幻の彼方
豊島与志雄



     一


 岡部順造は、喧嘩の余波で初めて秋子の姙娠を知った。

 いつもの通り、何でもないことだったが、冗談半分に云い争ってるうちに、やたらに小憎らしくなってきて、拳固と肱とで秋子をこづき廻した揚句、ぷいと表へ飛び出してみたけれど、初夏の爽かな宵の空気に頭が落着くと、先刻からのことが馬鹿々々しくなり、秋子が可愛くなって、また家に帰ってきた。顔を膨らして長火鉢にしがみついてる彼女へ、変にむず痒いような心地で云いかけた。

「何をしてるんだい。」

「知りませんよ。」

 つんと澄ました声だったが、もう刺を含んではいなかった。

 順造は安心して火鉢の前に坐った。あたらずさわらずのことを二三言云った。秋子がなお言葉の上だけで対抗してくるので、僕が悪かったよとも云った、だから謝ってるじゃないかとも云った。

「可愛さの余りについ手荒なこともするんだよ。」

 冗談だか真面目だか自分でも分らないその定り文句で、彼は一切の片をつけたつもりでいた。所がそれから二三分して、彼は秋子が涙ぐんでいるのに気付いて喫驚びっくりした。涙ぐんでる眼が鋭い光を放ってるのに、更に喫驚した。

「あなたはそれでいいでしょうけれど、私は……私、ただの身じゃないかも知れないと思ってる所じゃありませんか。」

 彼女は呼吸器が弱かった。肺尖加答児カタルを病んだこともあるそうだった。そのことだなと順造は思った。

「じゃあ熱でも出るのかい。」

「まあ、熱ですって!……姙娠して熱の出る人があるものですか。」

 空嘯いたその調子と、尖らした口と、険を持たした眼付とから、順造はちぐはぐな印象を受けたが、次の瞬間に、言葉の意味がはっきり分ると、どんと空中にはね上げられた心地がした。

「え、姙娠!」

「そうらしいわ。」

「いつから?」

 彼女は何とも答えないで、じろりと彼の顔を見やった。もうずっと前からであること、確かであることを、その眼付が語った。気分が悪いと云ってぶらぶらしてたり、食慾が非常に減ったり、何事にも興味を失って苛立ったり、しきりに酸っぱいものを欲しがったりしたのは、考えてみると可なり以前のことだった。

 ほう、そうかなあ! というような心地で順造は小首を一寸傾げたが、そのまま心が宙に浮んで、何処へ落着けていいか分らなかった。

 彼は立ち上って室の中を歩いた。縁側に出て両腕を組みながら、其処に腰掛けて足をぶらぶらさした。

 長い間たったようだった。秋子の方から彼の所へやって来た。

明日あしたもお晴天てんきのようですわね。」と彼女は云った。

 実際、広々とした夜の空には銀河が輝いていた。然しそんなことはどうでもいいのだった。取澄ましてる彼女の全身を、非難のかたまりのように順造は感じた。果して彼女は云い進んできた。

「あなたは、私が姙娠したのが御不満なんでしょう。」

「馬鹿なことを云うな!」

 一寸気色けしきばんでみたが、それから却って感傷的な気分をそそられて、彼は秋子を其処へ坐らした。彼女は逆らわなかった。それを彼は更に自分の膝に抱いてやりたかった。けれど……。

 変梃な気持だった。──折にふれて漠然と頭に浮べたこと、夫婦生活の結果として何気なく想像したこと、僕の所はまださなどと平気で友人等に答えながら、もしそうなったらと後でぼんやり空想したこと、それとは全く異っていた。何だかこう得体えたいの知れないものが、眼の前に現われてきたのだった。秋子の腹の中に小さな卵が──幼虫が宿って、それがだんだん大きくなってゆき、恐ろしい勢で外に飛び出し、それが一個の人間──自分の血を分けた子供……となる。そのことが実際に起りかけてるのだ。

「おい。」と彼は云った、「お前は本当に姙娠しているのかい?」

「ええ、どうもそうらしいわ。」

 彼女はその態度から声の調子まで落着き払っていた。

 順造は縁からぶら下げてる足をやけにばたばた動かした。

「どうなすったの?」

 振り向いてみると、笑ってる彼女の眼がこちらを覗き込んでいた。彼は軽蔑されてるような気がして不愉快だった。眼を外らして考え込んだ。が、もう何にも考えることはなかった。それにきまってるとすれば、残ってるのは今後のことだけだった。そうだ! と彼は心のうちで叫んだ。

「姙娠ならそのままにしておいちゃいけないじゃないか。医者にせてごらんよ。産婆にもかからなきゃなるまい。何だったかな……そう、岩田帯とかもするんだろう。それから……。」

「そんなに慌てなくっても大丈夫ですよ。」

 順造は気勢をそがれてきょとんとなった。それを更に頭から押被おっかぶせられた。

「私はただ一つ約束して頂きたいことがあるんです。あなたは何かと云えばすぐ私を打ったり叩いたりなさるけれど、ただの身体ではないんですから、少しは遠慮なさるのが当り前ですわ。もしおなかの子供に傷でもついたら、どうなさいます? 姙娠中は転んでも危険だというじゃありませんか。七ヶ月か八ヶ月目に、縁側から足を踏み外して落っこったため、生れた赤ん坊が、顔半分すっかり赤痣になっているというようなこともあるそうですよ。手の指がくっついてたり足が曲ったり、身体の方々に赤痣があったり、……そんな子供を生んでも宜しいんですか。子供が大事だったら、少しは私をも大事にして下さるのが当然ですわ。それとも、子供なんかどうでもいいと仰言るのなら、私にだって覚悟があります。」

 暫く黙ってたが、順造はぞっと身を震わした。──馬鹿に大きな凸額おでこの下に、頣の尖った長い顔がついていた。細い皺くちゃな眼がどんよりと光っていて、鼻は押しつぶされたようにひしゃげ、よく合さらない薄い唇から、喰いしばった歯が二三本見えていた。肩のあたりが急に太く逞しくなって、骨立った二本の手先には、指の代りに牛の蹄がついていた。赤茶けた長い髪の毛が頭にねばりついていて、全身には灰色の毛が生えていた。顔が人間で身体が牛だった。生れて三日目に予言をして死ぬというくだんだった。それが、ぼろぼろの綿屑の上に、飲まず食わずで蹲まっていた。──その幻が順造の眼の前に浮んできた。何処かの見世物小屋で見物したのか、或は絵草紙か何かで見たのか、或は昔祖母の話に聞いたのか、或は夢の中で逢ったのか、何れとも思い起せなかったが、その幻だけがいやにはっきりしていた。

 もしそんなものが生れたら!……いやそんなことがあろう筈はなかった。

「兎に角医者にて貰ったらどうだい。」と順造はぼんやりした顔付で云った。

「それよりも、」秋子は固執した、「これからはもう手荒なことはしないと約束して下さいますか。」

 順造はその方を顧みた。いやに真剣なものが彼女の顔付に感ぜられた。まだ頭の隅に残ってる先刻の幻が恐ろしかっただけに、俄に強い愛憐の情が起ってきた。彼はいきなり彼女の背に手をかけて、その肩を抱きしめた。

「約束するよ。何でもお前の云う通り約束する。」と彼は云った。そして心の中では、お前が可愛いいんだ、ただお前が可愛いいんだ、と云っていた。

 暫くして秋子はほっと溜息をついた。

「何だか頼り無い約束ね。」

「お前はこわくないのかい。」

 二人の言葉は殆んどかち合うくらいに同時に出た。そして二人は、互に相手の意味を理解するのに一寸間がかかった。それから黙り込んでしまった。

 空の星がいやにぎらぎら光ってくるように思われた。順造は眼を伏せて、庭の隅に澱んでいる濃い闇を、見るともなく見守っていた。暫くすると、秋子がうっとりと星を眺めてるのに気付いて、彼は或る一種の懸念に──聖なる恐れとでも云えるものに、突然囚えられた。

「お前は、」と彼は囁くように云った、「おなかの子供に対して、どんな感じがする?」

 秋子は黙ったまま、微笑んで彼の方を見返した。そんな問に答える必要はないという勝ちほこった、それでいて何処かに皮肉な挑戦的な調子を含んだ、微笑だった。が次の瞬間に、彼女はぴくりと肩を聳かして、あなたは? と眼付で尋ねかけてきた。

 彼はひょこりっと立った。てれかくしに立ち上ったのではなかったが、後で自分ながらそう感じた。

「姙娠なら冷えるといけないから、中にはいろう。ほんとに注意しなけりゃいけない。」

 けれど、何を云ってるんだ! という気になって馬鹿々々しかった。すぐに寝た。秋子は茶の間で暫く愚図ついていた。

 その晩彼は夢をみた。朝になると、どんな夢だったかは思い出せなかったが、大変目出度い夢だったようにも、または不吉な夢だったようにも、考えようによってどちらにも感ぜられた。そして、朝日の光の中を会社へ出かけながら、オチニ、オチニ……という気持で足を運んでいった。

 目出度くても不吉でも、そんなことは構わない。オチニ、オチニ……幼い時小学校でやらされた通りのその歩調が楽しかった。けれど、俺は一体子供が可愛いいのかしら。

 それが問題だった。

 彼の心は浮々していた。浮々しながらどんよりしたものに蔽われていた。曇り空の下の風見車かざみぐるまに似ていた。それに自ら気付いた時、彼は考えるのを止めた。兎に角生れてみなければ、まだ海のものとも山のものともつかないんだ、と結論した。

 然し、そういう風に凡てを未来に突き放しておくことは出来なかった。

 秋子はやがて産婆にかかった。

「もう五ヶ月ですって!」

 彼女は一杯に円く見開いた眼を輝かしていた。

「そんなになるのかい。」そして彼は一寸間を置いた。「五ヶ月といえば、もうちゃんと赤ん坊の形をしてるかしら?」

「ええ、そうでしょうよ、屹度。心臓の鼓動が聞えるくらいですもの。……鼓動の数が多いから、女の児かも知れないんですって。嫌ね。私男の児がほしいんだけれど。でも、最初は女の方が育ていいとかいう話ですわ。」

 彼女は、眼の縁に肉の落ちたらしいたるみが出来、脂気と濡いとを失った顔の皮膚が総毛立ち、髪の毛の真黒な艶が褪せていた。固く結えた帯の下に、充実した力で盛り上ってる腹が見て取られて、平素からわりに小さかった臀が、更に影薄くなっていた。痩せた薄っぺらな胸から、僅かな努力にもすぐに喘ぎそうな細い息が、せわしげに出入していた。そして、そのままの姿で、うっとりと胎内の何かを見守っていた。

 胎内の何かを! としか順造には実感出来なかった。玉のような子であるかも知れないが、また、くだんのような怪物であるかも知れなかった。秋子は右の眼が左の眼よりだいぶ小さかった。それが遺伝のうちに強調されて、いたちの右の眼と大入道の左の眼とを持った子供となるかも知れなかった。彼女の耳の下の黒子ほくろが、子供の顔半面に拡がるかも知れなかった。また彼自身も、自分で気付かないどんな欠点を持ってるかも分らなかった。彼は試みに両手を差伸してみた。どんなにしても、右の手の方が少し長いように思えて仕方なかった。また彼は、大森林の中に迷い込んだ者の話を思い出した。森から出ようと思って真直に歩くつもりでも、必ずまた以前の所に戻ってくるそうだった。目隠しをして広場を歩かせられると、誰でも皆自然に曲線を辿って、決して真直に歩けないそうだった。そしてみると、人間の足はどちらかが必ず短いということになりそうだった。それが少しひどくなると、跛足びっこになるの外はなかった。その他、偶然の畸形はいくらでも想像出来た。指が一本足りないこと、頭がまる禿げであること、片目、鼻っかけ、欠唇いぐちいざり……少し調子が狂えばもはや怪物だった。

 生れてみなければ分るものではない!

 二人向き合って話が途絶えるような時には、順造は知らず識らず秋子の腹部に眼をやっていた。其処に何かが孕まれて、もはや小さな心臓の音を立ててるのだった。

「だいぶ大きくなったようだね。」

 咄嗟に云い捨てた言葉を口実にして、彼は手を差伸した。帯と着物と襦袢と、ぐる〳〵巻かれた紅白の布、その下に、むっくりと脹らんでる腹が、押しても小揺ぎさえしそうにないほど、泰然と控えていた。その張りきった根強さが、彼の指先から胸へじかに伝わった。彼は怪しい心のおののきを感じながら、とんとんと叩いてみた。

「あら、いけませんよ、叩いては。」

 睥めるように眺めた秋子の眼付が、なお彼の心を唆った。指先から次には平手で、次には拳固で、力一杯に押しっくらをしてみたくなった。

「おなかの児に響くじゃありませんか。」

 彼女は両手で腹部をかばって、一寸険のある顔付をした。その様子が彼を依怙地いこじにならした。冗談だか真剣だか分らない気持でぶつかっていった。彼女は本当に怒りだした。

玩具おもちゃじゃありませんよ。」

「だってさわらしたっていいだろう。僕の……。」

 僕の児じゃないか、と云おうとして彼は中途で言葉を切った。勿論彼の児には相違なかったけれど、それよりも寧ろ、天地自然の芽ぐみ……豊かだ……という気がした。その気持が彼を、胎児の側から、また秋子の側から、遠くへつき放してしまった。彼はくしゃくしゃなしかめ顔を、どういう風に和らげていいか分らなかった。

「あなたみたいに我儘では、お父さんになる資格はありません。」と秋子は云った。「も少し真面目に考えて下さらねば困るじゃありませんか。片山さんでも中野さんでも、奥さんが姙娠なさると、それは大切になすったものですよ。毎日卵を二つと蒲焼かばやきを食べさせなすったんですって。私そんなものを食べたくはないけれど、それくらい大事にして貰うと、ほんとに幸福だと思いますわ。あなたはまるで、私一人で勝手に姙娠したとでもいうような調子ですもの。」

 然しそれは、順造に云わすれば、眼の置き所が違うからだった。彼にとって直接に大事なものは秋子だった。その秋子の腹の中に、何とも云えないものが──胎児とは分っているが、実感としては仄暗い力強い根深い不気味な、凡てを押しのけてむくむくと脹れてくる生命が──宿ってるのだ。そのものに対して、秋子が全身を挙げて奉仕してることが、彼にとっては、秋子をいつまでも掌に握りしめていたいだけに、小憎らしいほど秋子が可愛いいだけに、一層気持を脅かされる種となった。

 彼女にとっては、俺のことなんかはもうどうでもいいのだ!

