醜い家鴨の子
DEN GRIMME AELING
ハンス・クリスチャン・アンデルゼン Hans Christian Andersen
菊池寛訳
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それは田舎の夏のいいお天気の日の事でした。もう黄金色になった小麦や、まだ青い燕麦や、牧場に積み上げられた乾草堆など、みんなきれいな眺めに見える日でした。こうのとりは長い赤い脚で歩きまわりながら、母親から教わった妙な言葉でお喋りをしていました。
麦畑と牧場とは大きな森に囲まれ、その真ん中が深い水溜りになっています。全く、こういう田舎を散歩するのは愉快な事でした。
その中でも殊に日当りのいい場所に、川近く、気持のいい古い百姓家が立っていました。そしてその家からずっと水際の辺りまで、大きな牛蒡の葉が茂っているのです。それは実際ずいぶん丈が高くて、その一番高いのなどは、下に子供がそっくり隠れる事が出来るくらいでした。人気がまるで無くて、全く深い林の中みたいです。この工合のいい隠れ場に一羽の家鴨がその時巣について卵がかえるのを守っていました。けれども、もうだいぶ時間が経っているのに卵はいっこう殻の破れる気配もありませんし、訪ねてくれる仲間もあまりないので、この家鴨は、そろそろ退屈しかけて来ました。他の家鴨達は、こんな、足の滑りそうな土堤を上って、牛蒡の葉の下に坐って、この親家鴨とお喋りするより、川で泳ぎ廻る方がよっぽど面白いのです。
しかし、とうとうやっと一つ、殻が裂け、それから続いて、他のも割れてきて、めいめいの卵から、一羽ずつ生き物が出て来ました。そして小さな頭をあげて、
「ピーピー。」
と、鳴くのでした。
「グワッ、グワッってお言い。」
と、母親が教えました。するとみんな一生懸命、グワッ、グワッと真似をして、それから、あたりの青い大きな葉を見廻すのでした。
「まあ、世界ってずいぶん広いもんだねえ。」
と、子家鴨達は、今まで卵の殻に住んでいた時よりも、あたりがぐっとひろびろしているのを見て驚いて言いました。すると母親は、
「何だね、お前達これだけが全世界だと思ってるのかい。まあそんな事はあっちのお庭を見てからお言いよ。何しろ牧師さんの畑の方まで続いてるって事だからね。だが、私だってまだそんな先きの方までは行った事がないがね。では、もうみんな揃ったろうね。」
と、言いかけて、
「おや! 一番大きいのがまだ割れないでるよ。まあ一体いつまで待たせるんだろうねえ、飽き飽きしちまった。」
そう言って、それでもまた母親は巣に坐りなおしたのでした。
「今日は。御子様はどうかね。」
そう言いながら年とった家鴨がやって来ました。
「今ねえ、あと一つの卵がまだかえらないんですよ。」
と、親家鴨は答えました。
「でもまあ他の子達を見てやって下さい。ずいぶんきりょう好しばかりでしょう? みんあ父親そっくりじゃありませんか。不親切で、ちっとも私達を見に帰って来ない父親ですがね。」
するとおばあさん家鴨が、
「どれ私にその割れない卵を見せて御覧。きっとそりゃ七面鳥の卵だよ。私もいつか頼まれてそんなのをかえした事があるけど、出て来た子達はみんな、どんなに気を揉んで直そうとしても、どうしても水を恐がって仕方がなかった。私あ、うんとガアガア言ってやったけど、からっきし駄目! 何としても水に入れさせる事が出来ないのさ。まあもっとよく見せてさ、うん、うん、こりゃあ間違いなし、七面鳥の卵だよ。悪いことは言わないから、そこに放ったらかしときなさい。そいで早く他の子達に泳ぎでも教えた方がいいよ。」
「でもまあも少しの間ここで温めていようと思いますよ。」
と、母親は言いました。
「こんなにもう今まで長く温めたんですから、も少し我慢するのは何でもありません。」
「そんなら御勝手に。」
そう言い棄てて年寄の家鴨は行ってしまいました。
