初冬の日記から
寺田寅彦
|
一年に二度ずつ自分の関係している某研究所の研究成績発表講演会といったようなものが開かれる。これが近年の自分の単調な生活の途上に横たわるちょっとした小山の峠のようなものになっている。学生時代には学期試験とか学年試験とかいうものがやはりそうした峠になっていたが、学校を出ればもうそうしたものはないかと思うと、それどころか、もっともっとけわしい山坂が不規則に意想外に行手に現われて来た。これは誰でも同じく経験することであろう。しかしずっと年を取った後に、再びこうした規則正しく繰返される「試験」の峠を越そうとは予期しなかったが、そのおかげで若い日の学生時代の幻影のようなものを呼び返し、そうしてもう一度若返ったような錯覚を起こさせる機縁に際会するのである。
それはとにかく、学生時代に試験が無事にすんだあとの数日間はいつでも特別に空の色が青く日光が澄み切って輝き草木の色彩が飽和して見えた、それと同じように、研究所の講演会のすんだあとの数日は東京市の地と空とが妙にいつもより美しく見えるようである。ことに今年は実際に小春の好晴がつづき、その上にこの界隈の銀杏の黄葉が丁度その最大限度の輝きをもって輝く時期に際会したために、その銀杏の黄金色に対比された青空の色が一層美しく見えたのかもしれない。
そういうある日の快晴無風の午後の青空の影響を受けたものか、近頃かつて経験したことのないほど自由な解放された心持になって、あてもなく日本橋の附近をぶらぶら歩いているうちに、ふと昨日人から聞いた明治座の喜劇の話を想い出してちょっと行って覗いてみる気になった。まだ少し時間は早かったが日本橋通りをぶらぶらするのも劇場の中をぶらぶらするのも大した相違はないと思って浜町行のバスを待受けた。何台目かに来た浜町行に乗込んだら幸いに車内は三、四人くらいしか乗客はなくてこの頃のこの辺のバスには珍しくのんびりしていた。腰をかけて向い側を見ると二十歳くらいの娘がいる。どこかで見たような顔である。
KFという女優らしい。それはこれから見に行こうとしている明治座の喜劇に出演する筈のその当人であるらしい。舞台顔は数回、但しいつもだいぶ遠方の二等席からではあるが、見たことがあり、演芸の雑誌などでしばしば写真を見たことがある。しかし、それにしても乗っているのが青バスであるのに、服装がどうも自分の想像している名代女優というものの服装とはぴったり符合しない。多分銘仙というのであろう。とにかくそこいらを歩いている普通十人並の娘達と同じような着物に、やはりありふれたようなショールを肩へかけて、髪は断髪を後ろへ引きつかねている。しかし白粉気のない顔の表情はどこかそこらの高等女学校生徒などと比べては年の割にふけて見えるのである。ほぼ同年頃の吾等の子供等と比べると眉宇の間にどことなしに浮世の波の反映らしいものがある。膝の上にはどうも西洋菓子の折らしい大きな紙包みを載せている。
聞くところによると、そのKという女優は、富豪の娘に生れ、当代の名優と云われるTKの弟子になってその芸名のイニシアルを貰い、花やかに売出したのであったが、財界の嵐で父なる富豪が没落の悲運に襲われたために、その令嬢なるKは今では自分の腕一つで働いて生活しているという話をファンの一人であるところのSから時々聞かされていたので、その話をこの青バスの中の目前の少女と結びつけて考えてみると、それですべてが無理なく説明されるような気がした。
二、三年前Sと大久保余丁町の友人Mを尋ねての帰りに電車通りへ出ると、そこの路地の入口に一台の立派な自動車が止まっていた。そこへ折から乗込む女を見るとそれが紛れもない有名な人気女優のMYであった。劇場から差しむけの迎えの自動車であろうか、それとも自用車であろうか、とつまらぬ議論をしたことであった。
そんなことを考えているうちに人形町辺の停留場へ来るとストップの自働信号でバスはしばらく停車した。安全地帯に立っていた中年の下町女が何気なしにバスの間を覗いていたがふと自分の前の少女を見付けてびっくりしたような顔をして穴の明くほど見詰めていたようである。
