わかれ
国木田独歩



 わが青年わかものの名を田宮峰二郎たみやみねじろうと呼び、かれが住む茅屋くさやは丘の半腹にたちてうるわしき庭これを囲み細き流れの北のかたより走り来て庭を貫きたり。流れの岸には紅楓もみじたぐいを植えそのほかの庭樹には松、桜、梅など多かり、栗樹くりなどのまじわるは地柄とちがらなるべし、──区何町の豪商が別荘なりといえど家も古び庭もやや荒れて修繕つくろわんともせず、主人あるじらしき人の車その門にとまりしを見たる人まれなり、売り物なるべしとのうわさ一時は近所あたりの人の間に高かりしもいつかこのうわさも消えてあとなく、ただ一年ひととせ半ば以前よりこの年若き田宮の来たり住みつ。

 年は二十はたちを越ゆるようやく三つ四つ、背高く肉やせたり、顔だちしく人柄も順良すなおに見ゆれどいつも物案じ顔に道ゆくを、であうこの地の人々は病める人ぞと判じいたり。さればまた別荘にひとり住むもそのゆえぞと深くは怪しまざりき。終日ひねもす家にのみ閉じこもることはまれにて朝に一度または午後に一度、時には夜に入りても四辺あたり野路のみちを当てもなげに歩み、林の中に分け入りなどするがこの人の慣らいなれば人々は運動のためぞと、しかるべきことのようにうわさせり。

 されどこの青年わかものと親しく言葉かわす人なきにあらず。別荘と畑一つ隔たりて牛乳屋ちちやあり、かしの木に取り囲まれし二棟ふたむねは右なるに牛七匹住み、左なるに人五人住みつ、夫婦に小供こども二人ふたり一人ひとり雇男おとこ配達人はいたつなり。別荘へは長男かしらわらべが朝夕二度のを運べば、青年わかものいつしかこの童と親しみ、その後は乳屋ちちや主人あるじとも微笑ほほえみて物語するようになりぬ。されど物語はなしたねはさまで多からず、牛の事、の事、花客先とくいさきのうわさなどに過ぎざりき。牛乳屋ちちやの物食う口は牛七匹と人五人のみのように言いしは誤謬あやまりにて、なお驢馬ろば一頭あり、こは主人あるじがその生国ふるさと千葉よりともないしという、このには理由わけある一もつなるが、主人あるじ青年わかものに語りしところによれば千葉なるなにがしという豪農のもとに主人あるじ使われし時、何かの手柄にて特に与えられしものの由なり。さまで美しというにあらねど童には手ごろの生き物ゆえかしら寵愛ちょうあいなおざりならず、ただかの青年わかものにのみはその背を借すことあり。青年わかものは童の言うがまにまにこの驢馬にまたがれど常に苦笑いせり。青年わかものには童がこの兎馬うさぎうまずるにも増していつくしむたくましき犬あればにや。

 庭を貫く流れはかどの前を通ずるみちを横ぎりて直ちに林に入り、林をずれば土地にわかにくぼみて一軒の茅屋くさやその屋根のみを現わし水車みずぐるまめぐれり、このあたりには水車場すいしゃば多し、されどこはいと小さき者の一つなり、水車場を離れて孫屋まごや立ち、一抱ひとかかえばかりのかし七株八株一列に並びて冬は北の風を防ぎ夏は涼しき陰もてこの屋をおおい、水車場とこの屋との間を家鶏にわとりの一群れゆききし、もし五月雨さみだれ降りつづくころなど、荷物ける駄馬だば、水車場の軒先に立てば黒き水はひづめのわきを白きわら浮かべて流れ、半ば眠れる馬のたてがみよりは雨滴しずく重くしたたり、その背よりは湯気ゆげ立ちのぼり、家鶏にわとりは荷車の陰に隠れて羽翼はね振るうさまの鬱陶うっとうしげなる、かの青年わかものは孫屋の縁先に腰かけて静かにこれらをながめそのわきに一人の老翁おきな腕こまねきて煙管きせるをくわえ折り折りかたみに何事をか語りあいては微笑ほほえむ、すなわちこの老翁おきな青年わかものが親しく物言う者の一人なり。

