好意
豊島与志雄
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河野が八百円の金を無理算段して、吉岡の所へ返しに来たのは、何も、吉岡の死期が迫ってると信じて、今のうちに返済しておかなければ………とそういうつもりではないらしかった。河野の細君にはそういう気持が多少働いてたかも知れないが、河野自身には少しもそんなことはなかったらしい。後で河野は私へ向って云った。
「八百円の金を拵えるのに貧乏な僕は、ひどい無理算段をしたには違いない。然し僕は、吉岡がもう長くは生きないだろうなどと思って、今のうちに返済しておかなければ、永久に吉岡の好意から解き放される機会がないと、そんなつもりでは少しもなかったのだ。僕はただ、吉岡を安心させる………いや安心させるのとも違う……何と云ったらいいかなあ……兎に角、吉岡が僕達の生活を救ってくれた。そこで僕達はどうにか生きてきた、そして今では自分の腕で暮してゆけるようになってる、というその感謝の意を、あの八百円で病床の吉岡に知らしたかったのだ。僕のやり方もまずかったには違いないけれど、あんな風に誤解されようとは、夢にも思わなかったことだ。」
河野としてはそれが本当の所だろう。然し吉岡の方にだって、単に誤解というだけでは片付けられない、もっと複雑な気持が働いてたに違いない。
が、こんな風に説明したり註釈したのではきりがない。じかに事件だけを物語ることとしよう。裏面にいろんな事情や感情が絡んでいたかも知れないし、話の正鵠を失することがあるかも知れないが、私としてはただ、眼に触れ耳に触れたことだけを、そのまま物語るの外はない。考えてみれば、変な話ではあるが……。
一
河野が八百円はいっている洋封筒を懐にして訪れた時、吉岡はわりに元気な平静な気分でいた。今日は朝から血痰が一度も出ないし、熱もないようだから、よかったらゆっくり話していってくれ給え、などと云って、人なつっこい笑顔で河野を迎えた。河野は意外な気がした。その離れの十畳の病室へ通される前に、彼は敏子さんから注意されたのだった。
「余りよくないようでございますの。側からは元気らしく見えますけれど、実は面白くない容態にさしかかっているので、人に会うことも出来るだけ避けたがよいと、そう申渡されていますのよ。でもあなたには始終会いたがっていましたし、少しくらい宜しいかと思いますわ。」
で河野は、ただ用件だけを済すつもりで、十五分ばかりと約束して、病室へ通ってみると、吉岡は思ったより晴々した顔付をしていた。そして、共通の友人達の消息や、河野の近頃の製作のことや、展覧会の噂などを、新たな興味で尋ねかけて、次には枕頭のゴヤの画集を引寄せながら、偉い画家だとは思うけれどどこかデッサンの狂いがあるらしいと、そんなことまで指摘し初めた。河野はそれに逆らわないように調子を合せて、それから、なるべく頭を使わないで静にしていた方がよい、呑気が病気には第一の薬だ、というようなことをそれとなく説いた。すると吉岡は苦笑を洩して、こんなことを云い出した。
「君もやはり皆と同じようなことを考えてるんだね。つまり皆にかぶれてしまうんだね。僕の所へ来る前に、誰かから何か云われたろう。僕にはちゃんと分ってるよ。……こうして寝ていると、僕は実際変な気持になることがある。自分自身と周囲とがうまく調子が合わない、そういった気持なんだ。例えば、医者の顔色や看護婦の眼付や敏子の素振りなどから、僕は自分の容態がどういう風かということを知らせられる。皆が口先でどんなことを云おうと、様子を一目見れば、腹の中ではどんなことを考えてるかがすぐに分る。そして可笑しいのは、その皆の考えや様子がきっかり歩調を合して、云わば列を正してる兵隊の歩調のように、少しの狂いも乱れも示さない。皆が同じ調子で、僕の容態を多少よいと思ったり悪いと思ったりする。まあ大体は医者の言葉が重きをなすのだろうが、必ずしもそうばかりではなく、誰が思い初めるともなく、誰が云い出すともなく、周囲の者達が一様に、今日は少しいいなとか、今日は少し悪いなとか、そういった調子になるんだ。それを見てると、僕は自分の容態の晴雨計をでも見るような気がしてくる。所が不思議なのは、同じように高低するその沢山の晴雨計と僕自身の気分とが、どうも調和の取れないことが多い。僕が今日は気分がいいと感じてる時でも、皆は一様に僕の容態が悪いと思ってることがある。何だかこう、中心の歯車と周囲の多くの歯車とが、うまく喰い合わないといった感じだね。そういう時僕は非常に淋しくなったり苛ら苛らしたりしてくる。昨日も丁度そうだった。僕は大変気分がよいと感じてるのに、皆は僕の容態が大変悪いと思ってるのだ。そしてまた繰返して入院を勧めるんだ。僕はそれを頑として拒絶してやった。病院のあの四角な真白な室は、想像しただけでも牢獄のような気がするじゃないか。家にいればこそ、多少の我儘も云えるし、自由も利くし、いろんな空想や追憶の頼りになるものも多いし、まあ頭の中の風通しが出来るというものだ。それを一度病院にはいってみ給え、健全な戸外の空気が少しも通わないまるで牢獄だからね。僕だって、家にいれば必ず死ぬ、入院すれば必ず助かる、とそうきまれば入院しないこともないがね、第一そんな馬鹿げた理屈もないし、また僕は自分でそんなに悪くもないと信じている。でこの入院問題なんかも、実は僕自身の晴雨計と周囲の晴雨計との指度の差から来たことなんだ。そして僕は昨晩中、一体どちらが正しいかと考えてみた。向うには僕の外的内的の徴候だの医学だのと、いろんな科学的の根拠がある。然し僕の方には、僕自身の実感という確かさがある。実感にも狂いがあろうけれど、科学にだって狂いがないとは限らない。結局どちらも中途半端だね。が然し、両方が調子を合してきたら、よい方にならいいが、悪い方に調子を合してきたら、それこそ恐ろしいと思うよ。人間はそんな時に死の自覚を得るのじゃないかしら。……が僕はまだ、両方が喰い違っているから安心だ。そんな風に考えてきて、今日は馬鹿に晴々とした気持になったのだ。君にも同感出来るだろう。そして君は、君も皆と同じように、僕の容態を妙に気遣ってるようだけれど、君だけは僕の味方になってくれたっていいじゃないか。」
