さまよえるユダヤ人の手記より
寺田寅彦
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一 涼しさと暑さ
この夏は毎日のように実験室で油の蒸餾の番人をして暮らした。昔の武士の中の変人達が酷暑の時候にドテラを着込んで火鉢を囲んで寒い寒いと云ったという話があるが、暑中に烈火の前に立って油の煮えるのを見るのは実は案外に爽快なものである。
暑い時に風呂に行って背中から熱い湯を浴びると、やはり「涼しい」とかなりよく似た感覚がある。あれも同じわけであろう。
涼しいというのは温度の低いということとは意味が違う。暑いという前提があって、それに特殊な条件が加わって始めて涼しさが成立するのである。
先年塩原の山中を歩いていた時に、偶然にこの涼しさの成立条件を発見した。とその時に思ったことがある。蒸されるような暑苦しい谷間の坂道の空気の中へ、ちょうど味噌汁の中に入れた蓴菜のように、寒天の中に入れた小豆粒のように、冷たい空気の大小の粒が交じって、それが適当な速度でわれわれの皮膚を撫でて通るときにわれわれは正真正銘の涼しさを感じるらしい。
暑中に冷蔵庫へ這入った時の感じは、あれは正当なる涼しさとは少しちがう。あれは無意味なる沈鬱である。涼しさの生じるためには、どうも時間的にまた空間的に温度の短週期的変化のあることが必要条件であるらしい。
しかし、寒中に焚火をしてもいわゆる「涼しさ」は感じないところを見ると、やはり平均気温の高いということが涼しさの第一条件でなければならない。そうしてその平均気温からの擬週期的変化が第二条件であると思われる。この変化は必ずしも低温の方向に起らなくてもいいということは、暑中熱湯を浴びる実験からも分ると思う。たぶん温度が急激に降下するときに随伴する感覚であって、しかもそれはすぐに飽和される性質のものであるから、この感覚を継続させるためには結局週期的の変化が必要になると考えられる。
子供の時分、暑い盛りに背中へ沢山の灸をすえられた経験があるが、あの時の背中の感覚にはやはり「涼しさ」とどこか似通ったある物がある。これはここの仮説を裏書する。
こんな事を考えていたのであるが、今年の夏房州の千倉へ行って、海岸の強い輻射のエネルギーに充たされた空間の中を縫うて来る涼風に接したときに、暑さと涼しさとは互いに排他的な感覚ではなくて共存的な感覚であることに始めて気が付いたのである。暑いと同時に涼しいということあるいはむしろ暑い感じを伴うことなしに涼しさは感じ得られないということが一般的な事実であるのに、われわれは暑い涼しいという二つの言葉が反対のことのように思い込んでしまっていたために、こんな分り切ったことに今まで気が付かないでいたのではないか。ここでもわれわれは「言葉」という嘘つきに欺されていたのではないか。
「暑い」ということと寒暖計の示度の高いということとも、互いに関係はあるが同意義ではない。いつか新聞の演芸風聞録に、ある「頭の悪い」というので通っている名優の頭の悪い証拠として次のようなことを書いてあった。ある酷暑の日にその役者が「今日はだいぶ暑いと見える、観客席で扇の動き方が劇しいようだ」と云ったというのである。これはしかしその役者の頭の悪い証拠でなくて良い方の破格の一例として取扱わるべきものであるかもしれない。暑い日の舞台の上は自然的の通風で案外涼しいかもしれないし、それでなくても、その役者が真面目に芝居をやっている限りその日が特に暑い日であるかないか分るはずがないのである。それは炭坑の底に働いている坑夫に、天気が晴れているのか暴れているのかが分らないのと同様である。それで扇の動き方でその日の暑さを知ったというのは、雁行の乱るるを見て伏兵を知った名将と同等以上であるのかもしれない。しかしおそらくこれはすべての役者に昔からよく知られたきわめて平凡な事実であるかもしれない。そうだとしてそれを今頃気が付いたとすれば、なるほどこれは頭の悪い証拠になるかもしれない。演芸風聞録の頭のいい記者はたぶんこの意味で書いたに相違ないのであるが、これにこれだけの注釈をつけることも出来るのである。
二 玉虫
