった。

「特別のことよ。こんなに遅いんだもの。それに、あたし酔っちゃって……。」

 だが片野さんは何かとぐずっていた。初めてのことではなし、もう分ってることだし、構わないようなものの、第一、彼は佐代子が嫌いだった。

「どうしてそう嫌うの、不思議ねえ。そんなにぶきりょうでもないし、正直だわよ。」

「正直は、ばかってことさ。虫がすかないんだよ。あんな奴、取換えちゃいなさいって、いつも云ってるの、分らないかなあ。図体が長くって、足がちんちくりんだ。頸筋が牛みたいだ。それに反歯そっぱときてる。それだけでもう、女としてはゼロだ。眼がちょっと見られるからって、鼻が曲っていないからって、反歯の帳消しにはならない。それよりも、僕は虫がすかないんだ。あいつがいないと、ここの家ももっと繁昌するんだがなあ……。」

「しッ、聞えるわよ。あれだって、目をつけてるお客さんがあるのよ。」

「へえ、酔狂だな。」

「とにかく、泊っていくわね。」

 片野さんは黙って、天井を見廻した。天井の上が、芳枝さんの室だった。

 片野さんは腕をくんで、眼をつぶった。上体がふらふらしていた。それをなお心持ゆすってるのである。

 俺はとんでいって、その耳に囁いた。──泊っちまいなさい。女にはまけるものですよ。そして、明日から金儲けだ。ここの家も随分きたないじゃありませんか。金を儲けて、きれいに飾りたてるんですね。佐代子なんかも出しちゃって、きれいな娘を置くんですね。まあ万事、居心地よくすることですね。

 片野さんはまだ眼をつぶったまま、上体をふらふらさしていた。

「さあ、どうしたの?」

 片野さんは眼を開いて、芳枝さんの顔を不思議そうに眺めた。それからじっと宙に眼を据えた。

「そうだ、面白いことを考えついた。紙と……レターペーパーでいいから、それと鉛筆をかしてくれない。ちょっと仕事があるんだ。先に寝てなくちゃだめだよ。」

 何のつもりか、片野さんは意地張り通した。ペーパーと鉛筆とを揃え、瓦斯ストーヴの上に薬罐をかけ、それで燗をすることにして、銚子を新たに一本用意さした。食べ残しの干物がまだ膳の上に残っていた。そしてそこで一人になることを主張した。芳枝さんは二階に上っていった。裏口のそばに、雑作改造の時に取残してある三畳の室があった。佐代子はそこに寝るのだった。板前の高橋とその姪の美智子は、いつも十二時には帰っていって、その晩も、片野さんが来た時にはもういなかったのである。


 その夜更け、狭いひっそりした店のなかに一人になると、片野さんはちょっとあたりを見廻して、笑みをもらした。それから酒の燗をして、またも飲み初めたが、眼をじっと見据えて、何やら考えこみ、やがて眼をとじ腕をくんで、食台によりかかったまま身動きもしなかった。

 時間がたった。眠ってしまったのかと思われる頃、彼は急に眼を開いた。それからすぐ、ペーパーをのべて、鉛筆で何か書きはじめた。

 いろいろな不思議な模様だった。縦の線、横の線、四角や三角の円、唐草模様、妙な形の花や葉、動物や人形の像、其他何とも判断のつかないようなものが、入り乱れ散らばって、幾枚もの紙がぬりつぶされた。どうやらそれは、窓や欄間や天井など、建築の各種の細部らしかった。そうだ、彼は建築家だったのである。紙片の上に次々に描き出される建築の細部は、みな怪しく形が歪んで、笑ったり踊ったり、生きて動いてるがようだった。それは必ずしも酔余の戯作とは云えなかった。創造的な不思議な活力がこもっていた。

 わきから覗いていると、俺もへんにまきこまれて、つい手を出したくなった。ちょいちょい鉛筆にさわって、勝手な方向に動かしてやった。その度に、片野さんは眼を見張って、図形を眺めた。その図形が法にかなってたかどうかは、俺には分らない。だが彼自身ではひどく天才じみた気分になってたのだろう。すっかり興奮しきって、額にはかるく汗さえ出していた。

