肉体
豊島与志雄



「なんだか……憂欝そうですね。」

 さりげなく云われたそういう言葉に、私はふっと、白けきった気持になって、酒の酔もさめて、自分の顔付が頭の中に映ってくることがあります……。私が鏡を見るのは、髯をそる時、髪をなでつける時、まあそんなものですが、それよりももっとはっきりした鏡が頭の中にあって、それに自分の顔付が映ってきます。──頬は酒の酔に赤くほてっているのに、額に薄暗い影がかかっていて、眼尻にいくつも小皺がより、厚い唇がだらしなく開き、そして眼付が、物珍らしそうにきょろきょろあたりを見廻したり、またぼんやり曇ったりします。その全体が……そう……やはり憂欝そうですね。……以前はこんなじゃありませんでした。ついこの頃のことです。

 負けた……一言で云えばそういう気持です。しかも、それがばかげていて、どうもやりきれません。

 はじめのうちは、私は気にもとめませんでした。万事がすらすらと運んで、聊か得意だったほどです。

 たしか……同業者仲間の宴会で、ぱっと、はでな一座……というほどじゃありませんが、まあ気持はそうで、飲む、食う、歌う……じゃんじゃんやっていますなかに、ちょっと、私の眼についた妓がいました。二十一二の、丁度年頃で、背は低いが──私だってこの通り背は低い方ですからね──何の屈託もなさそうな、朗かな、よく笑う女で、それでいて何だかおっとりとしています。額のせまい、丸顔のたちで、美しくはありませんが、歯がきれいで、そして何よりも、眼が……黒目のうわずった、見つめると近視か乱視めいた愛嬌をつくって、変にあやしい色をおびてきます……。人間、うっかりしていますと、妙なところに心を惹かれることがあるものですよ。

 それが、忘れかねる……というほどじゃあありませんでしたが、つい、その、足が向きましてね、三度四度と呼んでるうちに、気持も親しくなるし、ただ逢ってるだけじゃあつまらなくなり、それに何よりも、これ以上親しくなったらもうあがきがとれなくなる、今が丁度潮時だと、そんな気持が一番多く働いて、ある時、酔ったまぎれに、そこの仲居にそれとなく探りを入れてみると、大丈夫ですよ、とは云うものの、本人の気も引いてみたくなりましてね……。

「ああ酔っちゃった、今晩泊っていってもいいかしら……。」とまるで他人事ひとごとのようでした。

「ええ、いいわ。」

 至極簡単に、あっけなく片附けられてしまったものです。そしてその晩、万事が、やはり、至極簡単にあっけなく……。

 妙なもんでして、こっちの気をもたせるような、何かこう少しでも愛想を示されたら、私もそれきり忘れたかも知れませんが、あまりあっさりとやられたものですから、却って心残りがして、それがきっかけで、度々通うようになりました。そして度重るにつれて、私の心は、ぬるま湯にでもつかるように、彼女に囚われていきました。全く、ぬるま湯でした。彼女は何一つ私に逆らうことがなく、何一つ私の気持にさわることがありません。二人はほんとに気が合ってるんだな、とそう思うようになりましたよ。

 ところで、いくら、質屋の若旦那……という年配でもありませんが、親父がまだ元気で、店の方のことは大体見ていてくれますし、私は責任の軽い身で、親父の代りに、交際つきあいの宴会に出たり、取引先を廻ったりするだけで、隙でぶらぶらしていて、学生時代から好きだった「芸術」をなまかじりしたり、文学者や画家たちのお伴をして飲み廻ったり、尤も、そんな時には金は私が払うことが多かったのですが、とにかく、年にも似合わないよい身分の若旦那でしたが、それでも、さすがに考えましたね。こんな風に、とき弥と無駄な金を使ってるよりは、いっそ彼女に一軒家をもたしたら……。それに、文学者や画家なんていう者は、無遠慮なのが多くて、私ととき弥との間を知っておりながら、酔っ払うと、彼女に戯れかかったりして、それをまた彼女が平気で笑っているのが、私には心外でもありましたし、その上、彼女は丸抱えの身で、堅くしているわけでもないことが、よく分っていました。

