立枯れ
豊島与志雄
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穏かな低気圧の時、怪しい鋭い見渡しがきいて、遠くのものまで鮮かに近々と見え、もしこれが真空のなかだったら……と、そんなことを思わせるのであるが、そうした低気圧的現象が吾々の精神のなかにも起って、或る瞬間、人事の特殊な面がいやになまなましく見えてくることがある。そういうことが、小泉の診察室の控室で、中江桂一郎に起った。
小泉がキミ子を診察してる間、中江はその控室で、窓外の青葉にぼんやり眼をやりながら、しきりに煙草をふかしていた。てれくさい気恥しさなどは、もう少しも感じなかった。気の置けない友だちの間柄だから、紹介状を持って行ってごらんと、中江がいくら云っても、キミ子は駄々っ児のように顔を振るだけなので、中江はとうとう、自分で連れてくることにしたのだが、暫く躊躇していたキミ子は、俄に承知して、そうなると、知人のうちにでも遊びに行くといった調子になった。身体のことなんか自然に任せておけばよいので、ただ生きていて……そして働いてさえおれば……というのが彼女の平素の主張で、医者にかかることなどは贅沢となる、その贅沢が、今となっては、小泉のところへ──診察は第二として──中江と二人で行くという、或る物珍らしさのために、解消された形だった。だが、中江にしてみれば、彼女が時々胃部や腹部に鈍痛を感じ而もその鈍痛があちこち移動することや、また胸部に圧痛を覚えたりすることなどが、彼女の健康の全般的の衰微を暗示するように思われ、どこか一定の箇処の病兆よりも、一層気にかかるのであった。そうした彼女が、病気なんかどうでもよいと、ふだんは投げやりな態度をとっていて、さて、中江が一緒に小泉のところへついてきてくれるとなると、わりに容易く承知してやってくる、そのことが、中江の心にはひしと、重荷みたいになって感ぜられるのだった。その重荷を背負って、而も自宅からのように装って、昨夜の二人の宿から電話をかけて、昨夜のままの肉体を運んできたのである。キミ子にとってはもう、昨夜からのことは跡形もなく、今日は今日といった調子で、しきりに小泉のことなどを尋ねかけるのだった。──「医学博士って肩書は、何んだかお爺さんくさくって、若い人には、却って損ね。」彼女らしい意見で、これから診察を受けるなどという気持は、遠くへ薄らいでいた。それに中江も引きこまれて、変に図々しいものを心の片隅に押しこんで、小泉の家まで来てしまった。出迎えた小泉は一切をのみこみ顔に、てきぱきと事を運んでくれ、それに対ってまたキミ子は、普通の話でもするような態度で、既往の身体の調子を述べ立て、そして二人で隣りの診察室にはいっていったのである。
──やはり来てよかった。病気でも何でもないかも知れない。
そんなことを、煙草の煙の間にぼんやり考えるほど、中江は落付いていた。診察が手間取るのも気にならなかった。そしてやがて、診察室から出て来た小泉の言葉もそれを裏書してくれた。
「別に何でもないようだね。尤も、一回みただけではよくわからないけれど……。」
それを逆に、一回みてよく分らないくらいなのは大したことでないと、そういう態度で、煙草をふかし、看護婦をよんでお茶などを勧めるので、中江も益々いい気になっていった。そこへ、衣服をなおしたキミ子が勢よくとびこんできて、誰にともなくお辞儀をして、にこにこと笑って、中江と並んで椅子にかけた。
その時、小泉は、初めて見るかのようにじっとキミ子の上に視線をすえて、短くかりこんだ口髭にちょっと威厳をもたせて、徐ろに諭すように云うのだった。
「少し胃が悪いようですね。それも、食物の用心だけで充分で、薬をのむほどのこともありますまい。そのほか、別に異状はないようです。血圧をはかるにも及ばないでしょう。……ただ、しいて云えば、神経の衰弱が少しあって、そのため過敏になって、ちょいちょい自覚的な故障を覚える……といった程度のものですね。然しそういうことは、忘れてしまうに限りますよ。衰弱と過敏とが一時にくる厄介な代物ですから、気にすればするほど結果は悪くなる、というようなわけで……。」
そこで彼は一寸微笑をみせて、診察的な眼付を中江の方に移してきた。
「君なんかの方が、よほど病人だよ。りっぱな胃病患者だし、それになお、組織の弛緩てやつで、診察の価値があるね。」
その言葉が、ぽつりと宙に浮いた。というのは、先程から、医学博士小泉省治の前に、キミ子も中江もへんに神妙になってたところへ、診断が──キミ子を安心させるための好意からではあったろうが──ふいに中江の方へとび移ったので、そしてなおいけなかったことには、キミ子が中江の方にちょっと眼をあげたために、二人相並んで被告席についているという立場を、はっきり露出さしたのだった。それがまた、二人の肉体的関係をも露出さしてしまった。初めは思想的同感の伴ったものだったにせよ、今では変に錆びついてしまってる関係だった。中江のまわりに小鳥のように飛びまわっていたキミ子は、一種の求心力に引かされるかのように、次第に彼の方へ全身的にのしかかってくるし、中江の方では過去に対する疑惑嫉妬から、むりにも彼女を繋ぎとめようとするし、そうした結果息苦しくなると、キミ子はわざと冷淡な態度を装い、中江はしいて花柳街の酒に浸るのだったが、その無理が更にお互を求め合う気持をそそって、キミ子の方では神経が苛立ってくるばかりだし、中江の方では健康を害するばかりだった。そしてそれをお互に投影しあって、自分の方がお留守になり、キミ子は中江の神経の苛立ちを気遣っては、やけに電話ばかりかけてくるし、中江はキミ子の健康の衰えを気遣っては、感傷的な酒を飲むようになる。もともと、朗かに……晴れやかに……というのが二人の率直な希求だった筈なのに、事態は逆な方へばかり向いてゆく。中江がキミ子を小泉のところへ連れて来たのも、実を云えば、そうした事態にいくらかでも切りをつけようとする、一つの現れに過ぎなかった。然るに、診察は──もしくは第三者としての公平な言は──何の解決も齎してくれず、ただ事実を改めて証明するだけだった。キミ子は神経の衰弱並に過敏、中江は胃病に組織弛緩。殊にこの、恐らくは筋肉や皮膚や内臓や……否殆んど全身の組織の弛緩は、中江が漠然と而も不断に疑懼していたことだった。いやいや、診察なんかは……とそう咄嗟の反撥の気持が、すぐ側のキミ子の存在に絡まっていって、小泉の視線の前に並んでる二人の肉体が意識され、それがお互の体臭を分ち合ってることが意識されるのだった。
