貝殼追放
「末枯」の作者
水上瀧太郎
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久保田万太郎君と自分とのおつきあひも既に十年になつた。久保田君が「朝顏」を書き、自分が「山の手の子」を書いた頃から知己になつたのだ。
あれは「三田文學」創刊の年の秋だつたと思ふ。その頃三田の山の上にかたまつて居た連中が、同人雜誌を出す計畫をした。誰一人作品を發表した事の無い處女性から、「三田文學」といふやうな立派な雜誌を舞臺にする事は思ひもよらなかつたので、先づ手習に同人雜誌を出さうといふのが主意だつた。自分も好奇心に驅られて相談會に出席した。場所は田町の鹽湯の二階だつたと記憶して居るが、どんな家だつたか、はつきり目に浮べる事は出來なくなつた。十數人集つた仲間の半分以上は、自分の知らない顏だつた。てんでんにいろんな希望を述べあつたが、結局は資金の問題だつた。會費制度だと聞いて居た「白樺」の噂が頻に出たやうに覺えて居る。月々一人がいくらいくらの會費を出せば維持して行かれる、いやそれでは足りない、そんなには出せない、といふやうな事を長い間言ひ合つた。雜誌さへ出せば、直ぐにも文壇の一角に勢力を張れるやうな口をきく者も、計算の事に及ぶと口をつぐまなければならなかつた。みんなが書生つぽだつたのだ。
その中でたつた一人、際立つて世馴れた口をきく人が居た。それ迄に、一度も顏を見た事の無い人だつた。金釦の制服を着て、人々の後の方にひかへめにして居るのが、まるで新入生のやうだつた。その人は一册の雜誌を出すには、どの位費用がかかるとか、どの位の部數で、どの位賣れ殘るものだとか、會費制度ならば、どの位なければ足りないとかいふやうな事を、事細かに述べた。大ざつぱな書生ばかりの中に、たつた一人のその人は、怖ろしく頼母しい人に見えた。唯單に雜誌出版の話をした丈だつたけれど、聞いて居る自分は、此の人は世の中の事はなんでも知り盡して居る人だといふやうな氣がして、感服してしまつた。それが久保田君だつた。
「あれは誰だい。」
「久保田つてね、豫科の生徒で、俳句かなんかやる男だとさ。」
といふやうな問答を、隣席の友だちとささやきかはした事を覺えて居る。
その同人雜誌は、矢張り資金の問題で物にならなかつたが、間も無く久保田君は「朝顏」一篇を「三田文學」に掲げて、年少早く既に第一流の作家として恥しくない手腕を見せて世間を驚かした。
當時の事を考へると、記憶は未だ生々しく、久保田君の金釦の制服姿も、昨日一昨日の事のやうに思はれるが、しかしながら十年の歳月は、流石にさまざまの變遷を物語るものがなければならない。
自分が、世の中を知り盡した頼母しい人に思つた、温順な豫科の生徒も激變した。少くとも自分の見る久保田君は驚く程變つた。
中學時代も同じ三田の山の上に居ながら、年齡も學級も自分の方が上だつたので、田町の鹽湯で頼母しかつた久保田君以前は知らなかつたのだから、或は田町の鹽湯で見た時から暫時の間──もう少し押切つていへば、久保田君の第一集、「淺草」の出る頃迄の久保田君は、極めて他所行の久保田君だつたのかもしれないが、それにしても今日の久保田君には、その他所行の沈着さへ失はれ盡したやうに思はれる。
「君は變つた。ほんとに變つた。」
といふと、
「さうかしら、自分ではちつとも變らないつもりなんだけれど。」
と久保田君はその癖で──隨分小汚ない癖だが──長く延ばした髮の毛を撫であげ撫であげ、いぶかしさうに云ひながら、その實變つた事を承認し、且變つた事をほこりとする色さへ浮べるのである。自分はそれを見ると屡々腹が立つて來る。