 やがて、十枚ばかり書きちらすと、後は鉛筆を投げ出して溜息をついた。それから、むしゃむしゃ干物をたべてしまい、酒をのみだした。

 銚子がからになると、彼はそれを手にして立ち上った。よろけかかったのをふみ止って、そのまままた坐りこんだ。

「おい、お代りだ。」

「はい。」

 返事がしたので、俺はびっくりしたが、無意識に呼んだ彼自身は、なおびっくりしたらしかった。じっと声の方を見つめていたが、やがて、佐代子が銚子を持ってくると、総毛立ったような表情になった。

「ばか、まだ起きてろのか。」そして彼はちょっと息をついた。「なんだって寝ないんだ。寝てしまえと云っといたじゃないか。僕は仕事をしてるんだ。人が起きてると邪魔になるんだ。君がそんなところに起きてるもんだから、見給え、仕事が出来なくなってしまった。何をまごまごしてるんだ。僕を泥棒だとでも思ってるのか。ばかな、誰が持ち逃げなんかするものか。持ち逃げするような気のきいた品物が一つだってあるかい。いやに忠義ぶって、とんちきめ、起きてるなら起きてるで、肴でも拵えてこい。何かあるだろう。おい、なぜ黙ってるんだ。御新香でもなんでもいい、持ってくるんだ。それに酒だ。早くしないか。早く寝ちまうんだ。寝ろったら……。」

 ふだんおとなしい片野さんが、怒鳴りだしたのには俺も驚いた。佐代子はすっかり面喰って、まごまごして泣き出してしまった。泣きながら、酒の用意をしだした。

「気のきかない奴ばかり揃ってやがる。」

 片野さんは立ち上って、よろけながら下駄をつっかけて、便所にいった。

 片野さんは便所から戻ってくると、電燈のきえてる板場の方をすかし見た。そこの隅っこで、佐代子が、泣きながら何か用をしていた。

「もういい、もういい。なんだ、泣いてるのか。ばかだな。」

 片野さんは寄っていって、彼女の肩に手をかけた。何かびくりとしたようだった。

「泣く奴があるか、ばかな。こっちいこいよ。」

 佐代子はなおすすりあげた。

「もういいったら……。」

 片野さんはその肩を抱いていた。佐代子は片野さんの胸によりかかるようにして、袂を顔に押しあてながらされるままになっていた。

 片野さんは彼女を抱いたまま、座敷に戻ってきた。そこにつっ伏した彼女を引きよせて、膝に抱きあげた。きょとんとした顔付だった。それから急に、両の腕に力をこめた。

 まるで意外なことなので、俺は呆気にとられた。あんなに嫌っていた佐代子、足の短い、頸筋の頑丈な、反歯な彼女を、片野さんはしっかと抱きしめてるのである。佐代子はもう泣きやんで、父親にでも抱かれるような調子で、片野さんに全身を托しているのである。眼をつぶって身も心も投げ出してるような様子だ。片野さんの歯が彼女の反歯にふれあって、かちかち鳴る音がした。

 俺は初めの驚きから我に返って、ちょっと面白くなって、片野さんの耳に囁いてやった。

 ──それが、人情っていうものですか。

 何の反応もない。

 ──それが、いかものの味というやつですか。

 何の反応もない。

 ──よし、どうにでもしてしまいなさい。殴りつけるなり、蹴とばすなり、玩具にするなり、あなたの意のままだ。この機会をのがしちゃあ、だめですよ。人間一人を勝手に取扱うのは、何より面白いことですよ。