浜町近くなる頃には他の乗客はもうみんな下りてしまって、その少女と自分と二人きりになってしまった。「失礼ですがあなたはKさんですか」ちょっとそう云って聞いてみたいような気がした、と同時に、それが自然に何のこだわりもなく云えるまでに到達していない自分を認識することが出来たのであった。
明治座前で停ると少女は果して降りて行く、そのあとから自分も降りながら背後から見ると、束ねた断髪の先端が不揃いに鼠でも齧ったような形になっているのが妙に眼について印象に残った。少女は脇目もふらずにゆっくり楽屋口の方へ歩いて行く。やはりそれに相違なかったのである。
開場前四十分ほどだのにもうかなり入場者があった。二階の休憩室には色々な飾り物が所狭く陳列してあって、それに「花○喜○丈」と一々札がつけてある。一座の立役者Hの子供の初舞台の披露があるためらしい。ある一つの大きな台に積上げた品物を何かとよく見るとそれがことごとく石鹸の箱入りであった。
売店で煙草を買っていると、隣の喫茶室で電話をかけている女の声が聞こえる。「猫のオルガン六つですか」と何遍も駄目をおしている。「猫のオルガン」が何のことだか分からないが多分おもちゃのことらしい。何となしこの小春日にふさわしい長閑なものの名である。
幕があくと舞台は銀座街頭の場面だそうで、とあるバーの前に似顔絵かきと靴磨き二人と夕刊売りの少女が居る。その少女が先刻のバスの少女であるが、ここでは年齢が急に五つか六つ若くなっている。その靴磨きのルンペンの一人がすなわち休憩室の飾り物を貰った子供の御父さんである。バーは紙の建築で人の出入りはないが表を色々の人通りがある。
役者でも舞台の一方から一方へただ黙って通りぬけるだけの役があるらしい。そんな役であってもやはり舞台へ出る前には何遍も鏡を見て緊張し、すうと十秒くらいの間に舞台を通り抜けてしまうとはじめてほっとして「試験」のすんだのどかさを味わうであろう。自分などの専門の○界における役割もざっとこれに似たもののような気がしてそれらの「通行人、大ぜい」諸君の心持を人事ならず色々と想像してみるのであった。
そこへコケットのダンサーが一人登場して若い方の靴磨きにいきなり甲高なコケトリーを浴びせかける。本当の銀座の鋪道であんな大声であんな媚態を演じるものがあったら狂女としか思われないであろうが、ここは舞台である。こうしないと芝居にならないものらしい。隣席の奥様がその隣席の御主人に「あれはもと築地に居た女優ですよ。うまいわねえ」と賞讃している。このダンサーは後に昔の情夫に殺されるための役割でこの喜劇に招集されたもので、それが殺されるのはその殺人罪の犯人の嫌疑をこの靴磨きの年とった方、すなわち浅岡了介に背負わせるという目的のために殺されなければならないことになっている。しかも、その嫌疑が造作もなく晴れるようではこの「与太者ユーモレスク、四幕、十一景」は到底引き延ばせるはずがないので、それで、この嫌疑をなるべく濃厚に念入りにするために色々と面倒な複雑なメカニズムが考案されなければならないのである。こういう考案をするのは丁度われわれが何かちょっとした器械でも考案する場合といくらか似たところのある仕事で、面倒でもありまたそれだけに面白くもあるであろうと想像される。ちょっとした考えの穴があると動くはずの器械が動かないのである。