「どうだろうね、さっぱり足を洗って、家でも一軒もつようにしては……。」

「ええ、いいわ。」

 それが当然だとでも云うように、至極あっさりしています。なお仕合せなことには、彼女がいくらか面倒をみてやっていた郷里名古屋の母と妹とが、近頃文房具屋をはじめて、それが案外よくいって、その方の心配が一切なくなったところでした。

 少々無謀のようではありましたが、地所と家作との一部を、親父に内緒で抵当に入れて、少しまとまった金を拵えました。そして間口二間ほどの小さな商店を譲り受け、多少手を入れ、御菓子化粧品の店にして、彼女を住せました。親元身請ということにして、そっと落籍さしたのです。そして彼女は、とき弥から本名のトキエとなって、新らしい店の女主人となりました。一階の庇の上、二階の窓の前に、「御菓子化粧品」という大きなペンキ文字の看板をかかげ、店にはいい加減に品物を並べ、御菓子にしても化粧品にしても、手のかからない小綺麗なものばかりで、小女を一人おき、二階は八畳に六畳で、そこが彼女の室でした。すぐ近くに魚屋もあり酒屋もあって、いつ私が行っても不自由しませんでしたよ。

 新らしい生活のなかでも、トキエは何の窮屈も不安も感じないらしく、ただぼんやり微笑んでいました。朝は遅く、隣近所の店がすっかり片附いてしまった時分に、漸く戸を開いて、それからゆっくりと、十時頃までかかって化粧品の壜などを置き並べ、夜は遅く、人通りもなくなりかけた十一時すぎに、店の戸をしめるのでした。髪結にだけは、元いた土地まで出かけて、洋髪や丸髷にいって来ましたが、それだけが殆んど仕事で、もう長唄の稽古もやめてしまいました。

「一日、何をして暮してるの。」

「だって、いろいろ用があるわよ。」

 そして安らかな笑顔をしていました。その同じ笑顔で、云いました。

「あたし……なんだか、身体の調子が変だわ。」

 すすめて、医者にみせますと、引越してきてから一ヶ月日に、妊娠したらしいんです。それでも、別段驚きもせず、心配もせず、当然のことだとしてるようでした。そしてそのことがはっきりしてくると、やはり女ですね。いつどこで覚えたのか、毛糸の球なんか膝のあたりにころがして、気長に、赤ん坊の頭巾や胴着などを編み初めました。無事に月がたって、病院をひどくきらったのがただ一つの自己主張で、そしてその二階で弱々しい女の児をうみました。まるで、妊娠してお産をするために家を一軒もったようなものです。

 その間、私はいろいろ気をもみました。女の腹の中に生育していくものに対する不安な恐れ、それは男が誰でも感ずる事柄で、茲に改めて云うには及びますまい。それから次に、生れてくる子供の戸籍のことでひどく頭をなやましました。母親は内々私の素行を感づいたかも知れませんが、それかって、年とってる両親に今更子供のことも頼みかねますし、私としてはトキエと結婚する気なんか少しもなかったのです。考えあぐんでは、彼女の眼にまでつくようになったらしいんです……。尋ねられて、私はそのことを打明けました。

「いいわ、あたしがいいようにしとくから……。」

 彼女は事もなげに云って、微笑みました。そして名古屋の母とどういう風に話をつけたものか、子供は彼女の籍に入れることにきまりました。それについて、怨みがましいことも云わないで、後々の約束もなにも持出しませんでした。

 ──一体、どうするつもりかしら?

 そういう疑念が、私の胸に起りました。いえ、それは前からあったのですが、その頃から初めてはっきりした形になってきた、という方が本当でしょう。

 皺のよった赤いぶよぶよした、そして頭の毛だけが妙にこい……その、赤ん坊を、私は不思議そうに眺めました。不思議なだけじゃなく、不気味な気さえしました。がそれは、生れた時弱々しかったに拘らず、大して病気もせずに、育っていきました。母親の乳がよいのだそうでした。それでも彼女はのんきで、髪結に行く時なんか、子供は小女に任せたきりで、牛乳を一本買っておいて、ゆっくり遊んでくるのでした。前よりも、顔の皮膚などつややかになったようでした。

