昭和二年の二科会と美術院
寺田寅彦
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二科会(カタログ順)
有島生馬氏。 この人の色彩が私にはあまり愉快でない。いつも色と色とがけんかをしているようで不安を感じさせられる。ことしの絵も同様である。生得の柔和な人が故意に強がっているようなわざとらしさを感じる。それかと言ってルノアルふうの風景小品にもルノアルの甘みは出ていない。無気味さがある。少し色けを殺すとこの人の美しい素質が輝いて来ると思う。
ビッシエール。 この人の絵には落ち着いた渋みの奥にエロティックに近い甘さがある。ことしのは少し錆が勝っている。近ごろだいぶこの人のまねをする人があるが、外形であの味のまねはできない。できてもつまらない。
石井柏亭。 「牡丹」の絵は前景がちょっと日本画の屏風絵のようであり遠景がいつもの石井さんの風景のような気がして、少しチグハグな変な気がする。「衛戍病院」はさし絵の味が勝っている。こういう画題をさし絵でなくするのはむつかしいものであろうとは思うがなんとかそこに機微なある物が一つあるであろうとは思う。「クローデル」はよくその人が出ているところがある。私はこの画家が時々もっと気まぐれを出していろいろな「試み」をやってくれる事を常に望んでいる。
小出楢重。 この人の色は強烈でありながらちゃんとつりあいが取れていて自分のような弱虫でも圧迫を感じない。「裸女結髪」の女の躯体には古瓢のおもしろみがある。近ごろガラス絵を研究されるそうだがことしの絵にはどこかガラス絵の味が出ている。大きな裸体も美しい。
熊谷守一。 この人の小品はいつも見る人になぞをかけて困らせて喜んでいるような気がする。人を親しませないところがある。しかしある美しさはある。
黒田重太郎。 「湖畔の朝」でもその他でもなんだか騒がしくて落ち着きがなくて愉快でない。ロート張りの裸体の群れでも気のきいたところも鋭さもなくただ雑然として物足りない。もう少し落ち着いてほしい。
正宗得三郎。 この人の絵も私にはいつもなんとなく騒がしくわずらわしい感じがあって楽しめない。もう少し物事を簡潔につかんで作者が何を表現しようとしているかをわかりやすくしてほしいと思う。その人の「世界」を創造してほしい。
鍋井克之。 この人の絵はわりに好きなほうであったが、近年少しわざとらしい強がりを見せられて困っている。ことしのにはまたこの人の持ち味の自然さが復活しかけて来たようである。しかしあの大きいほうの風景のどす黒い色彩はこの人の固有のものでないと思う。小さな家のある風景がよい。
中川紀元。 いつも、もっとずっと縮めたらいいと思われる絵を、どうしてああ大きく引き延ばさなければならないかが私にはわからない。誇張の気分を少し減らすとおもしろいところもないではないが。
坂本繁次郎。 おもしろいと言えばおもしろいがそれは白日の夢のおもしろさで絵画としてのおもしろみであるかどうか私にはわからない。この人の傾向を徹底させて行くとつまりは何もかいてないカンバスの面がいちばんいい事になりはしないか。
津田青楓。 「黒きマント」は脚から足のぐあいが少し変である。そのために一種サディズムのにおいのあるエロティックな深刻味があって近代ドイツ派の好きな人には喜ばれるかもしれないが、甘みのすきな私にはこれよりももう一つの「裸婦」のほうが美しく感ぜられる。やはり鋭いものの中に柔らかい甘みがある。この絵の味は主として線から来ると思う。この人の固有の線の美しさが発揮されている。「海水着少女」は見るほうでも力こぶがはいる。職業的美術批評家の目で見ると日傘や帽子の赤が勝って画面の中心があまり高い所にあるとも言われる。これはおそらく壁面へずっと低く掲げればちょうどよくなると思う。静物も美しい。これはこの人の独歩の世界である。
山下新太郎。 この人の絵にはかつていやな絵というものを見ない。しかし興奮もさせられない。長所であり短所である。時々は世俗のいわゆる大作を見せてくださる事を切望する。