靴磨きにアパートにおける殺人の嫌疑をかけるためには殺されるダンサーのアパートにその靴磨きをなんとかしておびき入れ、そうしてアパートにおける彼等の姿を確実に目撃した証人をこしらえておく必要がある。それでその手順の第一として先ず街上でダンサーに若い方の靴磨き田代公吉へモーションをかけさせ、アパートへ遊びに来ないかと招待させる。それをすぐオーケーとばかりに承諾しては田代公吉が阿呆になるからそれは断然拒絶して夕刊娘美代子の前に男を上げさせる。この夕刊売りの娘を後に最後の瞬間において靴磨きのために最有利な証人として出現させるために序幕からその糸口をこしらえておかなければならないので、そのために娘の父を舞台の彼方で喘息のために苦悶させ、それに同情して靴磨きがたった今、ダンサーから貰った五円を医薬の料にやろうというのをこの娘の可憐な一種の嫉妬をかりていったん謝絶させておく。そうしておいてから、田代公吉を縄張問題から同業の暴漢になぐらせ負傷させ卒倒させておいてそこへ前のダンサーを通りかからせ、そうして目的のアパートへ連れて行かせる。そこでダンサーに身の上話をさせることによって悪漢騎手の旧情夫の存在を観客に呑込ませる。そうして後に不利な証拠物件を提供するためにダンサーの指環を靴磨きに贈らせ、靴磨きの金鎚をその部屋に遺却させる。彼等のアパートにおける目撃者としてアパートの掃除婦を役立たさせるためにわざわざ浅岡に水を汲みにやって廊下でこのおばさんに出逢わせておく必要のあることは勿論である。
浅岡田代が去ったあとへ悪漢旧情夫が登場するのであるが、しかし彼がいよいよダンサーを殺す残酷な現場は電気係が配電盤のスウィッチをひねって綺麗に消してしまう。殺す理由がどうもはっきりしないが、とにかく殺せばそれでよいのである。さて、この真犯人の姿と顔とを誰かにこの現場近くではっきり見届けさせておかないとあとで困る。しかしまた、この一番大切な証人は最後の瞬間までかくれて出頭しないようにしておかないと工合が悪い。そうしないと早く片がつき過ぎて困るのである。そのためにこの証人には何かしら少し後ろ暗い所業を、しかもこの事件に聯関してさせておかないと都合がよくない。それかと云ってあんまり悪い事ではまた困るのである。この難儀な迷惑な証人の役目を負わせるための適任者は、別に物色するまでもなく例の夕刊嬢において見出されるのである。一度拒絶した五円を貰わねばやはり父の薬が買えない。その五円をもった田代がこのアパートに来ているものと見当をつけて尋ねて来るところに多少の複雑な心理的な味を見せようというのである。さて来てみるとダンサーの室の前で変な男すなわち真犯人が取乱した風で手を洗っている。それが慌てて逃げ出す。ダンサーの室は叩いても音がしない。洗面台に犯人の遺した腕時計が光っていて、それが折から金につまった小娘を誘惑する。ここはなかなかこの娘役者の骨の折れるところであろう。多分胸の動悸を象徴するためであろうか、機関車のような者を舞台裏で聞かせるがあれは少し変である。
容疑者の容疑をもう一段強めるために、もう一つのエピソードを導入したいので次のような仕かけを考えたものである。この挿話の主人公夫婦として現われる二人の俳優の演技が老巧なためにこれが相当な効果をあげているようである。
銀座を追われた靴磨き両人に腹を減らさせて浜町公園のベンチへ導く。そこに見物には分かっているが靴磨き二人には所有者不明の写真機がある。それをひねくり廻している矢先へ通りかかったのが保険会社社長で葬儀社長で動物愛護会長で頭が禿げて口髯が黒くて某文士に似ている池田庸平事大矢市次郎君である。それが団十郎の孫にあたるタイピストをつれて散歩しているところを不意に写真機を向けて撮る真似をされたので平生妻君恐怖症にかかっているらしい社長はこの靴磨きを妻君からわざわざさし向けられた秘密探偵社の人とすっかり思い込んでしまってこの実はフィルムのはいっていない写真機の買収にかかる。これは自分達の器械じゃないからと靴磨きが正直に弁解するのを、巧んだゆすりの手と思い込んでますます慄え上がりとうとう二百五十円まで奮発する。そうして社長に売渡した器械の持主があとから出て来たのには実価以上の百円やって喜ばせて帰して、結局百五十円の純益金を得る。それをもって根岸の競馬に出かけるのである。競馬であてて喜び極まったところを刑事につかまったのが可哀相な浅岡である。刑事がここまで追跡する径路は甚だ不明であるが、つかまりさえすればそんなことはこの芝居にはどうでもよいので、これですっかり容疑者被告を造り上げる方の仕事が完成した訳である。
