神棚
豊島与志雄
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霙交りの雨が、ぽつりぽつりと落ちてくる気配だった。俺はふと足を止めて、無関心な顔付で、空を仰いでみた。薄ぼんやりした灰色の低い空から、冷い粒が二つ三つ、頬や鼻のあたりへじかに落ちかかってきて、その感じが、背筋を通って足先まで流れた。
「愈々やってきたな。」
ふふんという気持で俺は呟いたが、その気持がはたと行きづまって、一寸自分でも面喰った。──朝から金の才覚に出かけたが、或る所では断られ、或る所では主人が不在で、初めから大したものでもなかった意気込みまで、何処へか取失ってしまい、その上昼食も食いはぐしてしまってぼんやり歩いてるうちに、いつしか夕方になったのだった。蟇口は相変らず空っぽのままだし、胃袋には一片の食物も残っていないし、外套もつけていない吹き曝しの身に、雪になりそうな雨まで落ちかかってきた。だがそんなことは、まあいいや、明日という日がないじゃなし! と空嘯いてみたものの、さてこれから、どうしよう……ということより寧ろ、何処へ行こうということが、ぴたりと気持を遮ってしまった。このままぼんやり歩き続けて、銘仙の一張羅を雨に濡らしてもつまらないし、それかって一寸訪ねる家もないし、また自分の家へ帰るとすれば、お久の剣突か涙声か、何れ碌なことには出逢わないのだし……はて?
広い通りの十字街だった。満員の電車が幾つも幾つも通り、暖かそうな人顔の覗いてる自動車が駆けぬけ、手に買物の包みを下げてる人々が、嬉しげな気忙しなさに足を早めていた。
「なるほど世の中は忙しいや。呑気なのは俺一人かも知れない。お久の云うのも道理だ。だが、俺には全く何の当もないんだからな。当がないのに急げったって……。」
けれど、そんな風に考えてるうちに、俺は二足三足歩き出していた。ふらふらと我知らず電車道を横ぎると、其処の唐物屋の窓口に、クリスマスの飾物がまだ残っていた。杉の青葉に蜘蛛の糸のような銀糸が張られて、赤い帽子に赤い着物に長靴をつけた白髯の爺さんが、にこにこした顔付で立っていた。俺は長い間それを極めていた。──そうだ、俺にだって今にサンタクロースの爺さんが、素敵な幸福を持って来てくれないとは限らない! その縁起をかつぐわけではないけれど、一寸自分に自分で口実を拵えるためもあって、子供にキューピスさんの人形でも買って家に帰ろうと思った。
雨はもうぱらぱらと、俯向いてても分るくらいに降ってきた。俺は少し急ぎ出した。或る玩具屋の店先で、乏しい蟇口の底をはたいて、五銭もするセルロイドのキューピスさんを四つ買った。毎度ありがとうございますって、人を馬鹿にした空世辞も、満更嬉しくないでもなかった。
電車に飛び乗って、暫くして降りて、曲りくねった小路をつきぬけて、自分の家の門口に立った。耳を澄したがひっそりしている。はてな? と思う心に用捨なく雨が降りかかってくる。俺は思い切って、勢よく格子を開けて中にはいった。
お久が二人の子供を相手にぼんやりしていた。見ると、神棚には明々と蝋燭がともされていた。また例のことが初ったなと思いながら、俺の顔には一人でに苦笑が上ってきた。
「どうだったの?」とお久は上目使いに俺を見上げて尋ねかけた。
俺はそれには答えないで、袂からキューピスさんを二つ取出して、子供達の前に投げ出してやった。子供達は嬉し声を立ててそれを拾い取った。
「まだあるぞ。」
そして俺はまた二つ投り出してやった。
「やあ、おかしな顔をしてる!」
珍らしそうにキューピスさんを弄くってる子供達の心より、それを見てる俺の心の方が一層喜んでいた。俺はにこにこ笑いながら、バットに火をつけて吸った。
「じゃあ。出来て……。」
お久は何と感違いしたか、もう顔の相恰をくずしかけていた。がそれも無理はなかった。俺が玩具なんかを買って来ることは滅多になかったのだから。──とは云え、折角萌しかけてきた一家の喜びに、どうきりをつけたらいいものか、俺は少なからず困った。
「出来たんでしょう……私祈ってたから……。」
その最後の言葉がなかったら、俺も何とかして、彼女の希望をもっと長引かしてやったかも知れないが、こうなると、もう待っていられなくなった。
「所が生憎……。」
「え!」
「一文も出来ねえよ。」
見る見るうちに、彼女の顔は変な風に硬ばって、眼の光がぎらぎらしてきた。それが激しい怨み小言の、或は嘆き訴えの、前兆であることを俺は知っていた。で心持ち息をつめて、此度はどちらへ落ちてゆくかと待受けてやった。やがて彼女は云い出した。
「一文も出来ないで、よくまあおめおめ帰って来られたもんだね。今日は岐度まとまった金を拵えて、お前を安心さしてやると云って、出かけたじゃないか。ほんとに意気地なしだね! さあ、今朝の言葉は何処へいったの? お金は何処にあるの?……愚図のくせに、極りが悪いということだけは知ってるとみえて、子供に玩具なんか買ってきてさ、その手で私を瞞そうたって、そうはゆかないよ。玩具買うお金があったら、お米でも買ってくりゃあまだ気が利いてるのに……。今頃までほっつき歩いてて、よく手ぶらで帰って来られたもんだね。傘を借りてくる所もないと見えて、雨にまで濡れてさ……。」
なるほど彼女の言葉は、俺の痛い所へ触れていった。着物がしめっぽくなってることや、口実に玩具を買ってきたことや、当もなくぶらついたことなどを、ちゃんと見通したような口の利き方をしていた。けれど、彼女の心に映るのは、ただそんなことだけで、それから一重奥のことは、全く分らないのだ、と思いながら俺は云った。
「なあに、今にサンタクロースの爺さんが、どんな仕合せを持ってきてくれねえとも限らないさ。」
「何を云ってるんだよ、毛唐の爺さんと福の神とを間違えてさ!……またいつもの、お金を拾う夢でもみたんだろう。」
俺は苦笑して何とも答えなかった。湿っぽい一張羅をぬいで、木綿の平素着と代えながら、冗談にまぎらして云った。
「早く飯にしてくれないか。腹が空ききってるんだ、昼飯を食うのを忘れたもんだから。」
「え、昼飯も食べないでいるの!」
同情したのか軽蔑したのか分らない調子だったが──恐らく両方だったろうが──兎に角彼女はすぐに食事にしてくれた。
足のぐらぐらする餉台の上には馬鈴薯と大根とのごった煮と冷たい飯とだけだった。それでも空っ腹には旨かった。これで熱いのをきゅーっと一杯やれたら……とそんな気がしたが、さすがに口へは出せなかった。子供達までが、如何にも旨そうに食っていた。廻らぬ箸の先からこぼれ落ちる飯粒まで、一々拾って食っていた。
