人間繁栄
豊島与志雄
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津田洋造は、長男が生れた時、その命名に可なり苦しんで、いろいろ考え悩んだ末、一郎と最も簡単に名づけてしまった。長女が生れた時も、やはり同様にして、丁度春だったので、春子と最も簡単に名づけた。そして、それが結局好都合となった。彼は男の子が出来る毎に、二郎、三郎、四郎……と順々に名づけていった。九郎まできたら、此度は自分の名前を一字冠して、洋一郎、洋二郎……としてゆくつもりだった。女の子に対しては、生れた時の季節や花の名などをつけることにした。そして今、四十歳にして彼は、男の子が一郎から八郎まで八人、女の子が春子、冬子、梅子、秋子、桃子の五人、合計十三人の父親だった。
十三人というからには、勿論母親は一人ではなかった。皆合して五人いた。
男一人に女五人、そして子供十三人、これなら充分一家繁栄で、目出度くなくもない……と津田洋造は考えた。そして自分が四十歳になったのを機会に、皆一堂に会してみたらと思って、妻の八重子に云ってみた。
「俺はもう四十になったのだから、体力の方から云えば、一生の盛りを越して、これから次第に衰えるかも知れないし、それよりも先ず第一に、酒の量が多いから、脳溢血だの脳貧血だの、そんな風な病気で、いつころりといってしまうかも分らない。だから、今のうちに、四十になったのを機会に、一度皆一緒に……お前が知ってる通り、丁度十三人の子供があって、互に会ったこともないのがあるから、一緒に集ってみたらと思うんだがね、どうだろう。一つ賑かに、園遊会みたいなことをやってもいいし、何処かへ出かけていってもいいし、兎に角皆の顔合せだけを、何とかしてみたいと思うんだがね……。」
八重子は長火鉢の前に、人形のように坐っていたが、眉根をぴくりとさした。
「そして、母親達も一緒でございますか。」
「そうさね、乳飲児や小さいのがあるから、子供ばかりというわけにもゆくまい。」
「それでは私だけ欠席さして頂きます。家の子はもう私が参らないでも大丈夫ですから。」
「それは困るよ。欠席とか出席とかそんな問題じゃないんだ。お前が俺の妻として、会の中心になってくれなくちゃあ……。」
「私は嫌ですわ。大勢の前に恥をさらしたくはありません。」
「だって、そんなことは、初めからお前も承知していることだし、子供もみなお前の子になってるじゃないか。俺が他の女に子を生せようと、お前を妻として立派に立ててさえゆけば、それでいいというような約束じゃなかったのかね。」
「ええ、私はそれを兎や角云うのではありません。あなたが他に幾人女をお持ちなさろうと、幾人子供をお拵えなさろうと、それは初めから承知の上のことですから、何とも思ってやしませんし、あなたの本当の妻として、他の女達に指一本指させはしませんけれど、それでも……恥は恥です。」
「恥だって……。ではお前は、初めから不承知だったんだね。」
「いいえ、そんなことを云ってるのじゃありません。あなたは、私が毎日何をしてるか、ちっとも御存じないんでしょう。」
「お前が毎日何をしてるかって……。一体何のことなんだい。はっきり云ってごらんよ。」
八重子は顔を伏せて、黙り込んでしまった。
「おい、どうしたんだい。お前が思ってることを、すっかり云ってごらん。俺はいつもこの通りに、何一つ隠し立てをしたことはないじゃないか。」
八重子はひょいと顔を挙げた。眼がぎらぎら光っていた。
「私だって、あなたに隠し立てをしたことはありません。」
「でも今現に、俺が聞いてもはっきり云わないじゃないか。」
「そんなことを、誰だってすぐに云えるものですか。あなたにはちっとも察しがないんです。こんど……子供でも出来たら、すっかり云ってあげます。あんまり人を踏みつけになすっていらっしゃるから……。」
「え、とんでもないことを云っちゃいかんよ。俺がお前を踏みつけにしてるなんて、馬鹿な。だからすっかり云ってごらんと云うのに。俺に悪いことがあれば何でも改める。え、何のことなんだい、お前が云ってるのは。子供が出来たら云うなんて、そんな待遠いことをしないで、今すぐに云ったらいいじゃないか。」
「だからあなたには何にも分らないんです。」
ぷつりと云い切って、彼女は眉根をぴくぴくさした。それは気持の険悪な証拠だった。この上云い争えばヒステリーを起すかも知れない、と洋造は思って、その問題には触れないことにした。
「では、皆の顔合せの会合は、お前の気持がよくなるまで延しといてもいい。」と彼は云った。
それでも、折角思い立ったことを中途で止すのは、如何にも残念だった。四十になってこれから老衰期にはいるとか、いつ病気で頓死しないとも限らないとか、そんなことは妻に対する単なる言葉の調子で、実際の感じとは縁遠いものであったけれど、十三人の子供を一堂に会合させるということが、この上もなく痛快に思えるのだった。
その痛快だという気持は、二十五六年前まで遡る。
その頃、大学四年の間、津田洋造は一人の恋人を守り続けて、品行方正な学生として通した。然るに、卒業してすぐに結婚しようという希望が、眼の前に迫ってきた間際になって、その恋人……道子から裏切られてしまった。それも、道子の家庭の事情や道子の境遇などからして、止むを得ない成行ではあったろうけれど、彼は一図に失恋の悲痛に馳られて、自殺の決心をした。
彼の家に、無銘ではあるが、長義の作だと伝えられる、白鞘の短刀があった。彼はそれを持出して、甞て道子と二人で甘い一日を過したことのある、江ノ島へ出かけた。勿論その時、どういう方法で何処で死ぬかを、はっきりきめていたわけではなく、ただ漠然と、万一の用意に短刀を携えて、失った恋の追跡を最後に訪れたのだった。そして、道子と共に昼食した旅館へ、ぼんやりはいり込んだ。
