白日夢
豊島与志雄



 晩春の頃だった。

 私達──私と妻と男の児と女中との四人──は新らしい住居へ移転した。まだ道具もそう多くはなかったので、五六日で家の中は一通り片付いて、私はほっとした気持で、縁側に腰掛けて煙草を吹かしながら、庭のおもてをぼんやり眺めてみた。庭と云っても僅かに六七坪のものだったが、二三本の植込の木下に、鮮かな緑の雑草が、ぽつりぽつりと萠え出していた。それを見ていると、私の心は晴れやかになった。新らしい住居と共に新らしい幸福がやってくる、といったような思いが湧いてきた。そして向うの室にいた妻を呼びかけて、実際そう口に出してまで云った。

「ええ、」と妻は答えた、「今月からあなたの月給がふえるかも知れませんわ。」

「馬鹿!」

 心持ち高い声で私は叱りつけたが、眼付で笑ってるのをどうすることも出来なかった。

 暫くすると、此度は妻の方から云い出した。

「前のよりはいい家だけれど、欲を云えば、庭がも少し広くって、そして一軒建だと、ほんとにいいんですけれど……。」

「まあそれくらい我慢するさ。贅沢を云えばきりがないから。」

 二階が六畳と三畳、階下が六畳二つ、それに二畳の玄関と三畳の女中室とがついていて、間取りもわりによく、たいして古汚くもなかったので、私達にはまあ相当な家だった。が実際の所、妻が云う通りに、往来から板塀で仕切られてる六七坪の庭が、何だか妙に窮屈だったし、それから殊に、隣りの家と棟続き壁一重越しに、全く同じ形に建てられてるのが、余りいい気持ではなかった。と云って、うっかり妻の言葉に賛成でもしようものなら、こんなちっぽけな借家住居をしなければならない自分の無能さを、改めて証拠立てることになるので、私はわざと空嘯いて、足ることを知る者は富めり、なんかと、自ら自分に云いきかしてやった。

 そして私はいつしか、不満の点を忘れるともなく頭の外に逐い払って、毎日の勤めに出かけた。妻も其後、家に就ての不満を口にしなかった。そして私達の心は、また生活は、次第に新居へ馴染み落付いていった。

 所が、越してきて二週間ばかりたった頃、或る晩、妻は妙なことを云い出した。

「この家は何だか変な家ですよ。門の開いた音がするから出て行ってみると、誰もいないじゃありませんか。そんなことが何度もあったんです。」

 まさか……と思って私は、女中にも尋ねてみたが、やはりその通りだと云うばかりでなく、実は女中の方がそれに多く出逢ったのだった。

 そんな馬鹿なことがあるものか、とは思ったが、現に二人も証人があってみれば、私がいくら否定しても無駄だった。その上、何となく気にかかってきた。姿の見えない人間が、家の門を出たりはいったりしてるということは、それが荒唐無稽であるだけに一層気味悪いように思い做された。

「では兎に角よく注意しといてごらん、本当だとすれば冗談じゃ済まされないことだから。」

 そして私は、門の戸を調べてみたり、あたりを見廻ったりした。何処にも異状はなかった。

 曖昧なうちに四五日は過ぎた。すると妻は馬鹿馬鹿しい報告を齎した。

「うちの門が開くと思ったのは、どうもお隣りの門が開く音だったらしいんですよ。」

 余り他愛ない話なので、私は妻に小言を云う気にもなれなかった。今迄どうして気付かなかったろうかと怪しまれるほど、それは如何にもありそうなことだった。門から玄関まで、庭の竹垣と路次の板塀との間の切石を敷いた道がわりに長かった。そして隣りの家と自分の家との、同じ造りで同じ鈴のついている門の音が、誤って聞き取られるのは、風向の加減で、或は風がなくとも耳の調子で、至極無理からぬことだった。私は表に出てみて、箱を二つに仕切ったような二軒長屋を、不思議そうに眺めやった。

 そして実際不思議だった。同じ向きで同じ古さで、同じ広さ、同じ恰好、恐らく同じ間取り、二軒続いた板塀からは、どちらも玄関寄りに松が一本と、それよりやや低い檜葉が一本、似寄った枝ぶりを覗かしていた。建築師の一分一厘違わない繩墨で、図面を引かれ拵え上げられた、全く同じな二軒だった。二軒ではあるが、一本の背骨がつきぬけてる、くっついたまま動きの取れぬ長屋だった。

