闇への書
梶井基次郎



     第一話


 私は昨日土堤どての土に寢轉びながら何時間も空を見てゐた。日に照らされた雜木山の上には動かない巨きな雲があつた。それは底の方に藤紫色の陰翳いんえいを持つてゐた。その雲はその尨大な容積のために、それからまたその藤紫色の陰翳のために、茫漠とした悲哀を感じさせた。それは恰もその雲のおほひかぶさつてゐる地球の運命を反映してゐるやうに私には思へた。

 雜木山の麓から私の坐つてゐた土堤へかけては山と山とに狹められたこの村中での一番大きな平地だ。たにからは高く、一日中日のあたつてゐる畑だ。午後になつてすでに影になつてしまつた街道を歩いてゐて、家と家との間から、また暗い家のなかに開いてゐる裏木戸から、この一帶の平地をちらと見た時程平和な氣持のするときはない。

 その雲はその平地の上に懸つてゐた。平地のはての雜木山には絶えず時鳥ほととぎすが鳴いてゐた。目に見えて動くものはない。たゞ山の麓に水車が光つてゐたばかりだつた。

 私は其處から眼を轉じて溪向ふの杉山の上を眺めた。その山のこちら側はすつかり午後の日影のなかにあつた。青空が透いて見えるやうな薄い雲が絶えずその上から湧いて來た。

 次へ次へ出て來る雲は上層氣流に運ばれながら、そして自らおもむろに旋𢌞しながら、私の頭の上を流れて行つた。緩い渦動に絶えず形を變へながら、青空のなかへ、卷きあがつてゆく縁を消しながら。

 ──それはちやうど意識の持續を見てゐるやうだつた。それを追ひつ迎へつしてゐるうちに私はある不思議な現象を發見した。それはそれらの輕い雲の現はれて來る來方きかただつた。それは山と空とが噛み合つてゐる線を直ちに視界にはいつて來るのではなかつた。彼等の現はれるのはその線からかなり距つたところからで、恰度燒きつけた寫眞を藥のはいつたヷツトへ投げ込んで影像があらはれて來るやうな工合に出て來るのだつた。私はそれが不思議でならなかつた。

 空は濃い菫色をしてゐた。此の季節のこの色は秋のやうに透き通つてはゐない。私の想像はその色が暗示する測り知られない深みへ深みへのぼつて行つた。そのとたん私は心に鈍い衝撃をうけた。さきの疑惑が破れ、ある啓示が私を通り拔けたのを感じた。

 闇だ! 闇だ! この光りに横溢した空間はまやかしだ。

 日を浴びながら青空を見るのは冬からの私のどんな樂しみだつたらう。山々に視界を遮られたこの村へ來て、私は海を見る樂しみを空へ向けた。日向ひなたへ寢轉べば、そこは常に岬の突角だつた。そして私は今迄に何隻の船をその無限の海へ出發させてゐたらう。

 空の濃い菫色は見てゐれば見てゐる程、闇としか私には感覺出來なくなつた。星も月もない夜空よりも、眞に闇である闇を私は見たのだ。そして私は宿へ歸つて來た。


     第二話


 ずつと以前から私は散歩の途中に一つのたのしみを持つてゐた。下の街道から深い溪の上に懸つた吊橋を渡つてその道は杉林のなかへはいつてゆく。杉の梢が日光を遮つてゐるので、その道にはいつも冷たい濕つぽさがあつた。それは暗いゴチツク建築のなかを辿つてゆくときのやうな、犇々ひし〳〵とせまつて來る靜寂と孤獨とを眼覺ました。杉の根方には藪柑子やぶかうじ、匂ひのないのぎ蘭、すぎごけ、……數々の矮小わいせうな自然が生えてゐた。それらは私の足音が遠離とほざかればまたわけの分らぬ陰濕な會話で靜寂を領するやうに思はれた。私の心は暗い梢のなかで圓い喉を鳴らしてゐる山鳩の心に觸れ、あるときは靜かに鳴き澄ましてゐる鶯のやうなものになつてしまつた。

 このゴチツク風の建物の内部は、しかし、全然日光が射して來ないのではなかつた。みちを歩いてゆく私の影はすくすくと立つた杉の柱を𢌞折して來る、冬の日よりもまだ弱い日向のなかにあらはれ、木立のなかに消えたり、熊笹の上を這つたりした。乏しい日光にかたどられる幽かな影繪は、あるひは私の頭であつたり、あるひは肩であつたりした。

 だからそれは影であるといふよりも影の暗示であつた。物質の不可侵性を無視して風景のなかに滲透してゆく、若しくは同一の空間に二個の系統の風景の共存する。

 また高い天蓋の隙間から幾つもの偶然を貫いて陰濕なくさむらへ屆いて來る木洩こもは掌のやうな小宇宙を寫し出した。しかし木洩れ陽程氣まぐれなものはない。それら小宇宙の靜かな悲しさにも拘らず鬼火のやうに、あすこに燃えてゐたかと思へばもうこゝに消えてゐるのだ。

 この徑を歩いて來ると私の心は何時とはなく靜まる。へんに靜まつて來る。太陽は空にたゆまない飛翔を續けてゐる。自然はその直射を身體一ぱいにうけてゐる。その外界のありさまが遠い祭りのやうに思ひなされる。

 すると私は幽かな物音を耳にするのだ。音といふものは、それが遠くなりはるかになると共に、カスタネツトの音も車の轣轆れきろくも、人の話聲も、なにもかもが音色を同じくしてゆく。其處では健全な聽覺でも錯覺にひきこまれ、遠近法を失つてしまふ。そしてあたりに氣がついて見れば、其處が既に今まで音の背景としてゐた靜けさといふ渺々とした海だといふことに氣がつく。