 一寸した用事を頼んでも、彼女はなかなか立ち上ろうとしなかった。特別に彼女に云いつけた仕事も、長く放ったらかされてることが多かった。その上彼女は、彼を反対に使おうとしていた。背が低いので、高い所にある物を取る時にはよく彼を呼んだ。

「余り手を挙げるといけないんですって。」

 そんなに胎の児が大事なら、姙娠を彼にうち明けるのだって、もっとしみじみとした心でなぜしなかったのか。喧嘩のついでなんかは、余り人を踏みつけにした仕業だった。彼はそれを責めてみた。

「だって、まだどうだか自分でもよくは分らなかったんですもの。あなたが余り呑気だから、本当にそうだときまってから、不意に喫驚さしてあげるつもりもあったんですわ。それが、あの時はあなたが余りひどいことをなさるから、つい調子で云ってしまったのです。」

 人を馬鹿にしたように、小さい方の右の眼だけで笑っている、その様子が、順造は急に堪らなく可愛くなった。いきなり飛びついていって、両肩に手をかけてぐんぐん押えつけてやった。

「お止しなさいよ、苦しいから。」

 彼はなお力を入れた。彼女の小さなまるまっちい身体を、其処に押しつぶし、畳の上にごろごろ転がして、それから両腕で胸に抱きしめてみたかった。肩の手を離して、上から押被さりながら、両膝の下に手先を差入れて、坐ったまま持ち上げた。彼女は笑いながら身を踠いた。踠くはずみに彼の手から滑って、其処にどしりと落ちて倒れた。

 彼はぼんやりつっ立ったまま待っていた。が彼女は長く起き上らなかった。しまいには肩ではあはあ息をしだした。心配になって覗き込むと、彼女はがばとはね起きて身を退いた。

「あなたはそんなにお胎の児が憎いんですか。」

 冗談にしては余りに声の調子が落着いていた。姙娠前に、ふざけるつもりから喧嘩になって、手荒くつき飛されたりなんかした後で、そんなに私が憎いんですか、と彼女はよく云ったけれど、上っ調子のその言葉は、攻撃的なだけで根深くはなかった。それが今は、腹の底から彼に対抗しようとしていた。

「お前こそ僕が邪魔なんだろう。」と心にもない言葉が彼の口から出た。

 その後では、何も云うことがなくなって黙り込んだ。

 姙娠した女を相手に喧嘩するものじゃない!

 苦々しかった。二人きりの時は、どんなに激しくいきり立っても、底をわってみれば夫婦間の冗談にすぎなかった。所がそれに胎児という変なものが加わると、二人の心は笑うにしても怒るにしても、同じ一つの火に燃えなくなった。彼女はもはや彼を対手にしてはいなかった。

 七ヶ月、八ヶ月……となると、腹が目立って大きくなった。彼女は前年の新婚当時のように、暑い盛りを海岸へ行こうとも云わないで、額には汗をにじませながら、両袖で腹部を蔽って、室の真中に泰然と坐っていた。ただ一つの要求は女中を傭うことだった。その女中が漸く一人見付かると、家の中の用を殆んど凡て任せっきりにして、自分は赤ん坊の着物などを、ぽつりぽつりと縫い初めた。針を手にしたまま、何かをぼんやり思い耽ってることが多かった。

 順造はその後ろへ忍び足で近寄っていった。両膝の先を開き加減にして、臀をどっしりと畳に据えながら、大きな腹をつき出し、痩せた薄っぺらな胸と肩とで息をしてる、その様子が可笑しかった。

「何を考えてるんだい?」

 彼は笑いかけていたが、握り向いた彼女の没表情な眼を見ると、その笑いを顔に出すことも引込めることも出来ないで、中途半端な渋め顔をした。

「時々腹に瘤が出来るんですよ。赤ん坊が手か足かを伸してるのじゃないでしょうかしら。こんなに固くなって……。」

 乳首が黒くなって、顔が蒼白く色褪せていた。

「見せてごらん。」

 はだけた胸から手を差込んでみたが、彼には何にも感ぜられなかった。大きな山の裾野を思わせるような腹部が、押してもびくともしないほどの根強さで頑張っていた。

「まるで鉄の扉みたいだね。僕がノックしてみよう。中で返事をするかも知れない。」

 冗談のつもりだったのが、云ってしまってから真剣な怪しい気持になった。拒む彼女の手を押のけて、とんとんと叩いてみた。

「いけませんよ。もし不具かたわの児でも生れたら責任を持って下すって?」

「お前でも、どんな児が生れるか心配になることがあるのかい。」

「何を仰言るのよ。どんなに心配して大事にしてるか知れませんよ。一寸したことでも、どう障るか分らないんですから。指が二本くっついてたり、耳が縮れたりすることは、よく世間にあるじゃありませんか。」

「なあんだ、つまらない。」

「何がつまらなくって?」と彼女は意気込んだ。

 彼はどう説明していいか分らなかった。が兎に角、彼女の心配は明るい浅い、形のはっきりしたものだった。然し彼のは、暗い深い漠然としたものだった。底のない不気味さ、そんな感じが胎児という考えを色づけていた。

 秋子は急に苛立ってきた。黙ってる彼の顔へ、とがった声の調子を投げつけた。

「あなたは私が姙娠したのを御不満なんでしょう。そうに違いないわ。一度だって喜んで下すったことがあって?」

「馬鹿な邪推をするもんじゃない。」

 彼女は邪推でないと云い張った。そんな考え方をするのはいけない傾向だと彼は云った。あなたの方がいけない傾向だと彼女は云った。そう思うのは誤解してるからだと彼は云った。

「誤解ですって?」と彼女は声の調子を高めた。「それじゃ、どうしてそんなに私のお腹を気になさるの。思い切ってお叩きなさるがいいわ。今にどんなことになるか分るから。」

 捨鉢に腹をつき出してる醜い彼女の姿から、彼は憫然と眼を外らした。室の隅には、赤ん坊の小さな着物が、縫いかけのまま放り出されていた。その可愛いい赤い色から、彼はぴしゃりと頬辺を殴られた気がした。淋しかった。冷たくなった心のやり場に迷って、秋の方へ屈み込んだ。

「僕が悪かったよ。もういいじゃないか。」

 彼女は啜り泣いていた、と思ったのは誤りで、肩で息を喘いでるのだった。その肩に彼の手が触ると、彼女はつんと身を反らせた。

「構わないで下さい!」

 彼が何と云っても、彼女の機嫌は直らなかった。機嫌が直ると、上から見下したような調子でくり返した。

「あなたは父親になる資格はありません。」

 彼は何とも返辞をしなかった。それに構わず彼女は、またぼんやりと考え込んだ。

 偶像を抱いてるのだ!

 偶像崇拝者の排他的な執拗さが、彼女の態度のうちに現われていた。凡ての仕事を打捨てて、ただ胎児のことばかりに専心していた。散歩の帰りに彼の袂に縋ることがあっても、それは昔のような心からではなく、転んで胎内に激動を与えないためであることを、彼ははっきり感じた。背の低い足の早い小鳥のような彼女は消え失せて、大きな腹でどっしりと落着いて上目がちにあたりを見廻す彼女となっていた。

 日に日に可愛い秋子が何物かに奪われてゆくのを、順造はどうすることも出来なかった。而も彼女を奪ってゆくその偶像は、固より胎児ではあったけれども、単にそればかりではなく、何だか陰惨な得体の知れない大きな力だった。見つめていると、眼が眩むような気がした。

 誰を──何を──愛していいか、彼には分らなかった。

 秋子がぼんやり立ってると、彼はそっと忍び寄って、彼女の両膝を後ろから押してがくりとさした。坐ってる横を彼女が通りかかると、ひょいと片足を投げ出して邪魔をした。一緒に次の室へ歩いてゆく時には、軽く彼女に足払いをかけてみた。そんな一寸したことにも、彼女はよく転んだ。そしては怒って、彼の悪戯を責め立ててきた。彼はそれを胸に抱きしめてやりたかった。然し彼女は彼の拡げた腕に飛び込んで来なかった。いつまでも顔を脹らしていた。それが、臨月近くなると、後で眼を濡ましてることがあった。

 早く日の光を、自分達に……ではない、秋子の胎内のものに与えることだ! と順造は考えた。


     二


 秋子は、予定よりも三週間ばかり早く産気を催した。

 その朝彼女は、今日一日会社を休んでくれないかと順造に頼んだ。前晩から様子が変だった。それでもなお半信半疑でいた。順造に留守を頼んで、女中を連れて銭湯に行った。帰って来て、それから昼食を済すと、本当に陣痛が襲ってきた。女中が産婆の許へ走った。

 弱い中に鋭さを含んだ初秋の陽が、障子の下半分にぱっと射していた。秋子は布団の上に坐り、膝にのせた括枕くくりまくらによりかかって、障子の日向に写ってる松の小枝の影を、ぼんやり見つめていた。

「どうだい様子は?」

 順造は十分おきくらいにくり返し尋ねた。その度毎に彼女はふり向いて、疑惑を含んだ眼付で見返した。何も云うことがなかった。沈黙のうちに、時々その大きな腹が波打って、彼女は肩のあたりをねじ曲げながら、眉根をしかめ歯を喰いしばった。心持ち引歪めた唇の間から、真白な小さい歯並が覗いていた。

「寝たらどうだい?」

「この方が何だか楽のようですから。」

 痛みが去って、ほっとして、彼女は縋るように微笑みかけてきた。順造はその腹部から眼を外らして、彼女の手を握りしめてやった。

「しっかりおしよ。お前さえしっかりしていてくれれば……。」

 ……他のことはどうでもいい、という言葉が喉につかえた。果して他のことはどうでもいいかどうか、彼は我ながら分らなかった。大きな力が上から押被さってきて、胸がわくわくしていた。

 松の小枝の影が障子の棧を二つ進んで、も一つ他の枝影が出て来た頃、産婆が助手を連れてやって来た。肥った円顔の上に小さな束髪をつけ、大きな黒革の鞄を手にしてる様子が、変に道化じみていた。然しその言葉はしっかりしていた。

「まだ暫く間がございますよ。夜中過ぎか明朝になるかも知れません。私がついていますから、御安心なさいませ。案ずるより産むが易いって、全くでございますよ。」

 けれど、電灯がともる頃になると、陣痛は可なり頻繁にまた激しくなってきた。順造は大急ぎで食事を済して、秋子の室を一寸覗いた。彼女は頭をぐったり枕に押しあてて、涙ぐんだ眼を異様に輝かしていた。彼はその眼から、自分と自分を引きもぎるようにして、鈎の手の廊下で半ば離室はなれになってる自分の室へ退いた。

 もしかすると、秋子は死ぬんじゃないかしら?

 ふと頭を掠めた考えが、次の瞬間には、すーっと何処かへ消し飛んで、ひっそりとなった。彼は畳の上に寝転んだ。起き上って机に向ってみた。平素愛読してるフランス革命史を、無理に六七頁読み進んでみたが、更に興が乗らなかった。それからまた寝転んだ。耳を澄しても何も聞えなかった。次第に頼り無い気持になった。長い時間がたった。

 彼は突然、じっとして居られない衝動に駆られた。かすかな音が何処からともなく伝わってきた。よく耳を傾けると、唸り声とも叫び声とも息の音ともつかない、何か大きな声が一塊になってる響だった。それが暫く間を置いて、地の下からのように底深く伝わってきた。そして時々、気合の声か掛声みたいなものが、その深い響に釘を打込んでいった。

 初まったな!

 そう思うと、がーんと耳鳴りがした。それから一寸ひっそりとなったが、今度は廊下の彼方の秋子の室全体が、麦酒瓶に息を吹込むように、うーッ、うーッ……と唸り出した。それが間を置いては、次から次へと高まっていった。耳にではなく、胸に伝わる響だった。

 彼は立ち上った。廊下に出てみたが、急にぞっと身震いがして、また室の中にはいった。どうしていいか分らないで、室の中を歩き出した。真中にある机を足先ではねのけて、八畳の室の隅から隅へ対角線を、しきりなしに往き来した。隅でぐるりと一廻転するのが、初めは何だか変だったが、次にはそれが一のリズムとなった。とんと一つ調子を取るようにぐるりと廻って、それから真直に平らな歩調となり、向うの隅でまたとんと調子を取った。彼方の室全体の恐ろしい唸りが、それと呼吸を合してきた。

 生れるのかしら!

