死ね!
豊島与志雄



 私と彼とは切っても切れない縁故があるのだが、逢うことはそう屡々ではない。私はいつもひどく忙しい。貧乏で、わき目もふらず働き続けなければ、飯が食えないのだ。ところが彼は、いつもひまだ。のんきに、夢想したり、歩き廻ったり、酒を飲んだりして、日を送っている。それかって、財産があるわけではない。私に金銭上の迷惑をかけたことも度々ある。「人の厄介になるよりは、なぜ自分で働かないんだ、」と私はいうのだけれど、彼はいつも平然と答える、「今に働くよ。」それが、口先だけのものではなくて、心の底から信じきっているらしい誠実さがこもってるので、私はつい、その「今に」を信ずることになる。だが、それは、いつまでも現在になることがなく、先へ先へと延期されていく。太陽を背中にした時の影法師みたいなものだ。進むだけ先へ進む。然し彼は、それをむりに追い捕えようともしない。そしてのんきに、ぶらぶらしている。どうやりくりしているのか、苦労の影さえない。それがどうも私には不思議だ。だけど、彼のその秘密にばかり関わってるほどの余裕は、私にはない。私は日々のパンのために忙しいのだ。そして忙しい者と隙な者とは、そう屡々逢えないものらしい。機会のくいちがいといったようなものがあるのだろう。

 ところが、或る晩、彼に不思議なところで出逢った。

 私はいくら忙しいといっても、毎日朝から晩まで働きづめでいるわけではない。そんなことは人間として出来るものではない。たまには肉体的息ぬき、精神的保養も、必要である。そんな意味で、ばかげた酒を飲んで、すっかり酔った。風がなく、なま暖く、空はぼんやり霞んでいそうな気配。外を歩いていると、家の中にはいるのが息苦しく思われるような晩だ。こんな時には、病院ではきっと誰かが死ぬ。

 薄暗い横町の角のところに、下水工事の掘り返されてるのがあって、街路の片側に、コンクリートで出来てる大きな土管が転っていた。ばかに大きくて丸い。私はそれに気を惹かれて、ステッキの先でつついていった。ただコツコツと、岩石をつきあてるようなものだ。感心してなおコツコツやっていると、尖端の穴から、ぬっと男が出て来た。それが、彼だった。暖いのに、まだ冬のマントを着ていた。その長髪はばさばさして艶がなく、蒼ざめた頬へ疲労性の熱が浮いていて、瞳が据っていた。彼は私を見てとると、手に持っていた帽子を土管の上に投りつけた。怒っているようだった。

「何をしているんだ。」

 私は呆れた。

「君こそ何をしていたんだ。」

 彼はそれには答えないで、帽子を拾って頭にのせてから、私の方をじっと眺めた。私は軽蔑されるのを感じて、眼を伏せた。すると彼は私の腕をとって歩き出した。

「僕は面白いことを発見した。」と彼は話し初めた。「もうとてもいけないと思って、千代子にそう云うと……。」

 その、もうとてもいけないというのが、私から見れば、呆れはてた考え方なのである。前に云ったように、彼は殆んど借金で生活していた。友人たちから、借りられるだけ借りた。それから高利貸から借りた。利子が払えなくなると、他の高利貸から借りた。そういう風で、今に行き詰ることは眼に見えていた。然し彼は平然としていた。も一つの「今に」が控えていた。「今に仕事をする、そして借金なんか……。」その自信が余り大きかったので、他人の借金まで引受けるようなことをした。困ってる者が相談にくると、少々の金なら出してやり、都合がつかないと、借金の連帯保証をしてやった。それが全部かぶってきても、別に嫌な顔はしなかった。自分で借りたものよりも、そうしたものの方が多かったかも知れない。彼は田舎に多少の土地を持っていて、ほんとに困るとそれを売ったり、抵当にして金を借りたりした。だからわりに長く持ちこたえたとも云える。ところが、そうした借金はふえてくるばかりなのに、「今に仕事をする」その今にの方は、なかなかやって来なかった。なぜだか彼自身にも分らなかったらしい。人間の生活は、習慣に支配されてるもので、今に仕事をすると考えながら怠惰に日を送ることが、彼には一種の習慣となっていたのかも知れない。そして愈々やりくりがつかなくなると、彼は借金を全部計算してみて驚いた。意外の額に上っていた。そこで決心をした、仕事をしようと。然しそれには、さし当って面倒なうるさい借金だけは整理しておく必要を感じた。そのために土地を全部まとめて担保にいれて、四五千円拵えようとかかった。ところが、それが出来なかった。千か二千は出来たろうが、それは半端で間に合わなかった。彼は首をかしげた。思った金額が出来ないのが不思議だった。彼にとっては、金の問題は凡て小学校の算術だった。これだけ借りて、こうして、これだけずつ払っていく。計算が明瞭についた。ただ、前提となるべき借金だけが出来なかった。それが彼にとっては不思議極まることだった。そんな筈ではなかったのである。水は高い所から低い所へ流れていく。今はこちらが水量が足りないから、よそから流しこんでおいて、やがて仕事によって水量がましたら、また他の方へ流してやるつもりだった。それが齟齬を来したのである。要するに、金を借りる時期と、支払う時期──即ち仕事をする時期とが、距りすぎていたのである。後者の時期の方が前者の時期に先立たなかったことも、彼にとっては不思議に思われた。

