わかれ
国木田独歩
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わが青年の名を田宮峰二郎と呼び、かれが住む茅屋は丘の半腹にたちて美わしき庭これを囲み細き流れの北の方より走り来て庭を貫きたり。流れの岸には紅楓の類を植えそのほかの庭樹には松、桜、梅など多かり、栗樹などの雑わるは地柄なるべし、──区何町の豪商が別荘なりといえど家も古び庭もやや荒れて修繕わんともせず、主人らしき人の車その門に駐りしを見たる人まれなり、売り物なるべしとのうわさ一時は近所の人の間に高かりしもいつかこのうわさも消えて跡なく、ただ一年半ば以前よりこの年若き田宮の来たり住みつ。
年は二十を越ゆるようやく三つ四つ、背高く肉やせたり、顔だち凜々しく人柄も順良に見ゆれどいつも物案じ顔に道ゆくを、出であうこの地の人々は病める人ぞと判じいたり。さればまた別荘に独り住むもその故ぞと深くは怪しまざりき。終日家にのみ閉じこもることはまれにて朝に一度または午後に一度、時には夜に入りても四辺の野路を当てもなげに歩み、林の中に分け入りなどするがこの人の慣らいなれば人々は運動のためぞと、しかるべきことのようにうわさせり。
されどこの青年と親しく言葉かわす人なきにあらず。別荘と畑一つ隔たりて牛乳屋あり、樫の木に取り囲まれし二棟は右なるに牛七匹住み、左なるに人五人住みつ、夫婦に小供二人、一人の雇男は配達人なり。別荘へは長男の童が朝夕二度の牛乳を運べば、青年いつしかこの童と親しみ、その後は乳屋の主人とも微笑みて物語するようになりぬ。されど物語の種はさまで多からず、牛の事、牛乳の事、花客先のうわさなどに過ぎざりき。牛乳屋の物食う口は牛七匹と人五人のみのように言いしは誤謬にて、なお驢馬一頭あり、こは主人がその生国千葉よりともないしという、この家には理由ある一物なるが、主人青年に語りしところによれば千葉なる某という豪農のもとに主人使われし時、何かの手柄にて特に与えられしものの由なり。さまで美しというにあらねど童には手ごろの生き物ゆえ長の児が寵愛なおざりならず、ただかの青年にのみはその背を借すことあり。青年は童の言うがまにまにこの驢馬にまたがれど常に苦笑いせり。青年には童がこの兎馬を愛ずるにも増して愛で慈しむたくましき犬あればにや。
庭を貫く流れは門の前を通ずる路を横ぎりて直ちに林に入り、林を出ずれば土地にわかにくぼみて一軒の茅屋その屋根のみを現わし水車めぐれり、この辺りには水車場多し、されどこはいと小さき者の一つなり、水車場を離れて孫屋立ち、一抱えばかりの樫七株八株一列に並びて冬は北の風を防ぎ夏は涼しき陰もてこの屋をおおい、水車場とこの屋との間を家鶏の一群れゆききし、もし五月雨降りつづくころなど、荷物曳ける駄馬、水車場の軒先に立てば黒き水は蹄のわきを白き藁浮かべて流れ、半ば眠れる馬の鬣よりは雨滴重く滴り、その背よりは湯気立ちのぼり、家鶏は荷車の陰に隠れて羽翼振るうさまの鬱陶しげなる、かの青年は孫屋の縁先に腰かけて静かにこれらをながめそのわきに一人の老翁腕こまねきて煙管をくわえ折り折りかたみに何事をか語りあいては微笑む、すなわちこの老翁は青年が親しく物言う者の一人なり。