 子供が一人ふえたきりの、相変らずの日々が続いていきます。トキエは遅く起き上って、ぼんやり微笑んで、夢想して……いや、夢想さえもしていないようです。ごくたまに、以前懇意だった芸者が二三人、子供を見に来るくらいで、殆んど訪れてくる知人もなく、こちらから訪れる知人もありません。子供はよく眠っています。店の方は名ばかりで、お菓子にせよ化粧品にせよ、一日十円ほどの売上がある時など、眼を見張ってびっくりしてるような始末です。夕方など、彼女は店先に立って、顔見知りの近所の人たちと、一寸挨拶とも噂話ともつかない言葉を交えることもありますが、すぐに引込んで、店の奥へよりも、二階の室にあがってしまいます。私が行くと、前日に来たばかりの時でも、五六日遠退いた時でも、同じような笑顔と落着いた態度で迎えます。

 ──一体、これから、どうするつもりかしら?

 それが、次第に私の不安を大きくしていきました。

 友人の画家の一人……大変優れた天分を持っていますが、いつもひどく貧乏で、余り困ると、私の親父のところに絵を持ってきて、決して質入れするんじゃあない、どうせ受出せないんだから、質流れのつもりで、それだけ金をかしてくれ、その代り、確かに僕自身の作品だよ、とそんなことを云う愉快な男でしたが、それが或る時、どこから聞いたか、私とトキエとの間に赤ん坊があることを知って、その赤ん坊の寝顔をスケッチさしてくれないかと頼みました。私は当惑しましたよ。第一、トキエのことばかりでなく、赤ん坊のことなんか、誰にも秘密にしておいたのですし、その隠れ家に友人を案内するなんか、とんでもないと思いました。然し小野君は至って真面目で真剣です。どこに行っても、赤ん坊の寝顔のスケッチは、何か迷信か、それとも気持の上でか、嫌がられて許して貰えない。君のところは、どうせ隠し児だろうから、逆に厄払いという意味で、ひとつ自分に傑作を拵えさしてくれ……。そういってむりに頼むものですから、母親にきいてみよう、とまあ一時遁れをしましたが、後で、トキエに話してみますと……。

「ええ、いいわ。」

 いつもの通り、簡単明瞭です。一体この女は……と思って、その顔を眺めますと、あの黒目のうわずった妖しい眼付で、何の屈託もなさそうに笑っています。そこで私も、今迄気にやんでいたのがばかばかしくなって、小野君に傑作でも書いて貰った方が却ってこの児のためにいいかも知れない……などと考えるようになりました。

 私が小野君を連れてゆくと、トキエは、別に興味も示さず、また気後れも見せず、以前お座敷での時と同じように、平然と迎えました。そして二階の、日差しの悪い室で、すやすや眠ってる赤ん坊の顔を、小野君は大きな絵具箱を開いて、描き初めました……。

 一体、絵が書かれてるところを見ると、私はいつも不思議な気がするんですが……物の形が次第にととのってくるというのではなく、しっかりした腕前の人であればあるほど、ぽつりぽつりとばらまかれた色や線が、ひとりでに生き上って、ひとりでに動きだして、その物になってゆく……そんな感じを受けるんです。小野君の画布の上には、全体が赤の色調をもった、そして所々淡く紫がかった、いろんな線や斑点がばらまかれて、それが今にも一人で動きだして、何かになろうとしています……。見ると、赤ん坊はすやすや眠っていて、真白な着物を着、枕も布団も真赤なもので……丁度人形のようでした。小野君は描くよりもじっと眺める方が多くて、やがて絵筆をすてて大きく息をつきました。

「どうも……素敵だなあ……むずかしい。」

 そして赤ん坊の方に歩み寄って、大きな指先で、頬辺をつっつきました。赤ん坊の顔は、くしゃくしゃになって、それから波が消えるように静まり返って、大きな黒い眼をぱっちり開きました。

「あら、起っきしたの。」

 トキエが笑いかけて、小野君の絵のことなんかお構いなしに、抱き上げてしまいました。そして真赤な布団の代りに、やはり真赤なちゃんちゃんこにくるんで、乳を含ませているのを、小野君も私も、ぼんやり眺めました。

