人の国
豊島与志雄



 久保田さんは、六十歳で某大学教授の職を辞して以来、いつしか夜分に仕事をする習慣がついてしまった。夜分に仕事をするのは、必ずしも盗人や小説家のみに限ったことではない。久保田さんが従事していた仕事は、人類理想史という尨大な著述で、天上の神話的楽園から地上の無政府的共産主義の理想郷に至るまで、人間の各種の理想を歴史的に叙述することであった。そのために久保田さんは、毎晩遅くまで書斎に籠って勉強した。のみならず、終日書斎に起臥して、滅多に外出することもなかった。

 そういう生活が一年ばかり続いて、この二月のはじめ頃から、久保田さんは急に元気が衰え、顔色が悪くなり、食慾が甚しく減じてきた。家族の者達がひどく心配するので、久保田さん自身も多少気に懸って、友人の老医学士へ相談してみた。

「なあに心配するほどのことはないよ。」と老医学士は口元に微笑を浮べ、平ったい指先で煙草の灰をはたきながら云った。「余り家にばかり蟄居しているから、機能の働きが鈍ってきたのさ。人間にもやはり植物と同様に、空気と日光とが必要なんだ。少し外に出てみ給え、すぐに元気回復するよ。まあ何だね、若い綺麗な女にでも接するのは最も有効だが、君にはそういう直接療法も出来まいから、一つ間接療法として、天気のいい日郊外散歩に出かけたり、それから何よりも、夜更しを止めて、朝早く太陽と一緒に起き上ることだね。服薬なんかの必要は更にない。」

 事もなげにそう云われて、落付いた静かな眼付で見られると、久保田さんは少し極りが悪くなるくらいに安堵して、痩せた細長い指先で煙草を一本つまんで、苦笑しながら答えた。

「じゃあその間接療法とかをやってみることにしよう。」

 そこで久保田さんは、老医学士の言葉を家族の者達に伝えて、彼等が安堵するのを見て自分も益々安堵して、ゆっくりと間接療法に取掛った。

 風の少い打晴れた三月の或る日、久保田さんは半日を郊外散歩に費してみた。所が不幸にも、幻滅の悲哀をなめさせられた。春とは云えまだ冷い空気が地面に流れていて、郊外の風光を楽しむだけののびのびした気持になれなかったし、往来の電車はひどく込み合っていたし、霜解の田舎道は泥濘で歩きにくかった。それを我慢して兎に角半日を過してきたが、身体が大変疲れた上に、頭が茫として愚かになった気がした。

「時間を無駄につぶした上に、頭まで悪くして、これほど馬鹿げたことはない。」

 そして久保田さんは、一度で郊外散歩を思い諦めて、此度は早起の方に取掛った。

 習慣というものは、殊に老年になると、なかなか破り難いものである。夜更しをして朝寝の習慣がついている久保田さんには、太陽と一緒に起上るということが、そう容易くは出来なかった。前晩頼んでおいた女中や夫人に声をかけられても、一寸返辞をしたきりで、も少しと思って躊躇しているうちに、またうとうととするのだった。

 そういうことを幾度か繰返した後、久保田さんは遂に或る朝、太陽より少し後れて、六時頃起き上ることが出来た。而も奇蹟的に、誰にも起されずに訳なく出来たのである。

 何だかちらちらとしてはっきり分らなかったが、そのちらちらとした中から、三分の一ほど欠けた不恰好な月がひょっこりと浮び出して、久保田さんの頭にはっきり映った。前晩窓を閉める時に、隣家の大きな欅のしなやかな枝先に引っかかっていた、その月だな……と思うと同時に、久保田さんは本当に眼を覚して、二つ三つ瞬きしたが、そのままふと起上ってしまった。

 下働きの女中が一人起上ったばかりの所だった。その喫驚した顔付へ、久保田さんは自分でも少しおかしいほど軽い気持で、黙っておれと相図しておいて、冷い水で顔を洗い、禿げかかった半白の髪を丁寧に撫でつけ、先刻の月影がまだ残っている頭を、不思議そうに打振りながら、座敷の縁側を開けて庭に出てみた。