わりに暖い初冬の日だったが、客は極めて少なかった。かすかに聞ゆる波の音と共に、夜はしみじみと更けていった。彼は八畳の座敷に一人ぽつねんとしていたが、ふと物に慴えたようにぎくりとしながら、短刀の鞘を払って、一点の曇りもない皎々たる刀の、刀先から鍔元までを、じっと電燈の光にかざして見た。心の底まで冷く冴え渡って、刀の方へじりじりと迫ってゆく。そして胸の何処か遠い奥の方で、宛も夢の中のように、道子、道子……と恋人の名が繰返される……。
廊下に女中の足音がしたので、彼ははっと我に返って、短刀をしまった。それから何の気もなく外へ出てみた。短刀の刀を見てるのと同じ気持の、冷く冴え返った月夜だった。彼は賑かな神社と反対の方へ、橋の方へ歩いていった。
うとうと居眠りをしてる橋番の前を、懐手のままふらりと通りぬけて、ひたひたとした波の音に聞き入りながら、首垂れて機械的に足を運んだ。
橋の半ば近くまで来た時、彼はぞっとして立竦んだ。すぐ其処に、橋の北側の欄干に背をもたせ、橋の上にじかに坐って両足を投げ出し、月の光を正面から白々と受けて、二人の女がいた。一人は銀杏返に結った年増で、旅館の女中らしい服装をし、一人は背も少し低く年も少し若く、小さな束髪に結って、白粉っ気のない浅黒い素顔で、膝に二歳ばかりの子供を抱いていた。
彼は初めの驚きが静まると、思わず二三歩近寄っていったが、言葉が独りでに先に出た。
「何をしてるんだい。」
銀杏返の女が、浴衣の上に褞袍を重ねた彼の姿をちらと見上げて、落付いた調子で答えた。
「風流でしょう、橋の上からお月見で……。」
彼は苦笑したが、一寸その側を離れ難い気持になって、橋の欄干に腰をもたせながら、煙草を吸い初めた。二人の女は、彼が側にいるのを一向気に留めぬらしく、先程からの話を続けていった。同郷の者とか以前同じ所で朋輩だったとか、そういった風な親しい間柄で、而もだいぶ久しぶりに出逢ったものらしく、束髪の女が銀杏返の女へ向って、縷々として身の上を訴えていた。男に逃げられて、子供と二人で困っている、その後の処置に就いて、相談をしてるようだった。然し彼は、彼女等の話に耳を澄すというよりは、夜更けの橋の上で彼女等とひょっくり出逢ったという情景に、場合が場合だけに心打たれて、しめやかな淋しい気持で、茫と月の光に浮出してる遠景を眺め入った。黒々とした腰越あたりの山の端から、遠く三浦半島の山々が灰色に浮出して、その右手に満々たる海が、月の光をさらさらと映してる先は急に黝んで、魔物のように横たわっている。その沖の方から、冷々とした風が吹いてきた。
彼が二本目の煙草を吸っていると、銀杏返の女が不意に呼びかけた。
「旦那さん、済みませんが、煙草を一本御馳走して下さいな。忘れてきて困ってしまった。」
彼は二歩近寄って、敷島の袋とマッチとを差出した。彼女は煙草を一本取って、マッチで火をつけてから、それを返しながら、初めてじっと彼の顔を眺めた。
「あら、御免下さい。私あなたを、家の昼間の……あのお客さんだとばかり思って……。」
彼女が名指した旅館は、彼のとは違っていた。
「いいじゃないか、」と彼は云った、「どうせ同じ島の客だから。」
「ですけれど、あんまり失礼なことを……。」
それでも彼女は、煙草をすぱすぱやりながら、彼の方へ話しかけてきた、彼がもう凡ての事情を知ってでもいるもののように。この女は男から子供の養育料を取りたいのだけれど、男が応じないので困ってるのだとか、男がしきりに子供を取上げようとしてるので、渡してやったものかどうか迷ってるのだとか、裁判にしないでうまくまとめたいのだとか、そんな風なことを……。
「兎に角、どんなことになっても、」と彼は云った、「子供は母親の手で育てるのが本当だね。」
「ええ、そうですとも。」と束髪の女がすぐに応じた。「今更あの男は、子供をくれなんて云えた義理じゃありません。私が子供を生むのを、あんなに嫌がっていたんだから。」
そして彼女は、もう何度かしたらしい話を、半ば相手の女に半ば彼に、また繰返し初めた。──彼女が妊娠したのを知った時、男は俄に不機嫌になって、些細なことにも彼女を打ったり叩いたりして、しまいにはひどいことを勧めだした。──「私はそればっかりは、どうしても出来なかった。意地になって生み落してやるぞと思って、我慢に我慢を重ねて、とうとう生み落してやった。」──その頃から、男は心変りがして、近くの飲食店の女中とくっついた。彼女の不在の折には、その女を家の中に引張り込むことさえあった。彼女はもう我慢をしかねて、産後引続き一年足らずの間気を揉み通しだったため、多少逆上の気味も手伝って、思い切った計画をめぐらした。或る口実を設けて、一晩家を空けるということにして、子供と牛乳の瓶とを男に預けて、夕方から家を出た。そして夜遅くなるまで方々ぶらついた。春先のことで、白椿の花に何度か喫驚した。それから頃合をはかって、家の裏口から忍び込んで、出刄庖丁を片手にして躍り込んでやった。思った通り、男は女を引張り込んで、同じ布団の中に寝ていた。──「私もうかっとなって、胸がこんなに脹れ上って、この野郎と思うと、初めおどかすつもりだったのが本気になって、出刄庖丁で一つぐいと抉ってやろうとしたよ。するとね、二人の間に、子供がすやすや眠ってるじゃないか。眼の前がほんとに真暗になって、それからもう何もかも夢中さ。出刄庖丁を投り出して、わっと喚き立てて、子供を引ったくって、外に飛出したまでは覚えてるが、あの二人がどうしたか、子供がどうしたか、ちっとも頭に残ってないよ。私はその晩中、子供を抱いてうろついたせいか、子供が風邪を引いて、翌日からひどく熱が出てね、もう駄目かと思ったよ。」──それから男は、相手の女と出奔してしまって、何等の消息もなかったが、横浜から不意に人を寄来して、子供をくれと云って来た。──「あの女は屹度悪い病気を持ってるんだよ。それで子供が出来ないものだから、この子をふんだくろうとしてるのさ。」