窓外の木斛の青葉が、日に照され光って、いやに中江の眼にしみた。
さて、用事は済んだから、という態度で、小泉の調子が一変して、久しぶりだから、あちらで、話していかないかと誘われると、中江は、全く無気力な状態になって、キミ子の方へ、もうこれでいいんでしょうと、先に帰ることを暗にすすめてしまった。キミ子の眼が底光りを帯びて、じっと見据えられたけれど、中江は何の反応も示さなかった。彼女は短い髪の毛をかき上げると、小泉の方へ苦笑に似たしなをして、活発に立上った。
後に残った二人は、友人として、客間に対座したのだったが、それが中江にはへんに物珍らしかった。彼は近頃、どの旧友をも、ゆっくり訪れるということが殆んどなくなっていた。話は自然に、いろいろ知人の噂に及んでいった。先達て四五人集った時、中江に妻帯させようという陰謀が起りかけたと、そんなことまで小泉は話しだした。三十五歳過ぎの独身生活は、肉体的にも不自然だと、小泉は云うのだった。人間の身体はよくしたもので、これを比喩で云えば、需要供給の関係が自然と調和がとれるように出来ていて、資本の蓄積だの生産の過剰などということは、起らないようになっており、必要なだけの生産と必要なだけの消費とが、円滑に行われて、余計なものは単に通過させられるにすぎない。収支決算の帳尻がよく合っていくのだ。ところが、独身者の身体は、家計簿のない家庭のようなもので、収支の関係がめちゃくちゃになり、生産と消費との平衡がとれない。妻帯は一種の家計簿を備えつけることだ……。或はそうかも知れないと、中江は思うのだったが、現在の自分の経済的破綻──身体のことでなく、実際の生活の行き詰りが、大きく目についてきて、座にじっとしていられないような気が起ってくるのだった。
「尤も、あのひとのように……。」と小泉はふいに云っている。「あのひと、家庭を持ってやしないんだろうね。あのひとのように、やたらに貯蓄ばかりして、脂肪を皮下に死蔵するのは、まだいい方かも知れないが……。」
「いい体質じゃないんだね。」
「え?」と小泉は一寸眼をあげたが、「ああ、あのひとか、そんなところまでは分らないが、脂肪肥満は、とかく、新陳代謝の邪魔になることがあるようだね。」
実際、どこか新鮮さの足りない身体だと、中江はまたもキミ子のことを考えるのだった。そこへ、小泉のところへ電話がとりつがれて、三時すぎに来て貰えまいかとの知人の頼みだった。折角の日曜もこれだからと、小泉は不平をこぼすのだったが、中江から見れば、研究旁々病院に勤めていて、知人の患者だけを面倒見てやる彼の落付いた生活が、余りに散漫で中心点のない自分の生活に比べて、羨ましくなるのだった。と共にまた、心の憂欝や実際的な悩みを、小泉の明朗な精神の前にぶちまけてしまいたい欲求も感じたが、それが出来にくい卑屈さを見出すと、何かに駆り立てられるような慌しい気持になって、席にゆっくり落付いていられなかった。
中江は伯父の没落以来、自力で生活を立直す覚悟で、私立大学の語学講義の時間を増して貰うよう、その専任の人に頼んでおいたし、なお、或る書肆と、アンリ・ファーブルの普及版全集の出版契約をして、先ず少年のための読物から次に昆虫記へと、順次に飜訳してゆくつもりで、最初にポール叔父の話に手をつけていたが、学校の方は見当がつかず、飜訳の方は少しもはかどっていなかった。第一何事にも気乗りがしていなかった。始終先の方に空疎な期待だけがあってぼんやり時間を過すのだった。そのくせ、気持だけは忙しかった。彼は小泉の家を出て、初夏の陽光のなかに自分を見出した時、珍らしく散歩の心をそそられたが、それも束の間で、漠然とした期待と気忙しさとのために、まっすぐ自宅へ戻っていった。何か特別な用事が出来てるかも知れない、誰かが訪れて来るかも知れない、名台屋の友人に借金を申込んでおいたその返事が来てるかも知れない……が何よりも、キミ子から電話があるかも知れない……とそんなことが、しきりに彼をせきたてるのだった。ところが家に帰ってみると、いつもの通りで、事件も人も電話もなく、何でもない手紙が二通きてるきりだった。
「電話も、どこからもなかったんだね。」と彼はくり返して尋ねた。
それでも、昨日から家を空けていたというその時間的な距りが、多少新たな気分をそそって、彼は書斎に坐ってみたが、中途で放り出されてる飜訳の先を読ける気にもならなかった。倦まず撓まない努力は、彼にはもう縁遠いものとなっていた。組織の弛緩……そんなことを彼はまた反芻してみ、キミ子はあれからどうしたろうかと、じりじりしてくるのだった。
そういうところへ柴田研三がふいにやって来たので、中江はちぐはぐな気持で逢った。柴田とはそれが二度目の応対だったが、中江の癖として、態度には鷹揚な親しみを見せた。だが柴田の方では、へんに警戒の態度で、言葉の真意が掴めないような話し方ばかりした。
「職工たちの空気が、次第に、不穏になってくるようですから、私も心配しています。」
だが、いかにも職工長らしい大きな身体を、更に大きな洋服にくるんで、どっしりとあぐらをかいてる彼の様子には、心配らしいところは見えなかった。
「然し今のうちなら、舵の取りようで、どちらにでも動きそうです。」
どちらにでも……というのは、要するに、中江の伯父のものだったN製作所が、伯父の没落と共に人手に渡ったについて、二つの動きが職工たちの間に現れたのであって、一つは、そういう場合、旧社長から従業員に対して慰労手当が出るのが至当で、それを要求しようという運動であり、他の一つは、茲に若干の資金を集めて、それを従業員全体の負担とし、あくまで新社長に反対して、工場を従業員の手で経営しようという運動なのだった。製作所といっても、元来資本十数万円ほどの小さなものなので、若干の金が出来れば、新社長の手から奪い取れる筈だった。そして彼は職工長として旧社長の恩顧を受けてるし、従業員たちも旧社長の人格を徳としてるので、出来るならば後者の方法を取りたいのだが、新社長との交渉のために、果してどれだけの金があればよいのか、その辺の見当がつかずに困ってるというのである。