 何の反応もない。

 ただ、盲目的に、二人の身体はひしとくっつきあっていくだけだった。

 俺は本当に呆れかえった。そして三十分間ばかり、二人は抱きあったまま、低くとぎれとぎれに、べらぼうなことを囁いたり返事したりして、でも最後の一線はふみこえないで、片野さんは立ち上った。書きちらした紙片をポケットにねじこみ、靴をちゃんとはき、裏口の戸を佐代子にあけてもらって、外に出ていった。佐代子はその後ろ姿を見送って、ちょっと空を仰いだ。雨雲が切れて、うすく月の光がさしてる気配けはいだった。

 俺はふと思い出して、二階にあがってみた。芳枝さんは酔い疲れて眠っていた。それは俺の気に入った。


 翌日、佐代子は風邪のきみだといって一日寝ていた。片野さんのことについては、あれから急な用事を思い出したとかで帰っていった、ということきり芳枝さんは聞き出し得なかった。彼女は何度か佐代子の薄暗い三畳の室にはいっていったが、大して病気でもなさそうだった。

 俺が時々そっと覗いてみたところでは、佐代子はただやたらにぐうぐう眠っていた。

 一日寝てた後で、佐代子は元気に起き上って、忠実に働きだした。拭き掃除から後片付まで、美智子の分までも自分でした。客にも丁寧だった。ただ何となく無口になっていた。そして殊に芳枝さんには忠実だった。芳枝さんの一挙一動に注意して何かと気を配って、進んで奉仕してるようだった。

 俺はその変化に眼を見張った。どうもあの晩から、俺の腑におちないことばかりだ。芳枝さんは片野さんのことに気をもんでるらしかった。手紙を書いたりした。

 四日目に片野さんから電話だった。芳枝さんは長い話をしてから、にこにこして、佐代子にいった。

「今晩あたり来るんだって……。」

 佐代子は顔色もかえなかった。

 だが、片野さんは来なかった。高橋と美智子が十二時になって帰っていってから、客ももうないし、芳枝さんは佐代子と二人で、ぽつねんとストーヴをかこんでいた。寒い晩だった。

「冷えるわね。あたしに一本つけてくれない。」と芳枝さんはいった。

 佐代子はお燗をし、見つくろいの小皿を添え、表の締りをし、それから二階にいって、丹前をもってきてくれた。

 その丹前が、芳枝さんの気を引いたらしい。彼女は珍らしそうに佐代子を眺め、小座敷の上り框近くにストーヴを引寄せ、そこに腰かけて、佐代子にも杯をさした。

「一杯のんでごらん。」

 佐代子は笑っていた。

 芳枝さんは紙片に、いろんな数字を書いては溜息をついていた。

「どうしてこう儲からないのかしら。」

「お酒のはかり方を、ちょっとつめると、ずいぶんちがいますわよ。」

 芳枝さんは頓狂な声で笑った。

「まあ! 佐代子、お前にそんな智恵があるとは思わなかった。」

 そして彼女はまた珍らしそうに佐代子を眺めた。

「あたしね、これからお金をためようと思ってるの。無駄使いもおやめだ。お前さんも万事気をつけておくれね。お金が出来たら、お前さんにももっと何とかしてあげるわよ。」

 佐代子はうっすらと笑った。

「ここにいて、何かつらいことはないの。」

「いいえ。」

「淋しいようなこともないの。」

 佐代子は返事をしないで、考えていた。

「お前さん、郷里くには越後だったわね。もうずいぶん帰らないんでしょう。」

「ええ。」

「一度帰ってみたいとは思わないの。」

「いいえ。ただ……あの波の音を聞きたいと思うことはありますけれど……。」

「え、波の音?」

「ざあー、ざあーって、いつも音がしてるんですの。」

「海岸に生れたの?」

「ええ。お父さんが漁に出て、暴風しけで、帰ってこなかった時、お母さんと二人で、じっと波の音をきいてた時のこと、いつまでも覚えていますの。」

「そして、どうしたの?」

「それきり、お父さんは帰ってこなかったんですの。船が沈んでしまったんです。」

 芳枝さんは黙っていた。佐代子もそれっきり口を噤んだ。が彼女はそっと芳枝さんに寄りそっていた。

「あたしもね、」と芳枝さんが暫くしていった、「むかし、越後に行ったことがあるわ。そして海を見てびっくりしたわ。こっちの海とまるで違うのね。大きな砂丘があるでしょう、松がまばらに生えてて……。そしてさーっさーっと、潮風が吹きつけてくる。波の音と一緒ね、どっちが波だか風だか分りゃしない。凄いわね。」