彼女は話し止めて、膝の子供の頭に頬をすりつけたが、子供がむずむずと動き出すと、いきなり胸をはだけて、乳房を子供の口に含ました。血管が一つ一つ透いて見えるほど、むっちりと張り切った大きな乳房で、子供はそれを、筋目の深くくくれた蝋細工のような片手で、やんわりと持ち添えながら、息もつかずに、咽せ返るほどぐっぐっと飲み下していった。冴えきった冷い月の光が、斜め上から降るように落ちていて、その乳房と手と子供の赤い頬辺とに、蒼白い艶を投げかけていた。
「どんなことがあろうと、子供は生みの母親が育てるのが本当だよ。」と洋造は云った。「生みの母親の手でなくちゃ、子供は本当に生々と育ってゆきはしない。向うで子供を引取りたがってるのは、父親の情愛が眼を覚してきたのかも知れないじゃないか。君がその子供を丈夫に育ててるうちには、向うの男も迷いがさめて、君の所へ心から戻ってくるかも知れないよ。何にしても、子供を手離しちゃいけないよ。養育料やなんかのことは、どうにだって交渉の仕方はあるだろう。子供は是非とも君が育てなくちゃいけない。君が生んだ子だから、そしてこれまで君が育ててきたんだから、今後も君が立派に育ててやるのが本当だ。」
彼女は言葉の切れ目切れ目に、そうだよそうだよと云うように、軽く首肯いてみせていた。彼が云い終ると、ひょいと顔を挙げて、彼の顔をじっと見た。月の光を受けた仄蒼い素顔の中に、獣のように露わな眼が真円く光っていた。沖の方から吹いてくる風と共に、彼はぞっと肌寒い感じを全身に覚えた。
「兎に角子供を大事にするんだね。」
そう云い捨てて、彼は何気ない風に歩き出した。橋の先端近くまでゆっくり歩いていって、同じくゆっくりと戻ってくると、二人の女はまだ前の通りの姿勢で、細々と語り合っていた。彼はこの上二人の話を聞くのが悪いような気がして、吸い残しの五六本はいってる敷島の袋とマッチとを、銀杏返の女に与えて通り過ぎた。
「……親切なお客さん。」
尻上りの調子で束髪の女が云ったらしい言葉が、後ろから追っかけてきたので、彼はふと振向いてみたが、急に顔が赤くなるのを覚えて、すたすたと足を早めた。そして宿に帰ってすぐに寝た。
それだけのことが、自殺の決心をしていた彼の悲痛な心へ、変に生温くからみついてきた。彼は翌朝、伊豆の方へ向って出発した。前夜二人の女が足を投げ出して坐っていた所には、冷かな朝風が颯々と吹き過ぎていた。
彼は伊豆の温泉に四五日滞在した後、自殺の決心を飜して、急いで東京に戻ってきた。
それから数ヶ月の間、津田洋造は花柳の巷へ屡々出入したが、大学卒業後半年ばかりにして結婚する時から、それをぴたりと止してしまった。その代りに、媒妁人へ向って次の条件を持ち出した。
「私は結婚後は決して遊里へ足を踏み入れはしません。けれども、他に女を──素人の女をかこっておいて、子供を産ませるようなことはあるかも知れません。そのことを承知の上で、そして生れた子供は自分の子として入籍するのを承知なら、すぐにでも結婚しましょう。不承知なら、私の方からお断りします。」
そういう無茶な条件を、媒妁人は先方へ正しく伝えたかどうか疑問だが、兎に角縁談はすぐにまとまって、洋造は結婚してしまった。
結婚後三日目に、彼と妻とは、新婚旅行の旅先で、次のような会話をした。
「お前は私の結婚条件を聞いたろうね。」
「ええ、少しばかり……。」
「そして何と思った。」
「そんなことを表立って云い出す方は、却って信頼出来る人だと思いましたの。」
「では、お前は一生の冒険をして私の所へ来たんだね。」
「と云いますと……。」
「私が実際そんなことをするかも知れないし、またはしないかも知れない、というのを、凡て天に任せるといった気持で……。」
「そうかも知れませんわ。」
「それでは、私がそんなことを実際にするとしたら……。」
「諦めますわ。」
「諦めるって……。」
「影に隠れて変なことをされるよりは、公然とされた方が却ってよいと、そう思い直すつもりですの。」
「お前は可愛いい楽天家だね。」
「あなたは楽天家はお嫌い。」
「いいや、大好きだよ。私には悲観主義くらい嫌なものはない。」
そして津田洋造は、その可愛いい楽天的冒険家たる妻のために、善良なる良人となろうかと、一寸思い直しかけたが、失恋の痛手や江ノ島の橋の感銘は案外根深いもので、新妻に対する彼の愛情を妨げると共に、彼を初めの意向に立還らしてしまった。
「子供を沢山拵えてやれ。恋とか愛とかいう空疎なものをぬきにして、実質的な重みのある子供を思う存分豊富に拵えてやれ。」
そして彼は、友人の紹介で或る秘密な家へ出入して、其処で出逢った女に、先ず腕相撲を挑んだ。大抵は相手にされなかったが、中に一人、顔はそう綺麗でなかったけれど、恰幅のいい腰のどっしり据った女がいて、彼に力一杯ぶつかってきて、何度も彼を打負かした。彼はその女に眼をつけて、遂に自分の所有にして、家を一軒持たしてやった。
それまではまだよかったが、そして其後二三の失敗の後、彼は自家の小間使のお常という女が、いつも頸筋にねっとりと鬢の後れ毛をからみつかせてるのに、ふと眼を惹かれて、その親元と交渉の末、家を一軒持たした時、彼の妻は遂に激昂して生家に帰り、離婚の請求をしてきた。それでも彼女は、自分の産んだ長男一郎を乳母の手に托して、後々の始末を立派につけておいてくれた。
離婚後洋造が最も困ったことは、お千代──腕相撲の強い女──とお常との腹に出来る子供の入籍問題だった。自分の子供は凡て庶子としないで嫡出子とすることに、彼の唯一な道徳的矜持があった。そこへ、折よく再婚問題が起ってきた。相手の女は、彼の会社の下役の娘で、一度結婚したが良人に死なれて、今は自家に戻ってるそうだった。