「そんなことは、僕には分りませんね。」と中江は答えるより外に仕方がなかった。
「左様でしょう、私にも分りませんから、困りました。」
そうして柴田は、如何なることにも顔負けしないだけの皮膚と脂肪とを備えた顔に、微笑の影さえ浮べないのだった。一体何の用件で来てるのか、更に見当がつかなかった。中江はいらいらしてきて、それを率直に尋ねたのだが、柴田は平然として、旧社長の甥御だからただ御報告にあがったのだと、更に不得要領な返事きりしなかった。その図太い態度を見てるうちに、中江は西田のことを思い出したのだった。彼が口を利いて、組合運動の闘士たることを知悉しながら、伯父の会社に入れてやった職工で、憂欝な影のなかに純情を包みこんでるような男だが、それがこの柴田の下で働いてることを考えると、中江は急に好奇心を覚えた。
「話は別ですが、あなたのところに、西田重吉という職工はいませんでしたか。」
「西田……重吉。」
柴田はそうくりかえして、咄嗟の瞬間に中江の様子を窺ったが、それから俄に態度を変えた。
「ああ、あの男ですか……たしかまだ工場にいたと思いますが、勿論、近いうちに解雇することになっている筈です。全従業員の共同経営となると、ああいう男は一刻も置いてはおけませんし、そうでなくてもですが、何しろ、解雇するには、一人の職工でも、時期をみなければなりませんし……。」
それはまた、中江にとっては、意外な言葉だった。賃銀値下げと馘首とに対する絶対反対は、あらゆる場合の主要条項たるべき筈だったのである。その点をつっこまれると、柴田は明かに狼狽の色を見せ、西田は全職工の一致結束を乱すとだけ云って、それから、改革を要する種々の細かな規定などをもちだして、くどくどと説き立てるのだった。そして、共済基金の涸渇から、貸出規定の改正などの点になると、彼は明らかに反動的な立場に身を置いていた。そういう話に中江は耳をかしながら、西田のこと──窮屈そうな態度と、鋭い眼付と、どこかインテリくさい蒼白い顔と、自負のこもった短い言葉附などを、何ということなく思い浮べてるうちに、ふいに形体の知れない忿懣の情に駆られた。それは、西田に対する同情からでもなく、ましてイデオロギー的根拠があるものでもなく、彼がいつも被圧迫階級に対して漠然と感ずる同感の念に似たものであって、それだけに広く大きく、盲目的なものだった。彼は一挙に柴田の饒舌を遮った。
「とにかく、あの会社は、もう伯父のものではありませんし、まして、僕には何の関係もないのです。第一、工場のことなんか、僕には全く別な世界です。」
と、そこまではよかったが、中江はなお続けて、職工たちの運動に何の援助も助言も出来ない理由として、愚かにも、自分の貧窮をさらけ出してしまったのである。家は借家、電話は五百円の借金の担保にはいってる、知人から三千円ばかりの借金がある、其他、方々への支払の停滞が千円ばかり、なおさし当り、高利貸の厄介になろうかと考えていることなど、手当り次第にぶちまけてしまったのである。柴田は一寸面喰った形で、口を噤んでいたが、やがて、冷静とも冷淡ともつかない調子で云うのだった。
「いや、別に、御援助を仰ぎに伺ったわけではありませんから……。」そして彼はじっと中江の顔色を窺った。「然し、西田のような男と交際なさるのは、お為になりませんですよ。」
中江は自ら不愉快になって黙っていた。柴田もやがて立上った。いずれまた、会社の方の様子をお知らせに上るから、その節はよろしくと、口先だけの調子で云って、見切りをつけたような笑いを最後に残して、帰っていった。
一体彼は何のためにやって来たのかと、中江は後で考えるのだった。或は予め何の計画もなく、ただ様子を窺い旁々、利益の蔓でもあったら臨機に掴もうと、それくらいの腹だったのかも知れない。然し、単に旧社長の甥だからというだけではなく、これには何か西田が関係ありそうな気がした。少くとも、西田が工場内部で何かやっていることだけは明かだった。ところが、そう分ってはきたものの、以前は左翼闘士としての西田にあれほど好意を持ち、伯父の会社に周旋してやるほどの危険を敢てしたにも拘らず、今は殆んど何の関心も持ち得ない自分自身を見出して、中江はへんにうらぶれた気持になってゆくのを、どうすることも出来なかった。元来彼の性格として、首尾一貫する思想なり意思なりを持続することは甚だ少く、その代り、その時々の気分に囚われて自らそれを弁義することが多く、そのために、見たところでは、如何にも意志的で自信強そうに思わるるのだったが、そうした自己弁義のための反省は、彼を推進させる力とはならずに、現在の気分に沈湎させる用をしかなさなかった。そういう傾向が近頃では更にひどくなっていた。今も彼はそうした心理の渦みたいなところに巻きこまれて、それに僅かに逆らう気持から、以前の思想運動の仲間の動静や、ひいては多少とも西田のことまで、キミ子を使って探らしてみようかとも考えたのであるが、それも興味のもてない億劫さから、何の動きともならないで、ただ現在のうらぶれた無気力な気分に浸るばかりだった。そしてこのちらと動いた考えに、キミ子のことが浮んだのをきっかけに、また彼女のことを思い耽って、小泉のところで別れたきり電話もかけてこないのは、ふだん始終電話をかけてよこす彼女としては、どうしたことだろうと、そんなことが気になるのだった。
晩になって、夕食がすんでからも、中江は仕事もせず読書もせず、ただぼんやりしていた。そこへ、電話のベルが鳴ると、電気にでもふれたように飛び上った。果してキミ子からだった。──あれからどうなすったの、と尋ねてきた。あたしのことについて小泉さんと何をお話しなすったの、と尋ねてきた。今何をしていらっしゃるの、と尋ねてきた。どこにいるのかときいても笑って答えなかった。そして急にしおれた調子で、二十円だけ借して下さいというのだった。よろしいと鷹揚に答えると、彼女は調子を早めて、これから使の人をよこすからその人に渡して下さい、いずれ後でお話する、とそんなことを云ってしまって、さようなら、またあした……とだけで電話がきれた。
