南さんの恋人
──「小悪魔の記録」──
豊島与志雄



     一


 少しいたずら過ぎたかな? だが、まあいいや。

 その朝、室の有様は、おれの気に入った。

 窓に引かれてる白いカーテンを通して、曇り日らしい薄明りが空の中に湛え、テーブルの上のスタンドの電燈が、いやにぼんやりしていた。殆んど何の装飾もない白いだだ広い室……。窓寄りのベットに、南さんが、顔まで毛布をかぶり、長髪を枕の上に乱して、死人のように眠っていた。テーブルのスタンドのわきには、帽子、カラー、ネクタイ、紙入、時計、大きな木札のついた鍵……。中央の円卓には、ビール瓶が二本、一本はからで、一本は栓もぬいてなく、コップ二つ、リキュールのグラスが二つ。それから扉寄りに、も一つベットがあって、寝具は少しも乱されてないが、その上に、南さんの服装が、外套からシャツや腹巻まですっかり、とりちらされていた。腹立ちまぎれに自分で脱ぎすてたものか、或は、急病の手当に誰かが脱がして投げ出したものか、そういった有様で、片隅の衣裳戸棚はまるで忘れられていた。それから、南さんの服装のわきに、ベットの裾の方に、くしゃくしゃなタオルの寝間着が一枚、無雑作に放りだしてあった。それが全体の有様から見て、つまりこの室は、宿泊されたのではなく、寝られたに過ぎないのだ。

 十一時頃、南さんが突然起きあがった。ベットがゆらりと動いた。身体に不馴れなその動揺とシーツの感触とで、南さんは初めて正気に返ったらしく、室の中を見廻した。血のけのうすい膨れた顔をしている。暫くして、彼はのこのこベットからおりてきた。寝間着の前がはだけてるのに気がついて、紐をむすんだ。しきりに頭をかしげながら、室の中を一通り見調べた。それから窓のカーテンをかかげて、外を眺めた。

 果して、曇り日のどんよりとした昼だった。すかし見ると、ばかに高い……。あちこちに、高層建築の頂が聳えていて、その間を垂直にえぐり取った深い深い谷底に、軌道が見える。電車が通る。自動車や自転車……豆粒のような人間……。冷々とした空気が、悪気流が、宙に迷っていた。

 暫く眺めていた南さんは──あぶない、とおれが囁いてやったからばかりではなく──ぞっと身体中震えて、窓から離れた。時計をちょっと覗いてまたベットにもぐりこみ、横向きに、手足を縮こめ、眼を閉じた。頭を深々と枕に埋めてる様子では、眠ったようだったが……思いもよらない時に、両方の眼瞼から涙が一滴ずつ、すうっと流れおちた。雨滴が木の葉をすべるような、少しの無理もない流れ方だった。それからやがて、彼はうとうとと眠ってしまった。

 一時頃、南さんはほんとに起きあがった。こんどは、眉をしかめ、ひどく不機嫌そうな顔付だ。宿酔のせいもあったのだろう。彼は室の中を少し歩き廻り、冷い水で顔をごしごし洗い、面倒くさそうに洋服に着かえ、窓のカーテンをひきあけ、円卓に片肱をつき、ビールをのみまた煙草をふかしながら、窓からぼんやり空間を眺めた。

 そこで、おれはその耳に口をよせて、ひそひそ囁いてやった。──「どうです、昨夜のこと、覚えていますか。よく分らないのも、無理はありません、随分酔ってましたからね。彼女が帰っていったのが分らないなんて、そこまでいけば、確かなものですよ。これでもう、満足でしょう。どうです、わたしが云った通りじゃありませんか、徹底的にやっつけちゃいなさいって……。気持がさっぱりしたでしょう。なあに、頭が重かったり、多少の憂鬱があったりするのは、二日酔のせいですよ。それに、今日はあの通り曇ってもいますからね。今に、雲が切れて……まあ夕方ですね、赤い夕陽がぱっとさして、そして千疋屋で林檎でもかじってごらんなさい、頭の中も、胸の中も、さっぱりと晴れてしまいますよ。そして一切のきりがついて、ふんぎりがついてそれこそ、何物にも囚われない自由の境地ですよ。朗かな自由……そんなことを考えてたんでしょう。そうです、朗かですとも。朗かでなくっちゃ自由でないし、自由でなくっちゃ朗かでない……そうです、そうです。山根さんのことも、登美子のことも、家庭の煩いも、そのほかすっかり消し飛んじゃいますよ。これでもう、思い残すことはないでしょう。とにかく、未練というやつが一番の禁物です。これが最後だ、これがどん底だ、と思ってるところに、も一つ次の最後やどん底が出てくるのは、未練がさせる仕業ですよ。未練を捨てちゃいなさい。そうすれば何も恐れるものはありません。も一度登美子に逢ったって、そりゃあ構いませんとも。もう未練がないんですからね。こっちは朗かで自由だ、先様は先様だ、それだけのことです。思い通りのところに出たでしょう。だから、決心次第だと云ったじゃありませんか。これからだって……。」

 その時、おれは舌をぺろりと出して、更に大事なことを囁こうとしたが、あいにく、扉を叩く者があった。なおも一度叩いて、紫の上っ張をきた女がはいって来た。小さなお盆の上に、小銭を少しと、勘定の受取書とを持っていた。南様と名前まで書いてあった。南さんは腑におちない眼付でそれを眺めた。