彼は先ずその女に逢ってみた。蒼白く痩せてはいるが可なりの美貌だった。ただ少し頭にぬけてる所がありはすまいかと思われるほど、無反応な張合いのない人形のような女だった。彼は自ら進んで、自分の過去の経歴や人生観などを語ったが、彼女は黙って聞いてるきりで、彼の失恋のくだりなどにも、眼に涙一つ浮べなかった。そして自分の方の経歴については、余り話したがらなかった。それでも最後には要領よく、彼との結婚を承諾した。それが今の妻の八重子である。
八重子と結婚してからは、洋造の生活は万事順調に進んだ。父の遺産は次第に殖えていった。お千代とお常とは幸に多産で、お千代は五人の子を産み、お常は四人の子を産んだ。それから洋造は、仕事の関係上大阪へ行くことが多かったので、大阪にも一人の妾を置いたが、それが二人の子供を設けた。それらの子供の入籍を、時によると年に二人もの入籍を、八重子は平気で承諾した。ただ八重子自身は、結婚後四年目に、冬子一人を産んだばかりだった。
「兎に角一家繁昌で目出度い。」と津田洋造は考えた。
その目出度い一家の、一人の父親と四人の母親と十三人の子供との会合を、どうして八重子が嫌がるのか、彼には合点がゆかなかった。その上八重子の口振りによれば、彼女は何か新たな行動や思慮を取りかけているらしかった。彼はじっと八重子の様子に眼をつけ初めた。そして彼女の意外な変化に喫驚した。
どこか少しぬけてるらしいほど無反応だった彼女は、今では可なり敏感にさえなっていた。長男の一郎はもう小学校の五年生になっていたが、来年は中学の入学試験を受けなければならないと云って、八重子はひどく彼に勉強をしいて、彼が少しでも怠りがちな時には、酷しく叱りつけていた。そういう折に洋造が口を出したり、または、冬子ももう幼稚園に通うようになって世話がやけないから、お前が少し俺の用をも手伝ってくれと、洋造が忙しさの余り云い出したり、其他子供に関係のある事柄が出てくる際に、八重子はともすると険悪な言葉付になって、ヒステリーを起しかねない気色さえ示すことがあった。この前大阪のお蔦に子供が産れた時などは、些細なことに本当のヒステリーを起して、四五日むっつりと黙り込んでいた。いつも人形のようにちんまりと坐ってはいるが、眉根をぴくりぴくりと震わせることが多かった。
いつの頃からいつの間に彼女がそうなったのか、実業界に忙しく飛び廻っている洋造には、さっぱり見当がつかなかった。彼が気付いた時には、彼女はもう善良な人形ではなくて、危険な人形となっていた。そして彼自身もいつとなしに、その危険な人形に対して、壊れ易い瀬戸物にでも対するように、手を触れないでそっとしておく習慣がついていた。
こんな筈ではなかったが……と彼は眼を見張った。然しなぜそうなったかは、彼には少しも分らなかった。
桃の花が散り落ちる頃から、お千代の出産日が迫ってきた。洋造は或る晩、酒に酔って上機嫌で帰って来て、八重子の眉根の震えがないのを見定めて、笑いながら云い出した。
「おい、お千代が間もなく子供を産んで来れるそうだよ。男だったら九郎となる順番だし、女だったら……藤の花が咲く頃だろうから、藤子と名づけるつもりだが、九郎より藤子の方が響きがよくていいね。だがまあどちらにしたって、それで十四人になるわけだ。十三という数は、西洋でいけないとしてあるから、なんだか気になっていたが、それを通り越すのだから目出度いよ。……これで何だね、十四人になったのだから、この秋頃には、一つ例の顔合せの会合でも催してみようじゃないか。それまでに誰か、お常でも、も一人子供を産んでくれて、十五人になると丁度いいんだが、然し十四人だって、俺の四十という年を逆にした数だから、却っていいかも知れない。」
八重子は眉根をぴくりとさして、何とも言わなかったが、彼がその日の書信に眼を通し終って生欠伸をかみ殺してる頃、不意に彼女の方から尋ねかけた。
「あなた、お千代がまた子供を産むと云うのは、本当のことでございますか。」
「本当だとも、そんなことに嘘を云ったって初まらないじゃないか。」
「そして、子供が十四人になったら、皆の顔合せの会をなさるおつもりですか。」
彼女の蒼白い顔に険を湛えてるのを見て取って、彼は少し云い渋った。
「そうさね、お前が皆の母親ということになってるし、お前だけが俺の正しい妻なんだから、万事はお前の気持次第なんだが……。」
「私はどう考えても嫌ですわ。」
「それじゃ止してもいいさ。……だが、お前はこの頃何だか様子が変なようだが、一体どうしたと云うんだい。それとも、初めからの約束が今になって嫌になったのなら、そうとはっきり云ってごらんよ。俺だって考えを変えないこともないからね。」
「いいえ、そんなことではありません。商売人の不見転なんかに手出しをなさるよりは、はっきりこれこれときまってる方が、まだよいと思っていますわ。」
「それでは、お前の考えてることは一体何だい。俺にはさっぱり見当がつかないんだが……。」
そして彼は出来るだけ言葉の調子を和げて、彼女の意中を探りにかかったが、彼女はぴたりと心を鎖して一言も洩さなかった。しまいには彼も諦めて、先に床に就いた。
その夜中に、彼はふと変な心地で眼を覚した。隣りの室に人の気配がするようなので、なおはっきり眼がさめて、気がついてみると、傍の布団に寝てる筈の八重子がいなかった。それが変に気にかかって、だいぶ待って後に、起き上って隣室を覗いてみた。
彼は喫驚した。八重子がしょんぼりと火鉢にもたれて坐っていて、頣を襟に埋めて考え込んでいた。
「どうしたんだい。」
八重子はひょいと顔を挙げて、何かを見定めるらしく彼の立姿をじっと見つめていたが、俄に寒い風にでもあたったかのように、ぶるっと一つ身震いをした。と殆んどすぐにわっと泣き出してしまった。