中江はほっとすると共に、何だか物足りなかった。それから身内に疲労を覚えた。寝転んでキミ子の使の者を待った。待つということだけに幸されて、時間が苦もなくたった。
女中が取次いだキミ子の手紙には、「先ほどのもの、この人にお渡し下さい。」とだけの走り書だった。中江はばかにされたような気持で、簡単に拾円紙幣を二枚紙にくるんで封筒に入れ、それを持って玄関に出てみた。三十歳くらいの、髪をひきつめに結った、粗末な黒っぽい着物の女が、玄関に立っていた。中江の姿を見ると、ぎごちない軽いお辞儀をした。それきりで、眼にも口許にも、何の表情も示さなかった。中江がじっと見ると、化粧のない浅黒い彼女の顔は、硬く石のようになった感じだった。
「これを、渡して下さい。」
「はい。」
低いが妙に澄んだ美しい声で、それから、一寸何かを待つように間をおいて、も一度ぎごちないお辞儀をして、そのまま出ていった。影のようなものが、中江の心に残った。初めはすっと刷毛でひいたようなそいつが、次第に大きく拡がっていって、中江からキミ子の姿を奪っていった……。
彼は、思い出したように、島村に電話をかけてみた。不在だった。で彼も、何ということなく外に出た。
吉松の一室に落付いた中江は、もう少し酔っていたし、酔ったふりも多少はあった。
「島村君、来ていないんですか。おかしいなあ……。」
脇息にもたれて、うっとりとした眼付をして、撮み物には箸をつけず、程よく盃をあけてる彼は、どう見ても好紳士だったが、ただ、小肥りの身体と、艶のいい長い髪の毛とに拘らず、眼の光が変に浮いていた。その眼が、眼鏡の奥にじっと見据えられると、神経質な不機嫌さを示すのだった。
「あら一人?」
やって来た静葉が、そう云った時、中江の眼はその不機嫌さを示した。そうのめのめと失望するものじゃないなどと、冗談口を利きながら、彼はじろじろ静葉の様子を──髪形や襟や着物や帯などを、眺めていたが、やがて、ふいに、真剣な調子になって、君は本気で島村君が好きなのかと、だしぬけに尋ねだしたあげく、島村君をいい加減にだますようだったら承知しないぞと、いやに真面目なのだった。別にからんでくるのでもなさそうな調子に、静葉も生一本の調子をだしてしまった。
「そんなら、もし島村があたしをだましたら、どうして下さるの。」
島村と呼びすてにしたのは、ただお座敷の戯れだったが、その調子に変につっかかってくるものを感じて、中江の方で眼をみはった。それは男の腕さ、などと受太刀になりながら、ふと自嘲の気味で、実は島村君には、眼の活発な断髪の美人がついてるようだがと、キミ子のことを、我にもなく持ちだしてみると、静葉は一寸首をかしげてから、それは、たしかキミ子さんとかいうひとではありませんかと、図星をさしてしまったのである。あのひとなら、あたしも一度ここでお目にかかったことがある、という。
「ほう、三人で、この家で……。」
中江はおどけた様子で、片手をあげて頭の真上を叩いたが、それだけでは胸の納まりがつかなかった。もともと島村と懇意になったのも、キミ子の紹介からであるし、キミ子を愛するようになってからは、彼女が島村の家に暫く厄介になったことがあるところから、二人の間を一寸疑ってみたほど、キミ子は島村に馴々しくしていたし、またキミ子の性質からしても、待合の中を見たいという好奇心くらいは持ちそうだったが、それにしても、静葉がキミ子を知ってるということは、キミ子と現在のような関係にある中江にとっては、妙に気恥しい打撃だった。キミ子は嘗てそんなことは色にも現わさないで、中江がこういう土地の酒を飲むことを、中江の健康のために心配してみせるだけだった。ばかりでなく、キミ子の生活の半ばは、実際影のなかに隠れて見えなかった。それに比べると、島村と静葉との間柄が、如何に影の少い公然たる朗かさを持っているかが、中江の眼に映じてくるのだった。
「呼ぼう、島村君を呼び出そうじゃないか。」と中江は云い出した。
「そうね。」
当り前だという調子で、静菓が自分で電話をかけに立っていった。機械的に一寸島田の髪に手をやって、引いてる裾を器用にさばいて、肥った大柄な身体をすっと襖の陰に消していくその後ろ姿を、中江はじっと見送ったが、その眼を膝に落すと、あぐらの足先にたくねたお召の着物の裾に、白いものがあった。よく見ると、そこがすり切れていて、一寸ばかり裾綿が覗きだしているのだった。それを眺めているうちに、彼は酒の酔がさめかかった。久しぶりに吉松へ一人でやって来たのも、行きつけの喜久本へはだいぶ不義理があるからのことだったが、着物の裾の破れから、そうした自分の不如意が頭にはっきり映ってきた。そしてそれが意識のなかに落付くと、逆に腹を据えて、ふみ枝や千代次まで呼び寄せて、賑かに盃を重ねるのだった。彼は大体見栄坊で、世間体もきちんと取繕う方だったので、待合へ不義理をすることなども不愉快だったし、殊に着物の裾のすり切れてることなどは、ひどく気にかかるのだった。
島村陽一が、芸術家らしい乱れた髪で、のっそりした態度で、屈托のないにこにこした顔で、そこに姿を現わした時には、中江はもう可なり銘酊していた。それでも姿勢はくずしていなかった。意識のなかにどこか冴えた部分があって、そこに、綿の覗きだしてる着物の裾がひっかかるのだった。
「呼びだしてすまなかったが……僕ももう酒の飲みじまいだ。」と中江はばかな弱音を吐いた。
「相変らずだね。」