第一久保田君には頼母しいところがなくなつた。怖ろしく出たらめで、あてにならない。安受合で、ちやらつぽこだ。世の中を知り盡したやうなおちつきがなくなつて、何もわけのわからない半可通らしく見えて來た。人の後にひかへめ勝だつたのが、出ないでもいい處にまで無闇に乘出して馳𢌞つて居る。焦躁、性急、浮調子になり切つてしまつた。
その以前同人が寄集ると、
「久保田つて人はおとなしい人だね。あれは叔父さん見たいな氣がするよ。」
「ほんとにああいふのが居てくれると頼母しい。」
などと云ひあつた事もあつたが、その自分さへ近頃の久保田君の出たらめには幾度となく迷はされて、何が何だかわからなくなつて、癇癪を起した事も數へ切れなくなつた。
かういふ變化が何に原因するものかを自分は知らない。恐らくは小説家の常として、久保田君は之を戀愛にでも歸するかもしれない。しかしつくづく考へてみると、矢張り本來の性質の一面が、他の一面を壓服して特別の發達を遂げたものと見るのが至當かもしれない。
「文壇電話」といふ綽名をつけた人がある。彼方此方と喋り歩いて、忽ち噂を廣げるといふ意味なのださうだ。時には本屋の番頭らしい事がある。時には役者の男衆らしい事もある。それ程變てこに顏が廣くなつてしまつた。
いたづらに狼狽しく散漫な日常生活は、到底久保田君をして充分に創作の才能を發揮させなくなつた。大正五年の秋、自分が外國から歸つて來た時、久々で逢つた久保田君は、恰も永井荷風先生が編輯主任をおやめになつた後の、つぶれかかつた「三田文學」を、如何にでもして續けて行かう、それにはお互に毎月必ず寄稿する事にしようではないかと、熱心に話を持掛けて來た。自分も承知した。さうしてそれ以來、隨分苦しい努力をして「三田文學」に寄稿しつづけて來た。しかしながら肝心の久保田君は、殆ど纏まつた物を書いた事が無い。休み勝だ。たまに出たかと思ふと、四五頁位で以下次號である。まとまつた印象をうける事がなくなつてしまつたので、
「久保田君も駄目だねえ。」
といふ嘆息を友だちの口からも聞く事になつた。
久保田君自身も、常におちつかない心の状態が、創作の邪魔になつて、あせつてもあせつても、何も出來ない事を嘆いて居たが、さういふ時は、日常友だちを相手に無責任な雜談をする時の癖で、誇大な言葉を用ゐ、「生活の改造」をしなければ駄目だといふやうな事を云つて、心にもなく力んで見せる。けれども、その「生活の改造」とは、要之女房を持つといふ事に過ぎないのである。自分では如何にもならない、女房に如何にかして貰ふ外には爲方が無いといふやうな、久保田君獨特の他力本願なのである。何事にも人を頼まず、自分一人の持つてる丈の力と努力以外には信じ兼る性質の自分は、此の「生活改造論」を聽かされると、本氣になつて反對したものだ。一人は結婚生活の幸福を夢み、女房が欲しいと云ひ、一人は結婚生活を馬鹿にして、女房なんか欲しくないと、顏を合せる度に話合つたが、その久保田君も愈々良縁を得て、優しい人を迎へられた。「戀の日」は遂に久保田君が獨身生活に別るる時の紀念となつた。
久保田君といへば、無責任な書肆や雜誌社の出たらめから、情話作家だと考へられ、單純無比な書生批評家の放言の爲めには、遊蕩文學の作者だと思はれてしまつた。現に「戀の日」の卷尾に添へてある舊著「東京夜話」の廣告には、「滅びゆく江戸の名殘を描き、華かなる東京の情調を描ける本書は、幹彦氏の西京藝術と相對して正に文壇の雙璧也」と書いてある。勿論本屋の廣告の事だから、自分の如きものさへ「正にこれ文壇の驚異なり」位の事は書立てられるのであるが、久保田君の作品の何處に「華かなる東京の情調」があるか。無理にも情話作家にして、長田幹彦氏あたりの安直な作品と共に賣れゆきをよくしようとするものに外ならない。さうして批評的能力を缺いて居る大多數の讀書子も亦、わけもなく雷同してしまつた。強ひて拾ひ出せば、「お米と十吉」「わかるる時」その他同傾向の作品が不幸にも存在して居るが、それとても嚴密な意味で情話とはいひにくい。矢張り久保田君一流の、果敢ない心持を主として描いた作品で、少くとも長田幹彦氏や近松秋江氏の、所謂艶麗な作品などと同列に置かる可きものではない。さうして此種の作品は、まとまりのいい、簡素な短篇を得意とする久保田君には似もやらず、冗長散漫で、常に失敗に終つてゐる。到底此の作者の如き執着に淡い人は、戀愛小説の作者にはなり切れないのである。
