田原氏の犯罪
豊島与志雄




 重夫しげおは母のしげ子とよく父のことを話し合った。それは、しげ子にとっては寧ろどうでもいい問題であったが、重夫にとっては何かしら気遣わしい、話さないではおれない問題であった。

 実際、重夫の父田原弘平は凡てに於て観照家でそして余りに寛大であった。然しそれはいいことであったかも知れない。ただ重夫が気遣わしく思ったのは、物にぶつかってゆく力を欠いだ父のそうした生活態度を通して、父のうちに或る空虚が澱んで来ることであった。其処に眼を向けるのは気味悪くまた恐ろしかった。然し重夫はそうせざるを得なかった。

「この頃お父さんはよく夜中に起き上って庭を散歩なさるではありませんか。」

 重夫は母にそう云った。

「いえ夜中と云ってもそれは朝の四時か五時頃なんですよ、」としげ子は答えた、「暑くなると朝早く起きる方が身体にいいと云っていられるのですよ。お前さんのように寝坊するよりはね。」

 彼女は微笑んでいた。何事にも穏かな素直な微笑みを洩らすのは彼女の癖であった。いつも善意に、いや寧ろ善意とさえも云えない穏かな気持ちに満ちている彼女は、心持ち痩せてはいたが、常に若々しくまた清らかであった。その切れの長いそして細い眼に生命の余裕を示していた。

「然し、」と重夫は云った、「お父さんのは早く起きられるというよりも眠れないから仕方なしにお起きになるんではないでしょうか。」

「さあねえ、私にはよくお眠りになるように思えるんですがね。何かそんなことを仰言っていられたことがありますか。」

「別に何にも云われはしませんが……。いつでしたか私が夜遅くまで起きて書物を読んでいまして、それから寝ようと思って縁側を通る時に、まだ寝ないのかって室の中から声をおかけになったことがあります。そんなことがよくあるんです。何だかお父さんはいつでも眼が覚めていらるるようなんですが……。」

「それは眼敏めざとくていらるるせいなんでしょうよ。元からそうでしたよ。それに年を取って来ると猶更そうなるものです。」

「然しまだ四十の上を幾つも越してはいられないじゃありませんか。」

年齢としを云えばそうですがね、四十の上になると自分では随分長く生きたような気がするものですよ。」

「ですが……そう、つい先達てのことですよ。私が友達と日曜に朝早くから江の島の方へ遊びに行ったことがありましたでしょう。あの朝のことです。五時頃に起き上って、楊枝を使いながら縁側に立っていますと、お父さんがじっと庭の向うに立っていられたのです。後ろから見ると急にひどく髪の毛が薄くなられたような気がして、妙な気持ちがしたのです。が、いつまでもお父さんはじっと向う向きに立っていられます。それがこう妙に空洞うつろな老木の幹を見るような感じがするのです。まだ朝日は射していませんでしたが、あの向うの植込みの下まで透き通るような明るみに夜が明け切っていました。私は何とも云えないような気持ちになって、じっとお父さんの後姿を見ていますと、急に私の方をふり向かれて、『珍らしく早いね。』と云われました。前から私が見て居るのを知っていられたのに違いないんです。皮肉なような妙な笑顔さえ浮べていられたのです。それで私はすっかり狼狽まごついてしまって、『もう夜が明けてしまったんですね。』と変なことを云ってしまいました。するとお父さんはじっと遠くから私の眼の中を覗くようにして、『そうだ、この頃は四時頃にもう少し明るくなるんだ。お前なんかはそんなことは知らないだろう。』そう云われて、また前の皮肉なような笑顔をされるのです。それから、私が黙っているのを押っ被せるようにして、『早く支度をしないと遅くなるよ』と云われたまま、また向うを向いてしまわれました。私はその時、何だか大変悪いことをしたような気がして、何とも云えなかったのです。実際変な気がしたんです。」

「だってそれは何でもないことではありませんか。」

「ええ別に何でもないことですけれど、それでも……。」

 重夫の心のうちには何か「何でもなくないこと」が在ったけれど、それが余りに漠然としているので口に出してははっきり云えなかった。

「だが変だと云えばお前さんも変ですね。」

「なぜです?」

「でも妙な考え方をするではありませんか。」

「然しお父さんの姿がそんな考え方をさせるんですから。」

「それでは二人共変なんですね。」

 しげ子はそう云ってまた微笑みを洩らした。然し彼女もそれきり口を噤んで、庭の方を透し見るようにした。

 東に面した庭には午後の日脚は軒に遮られて落ちてはいなかったが、それでも暑い日光の漲った空の反映を受けて、植込みの影の空気まで暑苦しく乾燥しているように思えた。木の葉がばさばさしている、植木鉢の土が乾き切っている、そして高地芝の間の飛石が如何にも白い。

「今年は暑そうですね。」と重夫がふと云い出した。

「そうねえ、六月でこんなだから。」

「今年は皆で山へ出かけようではありませんか。」

「私も何処かへ出かけたいと思っていますがね。でも同じ行くなら海の方がよくはありませんか。」

「海は頭が悪くなっていけませんよ。」

「また頭ですか。」そう云ってしげ子は眼を挙げて重夫の顔を見た。「お前さんはいつも頭のことばかり心配していますね。」

「それは僕等のような若い時は、頭が一番大切なんですから。」

 その時二階の梯子段に足音がした。父が下りて来るのであった。それをきくと二人共妙に口を噤んでしまった。然しそれは別に父を憚ってではなかった。自然に二人の心がそちらへ引きつけられたからである。

 父は重い足どりで歩いて来て二人の所へ顔を現わした。

「お眼覚めですか。」としげ子が云った。

「ああ。」

「今日はわりにお早いんですね。」と重夫が云った。

「それでもぐっすり寝入ってしまった。昼寝はよくそして短く眠るに限るね。」

 然し乍ら、田原さんは如何にも陰欝な顔をしていた。濃い眉根から広い額へかけて、彼がいつも怒った時に示すようなかすかな竪皺が寄っていた。そして長く濃い口髯に半ば隠された口元には、意力の欠乏を示す空虚が漂っていた。

「誰も来なかったか。」

「いえどなたもお見えになりません。」

 田原さんはその答えをきいて、軽く頭を横に傾げた。それから冷たい水で顔を洗うために勝手許へ行った。

 水で顔を洗い、それから頭まで洗ってみると、田原さんは先刻の感情がいつしか消え失せて、頭の中が妙にぼんやりしているのを感じた。然しそれはまだいくらかよかった。

 先刻の感情と云うのは、彼が昼寝から覚める時に覚えた感情である。

 何か淋しい引入れられるようなものが彼の心にふうわりと被さって来た。それは単なる情緒ではなかった。淋しい佗びしいそして頼り無いようなものが、彼の心の上に煙のようにふうわりと投げかけられたのである。で彼は本能的にそれを脱しようとして眼を開いた。然し彼はまだその時まで半ば眠っていたのである。そして彼が脱しようとしたその寂寥たる或物が、また引き入れるようにして彼の眼瞼を閉じさした。彼は全身微睡まどろみながら、覚めかかった心をじっと、その或物へ集中した。じっとしているに堪えられないような、それでもじっとしていなければならないような、荒凉たる感じが彼のうちにその時湧いて来た。それは、空虚な柔い擽ったいような苦悩であった。そしてそれに身をうち任していると彼はそよそよと微風が自分の上を流れてゆくのを感じた。その時には彼は再び眼を開いていた。開け放した二階の室から、庭の木立の梢が見える。緑葉がちらちらと動いている。その向うに青い空が在る。空の中にぽつりとち切れた雲が一片浮んでいたが、それがすぐに蒼空の奥に消え去ってしまう。それが如何にも静かである。静かでありながら如何にも雄大な推移である。雄大な推移でありながら如何にも頼り無く佗びしい。雲の消え去った大空から、生温い微風が流れてくる……。

 彼は毛布を足先ではねのけて、枕の上に半身を起してみた。それが非常な努力に感じられた。そして両手を伸すと共に、大きく欠伸を一つした。その欠伸が彼にはっきり胸の空虚を感じさした。何かが自分のうちから掴み去られたがようであった。全身の筋肉がぐたりとしていた。それが如何にも静かでそして頼り無かった。その時彼の心のうちに懶い憂欝が濃く澱んで来た。

 彼が見たのは、大自然のうちに流るる静かな推移でもなかった。大空の下に置かれた人生の卑小でもなかった。然しあるがままの生の懶さ淋しさであった。それは、「今日もまた暮れた、明日もまた明けるであろう、」という感情と似たものであった。その感情の底にしみ込んでくる在るがままの不満な感じであった。彼はそのうちに浸りながら、「何を為すべき乎」を考えなかった。「何を為すべからざる乎」は猶更考えなかった。ただ「在る」ことを感じていた。それが堪えられないほど佗びしかった。

