箱根熱海バス紀行
寺田寅彦
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朝食の食卓で偶然箱根行の話が持上がって、大急ぎで支度をして東京駅にかけつけ、九時五十五分の網代行に間に合った。二月頃から、一度子供連れで熱海へでも行ってみようと云っていたが、日曜というと天気が悪かったり、天気がいいと思うときっと何かしら差障りがあって、とうとう四月二十日の今日の日曜までこのささやかな欲望を果たす機会がなかった。実に瑣末な事柄ではあるが、これだけでもままにならぬ人世という古い標語の真実性を証するための一例にはなるのである。日曜に天気のいいという確率、家族の甲乙丙の銘々が暇だという三つの確率、この四つがそれぞれ二分の一ずつだとしても、十六分の一しか都合のいい日の確率はない訳であるから、統計的に云えば思い立ってから平均十六週すなわち約四ヶ月待たなければならなかったとしても大して不思議はない勘定である。
熱海はもう桜もあるまいからいっそ箱根の方がいいだろうということになった。箱根は二十年も昔水産関係の用向きで小田原へ行ったついでに半日の暇を盗んで小涌谷まで行ったのと、去年の春長尾峠まで足を使わない遠足会の仲間入りをした外にはほとんど馴染のない土地である。それで今度は未見の箱根町まで行って湖畔で昼飯でも食って来ようということになった。自分達の外出にはとかく食うことが重要な目的の一つになっているようである。
東京駅発の電車は思いの外あまり込まなかった。横浜で下りた子供連れの客はたいてい博覧会行きらしかった。大船近くの土堤の桜はもうすっかり青葉になっており、将来の日本ハリウード映画都市も今ではまだ野良犬の遊び場所のように見受けられた。茅ヶ崎駅の西の線路脇にチューリップばかり咲揃った畑が見えた。つい先日バラの苗やカンナの球根を注文するために目録を調べたときに所在をたしかめておいた某農園がここだと分かった。つまらない「発見」であるが、文字だけで得た知識に相当する実物にめぐり合うことの喜びは、大小の差はあっても質は同じようなものらしい。子供等もこの発見にひどく興味を感じて、帰路にもう一遍よく見定めようということに衆議一決した。
国府津と小田原の中間に「雀の宮」という駅があったようだと子供達と話していたら、国府津駅の掲示板を見ていた子供の一人からそれは「鴨の宮」だという正誤を申込まれた。その子供の話によると、「ワシントン」という靴屋を間違えて「ナポレオン」と云った友達がいるそうである。しかし雀と鴨では少し大きさが違い過ぎると云って笑った。雀の宮は日光の近くにあったのである。
小田原ではバスが待っていたが、箱根町行は満員なので空席のあった小涌谷行に乗込んだ。湯本までの道路は立派なドライヴウェーである。小田原征伐当時の秀吉に見せてやりたかったという気もした。塔の沢あたりからはぽつぽつ桜が見え出した。山桜もあるが、東京辺のとは少し違った種類の桜もあるらしい。関東地震や北伊豆地震のときに崩れ損じたらしい創痕が到る処の山腹に今でもまだ生ま生ましく残っていて何となく痛々しい。
宮の下で下りて少時待っているうちに、次の箱根町行が来たが、これも満員で座席がないらしいので躊躇していたら、待合所の乗客係が気を利かして居合わせたハイヤーを別に仕立ててバス代用に提供してくれた。のろい人間もたまに得をすることがあるのである。小涌谷辺は桜が満開で遊山の自動車が輻湊して交通困難であった。たった一台交通規則を無視した車がいたため数十台が迷惑するというのがこういう場合の通則である。「クラブ洗粉」の旗を立てた車も幾台かいた。享楽しながら商売の宣伝になるのは能率のいいことである。
この辺の山には他所の多くの山の概念とは少しばかりちがった色々の特徴があって面白い。ごく古い消火山と新しい活火山との中間物といったような気のする山である。形態が火山のようで、しかも大部分植物で蔽われている。しかしその植物界の「社会状態」が火山でない山とはだいぶ様子が違っているらしく見える。植物社会学者にでもこれに関する詳しい解説を聞いてみたいものである。
元箱根町でまた自動車がつかえて動かなくなった。向うから妙な行列が来る。箱根観光博覧会の大名行列だそうである。挟箱や鳥毛の槍を押し立てて舞踊しながら練り歩く百年前の姿をした「サムライ日本」の行進のために「モダーン日本」の自由主義を代表する自動車の流れが堰き留められてしまったのである。青年団の人達と警官の扱いでようやくこの時ならぬ関所を通り抜けて箱根町に入った。