「二軒とも全く同じだね。」

 家にはいって私は妻へそう云った。

「そりゃその筈ですよ、同じ形に建てたんでしょうから。」

 なるほど、この上もなくはっきりした理屈だが、それにしても変だった。妻の話によれば隣家も私と同じような会社員で、私よりは三つ四つ年上らしく、やはり細君と女中とがあり、子供が二人あった。私だって、もう三四年もしたら、それくらいの年配になり、子供もも一人くらいはふえるだろう。そして両方とも、同じくらいの貧乏さらしい。同じような日々を送り、同じように年老いてゆき、同じ程度の苦や楽を嘗め、同じくらいの小金でも残して、同じように死んでゆくことだろう。そして今現に、朝や晩、私の方で茶の間に集って、つましい食事をしている時分には、隣家でも恐らくそうしてることだろう。両方の生活全体が、同じくらいの日の光を受けて、同じくらいの明るさに輝いてることだろう……。

 そんなことを考えながら、私は朝夕出勤の出帰りには、有村道夫とある隣家の表札を、可笑しな気持で眺めずにはいられなかった。表札を取り換えて、両方互に入れ代っても、或は何もかもそのままにして、私達が彼等になり、彼等が私達になっても、聊か不都合でも不自然でもなく、お互の生活が今の通りに落付いてゆくかも知れない。

 そして晩なんか、食後のぼんやりした頭で、夕刊を読み終えた眼を薄暗い庭の方へやったり、明日の天気模様を見るため狭い空を仰いだりして、少し冷々する縁側に立っていると、隣家の主人もその時、恐らく同じことをしているかも知れない、などと想像をめぐらしてみた。ふと振向いて、子供の布団を取出した押入の唐紙が、そのまま開き忘れられてるのを見ると、押入の中の薄い壁に穴をあけて「有村さん、」と呼んでみたらどんなものだろうか、などと想像してみた。

「おい、」と私は妻に呼びかけた、「隣りとの間の壁を取払ってしまって、一緒に暮したら面白いかも知れないね。」

 妻は軽蔑したような薄ら笑いを洩らしたが、暫くして何と思ったか、こんなことを云い出した。

「そりゃ面白いかも知れませんわ。お隣りの奥さんは私より綺麗だから。」

「そして隣りの御主人は、僕よりも綺麗だろうからね。」

「それごらんなさい。損するのは私達ばかりですよ。」

「その代り、隣りの方が金持かも知れない。」

「そりゃ当り前ですわ。私達より長く世の中に……働いてきたんですもの。」

 一寸文句につまって、それから俄に見付出された、その「働いてきた」という言葉が可笑しくて、私達は笑い出した。

 が実は笑いごとではなくて、擽ったいような不思議なような、変梃な気持だった。而も私は、隣家の人達と一度も顔を合したことがなかった。どうかして顔を見てみたい、というより寧ろ、その生活を覗いてみたい、そんな気がしきりにしてきた。と共にまた、向うから自分達の生活を透し見られてはすまいか、何もかもすっかり聞き取られてはすまいか、そんな不安も一方に萌してきた。互に矛盾した気持ではあるが、それが一緒にこんぐらかって、変に私を囚えてしまった。

「あなたはどうしてそう、お隣りのことばかり気にしていらっしゃるの?」と妻は私に尋ねた。

「余り家の形が似てるからさ。」と私は答えた。

 然しそればかりではなかったらしい。そして、その自分にも分らない何かが、やがてはっきり形を現わしてきた。

 或る土曜日の晩だった。一度家に帰ってきた所を、四五人の友人と町で夕飯を食いに出かけ、飯だけで済すつもりなのがつい酒になり、酔が廻ると長引いて、それからも一軒寄って飲み直し、皆と別れて一人家の方へ帰ってゆく時には、私はもうすっかり酔っ払っていた。それでも気は確かだった。そして街路に明るくともってる電気や瓦斯の光のように、頭の中も明るく輝き渡っていた。電車の中や大通りにつみ重ってる人の顔が、どれもこれも皆親しみ深くて、そしてまた物珍らしかった。大きな石をめくって、その下に巣くってる蟻共が、驚き騒ぐのを見るように、この都会の人家を中天に巻き上げて、無数の人が右往左往するのを見たならば、さぞ面白いことだろうと、そんなことを考えていた。