とうとう、そのうち大きい卵が割れてきました。そして、
「ピーピー。」
と鳴きながら、雛鳥が匐い出してきました。それはばかに大きくて、ぶきりょうでした。母鳥はじっとその子を見つめていましたが、突然、
「まあこの子の大きい事! そしてほかの子とちっとも似てないじゃないか! こりゃあ、ひょっとすると七面鳥かも知れないよ。でも、水に入れる段になりゃ、すぐ見分けがつくから構やしない。」
と、独言を言いました。
翌る日もいいお天気で、お日様が青い牛蒡の葉にきらきら射してきました。そこで母鳥は子供達をぞろぞろ水際に連れて来て、ポシャンと跳び込みました。そして、グワッ、グワッと鳴いてみせました。すると小さい者達も真似して次々に跳び込むのでした。みんないったん水の中に頭がかくれましたが、見る間にまた出て来ます。そしていかにも易々と脚の下に水を掻き分けて、見事に泳ぎ廻るのでした。そしてあのぶきりょうな子家鴨もみんなと一緒に水に入り、一緒に泳いでいました。
「ああ、やっぱり七面鳥じゃなかったんだ。」
と、母親は言いました。
「まあ何て上手に脚を使う事ったら! それにからだもちゃんと真っ直ぐに立ててるしさ。ありゃ間違いなしに私の子さ。よく見りゃ、あれだってまんざら、そう見っともなくないんだ。グワッ、グワッ、さあみんな私に従いてお出で。これから偉い方々のお仲間入りをさせなくちゃ。だからお百姓さんの裏庭の方々に紹介するからね。でもよく気をつけて私の傍を離れちゃいけないよ。踏まれるから。それに何より第一に猫を用心するんだよ。」
さて一同で裏庭に着いてみますと、そこでは今、大騒ぎの真っ最中です。二つの家族で、一つの鰻の頭を奪いあっているのです。そして結局、それは猫にさらわれてしまいました。
「みんな御覧、世間はみんなこんな風なんだよ。」
と、母親は言って聞かせました。自分でもその鰻の頭が欲しかったと見えて、嘴を磨りつけながら、そして、
「さあみんな、脚に気をつけて。それで、行儀正しくやるんだよ。ほら、あっちに見える年とった家鴨さんに上手にお辞儀おし。あの方は誰よりも生れがよくてスペイン種なのさ。だからいい暮しをしておいでなのだ。ほらね、あの方は脚に赤いきれを結えつけておいでだろう。ありゃあ家鴨にとっちゃあ大した名誉なんだよ。つまりあの方を見失わない様にしてみんなが気を配ってる証拠なの。さあさ、そんなに趾を内側に曲げないで。育ちのいい家鴨の子はそのお父さんやお母さんみたいに、ほら、こう足を広くはなしてひろげるもんなのだ。さ、頸を曲げて、グワッって言って御覧。」
家鴨の子達は言われた通りにしました。けれどもほかの家鴨達は、じろっとそっちを見て、こう言うのでした。
「ふん、また一孵り、他の組がやって来たよ、まるで私達じゃまだ足りないか何ぞの様にさ! それにまあ、あの中の一羽は何て妙ちきりんな顔をしてるんだろう。あんなのここに入れてやるもんか。」
そう言ったと思うと、突然一羽跳び出して来て、それの頸のところを噛んだのでした。
「何をなさるんです。」
と、母親はどなりました。
「これは何にも悪い事をした覚えなんか無いじゃありませんか。」
「そうさ。だけどあんまり図体が大き過ぎて、見っともない面してるからよ。」
と、意地悪の家鴨が言い返すのでした。
「だから追い出しちまわなきゃ。」
すると傍から、例の赤いきれを脚につけている年寄家鴨が、
「他の子供さんはずいみんみんなきりょう好しだねえ、あの一羽の他は、みんなね。お母さんがあれだけ、もう少しどうにか善くしたらよさそうなもんだのに。」
と、口を出しました。
「それはとても及びませぬ事で、奥方様。」
と、母親は答えました。