「どうだ、旨いか。」と自分でも知らないまに言葉が出た。
「うん。」と答えて信一は、馬鈴薯を頬張りながら眼をくるくるさした。
「みよはどうだい?」
みよは何とも答えないで、きょとんと首を斜に動かしてみせた。
「おい、」と俺はお久の方へ向いて云った、「みんな旨そうに食ってるじゃないか。毎日旨く飯が食えりゃあ何もくよくよすることはねえよ。」
お久はじっと眼を伏せていた。何かに心動かされたとみえて、涙ぐんだらしい瞬きさえしていた。それでも溜息をつくことを忘れなかった。そして云った。
「せめてね、よいお正月だけでも迎えられるといいんだが……。」
「何を云ってるんだい! よい正月だか悪い正月だか、なってみなけりゃ分らねえさ。」
「そんな呑気なことを云ってるからお前さんは駄目なんだよ。今日を一体幾日だと思ってるの?」
「今日は歳暮の二十八日さ。」
「それごらんよ、明後日一杯きりじゃないの。」
なるほどそう云えばそうだった。実は先達、質屋から厳重な通知が来ていた。お久の着物二三枚と子供達の晴着三四枚と──俺は枚数をよく覚えてはいないが──それを入質したまんま、もう六ヶ月も利子をためてた所が、来る三十日迄に利子を入れなければ、年末業務整理のため相流し可申候と、わざわざ筆で書き添えた督促状だった。お久に云わすれば、せめて子供達の着物だけでも受け出さなければ、よい正月は迎えられないそうだった。まあそれもいいとして、受け出すべき六十円余りの金の工面が問題だった。その他に俺としては、家賃や諸払や、半分でも入れとかなければ義理の悪い時借など、全部でかれこれ、百五十円ばかりは必要だった。職の方が漸くきまると、早速金の調達に奔走しだしたのだが、「こう押しつまっては……」と、何処も型のように断られた。俺の方では、押しつまったればこそ金がいるんだが、向うでは、押しつまったから金が出せないと云う。必要がさし迫れば迫るほど、益々途が塞ってくるわけだ。どうにも仕方がなかった。けれどまだ、ぎりぎりの瀬戸際までいったわけではない。
「じゃあ、その瀬戸際にいってどうするつもりだよ?」
それが、お久の最後の鉄槌だった。まさか俺だって、其処までいったのにいい加減なことも云えないし、打挫がれて黙り込むより外はなかった。けれど……けれど……やはりまだ瀬戸際まで押しつまったわけではない。
「まあ、明後日までのうちにはどうにかするよ。」
何だか俺は飯もまずくなってしまった。腹が少しばかり出来てきたからではない。変に気が滅入ってきたからだった。なぜ俺はこう貧乏なんだろう! ……電燈の光は妙に薄暗いし、家の中は汚く煤けている。俺は馴れてるから分らないが、初めてはいって来る者があったら岐度、貧乏くさい臭いがしてると思うに違いない。
俺が黙り込むと、お久まで変に黙り込んでしまったし、子供達までがもそもそと、味なさそうな飯の食い方になっていた。こうなっちゃ助からない、と俺は思い初めたが、それが、威勢のいい格子の音で助かった。
やって来たのは池部だった。平素からてきぱきした男だが、その晩は何か昂奮してるらしく、殊に勢いづいていた。
「やあ、飯の最中か。丁度いい所へやって来た。実は君と一杯やろうと思っていたんだ。……お久さん、済まねえが、酒と何か一寸摘むものを、これで一走りしてくれませんか。」
そしてもう蟇口をあけて、五十銭銀貨を二枚取出して、それをちょんと餉台の上にのせた。
お久は暫く彼の顔を見ていたが、その視線の余波でちらと俺の顔を撫でてから、落付き払って云い出した。
「お酒なら、少しくらいは家にありますよ。それに、何もないけれど、鰑に奈良漬くらいでよかったら……。」
「それだけありゃあ沢山。じゃあまた酒が切れたら願いましょう。」
そして彼はすぐに、五十銭銀貨を蟇口にしまい込んだ。実にはっきりしていた。それが却って俺には心地よかった。ただ少し不承なのはお久のやり口だった。
「酒があるならあると、早く云やあいいのに。実は俺は飲みてえのを我慢してたんだぜ。」
「それごらんよ、飲みたいのを我慢するだけの引け目が自分にあるじゃないか。……私もね、お前さんが美事調えてきてくれたら……と思って取っといたんだけれど……。」
いつも亭主をやりこめることばかり考えてる女だ、と俺は思ったが、人前で云い争うでもないので黙った。その上彼女は、一寸昔の可愛さを思い出させるような、上唇を脹らませる薄ら笑いを浮べていたので、俺も曖昧な笑顔をしてやった。けれど彼女の言葉を、池部は聞きとがめていた。
「何だい、その調えるとか調えないとかいうのは……。まさか、柄にもねえ仲人口を利いてるっていうんでもあるまいし……。」
「なあに、実は金の工面さ。」
「ああなるほど。」そして彼は如何にも腑に落ちたという顔付をした。「実は俺も少しいるんで心当りを探ってみたんだが、世間は不景気だね。」
「全くだ、世間は不景気だ。」
そして俺達は笑い出してしまった。この場合、世間は不景気だということが、すっかり気に入って嬉しくなったのだった。
酒の燗が出来て、鰑が裂かれて、杯を重ねてるうちに、池部は俄に改った調子で尋ねかけてきた。
「時に君の職の方はどうなったい?」
「ああどうにか、深田印刷の方にきまったんだがね、年内はもういくらもねえし、正月は初めのうち休みだてえんで、正月の十五日頃から出てくれと云うんだ。貯金があるじゃあなし、それまでの無駄食いに弱ってるんだ。」
「なあに、そいつあ先が安全だからいいじゃねえか。俺なんか、歳暮の臨時雇だから、お先真暗で、心細いったらねえよ。……こうなったのも松尾の奴のお蔭だ。」
池部はじっと俺の顔を覗き込んできた。また何か計画んでるんだな、と俺はすぐに感じたが、彼の言葉は意外な方面へ飛んでいった。
「君はあの後笹木に逢ったことがあるか。」
「ねえよ。」
「実はね、笹木の奴が松尾と共謀だったんだぜ。」
「え、笹木が!」
「そうさ。立派な証拠があるんだ。」
「どんな話だい?」
