別れの辞
豊島与志雄



     一


 あの頃島村の心は荒れていた、と今になっても多くの人はいうけれど、私はそれを信じない。心の荒れた男が、極度の侮蔑の色を眼に浮かべるということは、あり得べからざることだ。冴えた精神からでなければ、ああいう閃めきは迸り出ない。

 尤も、島村については、いろいろ芳しからぬ噂が私達の間に伝わっていた。私自身も、彼について漠然とした危懼を感じていた。当時私はいろんな用件で──それも彼のための用件で──急に彼に逢わなければならないようなことが度々起ったので、彼の行動範囲が大体分ったのであるが、たしかに、彼にはどこか調子が狂ってるようなところがあった。元来、飲酒家というものは、時とすると幾日も家に籠って外出しないことがあるし、時とすると毎晩のように出歩いて酒を飲み廻ることがあるのだが、後者の場合にも、その行く先々……足跡が、大凡きまっているものである。放し飼いにされている犬でさえ、うろつき廻る道筋は大抵きまっている。ところがあの頃、島村の飲み歩く筋道が目立って変ってきて、思いも寄らないところに腰を落付けていたり、また全然行先が分らなかったりすることがあった。馴染の家には不義理が重ってるという殊勝な遠慮は多少あったかも知れないが、然し酒飲みの足取りというものは、そんなことにさほど気兼ねするものではないし、島村はまだそれほど窮迫してもいなかった筈だ。つまり、島村は従来の軌道からそれて、私達の間から姿を消すことがあって、それは酔っ払いの性癖に反するものであり、彼の生活に何か異変があることを暗示するものであった。だから、あの晩の奇怪な行為も突発的なものではない、と私は思うのである。

 その晩、私達は「笹本」で飲んでいた。これは、一寸した小料理屋で、表よりに、長卓に腰掛の並んでる土間があり、奥に、畳じきの小さな室が二つあって、料理も酒も相当によく、芸者づれの客なども時折ある家だった。私達は古くからの馴染みで、一人でぶらりと出かけていっても、大抵仲間の誰かに出逢った。その晩も、長尾と大西と宮崎と私と、四人が落合った。

 ところで、その晩のことなのだが、一体、飲み仲間というものは、ひどく親しくもあればまた疎遠でもあって、お互に赤裸々にぶつかり合うこともあり、仮面で押し通すこともあり、而もそれがいろいろ交錯するので、その間の真相はなかなか捉え難い。火花が散り、雲がかけ、そしてその火花も雲も、酔のために誇張されるのである。私自身も酔っていた。

 酔った眼で眺めると、長尾はともかく、大西と宮崎とが清子を相手に平然と談笑しているのが、異様に見えるのだった。清子というのは、「笹本」のおかみさんの姪だとか、そこのところはよく分らないが、とにかく縁故のもので、前に暫くカフェーの女給に出ていたことがあり、生意気な口の利き方をし、二十一歳というのには少しけた顔付の、小柄な女だった。この清子のことについて、「笹本」にやってくる前、私はさんざん宮崎に悩まされてしまった。

 私たちが或るバーで飲んだのであるが、この文学青年……といってももう二十七歳になり、時には原稿料も取れるようになっていて、文学に一生を捧げつくしてるような彼宮崎が、私の首筋にすがりついて泣き出したのである。

「文学なんかやめちまえと、島村さんが僕に云ったが、そんな理屈はないでしょう。ねえ、めちゃだ。清子なんかのことを、いつまでもくよくよ想っていて、愛することも憎むことも出来ないで、というのはつまり、ほんとに愛することも出来ないで、何が文学だと、そう云うんですけれど、そんなばかな話ってあるもんですか。島村さんにまで誤解されているかと思うと、僕は悲しいんです。第一、僕が清子を愛してる……独りでくよくよ想ってると、どこで証明がつくんです。そしてそのことと、文学と、一体何の関係があるんです。何にも関係はない。ねえ、ないでしょう。よしあったところで、僕は清子なんか愛してやしない。想ってもいない。彼女の病床に、毎日人形を買っていってやったにしろ、それが彼女を愛しているという証拠になりますか。人形を持っていくのが、僕にとって、ちょっと、ロマンチックに楽しかった。それだけでいいじゃありませんか。或る行為だけが楽しい、相手の人間はどうだっていい、たったそれだけのことが、どうして分らないのかしら。だから僕は、清子が大西さんとキスしようと、たとえどういう関係になろうと、一向平気なんだ。二人が愛し合ったら、面白い……そうだ、面白いとさえ思っている。それだけのことです。それがどうして分らないのかしら。みんな僕を誤解してるんだ。島村さんまで僕を誤解してるんだ……。」

 そんな風に彼は私に説きたてるのだった。だが、本当のところは、私にもよく分っていない。この人形云々のことは、私達の間では当時有名な話だった。清子が盲腸の手術で二週間半ばかり入院していた時、宮崎は毎日人形を一つずつ買って見舞ってやった。盲腸の手術などは、外科医術の進歩してる今日では、腫物をつぶすくらいにしか当らないと、いくら云いきかせられても、清子はまだ安心出来ないで、病室の白壁に涙ぐんだ眼を見据えていた。手術がうまくいくか否かということよりも、自分の腹部が──肉体が切り裂かれるということに、直接の恐怖を覚えているらしかった。だが彼女のそうした気持などは、宮崎は一向に推察しようともせず、絶対安全の呪禁まじないをしてあげると云った。その呪禁というのが、毎日一つずつ人形を買っていってやることだった。一月末の寒中で、北風が吹き荒れることもあり、氷雨が降ることもあった。然し宮崎は、一日も欠かさず、人形を持って病院を見舞った。小さな安物の、奈良人形や面持人形や歌舞伎人形だったが、それが彼女の退院までには、枕頭の小卓の上に十七八も並んだ。人形を彼女に示してから、宮崎は楽しげに微笑んで、別に話をするでもなく、すぐに帰っていった。退院近くなると、彼女はベットの上に坐って、甘ったれた口を利いた。「あたし、あなたのちっちゃな妹みたいね。妹は今退屈してるのよ。親切な兄さんなら、ゆっくり話していって下さる筈よ。」彼は素気なく答えた。「いや、人形を持ってくれば、もう用はないんです。」そして帰っていった。退院後、彼女はそれらの人形を自分の室の机上に並べて涙ぐんだのだった。