だがいつも変らないのは彼の方だった。嬉しいのでも不服でもなさそうに、ただのんびりして、にこにこしている島村を、中江は感心したように眺めるのだった。貧乏なのは昔からで、それで一向苦にならないらしく、ここの家の勘定だって、もう随分たまった筈らしいなどと、平気な顔をしていた。がそれよりも中江の腑におちないのは、彼と静葉との関係だった。彼は彼女の旦那だというようなそうした間柄ではなく、ただのお客と芸者との立場なのに、それでいていやにはっきりと公然としていた。彼は如何なる知人に対しても彼女との仲を隠そうとしなかったし、彼女も如何なる場合にでも公然と彼につきそっていた。彼女は平気で彼の家に出入し、彼の子供たちにまで馴染み、彼も平気で彼女を銀座の人中へまで連れ歩いていた。貧乏な彼がいつまでそんなことをしていられるものやら、また、抱えの身である彼女がいつまで彼一人を守って堅くしていられるものやら、その辺のことをどう考えてるのか、はたからは見当がつかない有様なのだった。それに、中江に云わすれば、どんな男にとっても、くろうととの関係は内緒にするのが当り前な筈なのに、まるで逆に、島村と静葉とは何の気兼ねもなく公然と振舞っていたし、顧みて、中江とキミ子とは明るみを避けるようにばかり振舞っていた。それは自然とそうなったのではあろうが、そうなるだけのものがどこかに潜んでるに違いなかろうし、それが分らないのだった。中江は淋しく惨めになりかかる気持をじっと抑えて、静葉の方を見やりながら、彼女のどこに島村を惹きつけるものがあるのか、探ろうとした。島村はいつだったか、彼女には田園的な朗かさがあると云ったことがあるが、そう云えば、彼女の肥った大柄の身体附、明るい笑い、どこか一徹な伝法らしい気質、でたらめのそそっかしい調子などに、そうしたものが見えないでもなかったが、彫刻を仕事としてる島村の審美心が、そんなものだけで満足してようとは思えなかった。問題は、もっと深い肉体的な機密に属することかも知れなかった。二日も三日も二人きりで一緒にいて、よくあの二人は倦きないものだと、いつか小耳にはさんだ仲居の言葉を中江は今更に思い出しては、一晩一緒にいてさえ、何か感傷的な支持がなければ、すぐに精神的にも肉体的にも反撥しそうになってくるキミ子との仲を、顧みて考えるのであった。そして変に考えこんだ眼で眺めると、三味線をかかえてる静葉の様子が如何にも朗かそうで、その向うには、ふみ枝の立姿が、しなやかな手先の曲線を無数に空中に描き出し、ゆるやかな裾のリズムを畳の上に滑らしていた。……〽どうぞかなえてくださんせ、妙見さんへ願かけて、かえるみちにもその人に……。
「中江さん。」
呼ばれて中江が振向くと、千代次がさもおかしくてたまらないというふうな顔付をしていた。
「よしきた。二人ともしっかりたのむよ。」
〽猫じゃ猫じゃと、おしゃますが、ねこが十二単衣をきるといな、ごろにゃん……までは普通で、それから中江は箸で皿や盃を叩きだした……ごろにゃん、ごろにゃん、ごろにゃん……。ふみ枝がいちばんに笑いだして、それからみんなも、腹をかかえて笑いだしたが、中江はたたき続けた……ごろにゃん、ごろにゃん……。
くたぶれてくると、中江は気持までぐったりしてしまった。島村はやはりのんびりした笑顔で、鮨がたべたいなどと云いだしたが、静葉が島村に何か囁いて出ていった後で、ひょっと真顔になって、この頃どうだい、と尋ねかけたのだった。そして話が落付いてきて、まじめな話題になると、島村も相当に口を利いた。生命を賭して仕事をするなどということは、人間にはあり得ないことで、自然の成行から、命をかけたように見える結果になるだけのことだ、第一、意志の力なんてものは取るに足りないもので、生きてゆく上の習慣が意志の力と見えるだけのことだ、というのだった。そこで、生活の様式から結果する自然の成行、云いかえれば運命というものを、僕は信ずる……。そういう意見に、中江は賛成する筈だったが、変に、島村に対しても気持がこじれて、意志の力を説き、努力の効果を説きたて、説いてるうちに、自分にもぴったりこないところから、うわずった熱っぽい気分になってゆき、それがまた感傷的な気分をもそそって、しきりに酒をのんだ。三四十分たって、静葉が他の出先から駆け戻ってきて、膝をくずして島村に寄りそいながら、袂で頸筋に風を送ってる様子を、中江は霧をへだてて見るように眺めた。そしてその霧のなかで彼は、ふみ枝としげしげ逢っていてそのままいつしかうとくなっていったことや、キミ子と今のようになったきっかけ──個人生活と社会的生活との話から、恋愛論に及んでいって、ひょいと彼女を抱擁してしまった、偶然のいきさつなどを、遠い昔のことのように思い浮べ、社会問題に強い関心をもって、何かしら為すべきことを沢山夢想していた昔の生活から、現在の自分がぽつりと置き忘れられてるような寂寥を感じ、それに反撥する力もなく、涙ぐましい気持に陥りながら、しきりに酔いを求めて、丁度溺るる者が水面に浮び出ようと踠くように、徒らに饒舌ったり騒いだりしてみるのであった。ばかばかしいと気付いても、もう遅いと自分で自分を投げだすのであった。
夜なかに、中江はぼんやり眼をさました。まだ身体の隅々は影のなかにあったが、頭のしんに、ぽつりと朧ろな燈火がともって……それが、寝室の二触の電気の明るみとなった。その意識のなかで、胃部に不快な重みを感ずると共に、腹部がいやに軽やかで、殊に下腹部には、空腹の極に於けるように、まるで力がなく頼りがなかった。胃部の重みは始終馴れてることだったが、腹部の軽やかさ、殊に下腹部の力なさ頼りなさは、初めてのことだった。それが不安になって、つっ伏しに寝返ってみると、胃の重みはなくなったが、腹の空疎な軽い感じだけが、一層はっきり残った。それがじかに頭のどこかにつながってるようだった。そこに思考の力のぬけはてた空疎なところがあった。そしてそのまわりを、重い雲みたいなものがとざしていた。眠りながら、何かしきりに考えていて、それらの考えが雲になってまわりをとざし、その真中に、白痴に似た空虚が出来たもののようだった。その空虚のところから、もやもやとした雲の壁を物色してみると、どこもここも行き詰りだった。……なんだか、眠りながら仕事のことを考えていたらしかった。やってのけられるかどうか、そんな事を考えていたらしかった。その飜訳の仕事の印税のことも考えていたらしかった。それから、負債のことも考えていたらしかった。すりきれた着物の裾が眼についてたようだった。今後の生活のために、収支の計算もしてみたらしかった。それからまた、キミ子のことも考えていたらしかった。大勢の芸者たちや、いろいろなアナ系の闘士たちが、怪しく入り乱れてるところが、遠景に浮き出していたらしかった。実際にそんなことを考えたり見たりしたのかどうか、そこは分らなかったが、今じっとすかして見ると、どこもここも行詰りになってる感じだった。その息苦しい行詰りの雲を、彼はもちあげようとしてみたが、力がなかった。下腹部の空虚が、あらゆる力を吸いとって、なお空虚のままに残ってるようだった。彼はまた寝返りをしてみた。頭のなか全体が曇り日の夜明けのように白々しくなった。下腹部からは臓腑がぬけて、皮膚か背骨にくっついてるかのようだった。眠ろうとしたが、その気持が消しとんでしまった。たまらなくなって、彼はふいに起き上った。