「だめだなあ……奥さんは。」

「だって、あまり長いんですもの。……ねえ、可哀そうね。」

 子供にそう呼びかけておいて、彼女は笑っていました。

 その日はそのままきりあげて、翌日も一度小野君はやって来ました。私が行った時は、もう絵は終りかけていました。小野君のうちには、前日とちがって、熱っぽい真剣さが見えていました。眼付が鋭く……恐らく前日来何か頭の中で模索し続けたのでしょう……顔付もとげとげしているようでした。最後に筆を投じて、じっと画面を見つめて、それから不満そうに口を尖らしました。画面には荒っぽいタッチで、子供の顔だけが書かれていて、布団やなんかほんの輪廓だけでした。その顔は、赤ん坊にはあまり似ていませんでしたが、何かこう、頬のあたりに生きて動いてるものがあって、殆んど筆をつけてない眼瞼のあたりに、空虚な点が残されています……。私にも、未完成だなという気がしました。

 小野君はもう赤ん坊の方は振向きもしませんでした。それでも、トキエに引止められると、辞退しないで、私と共にビールのコップを取上げました。そしていい加減飲んでから、私は、絵具箱とスケッチ板の大きな包みをさげてる小野君を引っぱって、夕飯をくいに出かけ、また酒をのみました。何だか変に気懸りなものがあって、酔えませんでした。小野君もなんだかむっつりしています……。

 その晩、小野君と別れて、私はミヨ子のために、初めて……全く初めて、玩具店へよりました。そして小さな彼女へ、木やセルロイドの玩具を幾つか買い求めました。

 ミヨ子は眠っていました。トキエは私ににっこり笑ってみせて、玩具を子供の枕頭に並べました。一つ一つ取上げては、そっと打振ってみたり、あちこち眺めたりして、まるで自分が子供のようで、そしてそれを子供の枕頭に並べるのです。その姿を、私は久しぶりで美しいと思いました。白い歯なみが可愛く、黒目のうわずった眼付が変に心を惹くのです。だが……そうです……心を惹くだけで、ひどく私自身とは縁遠いものに思われ、そしてそう思えば思うほど、そこに、赤い布団にくるまってすやすや眠ってる赤ん坊が、私の胸の奥に触れてきて、哀切な感情をかきたてます。戸籍上父のない子供だとか、世間に隠されて生れたのだとか、そういう事柄ではなく、先刻小野君の画面で見たように、魂の窓とも云うべき眼のあたりが空虚な、そして柔かな生々とした温い頬の、なんだか不具的な存在、可哀そうな存在……そういう風に胸に触れてくるんです。私はその方ににじり寄って、頭をなでたり、頬をつっついたりして、それから、ぱっちり見開いた眼の中を……澄みきった闇がたたえてるような深い中を……覗きこみ、その顔がくしゃくしゃになって泣き出しそうにすると、酒にほてった自分の顔をくっつけて、乳くさい匂いを貪るようにかぎました。

 それからは、私はやって来る度に、何か玩具を必ず買って来ました。ミヨ子はまだ生れて数ヶ月しかたたず、玩具が分るかどうか、ただその色彩の反映を黒い眼にうつすきりでしたが、それでも、足をぴんぴんさして、訳の分らない声を立てました。私はそれを抱きとって、天井の低い二階の室の中を、あきずに歩き廻ったりしました。トキエは、私のそうした変化を訝りもせず、凡てを落付いた笑顔で受け容れていました。

