二つの途
豊島与志雄
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看護婦は湯にはいりに出かけた。
岡部啓介はじっと眼を閉じていた。そして心の中で、信子の一挙一動を追っていた。──彼女は室の中を一通り見渡した。然し何も彼女の手を煩わすものはなかった。火鉢の火はよく熾っていた。その上に掛ってる洗面器からは盛んに湯気が立っていた。床の間にのせられてる机の上には、真白な布巾の下に薬瓶が並んでいた。机の横には、吸入器や紙や脱脂綿や其他のものがとりまとめて置いてあった。草花の鉢の土も適度に湿っていた。終りに彼女は、病人の額にのせられてる氷嚢にそっと触ってみた。指先に冷りとした感触を受くると同時に、氷の塊りが触れ合う軽い音がした。彼女はあわてて手を引込めた。それから枕頭の硝子の痰吐を覗いた。円く塊まって浮いている痰の中に、糸を引いたような血の条が交っていた。
彼女が眼を挙げると、彼女の顔を見つめている啓介の大きな眼に出逢った。
「あら、眠っていらしたんじゃないの?」
「いや。」と啓介は答えた。
「先刻から?」
啓介は首肯いた。
「看護婦さんが出かける時から?」
啓介はまた首肯いた。それからこう云い出した。
「あの看護婦は実に現金だね。僕の容態が少しよくなると、看護服をぬいで普通の着物ばかり着ているが、また容態が悪くなると、看護服を着出すからね。この一週間許りは看護服ばかり着ている。」
信子は庭の方へ眼を外した。縁側の障子にはまってる硝子で四角に切り取られた庭は、陰欝に曇った寒空の下に荒凉としていた。雪と霜とに痛んで枯れはてている芝生の間には、湿気を帯びた真黒な土が処々に覗き出していた。
「お前は、」と啓介は云った、「泣いてるね。」
「いいえ。」と信子は答えた。そして鼻を一つすすって、彼の方を振り向いた。
「では眼を大きく開けてごらん。」
彼女はちらと微笑の影を口元に浮べて、眼を大きく見開いた。すると急に、眼の底が熱くなって、大粒の涙がはらはらと溢れ落ちた。彼女は其処につっ伏してしまった。
「そら泣いてるじゃないか。」
彼女は肩を震わしていた。あたりは静かだった。
「もう泣かなくてもいい。」と啓介はやがて云った。「僕が悪かった。許してくれ。僕は時々妙な気持に囚えられる。それは日が陰ってくるような気持ちだ。今迄明るかったものが、急に陰欝になってくる。凡てが頼りなく淋しく思われてくる。すると、自分を思い切って呵責みたいような、また一方では何かに縋りつきたいような、訳の分らない感情に巻き込まれてしまう。腹を立ててるのか悲しんでるのか、自分でも分らない。多分その両方だろう。お前が一人でじっと坐っているのを見ると、お前を泣かしてみたいような……そら、僕達はよく二人で、夕方なんか黙って庭に眼を落しながら、心では暮れてゆく淋しい空を眺めて、いつまでもじっとしていたことがあったろう。しまいにお前は、いつのまにか涙を流していたね。……ああいうお前の姿を見たいような気になってくる。そしてまた一方ではそういう自分の心に一種の残忍な苛ら立ちを感じてくる。一体僕は何を求めているんだろう? 自分でも分らないんだ。そしてよくお前の心を痛めるようなことを云ったりしたりする。許してくれ。実際長い間こうして病気で寝ていると、何処か心の中に平衡が失われてくるものだ。お前を苦しめてるのなら許してくれ。僕はお前の幸福を願っている。此度はもう僕も助からないかも知れないと……。」
「いえ、いえ、そんなことを仰言っちゃいや。」
信子は彼の蒲団の襟を両手に握りしめて、耳を塞ごうとでもするように強く頭を打ち振った。こみ上げてくる咳を押し止めて彼が顔を渋めると、彼女は急いで痰吐を取り上げた。それから枕頭のハンケチで彼の顔を拭いてやった。額には粘り気のある汗が出ていた。それを拭き取ると、氷嚢をよくあてがってやった。
「苦しかなくって?」
「いいや。」
「それならいいけれど、なるべく静にしているようにって先生も仰言っていましたから。」
「うむ、これから余りお饒舌は止そう。それに……、ああ僕はどうしてこうなんだろう。何か云うと、屹度お前を悲しませることばかりしか口に出て来ないんだ。」
彼は眼を閉じた。眼窩が落ち凹んで、鼻と頬骨とが目立って聳えていた。鼻の下と顎とには、薄ら寒い髯が伸びかかっていた。
「足をさすって上げましょうか。」と信子は云った。
「いや、今別にだるくないから。」
信子は彼の顔を暫く見ていたが、それから、其処に在った雑誌を膝の上に取り上げた。いい加減の所を披いて、見るともなく行を辿っていると、四角な活字の面がちくちくと彼女の眼を刺戟した。その刺戟に馴れてくると、各々の行が静かな波動をなして浮き上ってきた。彼女はその波動に頭をうち任して、何にも考えまいとした。
「信子!」……その声に喫驚して彼女が顔を上げると、啓介がじっと彼女の方を見ていた。
「お前はね、」と啓介は云った、「僕がもし死んだらどうするつもり?」
彼女ははっと息をつめて眼を見張った。
彼はまた云った。
「僕は死にはしない、大丈夫だ。然しもし万一死んだとしたら、お前はどうするつもり?」
彼は唇の片隅に微笑らしい影を浮べて天井に眼をやっていた。それを見て信子は一寸心を落付けた。そして深く溜息をしながら答えた。
「私、またカフェーにでも出ますわ。」
啓介は彼女の方へ顔を向けた。額の氷嚢が滑り落ちたのを彼女が取ろうとすると、彼は頭をずらしながら、その手をつと握りしめた。彼の顔には穏かな光りがさしていた。彼は彼女の顔にやさしい眼を据えた。
「よく云ってくれた。お前はいつも正直だね。大抵の女は、男からこんなことを聞かれると私も死んでしまいますとかなんとか答えるものだ。然し死にはしない。お前は本当のことを云ってくれる。今の僕にはそれが一番嬉しい。」
信子は俄に頬の筋肉を引きつらして、肩を震わした。彼の言葉から或る残酷な傷を心に受けたかのように、そして自ら訳が分らずに、而も否定の意味でではなしに、激しく頭を振った。それから眼を閉じた。きっと寄せた両の眉根に、痛ましい肉の脹らみがぽつりと出来ていた。
啓介は驚いてその顔を見つめた。
「どうしたんだ、え?」
彼女は答えなかった。
「僕が嬉しいと云ったのが悪い?」
「いいえ、いいえ、」と彼女は云った、「そんなことじゃないの。……だって、あんまりですもの……。」
啓介は漠然と、彼女の感情の動きを理解した。然し彼の心には、或る晴々としたそして痛いような明るみがさしていた。
「余りいろんなことを考えないがいい。」と彼は云った。「お前は長い間の看病に弱りすぎている。……然し真実は貴いものだ。真実を回避しようとしてはいけない。僕の云った本当の意味は、今にお前にも分る。」そして彼は水枕の上に頭を仰向に落付けた。「額の氷を新らしくして来てくれない?」
「ええ。」と彼女は答えて、なお暫く坐っていた。それから氷嚢を持って立っていった。
彼はまじまじと天井を眺めた。室の中は薄暗くなりかけていた。彼は心の中にさしている落付いた明るみを取逃すまいとするようにして、仄白い天井板に眼を据えていた。
信子が氷嚢を取代えて戻って来ると、啓介は涙ぐんでいた。彼女が、氷嚢の紐を台木に懸けて彼の額に適度に当てがってくれる間、彼は眼を閉じていた。
「木下君はまだ帰って来ないか。」と彼は尋ねた。
「ええ、まだですわ。」
「この頃よく写生に出かけるようだね。」
「何でも、非常にいい景色を見付けたとか仰言っていらしたわ。」
二人はそれきり黙っていた──看護婦が湯から戻ってくるまで。
木下正治は、絵具箱のカバンを肩にかけ、十五号大のカンヴァスを重そうに左の小脇に抱え、右手を外套のポケットにつっ込んで、首垂れながら、荒凉たる晩冬の野を帰って来た。兎もすると、彼の足は引ずり加減になっていた。自分の製作に対する焦燥と不満とを心の底に押えつけて、じっと考えに耽っていた。自分の製作が何物かに裏切られていると同じように、自分の心も何物かに裏切られてはしないかという、漠然とした不安の念が寄せて来た。然し彼の瞑想は、その何物かの本体を探りあてようとする努力よりも、その何物かを抑えつけようとする努力の方に向いていた。
野の間をぬけて、大きな銀杏の木のある人家の角を曲って、自分の家が向うに見える処まで来ると、彼はふと顔を挙げて思い出したように足を早めた。
家にはいると、丁度信子が其処に顔を出した。彼女の窶れた顔に浮んでいる弱々しい微笑の影を見ると、彼は我知らず安心の情を覚えた。そしてそのまま画室に通った。彼が絵具箱や其他を卓子の上に置いていると、信子が扉口に佇んで彼の方を眺めていた。
「今日は如何でしたの?」と彼女は尋ねた。
「駄目です。」
そして彼が外套を脱いで其処に投り出す途端に、卓子の上の水差が引っくり返った。水は卓子の一部を濡らして床の上に流れた。信子は走り寄って、卓子の上の物を片附けた。
「いいですよ、」と木下は云った、「婆やがしますから。」
然し信子はすぐに雑巾を持って来て拭き初めた。
木下は病人の室の方へ行った。
啓介は黙って彼の顔を見上げた。
「どうだい、今日は。」木下は其処に足を投げ出しながらこう云って、枕頭の容態表を覗き込んだ。「まだ熱が下らないんだね。」
「うむ、何しろ長い間の衰弱が重ってるもんだから。」と啓介は弁解するような調子で答えた。
「食慾はどうだい?」
「さっぱりおありになりませんの。」と看護婦が答えた。
「困ったね。何か食べたいものはないかね。」
啓介は暫く黙っていたが、やがて木下の方に眼を向けながら云った。
「それよりも、君の製作はどうだい?」
「どうも思うようにゆかない。」
「何を描いてるんだ?」
「風景だがね……。」
木下は中途で口を噤んだが、暫く思い迷った後に云い出した。
「どうも変だ。」
「何が?」
「僕は一寸気を惹かれる景色を見出した。枯れた樫の大きいのが一本立っていて、その根本に冬枯れの叢がある。雑草の枯れた茎が六七本寒そうに残って風に戦いでいる。その横には、枯芝の野が広がっている。僕はそれに一寸或る種の興味を見出した。樫の幹の下半分と、根本の叢と、周囲の芝生とを、四角く画面に取り入れると、全く荒廃そのものだ。樫の幹を少し右手に寄せて構図の中心とし、根本の叢と芝地とで画面の下半分を塗りつぶす。背景は一切取り入れない。全体を少し高めに浮き出さして、その向うは陰欝な冬の曇り空とする。生命のある物は何もないんだ。樫の幹は枯れている。叢も芝生も枯れている。地面は物の芽ぐむのを許さない冷え切った土、空は暗澹とした冬の雲。太陽の暖かい光りを受けない一面の灰色だ。僕はそれで、荒廃そのものを、冬そのものを、象徴しようと思った。この頃の曇った天気は、特に好都合なんだ。僕は光りの鈍い午後に、よく其処へ出かけて行った。所が……、君、聞いてて疲れやしない?」
「いや、僕はいつも退屈しきってるから却っていいんだ。」
「僕はこう思ってる、凡て存在するものには生命があると、もしくは生命を与え得ると。存在の本質に探り入ると、凡てが生命から発する愛のうちに一つに融け込むものだ。然し一方に於ては、死そのものだって肯定出来るだろうじゃないか。生命と死とは存在の両面だからね。で僕は、僕の画面を死の息吹きで塗りつぶそうと思った。所が実際描いた結果を見ると、樫の幹は本当に枯れたものになってはいない。表皮だけが枯れて、中は生きている。春になったら芽を出しそうなものになっている。叢も芝生もそうだ。地面からも、物を芽ぐます力が泌み出している。陰惨な空からも、晴々とした明るい蒼空を思わする色合がどうしてもぬけない。作意と出来上った結果とが背馳してしまうんだ。僕の製作は何物かに裏切られている。僕の心は何物かに裏切られてるようだ。僕は今それに苦しんでいる。」
木下は云ってしまうと、両手を頭の下にあてがって、長々とねそべった。
啓介は云った。
「それは君、君の心の内に在るものが君の製作を裏切るんだろう。」
「然し僕は、」と云って木下は一寸顔を上げた、「心の中にそんな変なものは何も持ってやしない。」
「なに、心の中には、意識しないものだって沢山あるんだ。それは兎に角、思い切って作意を変えてしまったらどうだい。荒廃の中に蔵されてる芽ぐむ力といったようなものに。」
「僕もそう考えたことがある。然しそういうものはいつだって描ける。僕はあの景色を生かしてみたいんだ。それで努力してるんだ。曇った日には大抵出かけることにしてる。……君の容態が余りよくないのを放っといて、出かけてばかりいるのを許してくれ。」
「なに構うもんか。僕はそれほど悪いんじゃないし、看護婦さんと信子と居れば充分だ。それよりも僕は却って、君の仕事の邪魔になるのが一番心苦しい。家との関係があんな風になって、信子と二人で君の所へ飛び込んで来て、半年とたたないうちにこの病気だからね。」
「そのことなら僕の方から御礼を云わなけりゃならないよ。君の叔父さんの内々の補助で、僕まで生活がいくらか楽になったんだからね。余徳の方が大きすぎる位さ。そんなことは心配しないで、早く病気を癒すことだね。」
「うむ。」
二人が黙り込むと、看護婦は、胸部の浸布を取代える時間だと云った。そして信子の手伝いで、彼女はそれにとりかかった。
その間に木下は、自分の室へ行って、和服と着換えて来た。湿布を取代えられた啓介は、頣を深く蒲団の襟に埋めて、静に横わっていた。木下の顔を見ると、彼は云った。
「先刻の話の絵を見せてくれないか。」
「そうだね、まだ出来上ってはいないが、見せてもいい。此処に持って来よう。」
然し彼が立ち上ろうとすると、啓介は俄にそれを止めた。
「いや、また後にしよう。何にせよ、出来上ってしまわないうちは、人に見られるのは余り快いものではない。出来上ってから見せてくれ給え。……それが出来上ったら、君に描いて貰いたいと思ってるものもあるから。」
「何だ、それは。」
啓介は口を噤んで何とも答えなかった。
家は、画室を除いて三室きりなかった。啓介と信子とが飛び込んで来るようにして同居してからは、自然に玄関の土間の横の三畳が婆やの室となり、奥の八畳が啓介と信子との室となり、廊下と壁とを距てた六畳が、木下の居室兼皆の食堂となってしまった。啓介が病気になってからも、ただ奥の八畳が病室に代ったきりで、何等の変化も起らなかった。
食事の時には、婆やが啓介の所についていて(勿論彼の容態が悪い時だけ)、木下と信子と看護婦と三人は、一緒に六畳で食事をした。啓介もそれを望んだし、それの方が台所の用には便宜だった。木下はその時々の気分によって、食事中黙りこくっている時もあれば、盛んに種々なことを饒舌る時もあった。看護婦はそれを木下さんの「曇り」或は「晴れ」と呼んだ。
婆やの仕事の一部分は、いつのまにか信子が引受けてしまっていた。彼女はそれを、より丁寧に、より細心な注意で、やってのけた。彼女は木下の着物を畳んでやった。洋服の埃を払ってやった。汚れ物を婆やに洗濯さしたり、時には下駄の泥を拭いたりした。画室の掃除も時々自分の手で行った。
夜になると、婆やはいつも早く寝たが、皆はよく遅くまで病室に起きていた。皆の途切れ勝ちな話をききながら、啓介は勝手に眠ったり眼を覚したりした。木下が立って行こうとすると、「も少し話さないか。」と啓介は云った。然し別に話すこともなかった。木下は書物を持って来て、寝転んで読んだ。面白い所になると声を出して病人に読んできかした。信子がそれにじっと耳を傾けていた。