「どんなって、いろいろあるがね、初めの起りは、浅井が笹木の所へ金を借りに行ったことからなんだ。笹木が或る小さな印刷所を──端物専門のちっぽけなものだが──その株を買って一人で経営してるっていうのを聞き込んで、ついのこのこ出かけていったものさ。行ってみると、手刷の器械が一二台あるだけで、まるで商売にもならないくらいなものなんだが、云うことが大きいや、ゆくゆくは大規模な印刷会社に仕上げてみせる、そうなったら、君も俺の所で働いてくれってさ。馬鹿にするないって気に浅井はなったそうだが、ちょいちょい言葉尻を考え合せてみると、どうしてなかなか、まんざらの法螺だとも聞き流せねえふしがあるんだ。……がまあそれはそれとして、浅井は少し借りてえときり出したのさ。すると奴さん、澄しこんだ顔付でね、大事な商売の金なんだが、まあ月に七八分も利子を出すんなら、五十円くらい融通してやってもいい、なんかって吐しやがるのさ。馬鹿にしてるじゃねえか。……浅井の奴、ぷりぷり怒りやがって、俺にその話をしてきかせたよ。そして二人で話し合ってるうちに、どうも腑に落ちねえことばかり出てくるんだ。第一笹木が何処からそんな金を手に入れたかが疑問なんだ。彼奴が金なんか持ってたためしはなかったんだからね。なるほど仕事の腕は持ってるが、いつも酒ばかり喰ってたじゃねえか。それに彼奴が僕達を松尾の方へ引張り出した張本人だろう。それにあの時のしゃあしゃあとした態度はどうだ! 誰にだって大体の想像はつかあね。俺は浅井と一緒に手を廻して、内々調べてみたよ。すると確かに、彼奴は松尾と共謀だったらしいんだ。」
不思議にも、俺はそういう話を聞きながら、前に一度自分でも笹木の共謀を想像したことがあったような気がした。或はまた、自分の知ってることを、池部から改めて聞かされてるような気がした。そして俺は別段驚かなかった。一体この事件くらい馬鹿げたものはなかった。事の起りは八月の頃で笹木が俺達の仲間十五人ばかりを松尾に引合わしたのである。松尾は或る富豪から全権を任されたとかで、新らしく印刷所を拵えにかかっていた。給金制度でなしに、純益配分制度とかの、理想的な会社になる筈だった。そして俺達はうまく勧誘されて、その会社にはいることを約束した。勿論その間にはいろんな交渉もあったが、十月の半ばには、俺達は自分の印刷会社から出て、一人前百円ずつ手当とかいう名義の金を貰い、新会社に雇傭の契約を済して、その会社が事業に着手するのを待っていた。或る印刷所を買い取ってすぐに仕事を初めることになっていた。所がいつまで待っても会社は出来上らなかった。笹木が始終俺達の代表となって松尾と交捗していた。するうちに、松尾が突然姿を隠してしまった。富豪から出さした一万に近い金を拐帯したとの噂だった。富豪の方はどうしたか知らないが、俺達の方では実に困った。幾度も寄合っては前後策を講じた。笹木が真先に冷淡な諦めを唱え出した。それに反対する者の方が多数だったけれど、松尾の行方が分らない以上は仕方なかった。皆生活に困る連中ばかりで、いつのまにか散りぢりになって、思い思いの職を求めていった。──俺の方では、その事件の最中に、母に病気されて遂に死なれてしまい、ごたごたしてるうちに、年末に近づいてくるし、漸く深田印刷会社に一月の半ばから出ることになったが、生活の方が行きづまってしまったのだった。
笹木が松尾と共謀していたのだとすれば、俺の憤怒は当然笹木に対して燃え立たなければならない筈だのに、ただぶすぶすといぶるだけで、我ながら可笑しな心地だった。で俺は自分に対する皮肉な微笑を浮べながら、池部に尋ねかけていった。
「だが、そりゃただらしいというだけで、まだ確かな証拠が挙ってやしないじゃねえか。」
「挙ってるとも。素寒貧な笹木に降って湧いたように金が出来るというなあ、何より立派な証拠なんだ。内々調べてみるてえと、彼奴に前から金があったしるしも、誰からか金を引出したらしいしるしも、全くねえんだ。」
「じゃあどうしようというんだ?」
「君だったらどうする?」
池部はあべこべに尋ねかけて、俺の方へじりじりと顔を寄せてきた。もうちゃんと肚をきめていて、俺をその中に引張り込もうとしてるな、ということはよく分ったが、どうせ碌なことじゃあるまいと思って、俺はその押してくる力を平然と堪えてやった。
「警察に訴えたらどう?」と子供達を寝かしつけてきたお久が、聞きかじりの余計な口を出した。
「なあに訴えた所で、彼奴が尻尾を出すもんですか。」と池部は空嘯いたが、此度は俺の方へ向いて云い出した。「実は四五人で相談をまとめたんだが、君も一つ賛成してくれないか。こうしようというんだ。あの事件の最後の相談をするということにして、笹木を呼び出しておいて、皆で取っちめてやるのさ、もし白を切るようだったら、何時から何処にどれだけの貯金があった、誰からいくら引出した、というようなことを調べ上げてやるまでのことだ。ごまかせるものじゃねえよ。そこで皆して、彼奴が松尾から手に入れた金を捲き上げてやるか、彼奴をひっ叩いてやるか、まあどっちかだね。万一松尾と共謀でなかったとしたら、男らしく謝罪ってさ、打揃って彼奴の印刷所へはいって、一つ立派なものに育てあげようじゃねえか。そうなりゃあ、資本を下してくれる者だって見付かるかも知れねえし……。」
そこまでゆくと、俺も面白くなってきた。池部は俺が乗気なのを見て、また五十銭銀貨を取出して、酒の継ぎ足しをお久に頼んだ。そして皆でなお詳しく相談し合った。お久は金を捲き上げることに最も賛成だったし、池部はひっ叩くことに最も気が向いていたし、俺は立派な印刷所を育て上げることに最も望みをかけた。然し三つの解決なら、結局どっちになっても面白そうだった。ただ、こんなことは正月まで持ち越したくないから、三十日の午後にしたいと池部は主張した。俺は賛成だった。それではこれからまだ廻ってみよう、池部は慌しく立上った。十五人ばかりのうち十人くらいは大丈夫集る、と自信ありげに云い捨てて帰っていった。
所が、池部が居なくなると、俺は何だか力抜けがしたような気持を覚えた。痩せてはいるが変に骨の堅そうな彼の身体つきが、どうしてそれほど俺に影響してくるのか、さっぱり合点がいかなかった。話が余り突然で心になずまないせいもあったろうが、それにしても、彼一人がその話を背負って歩いてるわけでもあるまいし、張りのない自分の心が不思議だった。
「ほんとに酷い奴だね。」とお久はまだ興奮を失わないで云っていた。「あんな奴は、引っ叩くくらいじゃ屁とも思やしないから、金をそっくりふんだくってやるがいいよ。」
俺は苦笑した。
「そうもいかねえさ。……お前だって何だろう。先程、池部が投り出した金を取りもしねえで、わざわざ取って置きの酒を出したじゃねえか。」