 空は茫と霞んで、星が淡々しかった。なま温んでる空気が横町にはいると処々に、咽せるような新緑の香を湛えていた。いい気持の晩だった。しっとりと落付いていた。私はいつまでも歩き続けたいのを、家に帰ることが義務ででもあるかのように、遠廻りもせずに帰っていった。

 家の近くまで来ると、急に気が弛んだせいか、足がふらふらするのに気付いた。そしてふとよろけかかったのを、手先で門につかまって、立直りざまがらりと引開け、その余勢でぴしゃりと閉めた。そして玄関までの石畳を、前のめりにすたすたと歩いて、格子を勢よく引開けたが、玄関の三和土たたきに足がかりを失って、右左によろめいたのをきっかけに、頭の中もふらついて、眼の前のものがごっちゃになった。それでも私は戸惑いをせずに、勝手知った茶の間へ通った。帽子とマントとを脱ぎすてて、次に羽織まで脱ぎ払って、長火鉢の前に腰を下し、先ず一服と煙草を吸ってみた。

 所が、妙に勝手が悪かった。はてなと思って気がつくと、長火鉢の位置が変っていた。工合悪く据え直したものだな、という思いと一緒に、妻の顔付が頭に浮んだ。もう寝たのかなとは思ったが、「おい春子、」と呼んでみて、ひょいと顔を挙げると、眼の前に、室の入口の敷居の所に、背のすらりとしたハイカラな女が、眼を真円く見開いて立っていた。その威に打たれたわけではないけれど、私はぴょこりとお辞儀をした。

「いらっしゃい。あの……妻は何処へか……。」

 云いかけているうちに、私は突然はっと気がついた。見ると向うの隅には、女中らしい見馴れない女が、笑ってるのか泣いてるのか分らない顔付で、私の方を見つめて立っていた。そして室の中の有様が、長火鉢から茶箪笥から釘に懸ってる衣服まで、自分の家とは全く様子が異っていた。しまった! と思うと同時に度を失って、もうどうにも我慢が出来なくなって、脱ぎ捨てた帽子とマントとを引掴み、「失礼しました、」と云い捨てながら、前後の考えもなく表へ飛び出してしまった。

 私は酔もさめて、よく眺めてみると、自分の家と隣りの家とを間違えて、のめのめはいっていったのだった。そして長火鉢の前に坐り込んだばかりでなく、恐らく細君に違いないあの女へ向って、何という挨拶をしたのだろう!……私は足音を偸んで、自分の家の前を通り過ぎ、暫くしてからまた戻ってき、門を開いて閉めるにも、玄関の格子を開いて閉めるにも、出来るだけ音のしないように注意して、なおその上に息までこらして、茶の間へはいっていった。針仕事していた妻と、何かやはり繕いものをしていた女中とが、私の気配を感じてか、ひょいと振向いて私の方を見た。

「まあ、あなたは……。」

 妻がそういうのを黙って見返した。

「どうしてそうこっそり帰っていらしたの?」

 それだけのことだったか、と私は幾分安堵の思いをして、帽子やマントを脱ぎ捨てて其処に坐った。そして気を落付けるために茶を飲んだ。

「あら、お羽織は?」

 喫驚して自分を顧みると、羽織を着けていなかった。

「しまった!」と独りでに声が出てしまった。

「どうなすったの?」

「忘れてきた。」

「え、何処に?」

「隣りの家に。」

「お隣りですって? まあどうして?」

 そこで私は、酔ったまぎれに隣家へ飛び込んで、そしてまた飛び出してきた顛末を、頭にぼんやり残ってるまま、話してきかせなければならなかった。妻と女中とは、呆気にとられたような眼付をして、私の顔ばかりを見つめていた。私は極り悪さのてれ隠しに、後始末の方へ話を向けていった。