夏のある日の正午駕籠町から上野行の電車に乗った。上富士前の交叉点で乗込んだ人々の中に四十前後の色の黒い婦人が居た。自分の隣へ腰をかけると間もなく不思議な挙動をするのが自分の注意をひいた。ハンケチで首筋の辺をはたくようなことをしている。すると眼の下の床へぱたりと一疋の玉虫が落ちた。仰向きに泥だらけの床の上に落ちて、起き直ろうとして藻掻いているのである。しばらく見ていたが乗客のうちの誰もそれを拾い上げようとする人はなかった。自分はそっとこの甲虫をつまみ上げてハンケチで背中の泥を拭うていると、隣の女が「それは毒虫じゃありませんか」と聞いた。虫をハンケチにくるんでカクシに押し込んでから自分はチェスタートンの『ブラウン教父の秘密』の読みかけを読みつづけた。
研究所へ帰ってから思い出してハンケチを開けてみると、だいぶ苦しんだと見えて、糞を沢山にひり散らした痕がハンケチに印銘されていた。手近にあったアルコールの数滴を机の上に垂らしてその上に玉虫の口をおっつけると、虫は活溌にその嘴を動かしてアルコールを飲み込んだ。それがわれわれの眼にはさもさもうまそうに飲んでいるように見えた。虫の表情というものがあり得るかどうか知らないが、ただ机の上のアルコールの減じて行く速度がそういう感じを起させたのである。幾ミリグラムかの毒液を飲み終ると、もう石のように動かなくなってしまった。
そこへ若いF君がやって来た。自分はF君に、この虫が再び甦ると思うか、このままに死んでしまうと思うかと聞いた。もちろん自分にも分らなかったのである。F君は二〇プロセントは甦ると云い自分は百プロセント死ぬということにして、それで賭をするとしたら、どういう勘定になるかという問題を色々に議論した。
「午後の御茶」の時間に皆で集まったときに、自分は、この玉虫がいったいどこであの婦人の髪の毛に附着して、そうして電車の中に運ばれたであろうかという問題を出した。Y君は染井の墓地からという説を出した。私は吉祥寺ではないかとも云ってみた。
この婦人には一人男の連れがあったが、電車ではずっと離れた向う側に腰をかけていた。後のその隣に空席が出来たときに女の方でそこへ行って何かしら話をしていたのである。
われわれの問題は、虫が髪に附いてから、それが首筋に這い下りて人の感覚を刺戟するまでにおおよそどのくらいからどのくらいまでの時間が経過するものかというのであった。もしもその時間が決定され、そしてその人が電車で来たものと仮定すれば、その時間と電車速度の相乗積に等しい半径で地図上に円を描き、その上にある樹林を物色することが出来る。しかし実際はそう簡単には行かない。
しかしこの玉虫の一例は、われわれがわれわれの現在にこびり付いた過去の一片をからだのどこかにくっつけて歩いているということのいい例証にはなるであろう。
もしもその日の夕刊に、吉祥寺か染井の墓地である犯罪の行われた記事が出たとしたら、探偵でない自分は、少なくも一つの月並みな探偵小説を心に描いて、これに「玉虫」と題したかもしれない。
アルコールを飲んだ玉虫はとうとう生き返らなかった。人間だとしたらたぶん一ポンドくらいの純アルコールを飲んだわけである。
手近にあった水銀燈を点じて玉虫を照らしてみた。あの美しい緑色は見えなくなって、鏽びたひわ茶色の金属光沢を見せたが、腹の美しい赤銅色はそのままに見られた。
三 杏仁水
ある夏の夜、神田の喫茶店へはいって一杯のアイスクリームを食った。そのアイスクリームの香味には普通のヴァニラの外に一種特有な香味の混じているのに気がついた。そうしてそれが杏仁水であることを思い出すと同時に妙な記憶が喚び起されて来たのである。
中学四年頃のことであったかと思う。同級のI君が脚気で亡くなったので、われわれ数人の親しかった連中でその葬式に行った。南国の真夏の暑い盛りであった。町から東のO村まで二里ばかりの、樹蔭一つない稲田の中の田圃道を歩いて行った。向うへ着いたときに一同はコップに入れた黄色い飲料を振舞われた。それは強い薬臭い匂と甘い味をもった珍しい飲料であった。要するにそれは一種の甘い水薬であったのである。もっともI君の家は医家であったので、炎天の長途を歩いて来たわれわれ子供たちのために暑気払いの清涼剤を振舞ってくれたのである。後で考えるとあの飲料の匂の主調をなすものが、やはりこの杏仁水であったらしい。