「あれとそれとは違うよ。……ほんとに笹木から金を吐き出さしてしまったがいいよ。そうすれば私達だって助かるじゃないか。でもねえ、笹木の方は当にはならないし、家で入用なだけは何とか工面しておくれよ。子供達の着物と正月の仕度とだけは、なくちゃ年が越せないからね。一日二日のうちに、お前さん大丈夫かい。ほんとに悪い時にぶっつかったもんだね。笹木の方はいい加減にして、実際の所、当にはならないからね、家のことだけを一番に考えておくれよ。」
笹木の方は当にならないと云いながら、実は当にしてるんだな、と俺は思った。いつも俺のことを、他愛もない夢ばかりみてると貶しつけておきながら、自分の方では、まだ形態も知れない笹木の話に、溺れる者が藁屑をでも掴むように、すぐに希望を投げかけていってるじゃないか……。俺は馬鹿々々しくなって、其処にごろりと寝転んでやった。
「ほんとにお前さん頼むよ。いくら押しつまったって、男の手で百や二百の金が出来ないことがあるもんかね。出来なくっても、私が出来るように祈ってやるよ。祈って祈って祈りぬいてやるよ。命がけで祈ってやるから覚えておいで、……ああ大変、お灯明が消えてる……。」
彼女はまた例の無茶苦茶になりかけていた。いきなり立上って、神棚に蝋燭をつけて、その前に蹲った「天照る神ひるめの神……」それだけきり俺には聞き取れなかったが、非常に長たらしい訳の分らないことを、声には出さずに口の中で唱えだした。どうして彼女がその長い文句を覚えたかが、何よりも不思議だった。勿論母はいつもそれを唱えていたが、母の生きてる間、彼女は神棚に振向きもしなかったのである。
俺の覚えてる限りでは、母は──と云っても俺には義理の母で、お久の実母だったが──いつも命より神棚の方を大事にしてるかのようだった。毎朝必ず御飯や水を供え、晩には必ず灯明をつけ、月の一日と十五日には御神酒を上げ、いつも青々とした榊を絶やしたことがなく、そして朝晩に長い間礼拝した。そのくせ俺やお久が冷淡にしてるのを別に咎めもせず、却ってそれを喜んでるかとさえ思われるくらいで、誰にも指一本触れることを許さないで、稀代の宝物にでも対するように、自分一人で妬ましそうにその用をしていた。死ぬ時までそうだった。病気で足がふらふらになってからも、神棚の用と便用とへだけは自分で立っていった。もう起き上れなくなってからも、朝晩は必ず寝床の上に坐らせて貰ってお祈りをした。お久に供物をさせる時には、じっとその様子を見守っていた。病気が重って口も碌に利けなくなると、しきりに手真似で何か相図をしだした。その意味がどうしても分らなかった。彼女はじれだして、ひょいと床の上に坐ってしまった。俺達は喫驚した。無理に寝かしはしたが、それが彼女にとっては最後の打撃だった。仰向にひっくり返って、息を喘ませながら、喉に火の玉でもつかえてるような風に、変梃な口の動かし方をして、しきりに神棚の方を指さした。その手はもう冷たく痙攣りかけていた。お久が側についていて、頭を水で冷してやり、俺はまた大急ぎで、神棚に灯明を二つもつけ、神酒を上げ、新らしい榊の枝を供えたりしたが、まだ彼女の気に入らないらしかった。彼女の全身は神棚の方へ飛びかかってゆくような勢だった。骨ばかりの汚い手が神棚の方へ震え上り、白目がしつっこく神棚の方へ据えられ忙しない息がはっはっと神棚の方へ吐きかけられた。俺達はすっかり狼狽した。どうしたらいいか迷った。するうちに彼女は漸く静まった。ほっと安心すると、その時彼女はもう冷くなりかかっていた。
彼女が死んで、その葬式を済すまで、いやその後までも、俺達には神棚が不気味で気にかかった。然しどうにも仕様はなかった。神棚を取払ってしまおうかと、俺が冗談に云い出すと、お久は変にぎくりとして、滅相もないという顔付をした「神棚には母の魂が籠ってる」……と口には出さないが、そう思ってるに違いなかったし、俺にも何だかそんな気がしていた。けれど俺の方は、物も供えず払塵もかけないで放っておかれる、埃と煤とにまみれたその神棚を、次第に無関心な眼で眺めるようになってきた。何もお化が出るわけじゃなかったのだから。然しお久の方はそういかないらしかった。母の四十九日も済み、ほっと安堵した所へ、母の病気や葬式に金を使い果してしまったし、俺は松尾のことで職を失って収入がないし、年末にはさしかかるし、生活がぐっと行きづまってしまったので、それにひどく気を揉んだらしかった。そして、これは神棚を粗末にした罰だなんかって、馬鹿げきったことを云い出した。俺がいくら云い聞かせたって、母のことが頭の底に絡みついてる彼女には、少しの利目もなかった。俺が云い逆えば逆うほど、彼女は益々強情になっていった。神棚に灯明をつけ榊や水や飯を供え、母と同じように祈りを上げ初めた。一つには、腑甲斐ない俺を励ますつもりもあったろうし、俺に対する面当もあったろうが、その狂言に自分から引っかかっていった。もう立派な病気で、時々その発作を起した。本当に信じてるのではなくて、平素は可なり冷淡だっただけに、猶更仕事が悪かった。
「こいつあ少し手酷しいや。母の生きたお化だ!」
そんな風に俺は考えることもあった。然し冗談ぬきにして、実はだいぶ気にかかった。どうにかしてやらなければいけないと思った。一寸可哀そうな気もした。だが、今にどかっとまとまった金がはいれば、その病気もなおるかも知れない。サンタクロースの爺さんでも、金袋を背負ってやって来ないものかなあ……。
俺はそんなことを空想しながら、褞袍にくるまって仰向に寝そべっていた。実は池部と飲んだ酒が変に空っ腹に廻ってだいぶ酔ってるらしかった。木目も分らないほど煤けた天井板が、一枚一枚くっきりとなって、波にでも浮いてるように、ゆらりゆらりと動き出していた。そしていつのまにか、一寸だらしのない話だが、いい気持に居眠ってしまった……。
それからどれくらいたったか知らないが、俺はふと眼を覚した。急に寒気がしてぶるぶると震えた。感冒をひいたかも知れない、しまったな……という気持でむっくり起き上ってみると、驚いたことには、灯明をあかあかとともした神棚の前で、お久がくぐまり込んで、「天照る神ひるめの神……」を初めている。薄汚れのした紡績の着物にはげちょろのメリンスの帯、その肩から腰のあたりへ、ぼんやりした電燈の光を浴びて、縮こめた首筋へ乱れかかってる髪の毛が、気味悪くおののいている。おや!……と俺は思った。その姿形が亡くなった母によく似ていた。ただ、脂ぎってねっとりしてる黒い髪だけが、母のぱさぱさした赤毛と違っていたが、それが却って不気味だった。俺は我知らず立上った……途端に、彼女はじいっと振向いた。その顔が、母の死顔そっくりだ……と思う気持だけでぞっとしたが、何のことだ、やはりお久の顔だった。而も、俺が起き上るのを内々待ち受けていて、それをわざと空呆けてる、という顔付だった。その気持が余りまざまざとしてただけに、却って俺の方が落付を失った。