そんな風に──これは私が後で河野から聞いたことだから多少の差違はあるかも知れないが、兎に角、そんな風に云われると、河野はもう金銭のことを持出す気がせず、それかって坐を立つことも出来ずに、一時間近く吉岡の話相手になってしまった。吉岡の頬にはほんのりと赤味がさして、その興奮が落凹んだ眼と粗らな頣髯とに病的な対照をなして、河野の心を囚えたのである。そして、看護婦が薬を与える拍子にそっと相図をしたので、河野は初めて我に返った心地で、慌てて病室を辞し去った。
さて帰る段になって、初めの用件が河野の眼の前にぶら下ってきた。彼は一寸途方にくれたが、これはじかに吉岡に話すよりは、敏子さんに話した方がよいと思いついて、そしてそれが最善の方法であると感じて、玄関へ片足下しかけたのを引返して、玄関側の室へ敏子さんを呼んだ。
「実は、一寸吉岡君に逢って、用事だけを果すつもりだったのですが、つい話し込んでしまって、その上用事も持ち出さないでしまったものですから、あなたへ……。」
といった風の調子で、彼は懐から洋封筒を敏子さんの前に差出した。
敏子さんは喫驚して眼を見張った。
「吉岡はそんなことを私へは少しも申しておりませんでしたが……。」
河野は一寸驚いたが、次第に頭を垂れていった。
「それも吉岡君の好意からだったのでしょう。私に気まずい思いをさせないようにと、あなたにまでも隠しておいてくれたのだと思います。」
そして彼は、吉岡から八百円借りた顛末を話した。──それは四年前の年の暮、河野が最も窮迫した生活をしてる時のことだった。友人の紹介でうっかり借りた高利の金がつもって千円余りになっているのから、厳しい督促が来て、遂に執達吏を向けられてしまった。僅かな家財道具は勿論彼が自分の生命としてる製作品にまで、差押の札が貼られた。そのうちの一枚の静物画は、或人の頼みで苦心に苦心を重ねて仕上げたもので、その報酬を方々に割りあててどうにか年を越す予定にしていたものである。それが差押えられては、無一文のままで年末と正月とを迎えねばならなかった。もう二三ヶ月分もたまってる家賃、諸払い、方々への少しずつの義理、僅かながらの正月の仕度、流質の通知を受けてる質屋への利払い……そんなもののことを一度に考え廻しながら、彼と妻とは、幼い子供をかかえて途方にくれた。どこにも助けを求め得られる人が見当らなかった。細君と恋に落ちて同棲する時、彼の方も細君の方も親戚中の反対に出逢って、今では義絶の形になっていた。また友人連中のうちでも、少し余裕のありそうな方面は皆不義理をしつくしてしまってるし、その他は彼と同様に貧乏な者か金に不自由な独身者ばかりだった。で彼は思案に余って二日間もぼんやりしてた揚句、ふと吉岡のことを思いついた。吉岡とは年令も少し遠いし境遇も非常に違うし、単に画家と美術愛好家というだけの交りで、金銭のことを持ち出せるほどの間柄ではなかったが、ただ一つ心持の上の妙な交渉を持っていた。彼が周囲の反対と将来の目当とを無視して、細君と向う見ずな同棲を決心しかけた時、偶然彼は吉岡と二人で晩飯を食って、酒の酔も少し手助って、自分の恋愛を打明けたのだった。その時吉岡は、今後の生活をどうする気か、君の芸術をどうする気か、と云って猛烈に反対した。相手の女が、教員排斥のことか何かで郷里の女学校をしくじって、東京へ無断で飛び出してきて、今では遠縁の家へ預けられてる身の上だということも、彼の反対の理由の一つだった。然し河野は屈しなかった。云い張ってるうちに一層決心を固めた。ただそれだけのことだったが、それが変に二人の間に一種の親しみと気兼ねとを拵えていた。それで河野は、吉岡に頼るのが心苦しかったけれど、切迫つまった余り思い切って出かけてみた。吉岡は彼の窮状を黙って聞いていたが、結局、別居こそしているが自分には父もあるし、金銭の自由は全くつかないのだけれど、四五日待ってみてくれ、考えてみるから……という返辞をした。河野はとても駄目だと思って帰った。それでも心待ちにしていたが、四五日たっても便りがなかった。すると一週間ばかりして、河野夫妻が絶望の腹を据えてる所へ、吉岡はふとやって来て、高利貸からの証文まで持って来てくれた。無理に金を融通した上、自分で高利貸の所へ出かけていって、八百円に負けさしてきたのだそうだ。河野夫妻は感謝の涙にくれた。
河野はその時のことを──勿論細君との恋愛について吉岡が反対したという昔の話はぬきにして──敏子さんへ話しながら、眼の中が熱くなるのを覚えた。
敏子さんは彼の話を、それから、それから、というように急いで簡単に切上げさして、その上、その折の書付なども見たことはないのでと云って、やはり金を取ろうとしなかった。
「書付なんか吉岡君は書かせはしませんでした。全くの好意からだったのです。吉岡君にお聞きになればよく分ります。実はもうとっくにお返ししておかなければならなかったのですけれど、始終気にかかりながらもつい延び延びになってしまったのです。漸く都合がついて持って上ると、吉岡君が急にお悪いようで、何だか変ですけれど、初めからそのつもりだったのですから、まあ御恩は御恩として、せめて元金だけなりと納めて頂けると、大変有難いんです。このままでは実際心苦しいんです。吉岡君が一言も何とも云ってくれないので猶更……。」
哀願の調子でそう云ってるうちに、河野の顔にふと苦しい表情が浮んだ。それに気付いてか、敏子さんは急に折れて出た。
「では吉岡が何と申しますか、兎も角も明日までお預りしておきますから、明日にでも……明後日にでも、おついでの時にお寄り下さいませんか。」
そして敏子さんは厚っぽくふくらんでる洋封筒を手に取りながら、かすかに顔を赤らめた。河野も同時に顔を赤くした。
二
吉岡は河野との対語に気疲れがしたせいか、うとうとと眠っていた。それで、敏子さんが八百円のことを彼へ話したのは、晩の六時半頃だった。
