異質触媒作用
寺田寅彦
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一 帝展
帝展の洋画部を見ているうちに、これだけの絵に使われている絵具の全体の重量は大変なものであろうと考えた。その中に含まれている Pb と Zn だけでも夥しいものであろうと思われた。こんな事を考えるほどに近頃はこうした展覧会の絵に興味を失ってしまったのである。批評などする気にはなれそうもない。
日本画と西洋画の区別が年と共にいよいよ分からなくなって来た。画の主題でも描法でも両方から互いに接近し模倣し入乱れて来ている。それだのにそうかと云って、洋画家で絵絹へ油絵具を塗る試みをあえてする人、日本画家でカンバスへ日本絵具を盛り上げる実験をする人がないのはむしろ不思議なくらいである。
洋画を通じてルソーやマチスや、ドランやマルケーなどのようなフランス絵の影響がこっそり日本画の方へ入り込んでいるのを発見する。日本の芸術がフランスを一と廻わりして後にもう一遍日本へ帰って来たのである。
洋画でも日本画でも人物の顔をなるべくスチューピッドに描く事が近年の流行のようである。悪趣味であると思う。これが東京音頭の流行となんらかの関係があるかどうかは不明であるが多少の関係があるかもしれない。
洋画の方に「測候所」があると、日本画の方にも「測候所」及び「海洋気象台」がある。ガードやガソリンスタンドなども両方にある。それだのに、洋画の方には鎧武者や平安朝風景がない。これも不思議である。
帝展には少ないが二科会などには「胃病患者の夢」を模様化したようなヒアガル系統の絵がある。あれはむしろ日本画にした方が面白そうに思われるのに、まだそういう日本画を見ない。これも意外である。
デパートのマークを付けたために問題になった絵が、洋画部でなかったことも偶然なようで自然である。あれはともかくも弁護の余地のない全く広告びら向きの絵のように思われた。広告びらの版画でも絵がよければ芸術であり、アメリカ人が高い金を出して買うのであるが。
彫刻部の列品は、もしか貰ったらさぞや困ることだろうと思うものが大部分であるが、工芸品の部には、もし沢山に金があったら買いたいと思うものが少しはある。
来年あたりから試しに帝展の各室に投票函を置き、「いけない」と思う絵を観客に自由に遠慮なく投票をさせて、オストラキズムの真似をしたらどうかと思う。推賞する方の投票だと「運動」が横行して結果は無意味に終るにきまっているが、排斥する方の投票だと、その結果は存外多少の参考になるかもしれない。そうして最後に残った絵だけをもう一遍陳列してみたらどんなことになるか。これは試しに一度やってみる価値があるかもしれない。
二 ヨーヨーとコリントゲーム
ヨーヨーがすたれて、コリントゲームがいまだに残存している。
ヨーヨーは力学的の玩具である。これの運動の解明は古典力学だけで間に合う。しかしコリントゲームの方には公算的統計的の要素が入り込む。前者では因果の連鎖が一筋の糸でつづいているが、後者では因果の中間に蓋然の霧がかかっている。それで、前者では練習さえ積めばかなりの程度までは思いのままにあらゆる有様を再現することが出来るが、後者の方では二度と同じ結果を出すまでに何度試みを繰返さなければならないかを、確実に予言することが出来ない。
それだからヨーヨーは生真面目で、人を緊張させる傾向があり、コリントはどこかとぼけていて人を笑わせる。そうして前者は個人的であり、後者は衆団的である。
夏の頃、神田の夜店の中に交じってコリント台を並べて客を待っているおばさんやおじさんが数え切れないほどあった。こわい顔のおじさんや、浮かぬ顔をした小僧さんのところよりはやはり愛嬌のいいおばさんの台にお客が多くついているようである。鉄球をころがしているお客も、見物している人達も、番をしている商人も一処になって時々笑い出す。天下泰平の趣がある。ヨーヨーの緊張時代のあとにコリントゲームの弛緩時代がめぐって来たものと見える。