まだ酔ってるとみえて、足がふらふらしていた。柱につかまって、何か忘れ物をでも探すように、一寸小首を傾げたが、何をするつもりか自分でも分らずに、電燈に歩みよって、二燭だったのを、ぱっと明るくした。頭がくらくらとした。まだ眼がよくさめないようでもあった。床の間の達磨が、大きく眼をむいて睥んでいた。その側に、細いしなやかな竹に革を巻いた鞭があった。彼はそれをとって、しゅっと空中に打振って鳴らした。それから自分の身体をひっぱたいた。寝間着をぬぎすて、真裸になって、ぴしりと打ってみた。痛みとは全く違う快感があった。股をひっぱたき、腹をひっぱたき、背中をひっぱたいた。小肥りの程よい肉附に、革の鞭は軽快な音を立てて、赤い筋を残した。痛くないのが不思議だった。彼は鞭の音に耳をすまし、皮膚に残った鞭痕に眼をとめ、そしてまたひっぱたいた。そして疲れてくると、突然、我に返ったように喉の渇きを常えた。そこで、鞭をなげすて、赤い縞のはいった身体に寝間着をひっかけ、没表情な顔付を硬ばらして、水を飲みにやっていった。足つきはもうしっかりしていた。
中江はひりひり痛む身体を床の中に横たえていた。そっと撫でてみると、皮膚がところどころみみずばれに腫れあがっていた。だが、床の間の隅にたてかけてある革の鞭を見ても、何の感慨も起らなかった。凡てが夢の中の出来事のようだった。或はそう思えるほど、彼の精神には張がなかった。ただ懶く、暫くはどうにもならないという気持から、学校の方へは向う一週間休講の電話をかけさしておいた。
その電話が、三谷政子を心配さしたらしかった。彼女は中江の母方の親戚の者で、一度不縁になってから、もうすっかり再婚をあきらめているらしく、それかって今後の生活の方針を立てるでもなく、凡てを運命に任せたような落付きで、中江家に家事の面倒をみながら寄食してるのであって、年令より老けて四十歳ぐらいには見え、万事おっとりして善良で無口だった。中流階級のこういう種類の婦人は、忙しい活発な家庭では邪魔物となり、淋しい静かな家庭では温良なあたたかみの基となるのであるが、中江のところが丁度この後者で、中江が独身でいてもさほど不自然さが目立たないのも、彼女に負うところが多いのだった。中江は書物を読むでもなく眠るでもなく、ただぼんやり寝ていて、家の中で静に用をしながら時々心配そうに覗きに来る彼女を、改めて見直すように眺めた。かるく雀斑をうかした円っこい彼女の顔は、微笑をも忘れたかのように静かだったが、眼に冷い険を帯びていた。何か怒ってるのかなと、中江は初めて思ったのだが、実際は彼のことを心配してるのだと分ると、彼は今になって云うのだった。実は、ゆうべ少し飲みすぎて、宿酔の気味だし、それに、少々調べ物があるから、一週間ばかり学校を休むので、決して心配なことはないと。そして彼は自ら苦笑したのだが、彼女の眼の冷い険は拭うようにとれて、彼女は子供にでもするように諾いてみせるのだった。
そうしたことから、中江は当面の問題より彼女の存在の方へ眼を外らし、何かと用を考えだしては、その用を彼女に頼むのだった。彼女のうちには、無言の母親とも云ってよい温良さがあった。然し実は、中江には当面の問題というものはなかった。うわべは整然としてるようであるが、その下に、無気力な投げやりがあって、その投げやりの状態はただ、未来に対する漠然とした期待でもちこたえられてるのみだった。そしてその未来が、いつまでも未来で決して現在にならなくて、投げやりの現在が変に行き詰ってきたこと、それだけのことだった。中江はその中に当面の問題を探し求めたが、探し求めるところに問題のありようはなく、結局、何かしらもやもやとしたものから眼を外らして、夢想とも云えないほどのぼんやりした考えに耽るのだった。その間をぬって、身体がまだ時々ひりひりと快よく痛んだ。
なか一日おいて午後、瀬川キミ子から電話がかかってきた。いろいろ話があるからお逢いしたい、どこへでもいいから出て来て下さらない、というのだった。中江はへんに力無い冷淡さで、病気引籠り中なので外出できない、と返事をした。キミ子は何かとぐずっていたが、ふいに元気に、そんならすぐ伺うと云った。そして暫くたって、キミ子がやって来ると、書斎にぼんやりしていた中江は、そこに彼女を通さした。
「御病気ですって、どこが悪いの。」
キミ子は執拗な眼付を彼の方に絡ませてくるのだった。彼はにが笑いしながら、黙って、久しぶりに自分の書斎で彼女を眺めた。断髪と大きな眼と頬の円いふくらみ、それから、皮下に贅肉の多い肉附と脂を浮かせてる皮膚、その二つが、一つは彼女の若々しい快活さを示し、一つは彼女の頽癈的な情慾を示して、別々に彼の眼に映った。ばかりでなく、彼女をそういう風に観察してる自分の視線が、彼にはふと自分のものでなく第三者のもののような気がした。そしてそれを不思議に思ってるうちに、問題がみつかった。
「君は、どうして僕の家に来るのを嫌がるんですか。」と中江はだしぬけに云った。
島村と静葉とのことが頭に浮んだのだった。ああいうこだわりのないしっくりした朗かな仲とは、まるで遠いところに自分たちはあるようだった。
「まあ先生は……。」キミ子は、意外にも、挑戦的な様子を示した。「先生は……あたしと、結婚なさるおつもりなの。そんなこと……。」
彼女の頬に赤みがさしたのを、中江は珍らしく美しいと思った。それが、彼の顔に、微妙なまた厚がましい笑みを上せた。彼女の魂を裳でぎゅっと握りしめるようなものだった。軽い笑みが、にやにやしたねばっこいものになっていった……。
「…………」
キミ子は言葉を喉につまらして、中江の首にとびついてきたが、唇を合せることなく、何かひやりとしたように身を引いて、じっと中江の眼の中を覗きこんだ。もう中江の眼は、冷かな鋭いものを含んでいた。