 そしてるうち、或る晩、小野君に出逢うと、少し酒の勢をかりてから彼は、それでも云いにくそうに、も一つ頼みがあるんだがと、躊躇しいしい云うんです。

「どうも……赤ん坊はまだ、僕の力ではだめだ……お母さんに抱かれてるところなら、何とかなりそうだが……奥さんに聞いて貰えないかしら。」

 私は長い間黙っていました。奥さんという言葉の変な響きなどは、すぐに消えてしまったほど、他のことに気を奪われてるのでした。

「そりゃあ、聞くまでもなく、いいというにきまってるが……。」

 ええ、いいわ……そういう彼女の調子までが、はっきり私の耳に聞えていました。

「例えば……かりに、君が一寸彼女に云い寄ったとしても、屹度、ええいいわ……と云うにちがいない……。」

 小野君は呆気にとられて、それから、次には嫌悪の表情を浮べました。

「ばか……そんな……。」

 全く、そんなことでは、実はなかったのです。もう別れようか、と私が云うとしたら、ええいいわ、と彼女は答えるでしょうし、一緒に死のうか、と私が云うとしたら、ええいいわ、と彼女は答えるでしょうし、而も、理由もきかず、涙も流さないでしょう……そうして彼女に対して、私は嫉妬に似た苛立ちを覚えていたのです。たとえ子供を抱かしたところで、彼女にはしっくりした母性なんか出てこないでしょう……。

 私の説明をきくと、小野君は、怒った眼付で私を見据えました。

「そんなら、君達はどういう気持で生きているんだ。芸者をやめさして、家を一軒もたして、子供まで拵えて、そしてそんな……まるで……。」

 そうです、まるで動物みたいです。愛とか……生活とか……そんなことは考えもしませんでした。非難は私に向けられるのが当然かも知れません。けれど、私は彼女を愛してはいました。彼女の出産前後も、殆んど貞節を守り、いつまでも、彼女に倦きるということはなさそうでした。そしてまた、彼女の生活についてこそ、これからどうするつもりかなどと、不安をも覚えたのです。ただ、それらのことを、はっきり、意識的に、指導的に、考えなかっただけのことです。いつでも、どうにでもなるだけの、時間と金と、安楽な地位とがあったのが、いけないのでしょうか。そうだ……と小野君は断言します。がそれよりも、私が驚いたことには、彼は何か腹を立てていました。一体芸術家なんてものは、得手勝手な、不道徳な、享楽的なものだと、私は思っていたのですが、その時、小野君の激しい一図な気性にふれて、私は眼をみはりました。君はばかだ、君達は生きてるも死んでるも同じことだ……なんかと彼は怒鳴りたてます。そうかと思うと、また調子が変って、自分は以前或る女と恋しあったが、相手がひどく理知的で、自意識が強く、愛だの芸術だの理想だの……人生の目的だの、そんな議論ばかり繰返してるうちに、とうとう別れてしまったと、変に感傷的に涙ぐんでさえいます。要するに、二人とも酔っていました。高価な苦しみを苦しまなければいけない、高価な戦を戦わなければいけない……そんなことを叫んだり、互に小突きあったり、握手をしあったりして、私もひとっぱし芸術家気質になりすまして……もうぬるま湯のような生活はすてようと私は云い、あの女を殴りつけ魂を呼びさましてやると彼は云い、よし行こうというので、出かけましたが、少し歩いてるうちに、こんな時は、街に落ちてる天使でも拾った方がいい、思いきって泥濘の中を覗きこむ時、本当に清純な反抗心が起るものだと、その議論になって、そのうちいつしか二人別れ別れになり、私は家に戻ってしまいました。

 翌日、宿酔の気味で、私はぼんやりしていました。鼻のつんと高い口許のしまった、インテリめいた女給の顔が、思いがけなく頭に浮んできたり、心の底に、ちらちらと、捉え難い火花が閃めいたり、もう息をするのも嫌なような、深い憂愁に沈んだり……なんだか自分で自分が分らなくなっていますと、午すぎに、小野さんから電話です。はっとして、急いで立っていきますと、電話の主はトキエで、子供が病気だからすぐに来てくれと……。

 行ってみると、トキエはいつもの落着いた様子で、すみませんと、笑顔をしています。だが、子供は九度以上の高熱で、かっとほてって、そして水分の乏しいようなしなび方をして、昏々と眠り、時々手足の筋肉を、ぴくりぴくりさしています。前々日の晩から熱が出て、乳ものまず、肺炎らしいとのことでした。私はそれを、胸にぎゅっと抱きしめたい衝動にかられました。胸に裸のまま抱きしめて、この自分の身体でもって、あらゆるものから防護してやりたいのです……。