 田原さんは身を起して、二階から下りてゆき、妻と子とに言葉を交わし、それから水で顔と頭とを洗ったのである。すると憂欝な感情は消えたが、その後に頭の中に妙にぼんやりしたものが残ったのである。

 田原さんはまた二人の所へ帰って来た。

 其処にはバナナと冷やした牛乳とが出されていた。彼は砂糖の甘い牛乳にバナナをつけて食べた。

「良助はまだ帰って来ないか。」と田原さんは尋ねた。

「まだですが、もうもなく帰るでしょう。」

 それから田原さんは二階の書斎に上った。毎日午後に昼寝をして、それから夕食まで書斎に籠ることは、彼の殆んど毎日の日課であった。

 書斎には和洋の書籍が沢山つめこまれた本箱が二つ据えてあって、その中央に紫檀の机が一つあるきりだった。田原さんはその机に向って、時には専門の電気に関する新著を披いたり店の経営に関する考案を廻らしたりすることもあったが、多くは古今の物語り類を耽読したり、机の上に頬杖をついて外を眺めたりした。家政の余裕と店の地盤の強固とは、彼を多く閑散な地位に置いていたのである。

 家は本郷の西片町の高台の外れに在ったので、窓を開け放すと、植物園一帯の高地がすぐ眼の前に展開せられた。その右方に白山の森があり、左方に離れて砲兵工廠の煙筒が聳えていた。田原さんは、或はその静かな森を顧み、或はその渦巻く煤煙を眺めた。そしてその上に、何時も高く拡がっている大空があった。風の日も雨の日もまた晴れた日も、それらの景色は変らなかった。

 でそれらの土地の起伏や、その上に立ち並んだ人家や、森や、煤煙や、大空や、それらのものを一望のうちにじっと見守っている田原さんの心には、いつも同じような穏かな広やかなものが残された。都会も之を鳥瞰すれば、そして安定な心で鳥瞰すれば、それは一の静かな自然であった。

 然し乍ら田原さんは何かしら退屈して居た。退屈は悪い感情である。田原さんもそれを知っていた。で彼は窓の所に立って行って、立ち竝んだ人家の一つ一つに眼を定めてみた。洗濯物の物干台に動いている所もあった。二階の軒先に植木鉢が竝べてある所もあった。枯れかかって黒ずんでいる樹木もあった。その向うに大きい銀杏の樹が二本轟然と聳えていた。

 その時良助は使から帰って来た。彼はすぐ二階に呼ばれた。田原さんは、書生兼下男の地位に在るその少年の才能を非常に愛していた。

 良助は田原さんの用で、神保町の店まで行ったのであった。神保町の店というのは田原さんの父の時代からやっている電気器械の商店だった。

 良助は書斎の入口に、きちんと膝を折って坐った。それから店からの返書を差出した。田原さんがそれを読んでいる間じっと控えていた。

「やあ御苦労だった。」と云って田原さんは返書を巻き収めた。

「もう用はないから階下したへ行って勉強するがいい。」

「はい遅くなってすみませんでした。」

「なに遅くなってもかまわないんだが、何だか今日はいつもより手間取ったようだね。家へでも廻ったのか。」

「いえ、広田さんが店に居られなかったものですから。」そう云って良助は、広田さんが店に居なかったので、自宅に尋ねてゆき、また連れ立って店まで帰って来たことを報告した。広田さんと云うのは、店の方を殆んど預っている主任店員だった。終りに良助はこうつけ加えた。

「広田さんも子供が多かったりなんかで、種々家の方に用事もあられますようです。それでも止むを得ない用の外は、いつも晩まで店に居られますそうですが、丁度今日はお出にならない所に行き合わせましたから、遅くなりました。」

 田原さんは口元に笑みを浮べながら、良助のませた言葉をきいていた。そして彼の心に喜ばしかったものは、良助の「善意の解釈」であった。

 重夫は父を以て余りに「善意の解釈」をなし過るものとして、常に父の欠点の一に数えていた。それが田原さんを尊敬し心服している怜悧なる良助にも在った。

 田原さんは今、重夫のその言葉を思い出したのである。「善意は度を過せば悪意となる。」と重夫は云っていた。然し田原さんにとっては、善意は常に善意であった。否それは、善意悪意を通り越した「彼に自然にそうある」ものであった。そして富と閑散とを有し四十歳を越した彼の心は、それで常に静かであった。



 過去の話。

 その一──

 或年の暮れ、神保町の店で一つ不正事が発覚した。感応コイル三個、加減抵抗機二個、及び電流計一個が不足していたのである。帳簿には、それだけの品物は正しく店にはいってい、代金も支払われているのに、品物は店に無く而も売却せられたことにもなっていなかった。明かに誰かがそれを途中でかもしくは店から持ち出して瞞着したに相違なかった。代金約三百円余は店として大したことではなかったが、事件は不問に附すべきものではなかった。

 田原さんは主任店員の広田を店の二階の自分の室へ呼んだ。

「僕は何も君を責めるわけではない。分ったかね、君を責めるわけではない。然し君も主任店員として一半の責は負わなければならない。で秘密に調査をしてくれないかね。僕よりも君の方が店の内情に通じていると思うから君に頼むんだが……。」

 広田は黙って考えていた。

「どうだろう?」と田原さんはまた云った。

「然し店の者にむやみに疑をかけるわけにもゆきませんし……。」

 広田は当惑そうであった。

「そうだ、他人に疑をかけるのは悪いことだ。だから秘密にそれとなく調べてくれ給え。」

 それから田原さんは会計の原口を呼んで、暫く事件を秘密にするように頼んだ。物品の不足を知っているのは田原さんと広田と原口とだけだった。

 それから一週間たった。然し犯人に就いては何の手掛りもなかった。

 或時原口は田原さんの方へ伺った。そしてこんなことを云った。

「余りに人を信用されるといけませんです。犯人は意外の所に在るのかも分りませんから。」

 田原さんは、首を垂れて何やら考え込んでいるらしい原口の方をじっと眺めた。そして云った。

「ああ宜しい。君もよく注意してくれ給え。わしの方でもそれとなく注意はしているんだから。」

 実直な老人の原口は何やら物足りなそうにして帰っていった。

 それから数日後のことである。広田が店で田原さんの所へやって来た。

「其後更に見当がつきませんが、少し疑わしい点もありますので、も一度物品を調べて見ては如何でございましょうか。」

 で田原さんは、広田と原口と三人で、再び店の物品を調べてみた。すると前に不足していたものは皆揃っていた。会計の方も別に怪しい点は無かった。

 田原さんは、何か云いたそうにしている広田をじっと見ながら、こう云った。

「これで宜しい。何も不足したものがない以上、もう調べる必要もあるまいと思う。ただ君達に注意しておくが、以後気を附けておいてくれ給え。」

 雪になりそうに思える寒いどんよりと曇った日であった。田原さんは椅子に腰掛けながら、瓦斯煖炉の火に輝らされている広田の顔をじっと見つめた。髪を綺麗に分けたその額のあたりに汗がにじんでいた。

「さあもういいから行って事務をとってくれ給え。」と田原さんは云った。

 原口は丁寧にお辞儀をしてさっさと出て行った。広田は室を出る時に一度ちらとふり返って田原さんの方を盗み見た。田原さんはそれを見落さなかった。

 その晩、田原さんは俥に乗って広田の飯田町の住居を訪れた。髪を櫛巻にした細君が出て来て、その突然の来訪におどおどしていた。

「急な内談があるので、」と云って田原さんは座敷に通って広田の帰りを待った。

 四人の子供があって末の児が病中である家の中に、下女一人の細君はただまごまごしていた。それが田原さんにもよく分った。

 襖の影から男の児が二人指をくわえながら、交る代る田原さんの方を覗いた。

 九時すぎに広田は家に帰って来た。彼は着物も更めないでそのまま田原さんの所へ来て、頭を畳にすりつけん許りにしてお辞儀をした。

「子供が病気だそうだね。」

「はい。」と広田はただ答えたきり首垂れてしまった。顔色が青ざめていた。

 暫く沈黙が続いた後に、田原さんは云い出した。

「僕が突然やって来たわけは君に分っているだろうね。」

「はい。」と広田はまた低く答えた。

「僕は過ぎ去ったことは敢て咎めようとするのではない。然しああいうことは、もし店員全体に分ると悪い影響を及ぼすものだからね。」そして田原さんはじっと広田を見やった。「以後はよく注意してくれなくては困る。第一君は店の全部を取締る地位に在るではないか。その君自身が……いや僕はもうあのことに就いては何も云わない。君は十分悔悟している筈だから、ただ、このことだけはよく注意しておいて貰わなければならない。一度やったことは二度やり易いものだ。いいかね、一度行われたことは、後まで尾を引くものだ。それをよく考えておいてくれなくてはいけない。此度のことは君のためにいい修養だ。それを生かすか否かは全く君自身の力に在る。……僕の云うことは分ったろうね。」