三原山投身者もこの頃減ったそうである。
三 へリオトロープ
よく晴れた秋の日の午後室町三越前で電車を待っていた。右手の方の空間で何かキラキラ光るものがあると思ってよく見ると、日本橋の南東側の河岸に聳え立つあるビルディングの壁面を方一尺くらいの光の板があちらこちらと這い廻っている。それが一階の右の方の窓を照らすかと思っていると急に七階の左の方へ飛んで行く。そうかと思うと、ゆらゆらとゆれ動きながら三階の窓を片端から順々に照らして行くのである。誰か旧魚河岸の方の側で手鏡を日光に曝らしてそれで反射された光束を対岸のビルディングに向けて一人で嬉しがっているものと思われた。こういういたずらがいかに面白いものであるかはそれを経験したもののよく知るところである。小学や中学時代に校舎の二階の窓から向う側の建物の教場を照らして叱られた人も少なくないであろう。このいたずらの面白味は「光束」という自由自在の「如意棒」を振廻わして、人間に手の届かぬ空間の好きなところへ探りを入れ引掻き廻わし得られるところにある。このいたずらを利用したものの例としては三角測量の際に遠方の三角点から光の信号を送るへリオトロープがあり、その他色々な光束が色々の信号に使われるのは周知のことである。自分の子供の時分に屋内の井戸の暗い水底に薬鑵が沈んだのを二枚の鏡を使って日光を井底に送り、易々と引上げに成功したこともあった。
日本橋橋畔のへリオトロープは単なる子供のいたずらであったであろうが、同じようなのでただの悪戯ではない場合があり得る。例えば某ビルディングの某会社のある窓の内に執務している甲某にその友人乙某が百メートルも先の街上から何かしらある信号を送るということがあり得るであろう。「今夜一処にビールを飲もう」というくらいの罪のない信号である場合もあろうが、もう少したちの悪い場合も色々あり得る。そうした場合に、同室にいる課長殿が、これは誰かに対する信号だということに気が付いたとしても、その信号を受けているのが室内のどの男だかということが分かりにくい。そこにこの信号の長所がある訳である。それで課長殿が窓際へ行って信号の出処を見届けようとしても、光束が眼を外れると鏡は見えなくなり、眼に当れば眩惑されるので、もしも相手が身体を物蔭に隠して頭と手先だけ出してでもいればなかなか容易に正体を見届けることは困難であろうと想像される。そうして、そういうことが白昼烈日の下に行われ、しかもその下でなければ行われ難いところに妙味があるようである。しかしあまり度々こんな悪戯をやると警官に怪しまれるであろうが一度だけは大丈夫成功するであろうと思われる。それはとにかく、このヘリオトロープの信号は少なくも映画や探偵小説の一場面としてはこれも一遍だけは適当であろう。
「モナリザの失踪」という映画に、ヒーローの寝ころんで「ナポレオンのイタリア侵入」を読んでいる横顔へ、女がいたずらの光束を送るところがあったようである。
四 ドライヴ
身体の弱いものがいちばんはっきり自分の弱さを自覚させられて不幸に感ずるのは、この頃のような好い時候の、天気の特別に好い日である。健康ならばどんなにでも仕事の能率の上がる時でありながら気分が悪くて仕事が思うように出来ず、また郊外へ散歩にでも行けばどんなに愉快であろうと思うが、少し町を歩いただけで胃の工合が悪くなってどうにも歩行に堪えられなくなる。歩かなくても電車や汽車やバスでどこまででも行けるではないかと云われるが、しかしそういう好季節の好天気の休日の交通機関に乗ってゆっくり腰をかけられるチャンスは少ないし、腰かけられたとしても、車内の混雑に起因する肉体的ならびに精神的の苦痛は、目的地の自然から得られる慰藉によって償われるかどうか疑問である。