「尾野さんはもうお寝みなすったら。朝が早いから。」と信子はよく看護婦に云った。──木下は朝遅くまで寝る習慣だったが、病室の横の方に看護婦と床を並べて寝ている信子は、大抵看護婦と同じ時分に起き上った。──尾野さんは、遠慮のない家の中の気分に感染して、笑いながら先に蒲団を被った。木下と信子とは、そして時々啓介とは、低い声で途切れ勝ちに種々な話をした。これと云って内容の無い、またそれだけに却って親しい気分の籠った話であった。
何の花が一番好きかということで、木下と信子とは議論をした。信子は百合の花が一番好きだと云った。木下は仙人掌の花が一番好きだと云った。仙人掌の花なんか可笑しくって馬鹿げてる、と信子は云った。百合の花は陳腐で月並だ、と木下は云った。然し百合の花には気品があっていい香りまである、と信子は云った。仙人掌の花はより崇高な気品とより多く余韻のある香りとを持っている、と木下は云った。第一仙人掌そのものが木だか草だか得体の知れない変なものだ、と信子は云った。仙人掌は球形であって、球形は最も円満なものの象徴だ、と木下は云った。それならば百合の根だって円っこい、と信子は云った。然し百合の根は多くの片鱗が集って円いのであって、全体が渾一した球形の仙人掌とは比較にならない、と木下は云った。でも刺があるのは本当に円満でない証拠だ、と信子は云った。円満なものにも自身を保護する権利はある、悪を近づけないためには刺が必要だ、と木下は云った。然し刺は人を遠ざける、百合のように心から人を引き寄せる気高さの方が勝っている、と信子は云った。然し百合の花のように万人に媚びるものは真の気高さではない、と木下は云った。仙人掌の花は滑稽で、滑稽なものには気品のありようはない、と信子は云った。……啓介は横から口を出した。
「お前は仙人掌の花を見たことがあるのかい。」
「いいえ。」と信子は答えた。
「なあんだ! それじゃ議論になりはしない。仙人掌の花と百合の花とは凡ての感じがよく似てるじゃないか。」
「あらそうお。」
「似てるかな?」と木下は云った。
郊外の夜は静かだった。時々遠くで汽笛の音がするのが、猶更あたりの静寂さを増した。二人は炬燵を拵えてそれにはいっていた。距てない友情、清くて温い病室の空気、更けてゆく静かな夜、それらが一つに融け合って、いつまでも木下を引止めた。思い切って腰を立てようとすると、「こんな晩は遠い旅にでも行ったような気がしますわね。」と信子が云った。啓介はうつらうつら眠っていた。その顔を見ていると、木下は自分自身が淋しくなった。啓介が眼を開くと、「よく眠れる?」と彼は尋ねた。「眠れそうだ、」という返事を聞いて立ち上ろうとすると、「も少し話してゆかない?」と啓介は云った。「私ちっとも眠かありませんわ。」と信子が微笑みながら云った。木下はまた腰を落付けて、フランスの印象派の画家達の話をした。「彼等の苦闘の生涯を想うと、力強くもなればまた淋しくもなる、」と彼は云った。「推移があるから人生は淋しいのだ、」と啓介は云った。
或る晩、木下は可なり遅くまで病室に残っていた。啓介は眠ってるらしかった。暫く待っても眼覚めそうもないので、彼はそっと立ち上った。そして忍び足で自分の室に帰った。
信子は炬燵にはいったままぼんやりしていた。木下が居なくなると、急に室の中が寒くなったように感じた。それで、火鉢に炭をついで、また一寸炬燵にあたった。何処か隙間があるのではないかと、室の中を見廻してみた。啓介が眼を見開いていた。
「木下君は?」と彼は尋ねた。
「もう御寝みなすったでしょう。つい先刻までいらしたけれど。」
「そう。お前ももう寝たらいいだろう。」
「ええ。今晩は何だか寒かなくって?」
「さあ、病気で寝てると寒いか暖いかちっとも分らないが……。」彼は中途で言葉を切って、暫く電灯の光りを眺めていた、そして云った。「お前は淋しがってるね。」
信子は黙って彼の顔を見返した。
「淋しいだろう。」と彼はまた云った。
「ええ。」と信子は口の中で答えた。それからじっと啓介を見つめながら、前より少し高い声で口早に云った。「早くよくなって下さいな!」
「うむ。長く寝てると僕も淋しい。」
啓介は彼女の方に眼を向けた。そして視線を外らした彼女の横顔を眺めた。
「然し木下君が居ることは、僕にとって大きな力だ。」
信子は黙っていた。
「僕は、」と啓介はまた云った、「木下君が側に居てくれる間は、少しも淋しくないような気がする。お前はそんな気はしない?」
信子は黙っていた。
「例えば、木下君が外に出かけて不在だと、妙に頼りない気分に襲われてくる。然し木下君が戻ってくると、何だか安心したような心持ちになる。病気しない前は、僕の方が年齢も上だし、読んだ書物の数も多かったせいか、何かと云うと木下君は僕によりかかって来た。所がこの頃では、僕の方が向うによりかかってゆきたいような気になっている。……お前もそんな気持になることがあるだろう?」
「ええ。」と信子は答えた。
「木下君が居ないと、お前も妙に淋しい顔をしていることがあるね。」
「でも、何だか悲しくなってしまうことがあるんですもの。木下さんが居て下さると力強いような気がして……。木下さんは妙に神経質な所もあるけれど、何処かどっしりしてる所があるようですわ。物につき当っても転ばないような所が……。」
啓介は眼をつぶっていた。彼女は言葉を途切らして、彼が眼を開くのを待ったが、やがて云った。
「眠っていらっしゃるの?」
啓介は眼を開いた。然し黙っていた。
「何を考えていらっしゃるの?」
啓介はちらと眉根を寄せたが、すぐにその眉根を挙げて云った。
「僕は、お前の肖像を木下君に描いて貰いたいと思ってるんだが……。」
「私の肖像を!」
「うむ。」
「いやよ、モデルなんかになるのは。」
「何もモデルになるというわけじゃない。ただ肖像を描いて貰うだけだから。」
「でも……。」
彼女は上目勝ちに鴨居のあたりを眺めながら、身体を少し左に曲げた。そのため少し膝がくずれて、自然に腿から腰へかけて柔かな幾筋もの曲線を作った。曲線の中に歪められた肉体が快く波動していた。わりに細そりとして見える胸部から、ちぎって投げ出されたような円っこい両腕が、手応えのある重みを以てだらりと炬燵の上に置かれていた。眠りの足りない疲れた顔から、夢みるような濡った眼が覗いていた。啓介は、そういう彼女の肉体の表情を眺め、その表情を裏付けている彼女の感情を瞥見した、彼は眉根と鼻と上唇とのあたりに苛立たしい曇りを寄せた、そして云った。
「今のは冗談だよ。」
「何が?」
彼は振向いた信子の視線を避けて、天井に眼をやりながら別のことを云った。
「お前はね、僕が看護婦の手に身体を任しているのを見て、一種の嫉妬に似た……。」
彼はその言葉を云い終えなかった。名状し難い苦々しい忌わしい空気が、二人を囚えた。彼は引きつらした口の片角をびくびく震わした。彼女は眼を大きく見開いて、輝きの失せた瞳をぼんやり空間に定めた。
二人共黙っていた。
「もうお寝みよ。」と暫くして啓介は苛立たしい声で云った。
信子は我に返ったように深い吐息をした。夜はしいんと更け渡っていた。彼女はも一度啓介の言葉を待った。
「寝ておしまいよ。」と啓介はやがてまた云った。
信子は黙って立ち上った。そして看護婦の横にそっと自分の床をのべた。然し彼女は寝る前に、啓介の額の氷をみることを忘れなかった。啓介は黙り込んで彼女の手元を見ていた。
木下は画室の粗末な古椅子に腰掛け、両腕を組んで、描きかけの自分の絵を眺めた。樫の幹や叢は、幾度も絵具を塗り返されて、浮彫の下彫のように浮出していたが、作意は少しも現われていなかった。枯死そのものを表現すべき色彩の下から、一種の明るい気分が浮き上っていた。遠景の空は、一色の黝ずんだ灰色に手荒く塗りつぶされて、処々にカンヴァスの布目が覗き出していた。其処から糊塗しきれない空虚の感が、画面全体に漂っていた。何時までたっても出来上りそうに思えなかった。木下は長い髪の毛をかき上げるようにして、片手で頭を押えじっと画面を見入った。
やがて彼は立ち上って、壁に懸ってる自分の作を一々見て歩いた。室の中は薄暗かった。彼は顧みて、暮れなやんでいる明るみの中の細かい雨脚を、窓から透し見た。それからまた樫の絵の前に戻ってきて、椅子に腰を落しながら、首垂れて考え込んだ。
その時、信子がそっと扉を開いてはいって来た。彼女は、振り向いた木下に我知らず微笑みかけた笑顔をそのままにして、尋ねた。
「お邪魔ではなくって?」
「いいえ、ちっとも。」と木下は答えた。
信子は真直に窓の所へ行った。細かい雨が降り続いていた。彼女は首をすくめた。それから煖炉の所へ戻って来た。火が消えかかっていた。彼女は薪と石炭とを投り込んだ。
「この室は寒かありませんか。」彼女は煖炉の側の椅子に腰を下しながら云った。
「いえ別に。……然し病室とは違いますよ。」
「そうですわね。私あの室に馴れているものですから、外に出ると急に寒いような気がするんですの。何だか自分まで病気になったような気がして……。でももう感染ってるのかも知れませんわ。」
「なに大丈夫でしょう。第一感染る感染らないはその時の偶然の機会で、用心するしないは何の役にも立ちません。」
「まるでお医者様のような口振りをなさるのね。」
「いや実際私はそう思ってるんです。……然し肺炎は感染り易い病気でしょうかしら。」
「さあどうですか。」と信子は気の無さそうな返事をしたが、独語のような調子で云った。「私ほんとに困ってしまいますの。」
「どうしてです?」
「この頃何だか岡部の様子が変ですもの。私どうしたらいいか分らなくなってしまいましたわ。先にはよく岡部は私に何でも隠さず云ってくれましたが、……今でもよく種々なことを云ってはくれますが、肝腎な所をうちあけてくれないような気がしますの。遠廻しに種々なことを云っておいて、それっきり黙ってしまいますの。私にはちっとも岡部の気持ちが分りません。じっと私の顔を見つめているかと思うと、ふいに眼をつぶって、何を云っても返事もしないことがあります。また時によると、いつまでもお饒舌をすることもありますが、それも本当のことを云ってるのか皮肉で云ってるのか分らないような調子ですもの。長く病気で寝てると、苛ら苛らしたり淋しかったりすることもありましょうが、私の方がどんなに淋しいか分りませんわ。それに私の気持ちを少しも汲んでくれないで、いじめてばかりいるんですもの。私は岡部にだけは何にも隠したり嘘をついたりしないで、いつも本当のことばかり云っていますが、それを妙に……。」
彼女は言葉を途切らして、何かを思い浮べようとする表情をした。
「病気をしてると、」と木下は云った「妙に神経質になるものです。」
信子は頭を上げて彼の顔を見た。彼はその信頼しきったような淋しい眼付の前に視線を外らして、室の中を見渡した。それから、自分のすぐ前に立てかけてある画面に眼を据えた。
「その絵はいつ頃お出来になりますの。」と信子は声の調子を変えて云った。
「いつだか私にも分りません。」
「どうして此度はそうお苦しみなさるの。」
「どうも思うように描けないんです。」
「私本当はその絵を余り好きませんわ。何だか暗くって淋しすぎますもの。」
「然し樫も叢も皆枯れはてたものばかりのつもりですから……。私はもっと深刻な陰惨な気分を出したがって苦しんでいます。」
「ええ、それは私も存じていますが、そんな絵より、もっと明るいものの方が嬉しい気がしますの。私その絵を見てると心が悲しくなってきます。何もかも枯れたものばかりだなんて、思ってもぞっとしますわ。何か悪いことが起りはしないかというような気がして。」
「え、あなたは岡部君の……。」
「いえいえ、」と信子は口早に遮った。「そんな意味ではありませんわ。……岡部は私に……肖像を描いて貰えって……。」
「あなたの肖像を私に……。」
「ええ、前から考えていたと云っていましたの。」
「そしてあなたは何と返事しました?」
「モデルになるのは嫌だって云うと、なにただ肖像を描いて貰うだけだからと岡部は云いますの。」
「それきりですか。」
「ええ。」
「岡部君はどんな話の時にそれを云い出したんです?」
「どんな話って……別に何でもありませんわ。」
「君に描いて貰いたいものがあると、岡部君はいつか云ったことがあるが……。」
木下は信子の顔を見た。彼女は彼をじっと眺めていた。その眼にはもう先刻の淋しい色はなくて、ただ露わな、自分を投げ出した余りに露わな輝きのみがあった。その輝きに引き込まれて、彼が彼女の瞳に見入ると、彼女は俄に、ちらと一つの瞬きでその瞳を大きな影に包み込んだまま、眼を伏せてしまった。
赤く焼けた煖炉の光りが、薄暗くなりかけた室の中に、彼女の姿を横からくっきりと輝し出していた。火に軽く熱った頬、皮下に汗ばんでるような滑らかな額、無雑作に束ねた乱れがちな髪、それらを支えてる丈夫そうな頸筋、頸筋からじかに上膊へなだれ落ちてる肩の線、襟をきつく合した着物の下には、凡てが球面で出来てる硬い弾力のある処女らしい肉体、──木下は、以前岡部に連れられて時々行ったカフェーで見た彼女を、今再び見出したような気がした。ただ眼前の彼女は身動き一つしないでじっと眼を伏せているのみであった。彼はその横顔を見入りながら、やがて云った。
「あなたは私に、あなたの肖像を描かせるつもりですか。」
「いいえ。」と信子は静に答えた。
それから彼女は急に立ち上って、低い声で云った。
「私もうあちらへ参りますわ。」
木下は思わず椅子から立ち上った。彼女は足を止めた。二人は釘付にされたように一寸立ち竦んだ。それから彼女は一歩ずつゆるやかに足を運んで、次に足を早めて、室から出て行った。
木下は暫く其処に立ちつくしていた。憤激とも喜悦とも悲哀ともつかない云い知れぬ感情に、彼は胸を震わした。彼は倒れるように椅子に腰を落して、描きかけの画面を眺めた。「君の心の中に在るものが君の製作を裏切るのだ、」と云った岡部の言葉を思い出した。彼は身のまわりを見廻した。それから室の中を見廻した。信子の息吹きが至る所にあった。棚の上の石膏像には少しの埃もかかっていなかった。室の隅の筆洗盤は綺麗に磨かれていた。釘に吊してある外套の裾には少しの泥もこびりついていなかった。床は心地よく掃除されていた。花瓶には梅の枝が揷されていた。書物は棚の片隅に並べてあった。絵筆拭きの布が釘に下って乾いていた。煖炉の灰がすっかり取去られて水が適度に入れてあった。扉のわきには磨かれた靴が揃えてあった。凡ての道具が各々の場所に落付いていた。──彼はそれらのことに、老婆と二人きりの頃知らなかったそれらのことに、知らず識らず馴れてしまっていた。今それに気付くと、彼は自分が、やさしい女性の世話のうちに、如何に温く深く抱きしめられてるかを見出した。彼は信子の姿を眼前に描き出した。彼は病み臥してる岡部のことを想った。彼は深い寂寥に囚えられた。彼は唇を噛みしめながら枯れはてた樫と叢と芝生と陰欝な空との画面を眺めた。……彼は堪らない気になって、いきなりそれを真赤な色に塗りつぶした。
室の中にはいつのまにか電灯がともっていた。彼は画筆を其処に投り出して、まじまじと電灯の光りを仰いだ。彼は立ち上って窓の所へ行った。窓の扉を開くと、なお降り続いている雨脚が、淡い電灯の光りを受けて、すぐ眼の前に白く注ぎかかった。彼はぞっと寒気を背筋に感じて、窓を閉めた。そして煖炉の側の椅子の上に蹲った。