 何だかこう得体の知れない真黒な力だった。それがのた打ち廻って、張り切って、裂けて、ぶつりと切れた途端に、猫の仔とも犬の仔ともつかない小ちゃな、ころころとした啼声が、一つ甲高に響いた。次にまた少し低く三四声響いた。それから、くちゃくちゃな静けさになった。

 初めの啼声に立ち竦んでいた順造は、はっとして飛び上った。廊下に出て向うへ行こうとすると、廊下の茫とした薄ら明りが、こちらを見守ってる死人の眼のように感ぜられた。彼はまた室にはいって襖を閉め切った。胸が高く動悸していた。

 ざわざわしたどよめきが、彼方の室に起っていた。暫くして、先刻と同じ啼声が今度は落着いた調子で響いてきた。それから後は、頭の加減それとも実際にか、めいるような静けさになった。

 彼はぼんやり其処に腰を下した。頭の働きがぴたりと止って、不思議なほど何にも考えられなかった。

「旦那様、旦那様!」強い調子で向うから呼んでる女中の声に、彼は初めて我に返った。

「お生れなさいました!」

 髪を乱してる女中の赤い顔が、廊下の入口から一寸覗いてすぐに消えた。

 彼は機械的に立ち上った。非常に勇気がいるような気がして自ら自分を励ましながら、半ば捨鉢に秋子の室へはいって行った。消毒薬の匂いがぷんと鼻にきた。散らかった室の中の有様が一度に眼へ飛び込んできて、何にもはっきり見て取れなかった。両の拳を握りしめたまま、秋子の枕頭と思われるあたりに坐った。

「お目出度うございます。お坊ちゃまでございますよ。」

 彼は声のする方へ頭を下げた。それを挙げようとする時、すぐ前の秋子の顔とぶつかった。口許に力無い薄ら笑いを湛えて、眼は涙ぐんでいた。

「ごらんなさいませ。」と産婆は云い続けていた。「まるまる肥った、綺麗なお児様ですこと。お手柄でございました。」

 彼は背筋がぞっとして、啜り泣きがこみ上げてきた。それを押えてるまに、眼の中が熱くなった。

 赤いメリンスの布団の襟から、円めた真綿を帽子に被った小さな真赤な顔が、少しばかり見えていた。

「ほんとに奥様はお強うございますよ。声一つお立てなさらないんですもの。あんなに激しい陣痛を、よくお堪えなさいました。でも、陣痛がおっつけおっつけ激しくきましたので、時間が長くかからないでようございました。よく中途で陣痛が止ってしまうような方がありますが、それには困ってしまいますよ。奥様のはそれは激しくて、それをまたじっと我慢していらっしゃるので、代りに私共がうんうん唸ってあげましたよ。」

 産婆は助手を顧みて、顔を輝かしていた。

 順造は秋子の方を覗き込んだ。総髪そうがみに取上げた先を麻で結え、四五本のほつれ毛が額にこびりついていた。透き通るように蒼白い顔の皮膚をたるまして、枕の上にがっくりとなっていた。疲労の余りに興奮した眼だけが、僅かに生気を示していた。

「大丈夫?」

「ええ。」と出るか出ないかの声で彼女は首肯いた。そして赤ん坊の方を、眼付でさし示した。

 彼は不思議なものをでも見るような気で、初めて赤ん坊の方を覗き込んだ。皺寄った額、閉じた眼、小さな口、鼻だけがつんと高かった。真赤なぶよぶよの皮膚に、金色の産毛うぶげが透いて見えた。眺めていると、前から知ってる顔のような気がしてきた。それがじっと、何時までたっても動かなかった。

 生きているのかしら?

 指先で頬辺を一寸つっつくと、生温なまあったかいつるりとした感触がした。喫驚して手を引込める間に、赤ん坊は唇のあたりをかすかに震わした。

「まだ余りお触りなすってはいけませんよ。」と産婆から注意された。

「生きていますね。」と彼はうっかり云ってしまった。

「生きていらっしゃいますとも!」

「でも息をしていないようだったから……。」

 産婆が声高く笑い出し、秋子が口許に微笑を浮べたので、彼は漸く安心した。

 女中が盥や上敷を片付けた頃、秋子は俄に腹痛を訴えだした。

後産あとざんでございますよ。」と産婆が云った。

 順造は一寸其処につっ立っていたが、産婆が何かの用事にかかったので離室はなれの自分のへ逃て行った。

 大丈夫だ、大丈夫だ! 何がかは分らないでただそういう気持がした。

 時計を見ると、十二時を少し過ぎていた。あたりが静まり返っていた。雨の降るらしい音が一寸したので、耳を澄したがはっきり分らなかった。窓を開いてみた。妙に空気が稀薄に思えるような、澄み切った静かな夜だった。空には星が一面に輝いていた。

 彼はその星々を眺めた。空高く一際輝いている星が一つあった。それに眼を定めてると、冴え返った光りが心の中まで沁み込んできた。星と人間の運命とを一緒にして考えた古人の思想が、嬉しく胸に蘇ってきた。人が生れるのは上潮あげしおの時だ、そういうことまで思い出された。

 上潮だ、上潮だ!……星が光ってる!

 嬉しさとも淋しさともつかないもので、胸が一杯になった。

 産の始末がすっかり済んでしまってから、彼は産婆と助手と一緒に、取っておきの鮨を茶の間で食べた。

「実は心配しておりましたんですよ。予定よりだいぶお早くて、お児さんの位置が骨盤まで下っていなかったものですから、手間が取れはしないかと思っていました。それでも案外早くお生れなさいましたので、結構でございました。発育も十分でございますよ。」

 産婆はそんなことを一人で饒舌しゃべっていた。順造はただ短い感謝の言葉を述べた。

 産婆が帰っていったのは、午前二時頃だった。順造は女中を寝かして、一人起きていた。床へはいる気がしなかった。

 今晩はよくお眠りなさるが宜しゅうございますよ、と帰りしなに産婆が云ったその熟睡を、秋子はなかなか得られないらしかった。心身の疲労にうち負けてうとうとしながらも、暫くするとぱっちり眼を見開いた。そしては赤ん坊の方を気にした。

「大丈夫だよ、」と順造は云った、「よく眠ってるようだから。」

「そう。……あなたもお寝みなさいな。」

 声の調子が以前よりは、弱くはあったが澄み切っていた。

 虫の鳴く声が遠くに響いていた。

「ほんとによかったね。」

 順造が独語のように低く云った時、秋子はまたうとうととしていた。一寸眼を開いて彼の顔を見たが、彼が黙ってるのでまた眼を閉じた。

 茶色の勝った大きな布団と赤っぽい小さな布団と、二つ床を並べて寝ている母と子を、順造は何とも云えない心地で眺めた。恐れていた幻影の彼方から、輝かしい不思議な世界が開けてきたのだった。新らしい一つの生命が生れて出ている──而も自分と秋子との子として! 父親となり母親となることは、一つの運命の扉が開けることだった。その扉が開けるためには、如何に大きな力がのた打ち廻ったか! 二三時間前に産婦の室全体が唸り出したあの恐ろしい気配を彼ははっきり思い出した。

 それにしても、あるかなきかの息をしながら身動もしないで、すやすや眠ってる赤児の存在が、可愛いいというよりも余りにちっちゃかった。今迄どうして腹の中に居られたのだろう、そしてよく生れたものだ、と思えるくらいの容積ではあったが、その活力が、存在が、一つの運命を荷ってるとしては、余りにちまぢまとしていた。赤児の存在とその運命とが、別々なものとなって彼の心に映じてきた。

 然しそれは二つのものである筈はない!

 彼は不思議な気持で、赤ん坊の方を覗き込んだ。真綿の帽子を取ると、黒い髪の毛が生え揃っていた。先の尖った馬鹿げて長い頭だった。産毛を一塊もじゃもじゃとさしたような眉の下に、閉じた眼瞼がすっと切れていた。額に皺が寄り、眼の縁がたるみ、唇が薄く、頣が殆んどなかった。頬がふっくらとして、鼻が高かった。その滑かで柔い頬を、指先でちょいとつっつくと、顔全体がくしゃくしゃな渋面となった。はっと思ってるまに、それがまた静かに元に返った。

 赤ん坊もまた疲れてるのだ。

「あなた、何をなすっていらっしゃるの?」

 振り向くと、秋子が眼を開いていた。咄嗟に彼は思い出して、真綿の帽子を赤ん坊に被せてやった。

「馬鹿に長い頭だね。」

 秋子はただ微笑んだ。そして云った。

「もうお寝みなさいな。」

「うむ。」

 曖昧な返辞をしたまま、彼は腕を組んでじっと坐っていた。虫の声がまた俄に響いてきた。聞くともなくそれに耳を傾けてるうちに、彼は底深い夢想に沈んでいった。

「あなた!」

 それが、彼を喫驚さした。

「なぜお寝みなさらないの?」

 秋子が底光りのする眼で彼の方を見守っていた。彼は眼を外らして室の中を見廻した。凡てがひっそりとしていた。母と子との枕頭にいつまでも端坐してる自分の姿が、頭の中に浮彫となって映った。何とも云えないかすかなざわめきが、室全体を外から包んでいた。

 彼は突然恐ろしくなった。背中が冷たくなったのを強いて立ち上った。

「もう夜明けに近いかも知れない。」

 そう云い捨てて彼は、秋子の視線から眼を避けながら、室の片隅に敷いてある布団へ、着物のままもぐり込んだ。

 眼をつぶると、暗い所へ引入れられるような心地がした。眼を開くと、先刻まではそうも感じなかったが、赤ん坊のため二重に覆いをした電燈が変に薄暗かった。……幾度も眼を開いたり閉じたりしてるうちに、いつのまにか眠った。

 然しよく眠れなかった。表を通る牛乳車の音に眼を覚した。次に眼を覚した時は、遠くに汽笛の音や汽車の響がしていた。それからもう眠れなくなった。そっと起き上った。顧みると、秋子も赤ん坊もぐっすり寝込んでるらしかった。

 彼は一寸躊躇したが、やがて忍び足で縁側に出て、雨戸を静かに開いた。冷かな空気が薄すらと霧を湛えて、夜が白く明けていた。彼は大きく呼吸をした。それから煙草を吸った。庭の隅の茂みの中に、何やら淡い色があった。よく見ると、大きな枸杞くこ下垂しだれ枝が、薄紫の小さな花を一杯つけてるのだった。

 彼はその花に暫く見惚れていた。心の奥から、第一の夜明だ! という声が湧き上ってきた。


     三


 粘りっ気の多い緊りの少い、何だか混沌とした全体だったが、眼だけが神秘で美しかった。ぼんやり見開いてる黒目に、外の光が奥深く映って、僅かな微動にもちらちらと揺いで、それからまた静まり返った。その底から露わな魂が覗き出していた。──それだけが彼の世界らしかった。

 順造は傍からぼんやり見守っていた。

 産婆が毎日湯をつかわせに来た。室の中に上敷を拡げ、盥を置き、その中で湯をつかった。拳を握りしめて肩にかついだ両手と、の字に曲げてる両足とだけに、驚くほどの力が籠っていた。根元を堅く結えられてる赤い臍の緒が、湯の中にゆらゆらとしていた。その臍の緒に沃度フォルムが撒布され繃帯がされると、感じから云っても独立した一個の存在だった。顔を渋めて口で何かを探し求めていた。乳が出なかったので砂糖湯を与えた。黒いころころの糞をした。淡褐色の液体を口から吐いた。生れる時に飲んだ汚物だそうだった。乳が出るようになっても、秋子のは盲乳めくらぢちだった。乳首をもみ出して吸いつかせるのに、彼女は一生懸命になっていた。

 順造は名前をつけるのに苦心した。いくら考えてもよい名前が浮ばなかった。思い惑ったはてに、自分の順という字を取って順一としてみた。するとそれが非常によくなった。順という字も一という字も感じがよかった。岡部順一と並べてみても悪くなかった。それにきめた。

 七夜ひちや奉書ほうしょの紙に名前を書いて命名が済んだ。産婆からいい名前だとほめられたのが、お世辞にせよ彼には嬉しかった。麻で結えられた素焼の胞衣壷えなつぼと、油紙の大きな汚物袋とが、妙に彼の気にかかっている所へ、胞衣会社から来た男の手で持ち去られた。彼は区役所へ出産届をした。

 万事が済んだ。順一は大抵眠っていた。秋子も昼となく夜となくうとうとしていた。食事と乳との時だけ、母と子とははっきり眼を覚した。

 これでいいのかな?

 そういう予感が、自分の室に居る時、街路を歩いてる時、会社で執務してる時、ふっと順造の頭を掠めた。

 不思議なのは、離れてると順一のことばかり気になったが、その室に足をふみ入れると、秋子の存在が順一を蔽いつくしてしまった。

 俺には順一より秋子の方が可愛いいのだ!