水車場を過ぎて間もなく橋あり、長さよりも幅のかた広く、欄の高さは腰かくるにも足らず、これを渡りてまた林の間を行けばたちまち町の中ほどに出ず、こは都にて開かるる洋画展覧会などの出品の中にてよく見受くる田舎町の一つなれば、茅屋と瓦屋と打ち雑りたる、理髪所の隣に万屋あり、万屋の隣に農家あり、農家の前には莚敷きて童と猫と仲よく遊べる、茅屋の軒先には羽虫の群れ輪をなして飛ぶが夕日に映りたる、鍛冶の鉄砧の音高く響きて夕闇に閃く火花の見事なる、雨降る日は二十ばかりの女何事をかかしましく叫びつ笑いて町の片側より片側へとゆくに傘ささず襟頸を縮め駒下駄つまだてて飛ぶごとに後ろ振り向くさまのおかしき、いずれかこの町もかかる類に漏るべき、ただ東より西へと爪先上がりの勾配ゆるく、中央をば走り流るる小川ありて水上は別荘を貫く流れと同じく、町人はみなこの小川にてさまざまのもの洗いすすげど水のやや濁れるをいとわず、流れには板橋いくつかかかりて、水際には背低き楓をところどころに植えたる、何人の思いつきにや、これいささかよそとその風情をことにせり。町の西端に寺ありてゆうべゆうべの鐘はここより響けど、鐘撞く男は六十を幾つか越えし翁なれば力足らず絶えだえの音は町の一端より一端へと、おぼつかなく漂うのみ、程近き青年が別荘へは聞こゆる時あり聞こえかぬる時も多かり。この鐘の最後の一打ちわずかに響きおわるころ夕煙巷をこめて東の林を離れし月影淡く小川の水に砕けそむれば近きわたりの騎馬隊の兵士が踵に届く長剣を左手にさげて早足に巷を上りゆく、続いて駄馬牽く馬子が鼻歌おもしろく、茶店の娘に声かけられても返事せぬがおかしく、かなたに赤児の泣き声きこゆればこなたには童が吹くラッパの音かしましく、上る兵士は月を背にし自己が影を追うて急ぎ、下る少女は月さやかに顔を照らすが面恥ゆく、かの青年が林に次ぎてこの町を愛ずるも理なきにあらず。昨日の事は忘れ明日の事を思わず、一日一日をみだらなる楽しみ、片時の慰みに暮らす人のさまにも似たりとは青年がこの町を評する言葉にぞある。青年別荘に住みてよりいつしか一年と半ばを過ぎて、その歳も秋の末となりぬ。ある日かれは朝早く起きいでて常のごとく犬を伴い家を出でたり。灰色の外套長く膝をおおい露を避くる長靴は膝に及び頭にはめりけん帽の縁広きを戴きぬ、顔の色今日はわけて蒼白く目は異しく光りて昨夜の眠り足らぬがごとし。
門を出ずる時、牛乳屋の童にあいぬ。かれは童の手より罎を受け取りて立ちながら飲み、半ば残して童に渡せば、童これを掌にうつしては犬に与う。青年の目は遠く大空のかなたに向かえり。空は雨雲ひくく漂い、木の葉半ば落ち失せし林は狭霧をこめたり。
青年は童に別れ、独り流れに沿うて林を出で、水車場の庭に入れば翁一人、物案じ顔に大空を仰ぎいたり。青年の入り来たれるを見て軽く礼なしつ、孫屋の縁先に置かれし煙草盆よりは煙真直にたちのぼれり。君が今朝の装衣はと翁まず口を開きてやや驚けるようなり。青年は言葉なく縁先に腰かけ、ややありて、明日は今の住家を立ち退くことに定めぬと青年は翁が問いには答えず、微笑みてその顔を守りぬ。そはまたいかにしてと翁はいよいよ驚けるように目をみはりたり。されどまた七日の後には再び来たりておもむろに告別せんと青年は嘆息つきて深く物を思えるさまなり、翁ははたと手を拍ち、しからばいよいよ遠く西に行きたもうこととなりしか。否、西にあらず、まず東に行かん、まずアメリカに遊ぶべし、それよりイギリスに、その後はかねて久しく望みしフランスイタリアに。これを聞きて翁の目は急に笑みをたたえ、父上もさすがにこの度は許したまいしか、まずまずめでたし、いつごろ立ちたもうや。月末なるべしと青年は答え、さればこの地もまたいつ帰り来て見んことの定め難く、また再び見ることかなうまじきやこれまた計り難ければ、今日は半日この辺りを歩みて一年と五月の間、わが慰めとなり、わが友となり、わが筆を教え、わが情を養いし林や流れや小鳥にまでも別れを告げばやとかくは装衣ちぬ、されど翁にはひとまず父の家に帰りて万事の仕度を終えし後、また来たりておもむろに別れを述べんと言いつつ青年は身を起こして庭に立ち、軽く礼して立ち去らんとす。翁はただ微笑むのみ、何の言葉もなく青年を打ちまもりつ。