 広田は黙って顔を挙げた。頬の筋肉を痙攣さしていた。

「ただ無謀な考えを起さないようにし給え。」と田原さんは云い続けた。「君はまだ四十に間もある。君の生涯はこれからだ。そして大に店のために働いてくれ給え、店を自分の事業だと思ってね、いいかね。」

 それから田原さんは、無雑作に紙幣を百円だけ其処に差出した。

「これは子供の病気に対する僕の心ばかりの見舞のものだ。取っておいてくれ給え。子供の病気はよく面倒を見てやらなければいけない。」

 広田は涙をぼろぼろと落した。そして何とも云わないで、ただ頭を低く垂れたままじっとしていた。

「今日は、一寸見舞に来たのだが、余計なことを饒舌って許してくれ。それでは僕は外に用もあるので……。」

「お心は十分に分りました。以後全く注意いたしますから……。」広田はそれきり何にも云えなかった。

 田原さんは立ち上ると、先刻から襖の影で二人の話をきいていたらしい細君が、眼に一杯涙をためてあわてて玄関の式台に田原さんの下駄を揃えた。

 田原さんは玄関でも一度広田を呼んだ。

「僕の云ったことは分ったろうね。それから原口へはつつまず事情を話しておく方がいい。実直な老人だから、話をすればよく分る。ただくれぐれも嘘を云ってはいけない。」

「はい。」と、広田は答えた。

 田原さんはそのまま待っていた俥に乗った。

 その翌日は雪であった。田原さんはわざと店に出かけないで、雪の降るのを書斎から眺めていた。そしてその晩、広田のことを妻と重夫とに話した。それからこうつけ加えた。

「広田は実際、金が必要であったに違いない。ただ物品をまた店に入れるについて無理をしたかも知れないが、それは反って彼のためにいいだろう。」


 その二──

 田原さんの隣りに上坂うえさかという家があった。其処の細君としげ子とはいつしか顔馴染になって、夏の夕方など静かな通りで立ちながら話をすることが時々あった。それからまた田原さんの向うへ宇野という人が後に越して来た。其処の細君もいつしか前の二人と親しくなった。そしてその細君は時々田原さんの家へ遊びに来たり、上坂の家へ遊びに行ったりした。四十許りの子供の無いヒステリックな女であった。

 所がだんだん向うから接近してくるにつれて、宇野の細君はしげ子に種々なことを話した。それが皆他人の家の内情に関することであった。しまいには、その話が上坂の家の方のことに移っていった。──上坂の家は借財のために二度強制執行を受けたことがある。上坂の細君はもと賤しい素性の女であった、上坂の細君がしげ子のことをお人好しの馬鹿だと云った、云々。

 実際人のいいしげ子はそんな話をただ「左様ですか。」と云ってきき流していた。そして相変らず上坂の細君とも挨拶を交わしていた。

 或時のこと、丁度夕方しげ子が何の気なしに表に立っていると、其処に上坂の細君が通りかかった。しげ子はいつものように挨拶をした。すると上坂の細君は、その挨拶に答えもしないで向うを向いたまま通りすぎてしまった。

 しげ子は何だか変だと思ったがそのままにしておいた。そして暫く上坂の細君と交渉が絶えた。

 そのうちに女中の口からおかしな噂を彼女はきき込んだ。彼女が宇野の細君に向ってさんざんに上坂の細君の悪口を云ったそうである。──上坂の細君はもと素性の賤しい女である、お人好しの馬鹿である、云々と。

 しげ子はその時になって凡てのことがはっきり分って来た。そして温和おとなしい彼女も、宇野の細君に対して一方ならず腹を立てた。憤慨の余り彼女は夫に向って、凡てのことを話した。

 その時田原さんはこう云った。

「それはお前が馬鹿だからだ。ああいう人達と一緒になるからいけないんだ。よく自分のことを考えてごらん。お前は今腹を立てている。宇野の細君に対して腹を立てることは、お前自身を宇野の細君と同等の所へ引下げるからだ。あんな者と同じになりたけりゃ、いくらでも腹を立てるがいいさ。」

「だってあんまりではありませんか。自分で上坂さんの奥さんの悪口をさんざん云っておいて、それを皆私が云ったように上坂さんの奥さんの所で饒舌ったんですもの。腹が立つ位はあたりまえですわ。」

「そうだ、お前が宇野の細君と同じ位な人間だったら腹が立つのが当り前だ。けれどお前はもっと偉くなっていなけりゃいけない。もしお前が宇野の細君よりずっと偉いなら、何も腹を立てるに及ばないさ。他人に対して腹を立てるのは、その者と同じ所に自分を引下げるからだ。何も宇野の細君と同じ者にならなくったっていい。世の中にはああいう人もある位に思って上から見下してやればいいんだ。」

 しげ子は不満そうな顔をしながらも、それには何とも答えなかった。

 それから数ヶ月たった。そのうちにまたいつしかしげ子と上坂の細君とは口を利くようになった。そして宇野の細君が、二人の間をしきりに離間していることが分った。そしてまた、宇野の細君は二人の間に立って妙な地位に陥った。

 その後宇野の家は他へ移転した。

 田原さんは云った。

「ああいう者は世の中にいくらも居るものだ。男にも可なりある。然しああいう人の嘘は、それ自身の罪悪じゃない。嘘をつかずには居れないような性格に出来ているのだ。そういう性格に向って腹を立てるのは、曲った木に向って腹を立てるようなものなんだ。真直な木が曲った木に対して自分と同じ様でないと云って腹を立てるのは愚かなことだ。腹を立てる方が悪いんだ。」


 その三──

 或る夏重夫は激しい胃腸加答児に罹った。

 昼夜約十回に余る下痢を催し、三十九度内外の高熱が往来した。激しい渇に対して少量の飲料しか与えられなかった。医者は毎日便の検査をした。丁度赤痢流行の際だったので、医者はもしやと思ったのである。すぐに看護婦もつけられた。

 田原さんはその中を毎日いつもの通り午前中だけ神保町の店に通った。午後彼は病人の枕辺に坐ってその顔を覗いた。夕方医者が来て診察する間、彼は次の室にじっと待っていた。そして医者から毎日殆んど同じ様な容態をきき取った。

 家の中は凡ての人が静かに立ち働いていたが、静かなままに不安な空気がざわついていた。しげ子はやたらに気を苛立っていた。彼女はも一人医者を呼び迎えようと提議した。

「その方がよくはありませんでしょうか。」と彼女は夫に云った。

「そうだね、それもいいかも知れない。」

「それとも今少し様子を見てからにしましょうか。沢田さん(医者の名)も大丈夫だろうと云っていられますから。」

「そうだね。」と田原さんはまた云った。

「どうしましょう。早くしなければ困るではありませんか。もしか赤痢にでもなったらどうなさいます?」

「ではいいようにしてごらんな。」

 それでしげ子はすぐに或る専門の大家を呼びにやった。

「だいぶひどいですな。」と云ってその博士は首を傾げた。

 田原さんはそういう騒ぎの中にじっと控えていた。そしていつも口をきっと結んでいた。

 それでも一週間許りのうちに重夫の病気は次第によくなっていった。病が急激に来ただけに癒るのも早かった。一週間すると起き上れるようになった。

 その時しげ子は夫に云った。

「もう大丈夫でしょうね。」

「大丈夫さ。」と田原さんも答えた。

「ですけれど、あなた位張合のない人はありませんよ。あんな騒ぎの中にじっと落附いて、何を云っても『そうだね。』と仰言るきりですもの。私はそれでなお苛ら苛らしてくるんですよ。」

「いや病人がある時は落附いていなくちゃいけない。それに本当はお前よりか俺の方が余計重夫のことを心配していたんだ。」

「それでももしか手後れでもして赤痢にでもなったら、取り返しがつかないではありませんか。」

「そう。俺はただ種々なことを考えてばかり居たのかも知れないがね……。」

 そう云って田原さんは何とも云えない表情をした。心持ち眉根を寄せて眼を細くした様が、しげ子には丁度泣き顔のように見えた。

 でしげ子も妙に悲しくなってそれ以上何とも云わなかった。


 その四…………


 その五…………



 田原さんは夕方、庭に出て草木に水をやった。それは夏の間の彼の日課の一つだった。冷たい水に昼間の炎熱と埃とが洗い落され甦ったような色に輝いてくる草木の葉は、直接に彼の心に迫って、彼の心を生々さした。高地芝と飛石とその間に配置せられた松、その右手の奥には大きな岩石が据えられて、蔦の葉が絡んでいた。左手の奥には樫や椎の立木がこんもりと茂って、その向うには湯殿の煙筒から煙が上っていた。田原さんはただむやみとその庭に水を濺いだ。飛石の側には小さな松葉牡丹が黄色い花を開いていた。

 庭に水をまき、暮れかかってぱっと明るい大空を仰いだ田原さんの姿は、如何にも静かであった。心持ち禿げ上った額と赤味を帯びている濃い口髯とのその顔には、別に何等の感情も浮んでいなかった。彼はただ在るがままの心で空と地との静けさを呼吸した。