「昨晩のおつりでございます。」

 女が出ていってからも、南さんは小首を傾げながらお盆を見ていた。それから残りのビールを飲んでしまって、立上った。

 廊下の突当りにエレベーターがあったが、南さんはわざわざ階段をおりていった。初めてのホテルらしい。じろじろあたりを眺めながら、七階から一階までおりてゆき、少々てれた顔をして、帳場の男に、私は南だがもう帰ります、といやに丁寧な口を利いて、手ぶらの身体をひょいと表にとび出した。

 表に出て彼は、そのホテルの高い建築を仰ぎ眺め、それから外套の襟に頣を埋め、没表情な顔付で、銀座の方に歩きだした。足がふらふらしてるのも気につかないらしく、憂鬱に考えこんでしまっているのだ。

 そんなのは、おれは嫌いだ。

「さて、どうします。」

 何の反応もなく、ぼんやり歩いているだけだった。

 少しけしかけてやろうかと思ったが……いやおれにはもっと面白いことが残っていた。南さんはあとでまたすぐにつかまえることにして、そこの、掘割の橋の上で別れて、おれは駈けだした。


     二


 おれは山根さんの様子を見にいった。

 おれの頭には、南さんと山根さんとの間の先夜の滑稽な場面が浮んでいた。おれはこの二人の童話めいたものを組立てておいたのだが、それがどうやら失敗に終ったらしい。どうもおれの腑におちないことが沢山あるようだ。──南さんの細君が死んでから、細君の伯母さんの山根さんが、南さんのところにやってきて、七つになる子供正夫の世話から、家事万端の面倒をみることになった。伯母さんといっても、まだ四十歳の未亡人で、金があって孤独で閑で、ぼんやり日を暮してた人だから、丁度適役だった。南さんが再婚するまで、とそういうつもりらしかった。南さんは三十七歳で、妻の死後ひどく憂鬱に沈んで、酒をのみ廻っていた。そして別にどうというわけがあってのことではなく、どちらからどうしたということもなく、南さんと山根さんとがへんな仲になった。でも山根さんの様子は少しも変らなかった。一人の女中を指図して、家事一切を厳格に仕切り、正夫を愛した。起床や食事や就寝の時間、お惣菜の種類、衣類の始末、洗濯の仕方、家具の配置、正夫の勉強──来年から小学校にあがるというので少しずつ文字を習わせていたのだ──交際の範囲及び程度、凡てのことが規矩整然と行われた。それから南さんの性慾の問題も適宜に。その上、山根さんは相当な財産をもっていて、ゆくゆくはそれを正夫に譲るという口吻をもらしていた。既に私財で南さんの家計を補うことも度々だった。そういうわけで、南さんは妻の死後、理想的な境遇に在る筈だった。毎日ある私立大学に勤めていて、専門の研究も大に進捗する筈だった。ところが、事実は逆で、南さんは次第に自暴自棄なところまで出てきて、酒をのむことが頻繁になり、道楽も度重ってきた。そして先夜のことなんか、どうも、おれには苦笑ものだ。尤も、おれがちょっとおせっかいをだしはしたが……。

 夜おそく、二階の書斎で、南さんと山根さんとが話をしていた。正夫も女中ももう寝入っている夜更けで、あたりはしいんとしている。南さんはふだんのなりだったが、山根さんは、寝間着の上に着物をひっかけ、細帯一つの姿だった。一度寝てからまた起き上ってきたものらしい。そして二人は、話をしていた……のではあるが、南さんは山根さんの膝に身を投げかけ、その胸に顔を埋めて、しくしく泣いているのだ。丁度、母親の胸にすがりついてる大きな子供みたいだった。大体、南さんは背が低くて痩せているし、山根さんは女として背の高い方で、肉体がおっとりと肥満し、脂っけの少い滑らかな皮膚をしていて、長く立っているか腰掛けているかしたら足に水気すいきがきて脹れそうな、そういう締りのたりないところがあり、そのくせ頬の肉附にちょっとけんがあり、その代り眉に柔かな円みがあって眼が細かった。だから二人が抱きあってるとしても、親子みたいで、少しも猥らな感じはなかった。

 これはいい、とおれは思って微笑した。

 だが、南さんは泣いてるんだ。

「……駄目なんです、僕はほんとに駄目なんです。中心の心棒みたいなものが、精神か感情かの心棒みたいなものが、なくなってるんです。そして身の持ち方の、しめくくりというか、垣根というか、そうしたものがなくなって、埓をふみ越してしまうんです。一本か二本だけ飲もうと、そう思っていると、つい酔うまで飲んでしまって、そしてあちこち飲み歩いて、とんでもないことをしでかすんです。うちあけて云います。僕は家を空けたことはありませんが、売笑婦を買うこともあれば、みずてん芸者を買うこともあります。許して下さい。どうにも仕様がないんです。然し、信じて下さい、これだけは信じて下さい、愛してる女なんか一人もないんです。」

 山根さんは、眉をしかめもしなければ、微笑みもしないで、南さんを抱きかかえたまま、考え深そうな眼を伏せていた。そしてほっと溜息をついた。

「では、いったい、あなたには何が必要なんでしょうね。」

「それです、それです、何が心要なのか、自分でも分らないんです。ねえ、山根さん……どうしたら……。」

 彼は駄々っ児のように山根さんをゆすったので、山根さんは倒れかけようとして、それをもちこたえた拍子に、異様な笑みをちらと浮べた。

「必要なのは、奥さんでしょうか。」

「いえ、ちがう、ちがいます。」

「では……恋愛でしょうか。」

「ちがいます……。」

「それでは……。」

 山根さんの眼が、大きくなって、慈愛……めいた色を浮べて、じっとくうを見つめた。

「一口に云えば、心とでも云うようなものでしょうか。」

 いけないなあ、とおれは思った。そして南さんの返事のないのに乗じて、おれはちょっと山根さんに……囁いてやった。山根さんの顔には苦悩の色が現われた。そして云った。

「だけど、空想に走ってはいけませんよ。しっかりしなければいけませんよ。あなたにはそれが出来ます。くうなものよりも、のあるものを掴まなければいけません。それまでには、いろんな幻滅を経なければなりません。あなたは、それに堪えることが出来る筈ですよ。あなたがすっかり打明けて下すったから、わたしもすっかり打明けてお話しましょう。わたしは……あなたを愛してるかどうか、自分でも疑っていますの。いえ、愛してはおりません。」