次は当然法廷の場である、憎まれ役の検事になるべく意地のわるい弁論をさせて、被告と見物に気をもませ、被告に不利な証人だけを選りぬいて登場させる、弁護士にはなるべく口が利けないようにするが、但し後の伏線になるようにアパートの時計が二十分進んでいたというアパート掃除婦の新証言をつかまえさせて後に警察医の鑑定と対照してアリバイを構成する準備をしておくのである。なかなか凝ったものである。
こうして被告を絶望のどん底におし込んでおかないと、あとの薬が利かない。こうしておいて後にそろそろ被告の運命を明るい方へ導くために、今度は有利な側の証人を招集する段取りになる。共犯嫌疑者田代公吉は弁護士梅島君のところに、不都合にも、「かくまわれ」ていて、そうして懸命に彼の社長殿と夕刊嬢とを捜している。雪の日のミルクホールで弁護士から今日の判廷の様子を聞かされ、この二十四時間に捜しあてなければ愚鈍なる陪審官達はいよいよ有罪の判断を下すであろうという心細い宣告を下されるのである。天一坊の大岡越前守を想い出させる。
さすがそこは芝居であるからこのミルクホールの店先を肝心の夕刊嬢が丁度そのときまるで打合せておいたように通りかかる。それを見かけた田代はコーヒーの勘定などはあとでいいからすぐ駆出せばよいのにその勘定でまごまごしてなかなか追っかけない。こうしないといけない理由は、やっと勘定をすませて慌てて駆出したために自動車にひかれるという尤もらしいことにしたいためである。
その自動車から毛皮にくるまって降りて来た背の低い狸のようなレデーのあとから降りて来たのがすなわちこの際必要欠くべからざる証人社長池田君で、これがその恐怖する妻君の前で最も恐るべき証人となり得る恐れのあるところの田代のために、その友人浅岡に有利なる証人として法廷に出頭することを約するの止むなきに到ったのが、やはりその恐怖のためであったのである。何物かの匂いを嗅いだ妻君は「陪審制度というものも一度見学の必要がある」という口実で自分もどうしても傍聴に出るのだと主張する。そうして大団円における池田君の運命の暗雲を地平線上にのぞかせるのである。そこへおあつらえ通り例の夕刊売りが通りかかって、それでもう大体の道具立ては出来たようなものである。これでこの芝居は打出してもすむ訳である。
それではしかし見物の多数が承知しないから最後の法廷の場がどうしても必要である。あるいはむしろこの最後の場を見せるだけの目的で前の十景十場を見せて来た勘定にもなる。前の十場面は脚本で読ませておいて大切り一場面だけ見せてもいいかもしれない、とも考えられるが、それでは登場人物が劇中人物に成り切るだけの時間が足りないであろう。役者が劇中人物に成り切るまでにはやはり相当な時間がかかるからである。
最後の法廷で先ず最初に呼出された証人の警察医はこれは役者でなくて本物である。観客中の本職の素人が臨時に頼まれて出て来たのかと思うほど役者ばなれがして見えた。こういうのは成効であるか不成効であるか、それは自分等には分からない。
この一座には立役者以外の端役になかなか芸のうまい人が多いようである。この一座に限らず芝居の面白味の半分は端役の力であることは誰でも知っているらしいが、しかし誰も端役のファンになって騒ぐ人はないようである。騒がれることなしに名人になりたい人はこれらの端役の名優となるべきであろう。
証人社長も真に迫るがこの人のはやはり役者の芸としての写実の巧みである。証人の上がる壇に蹴躓いたりするのも自然らしく見えた。これは勿論同じことを毎日繰返しているのである。開演期間二十余日の間毎晩一度ずつ躓かなければならないことを考えると俳優というものもなかなか容易ならぬ職業だと思われる。それはとにかくこの善良愛すべき社長殿は奸智にたけた弁護士のペテンにかけられて登場し、そうして気の毒千万にも傍聴席の妻君の面前で、曝露されぬ約束の秘事を曝露され、それを聞いてたけり立ち悶絶して場外にかつぎ出されるクサンチッペ英太郎君のあとを追うて「せっかく円満になりかけた家庭を滅茶滅茶にされた」とわめきながら退場するのは最も同情すべき役割であり、この喜劇での儲け役であろう。