翌日も雨が降った。雪が雨に代ってしまったことは、やがて春が来るのを想わせるのであったが、その想いは陰鬱な明るみと冷たい雨とに取り囲まれて、却って蕭条たる気持ちを人の心に与えた。
木下は朝から外出していた。信子は三度彼の画室に逃げ込んだ。
朝、啓介は信子に云った。「木下君はどうしたんだ? 昨晩も夜遅くまで帰って来なかったし、今日も朝から出かけたりして。お前何か不快なことを云ったんじゃないか。」「いいえ、」と信子は答えた。然しその答えは真実だった。彼女にも木下の心がよく分ってはいなかった。前夜、木下が遅くなって帰って来る音を彼女は眠ったふりして聞いていた。それから長く眠れなかった。夜明け近くにうとうとして眼を覚すと、睡眠不足のため頭がぼんやりしていた。心は落付を失っていた。彼女は考えを纒めるために、画室に逃げ込んだ。
昼の食事を済した後で、彼女は暫く画室にはいった。
午後、彼女は吸飲を取って啓介に含嗽をさした。うっかりしていた拍子に、吸飲の水を啓介の頬から蒲団へ少し垂らした。「いやに冷淡になったね、」と啓介は皮肉らしい調子で云った。横の方で看護婦が、乾いた湿布の布を畳んでいた。看護婦はちらりと眼を挙げて彼女を眺めた。彼女は啓介の言葉よりも看護婦の視線から、胸の奥に冷たい矢を受けた。夕食の仕度を口実にして、彼女は画室に逃げ込んだ。
過去の大きな影が自分の後ろにすっくと立っているのを、彼女はいつしか幻に見るようになった。……神経質な継母と凡てに無頓着な父との下に苦しんだ幼年時代、女学校を卒業すると東京の地に憬れて無断で中国の故郷の家を飛び出して来た頃のこと、東京に住む遠い親戚の者等の冷淡、国許の両親の立腹、大きな都会の渦巻き、文学に対する幻滅、生活の困難、種々の誘惑、そして辛うじて身を落付けたカフェー、啓介との恋愛、啓介の両親の憤り、啓介と二人で逃げ込んだ木下の家、初めの苦しい而も楽しい五ヶ月、それから啓介の病気、一進一退する長い病気、苛ら立ちと疲労、──それらの過去が一つの大きな影となって、脅かすように彼女の後ろに突っ立った。彼女はその影が自分の上にのしかかって来るのを時々感じた。淋しげに眼を閉じている病人の側についていて、何にも見も考えもせずふとぼんやりとした瞬間に……夜遅く木下が室を出て行って、病人が寝返りをした後で、もう寝ようかと一寸躊躇した瞬間に、……夜中にふと眼を覚して、心持ち冷えてきた病室の空気の中に、病人と看護婦との横の方に縮こまって寝ている自分を見出した瞬間に、そして彼女は不気味な悪寒に身を震わした。もし彼女が、「岡部が全快してさえくれたら……。」という平易な希望を見守っていたら、恐らくこの影は彼女を脅かしはしなかったろう。然し彼女は、病室の空気に余りに馴れ親しんでいた、余りに馴れ親しんで、その平易な希望をも何処かへ置き忘れていた。ただ在るがままの現在に、彼女は前方を塞がれていた。そして行きづまって停滞した彼女の心は、過去の影に脅かされた。脅かされた彼女の心を、更に啓介の執拗な眼が覗き込んだ。彼女は知らず識らずに木下の画室に逃げ込んでいた。画室は広々としていた。未来がうち開けていた。自由に呼吸することが出来た。一種直線的な傾向を持っている彼女の魂は、其処に出口を見出していた。
彼女は椅子に深く腰を下して、じっと考えに沈んだ。然し別に何も考えてはいなかった。彼女はふと顔を挙げて、真赤に塗りつぶされた画面を見入った。それから窓の方を眺めた。雨はまだ降り続いていた。彼女は木下のことを思った。今はそれを思うのは一種の苦痛であったが、その苦痛の底からしきりに待たるるものがあった。彼女は待った。何を? それは彼女にも分らなかった。婆やがはいって来ると、彼女は卓子の上に在った書物を機械的に取り上げた。「いいようにして置いて下さい、」と晩の料理のことを頼んだ。婆やが出て行くと、彼女は書物を投り出して、またぼんやり夢想に沈んだ。
暫くして彼女は立ち上った。画室を出て病室の方へ行った。啓介は眠っていた。看護婦は雑誌を読んでいた。彼女は一寸次の室に坐って、火鉢に炭をついだ。それからまた画室に戻って来た。椅子の上に身を落付けると、前夜の睡眠不足のために、胸の奥がかすかに痛むようで、頭が妙にほてっていた。足の先が冷えきってゆくようなのをじっと我慢していると、幻とも夢ともつかないもののうちに意識が茫としてきた。……彼女は木下が帰って来たのを殆んど知らなかった。
木下は信子の姿を見て、驚いて立ち止った。それから室を出て行こうとした。その時信子は、木下の姿を見て更に驚いて、俄に立ち上った。椅子が倒れた。その大きな音が二人を我に返らした。
「お帰りなさい。」と信子は云った。
木下は扉を閉めて室の中にやって来た。
「何をしていたんです?」と彼は云った。その声は震えを帯びていた。
「この絵を見ていましたの。」と彼女は落付いた声で答えながら、前の画面にまた眼をやった。
「私はもうそれを思い切ってしまいました。」と木下は云った。「いつまでたっても書けそうもありません。昨晩と今日と、私は雨の降る中を歩きながら、種々考えてみました。実際馬鹿げた努力を続けていたものです。……岡部君の云うのが本当です。あなたの云われることが本当です。」
彼は言葉と共に頬の筋肉を震わしていた。彼女はその顔をじっと眺めた。
「ではどうなさるの?」
「何よりも私達は、……岡部君の病気が早く癒るようにしなければいけません。」
その言葉は最も残酷に彼女の心を揺った。彼女は下唇をかみしめながら、木下の眼の中を覗き込んだ。
木下は一歩退った。
「木下さん!」信子はそう叫んで、上半身から彼の方へ倒れかかって来た。
「岡部君を……。」と木下は云った。然しそれは、水に沈んだ者が再び水面に浮び出ようとする最後の努力であった。彼は、下唇を噛みしめて眼を閉じている信子の顔を見た。
もたれかかって来る彼女の上半身を、彼は両腕に受け取った。
啓介の世界は劃然と二つに区別せられていた。一つは病室内の世界──其処では凡てが余りに明るかった。天井板の木目から、襖の模様、壁についてるかすかな傷まで、彼は残らず知りつくしていた。看護婦や信子や木下の一挙一動、その動作を裏付ける感情、一として彼の眼を逃れることは出来なかった。他の一つは病室外の世界──其処では凡てが朦朧としていた。空が晴れているか曇っているかさえ、彼にはよく分らなかった。縁側の障子にはまってる硝子越しに垣間見る空は、いつも陰鬱に夢のように彼には感ぜられた。寒暖、風の有無、それらは更に分らなかった。また画室や台所の有様は勿論のこと、すぐ向うの六畳の室の様子さえ分らなかった。皆がどういう顔をして何を話しているか、少しも分らなかった。病室の襖や壁や障子が、厚い鉄の壁ででもあるかのようだった。その鉄の壁の外部に在るものは凡て、視線と想像との届かない遠い距離の奥に逃げ込んでいた。そして壁の内部に在る凡ては、眩むばかりの明瞭さを以て彼の眼に映じた。この恐ろしいほど透明な世界と恐ろしいほど曖昧な世界との対立が、絶えず彼を苦しめた。
一室に禁錮せられた者の心に似ていた。劃然と範囲を定められた自分一人の世界の中に於て、彼の眼は益々執拗になっていった。用をする時の看護婦の手付きのうちに、彼女の心がそれに向いているか否かを彼は見て取った。診察する時の医者の取り澄した表情のうちに、彼は自分の病勢の経過を読み取った。「もう寝みましょうか。」と信子が看護婦に云う言葉の調子に、彼は信子の感情の状態を感知した。病室にはいって来てじっと彼の顔を眺むる木下の眼付に、彼は木下の心の動きを見て取った。彼がふと仮睡の眼を開く時、それを見てちらと動いた皆の顔色のうちに、彼は如何なる種類の会話が行われていたかを察した。
然し連続的な推移を包容するには、彼の意識は余りに弱りすぎていた。最近次第に、木下が病室には僅かな間しか留らなくなったこと、信子が頻繁に病室をあけるようになったこと、木下が屡々外出するようになったこと、よく信子が早くから寝床にはいって看護婦が一人遅くまで起きてるようになったこと、木下の顔色が陰鬱になってきたこと、信子の眼が妙に輝いてきたこと、……それらを彼ははっきり意識していなかった。彼にとっては、瞬間のみが、個々に断ち切られた瞬間のみが、存在していた。
斯くて彼は自分の病床の横の方に木下と信子と並んで坐っている時、二人の間に交される眼の閃めきを見て、駭然として不安の念に襲われた。無意味な話題の間に、二人は頻繁に眼を見合った。或いは戦いの、或いは屈服の、或いは苦しい情熱の、時折の閃めきが、二人の視線の中に織り込まれていた。然し間もなく、木下が室から出てゆくか、信子が座を外すかした。啓介は苛ら立ってくる自分の心をじっと押えた。
木下が室から出て行くと、信子は啓介の枕頭に寄って来た。そして氷嚢に手をあててみたり、気分はどうかと尋ねたりした。彼は「いい。」と答えた。彼女は床の間から鋏を取って、口拭きの紙を切った。その不真実な行為に、啓介は顔を渋めた。
「うるさい。後にしてくれ。」と彼は云った。
「はい。」と信子は取澄した返事をして、向うに身を退った。
啓介はじっとしていた。信子は黙っていた。そしてその沈黙が、やがて啓介には堪らない圧迫となってきた。信子は火鉢によりかかるようにして、畳の上に視線を落していた。石膏像のような冷たい横顔を彼の方に向けて、いつまでも身動きさえしなかった。
啓介は荒々しく寝返りをした。そして待った。氷嚢を額から外した。そして待った。紙を取って口を拭き、それを枕頭に投り出した。そして待った。再び寝返りをした。そして待った。わざと蒲団から手を長く出してみた。そして待った。手を引込める拍子に上の掛蒲団をはねのけてみた。そして待った。然し信子は顔の筋肉一つ動かさなかった。ちらと視線を彼の方へ投げては、また石のように固くなって動かなかった。その無関心でない一瞥は、却って彼を苛ら立たした。彼は咳をした。看護婦が膝の書物を下に置いて寄って来た。そして痰吐を差出してくれた。まくれた蒲団を直し、落ちている紙を拾ってくれた。然し彼は不満だった。信子の手で為されなかったことが不満だった。彼はしいて眼をつぶった。室の中の有様が頭から離れなかった。吸入器、薬瓶、天井から下ってる電灯、何かこそこそ用をしている看護婦、膝の所に一つ黒い汚点のあるその真白な服、そして信子はじっとしていた。どうしてああ動かないで居られるかと思われるほどいつまでもじっとしていた。息さえもしていないようだった。
看護婦が用事で立っていった間に、そして台所で婆やと無駄口を利いている間に、啓介は仰向に寝直した、そして云った。
「おい、氷嚢を額にあててくれ。」
「はい、」と信子は答えて、云われる通りにした。そして尋ねた。「まだ頭痛がなさるの?」
むしゃくしゃした気分が啓介の喉元にこみ上げてきた。
「まだ、だって? 前から僕に頭痛がしていたことを知ってたのか。」
「あら、そういう意味では……。」
「あら、だけ余計だ。お前はいつも中途半端な間投詞を使ってごまかそうとしてる。」
「まあ何を仰言るの、私いつも嘘を云ったことはないじゃありませんか。」
「うむ、お前はいつも不自然な言葉は使わないし、不自然な態度はしないと云うんだね。僕が何かしても、澄し込んで知らん顔をしてるのが、お前にとっては自然なんだろう。」
「でも私が何かすると、あなたはいつもうるさいとか静にしておいてくれとか仰言るんですもの。」
「だからほうっとけというんだな。」
信子は口を噤んで何とも答えなかった。
「ほうっとけば向うから折れてくると思ってるんだな。」
信子はまだ黙っていた。
「お前の方がいつも勝つにきまってるよ。病人と達者な者との戦だから。」
「あなた! そんなことを……。私出来るだけのことはしてるつもりなのに。」
「そして出来るだけ我慢してるというんだろう。然し病人には我慢は出来ない。我慢強い方が戦には勝つにきまってるさ。僕はいつも負けている。然しお前との戦に負けたって、僕は別に口惜しくもないだけに鍛えられてきた。僕が悪ければいつでもあやまるよ。」彼の皮肉な調子はいつのまにかしみじみとした調子に変っていた。「然し僕にあやまらせないようにしてくれるのがお前の役目だ。僕は非常に疲れている。疲れている僕をいたわってくれるのがお前の役目だ。僕は非常に淋しい。淋しいから苛ら苛らするのだ。お前の心がこの頃は少しも分らない。お前の身振り、お前の言葉の意味、お前の眼付、お前の顔色、それらのものに包まれてるお前の考え、それは僕に分りすぎる位はっきり分っている。然し僕が知りたいのはそんなものではない。もっと大きな深いお前の魂だ。お前の本体と云ってもいい。それを僕はとり失ったような気がしている。僕に何もかも云ってくれないか。僕はお前に何も咎めはしない。僕の病気が悪いのだ。僕は死ぬかも知れないんだ。」
「いえいえ、そんなことが……。」と信子は叫んだ。
「お前はいつもそう云う。然し、僕が全快しさえしたら……という希望が、お前の心には無くなってるようだ。いや僕自身の心にも無くなってるような気がする。どちらが先にそうなったか分らないが、そういう行きづまった気分を、僕達は互に通じ合っている。一番悪い状態だ。僕にはどうしていいか分らない。二つの石塊のように、触れ合うことが互に傷つけ合うことになるのは、実際堪らない。」
「余りいろんなことを考えすぎなさるからいけないんですわ。」
その言葉は、啓介が求めている所から最も遠いものであった。彼は、俯向いている信子の顔を、じっと眺めた。彼女はかすかに身を震わした。
「なるほどお前の云いそうな言葉だ。お前はいつも頭で物を云って、心で物を云ったことがない。」
信子は黙って、益々低く頭を垂れていた。視線を膝の上に落して、肩をすぼめながら両手をきちんと重ねていた。その審問をでも受けてるような様子を見ると、啓介はたまらなく淋しくなった。彼はいきなり上半身を起そうとした。信子は驚いて彼を引止めた。彼が再び枕に頭を落付けると、彼女は彼の手に取り縋って、涙を流した。
「あなた、許して下さい。」と彼女は口の中で云った。
然しその意味は彼には分らなかった。
「何もあやまることはない。僕達は互に触れ合う面が悪いんだ。」
彼も涙ぐんでいた。その涙を流すまいとして眼をつぶった。二人共黙り込んでしまった。彼がそっと身体を動かすと、彼女は蒲団の中に手を差入れて、彼の腕をさすり初めた。彼はされるままに任した。いつまでも涙が止まらなかった。看護婦が戻って来ると、彼は涙を見られまいとして、蒲団の襟に顔を埋めた。
「私が代りましょうか。」と看護婦は云った。
「いいえ、まだよござんすわ。」と彼女は答えた。
然し、次の室に木下の足音がした時、彼女は俄にさする手を休めた。啓介は蒲団から顔を出して云った。
「もういい。」
襖をことこと叩く音がした。──木下は室にはいる前に、襖を軽く叩く習慣になっていた。信子は啓介の側を離れた。啓介は天井を眺めた。
木下ははいってくると、信子の方をちらと見やって、火鉢の横に坐った。
「どうだい?」
「相変らずだ。」
最初の言葉を交してしまうと、啓介は何故ともなく安心の情を覚えた。彼は、一瞬間前の狼狽えた自分自身を思い浮べた。それが恥かしくなった。木下の姿を眼の前に見ると、あらゆる気兼や狼狽や敵意や嫉視は消えてしまった。長い髪の毛、ゆったりした額、頬の滑かな面長の顔には少し短かすぎると思われる鼻、肩の張ったわりには細りとした上半身、平素見馴れた親しい友の姿は、彼の心を落付かして、一種の力強さをさえ与えた。