 夕方、医者がまた来まして、危険な状態とのことでした。私は万一を慮って、小野君に速達便を出し、手筈をきめておいて、家にかけ戻り、小野君が伊豆の方に絵を書きに行くからついて行くことにした……二三日、という風にとりつくろいました。なさけない半ば捨鉢な気持が動いていました。

 夜半に、子供は乳を求めだしました。一口二口吸っては、またぐったり眠り、暫くするとまた乳を求めます。そういうことが、二時間ばかり繰返されて、あとはもう死のように静かな眠りとなりました。私は始終氷をかきに立ち働きました。トキエは子供の側に、膝をくずして坐っていました……乳をやるために、そしてその顔を見守るために。全く、それだけが彼女の仕事のようでした。その泰然とした、そして滑かな美しい肉体のなかに、どういう考えがあるか、私は探ろうとしましたが、何にも掴めませんでした。彼女は時々、心持ち眉をひそめた眼付を私の方に向けましたが、私達は別に話すべきものも持っていませんでした。時折、表を自動車が通って、その響きが室に伝わる度に、私は子供の寝息をうかがい、そして何ということなしに立上ったりしました。窓からすかしてみると、深い霧の夜で、空気には絹針のような秋の冷えが感ぜられます。もう夜明け近いのでしょう。私はトキエを少し眠らせようとしましたが、彼女はうなずいたきりで、別に眠たそうな様子もなく、静に坐りつづけています。私はうとうとしたり、はっと眼をさましたり、何かに驚いて飛び上る心地になったりしました。子供の唇にはもう血の気が見えませんでした。

 翌朝、小野君が来てくれた時には、私はただ奇蹟を待つだけのような気持になっていました。

 その夕方、子供は静に……消えるように、死んでいきました。ミヨ子という名ばかりで、何かを……恐らく混沌としたものを、見たり聞いたりしただけで、意味のある言葉は一言も云わずに消えてしまったのです……。そしてその夜、小野君が遠慮して帰っていってから、トキエは、子供の真赤な布団の中にすべりこんで、その死体をだいて横になりました。私は涙ぐみながら、怒って、叱ってやりました。そんなことをするものではない、死体を抱きかかえるくらいなら、病気にならないように、用心してやるべきだったと……。

「だって、お医者様も、仕方がないって云っていらしたわ。あたし、なんだか、この子は初めから寿命がないような気がして……やっぱりそうだったのね。小さい時、お祖母さんが御病気の時に、あたし聞いたことがあるわ、世の中には大きな潮の流れみたいなものがあって、むりに逆らおうとすると、却って溺れるばかりだって……。お祖母さんは、ほんとにあたしを可愛がってくれたのよ……。」

 それが、二十を二つ三つ越したばかりの、肌のなめらかな小柄な若い彼女と、しっくり調和してるのでした。そういう若さがあるものです。而も彼女はもう母親で、死んだ子供の身体を抱いて、その冷さも感じないらしく、ぼんやり夢想しています。天井が低く、薄暗く、窓硝子はよごれ、障子や襖の紙は古ぼけていて、その中に、ぱっと真赤な布団に、死体を抱いて横になってる若い彼女……そうした室の中を、私は惘然と見廻して、何かしら大きな声で、泣くか怒鳴るかしたい気持に駆られました。階下では、小女がことことと、何か片附物をしていました。

 坊さんの仏事を一通り辛棒し、万事は葬儀屋に頼んで、それから小野君を交えて三人でミヨ子を骨にしました。初七日がすむと、トキエは子供の遺骨を葬りに、久しぶりに母へも逢いに、名古屋へ行ってくることになりました。私に一緒に来てほしいような様子も見せませんでした。不在中は、丁度いい機会だといって、小野君が泊りに来てくれました。

 トキエの帰郷は十日ばかりの予定でしたが、どうしたのか、五日ほどで帰ってきました。旅の疲れもなく、前よりは、晴れやかに色艶もよくなってるようでした。名物だという堅いおこしなんかを持ってきました。