 爽かな三月下旬の夜明だった。霧とも云えないほど薄すらとしたものが、植込の下影に逃げ迷っていて、清々すがすがしく打晴れた空には、薔薇色の光が一面に流れていた。遠く都会の眼覚のどよめきを伝えながらも、空気はまだしっとりと落付いていて、小鳥の眠りを護ってるらしかった。久保田さんは両手を高く差上げ、力一杯に伸びをして、少し肌寒くなるのを快く感じてから、庭の隅々まで歩いてみた。

「ほう、なるほどこれは悪くない!」

 銀杏の小さな葉が出かかっていた。楓の可愛いい若葉も拡がりかかっていた。桜の蕾が薄赤くふくらんでいた。紫陽花の枝には指のように太い芽が並んでおり、山吹の枝先にも小さな芽が無数についていた。苔のない柔い地面から匐い出している蚯蚓を、庭下駄に踏み潰すまいとしてひょいと飛び越すと、すぐ眼の前の茂みから、親指大の赤い椿の蕾が覗いていた。

「あら、もうお眼覚めでございますか。」

 足音もそれらしい気配さえもなく、不意に起ったその声音に、久保田さんは喫驚して、椿の蕾から振り向くと、十歩ばかり彼方の檜葉の横手に、いつも機嫌のよい仲働きのお清が、殊にその時は一層晴れやかな笑顔をして、まるで宙に浮いたように佇んでいた。

「どうだい!」

 まだ消え去らぬ喫驚した気持の中からそう云って、四五歩近づいてゆくと、お清はしなやかな指先で前髪の後れ毛を撫で上げながら、覚めたばかりの澄み切った眼を細めて、円い笑顔をにこにこと笑いくずした。

「ほんとにどうしたんでございましょう。私の方が寝坊なんか致しまして。」

 その様子から言葉つきまで、平素書斎にやって来る折の、機嫌はよいが妙にかしこまった二十歳の彼女とは、全く人が違ったようだった。久保田さんは落凹んだ眼をくるくるとさした。

「どうしたんだって、そりゃ何も……。」云いかけてまたも眼をくるくるとさした。「わしは何だよ、今天文をみていた所だが、此度はお前の手相をみてあげよう。手をかしてごらん。」

 躊躇してる所へ歩み寄って、彼女の片手を取ったが、生憎それは左手だった。然し久保田さんはそんなことを意に介しなかった。しなやかだと見える指先にまでみっちりと実がはいって、可愛くくくれた手首に至るまでの掌に、篦でつけたような柔かな筋が薄い皮膚を刻んでいた。

「ほう、お前もいい運だ。余りよすぎて悪いことが起るかも知れないが、兎に角いい運だ。」

 呆気にとられてこちらを見守ってる彼女の眼に出逢うと、久保田さんは肩をぴくりとさして手を離した。

「兎に角いい運だ。大事にしなくちゃいけない。」

 そう云いながら突然わきを向いて、庭の中を歩き出した。もう明るい光がさして、木の葉が一枚一枚輝いていた。雀の囀る声が急に耳についてきた。久保田さんは小さな木鋏を取ってきて、植込の枯枝を切ったりなんかしながら、朝食までの時間を庭で過した。

 その日はいつもより頭がよくて、仕事がわりに捗った。そして夜は早めに寝た。

 翌朝も久保田さんは早く起上った。庭を暫くぶらついていると、昨日の通りお清に出逢った。此度は自分の方から微笑みかけて、応えの笑顔を見てから、すぐに云い出した。

「手相をみてあげるから、手をかしてごらん。」

「あら、またでございますか。」

「昨日のは間違っていた。男の手相をみるのは左手だが、女のは右手でなくちゃいけない。右手を出してごらん。」

 ちらと動いた彼女の眸の光を捉えると、久保田さんの胸の中はぱっと明るくなった。そして彼女の右手を取ったが、どうしたはずみにか、その四本の指先を軽く握りしめた。ぽちゃぽちゃした円っこい四つの感触を掌に感じたのと、胸に擽ったい薄ら寒さが起ったのと、彼女が心持ち顔を赤らめたのとが、殆んど同時だった。そして次の瞬間に、久保田さんは肩をぴくりとさして手を離した。