「明日になったら、お前行って、よく謝った上で、羽織を貰ってきてくれないか。」

 妻は暫く返辞もしなかったが、やがてとってつけたように答えた。

「いやですよ、そんな気の利かないお使なんか。」

「だって僕が行くのも何だか変だし、お千代をやるわけにもゆかないし、まあお前が行ってくれるのが、一番順当だろうじゃないか。」

 それでも妻は行くのを承知しなかった。自分で仕出来したことは自分で始末するのが当然だ、と彼女は主張した。お前の方が隣りの人達と顔馴染があるから、と私は云った。然し私は玄関まで挨拶に行ったきりだが、あなたは長火鉢の前に坐り込みまでなすったのだから、と彼女は云った。でもそれは酔った揚句の間違いだから、と私は云った。男って重宝なもので、何でも酒のせいにすればよいと思ってる、と彼女は云った。……そんな風に水掛論に終って、なかなかはてしがつかなかった。そのうち私は変に陰鬱になって、話を中途で切上げて、布団にもぐり込んでしまった。

 悪醒めのした酔が、また変に頭に上ってきて、みしりみしりと天井裏を誰かが歩くような、気味悪い遠い頭痛を感じてきた。私はもう何もかも忘れたい気になって、頭痛の音を数えていたが、いつのまにかぐったり疲れて、そのまま眠ってしまった。

 翌朝、明け方に一寸眼を覚したが、宿酔めいた灰汁あくどい気持のうちに、凡てがもやもやと夢のように入乱れた。それからまたうとうとと眠った。

 十時頃だったろう、私は妻から呼び起された。

「あなた、羽織を貰ってきましたよ。」

 紺のお召の一重羽織を、彼女は笑いながら打振ってみせた。私はむっくり身を起した。

「行ってくれたのか。」

「ええ、行かなけりゃ仕方ないじゃありませんか。あなたが御自分でいらっしゃるわけにはゆかないし、女中をやるわけにもゆかないし、私より外に誰もないじゃありませんか。」

 昨夜私が云った通りのことを、平気で自分から繰返してる彼女を、私は妙な気持で眺めてやった。

「行ってみると、案外やさしい気の置けない人達ですよ。そして、昨夜はお隣りの御主人も、やはり御友達と酒を飲んで遅くなられて、丁度留守中にあなたが飛び込んでゆかれたものですから、そりゃあ喫驚なすったそうですよ。見た人だというきりで、何処の人とも分らないので、羽織の始末に困っていらした所でしたわ。私が話をして謝ると、皆で放笑ふきだしてしまいました。お隣りの御主人も、やはり変な間違いをなすったことがあるんですって。」

「どんな?」

「あなたのより少したちが悪い、と御自分で云って、お話なすったのですが……。」

 そして彼女の語る所によれば、隣りの主人は、或る日細君と一緒に散歩に出て、細君が何か買物をするのを、ぶらぶら歩きながら待っていた。その買物がまた馬鹿に手間取って、待ってるのが焦れったくなり、初めは店の近くを歩いたり立止ったりしていたが、後には少し遠くまで歩き出し、苛ら苛らしていると、妻君はいつのまにか店から出て来たとみえ、素知らぬ顔で向うへすたすたやってゆくのが、後姿でそれと分った。で彼は少し向っ腹で、後から追付いてゆき、「何を愚図愚図してたんだ、」と小声で叱りつけ、人をさんざん待たせといて、一人で先に帰ってゆくってことがあるものかと、そんな風な泣言を並べながら、彼女が立止って振向いたのをちらっと見ると、それは一面識もないよその女だった。彼はすっかり狼狽しきって、丁度私と同じように、こそこそと逃げ出してしまったそうである。

「あなたの御主人の方は家だからいいが、私の方は他人の細君だから、そりゃあ弱りましたよと、そう云って笑っていらしたわ。そして、これを御縁にちょいちょいお遊びに来て下さいって……。」

「そりゃ皮肉なのかい。」

「いいえ本気よ。」

「へえー。」

 だがその時、私は俄に元気づいて、勢よくはね起きたのだった。そして水をじゃあじゃあ頭に浴せると、愉快な晴々とした気持になった。

「おい、これから時々間違えて、二人で隣りへ押しかけてゆこうじゃないか。」

「何を仰言るのよ、すぐ図にのって。」

「それから、隣りでその外に何か云ってはしなかったかい。」

「いいえ別に……。」そして彼女は一寸考える風をした。「ただあなたと同じことを云っていらしたわ。二軒共余りよく似ていて、不思議なほど同じだって……。」

 不思議なほど同じ……そう私は心の中で繰返して、すーっと日が陰ったような、一寸怪しい心地がしてきた。こうしていても、私の家へだって、いつ間違えて他人が飛び込んで来ないとも限らない。私の妻が、いや殊によると私までが、いつ他人から人違いをされないとも限らない。もしそんなことになったら……。