青年の出で行きし後、翁は庭の中をかなたこなたと歩み、めでたしめでたしと繰り返して独言ちしが、ふと足を止め、眼を閉じ、ややありて、されど哀れの君よと深き嘆息をもらしぬ。
青年は水車場を立ち出でてそのまま街の方へと足を転しつ、節々空を打ち仰ぎたり。間もなく巷に出でぬ。
朝なお早ければ街はまだ往来少なく、朝餉の煙重く軒より軒へとたなびき、小川の末は狭霧立ちこめて紗絹のかなたより上り来る荷車の音はさびたる街に重々しき反響を起こせり。青年は橋の一にたたずみて流れの裾を見下ろしぬ。紅に染め出でし楓の葉末に凝る露は朝日を受けねど空の光を映して玉のごとし。かれは意にもなく手近の小枝を折り、真紅の葉一つを摘みて流れに落とせば、早瀬これを浮かべて流れゆくをかれは静かにながめて次の橋の陰に隠るるを待つらんごとし。
この時青年の目に入りしはかれが立てる橋に程近き楓の木陰にうずくまりて物洗いいたる女の姿なり。水に垂れし枝は女の全身を隠せどなおよくその顔より手先までを透かし見らる。横顔なれば定かに見分け難きも十八、九の少女なるべし、美しき腕は臂を現わし、心をこめて洗うは皿の類なり。
少女は青年に気づかざるように、ひたすらその洗う器を見て何事をも打ち忘れたらんごとし。幾個かの皿すでに洗いおわりて傍らに重ね、今しも洗う大皿は特に心を用うるさまに見ゆるは雪白なるに藍色の縁とりし品なり。青年が落とせし楓の葉、流れて少女の手もと近く漂いゆくを、少女見てしばし流れ去るを打ちまもりしが急に手を伸ばして摘まみ、皿にのせて傍らに置きぬ。葉は水に湿いていよいよ紅に、真白の皿に置かれしさまは画めきて見ゆ。この時青年は少女の横顔の何者にか肖たるように覚えしも思い出ださざりき。ただ耳より腮にかけし肉づきはかれの画心を惹く殊に深かりしのみ。
由なき戯れとは思いつつも、少女がかれに気づかぬを興あることに思いしか、はた真白の皿に紅の木の葉拾いのせしふるまいのみやびて見えつるか、青年はまた楓の葉を一つ摘みて水に投げたり。木の葉は少女の手もとに流れゆきぬ、少女は直ちに摘まみてまたかの大皿にのせたり。しかし今洗うは最後の品なり。
こたびは青年手に持ちし小枝をそっと水に落とせば、小枝は軽く浮かびて回転りつつ、少女の手もと近く漂いぬ。少女は直ちにこれを拾い上げて、紅の葉ごとに水の滴り落つるを見てありしがまたかの大皿にのせ、にわかに気づけるもののごとく振り向きたり。青年の目と少女の目と空に合いし時、少女はさとその面を赤らめ、しばしはためらいしが急に立ちあがりかの大皿のみを左手に持ちて道にのぼり、小走りに駆け入りしは騎馬隊の兵士が常に集まりて酒飲むこの街唯一の旗亭なり。少女は軒下にて足を停め、今一度青年の方を見たり。
今こそ思い出でぬ、今の少女の顔のよく肖たりというはわが治子なるを。げに治子の姉妹なりと言わんもわれいかでたやすく疑い得べき、ことに最初わが方を振り向きし時のまなざしは治子のと少しも違わず、かの美しき目とかくまでに相肖たる眼を持つ少女のまた世にあらんとは思わざりしに。
されどこれもまたわが心の迷いなるべきか、われ治子を恋うる心の深きがゆえなるべきか。かく思いつづけて青年が手はポケットの中なるある物を握りつめたり、その顔にはしばらく血の上るようなりしが、愚かなると言いし声は低ければ杖もて横の欄打ちし音は強く、足下なる犬は驚きて耳を立てたり。たちまち顔は常の色に復りつ、後をも見ずして静かに街をのぼり往きぬ。