「何をしてるんだ!」と俺は怒鳴った。
彼女はふふんと鼻であしらうような調子で、上唇を脹らませる薄ら笑いを浮べた。俺はつっ立ったまま、彼女をじっと見据えた。足で蹴りつけてやろうか……両腕で抱きしめてやろうか……がどちらもぴったり心にこないので、忌々しさの余りつかつかと歩み寄って、神棚の灯明を吹き消してやった。
「何をするんだよ、罰当り!」
そう彼女は叫んで、俺の足へ武者振りついてきた。それを咄嗟に俺は避けて、火鉢の側に退却して腰を下した。
「いつまでもそんなことをしてねえで、早く寝っちまえよ。」
「お前さんこそ寝ておしまいよ。……私夜通しでも起きててやるから。……死んだお母さんの気持が、私にはようく分ってる。お前さんなんかに分るもんかね。ほんとに罰当りだ。だから年も越せないじゃないか。」
「越せるか越せないか、まだきまってやしねえよ。」
「きまってるともさ。子供は襤褸のままだし、松も〆飾りも出来ないで、よく年が越せると云えたもんだね。餅一つ買えないじゃないか。お米を買う金だってもうありゃあしない。私達を飢え死にさせるつもりなら、それでいいよ!」
「米の代も……。」
「あるもんかね。こないだ私が五円拵えてきたばかりで、一文もはいらないじゃないか。私だけならどうだっていいけれど、子供達と……お胎の子供とはそうはいかないよ。」
「でも、あれは本当に確かなのか。」
「確かだともさ。」
彼女は平然とそう云いきってるが、俺にはまだはっきり信ぜられなかった。二月見る物を見ないというのも、母の病気や死亡の感動のせいかも知れないし、悪阻だってないんだし……と俺は思ったが、悪阻がないことだってある、と彼女は云っていた。そう云えばそうかも知れない、もう出来てもいい時だから……。
「兎に角繁昌だね。」
「何が繁昌だよ、馬鹿馬鹿しい!」
彼女はそう云い捨てて、一寸何か考えてる風だったが、変にくしゃくしゃな渋め顔をして、神棚にまた蝋燭をつけた。そして此度は何と云っても返辞一つしないで、じっと坐っていた。俺は「繁昌」で少し気を取り直していたが、彼女の黙りこくった執拗さにぶつかって、次第に気が滅入ってきた。「仕方がねえから死んじまおう、」と云ったら、すぐにも承知しそうな彼女の姿だった。ここで踏ん張らなければいけない……と思ったために、益々心が切羽詰った所へ落込んでいって、世界が薄暗くなってきた。で俺はお久をそのままに放っといて、子供達を見に行く振で、次の室にはいっていった。子供達は煎餅布団の中に、ぬくぬくと眠っていた。俺は横の布団に着物のままもぐり込んで「繁昌だ……繁昌だ……」とくり返したが、一人でに涙がぼろぼろ落ちてきた。頭から布団を被ったが、淋しくて仕方なかった。そっと手を伸して、みよの頬辺を撫でてやった。するとみよはふいに眼を覚して泣き出した。お久がやって来た。俺は寝返りをして、素知らぬ風に息を凝らした。雨の音がしていた。それに耳を澄してるうちに、いつのまにか眠ったらしい。
夜明け方に俺は夢をみた。幾つもみたようだが、ただ一つきり覚えていない。馬鹿に広い綺麗な神棚があって、白藤の花みたいに御幣が一面に垂れてる下で、真裸の子供が幾人も踊っていた。みるみるうちにその踊が激しくなってきて、はては旋風のようにぐるぐる廻り出した。危いなと思ってると、果して一人足をふみ外して落ちてきた。俺はそれを手で受け止めて、また神棚へ投げ上げてやった。後から後から落ちてきた。ゴム毬のようにころころした子供達で、すべすべの餅肌だった。いくら投げ上げても、代る代る落ちてきた。俺はもうすっかり疲れきりながら、いつまでも、落ちてくる子供を手に受けては投げ上げていた……。
しまいにはどうなったか俺は覚えていないが、そのゴム毬のようにころころした餅肌の子供を神棚に投げ上げてる所が、眼覚めて後もはっきり頭に残っていた。何とも云えない忌々しいような嬉しいような、変梃な気持だった。
俺はぼんやり考え込みながら、神棚の方をじっと眺めやった。大根〆も御幣も黒く煤け、閉めきった扉の屋根とには、蜘蛛の巣が破れながら懸っていた。お久は手をつけるのが勿体ないとでも思ってか、母が死んで以来掃除をしたこともなかった。そしてその煤と埃との中に、榊の緑葉とその花立と真鍮の蝋燭立とが、なまなましい色に浮出していた。それを見てると、俺は変に落付かない気持になった。その上お久は、また金の工面のことで俺に訴え初めた。俺は一切のことから逃げ出すような気で、十時頃から外に出かけた。さも当があるような風で、爪を切ったり髯を剃ったりして、また一帳羅の銘仙をひっかけていった。
然し実は、当なんか全然なかった。少しでも融通してくれそうな所は、みな駈け廻ってしまった後だったし、いついつまで返事を待ってくれと云って、暫くでも俺の希望を繋がしてくれる者さえ、一人として残っていなかった。俺はただ一つ処にじっとしていないために、犬も歩けば棒に当るというくらいな気持で、ぶらりぶらり歩いたのだった。もう松や笹を立て並べて、年末の売出や買物に賑ってる街路を、俺は野放しの犬のように、鼻をうそうそさせながら、足の向く方へと歩いていった。人の手前では、まだどうにかなるだろうという、痩我慢の気持になることも出来たが、往来の雑踏のまんなかに、寒い風に吹かれてる一人ぽっちの自分を見出すと、もうどうにも仕方がなかった。昨夜の雨は雪にならずに済んだが、そのため却って道路がぬかってるし、空は薄曇りに曇って、いつまた冷いものが落ちてこないとも分らなかった。せめて外套でもあればまだ気が利いてるけれど……。どうして俺はこう貧乏なんだろう? どうして仕事もないんだろう? どうして世の中に正月なんて区切がついてるんだろう?……つくづく俺は自分の身がなさけなくなった。力一杯に働いていて貧乏するのならまだいい。仕事がなくて食えないほど惨めなことはない。どうして俺はもっと早く仕事を見付けなかったんだろう?……だがまあいいさ、四十九日が過ぎるまで母の喪に籠ったのは、せめてもの仕合せだ。そして正月の十五日からは仕事にありつけるんだ。いくら貧乏したってそれまでの間だ。どうなったって構うものか。歩いてやれ、ぐんぐん歩いてやれ!