結婚の豫告と共に贈られた「戀の日」を手にした時、その「戀の日」といふ表題が、いかにも内容にそぐはないものに思はれた。「末枯」「さざめ雪」「三の切」「冬至」「影繪」「夏萩」「潮の音」「老犬」の八篇、何れも無戀愛小説である。何處にも戀の場面は無い。だがしかし、つらつら考へると、或は久保田君にとつては、文字以外の深い意味があるのかもしれない。無理にも氣を𢌞してみれば、これは作者自身の戀の日に出來た創作なので、作品そのものが戀の日なのではないのかもしれない。果してさうとすれば、「戀の日」一卷は愈々久保田君の結婚を紀念するものといふべきである。
けれども久保田君にとつては──同君自身の幸福なる結婚は別として──世上の戀は遂に果敢ない夢に等しい。あらゆるものが、廣大な力を以て押迫る世の中の自然の推移に押流されて行くのだと、あきらめて居る久保田君の根本思想から見て、戀愛も亦一瞬間の覺め易い夢に過ぎない。それは必ず果敢なくさめて、殘るのは涙ぐましい過去の追慕か、或は寂しいあきらめに入る外はない。久保田君の作品の二三を讀めば、敏感なる讀者は直ぐに氣が付くに違ひ無い。戀の成就といふ事は、詩人久保田万太郎君にとつては、思ひも掛けない事である。戀は破れ、さうしてその夢は白々とさめなければならない。その白々とさめた後の生活に久保田君の詩は完全に育くまれる。
詩人の常として、久保田君も亦常に夢を追ふ人である。同時に又執着に淡い、物わかりの早い東京の人の弱々しさから、その憧憬も夢想も見る間に果敢なく破れ去つてしまふ事をよく知つてゐる。結局は淡い夢の世界から、寂しいあきらめの世界へおちつく事になるのである。
もとより久保田君にとつては、現在の世の中は結構なものとは考へられない。そんなら進んで蕪雜亂脈な社會の改造を叫ぶか、退いて一人密かに果敢ながつてゐるかといへば、久保田君は當然第二の道を歩む詩人である。泉鏡花先生のやうに、聲を張上げて威勢よく、現代の野暮と不粹を罵倒したり、永井荷風先生のやうに、徹底的に社會人事の虚僞と僞善を指摘する事は、久保田君には思ひも及ばない。同時に又、泉先生のやうに、過去の讚美に熱狂したり、永井先生のやうに、追憶囘顧の文字に詠嘆を縱にする程抒情的でも無い。まして況や新しき村に、不便を忍んで移住する程の實行力も芝居氣も無い。夢は夢で、憧憬の實現に努力するのは馬鹿々々しいのである。且つ又久保田君の思想の根柢には、世の中は日に日に惡くなるばかりで、人力を以てしては如何する事も出來ないといふ觀念が根強くわだかまつて居る。世の中の惡くなつた嘆きを身の周圍に持ちながら、決して今日の世の中を呪詛しもしなければ、それに對して反抗もしない。その惡くなつた原因を考へもしなければ、その原因を取除かうともしない。何故惡くなつたのか、何故惡いのかも考へない。あき足りないにはあき足りないが、さりとて、それが熱して不平不滿になるのでもない。ただ一人密かに心底から寂しくなつてしまふのである。結局世の中は自然と惡くなつてしまつたのだ。さうして又、その惡くなる事は不可抗の力なのである。久保田君の言葉をかりて云へば「世間の惡くなる事がどうにもならなかつた」のである。此の社會を形造るものは人間の力だといふ信念を持たないで、世の中が人間を壓服してゐる状態を、殆ど無條件で承認してゐるのである。