 良助が其処にやって来た時、田原さんは縁側に腰掛けていた。

「もう仕度は出来たのか。」と田原さんは云った。

「はい。」

「それではすぐに行くがいい。そしてわしが云ったように親父にそう云うんだよ。」

「それでは行って参ります。」

 良助は夜学の包みを手にして田原さんから貰った金のはいった封筒を懐にして、家を出た。外に出ると彼は一寸立ち止ってあたりを見廻したが、それから急に足を早めた。彼は仲猿楽町の中央工科学校の夜学に行く途中、弓町の父の家を訪わねばならなかった。

 良助は別に嬉しくもなかった。それかと云って悲しくもなかった。彼はただ自分が、田原さんの云い附けで何かしらぶつかって行かなければならないもののあるのを感じた。それが自分の実際の父であった。長い間田原さんの家に俥を引いて仕えていた父であった。砲兵工廠に働いている父であった。去年の暮に妻を失ってから酒の中に身を浸している父であった。田原さんに度々金の無心をしに来る父であった。何時も酔っぱらっていて、その息は酒臭かった。

 良助はそっと戸口から家の中を覗いてみた。十燭の電気がぼんやりともっている下で、父の徳蔵は食事をしていた。妹のみよ子はもう食事を終えてその側に青い顔をしてじっと坐っていた。二人共執拗に黙り込んでいた。また何かが起ったのに違いなかった。恐らく父は酒の無いのを幼いみよ子に怒鳴りつけたのであろう。そして酒に酔っていない彼は、自分と自分の言葉に不快になって、黙り込んでしまったのであろう。

 良助は思い切って家の中にはいった。

「おや兄さんが……。」そうみよ子は大きい声を出してすぐに立って来た。

「なに良助か。」

 徳蔵はそう云って腰を立てようとしたが、またどかりと坐り込んでしまった。そして急に睥めるような眼附をしながら云った。

「上れよ。」

 其処に学校の包みを置いてきちんと膝を折った良助の姿を、徳蔵はじろじろ見やった。

「どうしたんだ。」と彼はまた云った。良助が来たことは彼には全く意外であったらしい。

 良助は黙って懐から金の封筒を取り出して父の前に置いた。

「旦那様からこれをとうさんにやってくれと云われたから、学校の途中に一寸寄ったんだよ。」

 徳蔵は封筒を取り上げて中を披いてみた。中には一円紙幣が五枚はいっていた。彼はそれを見ると口をぼんやりうち開いたまま、じっと良助の顔を見つめた。

「それはね、」と良助は云った、「旦那様が僕に下すったんだよ。学校で特待生になったからその褒美に下すったんだ。そして、お前がいる時は金は家で出してやるからこれは父さんの所へ持ってゆけと云われたので、持って来た。父さんの自由に使っていいんだよ。」

 徳蔵は暫く何とも云わなかったが、突然大きい声を出して云った。

「偉い!」

 それから彼は急にその紙幣を一枚みよ子の前に投り出した。

みよ、すぐに酒を一升買ってこい。いいか一升だよ。それから鰑を二枚。分ったか。早くするんだ、駈けて行ってくるんだぞ。」

 みよ子は云わるるままに急いで表にかけ出していった。

 みよ子が出て行った後に、徳蔵は一寸何やら考えるような風で首を傾げていたが、自分と自分の心に向って云うかのように口を開いた。

「偉い。おめえが特待生になったんだと。それで旦那がお前に褒美の金をくれた。なるほど。金は家で出してやる。これは親父の所へ持ってゆけ……。さすが旦那は偉いや。お前も偉いや。俺もな、今じゃ飲んだくれだが、これで旦那のためには随分働いたもんだ。」

「よく旦那様は父さんのことを云っていられるよ。そして僕にも大変よくして下さるんだ。しっかり勉強しなけりゃいけないってよく云って下さるんだよ。」

「そうだ、若い時に勉強しなけりゃいけねえ。お前を奉公に上げる時に、屹度良助は立派な人間に育ててやると旦那は仰言ったんだ。それから俺が家に帰る時にな、もう俥夫は抱えないからこれはお前にやるってんで、俥を貰って来たんだ。素敵なものだったぜ。売り飛したら二十両だ。……何だろう、今じゃ旦那は毎日電車で店に通ってるんだろうな。」

「ああ電車だよ。」

「そうだねえ……。」徳蔵はそう云いかけたが急に口を噤んでしまった。そして何やら考え込んでいるらしかった。

 みよ子が重そうにして徳利を抱え鰑を下げて帰って来ると、徳蔵は急に眼を輝かした。

「どれ。」そう云って彼は立ち上った。それから自分で火鉢の火をかき立てて鰑をあぶった。

「早く七輪で酒の燗をしな。」と彼はみよ子に怒鳴った。

 然し徳蔵はすぐにまた燗をするのを止めさした。そして冷酒のままそれを餉台の上に置いた。

「お前は、」と彼は良助の方へ向いて云った、「学校があるんだったな。ゆっくりしちゃいけねえんだろう。いいから早く此処へ来な。これは祝いの酒だ。特待生になったんだね。一杯飲むがいい。景気をつけなくちゃいけねえ。さあ一杯飲みなったら……。」

「僕は酒は飲めないんだよ。」と良助は答えた。

「なに飲めない?……ああそうか。学校へ行ってるうちは飲まないがいいや。脳に悪いんだな。では鰑でも食うがいい。鰑は目出度え肴なんだ。おいみよ、お前も食えよ。」

 良助はそれで鰑をつまんだ。徳蔵は、冷酒を貪るようにして飲んだ。

 やがて良助は云い出した。

「父さんは毎晩酒を飲むのかい。」

「馬鹿なことを云っちゃいけねえ。飲みてえのは毎晩飲みてえんだが、誰も飲ましてくれねえやね。」

「でもよく飲むんだろう。」

「当り前だ。酒も飲めなくなったら世の中はおしまいだ。」

「だが旦那様もそう云っていられたよ、酒を飲めば世の中はおしまいだって。」

「酒を飲めば世の中はおしまいだと?」

「ああ、」と答えたが、良助は一寸考えた。それからまた云った。「父さんは死にたいのかね。」

「何を云うんだ箆棒な。誰が死にてえ奴があるもんか。」

「でも何だよ、酒を飲み過すのは自殺をすると同じことだそうだ。度を過すと酒は屹度人の命を縮めるそうだ。それからまた実際死ななくても、始終酒ばかり飲んで何にも出来ないようになるのは、死んだも同じだそうだ。旦那様がよく云ってくれってそう仰言っていらしたよ。父さんに酒を飲むなとは云わないが、良助とみよとが大きくならないうちは決して死んではいけないって。」

 徳蔵は杯を下に置いて、じっと良助の顔を見つめた。

「何だ俺に死んではいけないって……。悪い洒落を云うもんじゃねえ。こんなにぴんぴんしていらあね。」

「だからよ、生きながら死ぬなって仰言ったんだ。ただそれだけ分っていればいくら酒は飲んだって構わないんだそうだ。」

「なるほど旦那はうまいことを云うもんだ。」

 徳蔵はそう云ったが、一寸小首を傾げて、それからまた杯を手にした。

 良助は云うだけのことを云ったという風ですぐに立ち上った。

「何だもう行くのか。」

「学校が遅くなるから。」

「そうか。まあしっかり勉強するがいい。」そう云って徳蔵は一寸下唇を舌で嘗めて、じっと良助の方を見やった。

 みよ子が門口まで良助を送って出た。

「兄さんまたお出でよ。」

「ああまた来るがね、父さんはいつもやかましいのかい。」

「いえそうでもないけれど……。」そして彼女はそのまま俯向いてしまった。

「僕は学校が遅くなるから、それでは行くよ。今度はゆっくり来ようね。」

 みよ子は黙って首肯いた。そして良助の後姿を見えなくなるまで見送っていた。

 外はまだ薄明るかったが、物の輪廓がぼんやりと暮れかかって、瓦斯の灯が仄白くともっていた。良助は何か考えに沈んだように地面に視線を落したまま足を早めた。夜学の初まる七時はもう少し過ぎていた。

 彼の心は淋しい不安なものに囚われていた。未来が余りに漠然としていた。現在のうちに余りに心苦しいものが在った。ただ田原さんが居る以上は何にも心配するものはなかった。然しそのことが、彼に漠然とした不安と心苦しさと物足りなさとを与えた。彼はその中でぼんやりと広い社会というようなものを心に浮べて、そして涙ぐまるるような窮屈なような感情を覚えた。