俺はどこまでも歩いていった。だが、泥濘の道を足駄で歩いてるので、しまいには疲れてきた。少し休みたいなと思い思い歩いてるうちに、上野公園に出て、動物園があることを思い出した。
動物園の中は、昔来た時とはすっかり模様が変っていた。けれど馴染の象や熊は昔通りだった。俺はぼんやり一廻りしてから、大きな水禽の檻の前に腰を下した。年末のせいか、粗らに見物人があるきりで、ひっそりしてる中に鳥の鳴声だけが冴えていた。俺は鼻糞をほじくりながら、いつまでもじっとしていた。背中がぞくぞく寒かったが、それくらいは仕方なかった。薄曇りの雲越しに、どんよりした太陽がだんだん傾いていった。
そのうちに、身体が冷えると共に空腹を覚えだした。俺は苦笑しながら立上った。動物の餌にする煎餅の五銭の袋を二つ買って、両方の袂へ忍ばせた。その煎餅を体裁に二つ三つ象へ投げやってから、こそこそと動物園を出た。そして公園の木立の影を歩きながら、煎餅をかじった。その自分自身が惨めで仕方なかった。
煎餅をかじったのが、却って腹のためにいけなかった。大急ぎで呑み込んだ固いやつが、空っ腹の底でごそごそしてるような気がした。そして一時間ばかりたつと、もりを一杯食うために、饂飩屋へ飛び込まずにはいられなかった。
さて、晩になって、俺はまた昨日と同じような破目に陥った。いくら何でも、このまま家へは一寸帰りにくかった。笹木のことで池部が来るかも知れないと思ったが、それももう面倒くさかった。蟇口の底を見ると、まだ三十銭残っていた。お久が今日の運動費に入れてくれたのが、それで全部になるわけだった。何に使ってくれようかと思ってるうちに、ふと小さな活動小屋が眼についたので、本当に財布の底をはたいてその中にはいった。
所が、はいってすぐバットに火をつけてると、白い上っ張りをつけた女がやって来て、あちらで吸って下さいと云った。俺はおとなしくその狭い喫煙所の方へ行った。水のはいったブリキの金盥をのせてる小さな卓子を、粗末な木の腰掛が取巻いていた。俺はそこに腰を下して、卓子に両肱をつきながら、ぼんやり煙草を吹かした。弁士の声や華やかな映画や広間にぎっしりつまってる看客などから、変に気圧される心地がして仕方なかった。馬鹿馬鹿しいと思う心の下から、自暴ぎみの反抗心が湧いてきた。何に対してだかは分らないが、なあに俺だって……という気持になった。そしてじっと考え込んだ。
俺はその時くらい孤独な感じに打たれたことはない。何もかも遠くなって、世界の真中にただ一人投り出された心地だった。弁士が饒舌り立てている、何百人もの人がぎっしりつまっている、表には満員の電車が通っている、慌しい大勢の足音がしている、自動車も走っている……然しそういうものは、みんなこの俺には関係のない他の世界だ。俺はただ一人きりだ。この身体とこの生命とだけが俺の世界だ!……そう思ってると、非常に自由な晴々とした気持になっていった。俺は何でも出来そうだった。
そうだ、何でも! 無一文で正月を迎えることも……金がいるというなら、盗み取ってくることも……笹木に内通していくらか搾り取ってやることも……場合によっては、妻や子供を捨てて一人身になることも……あの神棚を打ち壊してやることも……何だって出来ないとは限らない。みんな寄ってたかって俺をどうしようというのだ? 打ちかかって来るなら来てみろ、俺は笑ってやらあ!
その時俺は、どんなことを考えたか自分でもよくは知らなかった。けれどただ、俺は非常に自由な力強い気になったのだった。何でも出来る雑多な力が、自分のうちにうごめいてるのを感じたのだった。そして輝かしいような気のする額を、汚い小さな卓子の上に伏せて、長い間我を忘れて考え込んでいた。
何だかあたりがざわざわするようなので、ふと我に返ると、丁度写真の代り目の休憩時間だった。四五人の者が喫煙所へはいって来た。俺は立上って、喫煙所から出で、活動小屋から外に出てしまった。
少し可笑しいぞ、と自分で思うくらいに俺は興奮していた。足が軽いし寒い空気が快いし、胸の奥まですーっと風が流れ込むし、ぱっとした街路の光までが物珍らしかった。こいつは猶更可笑しいぞ、と思ってるうちにぼーっとして、いつのまにか自分を取失ったような気持になった。だがやはりまだ晴々としていた。
それから俺は長い間歩き廻った。そしていつのまにか自分の家の近くまで来ていた。見覚えのある角の荒物屋に気がつくと同時に、誰かに後ろから肩を叩かれた──どっちが先だったか自分でも分らない。俺は振返って見た。池部と谷山とが立っていた。
「今君の家へ行った所だぜ。」と池部が云った。
「そうか。」と俺は答えた。
「丁度よくぶつかってよかった。だが、いくら呼んでも返辞をしねえなあ酷えよ。」
「そうだったのか。」と俺は云った。
「一体朝から何処を歩き廻ってたんだ。」
「何処って当はねえから、ただ歩いてたんだ。」
「ただ歩くって奴があるもんか。」
「歩きでもしなけりゃ仕方ねえからな。」
「そいつあ面白えや。」と谷山は云って、往来の真中で笑い出した。
大きな図体を揺ってせり上ぐるその笑い声を聞くと、俺は愉快になってきた。
「どっかで一杯やらねえか。」と俺は云い出した。「ただ俺は一文もねえが、君達少しは持ってるだろう。」
「うむ、よかろう。」
そして三人で、近くの小さな酒場にはいっていった。
池部は妙に俺の方をじろじろ窺っていた。俺は一寸気に障った。その俺の顔色を察してか、彼はこう尋ねかけてきた。
「君、金の工面はついたのか。」
「つかねえよ。」
「じゃあ一体どうするつもりだい。」
「どうもこうもねえさ。正月は向うからやってくらあね。」
その時突然に谷山が、本当に困るならどうにかしてやろうと云い出した。沢山は出来ないが四五十のことなら何とかなるかも知れないと……。俺は一寸びくりとした。驚きとも感謝ともつかない、電気にでも触れたような気持だった。それを俺は強いて押えつけて云った。
「大丈夫かね、こう押しつまってるのに……。」
「変梃な云い方をするなよ。まあ明日まで待て、何とかしてみるから。……そんなに切羽詰ってるんなら、早く俺に相談してくれるとよかったんだ。」
「だが、君はいつもぴいぴいじゃねえか。」
「ぴいぴいだから、またどっかに抜け途もあるってことさ。……大丈夫俺が引受けてやらあ。」
「本当か。……じゃあ頼むぜ。」
そして俺は、自分の気弱さを自分で叱りながらも、涙ぐんでしまった。それをてれ隠しにする気味もあって、しきりに酒をあおった。
「もう行こうじゃねえか。」と池部はふいに云い出した。「君早く帰ってやるがいいぜ、しきりに待ってたから。」