「あれは全くのところ、きりょう好しではございませぬ。しかし誠に善い性質をもっておりますし、泳ぎをさせますと、他の子達くらい、──いやそれよりずっと上手に致します。私の考えますところではあれも日が経ちますにつれて、美しくなりたぶんからだも小さくなる事でございましょう。あれは卵の中にあまり長く入っておりましたせいで、からだつきが普通に出来上らなかったのでございます。」
そう言って母親は子家鴨の頸を撫で、羽を滑かに平らにしてやりました。そして、
「何しろこりゃ男だもの、きりょうなんか大した事じゃないさ。今に強くなって、しっかり自分の身をまもる様になる。」
こんな風に呟いてもみるのでした。
「実際、他の子供衆は立派だよ。」
と、例の身分のいい家鴨はもう一度繰返して、
「まずまず、お前さん方もっとからだをらくになさい。そしてね、鰻の頭を見つけたら、私のところに持って来ておくれ。」
と、附け足したものです。
そこでみんなはくつろいで、気の向いた様にふるまいました。けれども、あの一番おしまいに殻から出た、そしてぶきりょうな顔付きの子家鴨は、他の家鴨やら、その他そこに飼われている鳥達みんなからまで、噛みつかれたり、突きのめされたり、いろいろからかわれたのでした。そしてこんな有様はそれから毎日続いたばかりでなく、日に増しそれがひどくなるのでした。兄弟までこの哀れな子家鴨に無慈悲に辛く当って、
「ほんとに見っともない奴、猫にでもとっ捕った方がいいや。」
などと、いつも悪体をつくのです。母親さえ、しまいには、ああこんな子なら生れない方がよっぽど幸だったと思う様になりました。仲間の家鴨からは突かれ、鶏っ子からは羽でぶたれ、裏庭の鳥達に食物を持って来る娘からは足で蹴られるのです。
堪りかねてその子家鴨は自分の棲家をとび出してしまいました。その途中、柵を越える時、垣の内にいた小鳥がびっくりして飛び立ったものですから、
「ああみんなは僕の顔があんまり変なもんだから、それで僕を怖がったんだな。」
と、思いました。それで彼は目を瞑って、なおも遠く飛んで行きますと、そのうち広い広い沢地の上に来ました。見るとたくさんの野鴨が住んでいます。子家鴨は疲れと悲しみになやまされながらここで一晩を明しました。
朝になって野鴨達は起きてみますと、見知らない者が来ているので目をみはりました。
「一体君はどういう種類の鴨なのかね。」
そう言って子家鴨の周りに集まって来ました。子家鴨はみんなに頭を下げ、出来るだけ恭しい様子をしてみせましたが、そう訊ねられた事に対しては返答が出来ませんでした。野鴨達は彼に向って、
「君はずいぶんみっともない顔をしてるんだねえ。」
と、云い、
「だがね、君が僕達の仲間をお嫁にくれって言いさえしなけりゃ、まあ君の顔つきくらいどんなだって、こっちは構わないよ。」
と、つけ足しました。
可哀そうに! この子家鴨がどうしてお嫁さんを貰う事など考えていたでしょう。彼はただ、蒲の中に寝て、沢地の水を飲むのを許されればたくさんだったのです。こうして二日ばかりこの沢地で暮していますと、そこに二羽の雁がやって来ました。それはまだ卵から出て幾らも日の経たない子雁で、大そうこましゃくれ者でしたが、その一方が子家鴨に向って言うのに、
「君、ちょっと聴き給え。君はずいぶん見っともないね。だから僕達は君が気に入っちまったよ。君も僕達と一緒に渡り鳥にならないかい。ここからそう遠くない処にまだほかの沢地があるがね、そこにやまだ嫁かない雁の娘がいるから、君もお嫁さんを貰うといいや。君は見っともないけど、運はいいかもしれないよ。」
そんなお喋りをしていますと、突然空中でポンポンと音がして、二羽の雁は傷ついて水草の間に落ちて死に、あたりの水は血で赤く染りました。