「いや、立派な運だ。」

 云い捨てておいて久保田さんは、また庭の中を歩き続けて、食事になるまで家へはいらなかった。

 その日も頭がよくて、仕事が捗った。

 所が次の朝、久保田さんは食事になるまでお清に出逢わなかった。そして妙なことには、庭が綺麗に掃き清められていた。

「ははあ、なるほど。」と久保田さんは独り首肯いた。

 前晩から一生懸命に心して寝ただけあって、次の日久保田さんは、三十分ばかり早めに起上ることが出来た。下働きの女中が慌てて起上ってくるのを、横目でじろりと見やっておいて、すぐに庭へ飛び出した。

 まだ明けたばかりのだだ白い明るみだった。なるべく庭の隅の方へ行って、樹木の新芽を見い見い待ち受けてみた。暫くすると果してお清が、竹箒を持って急いでやって来た。

「あら!」

 喫驚したように立止ったのへ、久保田さんは戦勝者みたいな笑顔を見せた。

「掃いても構わないよ。」

 眼を伏せて「はい」と答えておいて、彼女は静に掃きにかかったが、どうしたのか次第に性急になってきた。はあはあと吐く息が白く凝って流れ、白々とした顔にほんのり赤味がさしてきた。

 その様子をじっと見ていた久保田さんは、やがて歩み寄ってきて、落凹んだ眼をくるくるとさした。

「わしはいろんなことを研究しているんだが、運動をした際には、どうも人の身体は軽くなるように思える。そこで……。」そんな風に云いながら、肩をそばめてつっ立ってるお清の手から、竹箒を取ってそれを例の木立に立てかけた。「じっとしていてごらん。」

 咄嗟に一歩後ろへ廻って、薄いメリンスの帯のあたりへいきなり手をかけて、足をふんばりざま持ち上げようとしたが、首を縮め腰を落した彼女の身体は、円っこくなってずっしりと重かった。その手掛りのないやつを更に引寄せて、力を籠めて持ち上げようとした。

「こんな筈ではないんだが。」

 くくくくと忍び笑いをするのを、もう一息と気張ってる瞬間に、突然彼女は堅くなった。

「いけませんわ。若旦那様が……。」

 円っこい堅い重みがするりと手からぬけ出した。久保田さんは一歩半ばかりよろめいて、ひょいと向うを見ると、木斛もっこくの粗らな下枝の茂みの彼方に、高等学校の受験準備をしてる長男の洋太郎が、寝間着姿で縁側に立っていた。ちらと視線が合ったか合わないか分らないまに、洋太郎は顔を伏せて、青銅の手洗鉢の水を二三杯手に注ぎかけて、そのまま家へはいってしまった。

 久保田さんはぼんやりその姿を送ったが、ふいに鼻の穴を脹らまして笑い出した。

「変な時間に便所へ起きたものだな。」

 そしてなお笑い続けたが、木影に隠れてるお清の着物の紫縞が眼に止ると、頭を軽く一振りして云った。

「もういいから、庭を掃いてしまったらどうだい。」

 彼女がおずおずと出て来て竹箒を手に取ると、久保田さんは少し向うへ遠ざかった。

「若い者に遠慮をしてるんだな。ありがちのことだ。」

 そして、朝日の流れてる晴々とした空を仰いで、胸の奥まで深い呼吸をして、ひどく上機嫌になった。

 その上機嫌は毎朝続いた。一度書斎にはいると、厳格寡黙な研究家に返って、用を聞きにくるお清へも冗談口一つ利かなかったが、朝早く起きるとにこにこして、庭の中でお清を待ち受けた。所が不幸なことには、お清はもう次の朝から庭へ出て来なかった。久保田さんは自分で竹箒を使ったり、植込の枝振を一々見て廻ったり、地面に匐い出してる蚯蚓の色を研究したり、建仁寺垣の蝸牛をからかったりして、朝食までの時間を過した。