俺は先程からの池部の様子で、彼が何か腹に一物あることを気付ていた。それが今の言葉で愈々はっきりしてきた。考えてみれば、笹木のことを一言も云わないのが不思議だった。向うでそうなら、こちらから切り出してやれという気になった。
「君、笹木の話はどうなったんだ?」
「いや……また明日相談しようよ。」
その逃げ言葉を俺は追いつめてやった。彼は暫く黙り込んで、それから谷山と眼で相図した上で、初めて話しだした。
──その日の朝、池部は笹木の所へ寄ってみた。一寸出かけてるとのことだった。それでまた晩に行ってみた。すると小僧が出て来た。笹木は関西の方へ旅に出ていて、正月も松が過ぎてでなければ帰らないとの答えだった。池部は細君に逢いたがった。然し細君も今日は不在だと小僧は答えた。池部は変な気持で帰ってきたが、どう考えても腑に落ちなかった。其処へ谷山が来合せた。二人でいろいろ考え合せてみると、誰か笹木へ内通した者が居るに違いなかった。それで笹木は留守をつかってるに違いなかった。二人は忌々しくなって腹を立てた。もう引っ叩いてでもやらなければ、その腹の虫の納りがつかなかった。然し大勢ではまた手違いを起すかも知れないので、二人でやっつけることにした、而もその晩に……。
「じゃあ何で俺の家へ寄ったんだ?」と俺は尋ねてみた。
「一寸通りがかりに……。」と池部は言葉尻を濁した。
嘘を云ってるなと俺は思った。お久が何か余計なことを饒舌ったので、それで俺を敬遠しようとしてるのに違いなかった。然しそんなことを詮索してる隙はなかった。こうなったからには俺は後へは引けなかった。一緒に行くことを頑強に主張してやった。池部もしまいには折れて出た。
俺達が酒場から出て笹木の家へ向った時は、もう十一時を過ぎていた。空に処々雲切れがして、寒い北風が地面を低く吹いていた。俺達は出来るだけ急いだ。三十分ばかりで笹木の家の前まで来た。然しどうして笹木を捕えるかが厄介だった。いきなり踏み込んでいってもし本当に不在ででもあったら、いい恥曝しだった。それかって呼び出す方法もなかった。居るか居ないかを外から確かめるより外はなかった。
表戸はもうすっかり閉め切ってあった。それに耳をつけて聞いてみたが、中はひっそりとして何の物音もしなかった。その上、長く立聞きをする訳にもゆかなかった。ちらほらとまだ人通りがしていた。困ったなと思ってると、池部が勝手口の路次を見付けた。開扉には締りがしてなかった。俺達は泥坊のようにそっと忍び込んだ。つき当りの勝手許まで辿りついて、其処に身を潜めた。中では何かことことと用をしてるらしかった。それがしいんと静まり返った。人声一つ聞えなかった。俺達は怨めしげに、斜め上の二階を見上げた。その戸の隙間から洩れてる光に、僅かな望みを繋いだ。然しいくら待っても、笹木のらしい人声は聞き取れなかった。もう寝てしまってるのかも知れないし、或は実際居ないのかも知れなかった。どうしたものだろう……と俺達は囁き合った。いつまで待ってればよいのやら、更に見当がつかなかった。しまいに谷山は焦れだして、小さな石を一つ二階の雨戸に投げつけてみた。何の応えもなかった。身体がぞくぞく冷えきっていった。
俺達は何度も、表通りへ出てみたり、また裏口へ忍び込んだりした。そのうちに陰鬱な云いようのない気持になってきた。それかって今更すごすご帰ってゆく訳にもいかなかった。底のない淵へずるずる落込んでゆくようなものだった。待てば待つほど、その待ったということに心が縛られていった。そして、無理に心をもぎ離して立去るか、思い切って踏み込んでみるか、その二つの間の距離がじりじりと狭まっていった。俺達は最後にも一度、路次の中に釘付になった。
その時、全く天の助けだった、家の中にどかどかと足音がして、勝手許の戸が開いたかと思うと、ぱっと光がさした。その光を浴びて出て来た横顔は、意外にも浅井だった。手に下駄を下げていた。続いて笹木の姿が見えた。二人は二三歩踏み出してきた。
俺達は余りの意外さに面喰った。その驚きからさめると、凡ての事情が一度にはっきりしてきた。もう疑う余地もなかったし、問い訊す必要もなかった。三人同時に飛び出した。向うは棒立ちになった。それから身構えをした。両方で一寸睥み合った。力一杯に気と気で押し合った。そして息が続かなくなった時、俺は真先に笹木へ飛びかかって、拳固で横面を一つ張りつけてやった。笹木はぐたりと倒れた……と俺が思ってるうちに、足にはいてた下駄を掴んで、立ち上りざま俺の頭を狙ってきた。避ける隙も何もなかった。がーんと頭のしんまで響き渡った。眼がくらくらとした。それからはもう夢中だった。
殆んど瞬く間だった。俺達三人は、ぼんやりつっ立って顔を見合った。地面には、笹木と浅井とがぶっ倒れて唸っていた。俺達は黙って其処を立去った。不思議なことには、初めから言葉一つ口に出さなかったし、立去る時にも捨台辞一つせず、唾一つひっかけなかった。そして俺達は黙りこくったまま、広い通りを十町余り歩いてきた。その時谷山は、手に握ってた棒切を初めて投げ捨てた。
「どうしたんだ。」
「これで奴等の向う脛をかっ払ってやったんだ。」
そしてまた四五町行くと、谷山はふいに俺へ言葉をかけた。
「俺は本当に金を工面してくるぜ。」
俺はその意味が分らないで、彼の顔を見返してやった。そして咄嗟に、酒場での彼の約束は嘘で、此度のは本気であるということが分った。
俺は笑いたくなった。笑っちゃいけないような気がしたが、一人でに笑いが飛び出してきた。谷山も笑った。池部が眉根をひそめて──何を不快がったのか──俺の方をじろりと見た。が俺は気にしなかった。三人は本当の仲間だということを胸のどん底に感じでいた。
やがて俺は彼等と別れた。
「明日の晩行くぜ。」と谷山は云った。
「俺も一緒に行く。」と池部は云った。
俺は一人でぶらりと帰っていった。池部と谷山も、やはり一寸口を利いただけで別れてゆくだろう、考えてみて、また笑いたくなった。思い切って高笑いしてやろうかな、と思っているうちに、頭がぼんやりしてきた。
家の前まで来ると、何故ともなく前後を透して見て、薄暗い小路に人影もないのを見定めてから、そっと格子を開いた。それからつかつかと上り込んでいった。
第一に俺の眼についたのは、神棚の明々とした蝋燭の火だった。一寸不快になった所へ、お久が顔色を変えて俺の方を見上げた。
「どうしたんだよ、お前さん、頭から血が流れてるー。」
「えッ!」