ポンポン、その音は遠くで涯しなくこだまして、たくさんの雁の群は一せいに蒲の中から飛び立ちました。音はなおも四方八方から絶え間なしに響いて来ます。狩人がこの沢地をとり囲んだのです。中には木の枝に腰かけて、上から水草を覗くのもありました。猟銃から出る青い煙は、暗い木の上を雲の様に立ちのぼりました。そしてそれが水上を渡って向うへ消えたと思うと、幾匹かの猟犬が水草の中に跳び込んで来て、草を踏み折り踏み折り進んで行きました。可哀そうな子家鴨がどれだけびっくりしたか! 彼が羽の下に頭を隠そうとした時、一匹の大きな、怖ろしい犬がすぐ傍を通りました。その顎を大きく開き、舌をだらりと出し、目はきらきら光らせているのです。そして鋭い歯をむき出しながら子家鴨のそばに鼻を突っ込んでみた揚句、それでも彼には触らずにどぶんと水の中に跳び込んでしまいました。
「やれやれ。」
と、子家鴨は吐息をついて、
「僕は見っともなくて全く有難い事だった。犬さえ噛みつかないんだからねえ。」
と、思いました。そしてまだじっとしていますと、猟はなおもその頭の上ではげしく続いて、銃の音が水草を通して響きわたるのでした。あたりがすっかり静まりきったのは、もうその日もだいぶん晩くなってからでしたが、そうなってもまだ哀れな子家鴨は動こうとしませんでした。何時間かじっと坐って様子を見ていましたが、それからあたりを丁寧にもう一遍見廻した後やっと立ち上って、今度は非常な速さで逃げ出しました。畑を越え、牧場を越えて走って行くうち、あたりは暴風雨になって来て、子家鴨の力では、凌いで行けそうもない様子になりました。やがて日暮れ方彼は見すぼらしい小屋の前に来ましたが、それは今にも倒れそうで、ただ、どっち側に倒れようかと迷っているためにばかりまだ倒れずに立っている様な家でした。あらしはますますつのる一方で、子家鴨にはもう一足も行けそうもなくなりました。そこで彼は小屋の前に坐りましたが、見ると、戸の蝶番が一つなくなっていて、そのために戸がきっちり閉っていません。下の方でちょうど子家鴨がやっと身を滑り込ませられるくらい透いでいるので、子家鴨は静かにそこからしのび入り、その晩はそこで暴風雨を避ける事にしました。
この小屋には、一人の女と、一匹の牡猫と、一羽の牝鶏とが住んでいるのでした。猫はこの女御主人から、
「忰や。」
と、呼ばれ、大の御ひいき者でした。それは背中をぐいと高くしたり、喉をごろごろ鳴らしたり逆に撫でられると毛から火の子を出す事まで出来ました。牝鶏はというと、足がばかに短いので
「ちんちくりん。」
と、いう綽名を貰っていましたが、いい卵を生むので、これも女御主人から娘の様に可愛がられているのでした。
さて朝になって、ゆうべ入って来た妙な訪問者はすぐ猫達に見つけられてしまいました。猫はごろごろ喉を鳴らし、牝鶏はクックッ鳴きたてはじめました。
「何だねえ、その騒ぎは。」
と、お婆さんは部屋中見廻して言いましたが、目がぼんやりしているものですから、子家鴨に気がついた時、それを、どこかの家から迷って来た、よくふとった家鴨だと思ってしまいました。
「いいものが来たぞ。」
と、お婆さんは云いました。
「牡家鴨でさえなけりゃいいんだがねえ、そうすりゃ家鴨の卵が手に入るというもんだ。まあ様子を見ててやろう。」
そこで子家鴨は試しに三週間ばかりそこに住む事を許されましたが、卵なんか一つだって、生れる訳はありませんでした。
この家では猫が主人の様にふるまい、牝鶏が主人の様に威張っています。そして何かというと
「我々この世界。」
と、言うのでした。それは自分達が世界の半分ずつだと思っているからなのです。ある日牝鶏は子家鴨に向って、
「お前さん、卵が生めるかね。」
と、尋ねました。
「いいえ。」
「それじゃ何にも口出しなんかする資格はないねえ。」
牝鶏はそう云うのでした。今度は猫の方が、
「お前さん、背中を高くしたり、喉をごろつかせたり、火の子を出したり出来るかい。」
と、訊きます。
「いいえ。」
「それじゃ我々偉い方々が何かものを言う時でも意見を出しちゃいけないぜ。」