彼は一寸呆気にとられたが、静に歩み寄ってその肩に手をかけた。
「何だよ、こんなに遅くまで起きていて、そしてふいに泣き出すなんて……。もっとしっかりしてくれなくちゃ困るじゃないか。」
彼女はもう立派にヒステリーを起していた。暫く泣きしきった後、彼の手を払いのけて、また一声泣き立てて、それから急に口早に云い続けた。
「私はもう駄目です。とても駄目です。いくら願っても子供なんか出来ません。毎月、月の初めに七日だけ、お地蔵様に日参を欠かしたこともないのに、どうして子供が出来ないんでしょう。私そのことを考えると、口惜しくて口惜しくて……。お千代にだってお常にだって、それから大阪のお蔦にまで、次から次へと子供が出来てゆくのに、私にだけは、冬子が一人出来たきりで、後がどうしてないんでしょう。皆から奥様と立てられたって、子供が出来なければ、ほんの飾り物で、床の間の置物と同じじゃありませんか。私どうしたらいいんでしょう。初めから子種がないのじゃないし、一人出来たからには、後が続いてもよい筈なのに……。いくらお地蔵様に日参しても、温泉にやって頂いても、そのしるしさえ見えないんですもの。私はもう駄目です、何もかも駄目です。このままで子供が出来ずに年をとってしまって、惨めな身の上になるばかりです。もう何もかも、何もかも、取返しがつきません。どうしたらいいんでしょう……。」
余りの意外なことに、洋造は茫然とするばかりだった。そして漸くのことに一言云った。
「だって、一人あればよいじゃないか。」
すると、それがなお彼女の神経をそそった。一人あるからなおいけない、初めから一人もないのならまだ諦めもつく、とそんなことを、彼女は涙ながらにかき口説いた。それが暫く続いてるうちに、彼女は血の気の失せた真蒼な顔を急に挙げて、唇の端に細かな震えを見せながら、彼の方へつめ寄って来た。
「あなたは、他の女にばかり子供を産ませておいて、私一人をないがしろにしておいて、それでよくも、皆の顔合せをしようなどと、そんなことが云えたものですわね。」
言葉の調子が前とは全く違っていたので、洋造はぎくりとして少し身を退いた。
「あなたは私を正妻だ正妻だとおだてておいて、私が馬鹿なものだからいい気になって、皆の前で私に恥をかかせるおつもりなんでしょう。いくら私だって、そんなに踏みつけにされては、黙ってはおられません。」
洋造は彼女の顔を見つめながら、つとめて平気な調子で云った。
「お前のように、そう無茶なことを云ってはいかんよ。俺は何も、お前に恥をかかせるだのお前を踏みつけにするだのと、そんなつもりではなかったんだ、よく気を鎮めて考えてごらん。お前に子供が出来る出来ないなんてことは、自分達の知ったことじゃないし、自分達の力でどうにもならないことじゃないか。俺はただ、子供がもう十四人にもなるので、一家が……栄えて……目出度いと思ったものだから……。」
彼が云い渋ってるのを、彼女は頭から押っ被せた。
「何が目出度いものですか。私に沢山子供が出来て他の女に出来ないのなら、兎も角も、私には一人っきりで、他の女にばかり出来るのが、何が目出度いものですか。そんな風な考え方をなさるのが、第一私を踏みつけになすってる証拠です。」
そういう彼女の考え方が、彼にはどうもはっきり腑におちなかった。云い争えば争うほど、益々変梃に分らなくなった。この上は彼女の気の鎮まるのを待って、ゆっくり話をした方がいい、とそう思って、腕を拱いたまま黙ってしまった。彼女はなお暫く、怒ったり悲しんだりしていたが、やがてぷつりと口を噤んだ。ぎらぎらした眼の光が消えて、変にぼんやりした眼付を空に据えて、頬の筋肉が堅くこわばっていた。その頬が弛んでくるのを待って、彼は初めて口を開いた。
「お互に云い争っていてもきりがないから、落付いて心の中のことを話し合ってみようじゃないか。」
何の返辞もなかったので、彼は次の言葉を考えたが、先ず火鉢に炭をついで、熱い茶をのんだりした。
「俺のことはもうお前もよく知ってる筈だ。で此度は、はっきり俺の腑におちるように、お前の考えをきかしてくれないか。俺にはどうもお前の考え方がはっきり分らないんだが、……」
「先程から申した通りですわ。」
平素の通りの調子で彼女は答えた。そしてその様子にも、もう苛立った所はなくなって、いつもの人形に返っていた。ただ眼からほろりと涙を落した。
「いや、お前の考えは分っているが、どうしてそんな風に考えるようになったか、それを聞かしてくれないか。」
そして何度も促されて、彼女は静な調子で云い出した。
「前にお話したように覚えておりますが、私はあなたの所へ、自分の身を捨てるつもりでやって参りましたの。どうせ一度お嫁入りした身体だから、それを投げ出して、父のためを図りたい気もありましたし、あなたのお話を聞いて、生意気にあなたを救ってあげたいという気もありましたし、なんだかいろんな気持で参ったのでした。けれどもただ一つ、あなたの子供を産むことだけはすまいと、心に固く誓っていました。所が……冬子が出来てしまって、それから三四年たつうちに、自分の一生が何のための一生やら、これからどうなってゆくのやら、何もかも分らなくなって、それはほんとに淋しい頼り無い気持で、世の中が真暗に思われてきたのです。そして、まだその外にいろんな気持もあったようですが、ふとしたことから、昔のことを……。昔私にもやはり、恋人が一人あったのでした。恋人と云ってよいかどうか分らないくらいの、ごく淡い感じのもので、相手の人は私の気持なんか少しも御存じなかったのです。そして、イギリスへ行かれたきり、次第に消息も絶えてしまいました。私の方でも結婚してしまい、次にあなたの所へ参るようになって、いつのまにかその人のことなんか、遠くへ忘れてしまっていました。