「この頃忙しそうだが、何かまた初めたのかい。」
「いや別に……。」
木下は言葉を濁して、火鉢の中を覗き込んだ。そして火箸の先で炭火をいじくり初めた。
「そうだ、はっきり形になって現われないうちは、頭の中に芽んできたことは余り人に云いたくないものだ。」
その言葉は、抽象的の意味でなしにじかに木下の胸を打った。彼は眼を挙げて啓介を眺め、次に信子の方を顧みた。啓介の鋭い眼付と信子の黙々たる姿とは、彼の視線を順次にはね返した。彼は眼のやり場に困って、また火鉢の中を覗き込んだ。
啓介は快い興奮と暗い不安とを同時に感じた。彼は自分の言葉が如何によく木下の心に響くかを見た、然しその響き方の底に一種の惑乱があるのを見た。彼は二つの感じの間に迷った。それをまぎらすためにこう云った。
「君、煙草を吸ってもいいよ。」
「まだ障るよ。」
「いや大丈夫だ、少し位なら。」
然し木下は煙草を取出さなかった。そして次の室で吸って来ると云って、室を出て行った。
啓介は吸入をしなければならなかった。
吸入が済んで、ずっと快い気分になって、長々と手足を伸した後も、まだ木下は戻って来なかった。彼はそれが気になり出した。呼んで来るように信子に云った。
「何か御用なの?」
「用はないが、隙だったら呼んできてくれないか。」
信子は立って行った。然し彼女は中々戻って来なかった。啓介には非常に長い時間のように思われた。
やがて木下は一人で室にはいって来た。信子は戻って来なかった。
「仕事の邪魔じゃないのか。」と啓介は心持ち眼を細くして尋ねた。
「いや、隙だ。」
「じゃ暫く話していってくれ給いな。」
然し別に話すこともなかった。二人は大した意味もないことを、ぽつりぽつり話し合った。しまいには黙り込んでしまった。それでも啓介には、木下が側についていてくれることが嬉しかった。種々な夢想を語り合った友、苦しみや喜びに共に心を痛め共に笑った友、自分の真の味方であった友、その友の姿を眼の前に持っているということは、何という喜びだろう。黙って顔を見合せているというだけで、しみじみと力強くなるような気がした。信子がもし其処に居たら、彼は恐らくその喜びを感じなかったであろう。然し今は、ただ距てない友の姿のみが彼の前に在った。何か憂わしげに思い耽ってる木下の顔も、彼には却ってなつかしかった。あたりは静かだった。病室の空気は快く温って濡っていた。
「君は早く癒らなけりゃいけない!」と木下は思い込んだように云った。
「うむ、癒るよ。屹度癒ってみせる。」
「君が健康に復したら、僕はいろいろ君に話すこともある。」
「僕だってあるさ。君の議論に凹まされはしないよ。」
木下は口を噤んだ。啓介も口を噤んだ。彼は木下の気分に自分の気分を合せることを好んだ。
然し、一寸用を思い出したからと云って木下が立ち去ると、啓介は突然不安に襲われた。室の中を見廻すと、看護婦が一人ぽつねんと炬燵にあたっていた。信子の赤いメリンスの風呂敷が本箱の上にのっていた。夜眠る時電灯を遠くに引き吊る紐が、割目のはいった柱に下っていた。
彼は耳を澄した。何の物音も話声もしなかった。不安は焦燥の念に変っていった。次の室との間の襖が、こつこつと軽く叩かれてるような気がした。襖を見つめると、またしいんとなった。襖の向うに測り知られぬ広い世界があった。その世界が真暗だった。何にも見えなかった。木下と信子とがその何処かに居る筈だった。二人は何か親しげに話をしていた……。
「尾野さん、」と彼は看護婦を呼んだ、「痰吐を空けて来てくれませんか。」
看護婦は立って来て痰吐を覗いた。痰が二つ浮いてるきりだった。彼女は一寸病人の顔色を窺って、それから素直に、痰吐を持って室を出て行った。
看護婦の戻って来るのが、啓介には大変長く思われた。彼は苛ら立ちながら待っていた。何の音もしなかった。病室の中が妙に明るくなって、その中に閉じ込められた自分の姿がまざまざと見出された。病室の外は広茫とした薄闇だった。薄闇の中に何かの影が次第に見えて来た。信子が居るようだった。木下が居るようだった。看護婦と婆やとが居るようだった。
後はそっと蒲団の外に身体をずらし初めた。腰から下が石のように重かった。漸く足先が畳に触れると俄に力が出てきた。両手で蒲団をはねのけ、床柱につかまって立ち上ろうとした。手足ががくりと撓んで其処に倒れてしまった。そしてそのまま、畳の上を徐々に匐い出した。眼の奥が暗くなってきた……。
看護婦が戻って来ると、蒲団の外にぬけ出して長く身を横たえてる啓介の姿を見出した。彼女は叫び声を上げた。信子が馳けつけて来た。執拗に眼を閉じている彼を、再び寝床に連れ戻さなければならなかった。
木下がやって来ると、彼は静に眼を開いた。
「どうしたのだ?」と木下は云った。
看護婦と信子とは黙って眼を見合った。
「なあに、」と啓介は落付いた声で答えた、「起き上れそうな気がしたので、やってみると、すっかり失敗ってしまった。」
看護婦の尾野高子は、現金な看護婦だと啓介が云ったほど、忠実に己の務めを尽した。いつどんな変化が患者に起るかも知れないと、彼女は気遣った。
啓介は初め、感性感冒に罹った。次で気管支加答児と肺炎とを併発した。熱が下っても回復期が長かった。その間を待ちきれないで、まだラッセルが残ってるうちに、彼は無理をして起き上った。或る日外出して雨に濡れた。そして再び高熱に襲われた。床に就いた時、腹部に拇指大の塊りが出来ていた。盲腸炎の疑いがあったが、やがてその疑いが晴れると、病原が不明になった。然し間もなくその塊りは無くなった。然しその時には、肺炎の方がだいぶ進んでいた。──この頃に、尾野高子は看護にやって来た。──ひどい血痰と高熱とが一週間余り続いた。心臓が次第に弱ってきた。熱が三十八度以下になっても、脈搏は百十位の所を上下した。彼は病院にはいることを承知しなかった。
高子は、啓介と信子と木下と三人の間に、次第に円滑さが失われてゆくのを見た。彼女は病人に同情した。木下か信子かが病室に居る時には、一種の反感から隅に引込んで澄していた。然し病人一人になると、心から看護を尽した。苛ら立っている病人の感情に、出来るだけ障るまいとした。夜も遅くまで起きていた。
木下と信子とが、病人の容態は次第によくなってゆくように考えていた間に、高子は容態が却って険悪な方に傾いてゆくのを見て取った。前後二ヶ月に亘る病気に弱りはてた身体の中に、心臓の衰弱と精神の興奮とが続いていった。一方では、心臓痲痺を起す恐れがあり、一方では脳症を起す恐れがあった。その最中に彼は無理に起き上ろうとした。彼の身体にとっては、壮者には想像だに及ばないほどの努力であった。急に熱が三十九度二分に上った。それは一時的の熱ではあったが、心臓と脳とには大なる打撃であった。
初めから病人を診ていた本田医学士は、木下を影に呼んで云った。
「心配なことはありませんが、今が大切な時期ですから、出来る限り安静にさせなければいけません。」
木下は黙って頭を下げた。
本田医学士は、吸入を一切止さして、少くとも三時間おき位には湿布を取り代えるように命じた。それから、一日に四回の注射を命じた。高子は、渡された淡褐色の注射液を眺めて眉を顰めた。
彼女は本田氏を玄関まで送っていって、一寸躊躇した後に云った。
「神経が大層興奮しているようですが、脳症を起すようなことはありませんでしょうか。」
「そうですね。」と彼は一寸考えた。「……なに起しても大したことはないでしょう。」
そして実際、高子の言も本田の言も、共に的中した。軽微な間歇的なものではあったが、明かに脳症の性質を具えていた。
病室に人が居ないと、啓介はよく上半身を起そうとした。じっと空間に据った眼付に凄い光りを帯びて瞳孔が開いていた。両腕には異常な力がはいっていた。容易に信子や高子の思うままにならなかった。然し木下の言葉には素直に従った。床の上に構わると、顔面の筋肉を硬直さしながら、手指を痙攣的に震わした。彼は木下をすぐ側に呼んで云った。
「僕をこの室に一人置きざりにしてはいけないよ。」
「そんなことをするもんか。」と木下は答えた。
「然し信用出来ないからね。」
その言葉は真実だか皮肉だか分らない調子のものだったが、一種悲痛な力が中に籠っていた。
その頃から彼は、高子に対してひどく無関心な態度を取るようになった。高子が室に居ようが居まいが、それを少しも気にかけていないらしかった。彼女が何か云うと、ただ黙って首肯いた。承諾というよりも寧ろ機械的の反応らしかった。服薬や湿布や検温や検脈に、惜しむ所もなく身体をうち任した。重湯を飲む時に、「少し熱うございますか。」と問われると、「うむ。」と返事をした。「丁度宜しいでしょう。」と問われると、やはり「うむ。」と返事をした。彼女の一寸した手不調から、吸飲の水が口のはたにこぼれかかっても、彼は黙っていた。彼女の言葉や彼女の為す凡ては、宛も彼自身の一部であるかのようだった。それらを彼は殆んど無意識的に受け容れていた。
然し信子に対して、彼の精神は過敏な反応を現わした。彼は一々彼女の言葉尻を捉えた。彼女の一挙一動を、執拗な眼で見守った。彼女が黙っていると、「何を考えているんだ。」と尋ねた。彼女が少し長く口を利くと、「僕を少し静にさしといてくれ。」と云った。暫くすると、彼女の方にくるりと頭を向けて、「何を澄し込んでるんだ。」と怒鳴った。彼女は種々なだめた。高子も側から口を出した。然し彼は彼女を追求して止めなかった。彼女が泣き出すと、彼は急に口を噤んで眼を閉じた。眼には涙を一杯ためていた。しまいには、木下君を呼んでくれと云ってきかなかった。木下が不在であると、戻ってくるまでは一言も口を利かないでじっとしていた。
木下は病室をぬけ出すことに苦心した。病に衰えて信頼しきっている友の顔を眺めていると、彼は悲痛な情と自責の念とが胸にこみ上げてきて、頭脳が激し態度が荒立ってくるのを覚えた。そして、それが病人の安静を乱すことを恐れた。彼は種々な口実を探した。煙草を吸ってくる、飯を食ってくる、手紙を書いてくる、手を洗ってくる、便所に行ってくる、──所用のため外出するとは云い得なかった、──然しそれらの口実は余り度々くり返すわけにはゆかなかった。ただ製作をするんだからという時だけ、啓介は快く、而も非常に淋しい顔をして、彼を許してやった。彼は画室に逃げて行った。
信子はよく、木下を呼びに、啓介から画室へ追いやられた。「お仕事中ですから。」と云っても、啓介はきかなかった。
「今頃室内で絵が描けるものか。」と啓介は云った。
信子は画室に馳け込んでいった。椅子にかけて深く考えに沈んでいる木下の腕に彼女は縋りついた。
「木下さん、また……。」
「岡部君が呼んでるのですか。」
「ええ。」
木下は立ち上った。信子は彼の手を握りしめた。
「行らっしゃるの?」
「ええ。」と木下はきっぱり答えた。「私は岡部君の前に出るのが恐ろしいような気がします。然しその恐ろしさは当然受けなければならないものです。いや、此処に一人でじっとしていても、私は恐ろしい。考えれば考えるほど、深い渦の中に巻き込まれてゆきそうだ。眼をつぶると真暗なものが襲いかかって来る。何にも考えないでじっと眼を見開いている外はない。……あなたは震えているんですね。もう仕方はありません。なりゆきに任せましょう。然し覚悟はきめて置かなければいけません。どんなものにぶっつかるか待ってみましょう。しっかりしていなければいけません。ぶっつかるものが何であるかは分らないが、ぶっつかる覚悟だけはしておきましょう。私はもう後悔はしない。力の限り堪え忍ぶことだ。……信子さん!」
彼は信子を胸に抱きしめた。
「あなたは、」と信子は云った、「岡部に仰言るつもりなの?」
「ええ、場合によっては。」
「でも……いいえ、今はいけません、今は……。」
「勿論今すぐではありません。待つのです、時期を。岡部君が少しよくなるまで……。」
「よくなったら……!」信子は息をつめて木下の胸に顔を埋めた。
木下は彼女の手を離した。
「余り遅くなると岡部君が苛ら苛らするでしょう。あなたは此処にいらっしゃい。……行ってきます。」
木下が出て行った後を、信子はじっと見送った。そのまま眼をつぶりながら、倒れるように椅子の上に身を落した。長い間身動きもしないでいた。それから俄に悪夢から覚めたように飛び上った。そして急いで病室の方へやって行った。
木下は長くねそべっていた。啓介はしみじみと彼の方を見つめていた。室はいつもの通りに静かだった。信子は黙って炬燵のわきに坐った。そして二人の方を見ないようにして、炬燵の上に顔を伏せた。
啓介は夜中にふと眼を覚した。胸が悪くなるような感じのする昏迷の境に長い間踠いていた、と自ら思った。気がつくと共に、左腕の注射の跡がちくりと痛んだ。室内を見廻した。看護婦が炬燵に居眠りをしていた。信子が向うの隅に寝ていた。電灯の光りが妙に明るかった。水色の絹の覆いを通して、強い光りが室内に重く漲っていた。余りに明るかった。眼がきらきらと刺戟されて頭の奥が暗くなってきた……。その時、突然に、死の予感が彼に浮んだ。
それは底の無い穴であった。限りない空虚だった。軽いそして安らかな闇が罩めていた。張りつめた世界の中に、ぽかりと口を開いていた。
彼は驚いて、心でそれを見つめた。するとその穴は頭の奥の方へ引込んでいって、次第に小さくなっていった。天井と畳と壁や襖や障子やとで仕切られた四角な室の中が、余りに明るかった。頭の奥の暗い空虚な穴は、今にも見えなくなりそうだった。彼は眼を閉じた。すると俄に凡てが暗くなった。空虚な穴が大きく拡がりながら、表面に浮び出て来た。彼を呑みつくそうとした。彼は抵抗した。然し悶ゆれば悶ゆるほど、穴の底へ──底のない穴へ──沈んでいった。全身の力を搾って、ほっと眼を見開いた。と俄に、その穴は頭の奥へはいり込んで、次第に小さくなっていった。四角な室の中が余りに明るかった。彼はまた眼を閉じた。穴は大きくなって彼を呑み込もうとした。彼はまた眼を開いた。……いつまでも終ることのない反復だった。彼は空虚な暗い穴を恐れながら、それに心を惹かれていた。
幾度も同じことをくり返しているうちに、彼の精神は疲労しつつ興奮していった。遂には、疲労の余り眠りに入り、興奮の余り眼覚めていた。夢とも現ともつかない境に長い間彷徨した。
訳の分らない擾乱から彼がほっと我に返った時、室の中には信子が一人起きていた。いつのまにか看護婦と交代したものらしい。彼女は室の隅に眼を定めて、魂の脱殼のようにじっとしていた。毛の逆立った眉が真直に刷かれて、其の下から黒い眼が覗いていた。窶れた頬に痙攣的な微笑のようなものを引きつらしていた。それらの顔立の上に乱れた束髪が大きな影を投げかけていた。……彼はその姿を見つめた。恐ろしくなった。「おい。」と呼んでみた。声は出なかった。再び「おい。」と呼んでみた。彼女は彼の方に顔を向けた。夢の中で見た女だという感じを彼は受けた。
「信子!」と彼は云った。取り失ったものに対する呼びかけの言葉だった。
彼女は寄って来た。
「僕の手を握っていてくれ。」と彼は云った。
その言葉は殆んど聞き取れなかった。彼女は彼の眼を見返した。そして意味を了解した。彼の手を握ってやった。