 そしてそういう気持が、まだすっかり納まりきらないでいる、その日の晩、私は友人と二人で或るカフェーにはいって、つい気になるまま、引越し以来の顛末を話してみた。そして実は、いつも真面目くさってるその友人から、きっぱりと心が落付くような言葉を、それとなく期待していた所が、友人は私が話し終えるのを待って、変に眼をぎらつかせながら云った。

「そりゃあ面白い。実を云うと、僕はその方面では常習犯でね、自分一人かと思って、少し心細がってた所だ。」

「常習犯だって?」

「まあそうだね。……ただ漠然と云ったのでは分るまいから、詳しくその気持を話してみよう。」

 そして彼は、珈琲でぐっと喉を濡おしてあたりをじろりと見廻して、それから話しだした。

「君もよく知ってる通り、僕は一体陰気で無口で沈みがちな男だ。所がどうかした機会はずみで、急に快活に陽気になることがある。その時の僕の心持は丁度、今まで曇ってた空が俄に晴れて、美しい日の光が一面に降り注いでくるようなものだ。そして僕は非常に愉快な軽やかな気持になって、大抵の用なんかは忘れてしまって、浮かれたように街路まちを歩き廻るのだ。

「人が沢山通ってる、実に沢山通ってる。その顔がみな親しく感じられて、おい! と僕は呼びかけてさえみたくなる。ばかりならまだいいけれど、とんだ思い違いをすることがよくある。通りすがりにちらと見た顔が、どうも或る知人の顔だと思えてくる。で後を追かけていって、そっと横から覗いてみると、そいつが人違いなんだ。向うは変な顔で見返すし、僕は極りが悪くなって、そのまま黙って逃げ出してしまう。然しその後まで、何だか気になって仕方がない。実際その人は僕の知人であるのに、僕も向うも、何かの調子で他人だと思い違えたんじゃあるまいかと、そんな風に思われるのだ。

「それからまた、こういうこともある。向うから来る人の顔に、確かに見覚えがあるような気がする。それも非常に親しい記憶なんだ。ただその名前だけが、どうしても思い出せない。そのうちに、だんだん近寄ってくる。そして僕は帽子に手をかけて、お辞儀するでもなくせぬでもない、中途半端な態度を取ると、向うでは素知らぬ顔で通りすぎてしまう。呆気にとられてその後姿を見送ると、やはり僕の方の思い違いらしいんだ。と云って、そうばかりでも済まされない気持がする。

「一体君、他人の空似ということが、そう度々あるものだろうか。人間の顔は皆よく似寄ってるものかしら。僕は電車の中で、向う側にずらりと並んでる人の顔を、一々注意して見たことがある。所がどれもこれも皆違ってるね。見違えるほど互によく似た顔というものは、一つだってありはしない。勿論兄弟だの二子ふたごだのには、随分よく似た顔もあるだろうが、それだって、見違えるほどのものは少いだろうじゃないか。

「所が僕には前に云ったようなことが度々起るんだ。そしてそれはいつも、僕の心が愉快にのんびりしてる時のことなんだ。君、人間は心が愉快にはずんでる時は、何もかもごっちゃにしたがるものだろうかしら。それともそういう気持は僕一人きりなのかしら。

「或日のことだった。僕は或る友人──かりにBとしておこう──そのBの家へ行こうと思って、電車の停留場まで歩いていった。その時僕は、快活の発作……と云っちゃ変だが、兎に角非常に楽しい気分になっていた。西洋人の子供かのように、軽く足を踊らして人道の縁石の上を歩いていた。すると向うに、一人の知人──かりにNとしておこう──そのNが立っているんだ。僕はつかつかと歩み寄って、軽く会釈したものだ。向うでも会釈を返した。そして僕達はこういう会話をした。──『何処へおいでですか。』──『一寸神田の方まで。』──『そうですか。……僕の家はすぐこの向うですから、おついでの時にはお寄りになりませんか。』──『ええ、有難う、そのうちに是非。』──そこへ電車が来た。Nはそれに乗った。僕は反対の方へ行くのだった。『では失礼、』そう云って別れた。