犬はかれに先立ちて街を駆けのぼり早くかなたにありて青年を待てり。登りつむればここは高台の見晴らし広く大空澄み渡る日は遠方の山影鮮やかに、国境を限る山脈林の上を走りて見えつ隠れつす、冬の朝、霜寒きころ、銀の鎖の末は幽なる空に消えゆく雪の峰など、みな青年が心を夢心地に誘いかれが身うちの血わくが常なれど、今日は雲のゆきき早く空と地と一つになりしようにて森も林もおぼろにかすみ秋霧重く立ちこむる野面に立つ案山子の姿もあわれにいずこともなく響く銃の音沈みて聞こゆ。青年はしばし四辺を見渡して停止みつおりおり野路を過る人影いつしか霧深き林の奥に消えゆくなどみつめたる、もしなみなみの人ならば鬱陶しとのみ思わんも、かれは然らず、かれが今の心のさまとこの朝の景色とは似通う節あり、霧立ち迷うておぼろにかすむ森のさまは哀れに物悲し、これ恋なり。されどその幻に似て遠きかなたに浮かべるさまは年若き者の夢想を俤にして希望という神の住みたもうがごとく、青年の心これに向かいてはただ静かに波打つのみ。
林の貫きて真直に通う路あり、車もようよう通い得るほどなれば左右の梢は梢と交わり、夏は木の葉をもるる日影鮮やかに落ちて人の肩にゆらぎ、冬は落ち葉深く積みて風吹く終夜物のささやく音す。一年と五月の間にかれこの路を往来せしことを幾度ぞ。この路に入りては人にあうことまれに、おりおり野菜の類を積みし荷車ならずば馬上巻煙草をくわえて並み足に歩ませたる騎兵にあうのみ。今朝もかれはこの路を撰びてたどりぬ。路の半ばに時雨しめやかに降り来たりて間もなく過ぎ去りし後は左右の林の静けさをひとしおに覚え、かれが踏みゆく落ち葉の音のみことごとしく鳴れり。この真直なる路の急に左に折るるところに立ち木やや疎らなる林あり。青年はかねてよくこの林の奥深く分け入り、切り株などに腰かけて日の光と風の力とに変わりゆく林の趣をめで楽しみたりければ、犬もまたこの林になずみけん、今日も先に立ちて走り入りぬ。
木の葉半ば落ちて大空の透かし見らるる林を秋霧立ちこむる朝訪わばいかに心騒がしき人もわれ知らず四辺の静けさに耳そばたつるなるべし。世の巷に駆けめぐる人は目のみを鋭く働かしめて耳を用いざるものなり。衷心騒がしき時いかで外界の物音を聞き得ん。
青年の心には深き悲しみありて霧のごとくかかれり、そは静かにして重き冷霧なり。かれは木の葉一つ落ちし音にも耳傾け、林を隔てて遠く響く轍の音、風ありとも覚えぬに私語く枯れ葉の音にも耳を澄ましぬ。山鳩一羽いずこよりともなく突然程近き梢に止まりしが急にまた飛び去りぬ。かれが耳いよいよさえて四辺いよいよ静寂なり。かれは自己が心のさまをながむるように思いもて四辺を見回しぬ。始めよりかれが恋の春霞たなびく野辺のごとかるべしとは期せざりしもまたかくまでに物さびしく物悲しきありさまになりゆくべしとは青年今さらのように感じたり。
かれに恋人あり、松本治子とて、かれが二十二の時ゆくりなく相見て間もなく相思うの人となりぬ。十年互いに知りてついに路傍の石に置く露ほどの思いなく打ち過ぐるも人と人との交わりなり、今日見て今夜語り、その夜の夢に互いに行く末を契るも人と人との縁なり。治子がこの青年を恋うるに至りしは青年が治子を思うよりも早く、相思うことを互いに知りし時は互いの命は互いの心に取りかわして置かれぬ、これ相見てより一月とは経たざる間の事なり。親々はこの恋を許さざりき、その故はと問わば言葉のかずかずもて許し難き理由を説かんも、ただ相恋うるが故にこの恋は許さじとあからさまに言うの直截なるにしかず。物堅しといわるる人々はげにもと同意すべければなり。げにそのごとくなりき。かくて治子は都に近きその故郷に送り返され、青年は自ら望みて伯父なる人の別荘に独居し、悲しき苦しき一年を過ぐしたり。