彼は彼女の冷たい掌に自分の手を与えながら、一種の戦慄を感じた。以前愛のうちに自分と一つに溶け合った彼女、自分の一部であった彼女、──今自分の手を握りながら石のように固くなってる彼女。彼は、彼女が恐れているのを見た、恐れて看護婦を呼び起したく思いながら、敢てなし得ないでいるのを見た。彼は苛ら立ってきた。彼女が恐れて震えているのが感じられた。……そしてそのまま彼は手を任せ彼女はその手を握っていた。
夜が明けて、信子が一寸室から出て行った時、啓介は起き上ろうとした。高子がそれを引止めた。木下がやって来た。啓介は耻しくなった。おとなしく頭を枕につけて、眼をつぶった。すると凡てが、何とも知れない凡てが、行きづまってしまった。行きづまった心で彼は、薬を飲んだ、重湯と牛乳とを飲んだ、注射を受けた。ただ一つの場合が、死という一つの場合が、あるがままの現在のうちに口を開いていた。彼はその場合のことに考えを集めた。
生きるということは問題ではなかった。毎日同じような昼と夜、日々の区別さえもつかない一様な時の連続、張りきった限定された明るみ、──病室の空気のみが彼を囚えていた。それが彼にとっては生であった。それは「凡ての場合」であった。否場合という言葉を許さない、あるがままの現実だった。その中に死という「一つの場合」が浮んでいた。
病に侵された彼の頭脳は二つの錯誤に陥っていた。彼の心に映じた生は、健康者のそれではなくて病者のそれであった。次に彼は、「凡ての場合」のために準備をせずに、「一つの場合」のために準備をしようとした。──彼は死の場合を見つめていた。終日口を噤んで静に寝ていた。珍らしく、木下を病室に引止めなかった、信子に対して温和だった。心が半ば闇に閉ざされていた。やがてその闇に呑み込まれる場合のために準備することは、却ってその闇から脱する途のように感ぜられた。彼は苦しくはなかった。「死」そのものに脅かされてはいなかった。「死に脅かされる場合」のために悩んでいた。そして堪らなく淋しくなった。何物かに縋りつこうとした。木下と信子との姿が遠くに立っていた。それを手近に引寄せたかった。眼をつぶると、気が遠くなるような重い後頭部の鈍痛から、暗い闇が襲いかかってきた。
朝から吹き出した風が、晩になると可なり激しくなった。夕方少し雨が降った。夜になって霽れた。湿っぽい寒い風が雨戸に音を立てた。婆やは早くから寝た。木下も、その日静かだった啓介の様子に少し安心して、早く床についた。
啓介は眼を覚していた。風の音に聞き入っていた。頭の調子がぴんと張りつめて、凡ての事象が冴え返っていた。
「信子!」と彼は呼んだ。
「はい。」
「木下君は?」
「もうお寝みなすったようですわ。」
暫く沈黙が続いた。
「信子!」と彼はまた呼んだ。
「はい。何か御用?」
「木下君を呼んでくれ。」
「でも、もう寝んでいらっしゃるから、明日になすったら。」
「いや今すぐに用があるんだ。話したいことがある。呼んでおいで!」
思いつめた鋭い光りが彼の眼に籠っていた。信子は高子と顔を見合した。そして躊躇した。「気に逆らわない方がいいかも知れません、」と高子は囁いた。
信子は木下を呼びに行った。木下は床にはいったまま眼を開いていた。彼は信子の姿を見ると、すぐに事情を直覚した。いきなり飛び起きて着物を着た。
「私何だか気掛りで……。」と信子は云った。
「大丈夫、安心していらっしゃい。」と答えて彼は彼女の手を握りしめた。
病室に行くと、啓介は逃げてゆく幻を追うように、天井の隅を見つめていた。二人がはいって来ても彼は視線を動かさなかった。
木下は妙にかしこまって坐った。
「どうかしたのか。」と暫くして木下は尋ねた。
啓介はあたりを見廻した。
「いや、君に話したいことがあったが、後でもいい。」
「そんなら今云ってくれ給い。どんなことでも構わない。今丁度いいから。」
木下の方が妙に急き込んでいた。彼は身を乗り出して、啓介の顔を覗き込んだ。
風につれて遠く汽笛の音が響いてきた。啓介は俄に眼を見据えた。
「木下!」と彼は云った。それから室の中にぐるりと視線を動かした。「尾野さん、一寸外の室に行っててくれませんか。」
「じゃあ僕の室に行ってて下さい。」と木下は云った。
看護婦が室から出て行くと、啓介は俄に荒々しい様子に変った。落ち凹んだ眼が上目勝ちに据っていた。呼吸の度に小鼻が脹れ上っていた。頬がこけて妙に大きく見える頤には、粗らな髯がかさかさに乾いていた。
「僕は死ぬかも知れない。」と彼は云った。調子は落付いていたが、或る圧倒し来る力に押し出されるような響きがこもっていた。彼はくり返した。「僕は死ぬかも知れない。それで、その場合のために用意をしておくのはいいことだと思う。」
木下も信子も、何とも答えかねた。問題が余りに真剣であるのを彼等は感じた。啓介は云い続けた。
「木下、僕は君に大変迷惑をかけた。君の仕事の邪魔ばかりした。然し許してくれ。君一人が頼りだったのだ。君が居ないと、僕は淋しくて堪らなかった。側で君の顔を見ないと、君がどうしてるか分らなくなって、君を取り失うような気がした。僕は溺れていた。だんだん下の方へ沈んでゆく。何かに取り縋ろうとあせっていた。君は水に浮いてる藁屑だ。……藁屑だっていいじゃないか。僕がそれに縋りつこうとしていたんだ。信子も僕と一緒に溺れていた。僕を見捨てて一人で泳いでいる。苦しくなると僕につかまってくる。僕はそれを蹴放してやった。深い所へ沈んでいった。何処へ行ったか分らない。僕一人なんだ。監獄に禁錮された者の気持ちが、僕には想像出来る。真四角な室、堅い鉄の扉、息が苦しくなるほど狭い世界だ。誰かが僕に毒を盛ろうとしていた。僕は黙って横目でちらと見て取った。そして笑ってやった。すると……。」
彼の言葉を遮らねければならなかった。木下は彼の手を握って、「岡部、岡部!」と云った。そして手を打振った。啓介は彼の方を顧みた。
「何だ?」
「君、落付いてくれ給い。」
啓介は木下の顔を見つめた。それから、引きしめていた肩の筋肉をがくりと弛めた。
沈黙が続いた。
「信子、」と啓介は云った、「額の氷を取ってくれ。」
信子は木下の方を顧みた。そして啓介の額から氷嚢を取り去った。
「あり難う!」と啓介は云った。「……僕が礼を云ったからって気を悪くしないでくれ。お前に僕は、幾度あり難うと云いたかったか分らない。然しお前を心から取り逃したような気がしていた。お前の心持が僕には少しも分らなかった。そしていつも苛ら苛らした。僕の病気が悪いんだ。……お前は不幸な女だ。不幸なお前を、僕はいつもいじめてばかりいた。然し僕はどんなにお前を愛していたろう! 僕の心を木下君は知っていてくれる。そしてお前をも愛していてくれる……。」
彼は急に口を噤んだ。そして空間に眼を据えた。小鼻で息をしながら、身動きもしなかった。それから木下の方を向いた。
「木下、僕の頼みをきいてくれ。僕が死んだら、信子を保護してくれないか。」
「僕が?」
「そうだ。君より外には誰も居ない。信子はどんな境遇に居るか、君はよく知ってるだろう。僕が居なかったら世の中に一人ぽっちだ。僕がもし死んだら……。」
「君は何を云うんだ。大丈夫だ。これ位の病気に死にはしない。」
「僕は死なないかも知れない。然し或は死ぬかも知れない。その場合の用意もしておかなくてはいけない。万一の場合にあわてたくない。信子を保護してくれ。」
「岡部!」と木下は叫んだ。「信子さんのことは僕が引受ける。だから静かにしてくれ、静かに。君は今が一番大事な時だ。」
啓介は其処に身を起そうとしていた。木下が引止める手を払って、厳然と頭を振った。断平たる決意の色が、不可抗の力が、その顔に現われていた。彼の云うままに任せるの外はなかった。木下と信子とは彼の両腕を支えてやった。彼は上半身を起して、深い息をついた。激しい咳が襲ってきた。信子は彼の背中を撫でてやった。痰吐を取ってやった。吸飲の水で含嗽をさした。木下は彼の腕を捉えながら、頭を垂れていた。
「岡部、僕も君に云うことがある。僕は……。」
「木下さん!」と云って信子は彼の手に取り縋った。
「僕は、」と木下は続けた。「信子さんを愛している。」
「君達は互に愛するがいい。」と啓介は云った。「頼む。それで僕は、安心して死なれる。安心して生き……られる。」
信子が突然声を搾って泣き出した。堪えていた気分が張り裂けると、嗚咽の声と涙とが止度なく送り出て来た。彼女は身を投げ出して泣き伏した。咽び上げる度に、束髪の櫛の宝石玉が、電気の光りに輝いた。木下は啓介の腕を捉えながら、その輝きを眺めた。
「僕の心は晴々としている。」と啓介は云った。「生き返ったようだ。遠くが見えてくる。」
その言葉は残忍な調子を帯びていた。信子はぴたりと泣き声を止めた。木下は云い知れぬ恐怖を感じた。彼は信子を呼び起そうとした。頭を上げる拍子に、髪の毛が垂れ下って眼にかぶさった。彼は頭を振ってそれを払いのけた。……その時、啓介は歯をくいしばって、踊るように両手を高く上げた。拳を握りしめていた。両の眼が寄っていた。軽い痙攣が襲った。
木下は彼を床に寝かした。上から両手を押えつけた。信子は看護婦を呼んだ。高子はすぐにやって来た。
痙攣が去ると、啓介はぼんやりあたりを見廻した。それから、うとうとと眠りに入った。足の先が冷えていた。婆やを起して、湯たんぽの湯を沸さした。三人は夜が明けるまで枕頭についていた。
軽い痙攣が明け方にも一度啓介を襲った。
熱は比較的低かった、三十八度四分にすぎなかった。然し脈搏が非常に不整で百二十五を上下した。呼吸も同じく不整だった。喉の奥で痰を絡んだ荒い呼吸になったり、小鼻を脹らましてすーっと引く弱い呼吸になったりした。
雨戸を開けると、外は明るくなっていた。風が止んで空が綺麗に晴れていた。清らかな空気が隙間から室内に流れ込んできた。啓介は眼を開いて、側に来るように木下に相図をした。
「母に逢いたい。」と彼は云った。
「呼んで来て上げる。少し待ち給え。」と木下は答えた。
八時頃本田医学士が婆やの迎いで見舞って来た。彼は容態表を見ながら云った。
「ほう、どうかしましたか。」
誰も答えなかった。
診察を済すと彼は、ヂガーレン注射を日に八回行うように看護婦に命じた。それから頓服薬の処方を書いた。
本田が辞し去る時、木下は彼を画室に呼び込んだ。
「容態は如何でしょうか。」と木下は急き込んで尋ねた。
「なに今のままなら危険というほどでもありますまい。脈搏がわりにしっかりしていますから。勿論その方の手当はしていますが。肺炎の方は以前と同じ状態です。これが少し拡がり出すと困難ですがね。……もし御心配なら、私の病院の院長に診て貰われたら如何です?」
「いえ、別にそういうわけではありませんが、実は、病人が母に逢いたがってるものですから。」
「ではすぐに呼んだらいいじゃありませんか。遠いのですか。」
「上野です。」
「上野! どうして今まで呼ばなかったのです?」
木下は事情を話さなければならなかった。彼は手短かに、信子の恋愛事件から両親との衝突を物語った。
「分りました、」と本田は云った、「そうですか、私も何だか変だとは思っていましたが。……そして何時から病人は母に逢いたがっています?」
「今朝からです。」
「今朝から?」
本田は何か考え込んで、煙草を取り出して火をつけた。そして云った。
「別に障りはしますまい。逢わしたらいいでしょう。……然し前から、非常に精神が興奮してるようですね。」
「ええ、他に事情もあったものですから。」と答えて木下は頭を垂れた。
「なるべく静にさして置かなければいけませんね。」
二人は暫く黙っていた。
「では兎に角こうしましょう。」と本田は云った。彼は三時頃病院の用がすむので、その帰りにいつもより早めに立寄ること、そしてその頃病人の母にも来て貰うこと、なるべく多く口を利かせないこと。「痙攣はもう来ますまいが、余り精神に激動を与えて、ひどい脳症でも起されると困りますからね。」
「あれで、病気が癒っても精神が変になることはありますまいか。」
「なあに、それほど心配するには及びません。」
木下は涙ぐんでいた。彼は、落付いた親切な医学士を、しみじみと感謝の念で見上げた。本田は立ち上った。室の中に懸っている絵を一巡見廻わした。それから、黙って出て行った。木下は急に深い淋しさに襲われた。無関心に眺められた自分の製作を、彼はじっと見やった。室の隅に裏返しに立てかけてある画面が眼にはいった。赤く塗りつぶした樫の絵だった。彼は云い知れぬ衝動を受けた。いきなりカンヴァスを取り外して、ずたずたに引き裂いた。
彼は狼狽してる自分を見出した。じっとして居れなかった。画室から飛び出してすぐ病室に行った。信子と看護婦とが、同時に彼の顔を見上げた。彼は荒々しい顔付で、啓介の上に身を屈めた。
「お母さんを呼んできてあげるから、待っていてくれ給え。大丈夫だ。医者は君の容態は心配ないと云っていた。」
啓介は眼付でうなずいた。
木下はすぐに外出の用意をした。先ず丸の内の会社に、啓介の叔父の河村氏を訪ねた。それから上野の自宅に、河村氏と一緒に啓介の母の雅子夫人を訪ねた。
約束の午後三時少し過ぎに、雅子は河村に連れられて、木下の家にやって来た。木下は二人を先ず画室の方へ通した。
「今朝からずっと落付いてるようです。」と木下は云った。
雅子は終始伏目がちにして肩をすぼめながら、あたりに気を配ってるらしかった。真黒に染めた髪を小さく束ねて、縫紋の渋い色の羽織を着ていた。木下はその羽織に対して妙に心が落付けなかった。河村が煙草を取り出して火をつけた時、彼は云った。
「どうか病室の方へ。」
河村は火をつけたばかりの紙巻煙草を、一口吸ったまま灰皿の上に捨てた。そして先に立って病室の方へ行った。前に二度来たことがあるので、彼は家の様子はよく知っていた。
信子を病室に置いておかない方がいいだろうと木下は思っていたが、却って居る方がいいと河村はその朝云った。
啓介は静に仰向に寝ていた。枕頭に看護婦がついていた。信子は室の隅に小さく坐っていた。
雅子は室の入口に一寸立ち止った。中の様子に慌しい一瞥を投げると、そのまま軽く頭を下げて、つと身を飜しながら、啓介の病床の側まで歩いてゆき、其処にがくりと膝を折って坐った。啓介は徐ろに視線を移して、母の顔を一目見たが、ちらと瞬きをして、眼を外らした。
「啓介さん、私ですよ! 私が……。」雅子は声を喉につまらした。いきなり両手を顔に持っていって、その掌に顔を埋めた。室の中がしいんとなった。
「お母さん!」と啓介は低い声で囁くように云った。眼をつぶっていた。
落入るような沈黙が続いた。雅子はやがて、小さなハンケチを取出して、眼を拭いた。それから啓介の病床の裾の方を向いて、低く頭を下げ、誰にともなく云った。
「種々御世話様になりまして……。」
信子は益々低く頭を垂れて、襟に顔を埋めていた。木下はその様子を一寸顧みた。火鉢の上に身を屈めて、炭火をいじり初めた。よく熾った火を高く積み上げては、またそれを壊した。しまいには火箸の先で灰をかき廻した。
河村は病人の枕頭に廻って、容態表を覗き込んだ。
「なるほど、余りよくないね。」
雅子は床の間の机の上に並んでいる薬瓶に視線を据えていた。河村の言葉を聞くと急に眼を伏せた。