 そういう気持で彼は尋ねかけた。

「どうだい、身体の工合は?」

「ええ。」

 返辞だけをして、いいとも悪いとも答えないで、彼女は痩せた頬に弱々しい微笑を浮べた。その頬にぼっと赤味のさしてることがあった。

「熱があるんじゃないのかい。」

「いいえ。」

 髪の生え際が薄く、額に一脈の淋しさを浮べ、頬の皮膚が蒼白く透き通って見えた。それが美しかった。

 枕頭にじっと坐ってるのが変だったので、彼はよく縁側に屈み込んで、庭の黒い土を見守った。秋子が起き上れるようになりさえすれば、それでいいとも思った。

「幾日すれば起き上れるんだい。」

「三週間だそうですけれど、そんなに寝てるのは退屈ですわ。」

 その三週間が半分以上過ぎ去った頃から、秋子は軽い下痢を催した。ビオフェルミンをのんだり食物の用心をしたが、何の効もなかった。然し大したことではなさそうだった。

 或る日、順造が会社から帰って来ると、女中が頓狂な顔をして彼を玄関に迎えた。

「奥様が大変でございましたよ。」

 彼ははっとした。

 秋子はうとうと眠っていた。彼が枕頭に坐り込んでも眼を覚さなかった。彼はその額に手をやった。燃えるように熱かった。驚いて手を引込める途端に、彼女は眼を開いた。

「どうしたんだい?」

 彼女はぼんやりした眼付で彼の顔を探し求めた。それから微笑んだ。

「あなたでしたの。……私夢をみていた。」

「熱があるじゃないか。」

「そう?」

 彼女はその朝から腹が激しく痛んだそうだった。余し腹痛は産後も屡々あった。子宮が収縮する度に痛むのですから、痛むほど早く元に直るのですよ、と産婆が云った言葉を彼女は思い出して、彼にも黙っていたのだった。所が午頃ひるごろから激烈な疼痛がやってきた。床の上に身をねじって苦しんだ。痛みが去るとねっとり汗をかいていた。それが頻繁にやってきた。夕方になって少し遠のいた。それからうとうと眠ったそうだった。

「腹の痛みはともかく、ひどく熱があるようじゃないか。」

「そう?」と彼女はまた半信半疑の答えをした。

 熱を測ると彼は喫驚した。三十九度一分に上っていた。

 先ず産婆を呼ぶことにした。女中が駆け出して行った後で、彼は和服に着代えて食膳に向った。秋子は何も食べたくないと云った。それでも赤ん坊に乳をやっていた。

 間もなく産婆が来てくれた。産婆にもよく分らなかった。その紹介で、産科婦人科の坪井医学士に頼むこととした。近所の電話をかりてかけさせると、すぐに行くとの返辞だった。

 秋子はまた腹痛を訴えだした。産婆の指図で、腹部に温湿布をし、頭に氷嚢をあててやった。痛みが去ると、彼女はまたうとうとしていた。

 すっかり夜になってから、坪井医学士が来てくれた。胸部の聴診の時に、以前呼吸器の病気をしたことはないかと聞かれた。肺尖加答児をやったことがあったね、と順造は秋子に尋ねた。秋子は首肯いた。然しその時もう医学士は、腹部の診察にかかっていた。産婆が側についていてくれた。子宮の内診の時に、順造は座を外した。

 診察が済んで、女中が茶を持ってゆく時、順造はまたその室に戻った。

「病名は今の所まだはっきりしませんが……明日まで経過をみたら大抵確定するつもりです。」と医学士は云った。「然し熱が高い間は、兎に角授乳は控えといたが宜しいでしょう。」

 明朝までに便べんを少量届けてほしいと頼んで医学士は帰っていった。

 産褥熱! 非常に恐ろしい病気のように聞いていたその名が、順造の頭に閃いた。彼はそっと産婆に尋ねた。産婆はそうらしくはないと答えた。それでは窒扶斯チブスかも知れなかった。然しそれを産婆は一層はっきりと否定した。けれど彼女にも結局分らないらしかった。

 女中が牛乳と薬とを取りに行ってる間、産婆は残っていてくれた。

 腹痛が不規則に襲ってきた。秋子はもう身を踠きはしなかったが、眉根に深い皺を寄せ歯をくいしばってるので、それと知られた。

「苦しい?」

 彼女は何とも答えないで、彼の顔をじっと見返した。かすかに微笑を浮べようとしてるらしいのが、筋肉が引きつって泣顔になっていた。

 産婆がしきりに秋子を慰めてくれた。しまいにその言葉が途切れると、順造は俄に不安な恐怖に襲われた。室の隅に押しやられてる子供の方へ行った。その寝顔を見て、また秋子の方へ戻ってきた。

 女中が帰ってくると、牛乳は産婆が調合して、それから子供に飲ましてくれた。秋子の盲乳めくらぢちによりも一層安々と、護謨ゴムの乳首に吸いついて、咽せるほど吸っている子供の様子を、順造は涙ぐましい心地で眺めた。秋子も首を伸して、その方を眺めていた。

 産婆は十一時が打つと帰っていった。それを送って門口まで出た時、順造は急に夜気の冷たさを感じた。空を仰いで冴えた星の光を見ると、秋も更けたという気がした。彼は室に戻って、思い出したように火鉢に炭をどっさりつぎ、水を入れた洗面器をかけて湯気を立てた。

 秋子と順一との間に床を取らせようとすると、秋子は自分を真中にしてくれと云った。彼は女中と二人で秋子の床を室の真中に引張った。その後に自分の布団を敷かした。いつでも起き上れるように、着物のまま布団にはいった。

 秋子は腹痛が遠のいていた。その代りぐったりしていた。

「気分はどう?」

 暫く返辞がなかった。眠ってるのかなと彼が思い初めた頃、低いゆるやかな声がした。

「いくらかいいようですわ。」

 彼はもう話しかけない方がよいと思った。彼女の額にのっている氷嚢が、びくりびくりとかすかに震えるのを見て、その脈搏の数をはかろうとした。ゆっくりした力強い脈搏のように感ぜられた。

 このまま落着いてゆけばもう大丈夫だ!

 それで安心して、疲労のためにうとうととした。

 夜中にふと眼を覚すと、順一の泣声が耳についた。秋子が半身を起して、襁褓おむつを取代えてやってる所だった。彼はがばとはね起きた。それから牛乳を沸して飲ましてやった。

 順一も秋子も眠った。彼も最後に眠った。

 翌朝、女中は坪井医学士の許へ便を届けた。午後診察に来るとの由だった。

 順造は食事を済し、子供に牛乳をやり、それから庭に出て、狭い地面を歩き廻った。霧を通して射す朝日の光が快かった。植込の下枝の枯れたのを、ぽきりぽきりと折り取ってやった。

 十一時頃、坪井医学士が不意に来診してきた。順造はどきりとした。医学士は腹部の診察だけをした。

「結核性腹膜炎です。」

 思いもつかない病名に、順造はただ医学士の顔を見守った。医学士は煙草に火をつけて、病人の顔を暫く見守った。

「出来るだけ動かないようにしなければいけませんね。」

 それから、病院にはいってはどうかと勧めた。子供のためには乳母の必要があると命じた。不完全な牛乳は最も危険だそうだった。

 乳母の方は、ありさえすれば問題ではなかった。入院の方は秋子がどうしても承知しなかった。

「私子供の側で死にたいから。」と彼女は云った。

「死ぬの生きるのというほどのことではありません。入院して早く癒った方がよくはありませんか。」

 それでも秋子は承知しなかった。順造の顔を懇願の眼付でじっと眺めた。

 順造は決心した。家でやることにきめた。看護婦を傭う事は医学士が引受けてくれた。

 順造は乳母が来るまで二人ほしいと頼んだ。

「大丈夫だから、安心しておいで。」

 秋子が強く首肯いたので彼は嬉しかった。彼はすぐに桂庵へ行った。赤茶けた髪の婆さんが出て来た。頭から足先までじろじろ見られるので、可なり不快な気がしたが、それを我慢して乳母を頼んだ。

「宜しゅうございます。心当りが一人ありますから、聞き合せてみましょう。少し月が違いますけれど、牛乳よりはどんなにましだか分りませんよ。牛乳をおやりなさると……。」

 牛乳と母乳との講釈が出そうになったので、順造は至急に頼むと云い捨てて飛び出した。

 空が拭ったように晴れて、日の光が冴え冴えしていた。そのぱっとした外光の中で、彼は突然云い知れぬ不安を感じた。駆けるようにして帰ってきた。

 午後、産婆が見舞ってくれた。結核性腹膜炎と聞いて眉を顰めた。順造は危険な病気であることを直覚した。

 夕方、看護婦が二人やって来た。

 秋子はまた激しい腹痛を訴えていた。食物を与えるとすぐに吐いた。日の暮れ方に、坪井医学士が見舞ってくれた。注射が行われた。暫くすると腹痛が止んだ。けれど秋子はぼんやりしていた。熱が九度八分に上っていた。ただ待つより外はなかった。然し待った後で?

 順造は不意に立ち上った。家の中を方々見廻った。何だかどの室をも綺麗に片付けて置かなければいけない気がした。それから俄に、秋子の死の場合を予想してることに気付いて、これではいけないと思った。考えを明るい方へと向けてそれに頼ろうとした。

 病勢は殆んど不可抗力を以て進んでゆくがようだった。前ほど激しくはないが然し持続的な腹痛が、時を定めずに襲ってきた。秋子は眼をつぶり歯をくいしばって、手先を震わせながらそれを堪えた。額に汗がにじんで、眼が引吊ってると思われることもあった。そういう努力に、産後の衰弱した身体は益々疲憊していった。そして、それを補うものは何もなかった。食慾が一切なくなり、僅かな流動食を嚥下してもすぐに吐いた。薬でもなかなか落着かなかった。

 翌日の十時頃彼女は、寝てるのが苦しいから坐ってみたいと云い出した。床の裾の方へ布団を積ませて、それによりかかって坐った。

 彼女は暫く、障子の硝子から庭の方を見ていた。それからふと思い出したように、坊やを連れて来てくれと云った。順一の床は前晩から、離れの順造の室に移されていた。順造はそれを抱いて来た。

 秋子は子供の顔をじっと覗き込んだ。

「この児は誰に似てるでしょう?」

 顔の輪郭が母親に似て眼から額が父親に似てると、看護婦が答えた。

 彼女は一寸微笑んで、それから後ろの布団によりかかった。

 その時順造は喫驚した。彼女のその姿が、分娩前の姿とそっくりだった。眼の肉が落ち顔が蒼ざめてるのはまだいいとして、薄っぺらな胸で喘ぐような息をし、その下に、大きく脹らんだ腹がどっしり落着いていた。岩田帯の代りに温湿布がぐるぐる巻いてあった。其処を叩いたら、姙娠の時と同じ音がしそうだった。

 順造は眼を外らした。

「もう寝たらどうだい。」

「そうね。」

 彼女はおとなしく順造の言葉に従った。看護婦に手伝わして横になろうとする時、眼を見張り、頬を脹らませ、唇をきっと結んで、さし招くような手付をした。ぐ……ぐ……という音が喉から僅かに洩れて、その度にぴくりぴくりと肩を震わし、見張った眼と差出した手先とで、早く早くと云っていた。順造には何のことやら分らなかった。が咄嗟に看護婦が痰吐を差出すと、それにかじりついてげぶりと吐いた。腐爛した悪臭がぷんと立った。順一が生れた当時口ににじませたのと同じ色をした、どろどろの液体で、痰吐の半分以上もあった。秋子はそのまま、枕の上にがっくりとなった。

 それからは、容態が目立って悪くなった。腹痛が襲ってくると、彼女はもう身体を引緊めるだけの力もないかのように、だらりと四肢を投げ出しながら、痛みに身を任せて、顔だけをくしゃくしゃに渋めた。下痢の回数が増し、嘔吐が日に一二回あった。何れもひどい悪臭の液体だった。腹が益々膨脹してきた。九度五分前後の熱が続き、脈が百十近くにのぼった。腹痛の合間には、嗜眠に近い状態でうとうとしていた。坪井医学士は、診察を済すとただ黙って帰って行った。看護婦にドイツ語で一二言囁くこともあった。

 順造はもう何にも尋ねなかった。順一と秋子との間を往き来した。看護婦は二人共悪くなかった。一人は、てきぱきした言葉使いをする、眼付のしっかりした大柄な女だった。一人は、言葉に多少訛りのある、内気な静かな女だった。彼女等は秋子と順一とに交代についていた。順一の方にくると、順一が眠ってる間は一緒に眠った。

 順造は、昼間は精がつきたように、じっとしてるとすぐにうつらうつらした。夜になると頭のしんが張りきって眠れなかった。女中を早くから寝かして、看護婦と一緒に遅くまで、秋子の側についていた。

 不吉な幻が浮んできた。

 前年の夏、彼等は大きな硝子の容器に、金魚を二三匹飼ったことがあった。その一匹が死にかかった。美しい竜金りゅうきんだった。逆様になって、大きな腹を水面に浮べながら、いつまでもぱくぱくやっていた。洗面器に塩水を拵えて一昼夜ばかり入れて置くと、片泳ぎが出来るくらいに元気になった。それが一二日たつと、また仰向にひっくり返った。そういうことを二三度くり返した。大きく脹れ上った腹が固くなり、尾鰭の先が硬ばり、骨立った頭に眼玉が飛び出していた。思い出したように四五度慌しくえらを動かしては、またじっと口を閉じた。死んだのかと思って指先でつっつくと、脹れた腹からつんと出てる鰭を動かしてちょろちょろと泳いだ、そういう状態が長く続いた。しまいには順造も秋子も、早く生きるか死ぬるかしてくれればいいと思うようになった。そう口に出してまで云った。長く苦しめるのが可哀そうだった。そして二人は、余りその方を見ないようにした。二週間ばかりたった或る朝、金魚はもう動かなくなっていた。水から取り出してみると、あれほど固かった大きな腹が、柔かくぶよぶよになっていた。内部の臓腑が腐ってるらしかった。

 順造は怖じ恐れた眼付で、秋子の方を見やった。大きく脹らんでる腹が、布団越しにも感ぜられる気がした。日に僅かな水液しかはいらないで、而も多量の粘液を排出しながら、益々脹らんでくるその腹が、不気味さを通り越して奇怪だった。それをじっと仰向に抱えて、彼女は熱と悪臭と疼痛とのうちに、うとうとと眠っていた。蟀谷こめかみのあたりがぴくぴく震え、眼窩が陥入って、眼玉が円く飛び出ていた。ただ頬から眉へかけた淋しみと、夜具の外へ投げ出してる手指とに、昔の面影が僅かに残っていた。節々が凹んだしなやかな細い指だった。順造はその指先をそっと握ってやった。

「あなた!」

 声に驚いて顔を挙げると、彼女は眼をぱっちり開いていた。

 なに? と見返した眼付で彼は尋ねた。

 彼女は何とも云わなかった。目玉だけが作りつけのように飛出してるその眼で、じっと彼の顔を眺め、それから天井の四隅を眺め、そしてまた薄い眼瞼を閉じた。

 眠ってるのか覚めてるのか、見当がつかなかった。夢現ゆめうつつのように時々眉根をしかめた。

 彼はいつまでも其処を去り得なかった。考えつめて──何をだかは分らないでただ考えつめて、頭のしんが痛くなった。思い切って立ち上った。

 忍び足で室を出て、忍び足で離れの室へはいった。看護婦の横に、順一が無心の寝顔を見せていた。順造はその枕頭に、また長い間坐り込んだ。同じく陰惨な唸り声ではあったが、出産の時の張りきった力の叫びとは違って、滅入るような静けさの冷たい唸り声が、秋子の室から響いてくるような気がした。その底から、彼女の大きな腹が眼の前に浮出してきた。

 彼は恐ろしくなって、頭から布団を被った。

 朝早く、女中が竈の下を焚きつけてる間に、彼は押入から硝子の金魚入を取出して、それを裏口に持ち出し、塵箱の中へ力一杯に投げ入れて砕いた。

 爽かな清い朝だった。彼は何物かに祈らずにはいられない心地になった。

 秋子が回復してくれさえしたら!