青年は治子の事を思い絶たんともがきぬ、ついに思い絶ち得たりと自ら欺きぬ。自ら欺けるをかれはいつしか知りたれど、すでに一度自ら欺きし人はいかにこれを思い付くともかいなく、かえってこれを自ら誇らんとするが人の情の怪しき作用の一つなり。そこには必ず一個の言いわけあるものなり。この青年はわれに天職ありと自ら約せり。この約束を天の入れたもうや否やは問うところにあらず。
かれは文学と画とを併せ学び、これをもって世に立ち、これをもってかれ一生の事業となさんものと志しぬ、家は富み、年は若し。この望みはかれが不屈の性と天稟の才とをもってしては達し難きものにあらず。かれはこれを自信せり。一年の独居はいよいよこの自信を強め、恋の苦しみと悲しみとはこの自信と戦い、かれはついに治子を捨て、この天職に自個を捧ぐべしと自ら誓いき。後の五月はこの誓いと恋と戦えり。しかしてかれ自ら敗れ、ついに遠く欧州に走らばやと思い定めき。最初父はこれを許さざりしも急にかれの願いを入れて一日も早く出立せよと命ずるごとくに促しぬ。
昨夜治子より手紙来たり、今日午過ぎひそかに訪問れて永久の別れを告げんと申し送れり。永久の別れとは何ぞ。かれの心はかき乱されぬ。昨夜はほとんど眠らざりき。行く末のかれが大望は霧のかなたに立ちておぼろながら確かにかれの心を惹き、恋は霧のごとく大望を包みて静かにかれの眼前に立ちふさがり、かれは迷いつ、怒りつ、悲哀と激昂とにて一夜を明かせり。明けがた近くしばしまどろみしが目さめし時はかれの顔真っ蒼なりき。憂えも怒りも心の戦いもやみて、暴風一過、かれが胸には一片の秋雲凝って動かず。床にありていずこともなく凝視めし眼よりは冷ややかなる涙、両の頬をつたいて落ちぬ。『ああ恋しき治子よ』と叫びて跳ね起きたり。水車場の翁はほぼかれが上を知れるなり。
この時またもや時雨疎らに降り来たりぬ。その軽き一滴二滴に打たれて梢より落つる木の葉の風なきにひるがえるさまを青年は心ありげにながめたり。時雨の通りこせし後は林の中しばし明るくなりしが間もなくまた元の夕闇ほの暗きありさまとなり、遠方にて銃の音かすかに聞こえぬ。青年は身を起こしてしばし林の中をたどりしが、直ちに路にはいでず、路に近けれど人目に隠るる流れの傍らにいでたり。こはかれが家の庭を流れてかの街を貫くものとは異なり、遠き大川より引きし水道の類ゆえ、幅は三尺に足らねど深ければ水層多く、林を貫く辺りは一直線に走りて薄暗きかなたより現われまた薄暗き林の木陰に隠れ去るなり。村の者が野菜洗うためにとてこの流れの幅をことさらに広く掘り、小さき入り江をなせる、いつもかれが好みて訪い来るところにいで落ち葉を敷きつ、茅、野ばら、小笹の類入り乱れし藪叢を背にしてうずくまり、前には流れの音もなく走るをながめたり。
熱沙限りなきサハラを旅する隊商も時々は甘き泉わき緑の木陰涼しきオーシスに行きあいて堪え難き渇きと死ぬばかりなる疲労を癒する由あれど、人生まれ落ちての旅路にはただ一度、恋ちょう真清水をくみ得てしばしは永久の天を夢むといえども、この夢はさめやすくさむれば、またそのさびしき行程にのぼらざるを得ず、かくて小暗き墓の門に達するまで、ついに再び第二のオーシスに行きあうことなく、ただ空しく地平線下に沈みうせぬるかの真清水を懐うのみ、げにしかり、しかしてわれ今、しいて自らこのオーシスに分かれんとす、しいて自らこの夢を破らんとす。これまことにわれの堪え得べき事なるか。