 良助が弓町の家を訪ねた後四、五日して、徳蔵は田原さんの家にやって来た。

 彼はいつものように裏口の方から廻って来て、「今日は、」と声をかけた。

 其処に丁度居合したしげ子はすぐに徳蔵の姿を見つけた。

「おや徳蔵ですか。この頃暫く姿を見せなかったではないかえ。」

「へへへ大変御無沙汰をしまして。」

「今日は造兵の方はお休みなの?……おや、大変な景気だねえ、昼間から赤い顔をして。」

「なに奥様、余り不景気なんだから一寸その景気附けにったんですよ。所で旦那はお家で。」

「ああ、あちらへ廻ってごらん。」

 それで徳蔵は危なそうな足取りで庭から座敷の縁側の方へ廻った。

 田原さんは、その時煽風器の風に身を吹かせて縁側に屈んでいた。

「やあ徳蔵か、どうだこの頃は。」

「へへへ相変らずでどうも……。」

「相変らず景気がいいんだな。」

「なに一寸景気附けですよ。お蔭で先達ては久しぶりに溜飲をさげやして、今日はそのお礼に出ましたような訳で。」

「なに礼なんかに来なくてもいいさ。あれは良助のために祝ってやったんだから。お前もいい息子を持って仕合せだね。良助は今に偉い者になるぞ。」

「本当ですか旦那。良助は偉いですかね。」

「ああ偉いとも。だからお前も少ししっかりしなくちゃいけない。何だろうな、その調子ではもう先日こないだのものは飲んでしまったろうな。」

「へへへついどうも……。」

「まあ飲むのもいいがね、あの時良助は何か云いはしなかったか。」

「ええ云いましたよ、偉いことを云ったです。ええと、『酒は飲んでも構わない、ただ死んではいけない。』そして……私はどうも覚えが悪いんで外のことは忘れっちまったが、その言葉だけはちゃんと覚えてるんだ。旦那もうまいこと良助に教えたもんだと、つくづく感心しやしてね……。」

「それで?」

「一つ酒をやめてやろうと決心したんですがね。」

「うまくいかないのか。」

「そうだ、うまくいかねえんですよ。第一うまくいく道理がねえじゃありませんか。酒でも飲まなけりゃ身体のうちに火が無くなってしまいまさあね。私はね、誰かにきいたことがあるんですよ。人間に一番大事なのは身体のうちの火だってね。その火を消しちゃあそれこそ本当に死んじまいまさあね。」

 田原さんは何とも答えないで、じっと徳蔵の顔を見つめた。日に焼けた顔が酒のために赤く熱っている。濃い眉毛と、低く頑丈な鼻と、厚い唇、それらのものが、夏の炎熱と酒の温気とに燃えてるようである。

「それにね旦那、」と徳蔵は続けた、「外はこの通り暑さに燃えてるんだ、身体の中だって燃やさなけりゃあ調子が取れねえというもんでさあ。それにまた寒けりゃ寒いでね、内だけでも燃やしておかなけりゃやりきれねえんですよ。ですがね、私はよく覚えてまさあ。『酒は飲んでも構わない。死んではいけない。』それもね、良助に云わせると生意気に聞えるが、旦那の口から出たんだとすりゃあ、なるほどいい言葉だ。然し旦那、酒を止す方が早く死んじまいますぜ。火が燃えなくっちゃおしまいだ。燃えてるうちは大丈夫生きてるんだ。死人は冷っこいものですぜ。石のようだ。私はね、それは火が燃えてねえからだと思うんですがね。……ねえ旦那、先夜湯島に火事があったでしょう。豪気なもんでしたぜ。私は真先に駈け附けてよく見てやったですが、真紅な火がごーうとうなって、空まで燃えていましたぜ。あたり近所が皆真赤でさあ。風が吹いて真赤な火が渦巻いてるんだ。あんな威勢のいいものはありゃしねえや。」そして徳蔵は一寸首を傾げて考えたが、また云い続けた。「旦那は夕焼のした晩に酔っぱらったことがあるんですか。火事という奴はあれと丸で同じでさあ。あたりのものがぐるぐる廻ってるんだ。それがぱっと真赤になってるんだ。空に真赤な夕焼がしているんですぜ。空も地面も真赤になって渦巻いてるんだ。そして一度に燃え上ってる。どうすることも出来やしねえ。腕っ節の続く限り何にでもぶつかってゆくんだ。戦争なんかもあんなものかも知れねえ。」

 徳蔵は一人で饒舌ってしまうと、急に口を噤んで、先刻出されたままの茶をぐっと飲み干した。それから彼はふと煽風器の方へ眼を留めた。

「なるほどいい風が来ますね。だが、どうも生温なまあったかい風ですね旦那。この風を冷たくする工夫はつかねえものですかね。」

「そうだね。」

 田原さんは気の無さそうな返事をした。そして紙巻煙草を一本取ってそれに火をつけ、また一本徳蔵にも取ってやった。

「今日は造兵の方は休みなのか。」と田原さんは別のことを云った。

「なに一寸骨休めですよ。あの仕事も随分骨が折れますよ。働きづめで、一服する隙もありませんからね。」

「それは骨も折れるだろうが、そう休んでいてはみよ子が困りはしないかね。」

「なあに、大丈夫でさあ。その代りよく可愛がってやりますんだ。あれも不憫な奴ですからね。よく膝の上に抱っこして子守唄をうたってやりますよ。するとね、眠ろうとはしないで、噴き出してしまうんです。私もね、一緒になって笑うんです。何しろもう十二になるんですからね。然し悧口ですよ。私が造兵から帰って来て寝ようとすると、肩を揉んでくれますよ。」

「然しよく怒鳴りつけることもあるんだろう。」

「それはね、ただ酒がねえ時でさあ。然し不思議なもんですよ。酒が無くって怒鳴り散らすと、丁度酒を飲んだような気持ちになりますんだ。心が煮えくり返るようでね。そんな時に私は膝に抱っこしてやるんですがね、そして子守唄をうたうんです。すると大抵は二人で笑い出すんですがね。どうかするとやっこさん泣き出しちまうんです。私もね、つい鼻を啜るんですがね。……いや火を燃すに限るですよ。泣くなんて余りいい気持ちのものじゃねえ。どうも泣くのはいけねえや。私はこう思いますがね、人間てものは始終火を燃していなけりゃいけねえと。」

「然しね、酒で火を燃さなくても、他のもので燃した方がいいよ。」

「そりゃ、旦那みたようだと、そういきましょうがね。私等には、うまくいかねえですよ。何しろ裸一貫ですからね。」

 田原さんはじっと徳蔵の顔を見つめた。

「お前は家内を亡くしたのがいけなかったんだね。」

 徳蔵はその言葉をきくと、急に腰を立ちかけたが、またそのまま身を屈めた。

「旦那、死んだ奴のことは余り考えるものじゃありませんね。」

 その言葉は田原さんには非難の言のように響いた。で彼は何とも云わないで徳蔵の方をじっと見やると、徳蔵は殆んど無感覚のような没表情な顔をして、ぼんやり視線を向うの庭石に定めていた。

 庭はもう一面に日が陰っていたが、傾いた太陽の光りを含んでぎらぎらと輝いている空からは、炎熱の余光が地上に降り濺いで、物の隅々まで影の無い明るみを作っていた。二人はそれきり黙ったまま、ぼんやり庭の方を眺めた。風も無い庭の木立が、如何にも静まり返っていた。

 その時女中が田原さんに、お湯の沸いたことを知らして来た。

 徳蔵はその時急に立ち上って帰ろうとした。

「おい一寸待ってくれ。」

 田原さんはそう云いながら立って行って、何程かの金を紙に包んで、それを徳蔵に与えた。

「いや旦那、これは頂けませんや。」

 そして徳蔵はその包みを縁側に置いた。

「なぜだ? 取っておけばいいじゃないか。」

「なぜでもいけませんや。」

「なにいくらでもないんだから取っておおき。そしてそのうちで何かみよ子に買っていってやるがいい。」

 徳蔵は急に眼を輝かした。

「それじゃ頂きます。みよは饅頭が好きだから、一つ馬鹿に大きいやつを買っていって喜ばしてやりましょう。……それじゃ旦那、大変お邪魔をしちまいました。」

 徳蔵は丁寧に頭を下げた。それから勝手の方へ廻ってしげ子に挨拶をして、帰って行った。酔もさめたらしく、重い足取りをして歩いていった。

 田原さんはそれから庭に水を撒き、湯にはいり、夕食の膳に向った。然し彼は内心が妙に疲れていた。それも彼自らが称して「最も悪い疲労」と云っていた所の倦怠に似た疲労だった。

 田原さんは心持ち眉を顰めて、そして黙り込んで少ししか食わなかった。始終重夫が自分の方をじろじろ見ているような気がした。

 食後重夫はやさしい調子でこう父に話しかけた。

「今日もいつものように徳蔵に金をやられたんですか。」

「ああ少しくれてやった。」

 田原さんはただそう答えた。声の調子は如何にも落ち附いていた。

「然しああ云うずぼらな奴にいつも黙って金をやると、益々図に乗って来ますよ。」

「なに大丈夫だ。それにわしはだんだん徳蔵の気持ちが分って来るような気がするんだ。」

「お父さんはいつもそんなことばかり仰言るんですけれど、ちっとも物に価値の区別をつけられないんですね。お父さんのはいつも解釈ばかりなんです。それも余りに善意な解釈ばかりなんです。少しも判断ということをなさらないんです。」