かういふ社會觀を固く持して居る結果として、久保田君の描き出す世の中は、當然亡びゆく世の面影でなければならない。明日に連續する現在の世の中ではなくて、昨日に連續する現在なのである。從而久保田君の小説戲曲の中に現れる人物は、殆ど總て、今日の文明には何物をも貢獻しない人間ばかりだ。ただ單に亡び行く世の推移と共に押流されて行く人々である。てんでんに「世の中が惡くなつた」ことをこぼしながら、しかも此の惡くなつた世の中の茶飯事に終始して一生を送る人々である。或は極端にいふならば、その人々の存在は、單に移りゆく世の雰圍氣を成すものに過ぎない。此の世の中の推移を示す仕出に過ぎない。
「末枯」の中の人物、田所町の丁字屋の若旦那と生れながら、親讓の店も深川の寮も、人手に渡さなければならなくなつた鈴むらさん──どういふわけでむらと平假名で書かなければならないのかわからないが、甚しくかうした事に依怙地な久保田君は、鈴村さんと書いたのでは、その人物を彷彿する事が出來ないのであらう──も、せん枝も、扇朝も、さては小よしも、死んだ柏枝も、さうして又老犬エスも、その他ちらちら舞臺に出て來る程の人のすべてが、何れも此の移りゆく世の犧牲者に外ならない。
作者は鈴むらさんについてかう書いてゐる。
このごろの鈴むらさんの、退屈な、さうして、便りない、枯野のやうな生涯がいまさらのやうにせん枝の胸に浮んだ。──蔭で、種々、何のかのと勝手なことはいつても、考へると──すこしでも以前のことが考へられると、矢張、なほ、せん枝は、暗い、泪ぐましいやうな心もちになることが爲方がなかつた。
茲に枯野のやうな生涯といはれて居るのは鈴むらさんの事だけれど、それは又鈴むらさんの事を胸に浮べてゐるせん枝の生涯にも、義理を知らない人間だといはれてゐる扇朝の生涯にも、あてはまる言葉である。否「戀の日」一卷を通じて──或は久保田君の全作品を通じて描かれて居る人々と、その周圍の光景に外ならない。自分が前に、今日の文明に直接何の交渉も無い人々だと云つたのは、即ち彼等の生涯が枯野だからである。
此の枯野の生涯を送る人々を描く事に於て、久保田君は文壇に比類の無い作家だ。持つて生れた詩人的氣禀の爲めに、沒分曉の批評家は、徹頭徹尾現實には縁遠い、物語の作者だと思つてゐるが、斯くの如きは誤れる事甚しいもので、たまたま久保田君の選擇する社會の一斷面が、將來に連續する現在でなくて、過去に連續する現在だといふ事實から、甘いお伽噺の作者と間違へられ易いのである。
實際久保田君自身は寫實主義の作家を以て任じて居る。詩人と呼ばれる事を喜びながら、それには些か不服を唱へるが、寫實主義だといはれると、更に一層喜んで、己れを知る人の爲めに相好を崩すに違ひない。甚だ氣障な申分ではあるが、久保田君の寫實主義を認めるのは、東京の人でなければ難かしいと思ふ。其の描く世界が、極めて特異の地方色を帶びて居るからで、少くとも山の手の東京の人と、下町の東京の人の區別を知るばかりでなく、同じ下町の人でも、日本橋の人と淺草の人との間には、動かす可からざる相違のある事を認める能力が無いと、久保田君の寫實を寫實だと見る事は出來ないのである。一昔前、久保田君の第一集が出た時に、之を「淺草」と題したのは籾山庭後氏だつたと記憶する。當時自分などは淺草といふ、餘り上等でない、何方かといへば場末の土地の名を、本の表題にするのは面白くないやうな氣がしたが、今になつて考へてみると、籾山氏の烱眼は夙に久保田君の作品の地方色を明確に認めて居られたものと思はれる。
「久保田君の作は、もう十年たつと誰にもわからないものになるかもしれません。」
と同じ籾山氏が言はれた事がある。自分もこれには即座に贊成した。十年待つには及ばない、今既に久保田君の作品は、多くの人にとつて最も難解な小説なのである。