「私少しも知らなかったものですから、あなたにお聞きしてからと思いましたけれど、河野さんがあんまり仰言るので、何だかお気の毒のような気がしまして、一時お預りしておきましたが、どう致しましょう。受取っても宜しいでしょうか。」
吉岡は差出れた洋封筒をちらりと見やって、それから眉根をしかめたまま考え込んでしまった。その様子が敏子さんの腑に落ちなかった。だいぶ待ってから、低い声で尋ねかけた。
「他に何か訳がありますのですか。河野さんはただあなたから借りたのだと、それだけしか仰言いませんでしたが……。」
「一体河野君はお前にどんなことを云ったんだい。」
それで敏子さんは河野から聞いたことを──八百円の事件を──吉岡に話した。が吉岡は、そんな話はどうでもいいという風に、彼女の言葉を遮って尋ねた。
「どういうつもりで河野君は、今時分そんな金を拵えて返しに来たのか、そして僕には何とも云わないで、お前にそっと渡していったのか、そんなことについては何とも云ってやしなかったのかい。」
「いいえ別に……。ただあの時助けられたお影で、今はどうにか生活が立つようになったのだから、あなたにも安心して頂きたいと、そんなお話でしたわ。そして、つい話し込んで云いそびれたから、私へお渡ししておくと云って……。」
そこで吉岡はまた黙り込んで、仰向に寝たまま天井を睥めていた。それが十分か十五分も続いた。敏子さんはどうしていいか分らなくなって、彼の枕頭に散らかってる画集や雑誌などを片付けた。すると、其処にぽつりと置き残されてる洋封筒へ、吉岡は急に片手を差伸して、中の紙幣を引出したが、暫くじっと見てた後に、苛立たしく投り出した。紙幣がぱっと乱れ散った。
「まあー。」
呆気にとられてる所へ、怒った声で押っ被せられた。
「勝手にするがいい。」
敏子さんは面喰った気持で、散らかってる紙幣をぼんやり眺めていた。そこへ看護婦がはいって来た。敏子さんは顔を真赤にして、紙幣をかき集めた。
「あら、どうなさいましたの。」
不用意に発した言葉に看護婦も自分でまごついて、室の隅っこへ行って坐った。
吉岡は一言も発しなかった。何か一心に考え込んでるらしい眼付で、じっと天井を睥め続けていた。暫くたって敏子さんが言葉をかけても、眉根一つ動かさなかった。病気が悪くなってから、彼のそういう執拗な不機嫌さに馴れていたので、敏子さんは強いて問題に触れないことにして、金を納めた洋封筒を帯の間に差入れた。
それから三十分とたたないうちに、吉岡の蒼白い頬にぽっと赤味がさして、額に汗がにじんできた。看護婦が調べてみると、熱が高まって脈搏も多くなっていた。
「何かひどく興奮なすってるようでございますが……。」
小声で看護婦からそう囁かれて、探るような眼付で見られると、敏子さんは訳の分らない狼狽を覚えた。腸に新たな障害を来してるので、大切な時期にさしかかってると、主治医から警告された矢先なので、猶更敏子さんは落付けなかった。
「何か気に障ることがありましたら、すっかり云って下さいよ。私で出来ることなら、河野さんにそう云ってやってもようございますし、何とでも致しますから。」
看護婦の手前も構わずに、敏子さんはいろいろ尋ねかけて、彼の心を和らげようとしたが、彼は黙りこくって、一心に何やら考え込んでる様子だった。結核患者特有の敏感な意識と執拗な気分とで、内心の或る不愉快なものにじりじり絡みついていってることが、敏子さんにもはっきり見えてきた。それと共に、看護婦が妙に二人の間を距てるような気勢を示してきたことも、敏子さんの心を打った。
敏子さんは家の中を、あちらへ行ったりこちらへ来たりして、いつになく気が落付けなかった。
そういう所へ私はひょっこり行き合したのである。
敏子さんは私をいきなり茶の間へ引張っていって、其の日の出来事を話してきかした。然し聞いてる私にも更に要領が掴めなかった。敏子さんには猶更だったらしい。
「ええ、さっぱり訳が分らないから困ってしまいますの。何で吉岡がああ苛ら苛らしだしたのか、それさえ分っておれば、何とかしようもありますけれど、いくら考えても合点がゆきませんのよ。もし……何でしたら、あなたからそっと聞いて頂けませんでしょうか。」
頼まれてみれば引受けないわけにはゆかなかった。然し私はそういうことには極めて不向だった。その上、何だか馬鹿馬鹿しいことのようでもあるし、非常に込み入った重大なことのようでもあるし、一寸掴み所がなかった。河野が四年前に借りた八百円を返しに来た、単にそれだけの当り前のことで、別に不思議はないのだから、吉岡がつまらないことに神経を苛ら立たせてるのか、または裏面に複雑な事情が潜んでるのか、どちらかに違いなかった。がどちらにしろ、吉岡が危険な容態である以上は、それに触れるのは困難なことだし、一歩離れて考えれば、馬鹿げてることだった。まあいいや、吉岡に逢った上で……そう私は決心して、病室へ通った。
その時私は幸にも、ロシアやドイツやスウィスあたりの、人形や木彫の玩具などの画帳を一つ見出して、吉岡の無聊を慰めるためにと持って来ていた。で何気なく病室にはいっていって、それを吉岡の枕頭に差出した。
「一寸面白いものが見当ったから持って来たよ。」
「そう、有難う。」
吉岡は私の方をちらと見やって答えたまま、画帳には手も触れなかった。
「気分はどうだい。」
「うむ。」
曖昧な返事をして、私の方を見向きもしなかった。
その不機嫌な様子よりも、何だかじりじりしてるらしい顔付に、私は注意を惹かれた。もう十日ばかり食慾不振で、僅かな流動食しか取っていないので、眼が凹み頬の肉が落ちてるのは当然だが、その顳顬のあたりに蒼白い筋が浮いて、びくりびくり震えていて、一寸した衝動にもそれが手足の先まで伝わってゆき、神経質な痙攣的な震えとなってゆきそうだった。こんな風じゃとても駄目だと私は思った。そして暫く黙ってた後に、早く退出して用件を敏子さんに返上しようと考え初めた。
その時、吉岡は不意に看護婦の方へ呼びかけた。