 南さんは顔をあげて、山根さんの眼をのぞきこんだ。が山根さんは、顔色も眼色も動かさず、蝋のようだった。その声も無感情なものだった。

「あなたとわたしと、こういう風になったからって、それは、お互に愛し合ってる証拠にはならないでしょう。あの時、初めての時から、今までずっと、わたしたちは、愛するとか愛しないとか、そんなことは一言も口にした覚えはないじゃありませんか。ですから、あなたに愛する人が出来たり、再婚して奥さんを貰ったりなさる時には、わたしはさっぱりと出ていきますよ。そしてそれまで、こうしていたって、ちっとも差支えありません。あなたは、奥さんがいた時も、たまには、そして今でも、汚い女に接することがあると、告白をなすったでしょう。そんなのは……後味がわるいにきまっています。けれどわたしたちは、後味のわるいような思いをしたことがあるでしょうか。男と女と……満足させあうのはごく自然なことです。御飯をたべなければ、おなかがすきますし、お腹がすいたからって、芥溜ごみためをあさるようなことはしちゃあいけません。わたしたちの仲、濁ってるとお思いになりますか。いいえ、濁ってなんかいません。きれいに澄んでいますよ。お互いに……空腹でもなく、そしてきれいに澄んでいて、そして、愛するとか愛しないとか、そんな面倒なこともなく、落着いて仕事ができて、ごく自然な理想的なことじゃありませんか。それを、悩んだり、濁らしたりするのは、あなたの酒や道楽……それだけです。あなたが酒をひかえ、不潔な快楽をしりぞけなすったら、わたしたちはいつまでも清く澄んでいけます。それに、わたしには、子供の出来る心配もありません。子供の出来ない身体ですよ。気がついていられたかどうか知りませんが、わたしは手術を受けたことがあって、もう子宮がないんです。」

 これはすばらしい、とおれが思ってるのとまるで反対に、南さんはひどい衝撃を受けたらしく、山根さんの顔をじっと、まるで自分に憑いてるものをでも見るように、一心に見つめたが、次の瞬間には、がくりと崩れて、山根さんの肩にすがりついて泣きだし、山根さんも彼をかき抱いて、泣きだしてしまった。そして二人は、互にひしと、肉体を溶け合したいかのように、また永久に離れられないかのように、抱きあって泣いた。泣きながら、キスしあったり、身悶えしたり……。

 そのばかさ加減には、おれも呆れた。仕末に困ったが、頭を掻くだけにした。

 南さんは夢の中でのように云っている。

「僕はもう酒をやめます。不品行なこともしません。ほんとに誓います。」

 山根さんも夢の中でのように云っている。

「いいえ、誓ってはいけません。」

「いえ、誓います。」

「いいえ、誓ってはいけません。」

 それが互に嬉しそうなんだ。おれはチェッと舌打ちした。その音が聞えたかどうか、二人は何かはっとした気配けはいで、あたりを見廻し、それから顔を見合ったが……ざまあみろ……微笑が凍りついていた。尤も、寒い夜だった。

 おれの腑におちないというのは、その翌日からの南さんの一層ひどい憂欝だ。山根さんが云ったように、南さんは理想的な状態にあった筈だ。ただ、山根さんには多少不感症めいたところがあったかも知れないが、然しそれは取るに足りないことだし、南さんにしたところで、ホテルの昨夜、殆んど何にも分らなかったほどだし、とにかく、南さんの憂欝は、ちがった種類のものに相違なかった。そして南さんは、なおひどく酒を飲み、ちょっとおれの手伝いもあるにはあったが、昨夜のようなことになったのだ。

 山根さんはどんな様子をしてるだろう、それがおれの興味の中心だった。

 然るに、女中は洗濯をしており、正夫は縁側にねころんで色鉛筆で画仙紙をぬりたくっており、そして当の山根さんは、茶の間の長火鉢の前に、いつもの通りどっしりと控えて、卓袱台の上にマニキュアのセットをひろげて、爪を磨いてるところだった。

 山根さんは家事万端のやり方が至って几帳面であると共に、身だしなみも几帳面だったが、顔に剃刀をあてたことがなく、上唇に産毛みたいなうすい髭がはえてるのと、丹念に手の爪を磨くのとだけは、少し不調和だった。艶出液には無色のものを使っているとはいえ、磨いた爪はやはり磨いた爪にしか見えない。肩が頑丈で、腕が太く、手先は細そりしていて、拇指の爪だけがだだびろく、他の爪は小さく恰好がよく、そしてそれらの爪がいつもぴかぴか光っていた。四五日おきには必ずマニキュアの道具が取出された。まず金剛砂板、それから外皮除去液、艶出液、エナメル……十本の指先をすっかり仕上げてしまうには、一時間か一時間半かかるのだ。今も彼女は、平べったい拇指の爪をバッファーで丹念にこすっていた。ふだんと少しの変りもなく、ただ、寝不足らしい曇りが眼にあるきりで、そして頬の肉附のちょっとしたけんに、時折、ヒステリックなものがちらと浮んで、その度にバッファーの手先が急になるだけで、それもまたすぐゆるやかになり、その彼女全体が、十五貫の重みで落着きはらっていた。