久保田君は淺草に生れ、淺草に育つた人である。その描く土地も人も總て淺草を離れない。たまたま──恰も久保田君が汽車に乘つて東京を離れる事の少い程たまには、淺草以外に材料を取る事もあるけれど、矢張り實は淺草になつてしまふ。第一その會話が、どうしても東京の眞中ではない。淺草に限る粗末なところがある。久保田君といへば、無條件で江戸つ子だと思ふ程單純な世間の人に、江戸つ子は江戸つ子に違ひないが、江戸つ子の中の淺草つ子だといふ事を教へ度い。
淺草の詩人は、淺草を知る事が深ければ深い程、淺草以外の世界を知らない事驚くばかりである。「戀の日」の中の一篇「潮の音」の如き、本來淺草には縁遠い學生々活を描いたもので、これが久保田君程の作家の手になつたものとは受取れない程幼稚だ。新派の役者の演る華族、役人、軍人のやうに氣が利かない。しかも悲慘な事には、新派の役者が、華族、役人、軍人などに充分扮し得たつもりでゐるやうに、久保田君自身は、ちつとも此の半馬な事を知らないのである。曾て久保田君が淺草田原町に居た頃、
「何しろ町内で大學に通つてるのは私一人きりなんです。」
と云つた事があつた。家庭とその周圍の空氣が、學校といふものには全く縁遠い爲め、學校といふものを買ひかぶつてゐるのである。既に大學を卒業し、浪花節語と藝術家とをひつくるめて政策の具に供しようとする大臣と膝組で、演劇の改良をはかる久保田君の如きは、當然大學者だと思はれてゐるに違ひない。かういふ周圍の影響から、久保田君自身さへ、學校を正當に了解してゐないで、一種の理想郷のやうに考へてゐた事は、その隨筆や談話筆記の中に、屡々學校に對する少年時の憧憬が、懷しさうに物語られてゐる事實によつて推測される。「潮の音」の失敗の如きは、此の無理解に基因する事いふ迄も無い。幸にして久保田君は、此の頃世に謂ふ所の知識階級に材料を取つたためしが無い。まことに己を知るもので、萬一敢て此の冒險を行つたら、忽ち新派の役者の寫實になる事は疑も無い。
そのかはりに、故郷淺草を背景にした場合には、久保田君程適確微妙に地方色を描き出す人は少い。「末枯」も「老犬」も「さざめ雪」も「三の切」も、その他曾て發表した勝れた作品の殆ど全部が淺草である。落語家、宗匠、鳶頭、細工物の職人、小賣商人、その女房、番頭、女中、丁稚、さうして時に旦那と呼ばれるその旦那さへ、何處かに安いところがついて𢌞つてゐるところ、飽迄も淺草である。その人々の心の底迄、久保田君は靜に、しかしおもひやり深く味はひ盡して居る。かういふ條件のすべてを完全に備へ、しかも久保田君一流の寫實主義が、立派に成功したものが「戀の日」の卷頭を飾る「末枯」である。
世の中はどうにもならないものだと固く思ひきめてゐる久保田君は、總て大がかりな悲劇を冷笑してしまふ傾向を持つてゐる。人間の意志の力を些かも認めないから、深刻な悲劇は嘘としか考へられない。さうして此の傾向も亦、獨特の依怙地から極端に走つて、何でもかんでも大がかりなものは、一切嫌ひだといふところ迄行つてゐる。トルストイ、ドストエウスキイ、ゾラなどの長篇小説は、久保田君にとつては些かくすぐつたいに違ひ無い。日本の作家にしてみても、尾崎紅葉先生や夏目漱石先生のやうな、構への大きい作家の作品は、餘り顧みるところではない。寧ろ片々たる小篇に、屡々特異の味はひを見出す人である。言葉を換へて云へば、この世の中の家常茶飯に、極めて意味深い哀韻の詩を見出して、之を描き出す作家なのである。
鈴むらさんのところへこのごろ扇朝が始終這入りこんでゐるといふ風説を聞いて、せん枝は心配した。何とかしなければいけないと思つた。──だが何とかしたいにも、一月あまりといふもの、鈴むらさんはまるでせん枝のところへ顏をみせなかつた。