恋の泉はいつもいつもわきて流れ疲れし人をまてど、この泉の潯にて行きあう年若き男女の旅人のみは幾度か幾度か代わりゆき、かつ若者に伴いし乙女初めは楽しげにこの泉をくめどたちまちその手を差しいれてこれを濁し、若者をここより追いやりつ、自己もまたあえぎあえぎその跡を逐うて苦しき熱きさびしき旅路にのぼる。わが友の上にもこの事あり、わが読みし文の中にもこの事多し。されど治子は一度われをこの泉の潯に導きしより二年に近き月日を経て今なおわれを思いわれを恋うてやまず、昨夜の手紙を読むものたれかこの清き乙女を憐まざらん。しかしてわれ今、しいて自らこの乙女を捨てて遠く走らんとす。この乙女を沙漠の真中にのこしゆかんとす。これまことにわれの忍び得ることなるか。
われ近ごろ、猛き獅子と巨蠎と、沙漠の真中にて苦闘するさまを描ける洋画を見たり。題して沙漠の悲劇というといえどもこれぞ、すなわちこの世の真相なるべきか。げにこのわれなき世こそ治子の眼にはかくも映るなるべし。しかしてわれはいかん、われはいかん。
青年は恋を想い、人の世を想い、治子を想い、沙漠を想い、ウォーシスを想い、想いは想いをつらねて環り、深き哀しみより深き悲しみへと沈み入りぬ。風の音は人の思いを遠きに導き、水の流れは人の悲哀を深きに誘う。かれが前なる流れは音もせで淀みなく走るを、初めかれ心なくながめてありしが、見よ、水上より流れ来たる木の葉を、かれはひたすらながめ入りぬ。紅の葉、黄色の葉、大小さまざまの木の葉はたちまち木陰より走りいでてまた木陰にかくれ走りつ。たちまち浮かびたちまち沈み、回転りつ、ためらいつす。かれは一つを見送りつまた一つを迎え、小なるを見失いては大なるをまてり。かれが心のはげしき戦いは昨夜にて終わり、今は荒寥たる戦後の野にも等しく、悲風惨雨ならび至り、力なく光なく望みなし。身も魂も疲れに疲れて、いつか夢現の境に入りぬ。
林あり。流れあり。梢よりは音せぬほどの風に誘われて木の葉落ち、流れはこれを浮かべて走る。青年あり、外套の襟に頸を埋め身を縮めて眠れる、その顔は蒼白し。四辺の林もしばしはこの青年に安き眠りを借さばやと、枝頭そよがず、寂として音なし。流れには紅黄大小かずかずの木の葉、たちまち来たりたちまち去り、緩やかに回転りて急に沈むあり、舟のごとく浮かびて静かに流るるあり。この時東の空、雲すこしく綻びて梢の間より薄き日の光、青年の顔に落ちぬ、青年は夢に舟を浮かべて清き流れを下りつつあり、時はまさに春の半ばなり。左右の岸は新緑の光に輝き、仰げば梢と梢との間には大空澄みて蒼く高く、林の奥は日の光届きかねたれど、木の間木の間よりもるる光はさまざまの花を染め出だし、涼しき風の枝より枝にわたるごとに青き光と黒き影は幾千万となき珠玉の入り乱れたらんごとく、岸に近き桜よりは幾千の胡蝶一時に梢を放れ、高く飛び、低く舞う。流れの淀むところは陰暗く、岩を回れば光景瞬間に変じ、河幅急に広まりぬ。底は一面の白砂に水紋落ちて綾をなし、両岸は緑野低く春草煙り、森林遠くこれを囲みたり。岸に一人の美わしき少女たたずみてこなたをながむる。そのまなざしは治子に肖てさらに気高く、手に持つ小枝をもて青年を招ぐさまはこなたに舟を寄せてわれと共に恋の泉をくみたまわずや、流れ流れていずこまでゆかんとしたもうぞ、流れの末は波荒き海なるをといえるがごとし。流れの末を打ち見やれば春霞たなびきたり。かれはしばしためらいつ、言い難き悲哀胸を衝いて起こりぬ。少女は見て、その悲哀を癒す水はここにありと、小枝を流れに浸しこなたに向かいて振れば、冷たき沫飛び来たりて青年の頬を打ちたり。春の夢破れぬ。