 マニキュアはまだ始まったばかりで、長くすみそうになく、それはおれの苦手だ。でもおれは隙つぶしに、正夫を庭に誘い出した。おれが自由に対話が出来るのは正夫とだった。

 庭の隅よりに、池があった。まだ寒いせいか、緋メダカが底の方にじっとしていた。正夫はそのふちに屈んで、晴れかけてる空の雲が水にうつってるのを、じっと眺めた。それから水中をすかして見て、細い竹の先でメダカをつっついた。メダカはちょろちょろと、よろけるように泳いで、またじっと静まり返る。またつっつく。またちょろちょろと泳ぐ……。

「なぜメダカばかりなんだい。」

「メダカきり入れなかったからだよ。」

「なぜ金魚も入れなかったんだい。」

「メダカを食べちまうからだよ。メダカが一番先にはいってたんだ。」

「ずいぶん大きいのがいるね。」

「うん。大きいのはみんな兄弟で、中くらいのがみんな兄弟で、小ちゃいのがみんな兄弟だよ。」

「ほう、大勢だな。君も大勢兄弟がほしかないかい。」

「メダカみたいに大勢あったら、おかしいや。」

「一人で淋しかないかい。」

「淋しかないよ。……でも、姉さんがあるといいなあ。」

「ママがあった方がいいだろう。」

「ママは死んだんだよ。」

「でも、また次のママが出来たらいいじゃないか。」

「出来てみなけりゃ分らないや。」

「おばさんは……山根さんは……君は好きかい。」

「好きだよ。」

「あの人にママになってもらったらいいじゃないか。」

「だって、ありゃあおばさんだよ。」

「それをママにするさ。」

「ママとはちがうよ。」

「どうちがうんだい。」

「ちがうよ。ママはママ、おばさんはおばさんだ。」

「そして、パパはパパだ。」

「パパはたいへん忙しいって、おばさんが云ってたよ。だから、ゆうべ帰って来られなかったんだって……。」

「なんで忙しいんだい。」

「いろんな御用があるんだって……。そして、豪いんだそうだよ。」

「おばさんとどっちが豪いんだい。」

「パパの方が豪いさ。でも、おばさんはいい人だよ。すこし厳格かな……だけど、とてもやさしいし……いろんなことを知ってるよ。」

「いやなところはないかい。」

「よく分らないけれど……香水をつけると、匂いが強すぎるし、香水をつけていないと、匂いがうすすぎるし……へんだよ。」

「へんて、なにが。」

「ママは、いつも、なんか……やさしい匂いがしてたよ。」

「おっぱいの匂いだろう。」

「ちがうよ。僕はもうお乳なんかのまないよ。」

「パパはどんな匂いがするんだい。」

「パパには、匂いなんかないさ。」

「君には。」

「ないよ、男だもの。」

「すると、男には匂いがなくて、女にはあるのかい。」

「みんなかどうか、知らないよ。」

 正夫は不機嫌に黙りこんでしまった。そしてまたメダカをつっつき始めた。

「やっぱり、君は一人ぼっちで淋しいんだね、そして大勢兄弟のあるメダカがうらやましいんだね。」

「ちがうよ、こんな兄弟なら、僕にだって、世界中にあるよ。」

「世界中に兄弟があるのかい。」

「あるさ、兄さんも弟も、姉さんも妹も、世界中にあるよ。」

「そして、パパもママもかい。」

「……ばかだね、君は。」

 正夫に叱られて、おれは愉快になった。茶の間の方をのぞくと、山根さんはまだマニキュアをやっている。おれは諦めて、口笛をふきながら立去っていった。


     三


 その夕方、おれは南さんを千疋屋の二階に見出した。思った通りだ。いや思ってた以上に、南さんは晴れ晴れとしていた。どこでしたのか、髯を剃って、一風呂あびて、靴まできれいに磨かせているし、洋服や帽子の埃もはらってある。ホテルを出ていった時の様子とちがって、これなら、立派な紳士だ。

 南さんはコーヒーをのんでいた。暫くすると、立上ったのであるが、出て行きはしないで、奥の食堂の方へ行き、食事をはじめた。コーヒーをのんでから、初めて空腹に気づいたのだろう。なるほどよく見れば、みなりはととのえているが、まだ頭はぼんやりしてるらしい。脹れていた顔付が、こんどは肉がおちて色艶がなく、眼瞼がはれぼったく、視線が重々しく据って、それでいてじっと物を見るのでもない。晴ればれとしてるのは様子だけで、精神はどんよりとしてるらしい。

 南さんは食事をすまし、またコーヒーをのんで、そこを出た。そしてゆっくりと、じれったいほどゆっくりと歩いて行く。もうふらついてはいないが、足に力がなさそうだ。そして額には一抹の曇りがある。暫く歩いてから、ビヤホールにはいって、ジョッキーを半分ばかりのんだ。次に顔をしかめて、出ていって、またゆっくり歩きだし、こんどは裏通りの小料理にはいって、日本酒をのみだした。コースが、コーヒーから洋食からビールから日本酒と、まるであべこべだ。恐らく彼の頭も、時間を逆に辿っていたのだろう。おれは彼の真正面に両肱をついて、じっとその顔を眺めてやった。──「どうです、これを最後として、心残りなくやっつけますか……。」

 南さんは苦笑を浮べ、眼をちらと光らした。そして紙入を取出して、中を調べた。

 南さんは立上った。顔には赤みが浮きだし、瞳が輝いてきて、足どりもしっかりしていた。酒飲みの体力というものは、急に衰えたり燃えたったりして、まるで見当がつかないものだ。