おそらく十年の前から年々にこんな苦情を繰返していたのであるが、つい最近になってふとこの苦情を一掃するような一つの方法を発明した。発明と云っても、それは多くの人には発明でもなんでもない平凡至極なことであるが、しかし自分にとっては実に重大なる発明であり発見であったのである。
それは、外でもない。三時間か四時間だけ自動車を一台やとって、道路のいい田舎へ出かけてどこでも好きなところで車を止めて土が踏みたければ踏み、草に寝たければ寝るということである。近頃の言葉で云えばドライヴを試みることである。
自動車で田舎へ遊山に出かけるというようなことは非常な金持のすることで吾々風情の夢にも考えてはならない奢りの極みであるような気が何となしにしていた。二十年前にはたしかにそうであったにちがいないが、今ではもうそれほどでもなさそうに思われた。面倒な理窟や計算は抜きにしても少なくも病院にはいるより安いことだけはたしかである。
試みにある日曜の昼過ぎから家族四人連れで奥多摩の入口の辺までという予定で出かけた。青梅街道を志して自分で地図を見ながら、地理を知らぬ運転手を案内して進行したが、どこまで行ってもなかなか田舎らしい田舎へ出られないのに驚いた。杉並区のはずれでやっとともかくも東京を抜け出すまでが容易でなかった。この町はずれで巡査に呼止められて検査済の札を貼らされたが、一処に止められた他の車に式場へ急ぐらしい角かくしの花嫁の姿も見えたのは気の毒であった。
東京の行政区劃だけは脱け出しても東京の匂いはなかなか脱けない。それでも田無町辺からは昔の街道の面影が保存されているらしい。いくつとなく踏切番のいない鉄路を横切るのは不安である。突然路が右へ曲ると途方もない広い新道が村山瀦水池のある丘陵の南麓へ向けて一直線に走っている。無論参謀本部の五万分一地図にはないほど新しい道路である。道傍の畑で芋を掘上げている農夫に聞いて、見失った青梅への道を拾い上げることが出来た。地図をあてにする人間が地図にない道に出逢ったほど当惑することはない。頭の中の実在と眼前の実在とが矛盾するのを発見する瞬間に自分の頭に対する信用が一度に消滅するのである。皮肉なことには地図にないような道路は最近に出来た最も立派なモーターロードなのである。
東京附近の自動車道路の詳細な地図はないかと思ってこの間中探したが見付からなかった。鳥瞰図式の粗雑なものはあったが、図がはなはだしく歪められているので正確な距離や方角の見当がつかないし、またどのくらい信用出来るかも不明である。鉄道省で出来た英文のモーターロードマップがあって、これは便利であるが、あまりに簡単でその道路と他の地物との関係が不明であり、また最近のところまでアップ・ツ・デートにはなっていないらしい。やはり便利のようで不便なのが現在の世の中である。
楽々園で車を降りて入場しようとすると、向うから来る酔っぱらいの二人連れが何かしら不機嫌でいきなり出入口のターンパイクを引っこ抜いて投げ出して行った。園内の芝生は割合に気持のいいところである。芝生の真中で三、四人弁当をひろげて罎詰めの酒を酌んでいる一団がある。中年の商人風の男の中に交じった一人の若い女の紫色に膨れ上がった顔に白粉の斑になっているのが秋の日にすさまじく照らし出されていた。一段降りて河畔の運動場へ出ると、男女学生の一と群が小鳥のごとく戯れ遊んでいた。男の方がたいてい大人しくしおらしくて女の方がたいて活溌で度胸がいいのがこうした群に共通な現象のようである。神代以来の現象かもしれない。カメラを持った男のきっと交じっているのは近頃のことである。
帰りに青梅を出て間もなく二度までも巡査に呼止められて検査札を見届けられた。「ナーンダ杉並か、馬鹿に小さな札じゃないか」と云って、検査済の紙札の小さい事の責任をわれわれに負わされるのであった。二度目に「つかまった」ときの巡査は今日出会った三人の中ではいちばん柔和で愛嬌のある人であったが「いったいどこへ行くんだ」「東京です」「東京なら此方へ来ちゃダメだぞ。とんでもない処へ行っちまうぜ」と云うので、教えられたままにそこから直角に曲って南へ正しい街道を求めながら人気の稀な多摩の原野を疾走した。広大な松林の中を一直線に切開いた道路は実に愉快なちょっと日本ばなれのした車路で、これは怪我の功名意外の拾い物であった。