「一寸話があるから、あちらへ行っててくれないか。」
私は吃驚したが、看護婦は落付払っていた。
「でも、余りに込み入ったお話をなさいますと……。」
「大丈夫だ。一寸の間だから。」
看護婦が意味の分らない目配せを私の方にして、不機嫌そうに出て行った時、私はもう蛇の前に出た蛙のように竦んでしまったのである。そういう私に向って、吉岡は一二分の沈黙の後、いきなり爆発しかけてきた。
「君は敏子に頼まれて僕の所へやって来たんだろう。」
私はぎくりとしたが、眼を外らし努めて平気に答えた。
「いや別に……。先刻も云った通り、その珍らしい画帳が見付かったので……。」
「初めはそのつもりだったろうが……。いやもういいや。君の好意は僕にもよく分ってる。僕は人の好意を無条件に受け容れることが好きなんだ。皆僕のことを思ってしてくれてるんだから、僕はただ感謝している。然し君達はどうしてそう寄ってたかって、陰でこそこそ相談し合ってるんだい。僕がもう明日でも死ぬかと思ってるのだろう。」
私は黙って彼の顳顬の震えを見ていたが、どうせ遁れられないことと思って、じかに問題に触れていった。敏子さんがひどく心配してることや、敏子さんから頼まれたことなどを打明けておいて、それから、河野が金を返しに来たのはただ当り前のことで、それを気にするのが可笑しいというようなことを、静に説き初めた。然し吉岡は私の言葉が終るのを待たなかった。病的な鋭利な調子で私に突きかかってきた。
「河野君があの八百円の金を返しに来たのは、表面から見れば何でもない当り前のことさ。然しその気持を僕は不快に思うのだ。今のうちに返しておかなければ、もし僕が死にでもしたら……とそう思って、急いで金を拵えて持って来たのだ。河野君にとっては、金を返す返さないが問題じゃない。もしそれだけのことだったら、僕が生きてるうちに返そうと、僕の死後敏子へ返そうと、同じじゃないか。僕にとっては、八百円の金くらい何でもないことを、河野君はよく知ってる筈だ。僕はあの時から、……もう四五年になると思うが、一度だって金のことなんかを河野君に云った覚えはない。僕の一寸したあれだけの好意でも、河野君の生活に何かの役に立って、それで河野君が立派な作品を拵えてくれたら、それだけで僕は満足なんだ。金のことなんかどうだっていい。ただ、君から立派な作品が生れるように祈ってると、僕はあの時云っておいた筈だし、其後だって、僕が気にしてたのはただ河野君の芸術だけだった。それなのに、金のことは不愉快だから敏子にまでも隠しておいたのに、こんどのことで、僕は美事に裏切られてしまったような気がする。八百円余った金があって、虚心平気で返しに来てくれたのなら、僕も何とも思やしない。然し、苦しい中を無理算段して、僕の生きてるうちに返さなければ永久に機会を逸する、とそういう気持でされたんでは、僕だって面白くないじゃないか。僕は河野君からそれほど敵愾心を持たれることをした覚えはない。考えて見ると、昔河野君が今の細君と恋し合って同棲しようとした時、断然反対したことはある。また河野君の作品について、不満な点を指摘したことはある。然し河野君が僕の言葉なんか無視して、細君と同棲して落付いた生活にはいったり、自分の信ずる手法で製作を続けていったりするのを見て、僕は却って心嬉しく思ったものだ。それを河野君はよく知っててくれる筈だ。僕はなまじっか財産を持ったり、また肺病にとっつかれたりして、何一つまとまった仕事を為し得ないで、空疎な生活を送っているので、河野君が一本調子の途をぐんぐん歩いてることを、友人として非常に力強く思ったものだ。よかったら僕の財産なんか全部使ってくれても構わない、とそんな気がしたことさえある。それを僕は美事に裏切られてしまったのだ。」
私は彼の調子に威圧された形で、そして彼の顳顬の震えに気を取られながら、弱々しく反対してみた。
「然し河野君は、何もそんな……裏切るとか、君の死を予想してとか、そんな気で金を返しに来たのじゃなくて、ただ単純な気持からだったろうと思うよ。」
「それじゃあなぜ、僕にじかに話さないで、帰りぎわに敏子へそっと渡していったのだ。僕の病気がひどいからというのか。……病気がひどいというのは、何時死ぬか分らないという意味じゃないか。河野君ばかりじゃない。敏子だって……君だって、そう思ってることが僕にはよく分る。医者も看護婦もそうなんだ。皆で陰でこそこそやりながら、僕に死の宣告を与えようとしている。然し僕はあくまでそれに反抗してみせるつもりだ。たとい長くは生きられないとしても、僕は死ぬという自覚で死んでゆきたくはない。死ぬ間際まで生きるという意志でいたいのだ。死を自覚して安らかに大往生をしたなどという人の話を、僕は全然信じない。この数日間の経験から信じない。皆が寄ってたかって、君はもう二三日しか生きられないと云っても、僕はあくまでも生きるという意志を持ち続けてみせる。僕は初め、河野君だけはそういう僕の味方であると思っていた。然し今では……。」
云いかけて彼は喉をつまらしてしまった。私は先程から、私の言葉が一寸挾まった間の休息の後、彼の声の調子がすっかり変ったのに気付いていた。軋るような引きち切るような声音になったばかりでなく、言葉の一つ一つが余韻の連絡なしに別々に出てきた。私は何だか恐ろしくなって、もう云い止めさせようと思ってるうちに、彼の言葉がぷつりと途切れたのである。喫驚して顔を挙げると、彼は眼をぎらぎら光らして息をつめていた。はっと思って私が手を出そうとしたとたんに、激しい咳の発作が起った。横向きに上半身をくねらしてるのへ、私は手を添えてやった。暫くは夢中だった。
すぐに看護婦がはいって来た。やがて敏子さんもやって来た。痰吐の中に可なりの量の血痰が吐き出され、水薬で含嗽がなされ、枕が高められ、額に氷嚢がのせられ、そして吉岡が眼をつぶって仰向してる間に、私はいつしか次の室に退いて端坐していた。気がついてみると、私は何とも云えない消え入りたいような思いに沈んで、戸外の虫の声に聞き入っていた。