 こうなると、おれも辛抱してついてきた甲斐がある。しかも、南さんの行く先が、昨夜のアカシアだ。

 おれが予言したように、西の空から明るく晴れかけていたが、もう夕方で、街は昼の明るみと照明とが相殺しあうおぼろな時刻、慌しい人通りだった。

 カフェーの中はまだ人いきれがなく、さむざむとしていた。南さんは側目もふらず、まっすぐ二階に上ってゆき、一番隅っこの、芭蕉の葉影のボックスに腰を下した。あわててやってきた顔見識りの女給二人に、ただビールをあつらえ、煙草をふかし、片手で頭を支え、芭蕉の葉をぼんやり眺めた。

昨晩ゆうべ、あれからどうなすったの。ずいぶん酔ってたわよ。」

 すり寄ってきて、膝をつつかれたのに、南さんはただ、うん……と云ったきり、溜息をついた。

「それより、実は弱ったことがあるんだ。頼まれた話があって……登美子さんいるかい。呼んでくれない。あとで飲もう。」

 二人の女給は意味ありげな目配せをしあって、素頓狂な大きな声で、登美子さあん……と叫びたてた。

 これは、おれの気に入った。やはりおれが見込んだだけはある。いやしくも私立にせよ大学教授だ、多少の地位も名誉もあろう、それが、このだらしないカフェーで、多くの知人も出入してるここで、昨夜のことがあっての今日、登美子を呼んで内緒話とは、ちょっと出来すぎてる。だが、またこれでみると、昨夜のホテルの一件なんか、あとでよく分りはしたものの、乱酔のなかのこととて、実感としては何にも残っていなかったのかも知れない。然し、そんなこたあおれの知ったことか。──やって来た登美子は、染分け地に麦の大模様をあしらったモダーン趣味の金紗の着物をき、髪はお粗末な洋髪で、眼の大きな口許のひきしまった丸顔、どこかはすっぱでそして勝気で、仰向き加減に、金属性の声をしぼって映画の主題歌でも歌わせたら似合いそうな女、それが、へんにとりすまして、無言の会釈をして、南さんと向いあって腰を下した。

「あの……お手紙あげようと思ってたところですの……。」

 探るような眼付だった。その顔を、南さんはまじまじと不思議そうに眺めた。彼女はかすかに顔色をかえたが、吐きだすようなまた媚びるような調子で──「いやな人ね……。」そしてゆっくりと、「昨晩、あんまり急なんですもの……。」

 南さんは眼をそらして、一語一語考えるように云うのだった。

「すっかり酔ってたもんで、随分無理を云ったんだろうね。」

 登美子は曖昧な微笑を浮べた。

「君に許して貰おうと思って、やって来たんだよ。酔っぱらって、めちゃくちゃになってたもんだから……。だけど、君のお蔭で、ほんとに助かった気がする。」

 どうもいけない。おれは頭をかいた。南さんは少し酔ってはいるが、これじゃあなっちゃいない。ビールをのみ──よくはいる胃袋だ──思い出したように芭蕉の葉を眺め、恥しそうに顔を伏せ、煙草の吸口をやけに噛みしめ、そして云うのだった。

「何もかも云ってしまうよ。僕はほんとに、感謝してるんだ。君の方じゃあ、なんでもなかったんだろうけれど……。」

 登美子はひどく冷淡にとりすまして、それも、どこか慴えてるのを押し隠そうとしてるせいもあるらしく、気味わるそうに南さんの様子を見ていた。

 その時、南さんはふいに両腕を押して、体操でもするような恰好をし、それからこぶしで卓子を叩いた。

「ビールだ。」

 一人になると、南さんは何か駭然として眼を見張り、やがて急に、両手に額を埋め、上目使いに眼を見据えて、静まり返った。何とも云えない憂欝な表情だった。少しの弾力性もない、泥沼みたいなものだ。そしてその憂欝が、次第に、ごく自然に、自嘲の影を帯びてきた。醜い顔だった。酔いの赤みも、血のけも、そして恐らく一緒に意識も、引潮のように引いて、死の一歩手前の停滞だ。それはおれにも珍らしく、じっと見ていたが……そこへ、登美子が戻ってきた。