こんな風に言われて子家鴨はひとりで滅入りながら部屋の隅っこに小さくなっていました。そのうち、温い日の光や、そよ風が戸の隙間から毎日入る様になり、そうなると、子家鴨はもう水の上を泳ぎたくて泳ぎたくて堪らない気持が湧き出して来て、とうとう牝鶏にうちあけてしまいました。すると、
「ばかな事をお言いでないよ。」
と、牝鶏は一口にけなしつけるのでした。
「お前さん、ほかにする事がないもんだから、ばかげた空想ばっかしする様になるのさ。もし、喉を鳴したり、卵を生んだり出来れば、そんな考えはすぐ通り過ぎちまうんだがね。」
「でも水の上を泳ぎ廻るの、実際愉快なんですよ。」
と、子家鴨は言いかえしました。
「まあ水の中にくぐってごらんなさい、頭の上に水が当る気持のよさったら!」
「気持がいいだって! まあお前さん気でも違ったのかい、誰よりも賢いここの猫さんにでも、女御主人にでも訊いてごらんよ、水の中を泳いだり、頭の上を水が通るのがいい気持だなんておっしゃるかどうか。」
牝鶏は躍気になってそう言うのでした。子家鴨は、
「あなたにゃ僕の気持が分らないんだ。」
と、答えました。
「分らないだって? まあ、そんなばかげた事は考えない方がいいよ。お前さんここに居れば、温かい部屋はあるし、私達からはいろんな事がならえるというもの。私はお前さんのためを思ってそう言って上げるんだがね。とにかく、まあ出来るだけ速く卵を生む事や、喉を鳴す事を覚える様におし。」
「いや、僕はもうどうしてもまた外の世界に出なくちゃいられない。」
「そんなら勝手にするがいいよ。」
そこで子家鴨は小屋を出て行きました。そしてまもなく、泳いだり、潜ったり出来る様な水の辺りに来ましたが、その醜い顔容のために相変らず、他の者達から邪魔にされ、はねつけられてしまいました。そのうち秋が来て、森の木の葉はオレンジ色や黄金色に変って来ました。そして、だんだん冬が近づいて、それが散ると、寒い風がその落葉をつかまえて冷い空中に捲き上げるのでした。霰や雪をもよおす雲は空に低くかかり、大烏は羊歯の上に立って、
「カオカオ。」
と、鳴いています。それは、一目見るだけで寒さに震え上ってしまいそうな様子でした。目に入るものみんな、何もかも、子家鴨にとっては悲しい思いを増すばかりです。
ある夕方の事でした。ちょうどお日様が今、きらきらする雲の間に隠れた後、水草の中から、それはそれはきれいな鳥のたくさんの群が飛び立って来ました。子家鴨は今までにそんな鳥を全く見た事がありませんでした。それは白鳥という鳥で、みんな眩いほど白く羽を輝かせながら、その恰好のいい首を曲げたりしています。そして彼等は、その立派な翼を張り拡げて、この寒い国からもっと暖い国へと海を渡って飛んで行く時は、みんな不思議な声で鳴くのでした。子家鴨はみんなが連れだって、空高くだんだんと昇って行くのを一心に見ているうち、奇妙な心持で胸がいっぱいになってきました。それは思わず自分の身を車か何ぞの様に水の中に投げかけ、飛んで行くみんなの方に向って首をさし伸べ、大きな声で叫びますと、それは我ながらびっくりしたほど奇妙な声が出たのでした。ああ子家鴨にとって、どうしてこんなに美しく、仕合せらしい鳥の事が忘れる事が出来たでしょう! こうしてとうとうみんなの姿が全く見えなくなると、子家鴨は水の中にぽっくり潜り込みました。そしてまた再び浮き上って来ましたが、今はもう、さっきの鳥の不思議な気持にすっかりとらわれて、我を忘れるくらいです。それは、さっきの鳥の名も知らなければ、どこへ飛んで行ったのかも知りませんでしたけれど、生れてから今までに会ったどの鳥に対しても感じた事のない気持を感じさせられたのでした。子家鴨はあのきれいな鳥達を嫉ましく思ったのではありませんでしたけれども、自分もあんなに可愛らしかったらなあとは、しきりに考えました。可哀そうにこの子家鴨だって、もとの家鴨達が少し元気をつける様にしてさえくれれば、どんなに喜んでみんなと一緒に暮したでしょうに!