 彼は少し疲れた。面倒くさくなった。こんな世の中ならもう死んでもいいと思った。元来、彼は生への強い執着を持たなかった。為すべきことが多くあるから是非とも生きていたい、そういう不遜な考えは少しもなかった。生きてる間何かをしておれば、いつ死んでもよいのだった。そういう気持なのに、現在、彼は少しも仕事をしていなかった。だから余計、いつ死んでもいいということになった。

 但し少しも仕事をしないというのは、彼の主観的な表現である。彼は少しは働いていた。然しそれは本当の仕事ではないというのである。借金がふえると同時に、びっくりして、種々のつまらない仕事をやめて本当の仕事に専心しようと考え、そのために負債整理を企てたのである。茲に断るまでもなく、彼は文学者だった。文学者というものは、本当の仕事とかつまらぬ仕事とか区別をつけたがる。然しその区別は、ただ主観的なもので、恐らく神にだって分るまい。だから、本当の仕事がしたいというのは、実のところ、真剣に働きたいということに過ぎないかも知れない。

 負債に煩わされて真剣に働くことが出来ないとすれば、そしてそのごたごたした負債を整理することも出来ない世の中だとすれば、死んだ方がいいだろう、という風に、いつ死んでもいいという彼の気持は、死のうかなあという動きに変った。

「そこで千代子にそう云うと……。」と彼は私に話し続けるのだ。

 千代子というのが彼の愛人なのである。愛人という言葉は少し変だが、実を云えば、彼と惚れ合ってる芸者の本名なのである。

「もうとてもいかんよ。僕は死のうかと思ってる。」と彼は微笑しながら云った。すると彼女は、別段驚きもせず、彼にいらえてやはり微笑している。あと一週間か十日だよ、と彼が云うと、彼女は答えた。

「ではあたしも、それまでに用意しておくわ。」

 簡単至極である。その時彼女は電気スタンドの紐をいじくっていたが、ふいに、ぽつりと一粒の涙を眼に浮べて、それをまぎらすように、また微笑してみせた。

 ひどく冷かなものを彼は感じたのだった。普通ならば、どうしていけないのか、どれくらいの借金があるのか、どれくらい財産があるのか、収入はどれほどか、そうしたことをいろいろ尋ねて、果して死なねばならぬほどであるかどうかを確める筈である。そして愛する者を生かしたい、お互に生きたい、生きて愛したい、そう思うのが人情であろう。然るに彼女は、何一つ尋ねなかった。彼の状態について何一つはっきりしたことは知っていなかった。金銭上の事柄については彼は何にも話してはいなかった。そして彼がいきなり、もうだめだから死のうかと思ってると言い出すと、微笑を浮べながら云い出すと、あたしも用意しておこうと云うのだ。それ以上の冷淡さがあろうか。彼が冷りとして眺めると、彼女は涙を浮べながら微笑してみせるのだ。

 その冷淡さを彼は考えまわしたのだった。そしてはっきりした解釈がつかないうちに、いつのまにか、彼女と一緒に死のうという決心になっていった。これまでぼんやり死のことを考えていた時、彼は一度も彼女と一緒に死ぬなどという気持にはならなかった。死ぬのは自分一人のことだった。ところがふいに、彼女の冷淡な言葉にふれて、彼は彼女と一緒に死のうという気になった。

「それが、発見なのだ。」と彼は私に云った。

 これはもうどうも仕様がないことかも知れない、そんな気持に私もなって、彼に連れられて、彼女──千代子に逢いにいったのである。

 廊下が際立って美しく拭きこまれ、床の間の活花がばかに新鮮で、掛軸の長押の額が古風な、奥の一室で、私と彼とは酒を飲み初めた。二人とも可なり酔っていたが、まだだいぶ飲めそうだった。杯を見ると彼は嬉しそうににこにこしていた。私はともすると考えこみがちだった。