 水車場を過ぎて間もなく橋あり、長さよりも幅のかた広く、欄の高さは腰かくるにも足らず、これを渡りてまた林の間を行けばたちまち町の中ほどにず、こは都にて開かるる洋画展覧会などの出品のうちにてよく見受くる田舎町いなかまちの一つなれば、茅屋くさや瓦屋かわらやと打ちまじりたる、理髪所とこやの隣に万屋よろずやあり、万屋の隣に農家あり、農家の前にはむしろ敷きてわらべねこと仲よく遊べる、茅屋くさやの軒先には羽虫はむしの群れ輪をなして飛ぶが夕日に映りたる、鍛冶かじ鉄砧かなしきの音高く響きて夕闇ゆうやみひらめく火花の見事なる、雨降る日は二十はたちばかりの女何事をかかしましく叫びつ笑いて町の片側より片側へとゆくにかさささず襟頸えりくびを縮め駒下駄こまげたつまだてて飛ぶごとに後ろ振り向くさまのおかしき、いずれかこの町もかかるたぐいに漏るべき、ただ東より西へと爪先上つまさきあがりの勾配こうばいゆるく、中央をば走り流るる小川ありて水上みなかみは別荘を貫く流れと同じく、町人まちびとはみなこの小川にてさまざまのもの洗いすすげど水のやや濁れるをいとわず、流れには板橋いくつかかかりて、水際みぎわには背低きかえでをところどころに植えたる、何人の思いつきにや、これいささかよそとその風情ふぜいをことにせり。町の西端にしはずれに寺ありてゆうべゆうべの鐘はここより響けど、鐘く男は六十むそじを幾つか越えしおきななれば力足らずえだえのは町の一端はしより一端はしへと、おぼつかなく漂うのみ、ほど近き青年わかものが別荘へは聞こゆる時あり聞こえかぬる時も多かり。この鐘の最後の一打ちわずかに響きおわるころ夕煙ちまたをこめて東の林を離れし月影淡く小川の水に砕けそむれば近きわたりの騎馬隊の兵士がかかとに届く長剣を左手ゆんでにさげて早足に巷を上りゆく、続いて駄馬馬子まごが鼻歌おもしろく、茶店の娘に声かけられても返事せぬがおかしく、かなたにの泣き声きこゆればこなたにはわらべが吹くラッパの音かしましく、上る兵士は月を背にし自己おのれが影を追うて急ぎ、下る少女おとめは月さやかに顔を照らすが面恥おもはゆく、かの青年わかものが林に次ぎてこの町をずるもことわりなきにあらず。昨日きのうの事は忘れ明日あすの事を思わず、一日一日をみだらなる楽しみ、片時の慰みに暮らす人のさまにも似たりとは青年わかものがこの町を評する言葉にぞある。青年わかもの別荘に住みてよりいつしか一年ひととせと半ばを過ぎて、そのとしも秋の末となりぬ。ある日かれは朝く起きいでて常のごとく犬を伴い家をでたり。灰色の外套がいとう長くひざをおおい露を避くる長靴ながぐつは膝に及びかしらにはめりけん帽のふち広きをいただきぬ、顔の色今日はわけて蒼白あおしろく目はあやしく光りて昨夜の眠り足らぬがごとし。

 門をずる時、牛乳屋ちちやわらべにあいぬ。かれは童の手よりびんを受け取りて立ちながら飲み、半ば残して童に渡せば、童これをたなごころにうつしては犬に与う。青年の目は遠く大空のかなたに向かえり。空は雨雲ひくく漂い、木の葉半ば落ちせし林は狭霧さぎりをこめたり。