頭に手をやってみると、左の耳の上の方が円く脹れ上って、ねっとりと血がにじんでいた。あれだな……と思うと同時に、ひどく頭が痛んできた。俺は何とも云わずに、そのまま台所へ行って、血を洗って頭を冷した。いい気持だった。
暫くして俺はまた戻ってきたが、その間お久は、火鉢の側で石のように固くなっていた。そして俺の姿を見ると、いきなり罵り立てた。
「やっぱりそうだったんだ! 私お前さんをそんな人だとは思わなかった。自分でよくも恥しくないんだね。浅間しくないんだね!……私もうお前さんから鐚一文だって貰やしない。ええ貰うもんか、飢え死にしたって貰やしない。さぞたんとお金を持ってきたんだろうね。そんなものなんか溝の中へでも棄っちまいなよ。恥知らずにも程がある!……。」
俺は呆気にとられた。
「何を云っ……。」しまいまで云いきれなかった。
「いくら白ばくれたって、私にはちゃんと分ってるよ。さあ白状しておしまい! お前さんは、池部と谷山に殴られたんだろうが。」
そこまで聞くと、俺にも漸く分ってきた。俺は苦笑いしながら、反対に尋ねかけてやった。
「お前は池部に何か云ったんだろう?」
「云ったともさ。私お前さんをそんな男だとは知らなかった! 私立派に云ってやったよ、うちの人は笹木に内通するような男じゃないって。……ほんとに私の顔にまで泥をぬってさ、どうしてくれるつもりだよ。」
「まあ待てよ、早合点しちゃいけねえ。」と云いながら俺は其処に坐り込んだ「明日の晩になりゃあ、何もかも分らあね。池部と谷山とが一緒に来ることになってるんだ。谷山は金を工面してきてくれる筈だぜ。」
「え、じゃあどうしたんだよ、一体……。」
真剣に引き緊ってた彼女の顔が、ぽかんと眼と口とを打開いてくる様は、一寸滑稽だった。俺は笑いながら、大体のことを話してやった。そして池部と谷山とに別れた所まで話すと、彼女は咽び上げて泣き出した。
「泣く奴があるか、馬鹿な!」
と云ったが、俺も一寸どうしていいか困った。まあ泣くだけ泣かしておけ、という気になって煙草に火をつけた。
その時俺は、本当に冷水をでも浴びたようにどっと震え上った。何気なく隣りの室を見ると、半分ばかり開いてる襖の間から、斜かいに射しこんでる電燈の光をちょっと受けて、何か人間の形をしたものが、布団の上に坐っていた。じゃ……とよくよく眼を据えてみると、信一が起き上って、寝呆け面でこちらを見てるのだった。
「何を起きてるんだ、寝っちまえよ。」と俺は怒鳴りつけてやった。
がその後で、俺はじっとしておれなくなって、その方へ立っていった。信一は布団の中に頭までもぐり込んでいた。俺はそれを行儀よく寝かしてやった。
「いい児だからもう眠るんだよ。明日、好きな物を、何でも、買ってやるからね。」
そして俺は、彼がもう眠ったろうと思うまで、側について手を握っていてやった。
俺はそっと立上って、元の所へ戻ってきた。お久はいつのまにか神棚の前に坐り込んで「天照る神ひるめの神……」を初めていた。まあするままにしておけ、という気になって、俺は火鉢の上に屈み込んだ。頭がずきずき痛んで仕方なかった。その痛みへ彼女の祈りの呟きが調子を合してきた。殊にいけないことには、俺もどうやら神棚の前に坐ってみたい心地になりそうだった。俺はじりじりしてきた。辛棒すればするほど、心が険悪な方へ傾いていった。
「おい、もう止せよ」と俺は堪らなくなって云った。
彼女は返辞もしなかった。びくともしないで尻を落付けていた。
「止せったら……止さねえか!」
俺はいつにない手酷しい調子を浴せかけてやった。じっとしてると、息がつまりそうで額が汗ばんできた。然し彼女はいつまでも止そうとしなかった。俺は立上っていって、その肩を突っついてやった。
「今晩だけは止してくれ。もういいじゃねえか。」
彼女はぴたりと祈りの文句を途切らしたが、暫くすると、涙声で云い出した。
「いいえ止さないよ。今晩は本気で祈ってるんだから……。今迄いつも気紛れにやってたのが、空恐ろしくなってきた。……お前さんそう思わないの? やっぱり神様が守ってくれたからだよ。よく罰が当らなかったもんだ! 今晩こそ、心から……本気で……祈ってやる、夜明けまで祈ってやる!……お前さんもお祈りよ。」
彼女はまた訳の分らないことを唱えだした。梃でも動かないほどどっしりと尻を据えて、組み合せた両手を打震わせながら、腹の底から祈りをしているのだった。俺はその後ろに釘付になって、じっと神棚の灯明を眺めやった。眼の中が熱くなってきて、額からじりじり脂汗が流れそうな気持だった。
「止せよ!」と俺は大声に怒鳴りつけてやった。
然し彼女はびくともしなかった。
「止さなきゃ、神棚を叩き壊してやるぞ!」
俺の方ももう夢中だった。眼の中に一杯涙が出てきた。そのためになお感情が激してきた。二足三足神棚に近寄った。
「天照る神も、ひるめの神も、何もかもあるものか。止せったら!……ぶっ壊しちまうぞ!」
彼女が泰然としてるのを見ると、僕はもう我慢出来なかった。いきなり神棚に手をかけた。一寸触るつもりだったのに、案外力がはいって、棚がめりめりといった。榊の花立がひっくり返って、水がさっと頭にかかってきた。もうどうにも踏み止まれなかった。俺は歯をくいしばり眼から涙をこぼしながら、ひきつった両手で棚の上の箱に掴みかかって、それをあらん限りの力で傍の壁の柱へ投げつけてやった。
「あッ!」とお久が叫ぶと同時に、異様な物音がした。もうっと埃の舞い立つ中に、きらきらした光が四方へ乱れ飛んだ。数知れない五十銭銀貨が落ち散っていた。
俺は息をつめて立ち竦んだ。母の顔が眼の前にぽかりと浮出してきた。本当に神をでも涜したような恐ろしさを覚えた。いきなり屈み込んで、何を書いたものがありはすまいかと探した。がそれらしいものは何にもなくて、沢山の護符と宝珠玉の瀬戸の破片とばかりだった。俺は半ば壊れた箱の中から、そんなものを掴み捨てながら、打震える涙声で云った。
「早く拾ってしまえよ。」
そして、まだ大形の五十銭銀貨が底の方に少し残ってるその神箱を、お久と自分との間に据えた。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2)」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「新潮」
1923(大正12)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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