 随分待たしておいてから、千代子は息を切らしてやってきた。「おう苦しい。」それが彼への挨拶で、とたんに坐りなおして、しばらくと私に挨拶をした。私は彼と一緒に何度か彼女に逢ったことがある。この前から見ると、彼女はだいぶ痩せていた。それが、大柄な彼女の肉体をいくらか清澄に見せていた。それでも私はともすると彼女に反感を懐きがちだった。彼が怠惰な日々を送って経済上の難局に当面してる一半の責任は、彼女にありはすまいかと疑ってもみた。その上、酒の酔は人を饒舌に無遠慮になす。彼に余り苦労をかけてはいけないよ、と私は彼女に云った。苦労なんか……さも可笑しいというように、彼女はちらりと彼の方を見た。ばか、彼は生きるとか死ぬとかいってるんだ、と私は彼女に云った。あら、あたしだってそうよ、と彼女は事もなげに云って、彼の方をちらと見た。君と一緒に死ぬともいってるよ、と私は彼女に云った。そんなら嬉しい、と彼女は素直に受けて、彼の方をちらと見た。私はばかばかしくなった。彼女はただ上の空の返事ばかりしていて、私の言葉は彼女の視線に乗って彼へぶつかってゆくのである。その彼はただにやにや薄ら笑いを浮べて嬉しそうに酒を飲んでいる……。

 私は腹が立ってきた。こんな奴、殴ってしまうに限る、と思って立上ると、彼もふらりと立ってきて、私たちは取組み合った。尤も、酔狂の上のことで、千代子が笑って見ていたほどふざけたものだったが、それでも私が一押しすると、彼はよろよろとくじけて、千代子の肩にすがり、その花模様の膝にすべり落ちた。島田に結った髪の大きな影が、彼をすっぽり包みこんだ。

 彼等をそこに残して、私は立去った。不安が湧いてきた。彼の弱々しさと窶れ方とが頭に残っていた。凡てを投げ出しているような千代子の態度も気になった。彼女の冷淡な言葉と彼は云っていたが、恐らく彼はそれによって、文字の意味とはちがったものを表現していたのだろう。危い、と私は思った。然し彼のような男が自殺する……。この考えは私には、何だか滑稽にさえ思われた。いつ死んでもいいということは、いつまで生きていてもいいということに外ならない。それは自然に任せるということだ。自然に任せるということは、意志的な自殺などとは凡そ対照的だ。

 忘れよう。私は忙しかった。

 然しともすると、彼の姿が頭に浮んでくるのだった。それが仕事の邪魔となった。私は眉をしかめて、彼に詰問した。

 ──お前は、あんな女のどこがいいんだ。単純な無智なああいう種類の女は、生に対して盲目であると共に、死に対しても盲目だ。流れにのった浮草だ。その浮草にすがって一緒に押し流されることについて、お前は一体何を発見したのだ。つまらない感傷を捨てろ。

 ──君が説いているのはすべて理屈だ。僕はただ事実だけを知っている。僕と彼女とは愛し合っているのだ。愛は理知的なものではなく、肉体的な秘密だ。例えば、抱き合って唇を合わして見給え。そのままで三十分も一時間も、じっともちこたえられて、なお名残りが惜しまれたら、本当にお互が愛し合える。嫌気がさすようだったら、愛し合えない証拠だ。性慾的行為などは問題ではない。肉体の体質、そこに愛の秘密がある。この秘密を掴んでる者にとっては、生か死かは問題ではない。それを僕は発見したのだ。物理的で而も運命的な愛が世にはある。

 ──それにしても、お前自身はどうだ。仕事をしたい、生きたい、そのための経済的整理ではないか。生か死かは問題でない愛があるなら、それを自然に生き延させるためにでも、なぜ働かないんだ。お前のような日々を送っていては、経済上の行詰りに当面するのは初めから分っていたことだ。行詰ってから慌てても間に合わない。他人の助力によろうとするのは、卑怯な態度だ。

 ──またも君は理屈をしか説かない。僕はもう理屈には倦き倦きした。人間の生産力……精神的生産力には、潮に似た干満がある。その干満と外部的な不幸とが重った時に、多くの芸術家は餓死し或は自殺した。僕がもし干潮の状態のままであったら、経済上の整理などは図らなかったろう。満潮にさしかかったとの自信があったればこそ、仕事をするために、不愉快な奔走もしたのだ。僕が可なりでたらめな日々を送ったというのも、早く満潮を来させるためであった。ただ、時機が少しくいちがったのだ。このくいちがいがどうにも出来ないような世の中なら、むりに齷齪することはない。僕に本当に働かしてくれないような世の中なら、こちらから御免を蒙るだけだ。