 然しその日も、同じように混沌たる影のうちに包まれた。


     四


 順造は乳母うばのことを、頭の何処かにひっかかりながらも、いつとはなしに考えの外へ投り出しがちだった。所が或る日、桂庵の婆さんが不意に若い女を連れて来た。

 乳母だ、と聞いた時、順造は一寸面喰った心地がした。どういう風に応対していいものか分らなかった。

 兎も角も離れの室に通した。桂庵の婆さんと若い女とは、きちんと膝を合して坐った。婆さんは室の中の様子をじろじろ見廻した。若い女は顔を伏せていた。羽二重の帯に銘仙絣の着物羽織をつけ、髪を大きな束髪に結っていた。櫛を一本もさしていないのが、変に順造の眼に止った。

「この人が乳母に出たいと申すのでございますが……。」と桂庵の婆さんは、看護婦が遠慮して出て行った時云い出した。そして、奉公は初めてであること、身許も確かであること、乳は差乳さしちちで分量も多いこと、産後十ヶ月ではあるけれど、牛乳よりは子供のためにいいことなどを、ぱさぱさした而も丁寧な能弁で云い立てた。

「この児です。」と彼はぶっきら棒に、室の隅に眠ってる順一を指し示して云った。母親が産後の腹膜で悩んでるので、是非面倒をみて貰いたいと、頭から押被せるような調子で頼んだ。

 婆さんは座を立って、廊下へ女を呼び出し、暫く何やら囁いていた。それから順造の前に来て、給金を二十円ほしい事と、二三日は目見めみえのつもりでいてほしいこととを断った。

 婆さんが帰った後で、女は不器用なお辞儀をして云った。

「よろしくお願い致します。」

 口先から出る声で語尾が高くはっきりしていた。入江竜子たつこという名だった。大柄な立派な体格で、眼が大きくくるりとしてることだけを、順造は見て取った。

 彼は秋子の所へ行って、乳母が来たことを知らせた。彼女は初め腑に落ちないらしかった。それから、遠くを見つめるような眼付をして、漸く首肯いた。

「連れて来ようか。」

「ええ。」

 竜子は室の隅に坐って、何やら考え込んでいた。それを順造は廊下の外から呼び出した。

 彼女は病室にはいって、程よい辺へ坐り、低く頭を下げて云った。

不束者ふつつかものでございますけれど……。」

 その挨拶を順造は、自分に対する先刻の挨拶よりは、遙かに立派であると思った。

「お頼みしますよ。」と秋子は云っていた。「私はこんなですけれど、あなたが坊やの面倒を見て下されば、ほんとに安心します。」

 順造は席を立って、茶の間の方へ行き、次に庭へ出た。何だか気持が落着かなかった。看護婦が来た時とは全く別な感じ──家の中に女性が一人殖えたという感じが、妙に気にかかった。

 然しその感じは、やがて何処かへ飛び去ってしまった。秋子の容態が次第に険悪になっていった。

 熱が九度以下にさがって、脈搏が百十五にも及んだ。始終嘔気があって、僅かな流動食も喉に通り難かった。そのくせ、いつも喉が渇いていて、盛んに番茶の熱いのをほしがった。煮立って間もない熱いやつを、平気で飲み下した。腹痛が長く続いて、泣くような唸り声を立てた。痛みが去ると、ぐったりしながらも、手足がだるくて堪らないと訴えた。前腕と足の腓腸部ふくらつばみとを、始終さすってやらなければならなかった。そしては昼となく夜となく、頭と心臓部とに氷嚢をあて、腹部に温湿布をし、足先に湯たんぽを入れて、うとうとしていた。ともすると、膝から下がすぐに冷たくなった。

 どうにも仕方のない状態だった。親戚や親しい知人の見舞客があっても、彼女は別に嬉しそうな顔もしなかった。客が帰ると、僅かな言葉しか交さなかったのに、非常に疲れを覚えてるらしかった。

 もし秋子が死んだら?

 そういう場合の予想が、いつしか順造の頭に巣くってきた。彼はそれに自ら気付いて不安になった。さりとて、彼女をそのまま長く苦しめるのは堪らないことだった。が回復の望みは更に少なかった。腹痛に唸りながら歯をくいしばってる彼女の側に、彼は拳を握りしめた両腕を組みながら、その大きな腹をじっと睥みつけた。切り開いて中の何かを掴み出したら、というような残忍な考えまで起った。

 彼女は唸り声をはたと止め、歯をぎりぎり喰いしばって、異常な力の籠った両手を、ぐっと肩の方へ持って来た。見開いた眼が据っていた。痙攣を起したのだった。

 腹痛を我慢してるのか痙攣を起してるのか、見極めのつかないこともよくあった。

「もう駄目でしょうか。」と順造は坪井医学士に尋ねた。

「今の所はまだ大丈夫のようですが、然しあの通りの状態ですからね……。」

 医学士は多くを語らなかった。然しその様子は、殆んど望みのないことを語っていた。

 もはや時期の問題だ!

 然しその底から、絶望的な反抗の気勢が、順造の胸に時々湧き立った。俺がついてる間は死なせない、そう心に誓った。そして彼は出来るだけ病室から去らなかった。少しでも彼女の側を離れると、云い知れぬ不安に駆られた。夜もその室に寝ることとした。

 宿に行って荷物を取って来たい、そして一晩泊ってきたい、と竜子が申し出た時、順造は怒鳴りつけるような調子で云った。

「君は帰ってくるんですか、来ないんですか。」

 竜子は呆れたように彼の顔を見返した。

「はっきりしとかないと、僕は非常に困るんだから。」

「では、」と竜子は暫くして云った。「荷物だけ持ってすぐに帰って参ります。」

「ああそうし給い。俥で行ったらじきだろう。」

 竜子が出て行った後で、ねんねこにくるまった順一を抱いて、離れの室の中を歩き廻ってるうちに、彼はふと先刻の竜子との応対を思い出して、我ながら可笑しくなった。大きな声で笑ってみたくなった。が次に、何とも云いようのない憂鬱に襲われた。

 秋子も順一も自分自身も、どうとでもなるようになるがいい!

 彼は畳の上にごろりと寝転んで、順一に腕枕をさして抱きながら、ぼんやり天井を眺めていた。暫くして順一がむずかると、機械的に立ち上って、室の中をよいよいして歩いた。喜びも悲しみもないただ澄み切った順一の眼が、この上もなく淋しく思われてきた。順一が眠るとそれを布団に寝かして、自分は畳の上に寝そべった。背筋や足先がぞくぞく寒かったが、身を動かすのも嫌だった。

 竜子が約束通りに早く帰って来ても、また、秋子の気分が大変いいと看護婦に云われても、彼は不機嫌に黙り込んでいた。

 然し、実際秋子は気分がはっきりしてきた。腹痛も非常に遠のき、痙攣も襲って来なかった。その晩遅くまで眼を開いていた。わりにしっかりした言葉で、看護婦と話をした。

 順造は横の方に寝転んで、雑誌を披いて二三頁飛び読みをしたり、ぼんやり天井板の木目を見守ったりした。凡てが不思議な気がした。妊娠や分娩や病気や乳母や看護婦や、現在眼の前の病室の事物までが、夢の中のことのように感ぜられた。そしてそれが、永久に続く事柄のように思われた。静かな静かな夜だった。しいんとした中に虫の声がしていた。遠い昔の思い出が籠っていそうな夜だった。秋子の大きな腹ももう気にかからなかった。

 ただあるがままでよかった。

 けれど、翌朝、朝日の光が縁側に当ってる頃、秋子がかすかな微笑を浮べたのを見た時、また彼女が平気で鶏卵の黄味をすすったのを見た時、順造は思わず飛び上った。

 勝利だ、勝利だ!

 何とはなしにそういう気がした。

 秋子ははっきり眼を見開いていた。精神が澄み切ってるらしかった。散らかってる床の間の上を片付けてくれと云った。敷布団が湿ってるから取代えてくれと云った──そのことは看護婦になだめられて諦めた。この次から薬にもっと単舎シロップを入れて貰うように、医者に頼んでくれと云った。氷嚢の角が痛いと云った。今日は幾日かと尋ねた。

 順一の泣声が聞えると、此処に連れて来てくれとせがんだ。竜子がそれを抱いてきた。秋子はじっと順一の顔を眺めた。それから眼を外らして、暫くすると、竜子にとも順一にともなく云った。

「あちらで遊んでいらっしゃい。」

 けれども、二三時間たって、順一の声が聞えると、彼女はまた連れて来てくれと云った。

「あなたみてきて下さいよ。」と順造に云うこともあった。

 順造は立ち上って、順一の方をみに行く風をしながら、茶の間に屈み込んだ。暫くぼんやりしてると、看護婦から呼ばれた。

「奥様がお呼びでございますよ。」

 順造は秋子の側にやって来た。

「なに?」

「え?」と秋子の方から尋ねかけた。

 それから一二分間して、秋子は独語のような調子で云い出した。

「いやね、乳母ばあやに任せとくのは。」

 順一のことに違いなかった。

「だってお前が病気の間は仕方ないじゃないか。」と順造は云った。「病気がよくなりさえすれば、またどうにでもなるよ。」

「どうにでもなるって……生れてしまわなければ駄目じゃないの?」

 どうも調子が変だった。順造は惘然と彼女の顔を見つめた。

「あなた、私の手を握ってて頂戴。それはひどくくるのよ。」

 順造が手を差出すと、彼女は異常な力でそれを握りしめた。かと思うと、不意にその手を離して、室の隅を指し示した。

「どうしたんでしょう。あんな大きなごみがあるわ。だんだん大きくなるようよ。」

 その方を注意して見ると、一寸した糸屑が落ちていた。

 それでも、彼女の様子は落着いていた。気分はと尋ねられると、大変いいと答えた。

「ねえ、私がよくなるまでいて頂戴。」と看護婦に云った。「みんな他処へ行ってしまって、私一人になって、それは心細かったわ。それとも、夢だったかしら?」

 彼女の世界の混乱してることが、わきからもよく見て取られた。それが二日続いた。順造は心の慴えを禁じ得なかった。しっかりしていなければいけないと思った。

 その二日目の午後に、坪井医学士は彼をわきへ呼んで云った。

「どうも仕方がありませんね。……いつどんなことになるか分らない状態ですから、もしお知らせなさる所がありましたら、今のうちに……。」

「そんなに悪いんでしょうか。」

「まださし迫ってどうということはありますまいが、何しろ、軽い脳症を起していますからね。……そして、脳と同じ位に心臓にも打撃を受けています。」

 順造は黙って頭を下げた。

 然しどうも、それとはっきり信じられなかった。精神が苦闘から脱して漸くうち勝ちかける頃に、興奮の余り多少混乱することは、常識から考えても肯定出来た。またそういう実例はいくらもあった。秋子の場合もそれに違いないように思われた。あんなに疲憊しつくしていたのが、俄に元気になったのだった。

 彼は看護婦に相談してみた。

「左様でございますね、脈はいくらかお悪いようですけれど、食慾は増していらしたのですから……。」

 然し結局の断定は得られなかった。

 兎に角万一の用意はしておこう、と順造は決心した。

 秋子が病気のことは、必要な所へは大抵知らしてあった。彼の国許の母と弟とには、わざわざ出て来て貰うにも及ばなかった。で彼は秋子の国許の父へだけ電報を打った。病が重いから叔父の家まで来いとした。叔父──東京に居る唯一の近い親戚──へは大体のことを速達郵便で知らした。縁遠い親戚が一つと秋子の親しい友人が四五あったが、それには別に通知の必要はないと考えた。