 そういうことが、「笹本」のお上さんの口から、また清子の口から、私達の間に知れ渡った。宮崎も隠そうとしなかった。だから私達は、初め、宮崎と清子は愛し合っているのだろうと想像した。然し二人はそういう様子が少しもなかった。殊に宮崎には、清子に興味を持ってる風さえ見えなかった。彼はつまらなそうに酒を飲みに来、酔うとやりきれないところを見せるが、それは清子とは縁遠いものから来てるらしかった。一体私達常習飲酒者は、誰もみな、世の中がつまらないような、何となくやりきれないような、謂わば危機めいた調子をどこかに持ってるものであって、それだから酒を飲むのか、酒を飲みすぎるからそうなのか、その点は甚だ不明瞭で、恐らくは両方だろうが、健全に溌溂と酔っ払う者は至って少い。そして何かしら刺戟がほしくなる。宮崎と清子との仲は何でもないと分れば分るほど、私達は当が外れた気持になっていった。いやそんな筈はない、僕が証明して見せる、と云い出したのは大西で、或る晩、酔っ払った揚句ではあるが、皆の前でいきなり清子をつかまえて、キスしてしまった。彼女は声を立て、また笑っていたが、次の瞬間、顔の肉を硬ばらせ、ひからびてると見えるほど大きく眼を見開き、じっと大西を見つめて、それから彼にとびかかって、真正面に、彼の口に自分の唇を押しあてた。「あなたが奪ったから、あたしも奪ったのよ。だけど……きたない!」そして彼女はビールのコップをとって、大袈裟にうがいをした。

 全体が酒の上のことだとすれば、それまでであるが、然し、悪戯とするには、何だか過ぎたものがあった。清子はうがいをしてからも、宮崎の方へは眼を向けなかったが、視野の片端で彼の気配を窺ってることは明かだった。が宮崎は、眉こそしかめたが、それも一寸の間で、何の動揺も感じていない様子だった。そして愉快そうに酒を飲みだした。で結局大西の試験は失敗に終ったわけだが、それからは、「ビールのうがい」という言葉がはやり、大西と清子とは舞台めいた抱擁をしてみせることが度々あった。ばかばかしい話だが、私達はそれを拍手で迎えたりした。凡てが酒の上のことだ。本当のところは分るものではない。はっきりした話をするとなると、私は当惑せざるを得ない。其後のその事件全体が、今でもまだ、私には充分見透せないような憾みがある。なお、「笹本」のお上さんは、清子の病気なんかのため、だいぶ困ったらしく、大西の口利きで、長尾からいくらか金を借りたというのは、事実らしい。然し清子の態度をそれと結びつけて考えるのは、当らないと思われる。

 宮崎が私にくどく訴えたのは、右のような事柄についてだった。彼は何か手酷しく島村からやりこめられたらしく、それを憤慨したり悲しんだりしているのだった。

「相手を……対象を無視して、自分の行為だけを味うことが、僕には出来る気がする。行為そのものの純粋な喜びや悲しみは、そうでなければ感ぜられない。清子が入院中、僕は毎日人形を持っていってやった。それは僕にとって、純粋な楽しみだった。相手は誰だって構わない。婆さんでも、男でも、美しい姫君でも、子供でも、何んでもいい。ただそれが、例えば特定な清子と限定されると、種々な他の感情が交ってきて、人形を持って見舞ってやるという純粋な行為が毒される。……ね、そうでしょう。だから、毎日人形を持って見舞ったということと、僕が彼女を愛したかどうかということと、何の関係があるんです。島村さんにそれが分らない筈はない。そればかりか……あなたなら云ってもいいでしょう……長尾さんや大西さんの尻にくっついて酒を飲まして貰ってるとは、何たるざまだ、飲むなら彼等と対等に金を出しあって飲め、とそう島村さんは云った。僕は……僕は、それがなさけないんだ。島村さんから、そんなことで軽蔑されるのがなさけないんだ。清子なんかどうでもいい、ただ人形を持っていってやった……それと、同じじゃないですか。長尾さんや大西さんや、また、島村さんやあなたや、そのほかいろいろ僕は、酒代のお世話になってる……年も若いし金もないので、支払いの遠慮をしてる。だが、彼等から金を払って貰うことと、僕が酒を飲むことと、何の関係があるんです。向うで嫌なら、一緒に飲まなきゃいいんだ。僕は一人で飲むだけだ。たかってるんじゃない。ねえ、たかってるんじゃないんでしょう。金は誰が払おうと、自分で払おうと払うまいと、それが酒の味をうまくもまずくもしやしない。酒を飲むということだけが、僕の純粋な行為だ。相手が誰であろうと、たとえ、金肥かねぶとりの社会的寄生虫であろうと、利益の尻尾にくいこむダニであろうと……これは島村さんの言葉だが……何だっていいじゃないですか。王侯と飲むのも、乞食と飲むのも、酒の味に変りはない。相手によって味が変るのは、下等な下根げこんの奴だ。ここんところが、島村さんにはちっとも分らない。分らないのは仕方がないが、そのために僕を軽蔑する理由にはならない。ねえ、そんなめちゃなことはないでしょう……。」