風起こりて木の葉あらあらしく鳴りつ、梢より落つる滴りの落ち葉をうつ音雨のごとし。かれは静かに身を起こし、しばらく流れをみつめてありしが、心はなお夢路をたどれるがごとく、まなざしは遠き物をながむるさまなり。外套のポッケットに差し入れし手先に触るる物あるをかれは堅く握りて眼を閉じつ。
この時犬高くほえしかば、急ぎて路に出で口笛鋭く吹きつつ大股に歩みて野の方に向かい、おりおり空を仰ぎては眉をひそめぬ。空は雲の脚はやく、絶え間絶え間には蒼空の高く澄めるが見ゆ。
青年は絶えずポケットの内なる物を握りしめて、四辺の光景には目もくれず、野を横ぎり家路へと急ぎぬ。ポケットの内なるは治子よりの昨夜の書状なり。短き坂道に来たりし時、下より騎兵二騎、何事をか声高に語らいつつ登りくるにあいたれどかれはほとんどこれにも気づかぬようにて路をよけ通しやりぬ。騎兵ゆき過ぎんとして、後なる馬上の、年若き人、言葉に力を入れ『……に候間至急、「至急」という二字は必ず加えざるべからず』と言うや、前なる騎兵、『無論、無論……』と答えつ、青年の耳たてし時は二騎の姿すでに木立ちにかくれて笑う声のみ高く聞こえたり。青年はさらに路をいそぎぬ。
* *
* *
──停車場の時計、六時を五分過ぎ、下りの汽車を待つ客七、八人、声立てて語るものなければ寂寥さはひとしおなり。ランプのおぼつかなき光、隈々には届きかねつ。大空晴れて星の数もよまるるばかりに、風は北よりそよぎて夕暮れの寒さに人々は身をちぢめたり。発車にはなお十分を待たざるを得ず。
この時切符を売りはじめしかば、人々みな立ちて箱の前に集まりし時、外より男女二人の客、静かに入り来たりぬ。これ松本治子と田宮峰二郎なり。青年は切符を買いて治子に渡し、二人は人々に後れてプラットフォームの方に出で、人目を避くるごとく、かなたなる暗きあたりを相並びて歩めり。治子はおりおり目にハンケチをあてて言葉なし。青年は窮みなき空高くながめ、胸さくるばかりの悲哀をおさえて、ひそめし声に力を入れ、『必ず手紙を送りたまえ、今こそわが望みは君が心なれ。』
慷慨に堪えざるもののごとく、『君を力にてわが望みは必ず遂げん。』熱き涙一滴、青年が頬をつたいしも乙女は知らず。ハンケチを口にくわえて歯をくいしばりぬ。しばし二人は言葉なく立てり。汽笛高く響きし時、青年は急ぎ乙女の手を堅く握り、言わんとして言うあたわず、乙女がわずかに『御身を大切に』と声もきれぎれに言うや『君こそ、君こそ、必ず心たしかに忍びたまえ、手紙を忘れたもうな。必ず……。』
青年はその夜、十時ごろ茅屋に帰りぬ。筆を走らして、おりおり嘆息つきつつ、
『われ君を思い断たんともがきしはげに愚かの至りなりき。われ君を思うこといよいよ深くしてわれますます自ら欺かんと企てぬ。思い断ち得てしかして得るところは何ぞ、われにも君にも永くいやし難き心の傷なるべし。しかしてわがいわゆる天職なるもの果たして全く遂げらるべきや。ああ愚かなる。げにわが血は荒れて事業事業と叫ぶ声のみぞいたずらに高く、その声の大なるに自ら欺かれてわれに限りなき力ありと思いき。』
この時、風一陣、窓に近き栗の梢を魔ありて揉みしようなる音す。青年は筆を止めて耳傾くるさまなりしが、
『わが力いずこにありや。口渇きし者の叫ぶ声を聞け、風にもまるる枯葉の音を聞け。君なくしてなお事業と叫ぶわが声はこれなり。声かれ血涸れ涙涸れてしかして成し遂ぐるわが事業こそ見物なりしに。ああされど今や君はわが力なり。あらず、君を思うわが深き深き情けこそわが将来の真の力なれ。あらず。われを思う君が深き高き清き情けこそわが将来の血なれ。この血は地の底を流るる春の泉なり。草も木も命をここに養い、花もこれより開き、実を結ぶもその甘き汁はすなわちこの泉なり。こは詩的形容にあらず、君よ今わが現に感ずるところなり。