「つまんなかったわ。お母さんもすっかり年とってしまって……あたしも、なんだかよそよそしい気持がして……。」

 私達二人のこと、子供のことなどは、何とも云いません。

「そんなこと、分ってるじゃないの。」

 前に、芸者に出ていた時と、同じような笑い方です。

 私は、とっつき場を失ったような気持でした。そしてぽつりと、亡くなったミヨ子のことが、宙に浮いて、頭にひっかかってきました。引越しの相談をすると、例の通り、ええいいわ……なんです。周旋屋にたのんで、少し遠くに煙草化粧品の小さな店を──前のところより少し静かな小綺麗な街路で──見付けて、そこに移り、前の家には、周旋屋の手で、譲店の大きな紙がはられました。

「また芸者にでも出たくはない?」

「そうね……でも、あたしたち、これきりになるの、なんだか淋しいわ。」

 なんだか淋しい……言葉が足りないのか、或はそれだけの気持なのか、私には分りませんでした。そして私が長唄の稽古をすすめると、すぐにその通りにしました。小女が引続いていてくれました。煙草と化粧品ですから、正札づきで、たまに客があっても不自由しません。そしてトキエは、髪結の上に長唄と、外出することが多くなり、なお、私がしきりに、映画や芝居や、銀座あたりにまでも連れ出しました。彼女は次第に浮々と晴れやかになってきました。だが……私の方は、次第に沈んできました。彼女を連れ出すことが多いよりもなお一層、酒をのむことが多くなりました。のんきな晴々とした彼女の側に、引張り廻されるようにして、憂欝な様子でくっついてる私の姿が、幾人もの知人の目に止ったものです。

 そしてずるずる日がたって、半年ばかりすると、彼女はまた、身体の異状を訴えました。やはり妊娠でした。

「やっぱり、そうですって……。」

 おしろいの濃い頬に赤みがさして、例の妖しい眼付でにっこり笑っています……。

 私は驚嘆に似た気持で、その事実を受け容れました。一度悲痛の底をくぐってきた後の、胎の据った驚嘆とでも云いましょうか。然し、私は悲痛なんか感じたことはないのです。ミヨ子の死とは遊離した別個のものでした。其他のことは何が悲痛なもんですか、驚嘆なもんですか。尤も、妊娠を避けるような方法も取ってはいましたが、のんきな彼女とよく酔払ってる私とのことで、そしてまた至極あっさりしたもので、考えてみればばかげた話です。それでも……悲痛をくぐった後の驚嘆と……まあそういったこの感情は、実際不思議なものでした。

 ──一体、どうするつもりかしら?

 その疑問は、もう今となっては彼女には歯も立ちそうにありません。ただ、私自身にはね返ってくるばかりです。いや初めからそれは、私自身に向って発せられるべきものだったかも知れません。

 相変らず彼女は、店の方は……元来が申し訳だけのものではありましたが……投げやりで、朝は遅く、夜も遅く、始終お化粧をしていてにこやかで、以前よりは肌も細やかになり、黒目のうわずった眼付で愛嬌をおび、のんきに髪結や長唄の稽古に出かけ、私がいかに酔払って夜遅くやって来ようと、やきもちらしい言葉一つ出さず、誘えばどこへでもすぐについて来、自分の意見なんか少しもないらしく、慾求さえもないらしく、そして再び、毛糸の球なんか膝のあたりにころがして……妊娠さえも彼女にとっては「ええいいわ」の一つの現われに過ぎなかったようです。芸妓廃業、世帯、出産、子供の死亡、移転、妊娠……そうした、私から考えれば彼女にとっての重大事らしい事柄も、一切を平気で受け容れ通りすぎてるのでした。そしていつも、若々しくにこやかにしていました。

 驚嘆から、次には、負けた……その一言でつくせる気持です。もし自然というものがあるなら、彼女はそのいい見本でしょう。こんな時、ふっと、死にたくなる気持の起ることが、ないものでしょうか。私がもし一言云い出せば、彼女は即座に、ええいいわ、と云うにきまっています。そしたらもう、取返しのつかないことになりそうです……。

 私は次第に憂欝になって、酒をのむことが益々多くなりました。友人たちの軽蔑の眼を……気のせいか……感ずることが多く、それよりも、小野君の怒ったような眼付が、更に私の胸を刺しました。