 私は少々うるさく感じて、いいかげんの返事をしていた。するうちに、宮崎は突然調子をかえて、私の眼を覗きこんできた。

「あなたは島村さんとは非常に親しいので、何もかもよく御存知でしょうが、この頃、島村さんに何かあるんじゃないんですか。……この頃ひどく金に困っていられる、そんなことは僕も知っている。あんなに飲み廻っちゃあ、それは当然だ。それから、あの……静葉とかいう芸者ですね、あれと大変深い仲になっているとか、それも分ってる。島村さんと静葉と本当に愛し合おうとどうしようと、そんなことは構わない。ねえ、構わないでしょう。僕は反対はしない。然し、そんなことじゃないんだ。そんなことと全く関係のない、何か別な、僕たちが全然知らないような、何かがあるんじゃないでしょうか。僕には変な予感がするんだ。ねえ、あなたは知ってるでしょう。知ってたら僕に教えて下さい。島村さんは僕が最も尊敬してる人の一人だ。僕の芸術を理解してくれてる人の一人だ。いや、僕の好きな人なんだ。愛してる人と云ってもいい。その人が、この頃、僕の手の届かないところに行ってしまった。何かがあるに違いない。こないだ、酔っ払った時、きたないことはよせと云ってステッキで僕をなぐったことがある。その、きたないことっていうのが、全然肉体的の意味なんだ。だが、僕のどこが一体きたないんだ。僕の肉体のどこがきたないんだ。ねえ、どこがきたないんです。はっきり云って貰おうじゃありませんか。僕の身体がきたないとすれば、静葉の体臭のしみこんでる島村さんの身体なんか、もっときたないじゃないか。然し僕は、そんなことは問題にはしない。問題は……つまり、肉体的にきたないなんてことを云う、その言葉が、ばかに精神的だというところにある。肉体的なことについて精神的な云い方をする、そこが問題だ。たしかに、島村さんはどうかしている。何かあるんだ。近頃、小説を書いてるというじゃありませんか。」

 この最後の一句を、宮崎は声をひそめて、さも重大事らしくゆっくり云った。そして口を噤んだ。私はばかばかしくなった。島村が小説を書こうと書くまいと、そんなことこそ、どうでもいいことだった。それに第一、島村は時々文芸批評なんか書くことはあっても、あの哲学的な理知的な頭で、どうして小説なんか書けるものではない。彼が小説を書いてるとか、そしてそれにさも重大な意味があるらしく考えたりするのは、小説家たる宮崎の空想にすぎない、と私は思った。だが宮崎は、そのことを私によく考えて貰いたいとでもいうように、そして自分でも考えながら、暫く口を噤んでいたが、またふいに云い出した。

「たしかに、島村さんには、何かあるにちがいない。それだから、僕のことだって誤解してるんだ。僕がいつ、不潔なことをしたか、さあそれを証明して貰いたいものだ。僕が清子を愛してるかどうか、それを証明して貰いたいものだ。行こう……。事実が証明してくれる。さあ、笹本に行こう……。」

 そんなわけで、私と宮崎とは遅くなってから「笹本」に行った。行ってみると、長尾と大西とが奥の室で飲んでいた。いつもの例で、一緒になってまた飲みだしたのである。

 茲で少し云っておきたいのは、「笹本」のお上さんのことである。彼女は本名かどうか分らないが皆から「おけい」と呼ばれていて、三十歳前後に見えるけれど、実は四五歳はもっといってるらしく、肥っているわりに肉がしまって、背の高い一寸見られる姿だった。眼に勝気らしい険があって、笑う時に大きな口が目立った。いつも酔ってるか、または酔ってるふりをしていて、よく饒舌った。芝居、料理屋、待合と、どこへでも誘えばつき合うけれど、始終家へ電話をかけて、懇意な客がきてるとすぐに戻ってきた。意外な人と知り合いだった。いつもふだん、黒襟の着物に丸髷を結っていたが、清子が来てからは、清子に日本髪を結わせ、自分は洋髪に結った。大抵の女は、日本髪より洋髪の方が若々しくなるものだが、彼女は不思議にも、鏝をあてないさっぱりした洋髪の方が、どことなく落付いて、云わばマダムらしく見えるのだった。そういうところに、彼女の顔かたちの特長があるとも云える。洋髪になると共に、彼女の態度には何となく取澄したところが出て来た。清子の外に、店には、頬の赤い少女が一人いた。

 私と宮崎がやってくると、おけいは愛想よく立って来て、饒舌りちらしながら五六杯応酬をして、それから清子と代った。清子はいきなり宮崎のそばにわりこんできた。

「あら、随分飲んでるわね。」

「当り前さ。酒でも飲まなきゃ、やりきれないんだ。」

 大西が、酔眼を据えて、苦笑した。

「それ見ろ、また一人ふえた。実際酒でも飲まなきゃやりきれない、そういう連中が次第に多くなっていくじゃないか。だから僕は、造り酒屋になろうというんだ。今に資本が出来たら、日本一のうまい酒を、日本一に安く飲ましてやる。これが一番効果的な、直接的な、社会奉仕だ。」