昨夜までは、わが洋行も事業の名をかりて自ら欺く逃走なりき。かしこは墳墓なりき。今やしからず。今朝より君が来宅までわが近郊の散歩は濁水暫時地を潜りし時のごとし。こはわが荒き感情の漉されし時なり。再び噴出せし今は清き甘き泉となりぬ。われは勇みてこの行に上るべし。望みは遠し、されど光のごとく明るし。熱血、身うちに躍る、これわが健康の徴ならずや。みな君が賜なり。』
青年の眼は輝きて、その頬には血のぼりぬ。
『されば必ず永久の別れちょう言葉を口にしたもうなかれ。永久の別れとは何ぞ。人はあまりにたやすく永久の二字を口にす。恐ろし二字、厳かなる二字、人を生かし人を殺す二字。永久の望み、永久の死、人はこの両極に呼吸す。永久の死なき者に永久の別れありや。されど死という一字は人容易に近づきて深く感ずるを得ずといえども、別れの一字は人々の日々親しく感ずるがゆえに、もし人、この一字に永久の二字を加えて静かに思いきわめなばその胸さけん。君とてもしかり。これわれと永久に別れて無究に相見ず、われは北極の氷と化し君は南極の石となりて、感ぜず思わず、限りなく相見ずと思いたもうともなお忍びたもうことを得るや。愛児を失いし人は始めて死の淵の深きに驚き悲しむと言い伝う、わが知れる宗教家もしかいえり。こは誤感のみ。かれが感ずるは死にあらず、別れなり。その哀しみは死を悲しむにあらず、別れを悲しむなり。死は形のみ、別れは実なり。たれか愛と永久の別れと両立せしめ得るものぞ。千年万年億々年の別れを悲しまず、実に永久の別れを悲しむ。否、われは永久の別れを信ぜざるなり。愛の命はこの信仰のみ、われらが恋の望みは実にここにあり。否、君のみにあらず、われは一目見しかの旗亭の娘の君によく肖たると、老い先なき水車場の翁とまた牛乳屋の童と問わず、みなわれに永久の別れあるものぞとは思い忍ぶあたわず。ああ天よ地よ、すべて亡びよ。人と人とは永久に情の世界に相見ん。君よ、必ず永久の別れを軽々しく口にも筆にも上したまいそ。これ実にわれの耐うるところにあらず。君を恋うることの深きによりて、われ初めてこの深き悲哀を知り、さらに限りなきの望みと力とを得たり。運命の力は強し、君とこの世にまた相見ることなかるべきやを思うだに、この心破れんとす、いわんや永久の別れをや。』
この時、夜ふけ、遠き林をわたる風の音の幽かに聞こゆるのみ、四辺は寂として声なし。青年はしばし、夢みるごときまなざし遠く、ややありて『わが夜もふけぬ。君今は静かに休みておわさん。わが心哀し。人々みな懐かし。わけても君恋し。ああたれか永久の別れというや。否、否、否……。』
かれは掌もて顔をおおい、臂を机に立てつ、目の前には牛乳屋、水車場、小川流るる巷、林の奥、木の葉浮かびて流るるまっすぐの水道、美しき優しき治子、翁、童、驢馬に至るまで鮮やかに浮かび出でしが、たちまちみな霧に包まれて消え、夢に見し春の流れの岸に立つ気高き少女現われぬ。そは真の治子の姿とかわらざりき。
底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
1901(明治34)年3月
初出:「文芸倶楽部」
1898(明治31)年10月
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2012年7月26日作成
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