長い時間がたった。病室の中は静まり返って、人声も物音もしなかった。遂に敏子さんが足音を偸んで出て来て、私を母屋の玄関の方へ連れ出してくれた。
「済みませんでした。」と私は云った。
「いいえ、私こそ。」
そして敏子さんは泣きたそうな顔をして俯向いてしまった。
「事情は大体分りました。何でもないことです。明日また参ります。あなたはなるべく側についてて上げて下さい。」
云い捨てて私は外に出た。空の明るい晩だった。暫く歩いてるうちに気分が静かに落付いてきた。敏子さんに何とも話さず出て来たことが気になって、よほど引返そうとしたけれど、思い直して歩き続けた。
その晩私は街路を長い間歩きながら、いろんなことを考え廻した。然しそれは私一個のことだから凡て省略しよう。そして結局私は、吉岡の心が想像以上に深い所へ落込んでることを知り、また自分にも或る責任がかかってることを感じて、一種の解決案を思いついたのである。──いろんなことを突っつけば突っつくほど、問題は益々こんがらかってゆくばかりだから、いっそ問題の初めに溯って、その一つを解く方がよい。即ち、河野が持って来た八百円の金は、無理算段して拵えられたものかそれとも訳なく出来たものか、それさえ明かになれば、他のことは自然と解決されるだろう。訳なく出来たものとすればこの上ないけれども、たとい無理算段して拵えられたものであっても、そうでないと河野から一言云って貰えば、それで吉岡の心も解けて和ぐだろう。
その一事に私は最後にしがみついていった。そして急に凡てが片付いたような、晴々とした所へ出たような気がした。
三
翌日私は郊外の河野の家を訪れた。河野が朝寝坊のことを知ってて油断したために、出かけた後で逢えなかった。それで至急用が出来たから帰ったらすぐに来てくれるようにと、細君に云い置いてきた。その足で私は吉岡の家へ廻った。敏子さんは睡眠不足のはれぼったい顔をしていた。然し吉岡の容体に変りもないことを聞いて私は安心した。河野が来たらすぐに私の家へ来てくれるように頼んだ。
「河野君に逢った上でまた参ります。一寸話をすればすぐに分ることで、吉岡君の心もそれで解ける筈です。でもそれまでは、私が来たことは内緒にしといて下さい。気を遣うといけませんから。」
そして私は玄関だけで辞し去った。
河野に逢って一言話しさえすればよい、と私は思っていた。そして自宅で河野を待ち受けた。待ち続けて少し苛ら苛らしてる所へ、午後四時頃、河野はやって来た。
河野は敏子さんから何か云われたらしく、気掛りな面持で額の毛をかき上げながら尋ねた。
「吉岡君の所へ行くと、君が僕を待ってるということだったから、すぐにやって来た。何か吉岡君にも関係のある話だそうだが、どういうことなんだい。」
長い髪の毛をもじゃもじゃに乱し、少し時候後れのセルの着物をきて、髭の剃り後を気にするらしく、言葉の合間合間には左手の先で頣を撫で廻してる彼の様子を見ると、あの八百円が可なり無理をして拵えられたものであることを、私は殆んど直覚的に悟った。そしてなるべく遠廻しに話を持ち出した。
「昨日君は吉岡君の家に行ったそうだね。」
河野は直截に答えた。
「ああ、昔かりてた金を返しに行った。敏子さんに渡して来たんだが、そのことも君に逢えば分ると敏子さんは言っていた。何か間違ってたのかい。」
「いや間違いというんじゃないが、君が昨日行った時、吉岡君はどんな風だった。」
「どんな風って、非常に機嫌よくいろんなことを話しかけるものだから、一寸のつもりが一時間近くも話し込んでしまった。」
私はその時のことを詳しく尋ねた上で、吉岡の気持がだんだんはっきり分って来たので、卒直に其後の顛末を述べて、自分の考えを持ち出してみた。
「そういうわけで、吉岡君の気持も首肯けないことはない。然し敏子さんもひどく心配してるし、もし病気にでも障るようなことがあったら困るから……。」そこで私は吉岡の最後の言葉を思い出して、非常に陰欝な気分に閉された。「何とか吉岡君の心を和らげたいと思うんだ。それには問題の初めに溯って、君が持って行った八百円の金が、全く訳なく出来たものだということを、たとい実際はどうだろうとも、あり余ったのを何気なく返しに行ったという風に、吉岡君に信じさせるに限ると思うんだがね。」
河野は太い眉根をきっと寄せて、左手で頣を強くしごきながら、黙って考え込んでいた。
「どうだろう。そういう風にはゆかないものかしら。」
河野は顔を伏せながら答えた。
「僕にしろというなら、僕は何とでもするし、どんな嘘を云ってもいい。然し吉岡君はそんなことを信じやすまい。実際のところ、僕にとってはあの八百円は大金だったのだ。方々借り歩いて、足りない所は妻の着物までも質に入れたんだ。僕はあの金を敏子さんに渡す時、どんなにか恥しい思いをした。敏子さんは受取りながら顔を赤くしたようだったが、屹度僕の様子を気の毒に思ったに違いない。僕は顔中真赤になってしまった。封筒の中の金が、二十円や十円や五円などごたごたした紙幣になってるのが、ぱっと頭に映ってきて、それを寄せ集めた時の惨めさが心にきたからだ。僕が吉岡君の前にじかに出せなかったのも、今から考えると、そんなことも原因だったような気がする。」
「それじゃ君、そんなに無理して返さなくともよかったじゃないか。」
河野はまた左手で頣をきゅっとやった。
「そう云えばそうなんだが……いや、そこがやはり吉岡君の誤解の重な原因だろう。僕は可なり金銭には無頓着で、随分友人の金を借りっ放しにしてるのもある。然しどういうものか、吉岡君から借りたのだけは、妙に頭にひっかかっていた。一番苦しい時で一番有難かったので、強く頭に刻み込まれているせいかも知れない。然し僕は何も、吉岡君がいつ死ぬかも分らないから今のうちにって、そんな気持は少しもなかったのだ。あんまりひどい誤解だ。或は妻にはそんな気持が多少あったかも知れない。早くお返ししなければ済まないと始終言ってたから。然しそれは女のことだから、大目に見てやってもいいと思う。そして僕達は二人共、金を返せば恩義までも返してしまうと、そんな考え方は少しもしてやしないんだ。僕はただ感謝の念だけしか持ってやしなかった。ただ一つ、変な気持が動いてたことは事実だが……。」
