電車と風呂
寺田寅彦
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電車の中で試みに同乗の人々の顔を注意して見渡してみると、あまり感じの好い愉快な顔はめったに見当らない。顔色の悪い事や、眼鼻の形状配置といったようなものは別としても、顔全体としての表情が十中八、九までともかくも不愉快なものである。晴れ晴れと春めいた気持の好い表情は、少なくも大人の中にはめったに見付からない。大抵神経過敏な緊張か、さもなくば過度の疲労から来る不感が人々の眼と眉の間や口の周囲に残忍に刻まれている。たまには面白そうに笑っている人があってもその笑いは多くの場合には笑わないよりも一層気持の悪い笑いである。これらの沢山の不愉快な顔が醸す一種の雰囲気は強い伝染性を持っていて、外から乗り込んで来る人の心に、すぐさま暗い影を投げないではおかない、そして多くの人の腹の虫の居所を変えさせようとする傾向がある。
自分がこういう感じを始めてはっきり自覚したのは外国から帰った当座の事であった。二年振りで横浜へ上陸して、埠頭から停車場へ向かう途中で寛闊な日本服を着て素足で歩いている人々を見た時には、永い間カラーやカフスで責めつけられていた旅の緊張が急に解けるような気がしたが、この心持は間もなく裏切られてしまわねばならなかった。その夜東京の宿屋で寝たら敷蒲団が妙に硬くて、まるで張り板の上にでも寝かされるような気がした。便所へ行くとそれが甚だしく不潔で顔中の神経を刺戟された。翌朝久し振りで足駄を買って履いてみると、これがまた妙にぎごちないものであった。そして春田のような泥濘の町を骨を折って歩かなければならなかった。そのうちに天気が好くなると今度は強い南のから風が吹いて、呼吸もつまりそうな黄塵の中を泳ぐようにして駆けまわらねばならなかった。そして帽子をさらわれないために間断なき注意を余儀なくさせられた。電車に乗ると大抵満員──それが日本特有の満員で、意地悪く押されもまれて、その上に足を踏みつけられ、おまけに踏んだ人から「間抜けめ、気を付けろい」などと罵られて黙っていなければならなかった。このような──当り前ならば多分何でもないと思われるべき事が、しばらく忘れていただけに非常に強く当時の自分の頭に印象された。その時分から妙に電車の乗客の顔が不愉快に陰鬱にあるいは険悪に見え出したのである。そして色々な事を考えてみた。あまり確実な事は云われないが、西洋の電車ではこんな心持のした事はなかったように思う。勿論疲れた眠い顔や、中にはずいぶん緊張した顔もあるにはあったろうが、別にそれがために今のように不愉快な心持はしなかった。人種の差から免れ難い顔の道具の形や居ずまいだけがこのような差別の原因であろうか、何かもっとちがったところに主要な原因があるのではあるまいかと考えてみた。
先ず堅い高足駄をはいて泥田の中をこね歩かなければならない事、それから空風と戦い砂塵に悩まされなければならない事、このような天然の道具立にかてて加えて、文明の産み出したこの満員電車に割り込んで踏まれ押され罵られなければならない事、ただこの三つの条件だけでも自分のような弱い者にはかなりに多く神経の不愉快な緊張を感じさせる。これが毎日日課のように繰返される間には、自分の顔の皺の一つや二つは増すに相違ない。
近頃アメリカの学者の書いたものを読んでいたら、その中に、「英国人に比べてみると米国人の顔なり挙動なりはあまり緊張し過ぎている。これは心に余裕のない事を示す。その原因は気候の険悪などというためではなくて、人と人との間に養成された習慣が第二の天性に変化したのである。これを治療するにはやはり余裕のある人を模倣する事によって習性を改める外はない」と論じている。これを読んでなるほどと感心した。
しかしまだどうもこの説には充分に腑に落ちないところがある。もし東京にあの風が吹かなかったら、もし東京の街の泥と塵がなかったら、そして電車の数を増すか、あるいはいっその事に全部無くしてしまったら、それだけでも東京市民の顔は幾分か柔らかく快いものになりはしまいかと思われる。