これが「末枯」の冒頭である。目の惡いせん枝は、秋の日の障子の中に靜に坐つてゐる。扇朝といふ男は義理知らずだから、ちかづけてはいけないと心配してゐるのだ。義理と人情の世界に住む東京の人は、屡々かういふ種類の心配をする。久保田君にも勿論此の傾向がある。さうしてその心配が、時にとつては、──せん枝にも、久保田君にも──一種の道樂に等しい心慰である。心配のなりゆきを考へる時、希望に似た胸のときめきがあるに違ひ無い。しかし此の種の心配性は、決してその心配に拘泥して、進んで解決を求める事は無い。ぼんやりと、友だちの無い寂しさに浸りながら、あの人は如何したらうと思つてゐるばかりで、こつちから相手を探し出して心配してやる執着は無い。それは心配する事の重大と否とには拘らず、何事によらず、うるさく拘泥する事はしないのである。心の底の底には、矢張、心配したつてどうにもならないと、寂しく思ひきめてゐるのだ。
何事にも動き易く、目的も無く浮動して、ふとした事にも身の振方を變へてしまふ心弱い人間を描いて、久保田君はその寂しい心の底の底迄徹してゐる。たとへば扇朝といふ落語家の半生の物語の如き、淡々とした敍事の中に、その外面的に變化の多い幾年と共に、無智で氣短で、その癖始終果敢なく遣瀬ながつてゐる心持を、非の打ちどころの無い巧妙さで描いて居る。當今流行の新技巧派などと呼ばれて居る作家等が、無駄に冗長なる心理解剖の遊戲に有頂天になつて、落語家でも、幇間でも、田舍藝者でも、不良少年でも、殿樣でも、何れも小説家のやうにもつともらしく、理窟つぽい心理的開展を示して、くだくだしくこだはらせなくては承知しない馬鹿々々しい素人脅しとは品が違ふ。「末枯」のうまみのわからない人間が多いならば、それこそ「世の中が惡くなつた」のである。
扇朝の身の上話の終に、作者はかう説明してゐる。
それから十年。──はじめのうちは、柳朝うつしの人情噺のたんねんなところが、評判にもなつたが、年々に後から後からと、若い、元氣のいい連中は出て來る。──いくら負けない氣でも「時代」のかはつてくることは何うにもならなかつた。
作者は、作者が常にはかながる「時代の推移」の怖ろしさに心を傷めると同時に、その犧牲者に對して同情を寄せてゐるのである。けれども、作者は此の場合にも、決して詠嘆もしなければ嘆息もしない。淡々とした「情緒的寫實主義」を亂される事なく進むのである。
前にも云つた通り、久保田君は、自分では寫實主義の作家を以て任じて居る。しかし生來の詩人的氣禀は、無差別の寫實を許さない。常にその作品が淡い愁にみたされてゐる通り、愁の陰影の無い世想は、久保田君にとつては藝術にならないのである。鈴むらさんが、先代丁字屋傳右衞門からうけ繼いだ店を、その儘持ち堪へてときめいてゐたら、彼は久保田君の心に觸れて詩になる身の上ではなかつたであらう。せん枝の目が惡くならなかつたら、彼も亦作者の顧みるところとならなかつたかもしれない。鈴むらさんの飼つてゐる犬は、都合よく老犬だつた。これが又よく吠えつく若い犬だつたら、詩人は遂に手を出す事はしなかつたらう。
かういふ風に自分の持味の靜寂を傷つけない爲めに專心な作者は、恐らくは無意識で、自然描寫に於ても、閑靜な、色彩の暗い冬景色を選んでゐる。俳句から來た影響もあらうが、それは殊に雨か雪か曇日に限られてゐる。
「末枯」は、
ある夕がたから降り出した雨が、あくる日になつても、そのあくる日になつてもやまず、どうやらそれは暴模樣のやうにもなつた。──再び晴れた青空をみることが出來たとき、その青空のいろがもう水のやうに澄み盡してゐた。さうして、身にしみて冷めたい風がふいた。
といふ秋の初めから、年の暮迄の時雨の多い頃である。
「さざめ雪」は、
暗い、時雨のやうな雨が來て、漸次秋の深くなつて來る夜ごろ
である。
「三の切」は、
暗い便りない時雨の日がつづいて、今年もそこに十一月が來た、酉の市が來た。