 清子はじっと宮崎の方を見てみた。

「何だか……変よ。」

「ああ……僕は逢いたい人があるんだ。」

 宮崎は突然叫びだして、ふらふらと立っていった。帳場でお燗番をしていたおけいのところに行って、身を投げだした。

「僕は逢いたい人があるんだ。」

「おい、宮崎、道化たまねはよせよ。」と大西が向うから呼びかけた。「古風な恋愛のまねごとなんかするなよ。……さけはなみだかためいきか……。」

 歌の調子が皮肉に響いたらしい。宮崎は戻ってきて、飲み始めた。然し、暫くたつと、また思い出した。

「僕は逢いたい人があるんだ。それとも、ないと思うか。」

「あるならあると、はっきり云えよ。逢わしてやろう。僕が引受けた。」

「君が、……へえー、お門違いだ。僕が逢いたいなあ……逢わしてくれる人はここにはいないや。」

 彼は一座を見廻して、それから私の肩へよりかかってきた。

「僕は……静葉……そうだ、静葉さんに逢って見たい。」

 一寸異様な沈黙がおちてきた。ただ、長尾が一人微笑していた。

「静葉に逢いたい……なら、逢おうじゃないか。ここに呼ぼうよ。島村がいなくたって、来るさ。」

「だめよ、およしなさい。」

 清子が、なぜか、むきになってとめた。

「あたし、そんなの嫌いよ。」

「おい宮崎、清ちゃんが、そんなの嫌いだってさ。」と大西が云った。「そんなのが嫌いだってさ。何とか云えよ。」

 私は、肩によりかかって顔を伏せてる宮崎が、泣きだすか叫びだすかしやしないかと、少々もてあましていたが、宮崎はすぐ身を起して、酒を飲み出したので、助った気がした。だが、一座の空気が、どことなく乱れていた。一体、島村は本当に静葉を好きなのか、静葉は本当に島村を好きなのか、そんなことから、話は男女問題に亘っていった。そしてこういう事柄になると、大西が最も自由放埓な意見を吐いた。大西ばかりでなく、凡て酒の上では、男はみな独身者になる。独身の男の話など、茲に誌すにも及ぶまい。然るに、一座のうちで真の独身者である宮崎は、中途から口を噤んで、くうに眼を据えて、酒ばかり飲んでいた。それを相手に、清子がまた酔っていった。そんな話は聞いていられない、聞かないためには、酔うだけだ。そう云って、彼女は大きく叫んだ。おばさん、お銚子下さあい。ふらふらしながら、宮崎と肩を組み合した。ねえ君、飲もう。うん飲もう。細い首の上の大きな島田の髪が、まるで拵え物のように、力なくゆらめいているのを、長尾と大西はぼんやり眺めながら、ばかげた議論をくり拡げていた。何一つ身を入れて為すこともなく、莫大な親の遺産をもてあまし飲みつぶしてる、色白な温容な小肥りの長尾と、表向きは保険会社員だが、あらゆることに首をつきこみたがってる、色の浅黒い筋骨の逞ましい大西とは、好箇の対照だった。だが彼等には共通の取柄があった。人の精神状態は、その生活状態に依るものであり、従ってその経済状態に依るものであるという、本能的な意識と、快楽は一人で味うべきものではなく、大勢で味うべきものだという、放埓な認識とである。そしてそのいずれもが、個人主義の範囲内に止っているので、彼等はやはり酒でも飲まなければやりきれないのであろう。私はこの点を彼等に許してやりたい。それで、彼等が島村のことを危ぶむのも、尤もだと思うのだった。島村の経済上の破綻は、やがてその精神上の破綻となるかも知れないし、彼が我々の間から失踪して、静葉と共に隠れるのは、情意の不健全を証するものかも知れなかった。要するに、彼等はもう島村を信用していなかった。島村はただ没落過程を辿っているものと思われた。そして、斜面を転り落つる石については、ただ見送るより外に方法はない。なまじい、手を出せば、自分の手を傷つけるばかりだ。而も島村はかなり大きな石だった。然し、私は心の底で、まだ島村を信じてるところがあった。それでも、もう随分と匙を投げたくなることがあった。彼はいつも私に借金の奔走を頼むのだった。静葉のことではない、外のことだ、と彼は云ったが、それはどうやら本当らしかった。然し何のために金がいるのかは打明けなかった。そして金額も、時によって大小さまざまだった。その上、いつも期限が切迫していて、一週間以内とか五日以内とかだった。私は自分の知人や彼から名指されたところを奔走して廻った。成功したのは一回きりだった。暫くたつと、彼はまた至急の金策を頼むのだった。不成功に終っても、別に悲観したような顔はしなかった。私には次第に彼の真意が──真相が──分らなくなった。尋ねても、彼はよく説明しなかった。それだけの金があればさっぱりしてしまうんだ、と云うきりだった。最後のは、可なりまとまった金額で、半端ならいらない、十日間のうちに頼む、というので、私はいろいろ物色した揚句、平素疎遠にしてる遠縁の実業家のところへ、極り悪い思いをしながら当ってみたところ、てんで問題にされずに、悲観してるところだった。

 そういう場合だったので、島村が珍らしく……といっても私達の仲間に比べて珍らしく、「笹本」に姿を見せた時、私は不安な予感を覚えた。おけいが大袈裟な迎え方をしたので、奥の室の私達にもすぐ分ったのである。

「なあに、そうでもないけれど、一寸忙しかったから……。」

 落付いた声で島村は云っていた。

「ああそう、丁度よかった。一寸呼んでくれませんか。用があるんだ。あとで飲もう。」

 おけいから呼ばれるまでもなく、私は皆に断って、席を立っていた。土間の長卓の方には、客はなかった。その片隅によりかかって、島村は煙草をふかしていた。私はその顔を見て、異様な感じがした。少し痩せたなと思われるだけだったが、ひどく色艶がわるく、額が妙になまなましく、眼に鋭い光があった。元来彼の容貌は、高い頑丈な鼻を中心に精力的なものを持っていたが、その精力的なものが内に潜んでしまってるようで、額のなまなましい感じと眼の鋭い光とのために、生きた人形という印象を与えた。

「例のことなんだが……。」

 彼は私の顔をじっと見た。私は眼を伏せて、うまくいかなかった旨を答え、心当りもなくなったことを打明けた。彼は落付いた微笑を示した。そこで私は云った、是非必要だというのなら、前に話したことのある方面に二三当ってもみようし、また彼の方で心当りがあるなら、それを全部駆け廻ってみてもよい、とにかく総ざらいをしてみよう……。