「この頃はどうだい?」

 そう何気なく尋ねられても、私は苦笑を返すだけでした。そしていつぞや彼と喧嘩腰で云いあった時の言葉などが、ちらちら頭の底に浮んできました。そうだ……。私はいろいろなことで、親父に内緒で借財もあるし、この際何か仕事を見つけて働こう……かしら。仕事……それ自身はたとえ無意味なものであっても、それは私の生活に或る目的を与えてくれるかも知れない。そしたら彼女の……肉体にも、何か……何か……精神的なものを注ぎこむことが出来るかも知れない……。そんなことを頭の中で、夢のように反芻してみましたが……然し、少しも熱意がもてませんでした。酔払いのたわごとと同じでした。

「いやに沈んでるね……ばかだな、も一度子供でも拵えるさ。」

 本当の気持で云ったのでしょうが、私の胸にぐっときました。

「そしたら、また絵をかいてくれるかね。」

 小野君は口をつぐんで、妙に眉をしかめて私の顔を眺めました。不思議にも、私は彼を殴りつけてやりたくなり、敵意に満ちた気持で酒をあおりました。そして彼を引っぱっていって、或る待合にあがりこみ、自動車でトキエを迎えにやっておいて、芸者を二三人よんで騒ぎました。酔ったあげくとは云え、後で考えると、ちょっと冷汗ものです……。

 トキエは、世帯をもってから殆んどつけなかったはでな着物に、縫紋の羽織なんかひっかけて、にっこり笑ってはいって来ました。そして私の側にぴたりと坐ると、芸者たちに鷹揚な軽い会釈をして、小野君に、今晩はと……それだけが瑕で……口先だけの挨拶をしました。いつにないその見上げた態度に、私は少しぼんやりしました。小野君は呆気にとられたように、黙ってしまいましたが、トキエから銚子を差出されると、てれたように頭をかいて、それからまた飲み初めました。トキエは嬉しそうな様子でした。暫くたつと、三味線をかりて弾いたりしました。私は白けた気持になって、酒の酔だけが身内に残って、脇息を横倒しに枕にして寝そべっていましたが……どうした調子でか、トキエが眼に涙をためて、芸者に酌をさしてぐいぐい飲みだしたのが、眼につきました。子供のこと……ミヨ子のことと、彼女の腹の中にある者のこととが、頭にきて、私は飛び起きてその杯を奪いました。箸で小皿の縁を叩いて朦朧と歌っていた小野君が、不公平だとか専横だとか云い出したのを耳にも入れずに、私はじっと彼女を見ますと、彼女もそのうるんだ眼で私を見返しました。どうも、昔初めて逢った時のような……そんなことは覚えてはいませんが……親しみの薄い眼付です。そうです。私は妙に淋しいんでした。酒をぐいぐいあおって、三味線をじゃんじゃん弾かして、そして立上りました。何かかんかぐずってる小野君を置いて、さっさと帰っていきました。自動車の中で、トキエの手を握っていると、涙ぐましい気持になって、そして遠くで、ぽつりと、真剣な気持が動いてました。……そして彼女の室に戻ると、私はその温い肉体にすがりついていきました。甘ったれたようなばかげた気持でしたが、やはり遠くに、何か真剣なものがありました……。彼女はいつもの彼女に返って、落着いた微笑を浮べていました。

「どうかなすったの。」

 それきりで、私の返事も待たずに、彼女はまた笑顔をしました。

 彼女は仕合せかどうか、こんな暮し方をしていて不安ではないか……私はそう尋ねようとしましたが、彼女の返事が分りきってるので、やめました。仕合せだと云うにちがいありません。その分りきってることが……それだけでいいのかと、自分のことになって、不安になるのです。誰かがんと殴り倒してくれる者があったら……私を?……彼女を?……いや、それよりも、私達はもう別れられなくなっているのを、私は現実にそして憂欝に感じていました……。一体私は何を求めていたのでしょう……。

底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3)」未来社

   1966(昭和41)年810日第1刷発行

初出:「文芸」

   1935(昭和10)年10

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2008年59日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。