「二本一緒にもってきたわ。あたしも飲むわ。」

 南さんは夢からさめたように顔をあげ、眼をしばたたき、身振りで登美子をそばに呼んで、自分のわきに坐らした。そしてビールを飲みながらの話──「僕には、打明けて云うと、一人の恋人があるんだよ。僕はその人を心から愛し、生命をかけて恋している。向うでも、僕をほんとに愛していてくれる。」──きいていておれは首を傾げた。──「ところが、僕たちは、いろんな事情で、なかなか逢えなくなってしまった。然し……いろんな事情……そんなもの、僕に何の関係があるんだ。逢おうと思えば逢えるさ。だが、そうかって、いくら恋しあった仲でも、しょっちゅう逢っていなけりゃならないてこともないだろう。いつか逢えればいいんだ。それにまた、知らないひとに逢ったほうが面白いことだって、あろうじゃないか。」──そうだそうだ……とおれは頷いてやった。──「そういうわけで、僕は可なり身をもちくずして、酒ものめば放蕩もしたものだ。それが癖になって、しじゅう出歩き、仕事もなにも手につかず、根気もなくなり、何事も面倒くさくなったが、それと一緒に、一方では、恋人のことも影がうすれていった。彼女なんかもうどうでもいいと、そんな風に思うようになった。こうなったら、もう恋人もないと同様だね。いや初めからなかったのかも知れないよ。だけど、あるにはある。あるけどない。」──何を云ってるんだ、とおれは呟いてやった。──「ところがだ、その……もう無いに等しい恋人の姿が、ひょいひょい、思いもかけない時に、僕の前に現われてくるんだ。いちばん意外な時、いちばんぼんやりしてる時……まあ云ってみれば、往来を歩いて、曲り角をまがった瞬間だとか、バスから降りて、歩道の上につっ立った間際だとか、酔っぱらって物に躓いて、ふらふらとして、電柱につかまったとたんだとか、さっき君が立っていって、すーっと冷たい風が流れた隙間だとか、そんな時に、はっきり彼女の姿が見えるんだ。どんな顔でどんな身なりだか、そんなことは分らないが、或る光みたいに、音響みたいに、香気みたいに、とにかくはっきり見える。僕は昨年、女房が死んで、その当座、女房のことをよく思いだしたものだが、そういう思い出とはまるでちがう。恋人の姿は、現在生きていて、まざまざと、そこにあるんだ。いつだったか、西に向って、坂を上っていたら、夕方のことで、夕日が真赤にさしてきたので、立上ってそれを眺めていると、坂の上に、彼女がじっと立っていた。僕が立ってる間、向うもじっと、夕日をあびて、僕の方を見ていた。一歩ふみだしたら、もう消えてしまった。」──おれは頭をかいた。──「そしてふだん、疲れた時とか、夜寝る時とか、その恋人のことを考えると、考えただけで、胸がしめつけられて、泣きたくなってくるんだ。自分が呪わしく、汚らしく、そして淋しくなって、もういてもたってもいられなくなる……。自分が悪いんだと、自分を責める。そして結局、彼女に忠実であろうと決心する。酒もやめ、煙草もひかえ、あらゆる執着をたち、自分を清く澄み返らせて、彼女に恥じないだけの者になろうと決心する。だが、その決心は、この次から……この次からと、順々に先に延されて、やはり僕は酔っ払い、ふしだらの限りをつくすんだ。」──おれは眉をひそめた。──「そういうわけで、こんどきりだということが、却ってふしだらになってしまう。そして昨晩みたいなことになる。ほんとに済まなかった。許して呉れ給え。どんな駄々をこねたか、よく覚えていないが、さんざん君を困らせたらしい。そしてあんなことになっちゃって……。僕は今朝、あのホテルのてっぺんで、全くやりきれない気持になった。君が黙って帰ってくれたのも、却ってよかった。自分が惨めになればなるほど、僕にはいいんだ。それで決心が実行出来る。自分をどぶの中にぶちこみたいくらいだ。僕は君に感謝してる。みんな許してくれ。ほんとに君に感謝してることで、許してくれ。そして……朗かに握手しよう……。そのために、今日やって来たんだ。分ってくれるだろうね。」──南さんが真剣なだけに、おれもさすがに冷やりとした。──「僕は君を……愛してはいないが、好きなんだ。あのまま別れるのも嫌だから、感謝してることをはっきり云って、何事も水に流して、気持よく握手しよう。」

 登美子は石のように固くなっていた。南さんが手を差出したのも知らん顔で、ビールをあおった。

「ほんとに感謝していらっしゃるの。」

 強い視線をちらと向けた。

「ほんとだ。」と南さんは自ら頷いた。

「あたしも、感謝していますわ。」

 氷のような言葉だった。そして彼女は立上った。

「飲みましょう。あたし、酔っちゃうわよ。日本酒もってこよう。」

 彼女は向うの女給たちに呼びかけた。

「いらっしゃいよ。南さんから、さんざんお惚気きかされちゃったわ。きいてごらんなさい、素敵よ。」

 南さんはもう、快い──錐で痒いとこを突刺されるような感じらしい──微笑を浮べていた。

 おれは頭をかいた。どうもはっきりしないんだ。いろいろなことはよく分るが、それがみんなばらばらでまとまりがつかないし、南さんの話にしたところで、恋人なんて一体何のことだか。だが、訳の分らないちぐはぐなところが、実は肝腎なんだろう。他の女給たちもやってきて賑かになり、南さんもけろりとして冗談口をききだしたし、蓄音機も先程からじゃんじゃん鳴り出し、客もふえてきた。おれも酔っ払うとしようかなと考えた。どうです、と南さんに囁いてやると、南さんはにやりと笑った。気色のわるい笑い方だ。頭の大部分が酔いしびれて真中にぽつりとさめてるところがあるような様子だ。

 それにしても、登美子はあれからちょっと出てきて、たて続けに酒をのんだきり、どこかへ行ってしまった。おれは待ちくたびれて、何をしてるのか見にいってみた。

 向うの、ボックスの奥に、ただ一人ひっこんで、彼女は鉛筆をなめていた。顔を真赧にしていた。その前の書箋をのぞきこんで、ははんとおれは思った。

 彼女は書いていた──

あなたが私に感謝していらっしゃるように、私もあなたに感謝しております。ばかばかしく感謝しております。──(そこで彼女はつかえている。おれは助言してやった。彼女は書いた。)──私はあなたから特別にお金を頂いたことはありません、昨夜も、だから、対等に感謝してよいわけです。あなたは卑怯です、悪魔みたいです。──(おれは苦笑した。だが彼女がまたつかえたので助言してやった。)──恋人があるのに、よくもたくさんの女が好きになれますのね。私も、恋人はいないけれど、みんな好きになりましょう。それとも、みんな憎んでやりましょうか。でも、御安心下さい。あなたを好きになっても、憎んでも、決してあなたにつきまといはしませんから。──(私は一人で淋しく……と彼女が書きだしたので、おれはびっくりして、それをすっかりぬりつぶさして、助言した。)──お金にもならないのに、誰がつきまとうものですか。あなたはその恋人とやらを、安心して愛しておあげなさい。私はその人の顔に、唾をひっかけてやります。