「こないだの、あの使のひとは……。」
こないだではない。それは一昨日のことだった。
「そう、おとついの、あの声のきれいなひと……。」
「志水英子さん……。」
そしてキミ子は、中江の顔色を窺いながら、話しだした。実はそのことについて、いろいろ話があるのだった。志水英子は、松浦久夫の使でやって来たので、さし迫って二十円の金がいるそうだったが、キミ子は持ち合していなかったので、中江に頼んだのだった。松浦のつもりでは、キミ子のところへ使を出して、実は中江を当にしてたのかも知れない、とそう云って、キミ子は肩をぴくりとさしたが、中江はただぼんやりと聞いてるだけだった。キミ子は話にみをいれてきた。──今日、正午すぎ、志水英子がまたやって来た。だめだという松浦からの知らせだった。N製作所のことについて、中江からいろいろ悉しく聞き知っていた松浦は、中江の伯父の没落について、そこに眼をつけたのだった。職工たちの動きはまるで予期とちがった方へ向いていった。職工長の柴田研三が、こんどの新たな経営者から、可なりの金を握らせられた、そのことが、どこからか職工たちのなかに洩れて、職工長はじめ役員等の排斥が初まって、運動はそれより先のことには進展しなかったのである。西田重吉等の中心闘士が、余りに近視的だったし、余りに熱情的だった。外部からの松浦の働きかけは、効果がなかった。そこへ、昨日の朝、突然に役員等の強硬策が現われてきて、有力な職工たちが検束され、運動は頓坐した。松浦は手を引かざるを得なかった。思想の違いは仕方がなかった。彼等には……と松浦は職工たちのことを云ってよこした……彼等には我等の組合、我等の階級という意識はあるが、我等の職場という本当の意識はない。彼等には権力の意識はあるが、労働の意識はない。彼等に対抗して、自分たちは、職場と労働との意識を明確に把持しながら、ゆっくり進むより外に仕方がない。──その松浦の言葉を、キミ子は暗誦していて、朗読でもするような調子で云った。
中江はキミ子の話にぼんやり耳を貸しながら、頭の中で、次第に明かになってくる映像を眺めていた。柴田研三が訪れてきた理由も大体分ったし、あの声の美しい冷たい女の輪廓もほぼ分ったし、松浦や西田の相反する動向も見当がついた。だがそれは、どんより曇った空の地平線の一角が晴れて、その向うの雲の奇峯が見えてくるように、何かもやもやと立罩めている頭脳の一部が晴れて、その向うの内壁をスクリーンとして、或る映画がうつってくるようなものだった。而もその晴れた部分は小さく限られ、絶えず移動して、次の映像がはっきりしてくるに従って前の映像は消えていくのだった。キミ子が話し終ると、彼はただ黙って首肯いた。
キミ子は口を噤んで、中江の様子を窺っていたが、何等か熱烈な意志の動きが浮んでくる筈の彼の顔は、いつまでも不気味に静まり返り、はっきりとした意見を吐露する筈の彼の口は、軽く半ば開いて、白い歯並をみせているきりだった。むなしい沈黙が続いた。キミ子は突然叫んだ。
「先生!」
中江の眼が彼女の方に向いて、彼女はその中を見入ってるうちに、いつしか涙ぐんだ、それから急にそこにつっ伏して泣いた。
「先生は……あたし分っているわ……先生は、恋をしていらっしゃるんでしょう。うちあけて……うち明けて下さらなくちゃいや。」
中江はその肩に手をやっただけで、茫然と眺めていた。キミ子は愛のうちに感傷的に涙ぐむことはあったが、こんな時に、こんな泣き方をするとは、不思議だった。どうしたのかしらと中江は考えるのだった。自分の方がどうかしたのかしらとも考えるのだった。
キミ子は泣きやんで、顔をあげた。
「先生は……不幸な恋を、していらっしゃるんでしょう。」
涙をためてるその大きな眼を見ているうちに、中江ははっきりしてきた。
「そうだ、君はなぜ、自由に僕の家に来てくれないんですか。僕たちは、どうしてこう卑屈なんだろう……。」
彼女の眼からすーっと涙がひいて、黒目が底深く光っていた。そして彼女は彼の肩に縋りついて、ほんとう、それほんとう? と尋ねかけたのだった。卑屈なのは先生の方で、自分はどうなろうと構わないけど、それでも、先生には、恋愛なんかよりも、もっと大きな誇りがあるべきだし、もっと大きな仕事がある筈だ、と彼女は云うのだった。社会的な動き方をしてる者は、個人的な問題に煩わされてはいけないので、そういう意味から、先生はあくまで自由でなければいけないのだ、と彼女は説くのだった。先生にもし不幸な恋でもあるなら、そんなものは忘れてしまわなければいけないし、自分たちはあんまり弱かったから、これから強く生きる覚悟をしなければいけない、と彼女は云うのだった。そうした彼女は、社会運動に関係しながら、バーの女給をしたり、今では啓文社の校正部に勤めたりして、一人で男々しく働いてる彼女だったが、その彼女がいつしか自分で自分の言葉に涙ぐんで、中江の肩により縋り、じっと畳の上を見つめて、唇をかみしめてしまったのである。その厚ぼったい肉体が、汗をかき、脂をうかせて、自分の熱気に喘いでるようだった。中江は何んだか息苦しくなるものを感じ、ふみにじられるような自分の心を感じて、彼女の言葉はうわの空できき流し、さっきの自分の気持に対して、ただわけもなく、嘘だ嘘だ、と胸のなかで叫んで、そんなら真実のものは何かと、ぼんやり考えるのだった。そして彼女の髪がぱらぱらと頬にさわると、我に返ったようにそっと身を引いて、窓の硝子からさしこむ明るい午後の光を、眼をしばたたきながら見上げるのだった。
「すこし、散歩なさらない、ねえ、先生……。」
甘えたようなキミ子の言葉に、中江はいっぺんに引きずられて、ふらふらと立上ってしまった。紙入のなかを調べて、十円紙幣が一枚残っているのを確かめたのが、他人事のように感ぜられた。そして外に出ると、キミ子はもう籠から放れた小鳥のようで、フェルト草履の上に軽快に身を踊らし、その後から中江は、まるで盲人のように機械的についていった。