帰路は夕日を背負って走るので武蔵野特有の雑木林の聚落がその可能な最も美しい色彩で描き出されていた。到る処に穂芒が銀燭のごとく灯ってこの天然の画廊を点綴していた。
東京へ近よるに従って東京の匂いがだんだんに濃厚になるのがはっきり分かる。到る処の店先にはラジオの野球放送に群がる人だかりがある。市内に這入るとこれがいっそう多くなる。こうして一度にそれからそれと見て通ると、ラジオ放送のために途上で立往生している人間の数がいかに多数であるかということをはっきりとリアライズすることが出来る。実に十年前には見られなかった新しい顕著な社会現象の一つである。これが東京市内に限らず全国的であることを思うといっそう著しいことと思われて来るのである。これだけの著しい現象の直接間接の効果が日本国民全体の心理と仕事上になんらかの形で現われて来ない訳にはいかないに相違ない。その結果の善悪にかかわらず実に恐るべきことだと思われるのであった。
新宿辺で灯がつき始めたが、駒込へ帰るまで空は明るかった。夕空の下に電燈の灯った東京の見馴れた街が、どうしたのかこの時に限って実に世にも美しい、いつもとは別な街のように見えた。
このドライヴの効果は著しかった。その後二、三日は近頃にないほどに頭もからだも工合がよくて、仕事がはかどり気持が明るかった。やはり病院よりは田舎の空気が安くて利き目がよかったのである。
その後にもう一度、今度は浦和から志木野火止を経て成増板橋の方へ帰って来るという道筋を選んでみた。志村から浦和まではやはり地図にない立派な道路が真直ぐに通っている。この辺の昔のままの荒川沿いの景色がこうしたモダーンな道路をドライヴしながら見ると、昔とはまた全く別な景色に見えるから妙である。道路が魔法師の杖のように自然を変化させるのである。
志木の近くの水門で釣をしている人がある。運転手が橋の上で車を止めて通りかかった老爺に、何が釣れるかと聞いた。少し耳の遠いらしい老人は車の窓へ首を突込むようにして、「マアはやくらいだね。河が真直ぐになったからもう何も居ねえや」と云って眼をしょぼしょぼさせた。荒川改修工事がこの爺さんには何となく不平らしい。
この日は少し曇っていて、それでいて道路の土が乾き切っているので街道は塵が多く、川越街道の眺めが一体に濁っていた。
巣鴨から上野へと本郷通りを通るときに、また新しい経験をした。毎週一、二度は必ず車で通る大学前の通りが、今日はいつもとはまるでちがった別の町のように珍しく異様にそうして美しく眺められた。その事を云いだすと二人の子供も「オヤ、ほんとにそうだ」と云って同意したから、強ち自分だけの錯覚ではないらしい。田舎の景色を数十分見て来たというだけの履歴効果で、いつも見馴れた町がこんなにちがって見えるのである。
「馬鹿も一度はしてみるものだ」と云われるかもしれない。馬鹿を一遍通って来た利口と始めからの利口とはやはり別物かもしれないのである。外国の文化にかぶれたものが、もう一遍立帰って来たときに始めて日本固有の文化の善い所が新しい眼で見直されるということもあるかもしれないのである。
底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
1997(平成9)年2月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年8月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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