「心配することはありませんよ。」と彼女は云い出した。「何にも考えないで、静にしているんですよ。木下さんの御話では、病気もそうひどくはないそうですからね。私もついていてあげます。前のことは何にも考えないがよござんすよ。ただ早く癒ることばかり考えてね。皆なでついていますからね。あなたが病気のことを聞いて、私も早く来たかったけれど、種々……ね。誰も怨んではいけませんよ。」彼女は涙ぐんでいた。「お父さんも初めは怒っていらしたけれど、……私としても、あなたが余りなことをするものだから、……でも決して放りっぱなしにしたわけではありません。あなたが家を飛び出してから、お父さんは何を云っても黙り込んでばかりいらしたし、私もしまいには黙り込んでしまって、御飯の時だって一口も口を利かないことがありました。苛ら苛らしたり急に沈み込んだりして……。」
「そんなことはいいじゃありませんか。」と河村は彼女を引止めた。
「でもね、心では、」と彼女は云い続けた、「みんなあなたのことを許してあげています。お父さんには私からよく云ってあげます。今日私が出かける時、お父さんはそわそわして、家の中をぐるぐる歩き廻っていらしたのですよ。病気さえ癒れば宜しいんです。何もかも私が承知していますからね。あなたは仕合せですよ。みんなでこうして……ほんとにあなたは仕合せですよ。」
彼女は涙をはらはらと膝に落とした。
「お母さん!」と啓介は叫んだ。
皆黙っていた。どうにも仕種がなかった。河村は氷嚢吊りの台木に片手でつかまっていたが、ひょいと立ち上って、木下と向い合って火鉢の側に坐った。看護婦はふと思いついたように、枕の氷を取り代えに立っていった。雅子は彼女の後を見送って、そのまま室の中を見廻した。信子が一人離れて坐っていた。信子は低くお辞儀をした。雅子も礼を返した。河村はその時、何か言葉を喉元まで出しかけたが、凡てに無関心なまでに深く考え込んでいる木下の顔を見て、口を噤んでしまった。看護婦は中々戻って来なかった。深い沈黙が落ちてきた。啓介は眼を閉じていた。
看護婦が氷枕を下げて戻って来ると、「あり難う、」と啓介は云った。
その言葉に河村は顔を上げて人々を見廻した。
「今日は実にいい天気ですね。」と彼は云った。「こんなだと、今年はわりに春が早いかも知れませんよ。私は春が一番好きです。家にじっとしてるのもいいし、昼寝をするのもいいし、外を歩くのもいいし……。そうそう、啓介は覚えてるかね。私が十二三で、啓介は五つか六つだったでしょう、よく中野や目黒あたりに出かけたもんです。あの辺はまだ全くの田舎でしてね。」そして彼は、その頃の話を一人で饒舌り続けた。「啓介がどうしても私に負さるといってききません。私もやけになって、啓介を負ったままむちゃくちゃに馳け出すと、切角腹一杯つめ込んでおいた筍飯を、すっかり吐いてしまったことがありましたっけ。それから……。」
河村はふと不安な気分になって、話を止してしまった。皆が、ぽつりぽつりと置かれた将棋の駒のように黙って坐っていた。
四時頃に本田医学士が来た。木下が玄関に出迎えた。本田は玄関に並べられた下駄を見ながら云った。
「用事のために少し遅くなりましたが、皆来ていられるようですね。どうでした?」
「却って宜しかったようです。」と木下は答えた。
「そうでしょう。人の感情には程度があるもので、如何な場合にも身体に障るほど激動することは、まあないですね。」
彼はつかつかと病室にはいっていった。
午後一時半の看護婦の検査によると、熱三十八度六分、脈百十、呼吸二十六、であった。本田は暫く脈を診て考えていた。懐中電灯を取り出して足先を細かに検査した。診察を済すと、カンフルを右胸に注射した。それから、病人の顔を眺めながら、腕を拱いて長い間考えていた。そして一寸眉を挙げた。頓服薬はまだのんでいないかと尋ねた。まだと看護婦が答えた。彼は新たに頓服薬の処方を書き変えた。時計を出してみて、四時半少し過ぎであるのを見た。今から一時間ばかり後に夕食をやって、食後一時間半ばかりして頓服薬をやるように命じた。そして、翌朝の尿を取って置くように命じた。
彼はやがて辞し去った。木下と雅子と河村とが玄関まで送ってきた。靴をはきながら彼は云った。
「悪い方ではありません。あれで落付くでしょう。今晩はよく眠らした方がいいですね。余り大勢より、看護婦か誰か一人起きていれば充分でしょう。」
病室に帰ると、皆はまた沈黙がちになった。木下と河村とは画室の方へ出て行った。信子は婆やと共に食事の仕度にかかった。
人が居なくなると、啓介は大きく眼を見開いて、母の顔を眺めた。
「お母さん、済みません。」と彼は云った。
「まあ何を云うのです。もう済んでしまったことだから、何も考えないで、早く癒らなければいけません。」
室内は、妙にだだ白い明るみが次第に薄暗くなりかけていた。雅子は啓介の枕頭に、ぽつねんと坐っていた。
「お母さん。」と啓介はまた云った。
「え?」
「今晩は家に帰って下さい。」
「え! なぜ?」
「今晩は帰って下さい。」と啓介はくり返した。
「なぜそんなことを云うのです? 私はもうあの女のことは何とも思ってはいません。蒼い顔をして看病疲れしている所を見ると、私達の方が悪かったような気さえするんですもの。私に考えもあります。安心していなさい。あなたのために悪いようにはしません。」
「いえ、そんなことではありません。」
「ではどうなんです? 私も一晩位はついていてあげます。あなたが病気になってから初めて来たのではありませんか。幾晩でも起きていてあげます。何でも云う通りに用をしてあげます。あなたが眠ったら、眼がさめないように静にしています。この室に居るのが気懸りなら、向うの室に行っています。一晩位起きていても何でもありません。看護婦さんもあの女も疲れてるでしょうから、私が今晩は代りましょう。家を出かける時も、今晩は泊るとお父さんに云って来ました。」
「いいえ、お母さん……。」啓介は涙の眼を瞬いた。「今日は帰って下さい。」
「何をあなたは考えてるのです? 何か気に入らないことでもあるのですか。云ってごらんなさい。あなたの云う通りにしますから。」
啓介は何とも答えなかった。氷枕の上に頭をかすかに震わせながら、じっと眼を閉じた。雅子はその顔を覗き込んで、閉じた眼瞼から溢れて来る涙を拭いてやった。しまいには彼女の方が泣き出した。そして二人共黙り込んでしまった。
看護婦が胸の湿布を代える時に、雅子は画室の方へ行った。彼女は河村と木下とに相談した。河村は、病人の言葉に従った方がいいと答えた。医者の言葉をくり返して伝えた。木下はなんとも云わないで考え込んだ。遂に雅子は帰ることにきめた。十一時頃近所の電話をかりて容態を知らしてくれるように、木下に頼んだ。
七時半頃、頓服薬をのんで啓介がうとうと眠った後に、雅子は漸く立ち上って帰っていった。河村が自宅まで彼女を送ってやった。
帰る時に、雅子は信子へ云った。
「ではお頼みします、お疲れでしょうけれどね。いろいろ気を悪くしないで下さい。」
雅子と河村とが立ち去ると、木下と信子とは顔を見合った。二人共固くなっていた。信子は下唇をかみしめた。彼等は一言も言葉を交さずに、そのまま病室へ戻っていった。啓介は眠っていた。
その晩、信子は夜通し病人の側に起きていた。
啓介は昏々として眠り続けた。朝になって、本田医学士が見舞って来た前後、彼は二時間ばかり眼を開いていた。それからまた眠った。圧倒し来る魔睡に対して、別に抵抗しようともしなかった。夢幻的な灰白色の眠りに彼は身を任した。
午後になって、雅子は女中の近を連れてやって来た。病人の横に淋しい顔をして端坐しながら、彼女は木下に云った。「昨晩私はどんなに気を揉みましたことでしょう。じっと坐っていると堪らない気持になってきます。けれども、主人がむつかしい顔をして黙っているものですから、立ち上ることも出来ませんでした。へたに身体を動かしたり、へたな口を利いたりしますと、それが悪い前兆になりそうな気が致しますのです。けれどもお電話がかかって来た時、私はほっと安心致しました。どんなにお待ちしていたか知れません。十二時頃だったでございますね。お言葉を主人に取次ぎますと、ではもう寝たらいいだろうと云ってくれました。私は涙が出ました。ほんとにお影様で……。」そして彼女は病人の寝顔をつくづくと眺めた。注射の時、病人は一寸眼を開いた。然しまた眼を閉じてしまった。二時間ばかりして雅子は帰っていった。「病人がそういうなら、余り側についていない方がいいだろうと、主人も河村も申すものですから。」と彼女は云った。帰る時に、病室の中と玄関とを、妙に慌しく眺め廻した。
啓介はそれらのことを少しも知らなかった。その晩九時頃に眠りから覚めた。重い頭痛がしていた。
「母は?」と彼は尋ねた。
「今日お午からお出になりましたが、またお帰りになりました。よく眠っていらしたものですから。」と看護婦が答えた。
彼は頭痛を訴えた。看護婦が顳顬のあたりを軽く揉んでくれた。彼はまた眠った。翌朝五時頃に眼が覚めた。気分が安らかだった。戸を開いてくれと云った。信子が立ち上って、雨戸を開け放した。
冬から春に移ってゆく、清い冷やかな朝の光りが、俄に病室の中に流れ込んできた。天井板の木目が、鮮かに浮出して見えた。層をなして拡っているその木目を眺めていると、ゆるやかな快い波動が心に伝ってきた。揺藍の中に揺られてるような心地であった。頭の底にある遠いかすかな鈍痛が、それに調子を合した。手足の先が妙に重くて、意識の外に投げ出されたようにだらりとしていた。心の中に立ち罩めていた暗い靄が徐ろに晴れていった、遠くに、殆んど眼も届かないほど遠くに、一条の仄紅い光りがさしていた。彼はその光りに心の眼を向けた。縋りつくように見つめた。……生きるということが、生きてるということが、如何に嬉しいかを彼は知った。
顧みると、信子が顔を俯向けながら坐っていた。油気の失せた髪がかさかさに乱れて、その下から死人のような艶のない顔が見えていた。啓介は瞳を定めた。額の皮膚が濡いを失って硬ばって居り、眼の下には黒い隈が出来、頬には深い筋がはいって、窶れた筋肉が一々妙に浮上っていた。そしてそのまま彼女はじっとしていた。
啓介は一種の慄えを感じた。眼の奥が熱くなってきた。眼を閉じると、眼瞼の中が明るかった。きらきらする光りの点が無数に渦巻いた。眼を開くと、室内は朝の光りに隅々まで明るかった。
信子が朝の仕度に立って行くと、啓介は静に身体を動かした。寝返りをしてみたり、仰向に寝てみたりした。動く度毎に、手足の指先まで、細かい神経の網の目が眼覚めてゆくのを感じた。
「僕はどの位眠っていました?」と彼は看護婦に尋ねた。
「一昨日の晩からですわ。」
「一昨日の晩から!」と彼は口の中でくり返した。然し時の観念がぼやけていた。同じように連続した時間のみが存在していた。ただ大きな空虚が、大きな中断が、眠りのうらに過しただだ白いものが、ぽかりと口を開いていた。その中に怪しげな姿がつっ立ってくるようだった。彼はそれから眼をそむけた。遠くが見えてきた。青い空、広い野原、静まり返って並んでいる木立、何ものをも肯定する生の息吹き……。彼は大きく息をした。肺尖のあたりがきりきりと痛んで、痰が喉にからまった。彼は顔を渋めた。看護婦が痰吐を取ってくれた。痰を吐き出してしまうと、胸が軽くなった。
木下が室にはいって来た。
「よく眠ったね。」
「ああ。」
それきり黙ってしまった。
彼は木下の全身に対して、訳の分らない反撥を覚えた。長い髪の毛、黒い光りを放ってる眼、先の太い手指、だぶだぶに拡ってるメリヤスの襯衣の袖口、それらから暗い影が発散してくるような気がした。
二人共黙っていた、看護婦が室を出ていっても黙っていた。看護婦と殆んど入れちがいに、信子がはいって来た。彼女は襖を開いて一寸躊躇した。それから静に襖をしめて、火鉢の側に坐りながら炭をつぎ初めた。
先夜のこと、それ以前のこと、飛び飛びの事件を、啓介は思い出した。それらは、静かな時の連続のうちに、険しい巖のように立ち並んでいた。まわりには激しい旋風が荒れ狂っていた。啓介は落付いた心で眺めやった。それは既に過ぎ去った暴風雨であった。暴風雨の後姿から受けるような、深い底知れぬ静安の気が彼の心に泌み込んできた。もはや何にも云うべき言葉が残っていなかった。──木下も黙っていた。
暫くして、木下は突然顔を上げた。
「信子さん、新聞がきていましたか。」と彼は云った。
「はい。」
「済みませんが持って来て頂けませんか。」
「此処へ!」
「ええ。」
暴力とも云えるようなものが、木下の言葉や顔付に籠っていた。……信子は立ち上った。そして新聞を持って来た。
木下は其処に寝そべって、新聞を開いた。啓介は静に寝ていた。木下は新聞の上に眼を落した。然し別に読んでるのでもなかった。啓介は静に寝ていた。木下は手荒く新聞を裏返した。暫くすると、またあちらこちら引っくり返した。啓介は静に寝ていた。木下は新聞を折り畳んだ。それからまた拡げた。啓介は静に寝ていた。
「君、」と木下は云った、「退屈だろう。新聞でも読んであげようか。」
「いや、あり難う。」と啓介は答えた。
「勿論この調子でゆけば、自分で新聞を読める位にはすぐになるだろうがね。」
それきり二人はまた黙り込んだ。
信子は堪らなくなって室から出て行った。
暫くすると、木下は云った。
「君はまるで夢中だったね。」
「いやよく知ってる。」
「何もかも?」
「うむ、頓服をのむ以前のことは。」
「そうかなあ……。」
木下は皮肉な笑いを一寸口辺に漂わしたが、平然たる啓介の顔を見て、口を噤んでしまった。然し執拗にいつまでも病室に残っていた。
信子はまた幻を見るようになった。後ろから蔽い被さってくる過去の暗い影ではなくて、前方を遮る冷たい鉄の扉の幻影であった。彼女は、啓介の病気が全快するかも知れないのをひたと胸に感じた。彼が大きい打撃から脱して平穏な状態に復したことは、やがて停滞した容態に打ち勝って、回復の曙光を暗示するものであった。その回復の曙光が、木下の方へぬけ出んとする彼女の行手を遮った。また木下の姿が、啓介の回復を通じて未来へぬけ出んとする彼女の行手を遮った。何れへ向っても、堅い鉄の扉が前方を塞いでいた。迂路を取ることの出来ない直線的な彼女は、眼をつぶってその扉にぶっつかっていった。冷い戦慄が全身に流れた。現在の直接印象に強く支配せらるる彼女は、前後を通観する批判の眼を持たなかった。彼女は出来るだけ、木下と二人きりになるのを避けた、啓介と二人きりになるのを避けた。
一人でじっとしていると、いつのまにか考えは切端つまった所へ落ち込んでいった。真直に眼を挙げるのが恐ろしかった。伏目がちの横目で、じろじろあたりを見廻した。家の内外は、平素と少しも異らなかった。六畳の室には、茶箪笥の上にいつもの通り茶器や菓子盆が並んでいた。画室には見馴れた繪がずらりと懸っていた。裏口には、洗濯盥が転がっていた。啓介の敷布や木下の襯衣などが物干竿にぶら下っていた。日が照ったり陰ったりした。三畳には婆やの所持品や看護婦の荷物が取散されていた。「どうにでもなるがいい、」と彼女は思った。台所に立って行って、取って置いた日本酒を冷たいまま、眼をつぶってコップで飲んだ。頭と手足の先ばかりが熱くなって、背筋がぞくぞく寒くなった。三畳の低い窓縁に腰掛けて外を眺めた。木の芝生もない三尺ばかりの空地を距てて、すぐ眼の前に黒ずんだ板塀があった。牢屋にはいったような気がした。「馬鹿々々。」と自ら嘲る声が何処からともなく聞えた。