「若い者達はなかなか遠慮深いとみえる。がそれも結構だ。思想上では随分勇敢だからな。」

 ふと浮んだそういう考えに自ら微笑んで、久保田さんは毎朝必ず早起をした。そのためか、顔色も多少よくなり、食慾はだいぶ進んできた。

 そして、次の週の日曜日には、六歳と八歳との悪戯盛りの男女の子供を連れて、午前中から大森の姪が遊びに来たので、久保田さんは何だか勉強の邪魔をされる気もしたし、久しぶりで友人の顔が見たくもなって、大学奉職中の同僚を訪ねていった。久しぶりに話がはずんで、自分の著述のことまで吹聴しながら、引止められるままずるずると居据って、夕食の馳走にまで預ってしまった。それから、馴れない四五杯の酒に陶然として、一寸話が途絶えた時、実は夕方早く帰って皆と食事を共にするつもりだったことを、後れ馳せに思い出して、慌しく帰りかけた。

 もうすっかり暮れてしまって、一日の遊歩から帰り後れた人々や、これから華かな巷へ出かけようとしてる人々などで、電車はぎっしり込んでいた。久保田さんはその中に挾って立ちながら、吊革に一寸左手をかけておいて、きらきらとした街路の燈火を、ぼんやり窓の外に見やっていった。そして頭の中では、課外講演といった風の形式ででもよいから、その大研究の片鱗だけでも学生に聞かしてくれないかと、先刻友人から云われた言葉を、得意然と味っていた。

 その時、ふと久保田さんの注意を惹いたものがあった。初めは、甚だ空漠とした芳香みたいなものだったが、それが次第にはっきりとしてきて、一定の形を取って、すぐ前に立ってる人の耳となった。久保田さんは何気なくそれに眼を止めたが、次には一心に見つめ初めた。令嬢風な扮装いでたちをした背の高い若い女で、束ね目も見せず一面に縮らした髪の下から、その耳朶がぽっかり覗き出していた。くるくると巻いてやんわり垂れてる薄赤いやつが、殆んど皮膚と地並な白い産毛うぶげに包まれて、赤味がかった細かい縮れ髪の中で、宛も海藻の中に浮いている、小さな水母のように見えたり、生きた貝殼のように見えたりした。光の加減かなんかで、そういう二つの変化を鼻っ先の耳が示す毎に、久保田さんは肩をぴくりとやっていたが、やがて腹の底がむしゃくしゃしてきて、同時に胸の中がもやもやっとしてきて、垂れていた右手を何心なく挙げると、ひょいとその耳の下の端をつまんでしまった。そして、中までふうわりしてきりっとしまった、もちゃもちゃした感じに喫驚したが、間髪を容れずに、縮れっ毛の大きな頭が迅速にぐるりと動いたので、また更に喫驚して、久保田さんはエヘンと大きな咳払いをした。それから殆んど本能的に、袂の煙草を一本探って、すぐに火をつけながらすぱすぱやったが、あたりの皆の眼が一斎にこちらを向いたので、三度喫驚して立竦んだ。丁度その時、車掌台に近い頭の上で、チンチンと二つ鳴ってまたチンと鳴ったので、久保田さんは初めて我に返った心地で、それでも火のついた煙草を片手に差上げながら、泳ぐような手付で人をかき分けて、まだ少し動いてる電車から飛び降りてやった。そしてよろよろっとした足を踏みしめ、また一つエヘンと咳払いをしておいて、気付いた片手の煙草を二吸い吸うと、無性に可笑くなった。

 やがてそれが堪えられなくなってきた。明るい歩道のはじをひょこひょこ辿りながら、右手の親指と人差指とをすり合して、まだ残ってるもちゃもちゃした感じを、一方では不思議な気持で味うと共に、他方では滑稽な自分の姿を頭に浮べて、久保田さんは思わず放笑してしまった。それを押え止めようとすればするほど、益々喉元にぐっぐっとこみ上げてきた。

 それから可なりある道を、久保田さんは歩いて戻った。そして茶の間の火鉢の前に落付くと、此度は思い切って高笑いをした。食後一緒に集っていた夫人や姪や二男や姪の子供達が、驚いた眼付で久保田さんの方を眺めた。

「どうなさいましたの?」と夫人が顔の皺を伸して尋ねかけた。

 久保田さんは笑いを止めて、煙草を吹かしながら答えた。

「今日は何だか目出度い日だね。」

 八歳になる姪の子が、まん円い眼付でつめ寄ってきた。

「何が! え、叔父ちゃま、何が?」

 それをいきなり抱き上げて、久保田さんは子供の遊び仲間にはいっていった。

 遊びごとはいくらもあった。じゃんけん、おはじき、影写し、おばーけ、こーこはどーこの細道じゃ、人取り、お馬ごっこ、ダンス………夫人や姪まで笑いくずれたし、お清も見物したし、中頃からは、洋太郎ものっそり勉強室から出て来た。