 彼女は鉛筆を置いて考えこんだ。涙ぐんでるらしい。あぶない、と思っておれはせき立てた。彼女は書箋を封筒におしこんで、封をするのも忘れて、馳けだしていった。

 南さんは二人の女給を相手に飲んでいた。そこへ登美子はとびこんだ。

「南さん、あたしを好きだと云ったでしょう。いやしくも、好きだと云ったでしょう。ほんとに云ったでしょう。」

 南さんはきょとんとして、言下に答えた。

「ああ言ったよ。」

「そんなら、あたしを抱いて頂戴。さあ、しっかり抱っこして……。」

 南さんの膝にとびのって、その胸に顔を埋めた。だが、そそっかしいにも程がある、あぶなく手紙を取落すところだった。おれはそれを手伝って、オーバーの内ポケットに納めてやった。

 彼女は飛びのいた。

「もういいわ。あたし、南さんの心臓の音をきいちゃったから。すてきよ、ラブ・ユウ、ラブ・ユウ……といってるわ。きいてごらんなさい。」

 そして力任せに一人の女給を南さんの方につきとばした。

「あぶない。……登美子さん、どうかしてんのね。」

「してるわよ。あたし嬉しいんですもの。なんだか……なんだか……へんなのよう……。」

 歌いながら、向うへ行ってしまった。

 座がちょっと白けたが、白けたまま静まって、それが却って酒の味を増したかのようだった。南さんはにこにこして、チーズや水菓子を女給達に奢ってやり、すっかり腰をおちつけてしまっていた。そして元気でもあった。ただ、いつまでもオーバーを着たままでいるところを見ると、やはりどこか身体のしんが冷えていたのだろう。

 もうこれですんだ、という気持で、おれは退屈になって、室の中を散歩してやった。登美子は三人の若い会社員のところで、はしゃいだ口を利いていた。あちらこちらに客があった。だが、おれは一体、このカフェーなるものが嫌いだ。天井にはいろんな色彩を張り渡してるくせに、方々の隅がへんに薄暗く、植木までどっさり持込んである。そしてあちこちの、金網がないだけの動物の小屋みたいなところで、男や女がひそひそと話をしている。女たちは血色がわるく皮膚は荒れ、男たちはどれもこれも、疲れたような、退屈なような、或は物欲しそうな顔をしている。第一、この緑素の少いしなびた植木がいけない。これを見てると、大抵の者は憂欝になるだろう。同じカフェーでも、見通しのきくぱっと明るい広間ならまだいい。明るくなくっても、ダンスホールなら動きがあるから面白い。おれは二階のあるホールで、手摺に両肱をついて見下すのが好きだ。

 その時、いい考えが浮んだ。おれは往来に面した窓の方へいって、下の街路を眺めた。裏通りで、人通りは少く、薄暗かったが、それでもいくらか面白い。そして眺めてるうちに、その窓口の上で、ついうとうとと居睡ってしまった。

 随分時間がたったらしい。おれは眼をさますと、もう酒にもくたぶれてる南さんのところへいって、帰りを促した。

 南さんは立上った。かなりよろけていた。そして真直に階段口のところまで行ったが、そこで立止って、ちょっと考えて、静かに室の中を見廻そうとした。その顔が少し向き返った時、横手のボックスで……「湧くは胸の血潮よ、たたえよ我が春を、」というところで歌声がやんで、ぱっと、グラスが飛んできた。瞬間に、おれが飛び上って叩き落さなかったら、南さんの頬っぺたを傷つけたかも知れない。グラスは下に落ちて砕けた。その音は小さかったが、なにかしら、異様な気配が室の中に流れた。と同時に、頓狂な笑い声がして、登美子がとんできた。酔ってふらふらしていた。それをふみしめて、眼を異様に光らしている。

「さようなら。握手しましょう。」

 南さんは云われるままに握手をして、そして平然と階段をおりていった。登美子の姿はもう見えなかった。南さんはふらりと外に出た。


     四


 南さんが家に帰りついた時は、十二時をだいぶ過ぎていた。

 彼は門柱によろけかかって、後ろ手でやたらにベルの釦を押した。暫くたって、静かに門扉が開かれた。出て来たのは、女中ではなくて、山根さんだった。南さんはびっくりしてつっ立った。

「ただ今……。すみません。」

 丁寧にお辞儀をしたひょうしに、よろよろっとして、そのままの調子で家の中にはいっていった。そして茶の間で外套をぬぎすてると、洋服の膝を折ってきちんと坐ったが、上半身はふらふらしていた。彼は眼をつぶった。

 山根さんは戸締りをして戻ってきた。──おれは眼を見張った。山根さんはふだん着ではなく、大島の着物羽織をき、万年青おもと構図の緑がかった落着いた帯をしめ、髪もきれいにとかしていた。おれは不思議に思って、家の中をかけ廻って、彼女の履物をしらべ、風呂敷をしらべ、荷物をしらべたが、外出したらしい様子はなかった。すると、南さんを待つために彼女が服装をかえたというのは、これは重大問題だ。──彼女は端然といずまいを正して、南さんにお茶をすすめていた。