そのことが、どうした拍子にか、ふと思い出されたり、夢に出てきたりするようになって、それからは妙に儚い気持に沈み込んでゆきました。その頃私は、よくこんな気持で生きていられると、自分でも不思議なほどでした。それがだんだん嵩じてきて、自分でも自分が分らないほどになってるうちに、どういうのでしょう、心持がまるで変ってしまったのです。あなたにかぶれたのかも知れませんわ。皆あんなに子供を次から次へと産んでるから、私だってまだ若いし負けているものか、沢山産んでやって、皆の者を見返してやれ……そんな気になったのです。田沢や吉奈の温泉に度々やって頂いたのも、そこの湯にはいると子供がよく出来ると聞いたからでした。そしてこの頃では、毎月初めの七日間は、お地蔵様に日参をしています。それからまだ、いろんなことをしてみました。けれど、駄目なんです。こんなにまでして子供が出来なかったら、自分はどうなるのだろう……と考えてくると、口惜しいやら情ないやらで、じっとしておられなくなります。そこへまたあなたまでが、皆の顔合せをしようなどと仰言るのでしょう。こんな心持で、どうしてお千代やお常の前に出てゆかれましょう。それこそ恥の上塗りですわ。考えつめてると、かっと逆上てしまいそうです。いくら夫婦の間だって、こんな恥しい話は出来やしません。それを、あなたは無理に話さしておしまいなさるのです。……それでもやはり、皆の顔合せをしようと仰言るなら、それでも構いませんが、私は決して出ませんから……。あなたに話してしまった上は、猶更出られや致しません。私はもうどうせ初めから捨てるつもりの身体ですから、どうなっても平気ですけれど、せめて子供だけなりと、なぜ出来てくれないかと思うと、それが口惜しくて口惜しくて……。」
ほろりほろりと彼女は涙を落しながら、丁度神の前にでも出たように、彼の前に首垂れて固くなってしまった。
彼もその前に首を垂れて、ほっと溜息をついた。
「俺が悪かった、許してくれ。お前がそういう心なら、顔合せの会なんかどうだっていいのだ。それならそうと、初めから云ってくれれば……何も大したことではないし……。」
「でも私には一生懸命のことなんです。」
「それはそうだろうけれど……。いやもういい。そんな話は止そうじゃないか。」
互にまじまじと心を見合ってるような沈黙が続いた。彼女はいつまでも身動き一つしないで、見た所やはりいつもの人形のように坐り通していた。するうちに、その眉根に深い皺が刻まれてきて、今にもぴくりぴくりと震え出しそうだった。彼はぎくりとして、じっとしていられなくなった。
「余り考え込むといけないよ。」と彼は云った。「もっと呑気に楽天的にしっかりしていなければ、世の中に生きていられやしないからね。お前は実際、一家の主婦で中心なんだから、お前がいなければ何もかもばらばらになってしまうのだから、そのことをよく心の中に据えといて、俺のために……皆のために、じっと落付いていてくれよ。頼む、ほんとに頼むから。俺もお前の話を聞いていると、何だか変な気持になってきそうだ。そんなのはいけない考えの証拠なんだ。どこか間違ってるに違いない。」
云ってるうちに、彼は自分でも自分の言葉が腑に落ちなくなって、また黙り込んでしまった。それから、もう寝るように彼女に勧めた。彼女はおとなしく彼の言葉に従ったが、ただ、一言独語の調子で尋ねかけた。
「あなたは、もし誰にも一人も子供が出来なかったとしたら、どうなさるつもりだったのでしょう。」
「もう云わないでくれ。変な気がするから。」
そして彼は其処に、一人起きていて、腕を組んで考え込んだ。妙に暖いひっそりとした晩だった。もし一人も子供が出来なかったとしたら、その先は──分らなかった。もしこのままでやたらに子供が殖えていったら、その先は──分らなかった。その二つの分らない問題を順々に考えてるうちに、いつのまにかぼんやりしてしまって、戸外に騒いでる不気味な猫の鳴声に、聞くともなく聞き入ってるのだった。
そうした自分自身に気がつくと、彼は慌てて布団の中にもぐり込んだ。佗びしい索漠たる感じが四方から寄せてきた。その中で彼は、自分の過去をずっと見渡してみた。何もかも、道子のことも江の島の橋のことも先妻のことも、遠くぼんやりと霞んでしまっていた。がただ一つ、意外な方面から、綾子の若々しい顔付が覗き出してきた。
綾子というのは、洋造の伯父の末娘の静子と同窓の親友で、女学校を卒業したばかりだった。前年の夏、戸倉温泉に行ってた伯父から洋造は手紙を貰って、いい処だから二三日遊びに来ないかと誘われて、何の気もなく行ってみると、伯父と一緒に静子と綾子が来ていた。伯父は同じ旅館に丁度よい碁敵を見出して、一日中大抵その方にばかり熱中していたので、洋造は自然静子と綾子とを相手にして、若々しい気持に遊びくらして、ついうかうかと十日余りすごしてしまった。静子は内気な弱々しい大人びた娘であったが、綾子は溌剌としたなかに危っけのある素純な娘で、無雑作に束ねてすぐに解けかかりそうな髪恰好と、その下の怜悧そうな広い額とが、全体の姿や調子によく調和していた。
千曲川の河原が彼等の遊び場所だった。水に飛び込んで泳いだり小石原の上に寝転んだりした。川下の彼方に遠く北信の平野が見渡され、更にその向うには、戸隠や妙高などの奇峰が聳えていた。
「山だの川だの平野だの、皺だらけのところを見ると、地球も随分お婆さんね。」と綾子は云って頓狂な顔付をした。
「だって、地球は他の星に比べると、非常に若いっていうじゃないの。」と静子が答え返した。
「どうして。」
「あなたもう忘れたの、地理で教ったじゃありませんか。」
「そう。私忘れちゃったわ。」そして一寸小首を傾げた。「そんならあなたは、人間……人類だわね……人類の命は、地球の命の何分の一に当るかそれを知ってて。」