「いや、それには及ばない。心配かけてすまなかった。」

 ばかに冷かな調子で、そして彼はまた微笑をもらした。

 奥の室にはいると、大西は冷淡な眼で、長尾は落付いた眼で、私たちを迎えた。清子が飛び上るような声をたてた。

「あら、お一人? 後から来るんでしょう。さっきね、とても逢いたがってた人が……。」

「ばか、何を云ってるんだ、ばかな……。」

 ほんとに怒ったらしい押っ被せる調子で、宮崎は叫んだが、同時に、真赤になった。

 島村は平然と席に就いた。

「暫くぶりだね。」と長尾が云った。「この頃、あんまり飲まないのかい。」

「うむ、出来るだけ飲まないことにしてるんだが……。」

「そうでもないでしょう、島村さん。」と、おけいが銚子をもってわりこんできた。「ちっとうちへもいらっしゃいよ。あんまりよそを歩き廻らないで……。決して、くっついたり、殴られたりするようなことは、しませんから……。」

「なんです、それは……。」

「それ、井上さんと、銀座の何とかいうカフェーで……あれほんとでしょう。こうなんですよ……。」彼女は皆の方を向いた。「女給たちを集めて、飲んでいらしたんですって、井上さんと二人で。そしてるうちに、女給の美しいのが一人、もてたのねえ、やたらに島村さんにくっついて、肩にもたれたり、膝にのっかったり、ええ勝手にしろってところよ、あんまりべたべたやるもんだから、島村さん、すっかり怒っちゃって、その女の頬辺を殴ったとか殴らないとか、とにかく大変な剣幕でしたって。あたし、その顔が見たかったわ。見そこなっちゃあいけない……とまあ、そういった場面ね。」

 おけいは揶揄するようにわざと感歎の様子をしたが、島村は澄していた。

「そんなことも、あったかもしれないが、その代り、こんなこともあった。或る晩、酔って歩いていると……。」

 それは、私が一度聞いた話である。酔って歩いていると、街角の、薄暗いところに、若い女が二人立っていた。安カフェーの女給とも、安料理屋の女中とも、どこかの子守女とも、私娼ともつかない、怪しい風体の女で、蒼ざめてむくんだ頬に白粉をぬっていた。その二人の方に、彼は歩みよって、微笑みかけ、言葉をかけ、ソバを奢ってやろうといって、すぐ側のソバ屋へ無理につれこみ、自分は酒を一本飲み、それから彼女たちに五十銭玉を一つずつ握らして、立去っていった。

 それだけの、ばかばかしい話だったが、島村の調子には、冷酷に近いものが籠っていた。

「そんな話、どちらも、何の意味もないじゃないの。」

 そう清子が云ったが、何の反響もなく、誰も黙っていた。島村は杯を取上げた。

「島村さん、飲もう、彼女たちのために杯を挙げよう。」

 宮崎が夢からさめたように大声をだして、銚子を持って立上ったので、その場の沈黙は救われたが、妙に白けた空気は拭いきれなかった。清子は何か癪にさわったように口を噤み、おけいと大西とが冗談を云いあい、長尾は口数少く笑みを含み、宮崎はまたくうを見つめ、そしてそのまま時間がたった──のだか、或はそれが私の眼底に映った一瞬の光景だったのか、よくは分らない。一体酒席のことなどは、明暗交錯して、ちらちらして、見極めがつくものではない。そして私がはっと明瞭な意識に戻った時、はっきり覚えているが、島村と長尾とが低い声で何か話し合っていて、長尾が深い溜息を──たしかに好意的な心配の溜息を──ついた時、島村は少し高い声で云ったのである。

「そんな心配より、金銭が第一の問題だということは、君なんかよく分ってる筈だ。僕は全く困ってるんだ。ここの家にもだいぶ借りがある。どうだい四五百円貸してくれないか。」

 それは皆に聞えたらしく……というよりも、わざわざ聞かせるような調子で……皆その方を見た。私は彼の正面にいたのではっきり見てとったが、彼の顔はその時蒼ざめて、眼がじっと相手を見据えていた。額だけは相変らず、人形のようななまなましさを持っていた。その全体の調子に、云い難い侮蔑が籠っていた。長尾はその侮蔑をまともに受けたに違いない。普通なら冗談として取るに足りない言葉だっただけに、打撃が大きかったのだろう。彼は顔色を変えて、唇を痙攣的に震わした。

「尤も、君には前に相当世話になっているから、そう無理も云えない。気にしないがいいよ。……じゃあ、先に失敬する。」

 更に侮蔑的な微笑を浮べて、島村は立上った。咄嗟のことで、私達はその後姿を見送るだけだった。

 おけいが駆け出していって、表で彼を捉えて、二三言話して、戻ってきた。

「長尾さん、何か気に障ることでも仰言ったの。」

 長尾は頭を振った。

「そうでしょう。ひがみよ。」

 然し僻みでないことは明かで、彼女自身、云ってしまってから顔を赤めた。

 そんなことで、酒の酔いの中に冷い穴があいて、どうにもならなかった。それは一番始末にいけないことだ。長尾と大西とは、賑かに飲み直すんだといって、おけいを誘った。もう十二時近かった。私は最後に残って、餉台にしがみついてる宮崎の相手をしてやった。宮崎よりも、清子の方が酔っていた。しまいにうるさくなったので、一人で帰った。妙なことだが、島村が立去ってから、彼のことが何一つ話に上らなかったことを、私は今になって思い出すのである。皆が心では彼のことをとやかく考えていながら、口には出さなかったものらしい。