こう考える理由が一つある。
東京市民の顔の緊張がやや弛んで見える場所がある、それは外でもない風呂屋である。日本に特有なこの有難い公共設備の入口の暖簾を潜って中へはいると、先ず番台からかけられる声からが既によほどゆるやかなものである。そして柔らかく温かに湿った湯気の中に動いている人の顔にも、鏡の前に裸で立ちはだかって頬を膨らしてみたり腹を撫でてみたりしている人の顔にも、湯槽の水面に浮んでいるデモクラチックな顔にも、美醜老若の別なく、一様に淡く寛舒の表情が浮んでいる。
この有難い設備と習慣とがなかったら東京市民の顔は今頃どんなものに変化しているだろう。
銭湯の湯船の中で見る顔には帝国主義もなければ社会主義もない。
もし東京市民が申し合せをして私宅の風呂をことごとく撤廃し、大臣でも職工でも皆同じ大浴場の湯気にうだるようにしたら、存外六ヶしい世の中の色々の大問題がヤスヤス解決される端緒にもなりはしまいか。こんな事を考えてみたこともある。
風呂場が人間に与える微妙な影響の中で面白いのは、多くの人が歌を唱いたくなる事である。英国の有名な物理学者が近頃ロンドンのローヤルインスチチューションでやった講演の中で「人は何故浴場で歌いたくなるか」という問題を提出したら聴衆は大いに笑ったそうである。して見ると浴場で歌うという傾向は江戸ッ子に限らないと見える。この学者の説によると、第一に水の流出する音が人の声を誘う、第二には浴場の壁は普通の家のように音波を擾乱するものがないためによく反響して声が充実して聞えるためだという。しかしこの説が日本の浴場にも通用するかどうか少し疑わしい。自分の考えでは温浴のために血行がよくなり、肉体従って精神の緊張が弛んで声帯の振動も自由になるのが主な原因であるまいかと思う。緊張した時には咳払いをしなければ声が出にくいのは誰も知る通りである。いつかベルリンで見た歌劇で幕があくとタンホイゼルが女神の膝を枕にして寝ている、そして Zu viel! zu viel! と歌いながら起き上がる時に咽喉がつかえて妙な声になりそうなので咳払いを一つして始末をつけたのを記憶している。専門家でさえそうである。自分の経験でも風呂から出たすぐ後で唱歌をやると、自分の声かと思うように楽に大きな声が出る。そして平生は出ないfの音が骨を折らずに自由に出る。
電車の走る音の中にも種々な楽音が含まれている事は少し注意して見れば分る。モーターの早い規律正しい廻転から起る音の中にはかなり純粋な楽音がいくつかある。しかし電車の中で歌いたくなる人はあまりなさそうである。たとえ取締規則がこれを許しても、また二、三の変り者が実例を示して鼓吹したにしてもあまり流行はしそうもない、してもあの緊張した空気の中で好い声が楽に出ようとは思われない。
電車のゴウゴウと鳴る音のエネルギーの源をだんだんに捜して行くと思い掛けない甲州の淋しい山中の谷川に到着する。気持のいい谷川の瀬の音と電車の音とは実は従兄弟である。それから電車のポールの尖端から出る気味の悪い火花も、日本アルプスを照らす崇厳な稲妻の曾孫くらいのものに過ぎない。しかし同じ源から出たエネルギーはせち辛い東京市民に駆使される時に苦しい唸き声を出し、いらだたしい火花を出しながら駆使者の頭上に黒い呪を投げている。
科学の示す可能の範囲は多くの人の予想以外に広いものである。それにもかかわらず現代の応用科学の産み出した文化は天地間のエネルギーを駆使して多くの唸り声や吼声を製造するに忙しい。このエネルギーの小部分を割いて電車の乗客の顔を柔らげる目的に使用する事は出来ないものだろうか。科学がキャピタリズムやミリタリズムやないしボルシェヴィズムの居候になっているうちは、まあ当分見込がなさそうに思われる。