 哲学に趣味を有し高等学校の独法科に通っている重夫にとっては、凡てのことに判断と裁決とを要するのであった。彼の持論はこうであった。単なる解釈は社会を向上させはしない。社会を向上させるには判断と裁決とを要する。其処から彼は時として、尊敬する父に対しても抗議を提出することがあった。彼の眼はいつも若々しく輝いていた。頬には紅い血が流れていた。凡てにぶつかってゆく力が彼のうちに充ちていた。

 田原さんは重夫の方へちらと一瞥を与えて、それから静かに答えた。

「判断は理解の後に来るものだ。然しそんな抽象的な議論はお前達のような若い者に譲るとしよう。だがお前にはまだ人間というものがはっきり分ってはいない。……何だったかね、そうそう徳蔵のことだ。妻を失ったことが徳蔵にどんな打撃を与えたか、お前には分るまい。お前も知ってる通り、徳蔵はこの家から出て後ずっと砲兵工廠に働いていた。彼の妻は家の中で内職をしていた。そして貧しい中に良助とみよ子とを育てていたんだ。そのうちに突然妻が死んだ。良助は今の通り家に来ることになった。徳蔵はその時から酒を飲み出したんだ。今日も彼は云っていた。『人間には心の中に火を燃すことが大事だ。私等のような者は酒で火を燃すより外仕方がない。』そのことをよく考えてごらん。今分らなくても、お前にもいつかそのことがはっきり分る時が来る。」

 重夫は珍らしい父の雄弁にじっと耳を傾けていたが、やがて云った。

「私にも大体は分ります。然しただ分っただけで、その先をどうしようということがなくちゃ、何にもならないじゃありませんか。」

「何にもならないと云えばそれまでだがね……。」

 その時田原さんは、眼の下に細い皺を寄せて苦々しい微笑を洩らした。田原さんがその苦笑を人に示すことは極めて稀であった。で重夫も、何か父を苦しめることのように感じて、そのまま口を噤んでしまった。

 田原さんはそれから急に散歩に出た。九時すぎに彼は帰って来た。それから一時間許り二階の書斎に上っていた。そしてまた下りて来て此度は庭を歩き廻った。

 木の葉一つ揺がない静まり返った夜であったが、庭の中には何処からともなく涼しい空気が流れていた。空には星がきらきら光っていた。軒先に蒼白い光りが流れているのを見ると、月も出ているらしかった。その地上の暗い夜の静けさと、空から洩れる明るみとが、妙に不調和な雰囲気を作って人の心を唆かした。

 田原さんは唇をきっと結んで、時々立ち止った。そして空を仰いで肩を聳かしたが、またすぐに植込の向うに見える灯をすかして見たりした。やがて彼は何ということもなく、座敷の方から玄関の方へ歩いていった。

 と急に彼は立ち止って瞳を凝らした。玄関の横の四畳半の縁側に黒い人影が佇んでいたのである。それが良助であると分ると、田原さんは初めて声を掛けた。

「良助か。何をしているんだ?」

「旦那様でございますか。只今学校から帰って来て復習をすましたので……。」

「ああそうか。下りて来ないか、いい晩だよ。」

 良助は云わるるままに庭下駄をつっかけて下りて来た。そしてそのまま歩き出した。田原さんの側に影のように寄り添って歩いた。二人共何とも云わなかった。

 やがて良助の方から口を開いた。

「今日父がやって参りましたそうでございますが。」

「ああ。」と田原さんは一寸ふり向いた。

「何か云って居りましたでしょうか。また酒を飲んではいませんでございましたか。」

「酔っていたよ。そして人間は心のうちに火を燃さなければいけないと云っていた。」

 良助はその意味を推しかねて黙っていた。

「酒を飲んで心の中の火を燃すんだと云っていた。」

 良助はなお黙っていた。

「お前の父が云うのは真理だ。人間が他の動物より強くなったのは火を燃す方法を知ってからなんだ。そして他の動物より賢くなったのは心の火を燃し初めてからだ。お前はプロメシウスの神話を知っているだろう。天上から火を盗んで来た為にコーカサス山の上に縛られて禿鷹に肝臓を啄まれたというあの話だ。人間は火を燃さなければいけない、然しそのためにまた心に苦悩を覚ゆるのだ。」

 良助はなお黙っていた。

「先夜湯島に火事があったろう。お前の父はあれを初めから見ていたそうだ。そうして今更に火事を感心していた。」

 良助はなお黙っていた。

「それから、夕焼のした晩に酔っぱらうと、丸で火事の中に居るようなものだと云っていた。あたりが真紅になって渦巻くそうだ。」

 良助はなお黙っていた。

「お前の父は、酒が飲めなくなると、放火でもするかも知れない。」

 その言葉をきくと、良助は急に田原さんの側に寄っていって、黙ってその顔を仰ぎ見た。

 田原さんもじっと良助の眼の中を覗き込んだ。そして云った。

「いや誰にも、うっかりした瞬間には放火をしたくなることがあるものだ!」

 それは殆んど投げつけるような調子であったが、良助は別に驚きもせず、身退じろぎもしなかった。彼はただじっと田原さんの側に立ちつくした。

 田原さんはまた一歩歩き出した。すると良助も田原さんに引きずられるようにして一歩運んだ。そして二人は黙々として庭の中を歩き廻った。背の高い口髭の濃い成年の姿と、髪を短く刈った背の低い少年の姿と、二つは物とその影のように相竝んで、庭の植込の間をぐるぐると廻った。

 濃い闇がしいんと静まり返りながら、空の仄蒼い反映を漂わしていた。黒い松の向うには、庭石が白く浮出して、芝生の葉末がきらきらと光っていた。

 田原さんはふと何かに喫驚して我に帰ったように立ち止った。そして良助の方へふり返った。

「もう寝るがいい。」

 その声は何処か力が抜けて空洞のような響きをした。

「はい。」と良助は答えた。

 田原さんは其処に良助を残したまま、ずんずん家の中にはいっていった。



 徳蔵は月に三、四回は必ず田原さんの所へやって来た。

 そしてみよ子は毎朝田原さんの家に牛乳を配達して来た。

 牛乳の配達は十二の少女としては可なり収入のある仕事であった。彼女は乳屋から十本余りの牛乳を受けてそれを朝早く配達した。乳屋の方にも客の方にも此の可憐な少女に対する同情があった。然し冬の寒い時など、それは可なり彼女にとって痛々しい仕事であった。耳朶みみたぶは大きく凍傷のために脹れ上り、頬は赤くかじかんでいた。そして手足が氷のように冷え切った。それが春になり夏になると、耳朶は小さく薄くなって赤い血管がすいて見え、頬には幼い色が上って、白い柔かな産毛がかすかに見られた。

 彼女はいつも、勝手元に牛乳を届け空壜を貰うと、兄の姿が見えはしないかと思って其処に暫く佇んだ。彼女の眼は悲しそうに円く輝いていた。そして其処で彼女は時々兄に逢った。

 みよ子の方では別に話すことも持たなかった。否恐らく種々こまかいことを持ってはいたろうけれど、そういう時には心がその方へ向いてはいなかった。良助の方も別に話すこともなかった。二人は黙ってじっと立っていることがよくあった。

 然し特にそんな時に良助は田原さんの眼を恐れていた。一度もそれについて何か云われたり尋ねられたりしたことはなかったのだが、それでも彼は田原さんの眼を恐れた。それは単なる気兼や遠慮ばかりではなかった。彼はいつも田原さんの眼が何処からかじっと自分の方を見守っているような気がした。そしてその眼が自分の心のうちにも在るような気がした。

 良助はよくふいと妹の許を立ち去った。みよ子は其処に置きざりにせられて、じっと兄の後姿を見送り、それから牛乳の壜の籠を取上げ、首垂れながら田原さんの家から出ていった。

 然しみよ子のその悲しみは、しげ子や重夫の親切で幾分慰められた。しげ子はよくやさしい言葉をかけてくれた。重夫は時々菓子などをくれたり、小遣銭を与えたりした。そして月末の勘定の時、みよ子はいつも釣銭をそのままに貰っていった。そういう時みよ子は、涙ぐんだように眼を円く見開いて相手の顔をじっと仰いだ。そして黙ってお辞儀をした。

「悪に対しては常に抵抗しなければいけない、そして善は常に保護しなければいけない。」それが重夫の信条であった。そして彼にとっては、徳蔵は悪であり、みよ子は善であった。