「変な気持って、差支なかったら話して見給いな。」
河野は可なりの間左手で頣をひねって考えていたが、私の方をじっと見ながら云い出した。
「これは恐らく僕の僻みかも知れないが……いや屹度、恩義を受けた者の忘恩な僻みだろう。吉岡君は、もうあれから四年にもなるが、金のことなんか噯気にも出さないで、逢えばいつでも僕の芸術のことばかり尋ねてくれた。所が不思議にも、それが僕には非常につらかったのだ。金を出してくれた時、吉岡君は僕にこう云った。金のことは気にかけないがいい、返そうと返すまいと、そんなことは君の都合でどうだっていい、ただ立派な作品を生んでくれ給え、そして、気に入ったのが出来たら僕に一枚くれ給えと。その時僕は本当に感激したものだ。するとだんだん時がたつにつれて、そういう芸術上の負担が苦痛になりだしてきた。吉岡君が僕の芸術心を鼓舞してくれる度毎に、僕は実際肉体的に鞭打たれるような思いをしたものだ。八百円の金を催促してくれるなら、僕は平気でしゃあしゃあとしていたに違いない。そして金を返そうなどとは思わなかったに違いない。然し吉岡君は金銭の負担を僕に荷わしたのではなくて、僕が生命としている芸術の上の負担を荷わしたのだ。僕はそれを間違っていると云うんじゃない。不満に思ってるのでもない。いや却って、本当の友人として感謝してるくらいなんだ。それなのに、僕はそのためにどんなに苦しい思いをしたか分らないのだ。僕は今その気持をはっきり説明することは出来ないが、君にも同感は出来るだろう。」
私は黙然としてただ首肯いてみせた。
「僕はその苦しさから遁れたいために、妻と一緒になって八百円を調達することにした。勿論金を返したって、恩義を返してしまうことにはならないから、芸術上の負担が軽くなるとは思ってやしなかった。が何かしら、せめて金でも返したらという気持だったのだ。そして吉岡君があんなにひどいとは思わなかったものだから、八百円出来るとすぐに持っていったのだが、僕としては、もっと単純に受け容れて貰いたかった。吉岡君の気持を聞いたり自分の気持を顧みたりすると、僕は変に頭が重苦しくなってくる。」
太い眉の下に眼を見据えて、歯を少し喰い違いにかみしめて、黙り込んでしまった彼の様子を見てると、私も変に頭が重苦しくなってくるのを感じた。それからなおぽつりぽつりといろんなことを話し、次に二人で一寸した食事をしに出かけ、酒を飲みながらも話したが、結局取り留めもないことばかりで、畏友としての吉岡に対するどうにも出来ない感情に浸って、口を噤む外はなかった。そしてその間に私は、八百円が雑作なく出来たというような嘘を、河野の口から吉岡へ云わせることは、実際に出来もしなければ、よし出来たとて不結果に終るのみである、ということをはっきり感じた。
「どうしたらいいんだろう、僕は。」
街路の片端に立止って、河野は私の心に向ってじかに呼びかけてきた。
「兎に角、もう一日二日待っていてくれ給え。何とか僕が取計ってみるから。」
「君はこれから吉岡君の所へ行くのか。」
「うむ、敏子さんに約束したこともあるので。」
河野はじっと私の顔を見ていたが、何か云い出そうとするのを思い返したらしく、ぐるりと向きを変えて歩み去った。
私は一人で前晩のようにまた街路をさ迷い歩きながら、凡てのことを考え廻してみた。一寸した気の持ちようで何かの糸口さえ掴めば、それで問題は訳もなく解決しそうな気がしたけれど、その糸口がどうしても掴めなくて、底深いこんぐらかったものの中へすぐにまた陥っていった。そして結局私は、凡てをそっくり否定してかかろうとした。吉岡をあのまま放っておくのは気に掛ることだったけれど、もう最後の手段として何事にも触れないで、時の経過を待つの外はないと腹をきめた。
からりと晴れて、月の光の冴えた、涼しい晩だった。私はその月の光を見い見い、自分の陰欝な気分を払い落そうとしながら、吉岡の家へやって行った。もう十時近かった。
「如何でございましたの。」
敏子さんは何もかも一度に尋ねかける眼付で私を迎えた。私はそれには答えないで、先ず吉岡の様子を尋ねた。
吉岡の容態はよくなかった。午後に来診してきた医者は、首をひねって、何か無理をしはしなかったかと尋ねたそうだった。神経が非常に尖っていて、それが一々患部を刺戟するような状態になっているので、最も平静にさしておかなければいけないと、眉をひそめながら云い置いていったそうだった。吉岡は別に苛ら立った風もなく、熱も下り咳も余り出なかったが、ただ脈搏が非常にいけなかった。
「それならば猶更、もうあのことには触れないで、そっとしとく方がいいでしょう。」
そう私は結論から先に云っておいて、前日の吉岡との話やその日の河野との話などを、かいつまんで敏子さんに聞かした。
「そんな風に変に気持が喰い違っているので、触れれば触れるほどこんぐらかるばかりです。黙ってそっとしとくより外はないと思いますが……。」
「そうでございますね。」
敏子さんは私の下手な説明が腑に落ちたかどうか、曖昧な返辞をしたが、不意にぎくりとしたような様子で、帯の間から大きな洋封筒を取り出した。
「でも、このお金は、どうしましょう。」
敏子さんはその洋封筒を、前日からずっと、そしてその日も朝から、帯の間に挾んで持ってたものらしい。それが妙に私の心を惹いた。
「そんなものはどこか、おしまいなすっといたらいいでしょう。そのうちに片がつくでしょうから。」
その時敏子さんが心持ち眼を丸くして、ちらと微笑の影を浮べたので、私は大変心が軽くなるのを覚えた。そして一寸病室に通して貰った。
私の考えでは、晴々とした顔付でいっていって、昨日のことなんかはけろりと忘れはてた様子で、当り障りのない挨拶をして、少くとも表面は黙殺で一切のけりをつける、とそういうつもりだった。変に相手の気持を探ろうとするようなことよりも、呑気を装ったこの芸当なら、私にもよく出来そうだった。所が病室の前までくると、変に何か重苦しいものに威圧される心地がして、頬の筋肉が独りでに硬ばってくるのを覚えた。