「知らないわ。聞いたことがあるような気がするけれど……。何分の一なの。」
「私も知らないわ。」
「まあ。」
睥みつけた静子の前を、綾子は笑いながら逃げ出した。大きく牡丹くずしの模様のある単衣を、河原の小石の上に脱ぎすてて、下に着ていた海水着一つで、川の中に飛び込んでいった。
「ねえ、来てごらんなさいよ、鮎が沢山いるから。」
「嘘。」
「ほんとよ。」
やけに水の中をばちゃばちゃやった。
静子はのっそり立上って、水際へ行って覗いてみた。その後ろから、洋造が伯父に借りた海水着一つで飛び込んでいった。鮠の子が方々に泳いでいた。
「綾子さんにこれが一匹でもつかまったら、何でも望み通りのことを聞いてあげますよ。」
「どんなことでも。」
「ええ。」
水を乱さずにそっと狙い寄ったり、不意に馳け出して追っかけたりしたが、小鮠はすいすいと身をかわして平気な風をしていた。洋造と静子も一緒になって追い廻したが、一匹もつかまらなかった。帽子の縁まで水だらけにして、すっかり疲れきって、三人は熱く焼けている河原の上で休んだ。
清いさらさらとした流れと、円い小さな石の河原とに、ずっと下の方まで、子供や大人の麦稈帽が点々と散らばっていた。
その河原の上を、月の晩には、昼間の嬉戯を忘れはてた落付いた散歩をした。静子と綾子とはよく歌をうたった。静子の声は細かな顫えを帯びており、綾子の声は張りのある朗かさを帯びていた。
「月の光で見ると、津田さんは何だか憂鬱そうにお見えなさるわ。」と綾子は云った。
洋造は苦笑しながら、黙って二人の傍について歩いた。
「綾子さんはあなたのことを……。」
静子が云いかけるのを、綾子は駄々っ児のように、首と手とを打払って止めようとした。その様子が可笑しかったので、静子はくすくす笑い出した。
「何です、僕のことを。」
「いえ、何でもないの。」と綾子はもう澄し返っていた。
「あのことですか、ヒポコンデリーの獅子だという……。」
「あら。」
二人は同時に足を止めた。
「僕の耳は千里耳だから何でもすぐに聞えるんだよ。でも獅子は有難いな。そのお礼に、詩人めいた素敵な名を二人につけてあげましょうか。」
「ええ、どうぞ。」
「そうだな……静子さんは水中の夢で、綾子さんは空中の夢……ってどうです。」
「水中の夢に空中の夢……。」
静子はそう繰返して微笑したが、綾子は喫驚したような眼で彼の顔を見上げた。
流れの上に渡してある低い小さな仮橋から、きらきらと水に映る月の光を見て、宿の方へ帰っていった。
月を見るなら、川向うの鏡台山に是非登ってみなくてはいけない、と旅館の人にすすめられて、洋造と綾子とは或る晩出かけた。夜の山は物騒で恐いと云って、静子は一人残ることになった。
獅子ヶ鼻を廻って大正橋にかかると、川下の方から冷々とした風が吹いてきた。妙に空気が稀薄に思える晩で、月の光が白々として、両岸の山がすぐ近くに迫って見えた。鉄道線路の灯が瞬いてるすぐ上方に、鏡台山一帯は真黒く魔物のように蹲っていた。
「もう止しましょうか。」
「ええ。」
長い大正橋を渡りきって、向う岸を溯って、いつもの河原に来て休んだ。仄白い河原の小石と浅瀬の水音と、月の光と、それからあちらこちらに散歩の人の姿が見えた。
「静子さんは利口ですね。実際都会のものには、夜の山登りなんか駄目ですよ。」
「それでも、静子さんはそれは月の晩が好きなんですの。私月を見てると、何だか淋しく悲しくなってきますから……。」
「月を本当に好きな人は、月を見てても淋しく感じない人かも知れません。でも可笑しいですね、静子さんよりあなたの方がずっと快活なのに……。」
「その代り、もう何もかも嫌になって、口もききたくなくなることがありますの。よく静子さんに笑われますけれど……。」
「そう云えば、静子さんくらいいつも調子の変らない人はありませんね。」
それから話は静子のことに落ちていったが、綾子はふと云い出した。
「あなたのことで私静子さんと議論しましたのよ。」
「え、私のことで……。」
尋ねられると、彼女は急に黙ってしまったが、とうとう口を開いた。
「失恋して間もなく他の人と結婚するのが、いいか悪いかって……。」
彼女は真赤な顔をした。彼も何故となく顔が赤らむのを覚えた。
「ああ私の昔のことですか。」
静子や綾子がそれをどうして知ってるのか意外だった。恐らくその頃の彼の事情をよく知ってる伯母からでも、静子が聞き出してきたのだろう。
「失恋した後で結婚するのはちっとも不思議でないと、静子さんは仰言るのですけれど、向うの人を本当に愛していたら、他の人と結婚なんか出来ない筈だと、私はそう云いましたの。」
「それが本当です。」
「でも、あなたは……。」
「私のは……別ですよ。」
白々とした額をのべて彼女がじっと覗き込んでくる……そういう感じに彼は変に心乱されて、立上ってそこらをぶらつき初めた。川風が肌に寒かった。
「ヒポコンデリーの獅子が失恋したなんて、可笑しいでしょう。」
「あら私、そんな意味であなたのことを……。」
彼女が今にも泣き出しそうな渋め顔をしたので、彼は喫驚して打消した。
「分っています。今のは冗談ですよ。」
彼が無言のままぶらぶら歩いてる間、綾子は同じ所に屈み込んで、しきりに河原の石をかきまわしていた。
「何をしてるんです。」
「水中の夢子さんに、綺麗な石をおみやに持っていって上げるつもりですの。」
彼はふと涙ぐましい心地になって、一緒に石を拾った。それから仮橋の方を渡って宿に帰った。
その晩、彼は知らず識らず綾子の面影を心に浮べていた。夢にも彼女のことをみたようだった。
それから二日たって、洋造は東京へ帰った。汽車の窓から彼は、温泉の方を見えなくなるまで見送った。