さていよいよ夕刊売りの娘に取っときの切り札、最後の解決の鍵を投げ出させる前に、もう一つだけ準備が必要である。それは真犯人の旧騎士吉田を今の新聞記者吉田に仕立ててそれをこの法廷の記者席の一隅に、しかも見物人にちょうどその目標となるべき左の顋下の大きな痣を向けるように坐らせておく必要があるのである。
夕刊売りが問題の夜更けに問題のアパート階上の洗面場で怪しい男の手を洗っているのを見たという証言のあたりから、記者席の真犯人に観客の注意が当然集注されるから、従ってその時に真犯人は真に真犯人であるらしい挙動をして観客に見せなければならないこと勿論である。それで、特に目につくような赤軸の鉛筆で記事のノートを取るような風をしながら、その鉛筆の不規則な顫動によって彼の代表している犯人の内心の動乱の表識たるべき手指のわななきを見せるというような細かい技巧が要求される。「その男になにか見覚えになる特徴はなかったか」と裁判長が夕刊売りに尋ねる。その瞬間に、よほどのぼんやりでない限りのすべての観客のおのおのの大きくみはった二つの眼が一斉にこの不幸な犯人の左の顋下の大きな痣に注がれるのはもとより予定の通りである。その際に、もしかこれが旧劇だと、例えば河内山宗俊のごとく慌てて仰山らしく高頬のほくろを平手で隠したりするような甚だ拙劣な、友達なら注意してやりたいと思うような挙動不審を犯すのであるが、ここはさすがに新劇であるだけに、そういう気の利かない失策はしない。しかし結局はとうとうその場に堪え切れなくなって逃げ出しを計る。これはしかしこういう場合における実際の犯人の心理を表現したものであるかどうか少し疑わしい。自分にはまだ経験はないから分かりかねるが、たとえ逃げ出すにしても逃げ出し方があれとはもう少しどうにか違うのではないかという気がするのである。しかしそんなことは心理劇でも何でもないナンセンス劇「ユーモレスク」には別に大した問題にするほどの問題ではないので、ともかくも夕刊売りのK嬢をして「あの男です、あの男です」と叫ばせ、満場を総立ちにさせ、陪審官一斉に靴磨きの「無罪」を宣言させ、そうして狂喜した被告が被告席から海老のようにはね出して、突然の法廷侵入者田代公吉と海老のようにダンスを踊らせさえすれば、それでこの「与太者ユーモレスク、四幕、十一景」の目的の全部が完全に遂げられる訳である。
とにかくなかなか骨の折れた手のかかったメカニズムであるが所々に多少のがたつきがあったり大きな穴が見えたりするにしても、おしまいまで無事に連続して運転するのはなかなか巧妙なものである。
エピローグとして最初と同じ銀座鋪道の夜景が現われる。ここで若い靴磨きが変な街路詩人の詩を口ずさみ三等席の頭上あたりの宵の明星を指さして夕刊娘の淡い恋心にささやかな漣を立てる。バーからひびくレコード音楽は遠いパリの夜の巷を流れる西洋新内らしい。すべてが一九三三年向きである。
この芝居を見ている間に、何遍か思わず笑い出してしまった。近所の人が笑うのに釣込まれたせいもあるがやはり可笑しくなって笑ったのである。何が可笑しいと聞かれると実は返答に困るような甚だ他愛のない、しかしそれだけに純粋無垢の笑いを笑ったようである。近頃珍しい経験をしたわけである。やはり「試験」のあとの青空の影響もあったのかもしれない。それでせっかくこんなに子供のように笑ったあとで、それから後のプログラムの名優達の名演技を見て緊張し感嘆し疲労するのは、少なくも今日の弛緩の半日の終曲には適しないと思ったので、すぐに劇場を出て通りかかった車に乗った。車はいつもとちがう道筋をとって走り出したのでどこをどの方角に走っているか少しも分からない。大都市の冬に特有な薄い夜霧のどん底に溢れ漲る五彩の照明の交錯の中をただ夢のような心持で走っていると、これが自分の現在住んでいる東京の中とは思えなくなって、どこかまるで知らぬ異郷の夜の街をただ一人こうして行方も知らず走っているような気がして来た。