さて、寒さは日々にひどくなって来ました。子家鴨は水が凍ってしまわない様にと、しょっちゅう、その上を泳ぎ廻っていなければなりませんでした。けれども夜毎々々に、それが泳げる場所は狭くなる一方でした。そして、とうとうそれは固く固く凍ってきて、子家鴨が動くと水の中の氷がめりめり割れる様になったので、子家鴨は、すっかりその場所が氷で、閉ざされてしまわない様力限り脚で水をばちゃばちゃ掻いていなければなりませんでした。そのうちしかしもう全く疲れきってしまい、どうする事も出来ずにぐったりと水の中で凍えてきました。
が、翌朝早く、一人の百姓がそこを通りかかって、この事を見つけたのでした。彼は穿いていた木靴で氷を割り、子家鴨を連れて、妻のところに帰って来ました。温まってくるとこの可哀そうな生き物は息を吹きかえして来ました。けれども子供達がそれと一緒に遊ぼうとしかけると、子家鴨は、みんながまた何か自分にいたずらをするのだと思い込んで、びっくりして跳び立って、ミルクの入っていたお鍋にとび込んでしまいました。それであたりはミルクだらけという始末。おかみさんが思わず手を叩くと、それはなおびっくりして、今度はバタの桶やら粉桶やらに脚を突っ込んで、また匐い出しました。さあ大変な騒ぎです。おかみさんはきいきい言って、火箸でぶとうとするし、子供達もわいわい燥いで、捕えようとするはずみにお互いにぶつかって転んだりしてしまいました。けれども幸いに子家鴨はうまく逃げおおせました。開いていた戸の間から出て、やっと叢の中まで辿り着いたのです。そして新たに降り積った雪の上に全く疲れた身を横たえたのでした。
この子家鴨が苦しい冬の間に出遭った様々な難儀をすっかりお話しした日には、それはずいぶん悲しい物語になるでしょう。が、その冬が過ぎ去ってしまったとき、ある朝、子家鴨は自分が沢地の蒲の中に倒れているのに気がついたのでした。それは、お日様が温く照っているのを見たり、雲雀の歌を聞いたりして、もうあたりがすっかりきれいな春になっているのを知りました。するとこの若い鳥は翼で横腹を摶ってみましたが、それは全くしっかりしていて、彼は空高く昇りはじめました。そしてこの翼はどんどん彼を前へ前へと進めてくれます。で、とうとう、まだ彼が無我夢中でいる間に大きな庭の中に来てしまいました。林檎の木は今いっぱいの花ざかり、香わしい接骨木はビロードの様な芝生の周りを流れる小川の上にその長い緑の枝を垂れています。何もかも、春の初めのみずみずしい色できれいな眺めです。このとき、近くの水草の茂みから三羽の美しい白鳥が、羽をそよがせながら、滑らかな水の上を軽く泳いであらわれて来たのでした。子家鴨はいつかのあの可愛らしい鳥を思い出しました。そしていつかの日よりももっと悲しい気持になってしまいました。
「いっそ僕、あの立派な鳥んとこに飛んでってやろうや。」
と、彼は叫びました。
「そうすりゃあいつ等は、僕がこんなにみっともない癖して自分達の傍に来るなんて失敬だって僕を殺すにちがいない。だけど、その方がいいんだ。家鴨の嘴で突かれたり、牝鶏の羽でぶたれたり、鳥番の女の子に追いかけられるなんかより、どんなにいいかしれやしない。」
こう思ったのです。そこで、子家鴨は急に水面に飛び下り、美しい白鳥の方に、泳いで行きました。すると、向うでは、この新しくやって来た者をちらっと見ると、すぐ翼を拡げて急いで近づいて来ました。
「さあ殺してくれ。」
と、可哀そうな鳥は言って頭を水の上に垂れ、じっと殺されるのを待ち構えました。