「俺は綾子に心を奪われたくない。余りに不自然なことだ。」
其後、綾子は静子と一緒に彼の家へ一度遊びに来た。
それだけのことだった。けれど変に忘れられなかった。洋造はそれを自分の最後の清い幻として心の奥にしまい込んだ。余りに奥深くしまい込んでいつしか忘れていった。
それが、妻とああいう話をした後に、ひょっくり浮び出て来たのである。
「あれくらいのことは、世間にざらにあることだ。それを最後の清い幻だなどとして、いつまでも心の中に懐いているほど、俺の生活は陰欝なのかしら。それほど自分の生活から華かなものを絶って、やたらに子供ばかり拵えていて、それでどうなるのだ。」
翌朝になると、また前夜の猫が庭の隅にやって来て、一匹の牝猫に四五匹の牡猫がかかって、皆煤けて泥まみれになって、ぎゃあぎゃあ騒いでいた。地面を掠めてくる軽い春風に、そのうす穢い尿の匂いまで交っていた。
洋造は嫌悪の念に駆られて、自ら竹竿を持って下りていった。夢中になって脹れ上って、打たれてもびくともしないようなやつを、檜葉や躑躅の茂みの下から、竿の先で突っつき出して、隣家の方へ追いやってしまった。額や背中に脂汗をかいた。
その様子を、空色の洋服に着かえてる冬子が、泣き出しそうな顔で縁側から眺めていた。
「あっちに行っといで。」
叱りつけておいて、彼は眉をしかめながら戻って来た。
「だって、お父さま、可哀そうだわ。」
「他所の猫じゃないか。」
まん円くうち開いた眼の中の、青みがかった白目の縁に、ほろりと透明な水玉が出てきて、それをじっと押え止めるかのように、冬子はあくまでも眼を見開いていた。が……大きく一つ瞬きをして、その水玉がはらりとこぼれると、くしゃくしゃな渋め顔になった。と同時に、洋造はそれを胸に抱き上げた。
「泣くんじゃないよ。馬鹿だね。」
額の汗を掌で拭いて、彼はのそりのそり庭の中を歩き出した。冬子はきょとんとした濡んだ眼付で、彼の肩にしがみついていた。張りきったくりくりした肉付が、何となく甘酸っぱい肌の匂いと共に、彼の胸の中に泌み通ってきた。薄すらとかすんだ生温い朝日の光が、植込の新緑の上に一面に降り注いでいた。
「俺はもう愛とか恋とか、そういったものをいつのまにか失ってしまった。今になって取返しはつかない。夫婦の愛情さえももう味えそうにない。俺の生活はどんよりとしてる。然し……。」
彼は両腕の中に冬子をとんとんとやって、その円っこいずっしりとした重みを測った。
女中が冬子を探しに来た。幼稚園へ出かけなければならない時間だった。
「転ばないように大事に連れて行くんだよ。」
そして彼は妻の方へやって行った。
八重子は蒼白い顔をなお蒼ざめさして、力尽きたようにがっかりした様子で、それでもきちんと端坐していた。彼の姿を見ると眼を外らした。彼は何気ない風で云ってみた。
「お前はどこか身体でも悪いんじゃないのか。もし何なら、医者に診て貰ったらどうだい。」
「それには及びませんわ。」
「それなら、温泉にでも出かけてみるがいいよ。俺も一二週間保養をしてみたいから、急な用を片付け次第、一緒に行こうよ。よかったら……、」そして彼は一寸唇を歪めた、「戸倉にでも行ってみようか。」
「ええ。」と彼女は上の空で返辞をした。
彼は急に心の落付きを失って、それから慌しく外出した。
「何ということだろう、俺達は、揃いも揃って子供ばかりほしがってる。これで八重子が妊娠したら、それこそ万々歳だ。」
変に擽ったいものが腹の底からこみ上げてきて、彼は往来の真中で身体を揺った。
その日彼は自動車を駆って、お常の家へ不意に昼飯を食いに行った。子供四人共丈夫だった。晩飯はお千代の家へ食いに行った。お千代は大きな臨月の腹をもてあつかって、肩でせいせい息をしていた。
「いつ生れるんだい。」
「もうじきだそうですけれど……。こんどのは大変発育がいいって、お産婆さんもそう云っていますが、何だかいつもよりお腹が大きくて苦しいんですの。」
「二子じゃないのかね。」
「あら、いくら大きいったって……。」
糸切歯のあたりの金をぴかっとさして笑ったが、その拍子に、眼の縁の薄黒い隈取りが赤くなった。
餉台のまわりには子供達が、燕の子のように口を並べて、彼がはさんでくれる刺身の切を待っていた。彼が少し悪戯をしだすと、それに皆元気を得て、彼の頭の毛を掴んだり肩に上ったりした。それを彼は順々に並ばして、名前を呼んで返事をさした。
「春子。」
「はい。」と極り悪そうな返事だった。
「二郎。」
「はい。」と大きな威勢のいい声だった。
「五郎。」
「はい。」
「桃子。」
「はい。」
「七郎。」
返事がなかった。皿のものを手ずから頬張って、眼をくるくるさしていた。
「此奴はずるいね。今に豪い者になるぞ。」
杯を取上げてぐっと飲んでると、ヒポコンデリーの獅子という言葉をふと思い出した。それに続いて、水中の夢、空中の夢、と口の中で云ってみた。がどれも、無意味な馬鹿げきった響きをしか齎さなかった。
「此奴等も大きくなったら、いろんな馬鹿げたことをやるだろう。が、兎に角、沢山兄弟姉妹があって目出度いわけだ。」
ふと、眼の中に熱いものがたまってくるのを感じて、鼻をすすりあげたが、それからしきりに杯を重ねた。そして彼は、お千代の大きな腹に眼を据えながら、本当に酔っ払っていった。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2)」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「改造」
1924(大正13)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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