「でも聞いてると、いい気持ですわ。」

「いい気持だって?」

 佐代子はうっとりと、大きく眼を見開いていた。

「まあ、冷い手ね。」

 さわった拍子に、芳枝さんは佐代子の手をちょっと執った。佐代子はぼんやり眼を宙にすえたまま、益々寄りそってきた。彼女にとって芳枝さんは、何かしら貴重なやさしいなつかしいもののような有様だった。

「一杯のまない、温まるわよ。」

 佐代子は杯を受けた。そして二人はとりとめもない話をしながら、酒をのんだ。佐代子はすぐに赤くなった。そして身体をくねらして芳枝さんにくっついてくるのだった。

「あたくし、これからどんなにでも働いて、もっと店が儲かるようにしますわ。酒のみのお客さんには、あとからあとから、お銚子を出してやるの。美智子さんみたい、少しお上品すぎますわ。それに、お料理だって、もっと高くしていいんですわ。」

 芳枝さんはびっくりしたように彼女を眺めた。そして、つと立上った。佐代子と並んで、くっついて、手を執りあったりして、銚子を前にして、そこに腰掛けてたのに、一層びっくりしたらしかった。

「もう寝ましょう。」と彼女はぽつりと云った。

 佐代子はぽかんとしていた。それから、赤い顔をなお真赧にして、立ち上った。

「片付けるのは、明日あしたでいいわよ。もう遅いから。」

 芳枝さんは何かしら不機嫌で、時計を仰いで、洗面所の方へ行った。手を洗って口をすすいだ。佐代子とくっついたのが気に入らなかったらしい。着物をばたばたはたきながら、二階に上っていった。

 佐代子は何か考えこみながら、ゆっくり後片付をした。

 俺は花瓶の中で、何度も欠伸あくびをしたものだ。


 その翌晩、片野さんが、十一時近くにやってきた。四五人客があった。片野さんは隅っこの卓子に腰を下した。佐代子が出ていって、黙って丁寧にお辞儀をした。その眼がいつもより睫毛の影が多く、奥深く黒ずんで、そしてちらちら笑ってるらしいのを、片野さんはちょっと眼にとめて、そしてすぐそっぽを向いてしまった。佐代子は用もきかないで引込んでいった。美智子がやって来て、小座敷の方へ片野さんを案内した。

 それだけのことだったが、何かしらいつもと調子がちがってるのが目立った。そして片野さんは小座敷の隅に蹲って、ちょっとした料理で酒をのみだしたが、何事にも興味がなさそうだった。芳枝さんがちょっと顔を出して、よそよそしい挨拶をしてから、待ってて下さいと囁いた。ええというなげやりな返事だった。銚子をはこんでくる美智子にも殆んど話しかけなかった。何か思い惑ってたに違いない。恐らく先夜のことででもだったろうか。だから俺は、そっと寄っていって、その頭の中のものをかきたててやろうとした。あまり思い惑ってるようなので、助けてやるつもりだった。

 ──先夜、佐代子をつかまえて、随分つまらないことをしたものですね。

 ──うむ……。

 ──あんなことにこだわってるのは、なおくだらないですね。

 ──そう……。

 ──だが、少しめちゃでしたね。人がきいたら呆れますよ。

 ──そうかも知れない。

 ──彼女を抱いてて、「君はまだ処女なの。」ときいたでしょう。「そうよ。」と彼女は返事をしたでしょう。覚えていますか。

 ──覚えてるようだ。

 ──「芳枝は僕の女房みたいなものだが、この頃、誰か男の人と懇意にしてやしないか。」ときいたでしょう。すると彼女は、「知らん。」とただ一言返事したでしょう。覚えていますか。