「なにも、あなたが起きていなくったって……。」と云いながらも、南さんは眼をつぶったままだった。

「女中は朝が早いから時間がくれば寝かさなければなりません。」

 南さんはふらりとお辞儀をした。

「あなただって、一家の主人であるからには、帰らない時には帰らないと、うちに知らせなければいけません。」

「そう、そうです。」彼は呂律がよくまわらなかった。「うちに、電話がないのは、実に不便です。」

「前以て予定がたたないような泊り方は、どうせ、よろしい泊り方ではありません。」

「そうです。まったく、よろしい泊り方では、ない……。」

「もうたくさん……。早くお茶でもあがって、おやすみなさい。」

「おやすみ、なさい。」

 ふらりとのめりかかったのを、またもちなおした。

 山根さんは、脱ぎすててある外套をとって、縁側で打振って、次の室に持っていった。そして間もなく戻ってきた。

「何かはいっていますよ。」

 彼女は白い封筒を差出した。

「はいって、います。」

 彼女は封筒をしらべ、封がしてないのを見て、中を開いた。そして読んだ。──登美子の手紙だ。宛名も署名もないものだ。──彼女は少し蒼ざめ、次に赧くなった。

「なんですか、これは……。」

 とんと卓袱台を叩かれたので、南さんは初めて眼を開いた。

「読んでごらんなさい。」

 南さんは紙片をとって読んだ。電気にでも打たれたようにきっとなったが、そのままじっと、室の隅に眼をやって考えこんだ。それから次に、不思議そうに山根さんの姿を眺めた。そして彼があまり黙りこんでるので、山根さんはまた紙片をのぞきこんで、も一度読んだ。

「どんな人が書いたものか、大体分ります。けれど、なんですか、その恋人というのは。」

 案外落着いた調子だった。南さんはその声に耳を傾け、山根さんをまじまじと眺めた。それからまた眼をそらして、考えこんだ。そしてふいに云った。

「恋人か……なるほど、恋人、ですよ。人間でもないし、もちろん、神様でもないし、いや、やっぱり、恋人、です。そいつが、まだ、いないけれど、今に出てきます。奇蹟が、行われる……。」

 山根さんは次第に蒼ざめて、頬の肉がぴくぴく震え、眼が大きくなっていった。

「誰のことですか、それは。」

「誰でも、ありません。」

 低く呟いて、南さんはぐたりと横になってしまった。眼に一杯涙をためていた。それからふいに、卓袱台の上の紙片をひったくって、ずたずたに引裂いた。

「あんな奴に、分るもんか、畜生……、あなたにだって、分るもんか。やっぱり……僕には、恋人がいるんです。女でもない、男でもない、誰でもない……恋人だ。それが、いるんです。」

 南さんの頬には涙が流れていた。山根さんはすっかり蒼ざめて、冷くなって、それでも、爪がつやつや光ってる手にハンカチをとって、南さんの涙を拭いてやった。その涙が後から後から出てきて、しまいに止んだ頃には、なんということだろう、南さんはもううとうと眠りかけていた。その寝顔を、山根さんはじっと見ていたが、大きく溜息をついて、それから南さんをむりやりに起し、二階の寝室につれていった。

 おれはそこに残って頭をかいた。──どうやらおれの童話は失敗らしい。おかしな人たちばかりだ。あんな恋人ってあるものか。それに、山根さんの着換えは更に訳が分らない。然し、まだどうなるか分ったものじゃない。おれには少し腑におちないことが多すぎるんだが……まあいいや。

 おれは正夫の寝てる奥の室に行ってみた。

 正夫はすやすや眠っていた。おれがその額に接吻してやると、少しきつすぎたか、正夫はぱっちり眼を開いた。

「どうして眼をさますんだい。」

「なにか、へんなものが来たんだよ。」

「夢だろう。」

「夢なんか、僕はみないよ。」

「なぜだい。」

「知らないや。よく眠るからだろう。」

「夢をみたかないかい。」

「みたかないよ。」

「なぜ。」

「みたってつまんないよ。眼をさますと、すぐに消えちゃうよ。」

「眼をさましても消えないようなものが、何かあるかい。」

「あるじゃないか。いっぱいあるさ。」

「うん、そりゃああるよ。だけど、パパだって、おばさんだって、たくさん夢をみてるんだろう。」

「そんなこと、僕は知らないや。みてるとしたら、よく眠れないからだろう。」

「そうだなあ、よく眠れないのかも知れないや。そして君は、あまりよく眠りすぎるよ。」

「眠りすぎたって、いいじゃないか。」

「一人で先に眠るのは、淋しかないかい。」

「淋しいもんか。だけど、みんな先に眠って、一人であとから眠るのは、淋しいよ。」

「それじゃあ、死ぬのは。」

「死ぬのはちがうさ。」

「なぜだい。」

「死んじゃったら、もうおしまいだ。眼がさめやしないよ。」

「だってさ、生き返ることだってあるだろう。」

「生き返ったら、ほんとに死んだんじゃないんだ。」

「そんなら、地獄とか、極楽とか、天国とか、よみの国とか、あんなものはどうなるんだい。」

「嘘っぱちさ。」

「それでいいのかい。」

「いいじゃないか。生きてる間だけ生きてりゃいいんだ。ばかだな君は、いつまで生きてたいんだい。」

 こいつは、全くおれの手におえない。だがおれは正夫が好きなんだ。そしても一度その額に接吻してやった。

 そこへ、山根さんが考えこみながらやってきた。南さんを寝かしてきたんだろう。彼女は床にはいったが、いつまでも眼をあいていた。夜通し何か考えこむつもりかも知れない。おれはばかばかしくなって、もう寝入ってる正夫のそばに、眠った。

底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3)」未来社

   1966(昭和41)年810日第1刷発行

初出:「中央公論」

   1936(昭和11)年4

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2008年416日作成

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