満員電車にぶら下がっている人々の傍を自動車で通る人があるから世の中に社会主義などというものが出来るという人がある。一応尤もらしく聞える。何とかいう芝居で鋳掛屋の松という男が、両国橋の上から河上を流れる絃歌の声を聞いて翻然大悟しその場から盗賊に転業したという話があるくらいだから、昔から似よった考えはあったに相違ない。しかしまた昔はずいぶん人の栄華を見て奮発心を起して勉強した人も沢山あって、そういう事の方が多く讃美され奨励されていたようでもある。
南向いている豚の尻を鞭でたたけば南へ駆け出し、北向いている野猪をひっぱたけば北へ向いて突進する。同じ鋳掛屋がもしも一風呂浴びてここを通りかかったのだったら、同じ絃歌の音は却って彼の唱歌を誘い出したかもしれない。こう考えると日本のある種の過激思想の発生には満員電車も少なからず責任があるような気がする。不幸にして多くの文明の利器は時々南向いた豚さえも北へ向かせるように出来ているのが多い。いわんや北へ向いているのを駆け出させるような刺戟は到る処にころがっている。この刺戟を柔らげるには、どうも風呂が一番有効なように思われる。
こんな話を友人のA君に話したら、A君のいうのに、昔ローマを滅ぼしたのは風呂場である、あまり風呂場を鼓吹するのは危険ではないかと。しかしまた考えてみると昔ローマには満員電車というもののなかった事も確かである。
ドイツに居た時は、どういうものかいつも心持が緊張し過ぎて困った。交際した学生でも下宿の婆さんでも皆それぞれに緊張していた。他の国を旅行して帰りにドイツの国境を超えると同時に、この緊張がいつも著しく眼についた、すべてのものがカイゼルの髭のように緊張していた。英国へ渡るとなんだか急に呑気になった、巡査を見ても牛乳屋を見ても誰を見ても一様に呑気な顔をしていた。あまり緊張が弛んだために眠くなって困った。米国へ渡ってもやはり人の顔が間延びがして呑気に見えた。前に引合に出した米国の学者が緊張し過ぎているといってるのが自分にはよく分らない。これは多分自分がそういう社会に顔を出さなかったためかもしれない。東京へ帰ると英国人のように呑気な顔も少ないがドイツ式に緊張した顔も少ない。何と云って形容したらいいか分らないが、とにかく満員電車の上がり口につかまってぶら下がっているような一種の緊張が到る処に見出された。例えば飛行機に乗ってこれから蒼空へ飛び出そうというような種類の緊張はあまり見つからなかった。
日本でも田舎へ行けば、東京とちがった顔が見られるかもしれない。これから旅行する機会があったらそのつもりで注意して見たいと思っている。尤も田舎には満員電車のない代りに完全な風呂がない。どうかすると風呂場が肥溜と一つになっている。しかし田舎にはまた人工的の風呂の代りに美しい自然に囲まれた日光浴場がある。如何に鉄道が拡がっても製糸工場が増しても、まだまだそこらの山陰や川口にはこんな浴場はいくらも残っているだろう。
こんな取り止めも付かぬ事を色々な人に話してみた。
二、三の先輩は怒ったような顔をし、あるいは苦笑して何とも云わなかった。B君は黙って聞いてしまってから物価騰貴と月給の話をした。C君は日露戦争と欧洲大戦を引合に出して、緊張と寛舒の利害を論じた。D君は現在教育制度の欠陥を論じて、日本人は小学から大学までただ満員電車にぶら下がる術を教わるばかりだと云った。E君は、国民の哲学的宗教的背景が欠けている事を痛論した。
X君とZ君だけは自分の大浴場説に賛成した。しかし浴場に附属した礼拝堂と図書館と画廊と音楽堂と運動場の建築が必要であると云って、それで三人でこの仮想的浴場のプランを画いてみたりした。しかしその費用の出処については誰にも何の目あてもないので、おしまいにはとうとう三人で笑い出してしまった。
底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年
初出:「新小説」
1920(大正9)年5月1日
※初出時の署名は「金平糖」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:noriko saito
2004年11月24日作成
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