 ──覚えてるようだ。

 ──キスの間で、よくもそんなことが云えたものですね。呆れ返った。

 ──僕も呆れてる。

 ──いったい、どんな気持だったんです。

 ──分らない。

 ──あんなに嫌ってたでしょう。最上の放蕩ですかね。

 ──ちがう。

 ──今もやはり嫌いですか。

 ──分らん。だが好きじゃあない。

 ──好きでなけりゃ、嫌いというものでしょう。まあいわば、臭いもののにおいをかぐといったところですかね。

 片野さんは嫌悪の渋面をした。

 ──それとも、あなたが抱いてたのは、単なる肉塊でしたかね。

 片野さんは眉をひそめた。

 ──なぜ最後まで犯さなかったんです。少し卑怯でしたね。

 ──何もかも卑怯だ。

 ──いやそんなことはありません。勇敢でしたよ。歯がかちあって、音をたてたじゃありませんか。

 ──ばかな。

 片野さんは腹を立てたらしい。何を云ってももう返事をしないで、しきりに酒をのみだした。

 ──ちょっといいじゃありませんか。ごらんなさい、佐代子を……。

 片野さんは眼もあげなかった。然しそこにじっと落着いてるところを見ると、或は、もう全然佐代子を無視してるのかも知れなかった。

 けれども、佐代子はちょっと見直された。眼の奥の黒い影が、へんに深々と光ってるようだった。快活に酔客の相手をして、高い笑い声を立て、さしつけられる杯を、ふだんは手にもふれなかったが、ぐいと一息にあけていた。一体この家は、芳枝さんが上品に上品にと取繕ってるものだから、美智子も佐代子も物静かに振舞って、乱暴な客もなく、高橋の巧みな板場の腕も手伝って、困るような酔っ払いもなく、十二時近くなるとみんな帰ってもらえるほどだった。それが今日は、佐代子がへんにはしゃいで、会社員風の三人連れの客のところへ、やたらに銚子をはこび、高笑いして酒の相手になっていた。

「ちょいと、高橋さん、あんたの腕前がいいから、祝杯をあげるんだってさ。出ていらっしゃいよ。」

 高橋は板場の奥から笑っており、芳枝さんと美智子は眉をひそめていた。

「はいおひや。」

 そういって佐代子ほ、水の代りに冷酒をコップについできたりした。

「佐代ちゃんえらい。こうサーヴィスがよけりゃ、毎晩のみに来てやるぞ。」

「早く来なけりゃ、大入で、席がふさがってるわよ。」

 どこで覚えたか、「クカラッチャ」のメロディーなんかあやしげにくちずさんで、足もとがもうふらついていた。

 出口に近い一人の客が立ち上って、その拍子に椅子を倒した。その音に、佐代子はとび上って驚いたらしく、卓子につかまって息をつめた。顔色をかえていた。それから笑い出したが、気のこもらない笑い方で、やがて、美智子のところにいって、その肩につかまった。

「ごめんなさい、ね、ごめんなさい。あたし酔っちゃって……。」

 しきりに詫びる彼女を、美智子は何のことか分らなくて、もてあましていた。佐代子は頬をふくらまして、ぷいと美智子の側を離れて、それからもうはしゃがなかった。

 そして時間がたって、客も立ち去り、主婦の事情を知ってる高橋と美智子も帰っていったが、片野さんは浮かぬ顔付でまだ酒をのんでいた、芳枝さんも言葉少なだった。小料理屋なんかうるさいから止めて、潚洒な喫茶店でも始めたいと、気の弱いことを云い出した。片野さんの方では、津島さんから話のあった会館の室の、大凡の設計が出来上りかけたなどと話していたが、少しも気乗りのしてる風ではなかった。何かへんに冷たい空気だった。そして二人は、二階に上っていった。