 その徑にきこえて來る幽かな音にしてもさうだ。私はそれを私の心のなかに誕生して來るらしい希望かとも思ふ。遠い街道を通つてゐるなにかかとも思ふ。しかし私が間もなく近づくにつれ、それは小さい水のせゝらぎの音であることを聽きわける。だが、私の目はなにも發見することが出來ない。濕つた杉の根方には鳶尾いちはつの花が咲いてゐる。其處にはなにもない。どこにもなにもない。たゞ小さい水のせゝらぎの音が眞近にきこえるのだ。するとこの私の眼を裏切る音が深祕な感情を持つて聽こえはじめる。しかし私は全く迂濶うくわつだつたのだ。叢のなかには地面の僅な傾斜に沿つて、杉林の奧の方から一本の樋が通つてゐる。色の朽ちた丸竹の樋が。

 水音と一緒に鳴つてゐた深祕な感情は止んでしまふ。しかし、その音のなんといふ美しさだらう。私はそれに聽きほれるのだ。

 しかし私はその美しさのなかにまだ鳴りやまない神祕があるのを聽きわける。「なぜだらう。なぜこんなに一種人を惑亂させるやうな美しさに響くのだらう」私にはわからない。暫くして私はそこを立去る。

 私がはじめにこの徑に一つのたのしみを持つてゐると云つたのはこの樋のなかのせゝらぎのことだ。氣がついた最初の日から幾度私はそのそばに立ち、その音に耳を傾けたことか、しかしその不可思議な美しさを證據だてるどんな美しい思想も湧いては來なかつた。

 私はかうも考へてみた。その音は通常音が人に與へる物的證據を可見的な風景のなかに持つてゐないからかと。即ちその音を補足する水の運動が見えないからかと。

 すると私はその樋が目にはいらなかつた前の、音のもとを探してゐるときの深祕に逆戻りしてゐるのだ。しかし今はその階段よりは一歩進んでゐる。その音を補足する視覺的な運動のかはりに樋といふもので補足が出來てゐる。そしてまだ以前のやうな神祕が殘つてゐるとすればそれは樋が未だ視的證據ではないからだ。それは知的證據にしか過ぎない。すると知識と視覺との間にはあんなにも美しい神祕が存在するのか。

 私は以前に芭蕉の

霧時雨きりしぐれ不二ふじを見ぬ日ぞ面白き

の句に非常に胸を打たれたことを思ひ出した。さうかも知れない。

 しかしさう思つてもこの音の不思議な美しさには變りがない。朽ちた色の樋を見つめながら私は心に激しい情熱の高まつてゆくのを感じる。どうしようと云ふのか。探究の鶴嘴がよしやこの樋を碎いて、なかに流れてゐる水が光のなかへ曝されようと、この神祕は解けないのだ。しかもこの美しさは壞されてしまふであらう。私は深い絶望を感じる。そして情熱はこの絶望にますます驅りたてられてゆく。どうしようと云ふのか。

 そのうちに私は自分の運命をその音のなかへ感じるやうになつた。するとその情熱は戀愛に、絶望は死に、私はそのあこがれと惱みに耳を傾けてゐるやうに思へた。

 どんな説明を私の心が試みても駄目であつたことがわかつた。その音はなにかの象徴として鳴つてゐたのだ。そして私は此頃それをますますはつきりと感じて來る。


     第三話 斷片


 藤はあなたの窓からも見える。私の窓から見える藤の花は溪向ふの高い木に咲いた。それを發見したのは此の間のことだつた。それは發見だつたのだ。たとへばあなたの窓から見えるのは庭に作つた藤棚の藤だ。それは咲くより前に蕾がさがり、その以前には若葉が花を豫告する。

 ところが私の窓では、此の間の或る日ほんの不圖した拍子に、思ひがけないところに咲いてゐるのが見つかつたのだ。それは既に咲いてゐた。窓から毎日眺めてゐる風景のなかに既に起つてゐた現象を、私がそのときまで氣がつかなかつたといふのは、かなりの距離のため花の色とあたりの緑の色とのけぢめが薄くなつてゐたからだ。そればかりではない。それの咲いてゐる場所は絶望的に高い梢だつた。そこはたかい欅や樫や椎の木にまじつて椋の木や櫻の木などが鬱蒼と溪から山腹を覆つてゐた。藤はその梢の一つへ咲いて出たのだ。日光のなかへ! 晩春の午後の日が倦怠に似た感情で山腹を照らしてゐるとき、なんといふ靜かさでそれは咲いてゐたらう!

 誰れにもこの發見を告げるまい。なぜならこれはこれを自分で見つけた人ばかりが、よろこべるよろこびだから。人に知られず咲いてゐる藤の花、自分も人に知られず眺めよう。私はさう思つた。そして毎日あかず眺めてゐた。

 私の窓の前の溪には瑠璃るりがいつも一羽啼いてゐる。翡翠かはせみは光のやうに飛去り、川烏は電報配達夫のやうな一直線。頬白は散髮屋の鋏のやうにせはしく、四十雀しじふからはけたたましいアイアムビツク。さうだのに、この瑠璃は終日溪を飛去らず、自ら自らの聲をたのしんでゐるやうに永い午後の倦怠を歌つてゐる。

 しかし、そのうちに日はまはり、溪向ふの山はおもむろに日影のなかに沈んでゆく。するといままで日に飽いてゐた山の側面は、溪を滿たして來る蒼い空氣をどんなに恐れはじめることだらう。……(缺)

底本:「現代日本文學全集 43」筑摩書房

   1954(昭和29)年525日発行

※最終段落のところ、底本の編集部注として「「溪を……」以下の句は消されてゐた。」と書かれていました。

入力:川向直樹

校正:小林繁雄

2003年1213日作成

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