彼女は小声で唄を歌い出した。カフェーに居る時覚えた流行唄を初め歌っていたが、いつのまにか、女学校や小学校の頃習った唱歌になってしまった。自分の声に聞き惚れていると、自然に涙が出て来た。涙ぐみながら、幼い唱歌を歌いながら、足をやけにばたばた動かしていた。
木下が其処に姿を現わした時、信子ははっと息をつめた。窓縁につかまったまま身体が氷のようになった。
「何をしてるんです、唱歌なんか歌って。」と木下は云った。
信子は黙っていた。
「岡部君がよくなってゆくのが、そんなに嬉しいんですか。先日までは……。」
木下は言葉を途切らした、そして眼を見張った。
「信子さん、あなたは酒を飲みましたね。」
二人は互に食い入るように眼と眼を見合った。木下は一歩進んだ。信子はつと身を引いて、唇を少し歪めながら天井を仰いだ。痩せた襟筋に小さな喉仏が見えた。
「ええ私酔ってますわ。」と彼女は云った。
木下は陰惨な瞬きをした。が俄に笑い出した。
「ははは、カフェーのお信さんに逆戻りですか。」
「ええそうかも知れませんわ。」
「そしてマダム岡部はどうしました?」
信子は急に振り向いた。顔色を変えていた。
「何を仰言るのです?」と彼女は云った、「失礼な!」
その最後の一句が何とも云えない調子外れの響きを与えた。今までの気分が何処かへ吹き飛ばされてしまった。二人は妙にきょとんとした顔を見合った。泣いていいか笑っていいか分らなかった。しまいには苛ら立った憤りの情のみが残った。木下は肩を聳かした。
「信子さん、私はあなたに云って置きます。もう私はあなたの玩具にはなりたくありません。あなたを凡て所有するか凡て失うかです。」
信子は彼の顔をじっと見つめた。
「それでどうなさろうと仰言るのです?」
「どうする、ですって? あなたは今更そんなことを云うのですか。あなたの心は何処に在るんです? 私はそれが知りたい。岡部君の容態の見極めがつかなくて苦しさの余り、一寸私に縋りついて来たばかりだ、そんなことを私はもうあなたに云わせはしません。私は岡部君に、私達は愛しているとはっきり云いました。岡部君も、君達は互に愛し合ってくれと云いました。熱に浮かされてたのではありません。何でもはっきり知っている、と岡部君は私に言明しました。今となっては、あなたが自分で自分を解決するばかりです。それで凡てが決します。私は岡部君と争おうとは思わない。病人と争おうとは思わない。然しこのままの状態でいることは出来ません。あなたの一部分だけを、憐れみの情から恵んでほしくはありません。凡てを得るか凡てを失うかです。そして周囲の事情は、もう猶予を許しません。岡部君の両親がどんな考えでいられるか、あなたにも分るでしょう。岡部君のお母さんが云われた言葉の意味は、あなたにも通じてる筈です。私は落付いてはいられない。何れかに決定しないうちは……。」
「木下さん、私は……。」
「何です? 云って下さい。私はどんなことでも期待している。覚悟しています。」
「あなた方は、私を品物か何かのように取引しようとしていらっしゃるのでしょう。いえ、そうですわ、そうですわ。岡部とあなたとは、私を品物か何かのようにやり取りしていらっしゃるのです。」
木下は組んでいた両腕を振りほどいた。そして両の拳を握りしめながら、信子を見つめた。それから眼を閉じた。身体を震わしていた。また眼を開くと、急に大きく息をついた。彼は云った。
「あなたは私を軽蔑していますね。いや私の心を踏み蹂っています。品物か何かのようにやり取りしてるとは……余りの言葉です。あなたこそ、私と岡部君との間を飛び廻ってるじゃありませんか。然し私はあなたと議論したくはない。私の愛を信じなけりゃ信じないでいいです。私を軽蔑なさるがいいです、……岡部も私を軽蔑してる。魔睡から覚めてからは、何を云っても平気で澄し込んでいる。私の友情を、私の心を、高い所から見下すようにして落付き払っている。……軽蔑するならするがいいさ。私は軽蔑されるに適当だろう!……あなたも軽蔑なさるがいい。然し私は、そんなことに参ってしまいはしない。解決するまでは、あくまでもぶっつかっていってやる。その覚悟でいらっしゃい。私の心を踏み蹂っておいて、よくも平気で……。」
彼は終りまで云ってしまうことが出来なかった。言葉を途切らして、唇を震わした。両手で帯の前の方を握りしめ、肱を張って、肩をすぼめ、顔を前方につき出して、黒光りのする眼で、窓の外の板塀を睥んでいた。信子は云い知れぬ恐怖に囚えられた。彼女は窓縁から飛び下りて、其処に立ち悚んでしまった。
沈黙が続いた。木下はいつのまにか眼を沾ましていた。彼は俄に我に返ったように、つと手を伸して信子の手を執った。それを堅く握りしめながら云った。
「信子さん、許して下さい。私は、自分の魂が次第に醜くなってゆくのを知っています。浮び出ようとすればするほど、益々流の中に沈んでゆくような気がします。然し、私の心を信じて下さい。私は淋しいのです。この淋しさは、あなたには分らないかも知れない。岡部君を持ってるあなたには……。」
木下は歯をくいしばった。そして倒れるように、今まで信子が掛けていた窓縁に腰を下した。
「私が悪いのです、私が!」と信子は叫んだ。
彼女は木下の腕に縋りついた。木下は意識を失ったかのように、深く瞑想に沈み込んで身動きさえもしなかった。……突然、信子は激しい恐怖に震え上った。彼女は両手を握り合して、後退りしながら室を出て行った。入口で一寸足を止めた。木下は頭を垂れて、黙り込んでいた。彼女は急に身を翻して出て行った。
木下はじっとしていた。
啓介は、頓服薬をまたのみたいと云った。身体に障るからと云って高子がとめた。啓介は黙って首肯いた。然し夜になると、彼は自然の眠りに落ちた。眠りは安らかだった。一時過ぎに眼が覚めた。
深い静寂があたりを包んでいた。啓介は眠った風を装って、室内の様子を窺った。何の気配もしなかった。細目に覗いてみると、高子と信子とが起きていた。信子はだらしなく炬燵によりかかっていた。高子は何かの書物を読んで居た。啓介はまた眼を閉じた。
生きてることを意識する光りが、彼の心に射していた。しみじみとした爽かな光りだった。云い知れぬ感激が胸からこみ上げてくるのを、彼はじっと押えた。「神よ!」と呼びかけてみたくなった。広い無際限の野に出ていた。「神よ!」と呼びかけたくなった。然し、眼瞼のうちに射し込んでくる電灯の明るみをしたって、半ば眼を開いた時、すーっと黒い影が掠め去った。彼はあたりを、心の中の隅々を、顧みた。まざまざとした記憶が、眼を開いてきた。取り返しのつかない事実が、その背後に聳えていた。彼の頭の中には打ち消すことの出来ない印象が刻み込まれていた。
木下と信子との関係がどの程度まで進んだものであるか、彼は少しも知らなかった。然し背景となるべき雰囲気と事情とを考えて、ただ心と心との結ぼれに過ぎないことを疑わなかった。然しその心をこそ、信子の心をこそ、あれほど苛ら立ちながら彼は求めていたのであった。今その心を失ってしまったことを思うと、彼は堪らない寂寥に襲われた。信子との深い愛の日のことが思い出された。その一つの記憶の糸をたぐると、凡てのことが展開されてきた。敢然と肯定してはいっていった愛の生活、両親を捨てて家を飛び出した前後の事情、世に隠れて移り住んだ一室、絶えず胸に沸いてきた奮闘の力と信念、それらが……僅かな一撃の下に崩壊してしまった。而もそれは、二人が身を托した友人の手によって為された、自分の半身だと信頼していた彼女の手によって為された。彼は足場を失って無限の深みへ落ちてゆくのを感じた。そして今、陥った無限の底に達すると、何処からともなく仄かな明るみがさして来るのを知った。それは自分が存在してるというかすかな意識だった。彼はその明るみに縋りついた。上に浮び出ると、涙ぐましいばかりの生命の光りが漲っていた。すると、僅かな気分の揺ぎに、その光りがふっと陰っていった。過去の事実が巖として聳えていた。彼はまた無限の暗い深みへ陥っていった。斯くて彼は、先夜死の幻の暗い穴を脳裏に去来さしたように、闇と光りとの間を往来した。然し今投げやり投げ返されるのは彼自身であった。そして、殆んど律動的な残忍な上下動に身を任しているうち、彼は遂に一つのものに辿りついた。それは無限の底に身を落付けることだった。生きるということの光りを見捨てて、ただ存在するという仄かな明るみに、深い闇の底に何処からともなく射してくる明るみに、闇を安住させることだった。其処から外を眺めると、凡てが静かに、ほんとに静かに、じっと落付いていた。「信子!」と彼は呼んでみた。「木下!」と呼んでみた。何の反響も伝わらなかった。母の名を呼んでみた。静かだった。彼は手足を伸して安らかに横たわった。病室の空気も、今は親しくなつかしく思えた。──然し其処に達するまで、彼は魔睡から覚めて以来絶えず苦悩を続けた。或時は、病に衰弱しきった自分の精神に絶望した。或時は、殆んど夢幻のうちに彷徨した。何を云われても彼は黙っていた。余儀ない場合には出来るだけ簡単な返事をした。もし、木下と信子とが何故にああなったかを考察したならば、彼の苦悶はそれほど残酷ではなかったろう。然し彼の頭はその「何故に?」ということに働きかけなかった。彼は結果の事実にのみぶっつかっていった。彼の顔の筋肉は硬ばって、額は暗い皺を刻んでいた。ただその心には、深い所から射す安らかな光りがあった。彼は落付いていた。深い安らかな心の光りで凡てを眺めた。
落ち付いた彼の心を乱すものは、ただ一つきり残っていなかった。それは先夜の自分の提議であった。木下に信子の未来を托さんとする提議であった。ああいうことをすべきであったか否かを、彼は自ら尋ねた。そして躊躇なく否と自ら答えた。自分の死後を自ら規定する権利、それは誰にもないのであると、彼は考えた。彼は激しい自責の念に襲われた。そして、その自責の念を掘り下げることによって、彼は益々深い所へ落付いていった。もし彼が何故にああいう提議をしたかと自ら尋ねたならば、彼は更に深い動乱に陥ったであろう。茲に在っては、彼の意識がその「何故に?」を逸したことは、却って彼に幸した。然し彼は自分の自問自答に、何か不足なものがあるのを覚えた。しきりに深い落付きを求めている彼は、なお考えを止めなかった。そして幾度も同じ問いと答えとをくり返した。
眼を転じて室の中を見廻すと、まだ信子と高子とが起きていた。
「もういいから、寝んで下さい。」と彼は云った。「起きていられると何だか眠れない。」
然し二人は寝ようとしなかった。彼はまた同じ言葉をくり返した。
「では寝みましょうか。」と高子は云った。
信子は黙って首肯いた。
高子は、病人の湿布と氷とをすっかり取代えた。そして床にはいった。信子も床をのべた。
啓介は眠ったがように眼を閉じてしまった。そして頭の中で、凡ての観念を自分と同じ深い底に落付けさせようとした。ともすると、一つの観念がぽかりと上の方へ浮び上った。彼はそれを漂い所へ引き寄せた。また他の観念が浮び上った。彼はそれを引寄せた。やがてその仕事に倦み疲れて眼を開くと、信子がまだ炬燵によりかかっていた。
「もうお寝みよ。」と啓介は云った。
信子は驚いたように顔を上げた。真蒼な色をしていた。眼をきょとんと据えていた。暫くして思い出したように返事をした。
「はい。」
それが余り程経てだったので、啓介はくり返した。
「もうお寝みよ。起きていなくてもいいから。」
信子は眼をくるりと動かした。
「寝たくないから、勝手に起きてるんですわ。」
啓介は黙ってまた眼を閉じた。彼女の心が最も悪い状態に在るのを彼は知った。責任が自分に在るような気がした。自責の念が益々深められていった。然し悔恨となっては現われなかった。ただ深い自己沈潜を助けるのみだった。彼は殆んど夢幻の境にまで沈んでいった。どん底に達したかと思うと、また一段と深い所が現われてきた。自分は存在してるという意識の底に、その仄白い明るみの底に、更に空虚な闇が湛えていた。その闇の中に覗き込むと、ただ茫として、怪しい幻が立ち罩めてるようだった。其処では個性が許されなかった。凡てが一つの大きな渦に融け込んでいた。彼は眼が眩むように覚えた。……はっと我に返ると、凡ての注意が一つ所に集められていた。彼はその急激な変化に、暫く息さえも出来なかった。やがて次第に何のことだか分ってきた。襖の外の廊下に何かの気配がした。彼は凡ての注意を其処に集めた。あたりがしいんとしていた。
「おい、お寝み!」と彼は信子に云った。
信子は、その声とその眼付とに、異常な何物かを感じた。「はい、」と答えて立ち上った。
啓介は襖の外に注意を集中していた。物の気配が静に遠ざかっていった。廊下の板がみしりと軽い音を立てた。信子は便所へ行った。すぐに戻って来た。彼の様子をちらと眺めて、床にはいった。彼はなお廊下の方に気を取られていた。
啓介には長い時間のようでもあれば、また僅かな間のようでもあった。再び何かの気配が廊下を伝って来た。彼の注意は鋭利に、病者特有の鋭利さに、研ぎすまされた。その何者かは、病室の前に来てぴたりと止った。静になった。襖がことりと一つ揺れた。押えとめられて却って喘ぎの音を立ててる、温い息が感ぜられた。それが数瞬の間続いた。啓介は俄に直覚した。疑う余地はなかった。彼は暫く躊躇した。それから眼をふさいで心を落ち付けた。そして云った。
「木下君、はいり給え。丁度眼がさめてるから。」
三四秒の間、静まり返った。それからすーっと襖が開いて、木下がはいって来た。
彼の顔は総毛立っていた。眼の光りが黒く冴え返って、荒々しいほど露わに覗き出していた。彼は室内をくるりと見廻した。それから、其処に置かれてる炬燵によりかかるようにして坐った。
「まだ起きてたのか。」と啓介は云った。声が自然に震えた。
「用があるんだ。」と木下は答えた。
啓介は黙っていた。
「君は、」と木下は云った、「僕のやったことを卑劣だと思ってるね。」
啓介は静に首を振った。
「つまらないお世辞は止し給え。僕自身も卑劣だと知ってる。然し……僕は君達の心が知りたいんだ。」
「おい、低い声で云ってくれ給え。」と啓介は注意した。調子はもう落付いていた。「二人共眠ってるから。」
暫く沈黙が続いた。
「僕は今のうちに、解決しておきたいんだ。」と木下は云った。「中途半端な状態は堪えられない、然し病気の君と争うつもりではない。ただ君の答えがききたいんだ。」
「何の答えが?」
「どういう解決を望んでるか……。」
「解決の鍵は信子の心が握ってる。」
「然し君にも何かの希望はあるだろう。」
「ない。」
暫く沈黙が続いた。
「では僕は君に尋ねる。一々本当の所を答え給え。」
「うむ。僕はごまかしはしないつもりだ。」
「もし信子さんが、僕に一生を任せると云ったら、君はそれでもいいのか。」
「いい。」
「もし信子さんが、君の手に戻りたいと云ったら、君は許してやるか。」
「今はその力が僕にはないような気がする。然しやがて許し得ると思う。」
「僕達は互に愛したのだ。」
「知っている。」
「君は先夜のことを覚えているのか。」
「覚えている。」
「あの言葉を取り消し給え。」
「僕は、あの言葉は云うべきものではなかったと考えている。然し、あれを取消しても消さなくても、結局同じことのような気がする。」
「なるほど君の云いそうなことだ。あの言葉で僕の心に烙印をおして、僕の心の傷を一層大きくして、それで復讐するつもりだろう。」
「何を云うんだ君は。」