吉岡は仰向きに寝ていた首を少し私の方へ向けかけたが、すぐにまた元の姿勢に返った。私は少し離れた所に坐りながら、云訳でもするような調子で云った。
「ぶらりと散歩に出てみた所が……。」その時、先刻見た東の空を出たばかりの綺麗な月が私の頭に映った。「あんまり月が綺麗なものだから、当もなく歩いてるうちにこの近くまで来たので、一寸寄ってみた。外はいい月夜だよ。」
「え、そんなにいい月なのか。」
何気なく云ったことが不思議に強く反応したので、私は少し面喰った。
「なに、平凡なただの秋の月なんだが……。」
「そりゃあ月に変りはないさ。」
切り捨てるように云い放って、電燈をまじまじと見守ってる顔の、骨立った所々に光を受けて、肉の落ちた凹みには、仄暗い影が匐い寄っていた。それを何気なく見つめてるうちに、私は沈黙が苦しくなってきた。そして、何か云いたいがその言葉が見当らないもどかしさで、しいんとした中に坐っていると、他の意外な圧迫を感じだした。
それは一寸説明しにくいが、まあ云わば、今まで気にも留めないでいた看護婦が──白い服を着て俯向き加減に室の片隅に坐ってる看護婦の存在が、俄にむくむくとふくれ上って私の前に立塞った、というような感じだった。私達他の者がいくら側から気を揉んでも、病人を包み込み病人が呼吸してるその空気は、全く彼女の支配下にある、というような感じだった。
私は妙な気持で彼女の方を眺めやった。白い服の裾がふうわりと膝のまわりに円く大きく拡がっていた。寝不足の艶のない顔に、真直な細い眉が取ってつけたように逆立っていた。──吉岡の容態は案外危険なんじゃないかしら、とふとそんな気もしたし、自分自身が其場に不調和な邪魔もののような気もした。
沈黙が続いた。
「では、大事にし給いな、また来るから。」
そう云って私は、お辞儀をするような風に身を屈めて、室から出て行った。
玄関で私は敏子さんに引留められて、茶菓子の馳走になった。女中達が眠そうな眼をしていた。
「あのことについて何とか仰言いましたの。」
「いいえ、何とも。」
暫くすると私の方から云った。
「医者はそうひどいようには云っていなかったんですね。」
「ええ。……でも、悪いんでしょうか。」
「そうでもなさそうですが………。」
低い声でそんな話をしてから、敏子さんは長い間病室の方へ行ったりした。
いつのまにか夜が更けて、もう電車も無さそうだった。私は勧められるままに泊り込んだ。もし吉岡に万一のことがあったら……という思いがいくら追い払ってもちょいちょい顔を出した。春の終りに喀血をして、夏中病床に親しんで、秋風の立つ頃風邪の心地から、急に容態が悪くなった、その全体が一目に見渡された。遅くまで眠れなかった。
後で聞いたのだが、その晩も敏子さんは長く吉岡の側についていた。吉岡はすやすや眠ってる風なのに、突然眼を見開いては、二人共寝てくれと云った。そんなことが何度もあった。それで敏子さんは寝ることにした。看護婦はその晩と前晩と二晩続いて、殆んど一睡もしないと云っていいくらいに、吉岡の側につきっきりだったそうである。
四
翌日早朝に私は起き上った。
前日からの乱れた髪を一寸かき上げて、顔だけはちゃんと化粧している敏子さんが、晴々と緊張した面持で私の所へやって来た。
「あなたが泊っていらしたことを云いますと、吉岡はすぐに逢いたいような風でした。あちらへいらっして下さいませんか。」
「え、どうかしたんですか。」
「ああそう、あなたにはまだ申上げませんでしたのね。」
そして敏子さんは朝の出来事を話してくれた。
夜が明けたばかりの頃、敏子さんが眼を覚して病室の方へ行くと、吉岡はそれを待ち構えていたらしく、側に呼んで、八百円の金をどうしたかと尋ねた。まだ預ったままであると答えると、それならば、看護婦の弟の学資にそれをそっくり寄附しようじゃないかと、思い込んだ調子で相談しかけた。敏子さんは返辞に迷った。その看護婦は幼い時母親に死なれ、父親とは別れ別れになり、今では頼りになる身内もなく、医学専門学校へ通ってる一人の弟へ、独力で学資を出してやってるという、憐れな感心な話だったし、また、吉岡の付添に来てから一ヶ月近くの間、言葉少く而もごく忠実に尽してくれるので、敏子さんは好意を懐いていた。その上、敏子さんは実際洋封筒の金を持てあましてもいた。然し、そんなことをしては河野に済まないようにも思えた。それを云い出しかねてもじもじしてると、吉岡は云った。
「僕は今すぐあれを渡してしまって、何もかもさっぱりしたいんだ。」
そうだ、早くさっぱりしてしまった方がいい、と敏子さんは考えついて決心した。そこへ顔を洗って戻ってきた看護婦の看病窶れの姿を見て、一層その決心が固まった。
そして間もなく、吉岡と敏子さんとは、看護婦を吉岡の枕頭に呼び寄せて、河野が置いていったままの洋封筒を差出したのである。が彼女は下を向いたまま、どうしても受取ろうとしなかった。敏子さんは静かな調子で願った。吉岡は強い調子で説きつけた。