とある河の橋畔に出ると大きなビルディングが両岸に聳え立って、そのあるものには窓という窓に明るい光が映っている。車が方向をかえるたびに、そういう建物が真闇い空にぐるぐる廻転するように見えた。何十年も昔、世界のどこかの果のどこかの都市で、丁度こんな処をこんな晩に、こんな風にして走っていたような気がするのである。
気が付いたら室町の三越の横を走っていたので、それではじめてあらゆる幻覚は一度に消えてしまって単調な日常生活の現実が甦って来た。そうして越えて来た「試験」の峠のあとの青空と銀杏の黄葉との記憶が再び呼び返され、それからバスの中の女優の膝の菓子折、明治座の廊下の飾り物の石鹸、電話の「猫のオルガン」から、もう一度「与太者ユーモレスク、四幕十一景」を復習しながら、子供のように他愛のない笑いを車内の片隅の暗闇の中で笑っている自分を発見したのであった。
緊張のあとに来る弛緩は許してもらってもいいであろう。そのおかげでわれわれは生きて行かれるのである。伸びるのは縮まるためであり、縮むのは伸びるためである。伸びるのが目的でもなく縮むのが本性でもなく、伸びたり縮んだりするのが生きている心臓や肺の役目である。これが伸び切り、縮み切りになるときがわれわれの最後の日である。
弛緩の極限を表象するような大きな欠伸をしたときに車が急に止まって前面の空中の黄色いシグナルがパッと赤色に変った。これも赤のあとには青が出、青のあとにはまた赤が出るのである。
これを書き終った日の夕刊第一頁に「紛糾せる予算問題。急転! 円満に解決」と例の大きな活字の見出しが出ている。そうして、この重大閣議を終ってから床屋で散髪している○相のどこかいつもより明るい横顔と、自宅へ帰って落着いて茶をのんでいる特別にこやかな△相の顔とが並んで頼もし気に写し出されている。ここにも緊張の後に来る弛緩の長閑さがあるようである。「試験」が重大で誠意が熱烈で従って緊張が強度であればあるほどに、それを無事に過ごしたあとの長閑さもまた一入でわれわれの想像出来ないものがあるであろうと思いながら、夕刊第二頁をあけると、そこには、教育界の腐敗、校長の涜職事件や東京市会と某会社をめぐる疑獄に関する記事とが満載されている。これらの記事がもし半分でも事実とすると、東京市の公共機関の内部には、ゆるみきりにゆるんでしまって、そうして生命を亡って腐れてしまった部分がいくらかはあると見える。新聞ばかり見ていると東京も日本も骨髄まで腐れているかと思うこともあるが、そうでもないと思われるたしかな証拠もなくはない。世の中が真暗くなったような錯覚を起こさせるのがジャーナリズムの狙い所ではあろうが、考えてみるとどこの世界にでも与太者のユーモレスクのない世界はないであろう。そんなものにばかり気を取られていると自分の飯に蠅がたかる。こんな新聞記事をよむ暇があったら念仏でもするかエスキモー語の文法でも勉強した方がいい。
火鉢のそばに寝ていた猫が起きあがって一度垂直に伸び上がってぶるぶると身振いをする。それから前脚を一本ずつずっと前へ伸ばして頭を低く仰向いて大きな欠伸をして、尻尾をSの字に曲げてから全身を前脚の方へ移動しのめらせてそうして後脚を後方へのばした。これからそろそろ庭へ出て睡蓮の池の水をのんで、そうして彼の仕事の町内めぐりにとりかかるのであろう。自分はこれから寝て、明日はまた、次に来る来年の「試験」の準備の道程に覚束ない分厘の歩みを進めるのである。
底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店
1997(平成9)年3月5日発行
初出:「中央公論」
1934(昭和9)年1月
入力:Nana ohbe
校正:砂場清隆
2006年3月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。