「お前もはいらないか。」と久保田さんは赤くほてった顔で云った。

「ええ。」と曖昧な調子で答えておいて、洋太郎は火鉢の側にくっついてばかりいた。

 その代りに、中学二年生の二男が遊びに加わった。姪の子供達も、平素厳めしい大叔父さんがふざけるのを喜んだらしく、なお一層はしゃぎ出した。それでも久保田さんにはまだ足りなかった。嫁にいってる長女とその三歳になる子とが欠けていた。それを補おうとするように、久保田さんはなお騒ぎ立てた。台所から藁の御鉢入れを持ってきて、その蓋を頭の上でくるくる廻したが、此度は下の深い方を頭からすっぽり被って、それをゆるやかに動かしながら、膝頭で歩き出した。

「さあ猿蟹合戦だ。わしは臼だぞ。」

 子供達はきゃっきゃ云って逃げ廻った。

 膝小僧がともすると覗き出しそうになるので、両手で着物の前を押えて、ぴしゃんこに坐って一息ついていると、久保田さんはふと、藁で分厚ぶあつに編んだその深編笠の中で、白々しらじらとした気持になった。

「こんなに調子に乗って騒いでいて、一体どこまでいったらおしまいになるのかな。」先刻から妙に眼を輝かしてきた夫人と姪、微笑の合間にちらと見合しているらしい洋太郎とお清、それが両面からじっと自分を窺ってるようだった。それから子供達は……。「いや、子供達の喜び方はどうだ!」

 そして久保田さんはまた、臼になって膝頭で歩き出した。

「此度は僕が臼だ。僕だよ。」と叫んで六歳の子が飛びついてきた。

「よしよし。」

 すっぽりと御鉢入れをぬいで、頭についてる藁屑を払い落していると、お清と洋太郎とがまたちらと目配せしたようだった。久保田さんは肩をひょいと落したが、一寸小首を傾げながら洋太郎に云った。

「お前はこういう句を知っているか。ええと……子供の如くならずんば……神の国に入るを得ず……。」

 洋太郎は落付払った微笑を洩した。

「少し違っていますよ。嬰児の如くならずば天国に入ることを得ず……というのじゃありませんか。」

 久保田さんは眼をくるくるさして、満足げに怜悧な長男を眺めた。その時、新たな想念が頭を掠めた。

「なるほど、嬰児……だが天国はいかんよ。嬰児の如くならずば神の国に入ることを得ず。そこで……子供の如くならずば人の国に入ることを得ず……大人の如くならずば悪魔の国に入ることを得ず……。」

「叔父ちゃん、ほら、臼だよ。」

 膝頭まで御鉢入れを被ってごそごそやりながら、子供が徐々に近寄ってくるのを、久保田さんは突然気付いて、わざと頓狂な声を出して、少し後ろに飛びしざった。

「神の国……人の国……悪魔の国……。」

 繰返し胸の奥で唱えていると、頭の中がぱっと明るくなったような気がした、と同時に、室の中も妙に明るくなったようだった。

「ほほう、なるほど!」

という気持で、久保田さんは一同の顔を見廻した。それから肩をぴくりとさした。そこへまた臼がやって来た。

「さあ此度はまたわしが臼だ。」

 御鉢入れを子供からひっこぬいて、頭にすっぽりと被った。

 それから、女中が蜜柑を持ち出すまで久保田さんは子供達と遊んだ。渇いた喉に蜜柑を二個貪り吸うと、皆の世間話をそのまま放っておいて、寝室の方へはいっていった。そして布団の中でいい気持に手足の先までぐっと伸びをして、翌朝早く起上るために眠った。

底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2)」未来社

   1965(昭和40)年1215日第1刷発行

初出:「随筆」

   1924(大正13)年1

入力:tatsuki

校正:門田裕志、小林繁雄

2007年822日作成

青空文庫作成ファイル:

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