 それだけの考慮と処置とを取るのに、彼は落着いてる自分の心を見出した。然し大急ぎでやらなければならなかった。秋子がしきりに彼を求めていた。

 彼が一寸姿を見せないと、何処へ行ってたかと彼女は尋ねた。そしてじっと彼の顔を見つめた。落ち凹みながら眼玉だけ飛び出して見える、凄い眼付だった。底に曇りを帯びてうわべだけぎらぎら光ってる、不気味な眼の光だった。その眼がぐるりと回転して一つの所に据ると、誰か来たようだから見て来いと云い出した。女中が居るからいいと彼が答えても承知しなかった。彼が立ち上りかけると、すぐに戻ってきてくれと云った。

 玄関には誰も来てはいなかった。

 そういうことが何度もくり返された。彼はしまいに馬鹿々々しくなった。表を少し歩き廻って戻って来た。

「私、あなたをどんなに待ったか知れないわ。」と彼女は云いながら、彼をすぐ側に引寄せて、その耳に囁いた「お腹が急に軽くなったような気がするのよ、そっと坐ってみましょうか、内密ないしょでね。」

 そして彼女は起き上ろうとした。看護婦がそれを慌てて止めた。

「だってもうお腹は小さくなってるのに……。」

 然し実際は、小さいどころではなかった。その日の診察の時には、今にも張り裂けそうに脹れ上って、皮膚がぴかぴか光っていた。鳩尾みずおちの所でくっきりと一線を劃して、それから上は肋骨が一枚々々浮出して見えていた。順造は見かねて眼を外らした。見舞に来ていた叔母がその場に居合せないのを、幸と思ったほどだった。

 秋子はしきりに、身体の汚れを気にしだした。夜着の襟から手を出して、手先が穢いと云った。もう少し病気がよくなったら洗ってあげる、と看護婦に云われると、今度は両手を持ち寄って、爪の中の垢をほじくり初めた。何度も掌を返して、その裏表を長くあらためていた。額に垂れかかるほつれ毛を、非常に気にしてかき上げた。毛がかかっていないのに、何度も額を撫で廻すことがあった。氷嚢をのせる前には、必ず乾いた手拭で拭わせた。手指の爪の根元に白い部分が見えないからと云っては、病気がそんなにひどいのだろうかと怪しんだ。

「大丈夫でございますよ。」と看護婦が答えた。

「そうね。お腹も軽くなったようだから。」

 それでも彼女はやはり爪を気にしていた。

 明るみのない盲いたような不安が、次第に順造の心に喰い入っていった。何か不可抗的なものが、じりじりと迫ってきた。

 或る晩、彼女はどうしても起き上ると云ってきかなかった。順造と看護婦とでいくら説き聞かせても、更に承知しなかった。云うままに任せるの外はなかった。布団を積んでそれによりかかって坐らせた。

 彼女はほっと息をついた。

「私こんな嬉しいことはない。もう癒ったのも同じね。」

 不思議そうにあたりを見廻してる彼女の様子に、順造は涙ぐんだ。

「屹度癒るよ。」

 あたりがしいんとしていた。

「あなた!」

 秋子は突然高い声を出した。眼を見開いて障子の方を見つめていた。彼はその視線を辿った。……と、ぞっと震え上った。

 障子の腰硝子に人影が見えていた。眼玉ばかり大きな骸骨に似た顔が、ささくれ立った乱髪に縁取られていた。それが細長い首の上にのっかっていた。その下の方に、レントゲンで見るような骨ばかりの細い手が、何かを抱いてる格好に組み合されていた。抱かれてるのは大きく張り出した腹部だった。──その全体の姿が、じっと室の中を覗き込んでいた。

「おかしいわね。彼処あすこにもあなたが坐ってる。」

「え!」

 順造はまたぞっとした。瞬間に、硝子の人影は首を横にねじ向けた。

「いや! 二つになっちゃ。」

 秋子が彼の方をじっと見ていた。

 彼は漸く我に返った。彼が見たのは秋子の影で、秋子が見たのは彼の影だった。と分りはしたが、そのことが変に気にかかった。

 彼は立ち上って、電気の位置を変えた。

「これでもう、二つになることはないよ。」

 いやに真剣な気持になっていった。

「何だか薄暗いようじゃないの。」と彼女は云った。それから一寸間を置いた。「息苦しいから、戸を開けて下さらない?」

 彼は彼女の手を執った。冷たい手だった。

「だってまだ夜じゃないか。」

「まだ夜は明けないの?」

 彼はじっとして居れなかった。そんな筈はないけれど、夜明けかも知れないという気がした。そして立ち上りかけた。

 その時、恐ろしい音が起った。ある限りの力を搾って、堰き止めるものと突き破るものとが、ごった返してる渦巻きのうなりが、ごーう、ごーう………と秋子の喉から洩れてきた。一瞬の余裕も得られなかった。彼は秋子の上体に飛びついて抱きしめた。彼女の両の拳が肩のあたりへ、徐々に上ってきた。眼が据ったままぐるぐると廻った。大きな叫び声がした。看護婦が注射器を取って駆け寄った。光った針が皮ばかりの胸へずぶりと差された。がその時には、消え入るように凡てがひっそりとなっていた。

 僅かな瞬間のようでもあれば、長い時間のようでもあった。

 順造は昏迷した眼付であたりを見廻した。いつのまにか、も一人の看護婦も竜子も女中も駆けつけていた。何やら合図をしてる手付が眼に止った。彼は静かに秋子を寝かした。

 底知れぬ沈黙が落ちて来た。秋子は心臓痲痺のために、冷たくなっていた。


     五


 どんよりとした重い水が、或は渦を巻き或は淀み或は瀬をなして、小止おやみもない力で流れてゆく、そういう日々が続いた。順造は心の眼をつぶって、その流れのままに身を任せた。叔父と叔母とが万事を計らってくれた。

 二七日ふたなぬかの頃から、順造は心身の疲憊に圧倒されながら、漸くはっきりと周囲を意識しだした。凡てが寂寥のうちに落着いてきて、彼の世界へまとまりだした。その世界が吹き曝しだった。歯が一本抜け落ちた時、いくら口をきっと結んでも、何処からか冷たい風が喉元へ吹き込んでくる、そういう淋しさが彼の胸へ喰い込んでいった。

 何を考えるともなくぼんやりして、室の中を片付けていると、戸棚の隅から、紙に包んだメリンスや羽二重の布が二三個出てきた。順一が生れて間もなく、親しい友から貰った祝着だった。貰ったままで忘れられてしまっていた。

 彼は初めて眺めるような心地で、順一の顔を見守った。長い頭がいつしか円くなり、頬から口のあたりへまとまりが出来、額の皺がなくなって、ちらつく光の後を眼で追うようになっていた。頬にふっくらと肉がついていて、絹のようにすべすべした皮膚だった。

 その顔を指先でつっつくと、すぐに口を持ってきて、あちらこちら探し廻った。きょとんとした顔付をしたり、妙な渋め顔をしたり、大きく口を開いて泣き立てたりした。小指の先をくわえさせると、生温なまあったかい粘り気のある唇でちゅっちゅっと吸った。しまいには焦れだした。

「お可愛そうですよ、そんなにからかいなすっては。」と竜子は云った。

 彼女は順一を抱き取って乳をやった。円く張った真白な乳房が、順一の頬と同じくすべすべした皮膚を、惜しげもなく曝していた。

 順造は喫驚して眼を見張った。すぐ自分の側に余りにまざまざと、彼女の存在が感ぜられた。秋子の死から葬式から其後の混雑の間に、順一を介して、彼女はいつのまにか彼と相接して立っていた。彼は適当の視距離を保って彼女を見ることが出来なかった。

 大きな澄んだ眼だった。瞳の輝きが目玉の表面に浮いて見え、同情と揶揄との間を一瞬に飛び越し得る眼付だった。鼻が太くがっしりして、薄い唇が少しく反り返っていた。柔かみのある下脹しもぶくれの頬に、いつも薄く白粉を塗って、大きな束髪に結っていた。若々しさのうちに何処か緊りのない爛熟した肉付で、甘酸っぱい匂い──匂いとも云えないほどの風味が、その全身に漂っていた。凡ての点で清楚だと感じのする秋子とは異って、鈍重なずっしりとした容積だった。

 或る大学生と恋してその子を孕みまでしたが、子供が生れると間もなく男に捨てられ、一人で子供を育てていたけれど、どうも先の見込がないので、厄介になってる家──遠い縁故──の主婦さんに勧められて、子供を他家よそにくれてやり、自分は乳母奉公の決心をしたのだ、というようなことを彼女は語った。

「私奥様に代って、坊ちゃまを立派にお育て致しますわ。」と彼女は云った。

 そして実際、少しの手落もなく順一を守り育てながら、彼女は家事万端のことを取締ってくれた。日々の食事のことから、順造の身辺の世話までやいた。襯衣が少し汚れるとすぐに取代えさした。外出の時には新らしい足袋を揃えておいてくれた。外で傘を取違えてくると、仕様がないと小言を云った。

「ほんとに懶惰ものぐさでいらっしゃいますね。お服装みなりにも少しは気をつけなさらなければいけませんよ。……ふさいでばかりいらっしゃらないで、気晴しにお出かけなさいましよ。……香奠のお返しのことも、そろそろお仕度をなさらなければなりませんでしょう。……炬燵のお布団が穢くなっていますから、新しくお作り致しましょうか。」

 というようなことを、反り気味の薄い唇で、彼女はてきぱきと云ってのけた。

 順造はそれらの世話のうちに包み込まれ、眼の前を塞いでる彼女の肉体を見守りながら、心では過ぎ去った影を追っていた。

 カチン、カチン……と五六回くり返して、トン、トン、トン……と急な調子になった。その時彼は、もっと大きな釘でしっかりと棺の蓋を打付けてほしいと思った。出来るならば、彼女の死骸を鉄の箱にでも納めてしまいたかった。──カァン、カァン、カァン、カァン……と何時までも同じ単調な響だった。それが急調子の読経の声の間から、絶え間なく湧き上ってきた。すぐ膝の前で力籠めて伏金ふせがねを叩いてる半白の僧侶が、鋭い響によく鼓膜を痛めないものだと、彼はその時不思議に思った。──ガチャリ、とただ一度の響だった。胸の中に鉄の錘を投げ込まれるような残忍な感じだった。その時彼は、顔の筋肉を引きつらして、閉め切った火葬のかまの鉄の扉を見つめた。

 その三つの音が、長く彼の耳に残っていた。……骨揚こつあげに行って、白木の火箸の先で灰の中から、形のある遺骨を拾い出し、それを瀬戸の壷につめ、秋晴れの爽かな外光の中を、何とも云えない悲壮な清浄な気持で帰ってきた、その同じ気持を、何時までも保っていたいと願っていた、その下から、三様の音がともすると響いてきた。夜遅くぼんやりしてると、耳の底にこびりついてる音に、我知らず聴き入ってることがあった。

 彼は堪らない心地になった。

 如何に秋子を愛していたことか、そして、如何に愛し方が足りなかったことか!

 そして彼の心に浮んでくるのは、結婚当時の彼女だった。膝の上に抱きしめ、掌の中にまるめ込みたいような、小柄な淋しい可愛いい彼女だった。小さく清楚にちまぢまとまとまってる彼女だった。可愛さの余りに小憎らしくなって、こづき廻した事もあったが……。

 遺骨は折を見て国許の墓地に埋めるまで、寺へ預けておくつもりだったが、四十九日が過ぎると、順造はそれを家に持って来て、押入の片隅を仏壇にしつらえ、其処へ丁寧に安置した。

「これが坊やのお母ちゃんだよ。」

 順一を抱いて来て、その前を往き来した。心持ち右と左とびっこの眼で、何処からかじっと見られてる心地がした。

 この児を見守ってるのだ!

 然し、順一に母親の務めをしてるのは竜子だった。彼女は殆んど本能的な愛で順一を庇護してるかと思われた。一寸順一が泣声を立ててもすぐに飛んで来た。おおいい児ちゃん、と云って頬ずりをしていた。順一が風邪の気味だと、慌てて医者へ俥を走らせた。帰って来て、しどけない坐り方をしながら、順一を胸に抱きしめた。

「よかったわね、何でもなくて。」

 大きく揚羽蝶を染め出した羽二重の帯に、派手な小紋金紗の羽織をつけていた。方々へ香奠返しをする折に、秋子の形見分かたみわけとして貰ったのを、袖丈を縫い直した衣類だった。

 順造は妙な気持で彼女の姿を眺め初めた。

 順一が少し熱を出すと、彼女は用を悉く女中に任せて、その枕頭につきっきりでいた。

「自分の子供に逢いたくはないかい。」と順造は尋ねてみた。

「いいえ、もう他人ひとにやってしまったものですから。」

「それでも始終考え出すだろう。順一とどちらが可愛いい?」

「それはお坊ちゃまの方でございますわ。私お坊ちゃまを自分の児の……自分の児より幾倍可愛いいか分りません。乳を上げてるばかりでなく、何だか深い御縁があるような気がしまして……。」

 そういう彼女の気持が、彼にはよく了解出来なかった。じっとその顔を眺めてやった。

「順一は仕合せだ。」

 独語の調子で云い捨てた彼の言葉を、彼女はよそ事に聞き流して、ぼんやり室の隅を見つめていたが、ふとしみじみと云い出した。

「奥様はほんとにお仕合せでいらっしゃいました。旦那様のお腕に抱かれて息をお引取りなさいましたのですもの……。」

 順造は物につき当ったような気がして黙り込んだ。秋子の臨終のことがまざまざと記憶の中に蘇ってきた。その時彼女が生きていた世界のことを思うと、眼の前が真暗なものに閉された。

 秋子が生きていてさえくれたら!