「それから三十分許りの後、僕はBの家へ行った。驚いたことにはNが来合していた。僕は変な気がして尋ねてみた、『あなたは先刻、神田の方へ行くと云ったんじゃないんですか。』するとNは腑に落ちない顔付をした。よく聞いてみると、彼はもう二時間の余もBの家で話し込んでいたんだそうだ。

「僕の話を開いて、BもNも笑い出してしまった。そして結局、僕が人違いをしたのだということになった。してみると、僕が前に停留場で言葉を交わした男──それをかりにNNとすれば──そのNNも随分気楽な奴に違いない。

「所が僕には、NとNNとの区別がどうもはっきりしないんだ。二人の顔はどっか違ってるようでもあれば、また同じようでもあるし、何だかぼんやりとこんぐらかってしまった。

「種々の記憶を辿ってみると──僕は日常のことについては非常に記憶の悪い方だが──Nとは五六度逢ったことを思い出した。電車の中で一度、展覧会で一度、往来で二度ばかり、帝劇の廊下で一度、それから……友人の所で初めて紹介された時や、其後友人の家で出逢ったのなどは、勿論計算に入れないとして……まあ其他にもあったようだ。そしてよく考えて見ると、一寸挨拶をしたきりの対面であったが、それが果してNであったかまたはNNであったか、はっきり区別がつかなくなった。で僕はそれを一々Nに問いただしてみた。すると、展覧会でと往来で一度とはNの記憶にもあったが、帝劇の廊下や電車の中のことは、Nには思い出せないらしかった。そして要するに、何だか訳が分らないことになってしまった。

「それから数日後のことだった。僕は銀座通りで偶然Nに出逢った。挨拶をしておいて、僕は真先に尋ねてみた。『あなたはN君ですね。』向うでは笑いながら答えた。『本当のNですよ。名前を聞かなきゃ分らないようでは困りますね。』それで僕は初めて安心したものだ。

「実際君、名前を聞いて初めてその人だと安心するようでは困ることだ。然しNに対しては、僕は妙に怖気がついてしまった。同じような顔付が、頭の中で二つになったり一つになったりした。

「其後、或る薄暗い雨の日だった。僕は込み合った電車の吊革にぶら下って、この電車がひっくり返ったら……などと呑気なことを考えていると、すぐ向うにNが立っていた。はっと気付いて声をかけようとすると、向うから先を越されて会釈をされた。その瞬間だ、僕にはそれがNNに違いないと思われた。どうもNではない。で僕はNNによく話をしてみて、今迄互に何か思違いをしていたことに、きっぱり解決をつけようと考えた。そして歩み寄って行くと、向うからこう云われた。『僕はここで失礼します。僕の下宿はこの向うの○○館ですから、どうかちと……。』そして彼は電車を降りていった。僕は全く茫然としてしまった。いつかちらと聞いたことを思い合せると、其の下宿は君、やはりNの下宿なんだから。」

 卓子の上に両肱をのせ、少し前屈みになって、じっと一つ所を見つめてる彼の眼付──妙にぎらぎら光るものと、沈んだ沈鬱なものとが、交る代る浮んでくる彼の眼付を、私はぼんやり見守りながら、話が途切れても一寸は気付かなかった。暫くして私は漸く促した。

「それから、どうした?」

「どうって、それっきりさ、まだ未解決のままなんだ。」

「未解決だって、それじゃ困るね。」

「ああ困るよ。」

 それから私達は思い出したように、冷えきっている珈琲をすすった。そして熱いのをも一杯貰った。それをふうふう吹きながら、彼は湯気の向うから私へ云った。

「僕のは人の顔だし、君のは人の住居だし、どちらも一寸困ることだね。これが二つ一緒になったら、もう立派な気狂だ。」

 気狂と云えば、彼だって私だって隣家の主人だって、もう半ば頭が変梃になってるのかも知れない。そして私の眼には、顔と顔とがごっちゃに重り合い、家と家とがごったになってる、何にも見分けのつかない混乱した世界が、ぼんやりと見えてきた。うっかりしちゃいられない! そう思うとむやみに気にかかって、私はそこそこに友人と別れて、家の方へ帰っていった。家に誰かはいって来てやしないかしら、妻が誰かの妻君と間違えられてやしないかしら、いやそう思ってるこの自分自身が、自分の家や自分の妻を見違えやしないかしら、自分自身を取違えやしないかしら……それが馬鹿馬鹿しいことだけに一層不安になって、大急ぎで足を早めた。