さすがに山は山だけに風が強く、湖水には白波が立って、空には雲の往来が早い。遊覧船は寒そうだから割愛することにした。
ホテルの食堂へはいって見ると、すぐ向うの席に有名な某音楽家の家族連れがいる。音楽家はボーイを読んで勘定を命じながら内かくしから紙入れを捜ってその中から紙幣のたばを引出した。十円札が二、三十枚もありそうである。それを眼の高さに三十センチの処まで持って来て、さて器用な手つきをしてぱらぱらと数えて見せた。自分達は半ば羨ましく半ば感心してそれを眺めたことであった。食堂のガラス窓越しに見える水辺の芝生に大名行列の一団が弁当をつかっているのが見える。揃いの水色の衣装に粗製の奴かつらを冠った伴奴の連中が車座にあぐらをかいてしきりに折詰をあさっている。巻煙草を吹かしているのもあれば、かつらを気にして何遍も抜いたり冠ったりしているのもある。
熱海行のバスが出るというので乗ってみることにした。峠へ上って行く途中の新道からの湖上の眺めは誠に女車掌の説明のごとく又なく美しいものである。昔の東海道の杉並木の名残が、蛇行する自動車道路を直線的に切っているのが面白い。平野ではこれと反対に旧道の曲線を新道の直線で切っている場合が多いのである。人間の足と自動車とでは器械がちがうだけに「道路の科学」もまた違った解答を与えるのであろう。
航空気象観測所と無線電信局とがまだ霜枯れの山上に相対立して航空時代の関守の役をつとめている。この辺の山の肌には伊豆地震の名残らしい地割れの痕がところどころにありありと見える。これを見ていると当時の地盤の揺れ方がおおよそどんなものであったかという想像がつくような気がした。地震のあった昭和五年十一月二十六日から四年半近くの年月がたったのに、この大地の生創はまだ癒えきらないのである。
十国峠までの自動車専用道路からの眺望は美しく珍しい。大きな樹木のないお蔭で展望の自由が妨げられないのがこの道路の一つの特徴であろう。右を見ると伊豆の国というものの大きさがぼんやり分かるようであり、左を見下ろすと箱根山の高さのおおよその概念が確定するような気がする。女車掌が蟋蟀のような声で左右の勝景を紹介し、盗人厩の昔話を暗誦する。一とくさり述べ終ると安心して向うをむいて鼻をほじくっているのが憐れであった。十国峠の無線塔へぞろぞろと階段を上って行く人の群は何となく長閑に見えた。
熱海へ下る九十九折のピンヘッド曲路では車体の傾く度に乗合の村嬢の一団からけたたましい嬌声が爆発した。気圧の急変で鼓膜を圧迫されるのをかまわないでいたら、熱海海岸で車を下りてみると耳がひどく遠くなっているのに気がついた。いくら唾を呑込んでみても直らない。人の物いう声が遠方に聞こえる代りに自分の声が妙に耳に籠って響くので、何となく心細くなってしまった。
熱海は自分にはずいぶん思い出の多い土地である。明治十九年に両親と祖母に伴われて東海道を下ったときに、途中で祖母が不時の腹痛を起こしたために予定を変えて吉浜で一泊した。ひどい雨風の晩で磯打つ波の音が枕に響いて恐ろしかったのが九歳の幼な心にも忘れ難く深い印象をとどめた。それから熱海へ来て大湯の前の宿屋で四、五日滞在した後に、山駕籠を連ねて三島へ越えた。熱海滞在中漁船に乗って魚見崎の辺で魚を釣っていたら大きな海鰻がかかったこと、これを船上で煮て食わされたが気味が悪くて食われなかったようなことなどを夢のように覚えている。東京から遥々見送って来た安兵衛という男が、宿屋で毎日朝から酒ばかり飲んでいて、酔って来ると箸で皿を叩きながら「ノムダイシ、一升五合」(南無大師遍照金剛)というのを繰返し繰返し唱えたことも想い出す。考えてみるとそれはもう五十年の昔である。
三十年ほど前にはH博士の助手として、大湯間歇泉の物理的調査に来て一週間くらい滞在した。一昼夜に五、六回の噴出を、色々な器械を使って観測するのであるが、一回の噴出に約二時間もかかる上に噴出前の準備があり噴出後の始末もあるので、夜もおちおち安眠は出来なかった。自然の不可思議な機構を捜る喜びと、本能の欲求する睡眠を抑制するつらさとが渾然と融和した形になって当時の記憶を彩っているようである。