 その夜、二時すぎ、宮崎は清子に揺り起された。電燈が一つついてるきりで、店の中は影深く、不気味に静まり返っていた。清子は総毛立った顔をして、震えていた。泊るのか帰るのかと聞いた。料理人と小僧とは隣家の二階に寝起きしていて、もうそちらに行ってるし、小女は眠ってるし、彼女は一人で困っていた。──実は酔いつぶれながらいい加減に指図をし、うとうととし、ふと眼を覚して、困ってるのだった。おけいは……さっき電話で、今晩帰らないと通じてきた。どうせ、長尾さんたちと一緒だもの……。それを宮崎はぼんやり聞き流して、土間の長卓の上の、カーネーションの花を見ていた。燈火と影との合間にあって、仄白く浮出して、ゆらいでるようだった。さし招く……そういう感じが胸にきて、立上ろうとしたが、よろけた。ぞっと寒くなった。清子の二つの眼が、ぽつりと、輝いていた。記憶の断層の中に落込んでいく……。親切な兄さん……そんな言葉を覚えていて? 覚えてる! 妙にしんみりと、涙ぐんで、そして二人は肩を抱き合った。彼女はあらゆるものにいやいやをして頭を振り、彼はじっと眼をつぶった。


     二


 夜遅く、市内電車が無くなったばかりの頃だった。島村と宮崎とは、上野広小路の大通りから、公園の方へ歩いていった。二人とも酔って、だいぶ足が乱れていた。それをゆっくり踏みしめながら、話し続けていた。

「君の気持は嬉しいが、もう間に合うまいよ。」

「え、間に合わないんですって。」

 宮崎は一寸足を止めて、島村を見つめた。島村は振向きもせずに、歩き続けた。

「何事にも時機というものがある。こう云うと、君はまた心配するだろうが、一体、君のその変な杞憂がおかしいよ。単なる金銭問題だろう。金銭問題は、数字上の問題で、小学校の算術だ。そんなことで死ぬ馬鹿があるものか。」

「世間にはいくらもある……。それに、あなたの態度が、まるでめちゃだから……。」

「単に金を借りるのが目的だったら、僕もあんな態度には出ないさ。然し、大体もう駄目だと見極めがついて、こんどはこちらから世間を試してやれという気持になったら、それが当然じゃないか。」

「そして全然駄目だったら……世間があなた自身よりも金の方を大事にするんだったら……どうします。それを僕は……。」

「うむ、分ってる。最後の切札はあるんだ。そうなったら君にも腑に落ちる筈だ。君は、船を焼くという諺を知ってるだろう。船で敵国に上陸して、自分の船を焼き払って退路を断ち、敵地を征服するか戦死するか、どちらかだという、最後のはらをきめることだ。君は、船を焼くことが出来るか。」

「…………」

「船を焼いてからでなければ、本当に世間を試すことは出来ない。世間を試すつもりで、実は自分自身を試してるだけのことだ。」

「然し、敵地を征服出来なかったら……。」

「試してしまえば、それでもう征服したことになる。征服してから其処が嫌になって、新たに船を拵えて出帆するようなものだ。然しそんなことは、予算にははいらない。」

「予算……。」

「例えば、君の所謂、純粋行為みたいなものだ。純粋行為というのは、無動機の行為とはちがうだろう。だから、あらゆる可能な行為を含むことが出来る。死の行為までも……。」

「そうかも知れません。」

「ところが、死の意慾などというものが、君は人間にあると思うか。死の意慾のないところに、死の行為が為されるとしても、それはもう死の行為ではなくなるだろう。」

「だから、そんな行為はない……。」

「ないけれど、ある。ただ予算にはいっていないだけだ。例えば、君は清子を愛していないと云っていた。もし愛するようになったら、初めから愛していたと云うようになるだろう。予算の立直しだ。」

 宮崎は黙っていた。公園の中は薄暗かったが、新緑の香がほのかに立罩めて、空気は爽かだった。

 宮崎は突然云った。

「もし、僕が彼女を愛していたら、あなたはどう思います。」

「そりゃあ、愛するのは君の自由だが、少し危い。」

「なぜです。」

「ほんとの愛は、世間に対して、闘争形態を取るものだ。然し君には、その力がまだあるまい。力が不足すると、不幸に終るか、それとも……。」

「すっかり云って下さい。」

「死にたくなったりする。然し死んだとて、何にもならない。たとえ君か、彼女か、或は二人とも、死んだとて、ただそれっきりだ。そのために、笹本の酒の味は少しも変りはしない。そのために、おけいの、また長尾や大西の、銚子の数が一つへるわけでもない。」

 島村はちらと宮崎の方を見やった。

「君は、清子をどんな女か……品行についてだよ……知ってるだろうね。」

「知ってるつもりです。」

「ああしたところから引抜くには、容易なことじゃない。おけいのことも、君には分ってる筈だ。」

「それでは……静葉さんはどうです。」

 殆んど憎悪に近い調子だった。然し島村はびくともしなかった。

「それは僕が知ってる。君には分るまい。」

 暫く黙々として歩いてから、島村は云った。

「穢い……その一言でつきる。だから僕は別れの言葉を云ってやるんだ。僕の別れの言葉は、ただ侮蔑だけだ。」

 宮崎は悪寒おかんをでも覚えるように、身を震わした。

「別れの言葉を云うだけの力を持つことだ。言葉はなんだっていい。君自身の言葉を一つ探し出せば、それでいいんだ。」

「然し、それがみな幻影だったとしたら……。あなたたちのことは僕は知らない。だが、世の中は穢いものであり、穢い中にこそ本当の人間性があるのだとしたら……どうなるんです。個人主義の理想主義は一種の眼鏡にすぎないとしたら……。」

「君の云うのはよく分る。然しそれは自分の船を焼き捨てない前のことだ。一度船を焼いてからは、個人主義だの、理想主義だの、そんなところにうろついてることは出来ない。もっと切端つまった戦だ。現実と云うものは、見て取られるものではない、戦い取るべきものだ。それが出来なかったら、死ぬより外はないだろう。」