中江の頭にはその印象がはっきりと残っていた。場所はよく分らないが、ごくゆるやかに湾曲してる街路で、そのカーブの内側の歩道を歩いていると、向う側の大小さまざまな建物の屋根の不規則な線が、まだ夕明りを湛えてる空をくっきりと切取ってるのが見え、その空には、奥深く晴れてる表面に、煙とも霧ともつかないものが、風に吹き起された埃のように流れていて、どこからともなく、まるで夢のように、雨の粒がぱらぱらと落ちてきてはまた止むのだった。その幾筋かの白い雨脚が、街路の暮色を際立たせて、物の輪廓がへんにぼやけ、向うから来る人の顔などは、よく見分けがつかなかった。だが、そのカーブの内側の歩道の向うからぽかりと浮出してくる顔のうちに、見覚えのあるのがあって、彼に──中江に──じっと視線を据え、次第に近寄ってき、誰だか分らないがたしかに知ってる顔で、それが、彼をみつめたまますぐま近になって、首をさしのべて覗きこもうとするほどのところで、すっと行き過ぎてしまった。振向くのも忘れて、はて……と真直を向いたまま考えていると、また、見覚えのある顔が出てきて、前のと同じだかどうだか分らないが、たしかに知ってる顔で、彼の方にじっと眼をつけ、次第に近寄ってき、覗きこもうとするほどのところで、すっと行き過ぎてしまう。そのとたんに、こんどは振向いて見ようと思うのだが、その勇気がなく、別に気恥しいことも後ろ暗いこともあるわけではないが、彼はそこの電柱にもたれて立止り、そのままずるずると腰をすべらして、屈みこんでしまったのである。水の底にでも沈んでゆくような感じだった。しいんとなる……。そして何だか大きな声がしたので、眼を上げると、あんまりよく知りすぎ馴れすぎてるキミ子の顔が、その温い息で、上から蔽いかぶさろうとしてるようだった。彼は突然立上って、さようならと、自分で諾くように軽く会釈をして、茫然と佇んでる彼女の手を取り、その街路のまんなかで、二三度強く打振って、それから、通りがかりの自動車にとび乗ったのである。
そして彼は今、書斎にのんびりと寝ころんで、電燈の光の下で、ばらばらの紙片を、珍らしそうに調べるのであった。置戸棚の抽出の一つに、折にふれて物を書きとめた紙片が投げこまれていて、もうそれが随分たまってるのを、何ということもなく、取出してみたのである。短い感想や、詩みたいなものの断片や、単なる覚え書や、いろんな符諜や……よくもまあこの男は、役にも立たないものを書き散らしたものだった。全く訳の分らないものもあった。その代り、人前に出せないような秘密なものは一つもなかった。世間体を考慮する……というより寧ろ、本能的に体面を守って、怪しげなことは一切闇に葬ったのに違いなかった。だが第一、怪しげなことがこの男に何かあったろうか。ごく平凡な好人物で、怠惰が唯一の美徳であって、そのアナーキズム的な思想も、常識的空想の一つの現われに過ぎなかったのではなかろうか。外からの働きかけを適宜に受け容れるだけで、自分から動きだすことのなかったらしいこの男に、怪しげなことのないのは、当然だった。それでも、彼には──中江には──その書き散らしの紙片がへんに珍らしく、好奇心がもてるのだった。軽い微笑さえ彼の顔に浮んでいた。その反故同然な紙片をめくってゆくうちに、ふと、もしこの男が死んでしまったら、これらの反故も何かの価値をもつかも知れない、などと考えるのだった。大抵の者は、何かしらに働いてるものは、死んだあとそれ相当の空虚を世に残すのであるが、この男は恐らく何の空虚も残さないだろうから、それだけにこれらの反故がこの男の存在に代って貴重なものとなるかも知れない、などと彼は考えるのだった。そしてそういう考えが彼に淡い慰安を齎すのだった。彼は安らかな気持だった。ところが、そうした最中に、すーっと襖の開く音がして、そこに政子が立っているのが分ると、中江は真蒼になった。強烈な電気にでも打たれたように、とび上って、つっ立って、唇をわなわなと震わしてるのだった。その反応で、政子も一寸顔色をかえ、襖の陰に身を引いたが、やがて、室の中の様子を眼の中に納めてしまうと、いつもの静かな調子で云った。
「島村さんがお見えになりました。」
中江は、自分で自分の興奮に茫然としたらしく、無言のうちにうなずいたが、その僅かな身振で力がぬけて、そこにぐったりと身を落した。そして殆んど無意識のうちに、散らかってる紙片をとりまとめて抽出にしまうのだった。
島村はいつもの無頓着な態度ではいって来て、中江の様子をじろりと見た。そして中江が黙ってるので、煙草に火をつけながら云った。
「お邪魔じゃない?」
中江は口の中で返事をして、唖者のように首を振った。何かが頭の中から逃げていったようで、ひどく淋しく、がっしりした島村の体躯とその落付いた顔付とを見てるうちに、涙ぐんできそうになった。
「実は、キミ子さんがやって来て、君の様子が変だと、ひどく心配してたようだが……まさか、喧嘩でもしたんじゃあるまいね。」
冗談らしく見せたその率直な言葉に、中江は少し立直った。視野が開けてくるようだった。そしてその広々としたなかで、キミ子の姿をまざまざと見てとると、もう彼女にもお別れだという気がするのだった。彼女にばかりでなく、あらゆるものに、世の中に……考えようでどうにもなりそうで実はどうにもならないらしい自分の生活にも、お別れだという気がするのであった。自殺……とそれほどのはっきりした形ではなく、自然の成行に任して、そしてその自然の成行で、あらゆるものとお別れだが、然しまた、自殺なんか出来そうもないし、しようとも思わないことが分っているので、あらゆるものにお別れだというのも、結局は空想にすぎないのかも知れない、などと考えるのだった。そして彼は、のんびりと煙草をふかしてる島村を不思議そうに眺めて、自分も機械的に煙草に火をつけてみたが、手先が震えていたので、それをごまかすように、ぼんやり微笑んでしまった。
島村は怪訝そうな眼付をしていた。
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3)」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「改造」
1933(昭和8)年7月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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