 重夫は屡々みよ子のことを父に話した。

「この次には小遣を少しやりましょう。」と彼は話の終りによく云った。

「それがいい。」と田原さんは答えた。

 然しそんな時田原さんはいつも重夫から眼を外らして、そして苛ら苛らしたような表情を示した。

 心持ち眉根を寄せて半ば口を開いているその横顔は、或る不安なものを重夫の心に伝えた。

 重夫は心のうちで思った。「父は常に悪に対する善意の解釈のみを事としている。善そのものは父の何等の興味をも引かないんだ。」

 重夫のその心持ちが田原さんにははっきり分っていた。そして田原さんは益々苦々しくなった。

 田原さんにとっては重夫の考えている問題は問題ではなかった。それでは何が問題か? それには何も答えられなかった。田原さんは書斎に上ってみたり、散歩をしてみたり、それからまた毎日午前中は神保町の店に通った。そして何だかじっとして居れないような気になっていたが、そのままにまた彼自身も彼の日々も至って静かで落ち附いていた。

 或日田原さんは妙に腹を立てていた。夕方まで昼寝から覚めないで、急に食事の時になって起されたからであった。腹を立てているというのが悪ければ、不愉快な気分に満ちていたと云ってもいいだろう。彼は殆んど一言も口を利かないで夕食を済ました。

 なぜ不愉快な気分に満ちたか? それは彼自身にもはっきり分らなかった。然し兎に角田原さんはその日、白日のうちにそして静かな夢幻のうちに自然に眠りから醒めてゆくかの心の置場の無いような寂寥と憂愁とを、ゆっくり感ずるの隙が無かったのは事実であった。

「あなた、あなた、あのもう夕御飯も出来ていますから……。」しげ子はそう云って田原さんを揺り起した。

 で田原さんは急に、微睡からよび覚された。そして彼が昼寝をしたのは午後の真昼であったが、起きた時は既に夕暮の影が迫っていた。彼の心理の過程のうちに何処か隙間があった。

 食後彼は縁側に屈んで庭を眺めた。庭にはいつも彼がするように水が撒いてあった。木の葉に水の掛かった有様から庭石の凹みに水がたまっている工合まで、いつも彼自身がやるのと少しも違っていなかった。

 田原さんは、夜学に通うため仕度をして出て来た良助に云った。

「お前が水を撒いたのか。」

「はい。」と良助は答えた。

「よく私がいつもやる通りに覚えているね。」

「はい、何でも旦那様のやらるることを覚えておかなければいけないと思って、平素から注意して居りますので。」

「それでは私が万事お前の理想となるわけだね。」

「…………」

 田原さんはその時、自分の云ったその言葉に妙に不安になった。自分は始終良助からつき纒われている、というような漠然とした感じを懐いたのである。そしてその感じはどうすることも出来ないようなものだった。

 然し顧みて、夜学の包みを持ち短く袴をはいているその少年の姿を見ると、田原さんは急に何だか馬鹿馬鹿しくなった。敏感な頭のいい少年だったが、それはやはり少年だった。

「もう時間だろう、出かけたらどうだ。」

 ややあって田原さんはそう云った。

「はい別に御用はございませんですか。」

「ああ何もないから。」

「それでは行って参ります。」

 良助はそう云って、約三十秒許り田原さんの側にじっと立っていた。それから急いで家を出た。

 田原さんもその後で散歩に出た。

 二時間許りして彼は帰って来た。そしてすぐに重夫の所へ行った。

「先刻徳蔵に逢ったよ。」と田原さんは云った。

「そうですか。」と重夫は気の無さそうな返事をした。

「大変真面目な顔をしていた。そしてこんなことを云うんだ、『余りお世話になってるんで、旦那の家へはどうも白面しらふでは伺い悪うござんして。』とね。あれで酒を飲まなければ正直ないい奴だ。」

「お父さんが、酒を飲めるようにしておやりになるからいけないんですよ。」

「なにそればかりじゃない。それに、彼に急に酒をやめさせると却っていけないかも知れないんだ。」

「そんなことを云ったらきりがないじゃありませんか。」

「いや或る習慣が出来たり無くなったりするには一定の時期がいるものだ。」

「それでもお父さんは余りに寛大すぎますよ。」

「そう……。」

 田原さんは何やら云いかけたが、そのままぷつりと言葉を切ってしまった。それで重夫もそれきり口を噤んだ。

 その晩田原さんは遅くまで眠れなかった。室の中が、そして蚊帳の中が妙に暑苦しかったので、彼はそっと起き出て、縁側の雨戸を開いた。

 星明りの、そして空気が澄み切った静かな晩だった。田原さんは庭に下りて行って大きく胸を開いて呼吸をした。それから急に庭の隅々を透し見た。何だか人の気配がしたようであった。然し其処には誰も居なかった。ただ植込の下影が、脅かすように真暗であった。

 田原さんは庭の中を歩き出した。そして暫くすると、彼はいつのまにか、良助が寝ている玄関横の四畳半の戸口に近寄っていた。そして彼はその戸口から耳を澄した。戸は閉め切ったままで、中からは何の物音もしなかった。

 時間が静かに過ぎていった。

 と突然田原さんは一歩退った。そして急に我に返ったようにあたりを見廻した。頭が硝子のように恐ろしくはっきりしているのを彼は感じた。それから何かに対して身構えるかのように、彼は両肩を後ろに引いてしかと拳を握りしめた。

 彼はそのままの姿勢で、また座敷の庭の方へ戻って来た。それは上半身だけが物に慴えて硬ばったようなおかしな姿だった。先刻開け放したままの戸が一枚、ぽかりと口を開いていた。彼はずっと其処にはいって行った。



 八月のじりじりと輝りつける或る日の午後、一群の野次馬が一人の巡査と泥酔の男との後について、ぞろぞろと田原さんの家の前までやって来た。炎熱と埃と汗の匂いが、一時にその閑静な通りをざわつかした。然し誰も皆黙っていた。黙って額の汗を拭いて、また酔漢よいどれの方を覗いた。酔漢は巡査に片手を取られたままのそりのそり歩いていった。黒眼が上眼瞼に引きつけて、じっと前方を睥んでいるようであった。

 二人は田原さんの門の中にはいった。野次馬の一群は其処にとり残されて、やはり黙ったまま門内を覗き込んだ。そしてやがて二、三人ずつ散っていった。

 巡査は玄関に立って、其処に出て来た田原さんに次のようなことを云った。

「この男が大道にいきなり坐ってしまったのです。いくら叱っても賺しても立ちません。泥酔してその上暑い日に輝らされたせいでしょう。住所をきくとただ、『田原の旦那の所へ行くんだ。』と答えるきりです。仕方がないから、お宅へ送ってやると云うと黙って立ち上って歩き出しました。あなたの御存じの男ですか。」

 田原さんは玄関にぼんやり屈んでいる男──徳蔵の上に、じっと眼を定めた。細い縞の浴衣が埃にまみれている。はだけた胸からは黒い胸毛が見えて、大きく喘ぐように息をしていた。

「ええ、」と田原さんは答えた。「もと、家に使っていた男です。決して怪しい者ではありませんから、どうか私に任しておいて下されば仕合せですが。」

 それで巡査はほっと安心したらしく、ポケットから手帳を取り出して、一応田原さんの名前とそれから徳蔵の住所氏名とを書き留めた。そして、「お邪魔でした。」と云い残して出て行った。

 田原さんは暫くつっ立ったまま徳蔵の姿を見守っていたが、やがて女中に命じて彼を良助の室に寝かさせようとした。徳蔵は黙って女中の後に随って庭の方に廻ったが、其処の縁側からどうしても上ろうとしなかった。

「此処でいいんだ!」と彼は女中に怒鳴りつけた。

 仕方がないので縁側に蓆を敷いてやると、彼はその上にすぐごろりと寝てしまった。そして差出されたコップの水をごくりと一口のんで、そのまま大きい鼾をかいて眠ってしまった。

 その騒ぎが静まると、家の中は急にまた蒸し暑く感ぜられて来た。じじじじと何処かで蝉の鳴く声がした。

 田原さんはその暑さに聞き入るようにして茶の間に坐っていたが、時々立っていって徳蔵の方を覗いた。徳蔵は胸をはだけ、枕から頭を滑らして喉仏を露わし、手足を伸べて、ぐっすり寝込んでいた。その全身をぐたりと縁側の上に托した寝姿は、如何にも暑苦しかった。庭には木の葉が強い日光にぎらぎら輝いていた。