初冬の宵の寂しさに、臺所の障子のかげに、細々と蛼のなく頃である。
「冬至」にはその題の示す通り、
冬至だつた。──雪にでもなるらしく、暗く、凍てついた空に、ときどき、一文獅子の太鼓の音ばかりが心細く響いた。
「老犬」にはその初めに、
十一月の末から十二月にかけて
とあつて何れも冬だ。さうして此の冬空の灰色が、世の中の推移に殘されてゆく人々の身の上をつつんで、一層靜寂を増してゐるのである。
其處に久保田君獨特の藝術境があると共に、此の傾向は屡々作品を平面的なものにしてしまふ憾がある。然るに「末枯」の一篇は、此の缺點を脱却して、描寫もすべて立體的に、現實性を確然と把持して、渾然とした傑作を成した。ほんとのところ、自分は近頃「末枯」程の作品を見た事がなかつた。
「世の中が惡くなつた」とかこちながら、浮世の一隅に、氣の利いた口はききながら、心寂しがつてゐる人々の世の中が「戀の日」一卷の中に沁々と味はれる。
甚だ散漫な自分の感想は、何時迄たつても盡きさうも無い。「末枯」のうまみを細かく味はつてゐるときりが無い。ここいらでひとつ此頃流行の一手を學んで、大ざつぱにかたづけてしまへば、「末枯」の作者久保田万太郎君は、現代稀に見る完成した藝術家で、此の完成したといふ點に於て僅かに肩を並べ得る人は、徳田秋聲、正宗白鳥二氏の外には無い。仲間ぼめで危く文壇に地歩を占めて居る人間の多い現在、自分などが聲を張上げるのは誤解を招くおそれがあるが、藝術の作品の僞物とほん物の區別のわかる人々は、此の陣笠の聲の中にも眞實のある事を認めるであらう。
「戀の日」を再讀三讀して卷を閉ぢた時、自分は不思議な氣持がした。その昔頼母しがられた頃はいざしらず、此の頃の、出たらめの、安受合の、ちやらつぽこだと思つてゐた久保田君が、尚斯くの如き靜寂至純なる藝術境を把持して、完全無缺な作品を發表し得る事の不可思議に驚いたのだ。人間が偉くなければ、立派な作品は出來ないと思つてゐる自分の信仰がぐらついた。矢張り久保田君は偉い人だつたのかと思ひ出した。幾度も幾度も、此の問題を頭腦の中で繰返して居る間に、平生藝術家久保田君を見くびり勝な、其處いらに居る人間どものぼんくらと無禮が癪に障つて來た。自分自身の目はしの利かなかつた事も亦腹立たしくなつて來た。正直のところ、自分は久保田君の藝術の力に、完全に頭を垂れて膝まづいたのである。
最近、陸軍簡閲點呼に召集されて上京した時、忙しい中で、新婚の久保田君夫妻に逢つた。もの優しい新夫人を傍にして坐つた久保田君は、見違へるばかり身體はひきしまり、一頃の浮調子とはうつて變つて落ちついてゐた。堂々とした花婿だつた。さうして斯ういふ場合には、兎角世間の惡賢い人間がして見せる氣障と厭味を離れて、眞面目に結婚生活の幸福を説いて止まなかつた。女性を輕侮し、結婚生活を羨しいと思つてゐない自分さへ、久保田君の純眞なる喜悦の前には、おひやらかすことさへ出來なかつた。これ程喜べるものならば自分も結婚し度いと思つたが、自分の如き疑深い卑屈な根性の者には、到底それは不可能の事であらう。結局自分は、久保田君の結婚そのものよりも、久保田君が眞心から幸福を感じてゐる心持の方を羨んだ。
或は遂に久保田君は「生活の改造」を爲遂げたのかもしれない。さうしてほんたうに久保田君の偉さが、一時の浮薄に打勝つて光を現して來たのかもしれない。「世の中がよくなつて來た」のかもしれない。さういふ奇蹟の起る事を、自分は「末枯」の作者の爲めに祈つて止まないものである。(大正八年八月十八日)
底本:「水上瀧太郎全集 九卷」岩波書店
1940(昭和15)年12月15日発行
入力:柳田節
校正:富田倫生
2005年1月27日作成
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