 そしてまた一方には、なぜかしら、なぜかしら? としきりに心の奥で考えていた。すると、地上に石塊いしころのように投げ出されてる、自分自身が、自分の生活が、遠くの方からだんだん目近に見えてきた。この地球の上に、自分のものという一隅の地面もなく、自分のものという一軒の住宅もなく、自分を養ってくれる食物や金銭の蓄えもなく、その日その日を漸く稼いで暮していて、その上、しっかりよりかかるべき理想とか主義とかを持たず、何のために生きてるのか分らない生活をして、ぼんやり日を送ってるのだった。物質的にも精神的にも、全くの無産者だった。それがいけないのかしら……だが、やはり私にだって、爽かな空気も暖い日の光も、多分に存在しているじゃないか。家を間違えたって人違いをしたって、そんなことを構うものか。きっと上下かみしもをつけて納まり返ってるのがいけないのだ。真裸になって皆一緒に手をつないで踊り廻ったら、どんなにか面白いだろう。何にも持たないことは一種の強みだ。

 そんな風に私は考えて、非常に晴々とした愉快な気持になったが、それにしてもやはり、自分の家や妻や子供のことを考えると、何だか気になって仕様がなかった。一体どうすればいいというのか?

 私は自分の心がどこへ向いてるのか見当がつかないで、怪しい変梃な気持になって、それでも、隣りの家と自分の家とを間違えないように用心して、つかつかとはいっていった。

 子供を寝かしつけたばかりの妻が、私の足音を聞いて出迎えてきた。私はそれと、室の入口でぱったり出逢った。まごう方ない自分の妻だった。

「お前は春子だね。」

「まあ、あなたは!……また間違えてお隣りへ飛び込みなすったの?」

 瞬き一つしないで呆れ返ってる妻の顔と、それから向うに、くすくす笑いながら渋め面をしている女中の顔とを、私はじろりと見やったが、俄に我ながら可笑しくなって、あはは……と高く笑い出してしまった。

「間違えるものかね。あべこべに、間違えられやしないかと心配したくらいだ。」

「心配ですって!……間違えられる方なら、いくら間違えられたって平気じゃありませんか。」

「平気……そうだ、間違えたって間違えられたって、そんなことを構うものか、平気なものさ。」

 そして私はばかに嬉しくなって、室の中をぐるぐる歩き廻った。こんなちっぽけな家の中にくすぶってるのが、何だか勿体ないような気さえした。

「おい、一緒に散歩に出よう。」

 妻は返事もしないで、私の方を怪訝そうに見守っていた。

「お前は僕を信じていないんだね。そんなこたあいけない。……さあ、外に一緒に出てみよう。外はいい気持だよ。」

「だって……。」

「そのだってがいけないんだ。さあ行こう。お前は昔はよく、僕と一緒に散歩したがってたじゃないか。」

 妻は一寸口を尖らしたが、そのままの相恰で笑顔に変って、急いで髪を撫でつけながら、眠ってる子供のことを女中に頼んで、私の後へついて外に出て来た。

「子供を連れて来るとよかったね。」

「だって、もう眠ってるんですもの、可哀そうですよ。」

「それじゃ、また昼間連れて出ることにしよう。」

 穏かに晴れてる晩だった。あるかなきかの風が、香ばしい緑の匂いを何処からか吹き送ってきた。そして私は暫く歩いて、妻へ珈琲と菓子とを奢ってやり、帰りに植木屋の前に立止って、庭に植える樹木を物色してる妻の言葉へ、うわの空で返事をしながら、水が綺麗に振りかけられてる木の葉を、ぼんやり眺めていたが、妙につまらなく馬鹿馬鹿しくなってきた。

「火事でもあるといいが!」

 そんなことを心の中で呟き、そんなことを想像して、私は真赤な焔を頭の中に浮べてみた。

底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2)」未来社

   1965(昭和40)年1215日第1刷発行

初出:「新小説」

   1923(大正12)年8

入力:tatsuki

校正:門田裕志

2009年112日作成

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