安井會太郎。 「桐の花咲くころ」はこれまでの風景に比べて黄赤色が減じて白と黒とに分化している事に気がつく。これは白日の感じを出しているものと思われる。果物やばらのバックは新しいと思う。「初夏」の人物は昨年のより柔らかみが付け加わっている。私は「苺」の静物の平淡な味を好む。少しのあぶなげもない。
横井礼市。 この人の絵はうるさいところがなくてよい。涼しい感じがある。この人の絵の態度は行きつまらない。どこまでも延びうると思う。
湯浅一郎。 巧拙にかかわらず一人の個人の歌集がおもしろいように個人画家の一代の作品の展覧はいろいろの意味で真味が深い。湯浅氏の回顧陳列もある意味で日本洋画界の歴史の側面を示すものである。これを見ると白馬会時代からの洋画界のおさらえができるような気がする。ただこの人の昔の絵と今の絵との間にある大きな谷にどういう橋がかかっているかが私にはわからない。
新しい人にもおもしろい絵があったが人と画題を忘却した。なんと言っても私には津田、安井二氏の絵を見るのが毎年の秋の楽しみの一つである。
美術院
近ごろの展覧会の日本画にはほとんど興味をなくしてしまった。すべてがただ紙の表面へたんねんに墨と絵の具をすりつけ盛り上げたものとしか感じられない。先日の朝日新聞社の大展覧会でみた雅邦でもコケオドシとしか見えなかった。春挙でも子供だましとしか思わなかった。そんな目で展覧会を見て評をするのは気の毒のような気もする。
近藤浩一路の四五点はおもしろいと思って見た。しかし用紙を一ぺんしわくちゃにして延ばしておいてかいたらしいあの技術にどれだけ眩惑された結果であるかまだよくわからない。ともかくもこの人の絵にはいつもあたまが働いているだけは確かである。頭のない空疎な絵ばかりの中ではどうしても目に立つ。
川端竜子の絵もある意味であたまは働いているが、いつも少し見当のちがったほうへ働いていはしないか。人に見せる絵と思わないで、自分で一人でしんみり楽しめるような絵をかくつもりでそのほうに頭を使ったら、ずっといい仕事のできる人だろうにと思う。
横山大観の潚湘八景はどうも魂が抜けている。塗り盆に白い砂でこしらえる盆景の感じそのままである。全部がこしらえものである。金粉を振ったのは大きな失敗でこれも展覧会意識の生み出した悪い企図である。
速水御舟の「家」の絵は見つけどころに共鳴する。しかしこれはむしろやはり油絵の題材でないか。とにかくこの人の絵はまじめであるがことしのは失敗だと思う。
富田渓仙の巻物にはいいところがあるが少し奇を弄したところと色彩の子供らしさとが目についた。
あれだけおおぜいの専門的な研究家が集まってよくもあれほどまでに無意味な反古紙のようなものをこしらえ上げうるものだという気がする。
これに反して二科会では、まだあまり名の知られてないようなたぶん若い人たちでも、中には西洋人のまねをしている人はあるとしても──ともかくも何かしら魂のはいった絵をかく人が多い。一つは材料の差異によるにしても。
最後に一個の希望として、来年あたりから二科会で日本画も募集する事にしたらおもしろいだろうと思う。ただし従来いわゆる日本画の教養を受けた人は出品の資格がないという事にして──これはコントロールがむつかしいかもしれないが──そうして新しい日本画を募集してみたらどうであろう。その結果はおそらく沈滞した日本画界に画時代的の影響を及ぼすようなものになりはしないか。そうなったら自分も一つやってみようかなどとこのようなたわいもない夢のような事を思うのもやはり美術シーズンの空気に酔わされた影響かもしれない。
勝手なことを書いて礼を失したところが多いと思う。しかし私の悪口は絵に対しての悪口である。名前をあげた限りの「人」に対しては好意と敬愛のほか何物も持っていない事をこの機会に明らかにしておきたい。悪言多罪。
底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店
1961(昭和36)年1月7日第1刷発行
初出:「霊山美術」
1927(昭和2)年11月
入力:Cyobirin
校正:浅原庸子
2005年9月21日作成
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