その頃の熱海行きは、国府津まで汽車で行って国府津から小田原まで電車、小田原からは人車鉄道という珍しい交通機関によるのであった。立ったら頭の閊える箱の中に数人の客をのせたのを二、三人の人間が後押しして曲折の多い山坂を登る。登るときは牛のようにのろい代りに、下り坂は奔馬のごとくスキーのごとく早いので、二度に一度は船暈のような脳貧血症状を起こしたものである。やっと熱海の宿に着いて暈の治りかけた頃にあの塩湯に入るとまたもう一遍軽い嘔気を催したように記憶している。
無闇に井戸を掘って熱泉を噴出させたために規則正しい大湯の週期的噴泉に著しい異状を来したというので県庁の命令で附近の新しい噴泉井戸を埋めることになった。自分は官命によってその埋井工事を見学に行ったが、それは実に珍しい見ものであった。二、三十尺の高さに噴き上げている水と蒸気を止めるために大勢の人夫が骨を折って長三間、直径二インチほどの鉄管に砂利をつめたのをやっと押し込んだが噴泉の力ですぐに下から噴き戻してしまうので、今度は鉄管の中に鉄棒を詰めて押し入れたらやっと噴出が止まった。その止まり方がまた実に突然で今までの活劇がまるで嘘であったように思われた。そのときの不思議な気持だけは今でもはっきり思い出すことが出来る。人間の感情の噴出でもこれに似た現象があるような気がするのである。
日露戦争直後で負傷者が大勢療養に来ていたのはその時であったかと思う。郷里の中学の先輩がその負傷者の中に居たのにひょっくりめぐり合って戦争の話を聞かされ、戦争というものの不思議さをつくづく考えさせられた。
その後にまた、大湯附近の空気中のイオンを計測するために出張を命ぜられて来たときは人車鉄道が汽車の軽便鉄道に変っていたが、それでもまだやはり朝東京を出て夕方熱海へ着く勘定であったように思う。去年はじめて省線電車で熱海へ行ったときは時間の短縮した代りに「昔の熱海」を捜すのに骨が折れた。大湯の近くまで来てみてやっと追憶の温泉町を発見したが、あまりに甚だしい変り方に呆れて何となく落着く気になれなかったので、そのまま次の汽車で引返して帰って来た。
今日は朝の九時半頃家を出て箱根で昼飯を食って二時には熱海へ来た。そうして熱海ホテルでお茶を飲んで七時にはもう宅へ帰って夕食を食っていた。九歳の時に人力車で三日かかって吉浜まで来たことを考え合わせてみると、現代のわれわれは昔の人に比べて五倍も十倍も永生きをするのと同等だという勘定になるかもしれない。
熱海ホテルの海に面した芝生は美しい。去年見た新解釈「金色夜叉」の芝居で柳永二郎の富山がお宮の母と貫一の絶縁条件を値踏みしなが「二万円もやりぁいいでしょう」と云ったあの舞台面は多分ここをモデルにしたものらしいと思われた。
箱根ホテルでは勘定をもって来てくれと四、五度も頼んで待ち草臥れた頃にやっと持って来たのであったが、熱海ホテルの方ではまだお茶を飲んでいる最中に甲斐甲斐しい女給仕が横書きの勘定書をもって来て、「サービス三十銭頂戴します」と云った。箱根の山の中と十国峠を越えた太平洋岸の熱海とで、このくらい文化の程度と性質が違うものかと云って内証でみんなと笑ったことであった。
帰りの汽車では忘れずに農園のチューリップと、チューリップの農園の概観を網膜に写すことによって往路の小発見の満足を蒸し返し完成することを忘れなかった。
関八州が急に狭くなったような気がして帰って来たが、東京駅から駒込までの馴れた道筋はその割に存外遠いような気もした。
気紛れにいつもは出たことのない東京駅東口へ出てそこから車を拾って帰ったが、それだけのちがいで東京がいつもの東京と少し違った東京のように見えた。われわれの「まだ知らない東京」は無限に多数にあるらしい。
底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店
1997(平成9)年3月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年
初出:「短歌研究」
1935(昭和10)年6月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2006年10月16日作成
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