断片(1)
寺田寅彦



         一


 神保町じんぼうちょうから小川町おがわまちの方へ行く途中で荷馬車のまわりに人だかりがしていた。馬が倒れたのを今引起こしたところであるらしい。馬の横腹から頬の辺まで、雨上がりの泥濘がべっとりついて塗り立ての泥壁を見るようである。あらわな肋骨ろっこつの辺には皮が擦り剥けて赤い血が泥ににじんでいるところがある。馬の腹は波を打つように大きくせわしなく動いている。堪え難い苦痛があの大きな肉体の中一体に脈動しているように思われるが、物を云う事の出来ない馬は黙ってただ口を動かし唇をふるわしていた。唇からはいたましく血泡がはみ出していた。

 小川町で用を足して帰りにまたそこを通った。木材を満載したその荷馬車の車輪が道路の窪みの深い泥に喰い込んで動かなくなったのを、通行人が二人手を貸して動かそうとしていた。やっと動き出したので手をはなすと、馬士まご一人の力ではやはり一寸ちょっとも動かない。「どうかもう少し願います。後生だから……」そう云って歎願しているが、さっきの人達はもう行ってしまって、それに代る助力者も急には出て来なかった。

 馬はと見ると電柱につながれてじっとして立っていた。すぐその前に水を入れた飼葉槽かいばおけが置いてあるが、中の水は真黄色な泥水である。こんなきたない水を飲んだのだろうかと思うと厭な心持がした。馬の唇にはやはり血泡がたまっていた。

 私は平生アンチヴィヴィセクショニストなどという者に対して苦々しい感じを抱いている。また動物虐待防止という言葉からもあるあまり香ばしくない匂を感ずる。しかしこういう場合に出逢ってみるとやっぱり馬が可哀相になる。馬士も気の毒になってよさそうな訳だが、どうもこの場合馬の方に余計に心をひかれる。

 つまり馬の方は物を云わないからじゃないかと思う。


         二


 頭が悪くて仕事が出来なくなったから、絵具箱をさげて中野まで行った。

 鉄道線路脇のちょっとした雑木林の陰に草を折り敷いて、向うの丘陵に二軒つづいた赤瓦屋根を入れたスケッチを始めた。

 すぐ眼の前の道路を通行する人は多いが、一人も私の絵などのぞきに来るものはない。おそらくこの辺では私のような素人しろうと絵かきはあまりに珍しくなさ過ぎるのかもしれない。

 そのうちに一人物腰などからかなりの老人らしく思われるのがやって来て、私の右にしゃがんでしばらく黙って見ていたが、やがてこんな問答がはじまった。

「しょうべえに描くのですか、娯楽のために描くのですか。」

「養生のためにやっています。」

「肖像などは、あれはずいぶんかかるものでしょうね。」

「さあ。一時間でも二十日でも、切りはありますまいね。」

「小さいのよりも、やっぱり大きい絵の方が、何だか知らねえが、ねうちがあるような気がするね。」

「そうですかね。」

 どんな人であったか、つい一度もその人の方を振向いて見なかったから分らない。

 電車や汽車が度々すぐうしろを通った。汽車が通ると地盤のはげしく振動するのが坐っている私のからだには特にひどく感ぜられた。

 描いているうちにふいと妙な考えが浮んで来た。それは地震の波が地殻を伝播でんぱする時に、陸地を通る時と海底を通る時とでその速度に少しの相違がある、そういう事実を説明すべき一つの理論の糸口のようなものであった。

 とにかく一生懸命で絵を描いている途中でどうしてこんな考えが浮き上がって来たものか、自分でも到底分らない。

 どうも自分というものが二人居て、絵を描いている自分のところへ、ひょっくりもう一人の自分が通りかかって、ちょうどさっきの老人のように話をしかけたのだという気がする。そうだとすると、まだ自分の知らない自分がどこかを歩いていていつひょっくり出くわすか分らないような気がする。

 こんな他愛もない事を考えてみたりした。


         三


 眼をわずらって入院している人に何か適当な見舞の品はないかと考えてみた。両眼に繃帯をしているのだから、視覚に訴えるものは慰みにはならない。

 しかし例えば香の好い花などはどんなものだろうと思った。

 花屋の店先に立って色様々の美しい花を見ているうちにこんな事を考えた。

 これほど美しいものを視る事の出来ない人に、香だけ嗅がせるのはあまりに残忍な所行である。

 そう思ったので、つい花屋を通り過ぎてしまった。

(大正十一年八月『明星』)

底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店

   1997(平成9)年25日発行

入力:Nana ohbe

校正:noriko saito

2004年813日作成

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