明治二十年代の片田舎での出来事として考えるときに、この杏仁水の饗応がはなはだオリジナルであり、ハイカラな現象であったような気がする。
大学在学中に、学生のために無料診察を引受けていたいわゆる校医にK氏が居た。いたずら好きの学生達は彼に「杏仁水」という渾名を奉っていた。理由は簡単なことで、いかなる病気にでもその処方に杏仁水の零点幾グラムかが加えられるというだけである。いつか診察を受けに行ったときに、先に来ていた一学生が貰った処方箋を見ながら「また、杏仁水ですか」と云ってニヤリとした。K氏は平然として「君等は杏仁水杏仁水と馬鹿にするが、杏仁水でも、人を殺そうと思えば殺せる」と云った。この場合では杏仁水が、陳腐なるものコンヴェンショナルなものの代表として現われたわけである。
自分の五十年の生涯の記録の索引を繰って杏仁水の項を見ると、先ずこの二つの箇条が出て来る。
近来杏仁水の匂のする水薬を飲まされた記憶はさっぱりない。久しく嗅がなかった匂であったために、今このアイスクリームの匂の刺戟によって飛び出した追想の矢が一と飛びに三十年前へ飛び越したのかもしれない。
不思議なことに、この一杯のアイスクリームの香味はその時の自分には何かしら清新にして予言的なもののような気がしたのである。
四 橋の袂
千倉で泊った宿屋の二階の床は道路と同平面にある。自分の部屋の前が橋の袂に当っているので、夕方橋の上に涼みに来る人と相対して楽に話が出来るくらいである。
宿の主人が一匹の子猫の頸をつまんでぶら下げながら橋の向う側の袂へ行ってぽいとそれをほうり出した。猫はあたかも何事も起らなかったかのようにうそうそと橋の欄干を嗅いでいた。
女中に聞いてみると、この橋の袂へ猫を捨てに来る人が毎日のようにあって、それらの不幸なる孤児等が自然の径路でこの宿屋の台所に迷い込んで来るそうである。なるほど始めてここへ来たときから、この村に痩せた猫の数のはなはだ多いことに気が付いたくらいであるから、従って猫を捨てる人の多いのも当然であろうと思われた。
猫を捨てに出た人が格好の捨場を求めて歩いて行くうちに一つの橋の袂に来たとすれば、その人はまたおそらく当然そこでその目的の行為を果たすに相違ない。これは何故であろうか。橋の袂は交通線上の一つの特異点であって、歩行者の心のテンポにある加速度を与えるために自然に予定の行為への衝動を受けるのかもしれない。
われわれの生活の行路の上にもまたこういう橋の袂がある。そうしてそこで自分の過去の重荷を下ろそうとして躊躇することがしばしばある。同様に国家社会の歴史の進展の途上にも幾多の橋の袂がある。教育家為政者は行手の橋の袂の所在を充分に地図の上で研究しておかなければならないと思う。
弁慶が辻斬をしたのは橋の袂である。鍋焼うどんや夜鷹もまたしばしば橋の袂を選んで店を張った。獄門の晒首や迷子のしるべ、御触れの掲示などにもまたしばしば橋の袂が最もふさわしい地点であると考えられた。これは云うまでもなく、橋が多くの交通路の集合点であって一種の関門となっているからである。従ってあらゆる街路よりも交通の流れの密度が大きいからのことである。
この第二の意味における「橋の袂」のようなものもまた個人の生活や人類の歴史の上に沢山の例がある。十字軍や一九一四年の欧洲大戦のごときは世界人類の歴史の橋の袂であり、ポール・セザンヌと名づけられた一人の田舎爺は世界の美術史の上の橋の袂である。ニュートン、アインシュタイン、プランク等のした仕事もまた物理学史上のそれぞれの橋の袂であったとも云われる。
われわれ個人にとっていちばん重大なのはわれわれの内部生活における、第一並びに第二の意味における橋の袂である。ここでわれわれは身を投げるか、弁慶の薙刀の鏽となるか、夜鷹に食われるか、それともまた鍋焼うどんに腹をこしらえて行手の旅を急ぐかである。
底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
1997(平成9)年2月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年8月13日作成
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