が、その時、鳥が自分のすぐ下に澄んでいる水の中に見つけたものは何でしたろう。それこそ自分の姿ではありませんか。けれどもそれがどうでしょう、もう決して今はあのくすぶった灰色の、見るのも厭になる様な前の姿ではないのです。いかにも上品で美しい白鳥なのです。百姓家の裏庭で、家鴨の巣の中に生れようとも、それが白鳥の卵から孵る以上、鳥の生れつきには何のかかわりもないのでした。で、その白鳥は、今となってみると、今まで悲しみや苦しみにさんざん出遭った事が喜ばしい事だったという気持にもなるのでした。そのためにかえって今自分とり囲んでいる幸福を人一倍楽しむ事が出来るからです。御覧なさい。今、この新しく入って来た仲間を歓迎するしるしに、立派な白鳥達がみんな寄って、めいめいの嘴でその頸を撫でているではありませんか。
幾人かの子供がお庭に入って来ました。そして水にパンやお菓子を投げ入れました。
「やっ!」
と、一番小さい子が突然大声を出しました。そして、
「新しく、ちがったのが来てるぜ。」
そう教えたものでしたら、みんなは大喜びで、お父さんやお母さんのところへ、雀躍しながら馳けて行きました。
「ちがった白鳥がいまーす、新しいのが来たんでーす。」
口々にそんな事を叫んで。それからみんなもっとたくさんのパンやお菓子を貰って来て、水に投げ入れました。そして、
「新しいのが一等きれいだね、若くてほんとにいいね。」
と、賞めそやすのでした。それで年の大きい白鳥達まで、この新しい仲間の前でお辞儀をしました。若い白鳥はもうまったく気まりが悪くなって、翼の下に頭を隠してしまいました。彼には一体どうしていいのか分らなかったのです。ただ、こう幸福な気持でいっぱいで、けれども、高慢な心などは塵ほども起しませんでした。
見っともないという理由で馬鹿にされた彼、それが今はどの鳥よりも美しいと云われているのではありませんか。接骨木までが、その枝をこの新しい白鳥の方に垂らし、頭の上ではお日様が輝かしく照りわたっています。新しい白鳥は羽をさらさら鳴らし、細っそりした頸を曲げて、心の底から、
「ああ僕はあの見っともない家鴨だった時、実際こんな仕合せなんか夢にも思わなかったなあ。」
と、叫ぶのでした。
底本:「小學生全集第五卷 アンデルゼン童話集」興文社、文藝春秋社
1928(昭和3)年8月1日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、次の書き換えを行いました。
「或→ある 余り→あまり 一向→いっこう 一旦→いったん 中→うち 彼→か 却って→かえって かも知れない→かもしれない 位→くらい 此処→ここ 此の→この 随分→ずいぶん 直ぐ→すぐ 其処→そこ 其・其の→その 其中→そのうち 大分→だいぶ・だいぶん 沢山→たくさん 唯→ただ 多分→たぶん 為→ため 段々→だんだん 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと て居る→ておる 何→ど 何処→どこ 兎に角→とにかく 程→ほど 益々→ますます 又→また 迄→まで 間もなく→まもなく 余っぽど→よっぽど」
入力:大久保ゆう
校正:秋鹿
2006年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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