 おかしいのは、二人とも、佐代子に言葉もかけなかったのである。佐代子はまるで忘れられたように、そして自分でも自分を忘れたように、板場の奥に引込んでいたが、一人きりになると、俄にぞっと震えて、それから急いで後片付をすまし、電燈を消したが、板場の奥の一つだけを残して、そこの火鉢の上にかがみこんでじっと考えに沈んだ。

 いつまでも彼女は身動きもしなかった。火鉢の火にぼんやり眼をすえて、心で、何か聞き入り見入ってるようだった。

 恐らく故郷のことでも、潮風のことでも、思い出していたのだろう。

 彼女の父親が難破して死んだのは、彼女の十歳の時だった。それから彼女が小学校を終えた翌年、母親は感冒から肺炎になって死んだ。彼女は近くの町に出て、料理屋の女中になった。一年半ばかりでそこを逃げ出して、東京で折箱屋をやってる伯母を頼ってきた。伯母の家で、五年間手荒い仕事に骨身おしまず働いた。それから伯母のところがうまくいかず、店をしまうことになった時、彼女は女中奉公に出た。小さな請負師の家で、給金もろくに貰えなかった。彼女は自ら周旋屋にかけこんで、伯母の懇意だった人に身許引受人となってもらい、二三転々して、そして只今の芳枝さんの家に来たのだった。彼女は気は利かないが、その代り正直だった。何か荒々しいものを内にもっていて、そして表面うすぼんやりしていた。

 彼女は男のように腕組みをして、火鉢の上にかぶさりて、じっと考えこんでいた……。

 俺は彼女のその瞑想を尊敬して、ただ見守っていてやった。

 二時頃だったか、二階から足音がおりてきた。静かな足音だった。片野さんと芳枝さんだ。二人とも黙っていた。芳枝さんは裏口の戸をあけた。

「じゃあ、きっとね。」

「大丈夫。」

 だが、片野さんは力なさそうだった。芳枝さんの手を握りしめておいて、外に出るとすぐにうなだれて、考えながら歩いていった。

 芳枝さんは戸締りをして、二階に上りかけたが、急に足をとめて、板場の方をすかし見た。そしてちょっと佇んでいたが、つかつかとやって来た。

「そこで、何をしてるの。」

 佐代子は立上った。

「何をしてるのさ、今頃まで起きていて。」

 佐代子は幽霊でも見る様に、惘然として相手を見ていた。

「ばか、何してたんだよ。」

 芳枝さんの細そりした顔が、憤怒に歪んだ。足が震えていた。よろよろと歩みよって、佐代子の頬をひっぱたこうとした。びっくりして俺がその手を遮った、それがいけなかったらしい。彼女は手当り次第にコップをつかんで投げつけた。コップは壁に当ってばかに大きな音を立てて砕け散った。その瞬間に、芳枝さんはあッと叫んだ。佐代子の手に、料理用の鋭い出刃が光っていた。芳枝さんは真蒼になった。佐代子も真蒼になって、石像のようにつっ立った。

 ほんの一瞬の気合いだった。芳枝さんがぱっと身を飜えして逃げ出すとたんに、佐代子も出刃を投げ出して、逃げ出した。その二人の動作がかちあって、出刃は芳枝さんの足に触れた。芳枝さんはばったり倒れた。丁度足袋の上の足首のところから血がふき出して床に流れた。

 佐代子はそれに気がつかなかったらしい。裏口にかけよって、戸締りをあけると、表にかけ出してしまった。

 芳枝さんは起き上った。ハンケチで傷口を結えた。だがそれでは足りなかった。

 俺は芳枝さんに手伝ってやらねばならなかった。それから、佐代子をも探しに行かなければならなかった。そして、面白いどころか、へんに憂欝になってきた。みんな何てざまだ。ばかげた気持を通りこして、佗びしかったのだ。

底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3)」未来社

   1966(昭和41)年810日第1刷発行

初出:「中央公論」

   1937(昭和12)年5

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2008年416日作成

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