「そして一方では、あの言葉から遡って、信子さんの罪を安価に見積ろうとするんだろう。」
「おい、低い声で云ってくれ給え。皆眠ってるんだ。」
「二人に聞かれるのが恐ろしいのか。」
「木下、君はどうしてそう悪魔のような物の云い方をするのか?」
「そして君は、神のような物の云い方をしてるというんだろう!」
二人は黙り込んだ。互の間に越え難い溝渠があるのを、二人共感じた。……啓介の性格は、より強くてまたより退守的であった。木下の性格は、より弱くてまたより突進的であった。而も、強くて退守的な啓介の心は、深い宗教的な雰囲気に包まれていた。弱くて突進的な木下の心は、苛ら立った現実的な雰囲気に包まれていた。二人はいつのまにか、遠い距離を距てて立っていた。
「木下、」と啓介は云った、「僕はもう何にも云うまい。ただ自分を恥しいと思う。……信子の心に自由な途を歩かしてやろうじゃないか。」
「そして君は、ただ待ってるというのか。」
「それより外に仕方がない。」
「それが最も安全な勝利の方法だろうさ。」
「何が?」
「そうさ、僕と信子さんとの間は唇と唇との交渉にすぎない。然し君と信子さんとの間はもっと深い交渉だからね。」
「何だと!」啓介は思わず叫んだ。
「君は夢想家さ。そして最も実際家だ。」
「木下、君の心は何処まで汚れてゆくんだ! 何処まで僕をふみ蹂ろうとするんだ!」
「ふみ蹂るのは君の方だ。」
「僕はもう何も云わない。自分の罪は自分で背負うつもりだ。」
「宜しい。君は罪を背負うがいい。僕は苦しみを背負ってやる。そして……。」
──信子は眠っていなかった。……彼女は酔っていた。酔った心にも、初め啓介の様子から強い衝動を受けた。床にはいってから、あたりの様子を窺っていた。木下が室にはいって来た時、彼女は名状し難い戦慄を覚えた。息を凝して、二人の対話に耳を傾けた。深い夜の静寂の中に、対話は低い声で交わされていった。その短い低い言葉が、陰惨な恐怖を彼女に与えた。声が少し高くなる度に、彼女ははね起きようとした。然し恐怖の情に圧せられて、身を動かすことも敢て為し得なかった。木下が交渉云々のことを云った時、彼女は胸の真中を射貫かれたような戦慄を感じた。「何だと!」と啓介が叫んだ時、もう堪えられなくなった。いきなり手を伸して、傍に眠っている看護婦を揺り起した。
高子はむっくり起き上った。木下と啓介とが何か云い合ってるのを見た。彼女はその一言で話題の如何なるものであるかを察した。
「どうなすったのです?」と彼女は声を立てた。「議論なんかなすって。この夜中に!」
二人は口を噤んだ。高子は床の上に居座いを直した。深い沈黙が室の中を支配した。啓介は、先の太い木下の手指を見つめていた。木下はそれを痙攣的に震わした。そして、ゆるやかな殆んど聞き取れない位の声で云った。
「岡部、僕はほんとの苦しみにぶつかるためにやって来たのだ。それが、君を苦しめに来たような形になってしまった。許してくれ。」
然しその調子には少しもしみじみとした所はなかった。暗い渦の中から湧き出る声のようだった。啓介は眼を伏せた。木下は立ち上った。彼は黙って室を出て行った。
木下の足音が廊下の向うに消え去ってしまうと、信子はつと起き上った。啓介がじっと寝ていた。
翌朝、木下は婆やと同時に起き上った。その前にも一度起き上って画室に行ったが、黎明前の冷たい夜の空気に、彼は震え上った。煖炉に火を焚こうとしたが、あたりが余りに静まり返っていた。誰にともなく──必ずしも岡部や信子に対してばかりでなく──物音が憚られた。彼は帰って来て、また蒲団を被った。昨夜からの苦しい悪夢のような考えが、機械的に連続して、頭が惑乱のうちに汗ぼんできた。手足の先は冷えきっていた。婆やの起き上る音が聞えると、彼は初めて我に返ったような心地がして、むっくり起き上った。
彼は画室にはいった。煖炉に火を焚いた。窓掛を上げて透し見ると、外は一面に仄白かった。濃い霧が深く湛えて、方向もなく静に流れ出してるらしかった。煖炉の火が、窓硝子の外に、濃霧の中に、真赤に映って燃えていた。
彼は椅子の上に身を落し、窓際にもたれ、熱い額を両の掌に埋めた。
──二つの岡部の姿が、彼の前につっ立っていた。一つは、親友としてのまた畏友としての岡部、彼の許に一身を托してきた岡部、長い病に衰えきって幾度か危い境に彷徨した岡部、……而も彼はその岡部に対して如何なることをしたか! 病床に於ける岡部の残忍な苦闘を想う時、彼は自ら戦慄を禁じ得なかった。然しその岡部の傍には、も一つの岡部がつっ立っていた。危険なる容態と酷薄なる苦悩とを通り越して、静に、何物も乱すことの出来ない静かな落付きを以て、冷かに周囲を眺めている岡部。……彼は宛も巨大なる岩石に向うような気がした。彼が如何に苛ら立ち、如何に苦しもうとも、その岩は平然として眼をつぶっていた。そしてその二つの岡部を繋ぐものは、僅かに、「もし僕が死んだら信子のことを頼む、」との一言だった。「互に愛してくれ、」との一言だった。而も、僅かにではあり、一言ではあったが、それが彼の胸をぐさりとつき刺していた。名状し難い悲痛な感情が、苦痛が、其処から黒い血のように湧き出してきた。──信子も彼の眼には、二つの姿となって映じていた。一つは、愛する女性として。……彼女の瞳、彼女の香り、眼を閉じてよりかかって来た彼女の心、それらは彼の胸の底まで泌み通っていた。而もその傍には、単なる一女性が立っていた。恋の対象として「彼女でなければならない。」ということを、今の場合になって、右か左かの分岐点に立って、彼ははっきり感じなかった。凡てが必然さを以て彼の頭にぴたりと来なかった。多くの罪をも踏み越して愛した信子が、ただ「女性」のうちの偶然の一人であろうとは、彼は今迄夢にも思わなかった。而もそれは、彼の心を益々信子に愛着させるのであった。偶然であるがために、必然の繋りがないために、今別れることは永久に失うことであった。彼は殆んど解く術のない矛盾に迷い込んだ。──憂悶の辺際に追い込まれた彼は、凡てを一つにまとめることが出来なかった。分離した二つの岡部、分離した二つの信子、それらに対する苦しい考え、それらが或は絡まり或は孤立して、彼を陰惨な渦巻きの底へ誘って行った。そして彼が最後につき当るものは、あれほどの打撃に小揺ぎもしない岡部と信子との間の繋鎖であった。圏外に投げ出された自分の孤独であった。──木下は窓際にもたれたまま、肩を震わして啜り泣いた。啜り泣きながら苦しい夢幻の境に彷徨していた。画室の扉を開いて、信子が──それとも看護婦だったか──それとも、そんな筈はないが、岡部だったか──誰かがじっと覗き込んだようだった。彼は身動きもしなかった。いつのまにか外は霧が薄らいで、桃色の明るみに変っていた。煖炉の火が消えかかっていた。電灯の消えた室内に、茫とした盲たような明るみがあった。
ふと木下は我に返った。泣いていたことに気付いた。凡ての妄想が消え失せた。彼は云い知れぬ憤激の情に駆られた。呪わしかった。あらゆるものが、自分の身が。そして呪咀の気分の下から、一切を解決したいという焦慮が湧き上ってきた。呪って生きてやれという絶望の念が湧き上ってきた。彼は画室の中を見廻した。壁に掛ってる画面の歪んだのを、一々真直になおした。室の隅のカンヴァスを、大小の順に置き直した。卓子の抽出の中を片付けた。棚の上の書物や道具をきちんと整えた。そういうことをしながら、彼は死を想ってるのではなかった。呪わしい自分の生を愛護して突進せんことを想っていた。棚の上の花瓶を見た時、彼は身を震わした。唇をかみしめ眼をつぶってもたれかかってくる信子の姿が、一寸心に映じた。
彼がまた危く荒廃の感の底に沈もうとした時、画室の扉が開いて、婆やの顔が現われた。彼女は、床に落ち散っている紙屑や布片を見て、眼を円くした。
「どうなさいました?」
木下は答えなかった。
「御飯でございますよ。」と老婆は云った。
「僕は一寸出かけて来るから、後で此処を掃除しといて下さい。」と木下は云った。
彼はそのまま、帽子も被らず家を出て行った。白く霜のおりた野の上に、弱い日が輝き出していた。彼は当もなく歩き出した……。
彼は何処をどう歩いたか覚えなかった。ただ、後頭部にかすかな温みを送る朝日の光り、爽かな冷かな空気、霜の湿りを受けた黒い地面、何処かで鳴いた小鳥の声、遠い汽笛の音、それらを心に感じた。
八時頃、看護婦が三疊で髪を結ってる時、木下は始めて病室に姿を見せた。彼は容態表をじっと眺めた。その朝の検査によると、熱三十八度二分、脈九十、呼吸十八だった。痰に交った血液は僅かだった。
「岡部!」と木下は云った。
「何だ?」と啓介は答えた。
二人は一寸黙った。
「君は入院し給え。」と木下はやがて云った。「僕が凡て取り計らってあげる。それは僕の最後の務めだ。」
「ああ、入院しよう。種々なことは頼む。」
二人共落付いていた。言葉の調子も静かだった。ぶっつかるべきものにぶっつかっていった後の安らかさだった。解決はしていなかった。然し苦しむことによって二人は解決の外に出ていた。木下は落ち凹んだ眼を、じっと畳の上に落していた。彼は云った。
「僕は君と交りを絶つ前に一言云っておく。生死を背景にした賭事は云わないようにし給え。これが僕の最後の忠告だ。」
「あり難う。」と啓介は答えた。
木下は障子の硝子から外をすかし見た、晴れ渡った青い空があった。快い日の光りが一面に落ちていた。彼は暫く躊躇した。それから立ち上った。
「では行って来る。」
彼はそのまま室を出て行った。
室の隅に坐っていた信子は、俄に立ち上った。啓介は眼を閉じた。彼女は夢みるような眼を見据えた。肩を震わした。そして木下の後を追って行った。
木下は画室に居た。マントを着ていた。信子がはいって来たのを見て、ぐるりと向き直った。
「何しに来ました?」と彼は云った。
信子は一足退った。それから入口の扉につかまって、眼を見据えながら唇をかんだ。
「もうあなたは私に用はない筈です。」と木下は云った。「お慈悲の涙は流して貰いたくありません。……あなた達から見たら、私の魂は汚れて醜くなってるでしょう。然し私は、自分の魂の醜さから力を汲み取っている。凡てを呪ってやる。人生を呪ってやる。呪いながら自分の魂を黒く塗りつぶすことから、私は生き上ってゆく。私は淋しい。この底の無いような深い淋しさを、骨の髄まで喰い入るような淋しさを、私はあくまで自分のものとしてみせる。私は親友を失った。愛を失った。然し生きる力は失わない。私の魂が醜くなってゆくことは私が生きてゆく証拠だ。」
木下は踵でくるりと廻った。それから卓子の上の帽子を取った。
「あなたは何を恐れているのです。何も恐れることはない。なるようになったのです。」
木下は徐かな足取りで大股に室から出て行った。信子は扉から壁へ沿って身をずらしながら、木下を通した。
彼女はそのまま壁につかまって、石のように固くなった。暫く身動きもしなかった。と突然、幻をでも見るように室の真中を見つめた。それから俄に身を研して、画室から飛び出した。髪油のついた両手を拡げてやって来る高子と、廊下で行き合った。彼女は慴えていた。病室の中に逃げ込んだ。静かだった。
「どうしたんだ、つっ立って。」と啓介は云った。
信子は片隅に坐った。そして、追いつめられたように肩をすぼめた。過去のことが凡ての重さで、彼女の後ろからのしかかってきた。何れへ行こうと自由だと考えていた彼女は、自分の身を繋いでいる眼に見えない多くの鎖を、愈々の時になってまざまざと感じた。既に一人の男に身を任したことのある女性のみが知る鎖だった。彼女の悩みは、頭の中だけのものではなくて、実質的のものとなった。呼吸の度に、心臓の鼓動の度に、うち揺いでいる自分の柔かな肉体を、彼女は着物を通して見つめた。その肉体に泌み込んだ男の息吹きが、まざまざと感ぜられた。永久に絶ちきれない鎖、消すべからざる絡印。それから脱するには身を殺すより外に途はなかった。
啓介は一言も口を利かなかった。信子も黙っていた。そして彼女は、もう一歩も病室の外に出なかった。
十一時、雅子が女中を連れてやって来た。
「入院するんですってね。」と彼女は云った。「もう動いても宜しいのですか。木下さんの電話が余りだしぬけなものですから、私は夢のような気がしました。それでも、こんな嬉しいことはありません。ほんとに早くよくなって下さい。入院して早くよくなって下さい。」
彼女は室の中を見廻した。
「木下さんは?」と彼女はふと気がついたように尋ねた。
「病院に行ってるのでしょう。」
「そう。」そして彼女は信子の方を向いた。「あなたも、病院についていて下さいましょうか。」
「はい。」と信子は口の中で答えた。
「それから……、」と雅子が云いかけた時、信子は其処につっ伏して泣き出した。声を抑えながら、あとからあとからと咽び上げた。雅子も涙ぐんだ。啓介はつと起き上ろうとした。そして床の上にまた倒れた。高子が彼の身体を支えてやった。
「すぐに仕度をして置きましょう、いつでも病院に行けますように。」と高子は云った。「静にして被居いましよ。私に任しておいて下さい。大丈夫ですよ、あの病院ならそう遠くはありませんから。」
彼女は床の間の種々な物を取りまとめ初めた。信子も立ち上った。然しまた其処に坐ってしまった。涙がこみ上げて来た。雅子がその側にすり寄った。
「あなたにもほんとに苦労をかけましたね。悪く思わないで下さい。」
「いいえ、私は……。」と信子は云いかけて、声を呑んだ。
しめやかな沈黙が続いた。高子は一人で幾つもの風呂敷包みを拵えた。
やがて木下は戻って来た。額は汗ばんでいた。彼は雅子にお辞儀をして、啓介の方へ口早に云った。本田医学士が便宜を計ってくれたこと、病院の一等室を一つ空けて貰ったこと、本田氏は容態を気遣ったが、大丈夫だと自分で引受けて無理に頼んできたこと、午後三時前に寝台車と俥四台とが来るようになってること、本田氏が病院で待っていてくれること、河村氏もその時病院の方へ来て貰えること……。
「俥は四台で足りるかしら、」と木下はつけ加えた、「僕は歩いて行くからいいが。」
「宜しいでしょう。」と高子が答えた。
啓介は眼をつぶった。寝台車に運ばれて病院へやって行く光景が、眼瞼の中に見えてきた。それは丁度死体を運ぶがようだった。静まり返っていた。堪らなく淋しかった。何の物音もしなかった。眼を開くとその光景が消えてなくなった。木下が上目がちに天井の隅を睥んでいた。
「木下!」と啓介は云った。
「岡部!」と木下は答えた。
数瞬間……そして木下はつと立ち上った。こみ上げてくる愛憎の戦きを胸の中に押え止めながら、画室で一人で泣くために、室を出て行った。向うにじっと坐って木下の後姿を見送ってる母と、低く顔を伏せてる信子とを、啓介はちらと見やったが、かすかに唇を震わしたまま、また眼を閉じてしまった。
底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1)」未来社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「新小説」
1920(大正9)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年9月18日作成
2011年10月3日修正
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