 ──よろしい、分った。だが、お前は本当に死ぬ意志をもってるかどうか、それだけの決意がお前に出来るかどうか、はっきり云ってみろ。

 そこで、返事はなく、私は一人取残された。彼の姿は消えてしまっていた。私は余り残酷な言葉を発したのだろうか。こういう風に使われた意志とか決意とかいう言葉が、私自身につき戻されると、私は或る憤りを感じて不機嫌になったのである。死ぬための……おう、私は彼にあやまりたい気さえした。

 逢う度毎に、彼が次第に元気をなくしてゆくのが見えた。沈痛な陰翳が彼にかぶさって、次第に濃くなってゆくようだった。私は心配になって、彼の経済状態をいろいろ調べてみた。そして驚いた。思ったよりひどかった。あちらこちらに不義理が重っていたし、卑屈だと思えるような負債もあったし、殊に私の注意を惹いたのは、他人の借金を引受けて負担していたもののあることと、次第に専門の金貸からの負債へ他の負債を移してゆきつつある傾向だった。尤も、彼の身分地位上、全部の負債を合してもそう多額に上るものではなかったが、然しまたそれだけ、専門の高利の負債へ移し替えようとする傾向は、先の見通しをつけない無謀なものに思われた。或る捨鉢なものがそこに見られるようだった。古くからの状態を調べて見ると、一寸借金をした第一歩がいけなかったらしく、信用制度の経済組織の穽にずるずると深くはまりこんでいったものらしい。せめて現金制度を堅守していたら、精神的生産力の干潮に際して、彼は果して餓死したであろうか。

 先の見通しのない無謀なやり方について、彼の考えをなおはっきり確めるために、私は千代子の方をそれとなく探ってみた。彼女もひどく困ってるようで、呉服屋への支払いなども滞りがちだし、質屋の門もくぐっているらしかった。ただ私によく腑におちなかったのは、近頃彼女がひどく身体を大事にしてることで、酒をつつしみ、食物に気をつけ、指先のささくれにも手当をしていた。この点では彼も同様で、不如意のためからばかりでなく、好きな酒を節し、煙草も節しようと努力していた。これは見方によっていろいろに考えられることだった。

 然し私は彼のことにばかりかかわってはいられなかった。彼のために仕事の邪魔をされることさえ困るのだ。心配にはなるが、もう暫く様子を見てるより外はなかった。

 仕事について考えながら、池のふちを歩いていると、おい、と私の肩を叩いた者がある。池にはまだ蓮も藻も芽を出さず、平らにしっとり淀んでる水面に、森影と街の灯とが半々に映って、ちぐはぐな瞑想を誘うのだったが、それから眼をあげて、振向いてみると、彼が立っていた。

「君でもこんな所を散歩することがあるのか。」

 不思議そうに私の顔を見て微笑した。が私にも、彼のその晴れやかな顔が不思議に思えた。この前よりひどく瘠せていたが、陰翳がとれたようで、眼の光が澄んでいた。どうしたのだと聞くと、十日間ばかり徹夜の形で或る仕事をすましたと云う。

「仕事の義務だけは果したいのだ。」

 それが、彼の所謂本当の仕事かどうか聞きたかったが、彼の晴れやかな表情だけで満足して、私は黙っていた。すると面白い発見をしたといって、彼は嬉しそうに微笑している。私はまたかと思ったが、全く別なことだった。

 徹夜をして、夜がほんのりと明けてくる時、雀の声をきくのが実に嬉しかった、と彼は話す。彼の書斎の窓際に大きな椎の木があって、それに沢山雀がきた。夜明けに一番早く眼をさますのは雀らしい。そして、眼をさますとすぐに楽しく囀り交わす。彼はその雀たちのために、窓の外の庇に米粒をまいてやった。いつのまにか食べてしまう。然し人が覗いているうちには決して近寄らない。いくら馴らそうとしても馴れない。ところが仕事をすました朝、彼が放心のていでつっ立って、ぼんやり夜明の空を眺めていると、雀がすぐ側まで来て米粒をひろっているのだった。気がついて眼をやると、雀がぱっと逃げてしまった。