 同じような静かな夜だった。虫の声が聞えない代りに、しいんと凍りつくような底冷そこびえが感ぜられた。眼の前の女が、順一の枕頭で看護してる女が、秋子であってくれたら、とふと思ったのが、いやに気分にこびりついてきた。竜子の何だかもやもやとした過剰の肉体から、むず痒いような反感と嫌悪と、また同時に好奇心とを唆られて、彼は不機嫌に黙り込んでしまった。

 竜子も黙り込んでいた。寝ている順一の赤い顔が、静かに静かに皺を寄せて、それがしまいには無邪気な微笑に変った。

「あら、何が可笑しいんでしょう。」そして竜子は順造の方を顧みた。「夢をごらんなすってるのかしら……それとも胞衣えなに引かされてでしょうかしら。」

 順造はふいと立ち上った。

 夢をみてか、それとも胞衣に引かれてか……その微笑が、底知れぬ闇の中まで、秋子の死へまで、根を張っていた。

 彼は恐ろしい場所をでも遁れるような心地で、離れの自分の室へはいった。ことりとの物音もしなかった。彼方の室に、竜子と順一とが居ることは分っていたが、分娩の唸りとも瀕死の唸りともつかない、暗い鈍い底力のある音が湧き上って、腹だけ脹れ上った骸骨の怪物が、影絵のように浮出してきた……。

 秋子ではない、秋子ではない!

 秋子は押入の中の骨壷に、清浄な灰となってはいっていた。

 彼は押入の襖を開いた。香を焚いた。諸行無常……というよりも寧ろ、凡てくうなり、その香煙が静かに立ち昇った。白布の結え目を解き、箱を開き、壷の蓋を取ると、所々黝ずんだ仄白い遺骨が、八分めばかりはいっていた。

 秋子、秋子!

 身体中が冷たくなって、髪の毛穴がぞーっとした。真白な骨片を一枚取って、歯でがりがりとやった。塩辛い味がして口の中で融けて無くなった。手に残ってるのを、またがりがりとやった。唾液を飲み込むと、胸がむかついてきた。じっと押え止めてるまに鎮まった。しいんとなった。

 彼ははっとして飛び上った。室の入口から秋子の真白い顔が覗いていた。と思ったのは瞬間で、竜子の顔に変った。それが石のようになって、こちらを見つめていた。

乳母ばあや!」

 喫驚するほどの大きな声が出た。

「何をしていたんだ!」

 彼は飛びかかって、無我夢中で殴りつけた。彼女の身体がへなへなになって倒れたのを感じた。女中が駆けつけて来た。彼は腕を組んでぼんやりあたりを見廻した。横坐りに片手で身を支えながら震えてる竜子と、呆気に取られてつっ立ってる女中と、……廊下の隅が薄暗かった。

「散歩に行ってくる。」

 云い捨てて置いて、袖からつき込んだ左手でぐっと腹を押えながら、わざとゆっくり構え込んだ。金入を懐にし、煙草を袂に入れ、外套を着込み、帽子を被って、外に出た。

 寒い夜だった。西の空に傾いてる月の面を掠めて、白い雲が空低くちぎれ飛んでいた。

 彼は明るい大通の方へ歩いていった。風を捲き起して轟然と走り過ぎる電車の響と、何処までも続いてるレールの蒼白い輝きとが、夜更けの寒い街路に快かった。彼は真直ぐにそのレールに沿って歩み続けた。何もかも打忘れて大地の上に一人つっ立ってる気持だった。提灯をつけ大きな荷物を積んで通り過ぎた怪しい荷車が、その気持にぽつりと黒い影を落していった。

 下らないことにこだわる必要はない!

 それでも、寂しい町並に、一軒の閉め残った硝子器具店が、ぎらぎらした光りの乱射を投じてるのを見た時、彼はその中に石を投り込んでやりたくなった。石を拾うために屈もうとまでした。が、俄に馬鹿々々しくなった。彼はほっと大きく息をした。

 やがて歩き疲れると、眼に止った相当のカフェーへはいった。五六人の客が居た。その方へ背中を向けて、ウイスキーやカクテールの杯をちびりちびりと嘗めた。煖炉の火がいやにかっと熱くて、そのくせ身体は温まらなかった。彼は強いて杯の数を重ねた。腹も空いていた。料理を三四品食べた。

 電車が無くなった頃、彼はぼんやりした酔心地で家に帰って来た。寄せられる玄関の戸を押し開いたが、誰も出て来なかった。自分で締りをして、茶の間に通った。火鉢に鉄瓶の湯が沸いていて、茶道具が揃えてあった。茶をいれて飲んだ。

 家中がひっそりしていた。鼠の音もせず、人の気配もしなかった。彼は変な気持になった。女中部屋を覗いてみると、女中はぐっすり眠っていた。座敷の方を見ると……喫驚した。

 竜子が、順一の枕頭に、石のように固くなって端坐していた。

 順一の病気がひどいのかしら、それとも……。

 二三時間前のことが、眼にはっきり見えて来た。それを無理に彼は突きぬけようとした。つかつかとはいって行って、順一の横に坐った。手を伸して額に触ってみたが、生温なまあったかいだけで、熱はなさそうだった。

「様子が悪そうなのかい。」

「いいえ。」と竜子は顔を伏せたまま答えた。

「どうしたんだい。」

 返辞がなかった。彼は暫く待ってから、火鉢の方へいざり寄って煙草を吸った。

「旦那様は、」と竜子は云った。「お坊ちゃまが可愛くないのでございましょうか。」

 何のことだかよく分らないので、その方を見返すと、竜子の真剣な眼付に打たれた。彼はぎくりとした。

「私奥様から、坊やのことを頼むとくれぐれも云われておりますし、それに、自分の児は他人ひとにやってしまって、お坊ちゃまが何だか自分の児のような気がして、可愛ゆくてお可哀そうで、離れられませんけれど、いろいろ考えますと、やはりお暇を頂いた方が宜しいようでございますから……。」

 ゆっくりした言葉であったが、その調子が上ずっていて、いつもの彼女ではなかった。彼はじっとその顔を見つめてやった。彼女は口を噤んだ。

「嘘だ。」と彼は叫んだ。「お前は僕に意見をするつもりなんだろう。」

 彼女は顔色を変えた。

「何を仰言いますの。」

「そうだ、僕に殴られたのが口惜しいんだろう。」

「いいえ。」きっぱり答えておいて、それから俄に彼女は身を震わした。「こわいんでございます。恐くって……恐くって……。」

 彼は息をつめた。ぞっとした。障子の硝子に映ってる電燈の影を見つめてると、眼の中が熱くなってきた。涙が眼瞼を溢れた。それに自ら気付くと、涙が後から後から湧いてきた。

「許してくれ、僕が悪いんだ。」

 彼は竜子の手を執った。がっしりした太い手だった。それが力強かった。彼女の方へ身を寄せると、彼女の方も進んできた。逞しいずっしりとした彼女の腕の中に、彼は我を忘れてもぐり込んでいった。

「旦那様!」

 口元の肉を引きつらして、泣いてるのか笑ってるのか分らない皺を刻みながら、眼の奥で微笑んでいた。

 底のない泥沼に陥ったのと同じだった。彼は踠けば踠くほど、その勢に駆られて没していった。しまいには、自ら進んで絶望的に没していった。

 翌朝、彼は離れの押入の中に、秋子の遺骨が出しっ放しになってるのを見出した時、冷たい脂汗が額ににじんだ。

 それが夜になると、怪しい幻覚の形を取ってきた。

 竜子の前を逃げるようにして、離れの室にやって来、窓の下に据えてる机に向うと、丁度後ろが押入になっていた。それがしきりに気にかかった。いくら努力してもいつのまにかそちらへ注意を惹かれていた。音もしないですうっと襖が開いて、白い布がはらりと解け、白木の箱や骨壷がまざまざと見えてきた。何か大きな力でねじ向けられるかのように、首を徐々に振り向けてみると、押入の襖は閉まっていた。下半分がただ白くて、上半分に電燈の笠の影を薄暗く受けていた。

 彼は怪しい衝動に駆られた。立ち上って押入へ歩み寄り、骨壷を開いて、中の白いやつを歯でかじった。食塩と灰とを混ぜて噛むような味だった。不気味な戦きが背筋を走った。慌てて室の中を見廻した。誰も居ないのを見定めて骨壷をしまった。

 また暫くすると、彼は同じ衝動に駆られた。立ち上って押入へ歩み寄った。総毛立った顔をして眼を見据えているのが、我ながら不気味に意識された。一寸立ち止ると。ぞっと竦んだ。

 彼は堪らなくなって室から飛び出した。廊下の曲り角が陰々として薄暗かった。血の気を失った顔で竜子の前に現われた。

 それを竜子は待ち受けていた。

 ただ母性のみが持ってる大きな抱擁力だった。子供をも大人をも本能的に抱き込む、鳥黐とりもちのような粘り気のある力だった。彼はほっと息をついた。

 然し間もなく、忌わしい反撥の気がむらむらと彼の心に湧いた。彼は彼女を押しのけて立ち上った。

 眼に険を帯び、口元から頬へ皮肉な色を漂わせて、そのどっしりとした身体全体で、彼女は彼方をじろりと見やった。

 あなたは後悔していらっしゃいますね!

 然し口ではそう云わなかった。

「どうなさいましたの?」

 彼は何とも答えないで、室の中をのっそり──と意識した歩調で歩き廻った。

「坊ちゃまが……。」

 彼女が声を低めてるのが可笑しかった。眼を覚したって構うものかという気がした。わざとその枕頭を力足で歩いてやった。

 順一は眼を覚して泣き出した。竜子は慌てて乳を含ました。

「むりに寝かしつけようとばかりしないで、少し抱いておやりよ。」

 彼女は黙って、順一が眠るまで待った。それから彼の方へ向き直ってきた。

「私を憎んでいらっしゃるんでしょう。それなら、私出て行きます。」

「出て行けと誰が云った!」

 理不尽な言葉を浴せかけてやったが、彼女は反抗して来なかった。下を向いたまま、髪の毛一筋揺がさないで、じっと坐っていた。

 鎗で突いても突き通せない、じいわりとした而も深い根を張った、重々しい容積という感じだった。彼が其処を立去っても、もう見向きもしなかった。

 彼は一人で苛ら立った。

 夜遅く眼を覚すような時には、心が冷たく慴えきって、何となくあたりが見廻された。誰も居なかった。八畳の室ががらんとしていて、孤独な自分の姿をぽつりと浮び上らせた。彼はなお室の隅々まで見渡した。誰かが隠れているかも知れないという気がした。

 その誰かが、無意識に探し求めている誰かが、実は秋子であることに気付くと、彼は堪らない気持になった。

 秋子、秋子!

 障子の硝子に映ってる彼の影を見て、二つになってはいや、と云った彼女のことが、はっきり思い出された。

 彼は布団から匐い出して、半身で伸び上ってみた。後ろに電燈の光を受けた真黒な影が障子の腰硝子に薄すらと映っていた。瞳を凝らすと、それが次第に濃くなってきた。硝子のすぐ向うまで寄って来て、今にも室の中に飛び込んで来そうだった。

 妙だぞ、と思うと同時に、彼はにじり寄ってる自分自身が恐ろしくなって、つと身を引いた。拭うがように凡てが消えて、雨戸の白い板が向うを限っていた。

 かすかな……音とも云えない音が、何処からか響いてきた。彼は耳を傾けた。釘を打つ音、伏金の音、火葬窯の扉の音……でもなければ、分娩の唸り、瀕死の唸り、でもなかった。何だか滅入るような、焼かれた骨が灰になってゆくような……気配だった。自然と押入の方が顧みられた。ぞっと身震いがした。

 ふらふらと立ち上って廊下に出た。黒い影が掠め過ぎた。彼は顔色を変えた。不吉だ! という気がした。向うの室にはいってみると、順一と竜子とが床を並べて寝ていた。秋子が分娩した時の通りの位置だった。

 そういうことが幾度もあった。

 竜子もいつしか、彼の様子に気付いていた。

「屹度あの骨壷こつつぼがいけないんですよ。お葬式まで寺へお預けなさいましては?」

 彼は取合わなかった。

「私もう嫌でございます。恐くって……戸を閉めにもはいられません。あんな所へ骨壷をお置きなすって、どうなさるおつもりなんでしょう?」

 終りを独語の調子で呟いて、何かを見つめるような眼付をしていた。

 しとしとと雨が降って、今にも雪になりそうな宵だった。

「じゃあどうしろと云うんだ?」

 彼は突き放すつもりで、声の調子を尖らせた。彼女はひるまなかった。

「御自分でなさるのがお嫌でしたら、私が何処かへ片付けます。」

 後は怒鳴りつけようとしたが、彼女の様子がいつになく真剣だった。まともにじっと彼の眼の中を覗き込んできた。

「俺がするよ。」と彼は叫んだ。

 竜子の勝手にさせてなるものか!