 島村の声の調子は異様に静かだった。宮崎はそれに耳を澄しながら、また足音に聞き入った。じっと足先に眼を落して、いつまでも黙っていた。

「本当に愛するか、憎むか、どちらかだ。中途半端なところは、君の文学に任せておけばいい。」

 宮崎はまだ黙っていた。公園をぬけて、寝静ってる街路に出ると、遠くに犬の声がした。

 宮崎のアパートの前まで来て、島村は立止った。

「気をつけ給え。」

 それきりで、彼は立去っていった。宮崎はそこに佇んで、腕を組んだ。


     三


「笹本」のおけいからばかばかしいことを頼まれて、私は弱った。──宮崎がどうしたことか、毎晩やって来ては酔っ払って仕様がない。一寸立寄って、また夜遅くやって来ることもある。無理に帰そうとすると、乱暴もしかねない剣幕だった。それをまた、清子がいい飲み相手にして、手がつけられない。おけいが外に泊る時には、どこでどう打合せるものか、宮崎を引入れて遅くまで飲み明す。それが毎度のことだ……、私は彼女を眺めた。毎度といっても、それから十日とたってはいなかったのだ。……いいえ、そうじゃないんですよ、と彼女は餉台の上を平手でとんと叩いた。あの時と、それからも一度……それくらい、あたしだって外にいろいろ用があるんじゃありませんか。でも、二度あれば、それでもう沢山。毎度といってもいいでしょう。そりゃあ、変なことはないにしても、困るじゃありませんか。何とか、意見をしてやって下さいません。清子の方はだめ、とてもあたしの云うことなんか聞くものですか。ほんとに困ってるんですよ。何もかも調子が狂ってしまったようで、あたし、くさくさして……。彼女は眉間に深い皺を寄せた。だが、彼女が清子に意見したというのも怪しいものだった。それはとにかく、頼まれた以上、宮崎に何とか注意してやりたかったが、そんなこと、へまに云い出そうものなら、却って結果は悪くなる。私は当惑して、長尾か大西に頼んでは……と云ってみた。おけいは眉根の皺をぐっと深くして、むきになった。そんならいい、あなたには何にも頼みません……。私は彼女の怒った顔を初めて見た。額が狭くて、打震えてる上唇の上に、うすい毛が生えそうだった。

 幸にも、私はその嫌な役目をのがれることが出来た。その頃、私達はたしかに少し荒れていた。その晩も、長尾と私と野口──この野口というのは、放送局に勤めてる男だが、酔うと相撲をとりたくなるという妙な癖があり、ふだんは変にお高く澄しこんでる見栄坊だった──三人で、一騒ぎして、芸者を二人連れて、「笹本」に敬意を表しに来たものである。そして奥の室で飲んでるところに、少し酒気を帯びた静葉が、元気よくとびこんできた。今晩は、おばさあん……。そして私達の方を見ると、つんとしたお辞儀をした。用があるのよ……。彼女はおけいと、何かひそひそ話をしていた。だいぶかかった。

「そんなら、今だっていいわ。呼びましょうか。いらしてるのよ。」

「まあ、この人は……。」

 静葉は電話にかかった。

 私は彼女の方に注意をむけていた。あれきり島村に逢わないので、少々気になっていたのである。注意してると、静葉は島村からことずかって勘定を払いに来たものらしく、またおけいは、島村に逢いたいことがあると頼んだらしい──多分宮崎のことについてだろう。私は肩の荷が軽くなるのを覚えたが、また不安にもなった。

 静葉はやがて私達の方へ来た。彼女はいつ見ても少しも変らなかった。顔のわりに眼も鼻も口も小さいので、少し痩せたらもっと綺麗になるだろうと思われるくらいに肥ってる、大柄なぱっとした女で、あけすけで、影もなく、底もなく、捉えどころがなく、そして朗かで、そのくせ調子に一寸険のある女だった。彼女をよく見ていると、どんなことでもやりかねない危険さが感じられた。

「あたし今日はお客よ。」

 そして彼女は杯を斜に取上げたが、すぐに、他の芸者たちと、そして殊に清子と、内緒話を初めた。

 島村が間もなくやってきた。彼は私達の方を見やって、一寸眉をひそめたが、黙っておけいの方へ行った。だいぶ長く話していた。

 私達の方へ来て、一通り会釈をする時、彼はなぜか顔をほんのり赤らめた。静葉が立上っていって、彼と何か囁き合った。彼は静葉のあとの席に坐った。二室ぶっ通しに使っていたが、狭い室なので、窮屈だった。島村に黙りがちで、煙草ばかり吹かしていた。彼の眼は先達より穏かで、なまなましい額には、淡く血色が出ていたが、何となく病的な疲労の感じがにじんでいた。

 そこへ、おけいが出てきて、一座をまぜっ返してしまった。一座は土間の腰掛の方へまで拡がった。私は何か不安な気持が消えないで、我知らずいろんなことに注意をしていたが、それでも酔っていって、もう記憶は断片的なものに過ぎない。

 清子が静葉にたのんで、煙草を買いにやらしてもらった。どこかで、宮崎に電話でもしたものらしい。

 宮崎が来たのはどれくらいたってだかよく分らないが、彼は一歩ふみこむと、そこに立止ってしまった。彼は眼が凹み、額から頬へかけた肉附がすっきりして、その両者が不調和な対照をなしていた。