 田原さんは懶い表情をしてぼんやりまた茶の間に坐り込んだ。

「あなたは徳蔵のことばかり気にしていらっしゃるのですね。」としげ子が微笑みながら云った。

 田原さんはそれには何とも答えなかった。

 四時頃、徳蔵が巡査につれられて来てから一時間半ばかりたった頃、芝に使いに行った良助が帰って来た。田原さんは急に生々した表情をした。

「御苦労だった。暑かったろうね。」

 良助は袴のまま其処に坐った。

「あの明晩こちらへ伺うから宜しくってそう仰言っていられました。」

「ああそうか、川口さんに逢ったのか。」

「はい。そして御馳走になって来ました。」

「それはよかった。まあ身体でも拭いて来るがいい。」

 その時表の方の縁側で何か音がした。それをきくと田原さんは俄に陰欝な顔をして立ち上った。

 良助はただわけもなく田原さんの後について行った。

 徳蔵は上半身を起してぽかんとして縁側に腰掛けていた。

「どうだ気分は!」と田原さんは苛ら苛らしたような調子で尋ねた。

 徳蔵はふり返って田原さんを見ると、急に二三度お辞儀をした。

「どうだ気分は?」と田原さんはまた尋ねた。

「いえもうすっかりいいんです。なにその一寸……。」

 徳蔵はふと言葉を切って何やら考えていたが、それがどうしても思い出せない風であった。

「冷めたいのを一杯飲まないか。その方が頭がはっきりしていいよ。」

 それをきくと徳蔵は急に眼を瞬いた。そして縁側から離れて立ち上った。凡てが漸く記憶に甦ってきたらしかった。

「いや旦那、もう御免被ります。この上やったら死んじゃいまさあ。いや豪い目に逢いましたよ。身体中がぎらぎら燃え出しちまったんですよ。真紅に燃える奴あ平気ですがね、ぎらぎら燃える奴ときたらかないませんや。頭にがーんときたんですよ。眼が眩んじまいましてね。……相済みません。水を一杯頂きてえんですが。」

「水をくんでおいで。」と田原さんはふり返って良助に云った。

 その時徳蔵は初めて其処に田原さん一人でないことを知ったらしく、顔を挙げると、次の間の襖の影に立っている良助の姿を見出した。それから彼は眼を落して縁側に敷いてある蓆を見た。

 徳蔵は黙って蓆を畳んで片隅に押しやった。

 やがて彼は良助が持って来たコップの水をぐっと飲み干した。そして黙ってまたそのコップを差出した。良助はまたそれに一杯水を注いで来てやると、彼はそれをも一息に飲み干した。

 彼はコップを下に置くと、良助の袴姿をじろじろ見ていたが、それから田原さんの方に向いて頭を下げた。

「とんだ御厄介になりました。もう大丈夫です。」

 そう云って彼は帰りかけた。

「まあゆっくり休んでゆくがいい。」と田原さんは声をかけた。

「なに大丈夫です。相済みません。これからもう酒はきっぱりしちまいます。全くです。……おい良助、お前もな、しっかり勉強しなよ。」

 徳蔵は逃げるようにして出て行ってしまった。

 良助は其処に立ったまま黙って父の後姿を見つめていた。

 その時田原さんは妙に不機嫌な顔をした。何か忌々しいものが、対象のない漠然とした忌々しさが、彼の頭に絡んできた。そして黙っていた。

 その時良助は田原さんの方へ向いて云った。

「父はどうしたんでございましょう。」

「なに、酒に酔って来たから寝かしておいたんだ。」

「それでも何か、ぎらぎら燃え上って頭にがーんとぶっつかったとか云っていましたが。」

「昼間泥酔したせいだろう。……自分で自分の身体に火をつけてるんだ。」

 良助は黙っていた。

「なに心配することはない。酒は止すと云っていたじゃないか。……早く袴でも取って水でも浴びて来るがいい。」

 田原さんはそう云ったまま二階に上っていった。良助は一歩その後に従ったが、また頭を振って自分の室にはいった。

 田原さんの不機嫌な顔と何かしら妙に忌々しい感情とは、その夕方まで続いた。

 そしてその晩、重夫はこんなことを云った。

「徳蔵のような奴は早くどうにかしなければとんだ迷惑を及ぼしますよ。」

「なに大変正直な奴なんだ。ただ酒をのむのがいけないんだ。」と田原さんは答えた。

「それは正直は正直でしょうが、愚かだから危険です。切端つまった場合にはどんなことをするか分りません。それに泥酔の癖がありますから……。」

 田原さんはそれには何とも答えなかった。そしてそのために益々不機嫌になった。その不機嫌さが神経に絡みついて、眉根をぴくぴく震わした。

 そんなことは田原さんには珍らしかった。いつも落ち附いてじっと構え込んでいる彼には、そんなことは実際非常に稀にしかなかった。で重夫もしげ子も妙にその晩は黙り込んでしまった。

 その夜、田原さんは早くから床にはいった。良助が夜学から帰って来て、「旦那様は?」と女中にきいた時は、田原さんはいつになく熟睡していた。

 夜半よなかに田原さんは眼を覚した。家の中はひっそりと静まり返っていた。そして彼の心も如何にも静かであった。ただぼんやり眼を開いていると、何処からか、ぽたり……ぽたりと物の滴るような音が聞えた。それは何時までも止まなかった。そしてしまいには彼の頭に執拗にまといついて来た。その鈍な重い物音が、おっ被さるように彼の頭のしんに響いた。

 田原さんは長い間考えていたが、漸次その物音の場所を探しあてたように急に起き上った。勝手元に行ってみると、それはやはり、水道の水が流し場の坂敷の上に洩れているのであった。水道の螺旋をしめると、水の滴る音はぴたりと止んだ。そして家の中が俄にしーんとしてきた。

 田原さんはまた床の中にはいったが、蚊帳越しに見える五燭の電気の光りが、彼の眼をちらちら刺激した。それでまた起き上って電気を消した。

 後はただ暗闇と静寂とだけであった。暫くじっとその暗を見つめていると、何時の間にか後はまたうとうととした。

 それからどれほど経ったが分らないが或はすぐ間もなくであったかも知れない。外をごーっと凄じい音を立てて風が荒れ狂っている、と田原さんは思った。激しい風は軒と軒と、木の間とを分けて、吹き過ぎた。そしてその風の間に、物の隅にちらちらと赤く光るものがあった。じっと見つめていると、やがてそれが大きい焔になって燃え初めた。と人影が一つすっと何処かへ走った。焔は渦を巻いて家に燃え移った。そして彼はいつのまにかその焔にとりまかれていた。「しまった!」と思うと田原さんは眼を覚した。

 それは殆んど一瞬間に起った幻だった。然しその意識が如何にもはっきりして、醒めた後の意識とすぐに続いていた。ただ風の音と焔とが、静けさと闇とに代ったのみであった。耳を澄すと庭の方に当って人の気配がした。誰かが足音を盗んで窺い寄っているらしかった。

 田原さんは起き上って帯をしめ直した。それから暗闇の中で、用心のために戸棚からピストルを取り出して弾丸をこめた。

 彼はそっと雨戸に近寄って、音のしないように静かに一枚戸を開いた。

 重くどんよりと曇った夜であった。庭の中は、仄蒼くぼんやりした明るみが空気の中に在った。透し見ると向うの白く浮き出した庭石の上に、人の影が蹲っていた。

 田原さんは少しも驚きはしなかった。凡てが予期した通りであった。そして彼は頭がはっきりしているのを感じた。恐ろしいほど澄み切ってはっきりしているのを感じた。手のピストルに眼をやると、それは銀色に冷たく光っていた。凡てが恐ろしいほど澄み切っていた。そしてそのままに身洛ち着いていた。静かであった。

 田原さんはじっと人影を見つめた。

 その男は長い間石の上に蹲っていた。それから、袂にマッチを探って、紙巻煙草に火をつけた。煙草の先がぼっと燃えたが、すぐに消えた。それから男は立ち上った。首を垂れながら歩き出したが、五六歩すると何かに躓いたように飛び上った。ばさっという音がした。男は其処に立ち止ってじっと地面を見つめていたが、梧桐の枯葉を一枚拾い取った。それをうち振りながら男はまた数歩した。と突然男は堪えられないような身振りをした。そしていきなりマッチを擦ってその枯葉に火を移した。ぼっと焔が立った。

 それらのことが、仄かな明るみを堪えた暗闇の中に、ぼんやり拡大した輪廓を以て田原さんの眼に映じた。そして梧桐の葉がぼっと燃え上った時に、田原さんの頭の透徹と神経の集中とは極度に達した。

「誰だ!」と田原さんは怒鳴った。

 男は駭然としてふり返った。

 その瞬間田原さんは男の下に向ってピストルを発射した。轟然たる音が闇の中に響いて男はばたりと地上に倒れた。

 殆んどそれと同時であった、田原さんは「しまった!」とピストルを持っている手先に感じた。彼はそれでもきっと唇をかみしめながら、静に跣足のまま庭に下りていった。片手に燃え残った枯葉を掴んだまま良助が左の胸を貫通せられて倒れていた。

 田原さんは其処に立ち悚んだ。そして何か腑に落ちないように頭を傾げた。

底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1)」未来社

   1967(昭和42)年620日第1刷発行

初出:「黒潮」

   1917(大正6)年8

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:松永正敏

2008年1019日作成

2010年920日修正

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