 彼は或る懸念に囚えられた。離れの室へ走って行って、押入を開いてみた。骨壷はちゃんと元の位置に在った。彼はそれを両手に抱えて、室の中をうろついた。本箱が眼に止った。小さい方の箱の書物を投り出して、その後へ骨壷をしまった。がちりと錠を下した。その音が胸に響いた。じっと眺めてるまに思いついて、白紙を蓋の硝子一面に張りつけた。清らかな明るみへ出たという感じがした。嬉しかった。

 彼は鍵を指先でくるくる廻しながら、竜子の所へ行った。

「おい骨壷をしまったよ。」

「え、何処に?」

「本箱の中に……。硝子に紙をはりつけたら、非常に清らかな感じがするようになった。」

 彼女は薄い唇を尖らせ、眼の光を二三度ちらちらさした。それから上目がちに眼を見据えて唇を噛んだ。

「そんなに大切になさるのでしたら、毎晩抱いてお寝みになすった方がお宜しいでしょう。」

 彼はかっとなった。が、心の底から別の感情が、彼女の言葉に暗示された忌わしい感情が、熱を持って浮び上ってきた。啜り泣きとも憤りともつかないのが、喉元にこみ上げてきた。

 それが彼女にも反射した。彼女はいきなり片膝を立てて、彼の方へにじり寄ってきた。

「私の身体をどうして下さいます?」

 敵意の籠った抱擁のうちに、彼は身を投げ出した。

 今に見ろ、今に見ろ!

 眼をつぶりながら、震えていた。


     六


 三月の半ばに、順造は竜子の妊娠を知った。

 彼女は頭が重く痛いと云ってぶらぶらしていた。食慾が非常に減じた。総毛立った蒼い顔色をして、何をやり出してもすぐに放り出し、眉根をしかめて黙り込んでいた。朝は遅くまで寝て、晩は早く床にはいった。うっとり夢みるように考え込んでるかと思うと、急に眉根をしかめて苛ら立った。白粉の匂いを嫌がって、蒼脹れのした穢い素顔のままでいた。そして或る朝、食後間もなく、食べた物を皆吐いてしまった。順造は漠然とした不安を覚えた。腹膜炎! そういう考えが真先に浮んだ。医者にせてごらんとしきりに勧めた。然し彼女はそれに従わなかった。診て貰っても無駄だと頑張った。二度目に食物を吐いた時、順造は叱りつけた。医者の家へ行かなければ、僕が医者を呼んで来てやる、とまで云った。

「病気ではございません。」と彼女は答えた。

「ではどうしたんだい。」

 彼女は暫く考えていたが、低い声で云った。

悪阻つわりのような気がします。」

「え、悪阻!」

 順造は飛び上らんばかりに驚いた。

「本当かい?」

「ええ、屹度そうに違いありませんわ。」

 眼を一つ所に定めて、心で胎内を見守ってる様子だった。

 順造は初めの驚きが鎮まると、心がどしんと落着く所へ落着いた気がした。彼女から顔を見つめられると、冷かな調子で云った。

「じゃあ身体を大事にしなけりゃいけないよ。」

 ふいに暗室の中に飛び込んで、暫くつっ立ってるうちに、闇黒に眼が馴れてきて、ぼんやり物の影が見えてくる、その心地に似ていた。

 運命! とでも云えるものが、頭の上にじかに感ぜられた。過去の全景が、影絵のように浮出してきた。秋子の儚い運命が、茫と燐光を放っていた。順一の……。

 星が光ってる!

 あの時の感じが、胸の中に甦ってきた。それを如何に長く忘れていたことだろう!

 順一はまるまる肥っていた。瞳の光が澄んでいて、目玉の動きの遅い所が、秋子によく似てるようだった。鼻筋が通って唇が心持ち歪んでいた。笑う時左の頬に可愛い笑窪が出来た。ちょっちょっと舌を鳴らしてみせると、にっこり笑った。何かに見とれながら、うぐんうぐんと訳の分らない声を立てた。いつのまにか赤味が取れて真白な色になり、房々としたしなやかな黒い毛が、額に垂れて先を少し縮らしていた。円っこい凸額おでこだった。

 何を考えてるのかしら?

 余りに頼り無い小ちゃな存在だったのが、いつしかしっかり根を下して、自分の運命を荷おうとしていた。その存在と運命とが──以前別々なものとなって順造の眼に映ったのが──一つに結び合されるのを見て、彼は突然云い知れぬ愛着を感じ出した。

 胸に抱き取って、いつまでも庭を歩いてやった。和やかな初春の外光が、その瞳にちらちら映っていた。まぶしそうな渋め顔をしているのが、たまらなく可愛かった。

 そういう彼の様子を、竜子は不思議そうに眺めた。

「どうしてそう急に可愛くおなりなすったのでしょうね?」

 その眼は皮肉な色に鋭く輝いていた。

 お前が妊娠したせいだ! と彼は心の中で叫んだ。理屈ではなかった。じかにそう感ぜられた。

 彼は出来るだけ順一の側についていた。他の座敷に居る時順一の泣声が聞えると、すぐ飛んで行った。なぜ泣かせるんだ、と竜子を叱った。順一が顔を渋めてると、おしっこだ、襁褓おむつを取代えてやれ、と竜子へ云いつけた。一日置きには風呂を沸かさせて、自分で入れてやった。

 恐ろしい闘いが来そうな気がした。

 然し彼は、つとめて竜子へ滋養分を取らせた。毎日牛乳を二合は是非とも飲ませた。力のいる仕事は皆女中にやらせた。

 何のためか、彼は自分でも分らなかった。

 二人で差向っていると、彼は知らず識らず竜子の腹部に眼をつけていた。

「まだ大きくなりはしませんですよ。」

 彼女は笑った。がその笑いは、中途でぴたりと止んだ。

「なぜそんなにお腹ばかり気にしていらっしゃいますの。」

「お前は恐ろしくはないのか。」

「え? なにが?」

 何がだか、彼にもはっきりとは分らなかったが、大きく膨れ上った腹の幻が、それは妊娠の腹でも腹膜炎の腹でもなく、ただ怪しく張り切ってる太鼓腹が、頭の底に浮び上ってきた。

「大丈夫でございますよ。」

 竜子はややあって平然と答えた。そして太い臀を少し横坐りにどっしりと構えて、力一杯に押しても小揺ぎだにしそうになかった。

 勝手にするがいいや!

 一人で、何物かに無性にぶつかってゆきたい気持で、順造は家の中をあちらこちら歩き廻った。その歩みの拍子につれて、いろんな考えがひょいひょいと浮んできた。──俺は一体竜子をどうしようというのか、俺の子を腹に宿してる竜子を。結婚しようというのか、別れようというのか、このままの関係を続けてゆこうというのか。俺は竜子を愛してるのか。それとも憎んでるのか。……然し俺のうちには、何等のはっきりした意志も感情もない。凡てが腐爛しきった泥濘だ。その泥濘の中で、俺が本当に愛してるのは秋子一人だ。ああ秋子、秋子!

 亡き秋子に対して、竜子は一体何ものなのか。そして、秋子と俺との只一人の子の順一に対して、竜子の腹の中に宿ってるものは、一体何ものなのか。……いや何ものだろうと構やしない。今に、今に……。そうだ、腹がむくむくと脹れ上ってきて、セルロイドの人形の腹のように張りきって、叩いたらぽこんぽこんと音を立てて、どうにも始末におえなくなって……。

 ああ秋子! お前は……。

「どうなさいましたの?」

 薄い反り返った唇をぽかんと開いて、竜子は一心に彼の方を見つめていた。彼はそれをじっと見返してやった。

「真蒼なお顔をして……。」

 云いさして彼女は俄に口を噤んだ。目玉の表面にぎらぎらした輝きが浮んで、顔全体からすっと血の気が引いていった。五秒……七秒……石のような沈黙が続いた。と彼女はふいにはらはらと涙をこぼしながら、それを自分でも知らないらしく、彼を見つめたまま口走った。

「あなたは、私を憎んでいらっしゃるのでしょう。私を……私のお腹の子を憎んでいらっしゃるのでしょう。そして、今のうちに、その子をどうにかしてしまいたがっていらっしゃるのでしょう。」

「え、今のうちにお腹の子を……。」

「ええ、そうですわ。そうですわ。口に出して云えないものだから、いろんな様子で私に悟らせようとなすっていらっしゃるのです。私に骨の折れる仕事をさせなかったり、うまい物を食べさせたりなすってるのも、本当の気持からじゃなくって、みんな皮肉に私をいじめるおつもりなんです。そして表面うわべだけやさしくしながら、心のうちでは恐ろしい事を、口に云えないような恐ろしいことを、一人でたくらんでは私にそれを押しつけようとなすってるのです。私がいくら馬鹿だからって、それくらいのことは分ります。でも私、いやです、いやです。そればっかりはどうしても……。」

 両袖で腹をかこって、彼女はもう本当に泣きじゃくりをしていた。

「何を云うんだ、お前は! そんなことを頭に浮べるのさえだって、恐ろしいとは思わないのか。」

 だが、俺はそんなことを考えたことが果してなかったのかしら? 今度ばかりでなしに、順一が生れる前だって……。

 瞬間に閃めいたその考えに、順造は自ら喫驚して飛び上った。じっとしていられなかった。離れの室に逃げ込んでゆくと、白紙を張って秋子の骨壺を隠した本箱が、妙に白々しく取澄して見えた。彼はほっと安堵した気持になると共に、呆けたように頭が茫としてしまった。室の真中に敷いてあった布団の上に、ごろりと長く寝そべった。

 静かな晩だった。変に物音一つ聞えなかった。長い間たった。室の入口から真白な円いものが覗き込んで、暫くしてそのまますーと消えていった。何だったろう、とそんなことを彼はぼんやり考えた。

 いつのまにかうとうとして、薄ら寒さにはっと我に返った時、眠りながら考えていたらしい一つのことが、彼の頭にこびりついていた。

 どんなことがあっても、順一だけは立派に護り育ててやろう!

 今のうちに腹の中の子をどうにかするとかしないとか、そんな問題らしかった。順造は怪しい心地で起き上った。もう夜中過ぎのしんとした静けさだった。その静けさに耳を澄してると、訳の分らぬ不吉な不安さが寄せてきた。彼は立上って向うの室を覗きにいった。

 廊下に足音を立てないようにして、それから注意して障子を開いて、頭だけ差出して眺めてみると、覆いのしてある電燈の薄暗い光の中に、ぱっとした派手な友禅模様のメリンスの布団に、竜子と順一とがぬくぬくと眠っていた。順造はそれを暫く眺めていたが、やがてまた足音をぬすんで自分の室に戻っていった。そしてじっと腕を組んで坐った。

 俺は一体どうしようというのか。何を求めていたのか。

 昔からのことが、順一が秋子の腹に宿ってからのことが、影絵のような静けさで、彼の頭に映ってきた。

 そしてその夜順造は、二度も三度も竜子と順一との寝顔を覗きに行った。肉の豊かな頬辺をぐったりと枕につけ、大きな束髪の後れ毛をねっとりと頸筋に絡まして、横向きに片腕を長く差伸してる竜子の懐に、順一はその腕を枕に、仰向きになって、両手を肩のあたりにかついで、無心に眠り続けていた。二人とも殆んど息をしてないかのように、安らかにぐっすり眠っていた。順造はそっと寄っていって、順一の円っこい凸額おでこに一寸手をやってみた。ふうわりした温かさがあった。彼が手を引込めるとたんに、何を感じてか左の頬に軽く笑窪をよせて、口を少し動かしかけたが、そのまままた静かに眠ってしまった。死のように静かな、而も温い眠りだった。

 何という静かな眠りだろう! そして此処にも……。

 順造は悪夢からでも醒めたような心地になって、自分でも喫驚して、本箱の鍵を開いて、中から秋子の骨壺を取出して胸に抱いた。室全体が、心の中全体が、冷やりとしてしいんとなった。

 秋子よ、安らかに眠ってくれ! 順一も、竜子の腹の子も、皆安らかに眠ってくれ!

 戸の隙間から白々とした夜明の微光がさし初めた頃、順造はそっと雨戸をくって外に出た。露を含んだ爽かな夜明けだった。庭の木々に小さな芽が出かかっていた。片隅の枸杞くこの枝に、小さな実が所々残っていて、赤く艶々と光っていた。あの朝は、順一が生れた時は、薄紫の花が咲いていたっけ。

 そうだ、皆安らかに眠ってくれ!

 まだ星が一つ二つ輝き残ってるらしい仄かな夜明けの光の中に、順造は怪しい心乱れがして、室の中に戻っていった。そして頭から布団を被って、眠れ眠れ! と幻にでも呼びかけるように、胸の底でしつっこく繰返しながら、いつしかうとうとと眠っていって、それからは昏々と眠り続けた。竜子が順一を抱いて彼の室を覗きに来て、次には彼を揺り起そうとしたが、彼は夢中にその手を払いのけて、精根つきた者のように、いつまでも眠り続けた。

 午後になって順造は眼を覚した。起き上るとすぐ順一の所へ駆けていった。縁側に坐ってぼんやり考え耽ってる竜子の膝から、いきなり順一を抱き取って、室の中をよいよいして歩いた。きょとんとした真黒な眼が彼の心に喰い込んできた。

「竜子、お前もいい子を産むんだぞ。」

 ぎくりとしたように肩を震わして、竜子は彼の方を見つめた。蒼白い顔をして、息をつめて、蝦蟇のようにどっしりとした容積だった。

「いい子を産むんだ!」

 独語の調子で繰返しておいて、順造はははは……と呆けた笑いを洩らした。眼から涙が出て来た。そして自分で自分が分らないぽかんとした気持になって、順一を抱きながら、あちらこちら歩き廻った。

底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2)」未来社

   1965(昭和40)年1215日第1刷発行

初出:「中央公論」

   1922(大正11)年4

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※「姙娠」と「妊娠」の混在は底本通りにしました。

入力:tatsuki

校正:門田裕志、小林繁雄

2007年816日作成

青空文庫作成ファイル:

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