「あなたの逢いたい人が来てるわよ。」

 清子は彼を静葉の方に引っぱっていった。どういうものか、二人は初対面だった。

 宮崎は静葉の顔をじっと見た。そしてそれきりだった。

「おい、宮崎君、握手をしよう。」

 島村は彼を方を見やった。

「僕とですか……。」

 宮崎は島村の眼を見入りながら、手を握りしめた。

「清ちゃん、お燗よ。」

 おけいはやたらに清子を使った。彼女は長尾の側に坐って、猫のような手附をしながら、しきりに饒舌りたてていた。

 私は島村に、金の都合がついたのかと聞いた。つかないが、済んだ、と彼は答えた。都合がつかないが済んだ、その言葉が謎のように長く私の耳に残った。

 野口は芸者相手に、サンドウィッチの話をしていた。彼は三十幾種かを知っていた。牡鶏のとさかのはとてもうまいが、拵え方が下手では食えないそうだった。

 宮崎が静葉の膝にすがって泣いていた。訳の分らないことを呟いていた。ふいに、だめよ、と静葉は叫んだ。と同時に、そこは室の上り口で、宮崎の身体は土間に転げ落ちた。なかなか起上らなかった。

「あら、御免なさい、どうかしたの……。だめよ、人の乳をつっつこうとしてさ。」

 あやまるのとおこるのと半分ずつにして、静葉は助け起そうともしなかった。

 宮崎は起き上ると、ふらふらと、島村の首にすがりつきにいった。

「強いね君は……ようし、僕と相撲をとろう。」

 野口の癖が始ってきた。

「およしなさいよ、また……。こわいわよ、静葉さんは。向う見ずにひっぱたくんだから。」

 そしてその芸者は、静葉のふざけた口調をまねた。

「失敬なことを、なんですか。」

 野口も一緒に調子をとった。

「失敬なことを、なんですか……失敬なことを、なんですか。」

「では、お先に失敬するわね。」

 静葉は笑いながらそう云って、島村に目配せをした。

 なんだかんだと、いろんなことのあるうちで、私の注意を惹いたのは、島村と静葉との視線が絶えず連絡されてることだった。何かを云い何かをする度毎に、彼等の眼は始終相手に注がれた。その視線は、たとえ如何なる人込みの中でも、如何なる酔狂な振舞の中でも、断ち切られることがないらしく見えた。そして今でも、静葉の目配せを受けると、島村はすぐにうなずいて、それからゆっくり立上った。

 二人はそのまま出て行こうとした。

 真先に気がついたのはおけいだった。彼女は呼びとめた。

「島村さん、どこへいらっしゃるの。」

 島村は向き直っていった。

「外へ出るんです。」

 そして彼は一寸皆を見据えた。額が蒼ざめて、口元に云い難い微笑を浮べていた。何でもない言葉であり、何でもない態度であるだけに、その中に籠ってるものが明かに感ぜられた、一種の挑戦と蔑視とが。殊にその微笑は、打撃の効果を意識してる者のそれだった。緊張した空気が流れた。瞬間に、静葉が云った。

「では、皆さん、失礼……。」

 長く引張った失礼の発音が、その緊張を皮肉なものにした。誰も口を利かなかった。二人は出ていった。

 宮崎が、長卓の上の灰皿を土間に叩きつけた。清子はそれを引止めたが、宮崎はなお、転ってる灰皿の破片を足で蹴散らした。険悪な空気になった。おけいは真蒼な顔をしてつっ立っていた。

「追い出して下さい、乱暴な……。」

 呆気にとられていた野口が云った。

「一体どうしたんですか。」

 清子が一緒になって灰皿の破片を蹴散らしてるのを見て、おけいは歯をくいしばって、酒をぶっかけようとした。

「呆れた人たちだ。」と野口はまたいった。「まるでヒステリーだ。」

「ええ、ヒステリーでしょうよ。」

 おけいはしゃくりあげると同時に、屈みこんで、長尾の肩に顔を伏せた。

 二人の芸者は眼を見張っていた。

 そしてそのまま、潮が引くように、その場は納ったのであるが、そうした情景の底に、捉え難い不安が濃く淀んでいたのである。私はその責を誰にも何物にも着せようとは思わない。ただ、こうした時間を費してる私達の生活の、底をかき廻されたものだとしたい。淋しい酒宴になっていった。冗談口も冴えなかった。私達は無理にも酔おうとした。それから、二人の芸者をひっぱって、また席をかえて飲んだ。おけいはむっつりついて来た。宮崎と清子とが、知らん顔をして酒をのみ続けていた。

 その晩、各自にどうなったかは私の知るところでないが、翌日、「笹本」の二階で、昏々と眠り続けてる宮崎の枕頭に、清子は、根のぬけた乱れ髪のまま、血の気を失った顔で、じっと坐っていた。その耳の下の方に、物にぶっつけた紫色の斑点があった。おけいは、眉間の皺を深く刻んで、よけいな口は一言も利くまいと決心してるかのようだった。髪だけきれいになで上げてるのが目立った。私が電話で呼ばれて行った時にも、宮崎は昏々と眠り続けてるばかりだった。眼が更におち凹んで、額から顔へかけて肉附がすっきり……澄んでると思われるほどで、何の苦痛の表情もなく、身動き一つしなかった。呼び迎えられた医者は、長い間その顔を眺めていたが、静に二日も眠らしておけばいいでしょうと、事もなげに云った。宮崎の懐から、カルモチンの錠剤の壜が見出された。常用していたものと見えて、使用の予想量よりもひどく多分にへっていた。清子は何にも云わなかった。徹夜のつもりだったのが、酔って分らなくなったと、それだけきり引出せなかった。宮崎に自殺の意志があったろうとは思えなかった。然し、全然なかったとも、私には断定出来ない。

 島村はその晩きり、もう「笹本」に来なかった。私達の間からも、殆んど姿を消した。静葉はやはり芸妓に出ていたが、用事をつけて休むことが多かった。然し、彼等については、また他日物語ることにしよう。随分いろいろなことがあるのだから。

底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3)」未来社

   1966(昭和41)年810日第1刷発行

初出:「中央公論」

   1935(昭和10)年4

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2008年59日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。