「初めからのことを知ってる君には、僕達が無理に好意を押しつけようとしてるように取れるかも知れないけれど、決してそうじゃないんだから……。受取って貰った方が僕には有難いんだ。僕が話してきかした時君は、河野さんの気持が分らないと云ったじゃないか。僕には君がそれを受取らない気持の方が分らない。そんなつまらないことを気にかけないで、さっぱり忘れてしまった方がいい、いつまでもそれにこだわっているのは、贅沢なことだと……いや君は贅沢だとは云わなかったが、まあそれと同じ意味のことを、僕にくり返して云ってくれたじゃないか。そのことなんだ。僕はそんな贅沢な気遣いから、すっかり遁れてしまいたいんだ。君が受取ってさえくれれば、何もかもさっぱりするんだ。本当はもっとたってからにした方がいいかも知れないが、僕のような病人は気が短くって、ぐずぐず引延すのは嫌でたまらない。僕の心持をからりとさせるために、納めといてくれ給え。君はただ貰うのは心苦しいと云うだろうが、それ以上のことを僕にしてくれた。僕はこの二三日、皆から寄ってたかって、死の宣告を与えられてるような気がしていた。もし万一の場合があったら……とそう皆が思って、影でその時の用意ばかりをしている、とそういう風に感じた。生きようと思ってる僕にとって、それがどんなにひどい圧迫となったかは、健康な君達には想像もつくまい。所が昨夜、僕は君の言葉を聞いて空が晴れたような気がした。私がついていた患者の人で、亡くなったのは今迄に一人もありません、私は看護婦をしている間、一人の患者さんも殺さないと誓っています、あなたも屹度おなおししてみせます。とそういう風なことを君は云ってくれたろう。僕はその時の君の顔付で、それが嘘の言葉でないことを知った。そしてたったそれだけのことが、僕にはどんなに力となったかも知れない。僕が生きられるとすれば……実際はいつ死ぬか分らないけれど、死ぬ間際まで輝かしい生の希望を持ち続けられるとすれば、それはみな君のお影なんだ。僕は本当にお礼を云うよ。そういう僕の気持に対してでも、君はそれを受取ってくれてもよさそうなものじゃないか。」
「ほんとに、何にも云わないで、弟さんのために納めといて下さい。」と敏子さんは涙ぐみながら言葉を添えた。
それで看護婦は、お辞儀をしながらぽたりと涙を落して、洋封筒を押し戴いた。敏子さんも涙を落した。
「どうしたのか自分でも分りませんけれど、しきりに涙が出てきて困りましたの。」と敏子さんはその話を結びながら、また興奮して涙ぐんでいた。
私は勢よく立上った。敏子さんに連れられて離れの病室に通った。
吉岡の顔は見違えるように変っていた。朝の光のせいばかりではなく、陰欝な刺々した曇が取れて、静に落付いて澄んでいた。今まで垢じみていたのを、湯にはいり髯を剃った、というような変り方だった。それでもやはり、頣には粗らな髯が伸びており、頬は蒼白く肉が落ち、眼は凹んで底光りがしていて、どこからそういう変化が来たのか捉え難かった。軽い驚きで眺めていると、ふと可笑しな比較が私の頭に浮んだ。今迄の彼の顔を殼のままの鶏卵であるとすれば、今の彼の顔は、殼をはいだ白身と黄身とだけのそれだった。そして私は或る聖い恐れをさえ感じた──臨終にぱっと輝く生命の光り、それに対するような聖い恐れを。でも彼は、熱も下り脈もよほど順調になっていて、平静な呼吸をしていた。
「気分が大変いい。」と彼は云った。
「昨夜つい遅くなったものだから……。」と私は弁解するように云った。
「そうだってね、よく眠れたかい。」
「ああ。」
「僕は非常によく眠れる時があったり、ちっとも眠れない時があったりするんだが、どんな場合にでも眠るのはいいことだね。でも、昨夜は眠れなくて却っていいことをした。」
「いいことって……。」
「お影で月を見たよ。いい月夜だと君が云ったのを思い出して、それが是非見たくなって、あの人とさんざん云い争って喧嘩をした揚句、とうとう雨戸を開いて貰って、障子の硝子から眺めたんだが、沈みかけた半分ばかりなのが実に綺麗だった。……が不思議だねえ。月の光を見ると同時に、虫の声が急に聞えだしてきて、後で雨戸を閉めてからも朝まで聞えていた。それまでは少しも聞えなかったのに……。」
「それはただ気付かなかっただけのことじゃないのか。」
「いや、しいんとしていて、僕は何かに聞き入るような心持でいたので、気付かない筈はなかったのだ。月を見てから後は雨戸をしめても、うるさいほどはっきり聞えたんだからね。」
「何だか夢みたいな話だね。」
「ああ全く夢みたいな話さ。月を見ながら、あの人がお伽噺をしてくれたんだから。」
「お伽噺を……。」
「そうだまあお伽噺だ。」
その声を聞きつけてか向うの隅で何やら話し合っていた敏子さんと看護婦とが、一度に顔を挙げて私達の方を見た。看護婦はもう朝の身仕度を済していたが、櫛の歯のよく通った大きな束髪と顔に塗った仄白いものとに対照して、まざまざと睡眠不足の疲れが現われてる頬や額の皮膚の下に、何だかこう厳粛な一途な信念とでもいうようなものが露わに覗き出していて、ぴんとした細い一文字の眉が一寸美しく見えていた。が敏子さんの方は、もう先刻の興奮からさめて、解き放されたような安心しきったような風に、細面の頬の肉をうっとりと弛ませていた。
私は眼を外らして、露を含んだ庭の植込に、斜にさしてる黄色っぽい朝日の光を見ながら、吉岡と看護婦とが昨夜どんな話をしたのだろうかと想像してみた。がそれは、月の光、虫の聞、肺病患者、看護婦……そう云ったものから連想される話とはずっと異った、至極健全な常識的な而も謎のような、全くお伽噺とも云えるようなものだったに違いない。
吉岡は私の視線を辿って、障子の腰硝子から庭の朝日の光を仰いだ。暫く黙ってた後に、低い声で云った。
「だが………月の光や虫の声よりも、朝日の光の方がいいね。」
それでも私の耳には、植込の影にちろちろ泣き後れてる虫の声がび聞えていた。振向いて見ると、彼は眼を見据えたまま珍らしく微笑んだ。その、爽かな明るみの中に浮出してる窶れきった蒼ざめた頬に上った、弱々しい恥しそうな微笑の方が、お伽噺なんかのことよりも深く私の頭に刻み込まれた。
そしてもう私達は、河野のことや八百円の金のことなんかは、一言も口にしなかった。そんなことはどこかへ飛び去っていた。──表面から見れば、得をしたのは看護婦である。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2)」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「改造」
1924(大正13)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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