「偶然の一致だろう。」と私は云った。

「偶然じゃない。自然界はそうしたものだ。」

 彼はそれを信じきっているらしかった。そしてその発見がとても嬉しいという。そんなことを話しながら、彼は私を誘った、支那料理のさっぱりしたものだけで老酒を飲むのだと。金が少しはいったから心配はないという。そして連れだって歩いているうちに、ばったりと、まるで足の骨が折れでもしたように、彼は躓いて倒れた。手をかしてやると、すぐに起き上ったが、眼に一杯涙ぐんでいた。私は眼を外らした。芝居や映画などで、いつも私のことを泣き虫だと笑っていた彼だ。嘗て涙を見せたことのない彼だ。気がついてみると、彼の歩き方はふらふらして力がなかった。よほど無理をして仕事をしたに違いなかった。

 普通の日本座敷で紫檀の卓で、二三の料理に老酒を飲んでるうち、彼は淋しい顔をして、呼んでもいいかときいた。千代子のことだ。私は分ってはいたが黙っていたのだった。

 彼女は黒襟のかかった平素着でやってきた。やはり朗かそうだった。一体私は、ひどく頼りない感銘を彼女から受けるのだ。何だか磨きの足りない、伝法肌の気まぐれな朗かさが、そうした感銘を与えるのかも知れないが、私はそれを飛行機だと冗談に云っていた。いつも飛行機に乗っているような彼女と、元来はのんびりした物にこだわりのない彼とは、調子が合うのかも知れないが、それがどちらからも一図に心を寄せ合うと、これはどうにもいけないと私にも危ぶまれるのだった。彼は雀の話を彼女にもしてきかせた。彼女は何か心を打たれたようで、暫く考えこんでしまった。

 四五日か一週間旅をしよう、と彼は如何にも呑気そうに云っていた。大丈夫ですかと彼女は尋ね、大丈夫だと彼は答える。お金のことらしい。そうしてもう相談がきまってしまった。これはめちゃだと私は思うのだった。そんな場合じゃあるまい。然し……漠然とした危懼が私を囚えていった。その危懼を打消すことで私は憂欝になった。

 そこを出て、池のまわりを散歩するという二人に別れて、一人になると、私はなぜか首垂れて考えこんで歩いていた。あの二人を幸福にしてやりたい、勝手なことをしてる彼等ではあるけれど、真面目な仕事と生活とをなし得る彼等だ……そんなことを私は思い、漠然とした反撥心を世の中に対して懐いていた。社会の制度が重すぎるのではないか。

 その夜遅く、彼が姿を現わした時、私はひどく悲しい気持になっていた。それは別離の悲しみに似ていた。

 ──旅に行くのか。

 ──行こうと思っている。

 ──死ぬのではあるまいね。

 ──安心し給え。僕には死ぬというような意志や決心は持てないのだ。然し、自然の死は致し方がない。

 ──反撥しようという気はないのか。

 ──何に対してだ。僕は自然を尊ぶ。反撥によって自然を歪めたくはない。

 ──自然に逃げこむのは卑怯だろう。

 ──或はそうかも知れない。人生は人為だからね。然し、いろいろなことに面倒くさくなると、純粋な自然というものが考えられてくる。

 ──それは意志の喪失だ。

 ──僕にとって大切なのは、意力より感性だ。

 ──禽獣になれ。

 ──よりも、赤ん坊になりたい。

 そこで彼は、非常に微妙な笑みを浮べた。私はそれに見覚えがあった。一時間も二時間も寝そべって、空の雲を見てる時、庭の蟻を見てる時、遠い昔の夢をでも思い出したらしい時、彼が無心にもらす微笑だった。また、ふくらんだ紙入を懐にした時の微笑だった。そんな時彼は、実用的なものよりも、不用なものを多く買った。或る時彼は、高さ一丈余の大きな自然石──見様によっては狸が立ったようにも見える得体の知れぬ石を、しきりに買いたがったことがある。何にするのかときくと、やはりこの微笑をもらした。私はそれに対して、ともすると苛立たしい気持になるのだ。

 今も私は、或る苛立たしさを以て、彼の顔をじっと眺めた。彼の晴れやかだった顔が、急に悲しそうになった。取っつきを失いながら立去りかねてる悲しみだ。ばか、と私は怒鳴った。そして消えてゆく彼の後から叫んだ。

 ──死ね、死んでしまえ。

 泣き虫だと彼から笑われた私は、不覚にもまた涙をこぼした。厄介な彼、邪魔な彼、自分の半身の彼を、私は愛していたのだ。

底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3)」未来社

   1966(昭和41)年810日第1刷発行

初出:「文芸」

   1934(昭和9)年6

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2008年59日作成

青空文庫作成ファイル:

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