 青年わかものは童に別れ、ひとり流れに沿うて林をで、水車場の庭に入ればおきな一人ひとり、物案じ顔に大空を仰ぎいたり。青年わかものの入り来たれるを見て軽くいやなしつ、孫屋の縁先に置かれし煙草盆たばこぼんよりは煙真直ますぐにたちのぼれり。君が今朝けさ装衣いでたちはと翁まず口を開きてやや驚けるようなり。青年わかものは言葉なく縁先に腰かけ、ややありて、明日あすは今の住家すみかを立ち退くことに定めぬと青年は翁が問いには答えず、微笑ほほえみてその顔を守りぬ。そはまたいかにしてと翁はいよいよ驚けるように目をみはりたり。されどまた七日の後には再び来たりておもむろに告別いとまごいせんと青年は嘆息ためいきつきて深く物を思えるさまなり、翁ははたとち、しからばいよいよ遠く西に行きたもうこととなりしか。いな、西にあらず、まず東に行かん、まずアメリカに遊ぶべし、それよりイギリスに、その後はかねて久しく望みしフランスイタリアに。これを聞きて翁の目は急にみをたたえ、父上もさすがにこのたびは許したまいしか、まずまずめでたし、いつごろ立ちたもうや。月末つきずえなるべしと青年は答え、さればこの地もまたいつ帰り来て見んことの定め難く、また再び見ることかなうまじきやこれまた計り難ければ、今日は半日このあたりを歩みて一年と五月いつつきの間、わが慰めとなり、わが友となり、わが筆を教え、わがこころを養いし林や流れや小鳥にまでも別れを告げばやとかくは装衣いでたちぬ、されど翁にはひとまず父の家に帰りて万事よろず仕度したくを終えし後、また来たりておもむろに別れを述べんと言いつつ青年は身を起こして庭に立ち、軽くいやして立ち去らんとす。翁はただ微笑ほほえむのみ、何の言葉もなく青年を打ちまもりつ。

 青年ので行きし後、翁は庭の中をかなたこなたと歩み、めでたしめでたしと繰り返して独言ひとりごちしが、ふと足を止め、まなこを閉じ、ややありて、されど哀れの君よと深き嘆息ためいきをもらしぬ。

 青年わかものは水車場を立ち出でてそのままちまたの方へと足をめぐらしつ、節々おりおり空を打ち仰ぎたり。間もなくちまたでぬ。

 朝なお早ければちまたはまだ往来ゆきき少なく、朝餉あさげの煙重く軒より軒へとたなびき、小川の末は狭霧さぎり立ちこめて紗絹うすぎぬのかなたより上り来る荷車にぐるまの音はさびたるちまたに重々しき反響を起こせり。青年は橋の一にたたずみて流れのすそを見ろしぬ。くれないに染めでしかえでの葉末にる露は朝日を受けねど空の光を映して玉のごとし。かれはこころにもなく手近の小枝を折り、真紅の葉一つを摘みて流れに落とせば、早瀬これを浮かべて流れゆくをかれは静かにながめて次の橋の陰に隠るるを待つらんごとし。

 この時青年わかものの目に入りしはかれが立てる橋にほど近き楓の木陰こかげにうずくまりて物洗いいたる女の姿なり。水にれし枝は女の全身を隠せどなおよくその顔より手先までを透かし見らる。横顔なれば定かに見分け難きも十八、九の少女おとめなるべし、美しき腕はひじを現わし、心をこめて洗うはさらたぐいなり。

 少女は青年に気づかざるように、ひたすらその洗ううつわを見て何事をも打ち忘れたらんごとし。幾個いくつかの皿すでに洗いおわりてかたわらに重ね、今しも洗う大皿は特に心を用うるさまに見ゆるは雪白せっぱくなるに藍色あいいろふちとりし品なり。青年が落とせしかえでの葉、流れて少女おとめの手もと近く漂いゆくを、少女見てしばし流れ去るを打ちまもりしが急に手を伸ばして摘まみ、皿にのせてかたわらに置きぬ。葉は水に湿うるおいていよいよくれないに、真白ましろの皿に置かれしさまはめきて見ゆ。この時青年わかものは少女の横顔の何者にかたるように覚えしも思いださざりき。ただ耳よりあごにかけし肉づきはかれの画心えごころことに深かりしのみ。

 由なき戯れとは思いつつも、少女おとめがかれに気づかぬを興あることに思いしか、はた真白の皿にくれないの葉拾いのせしふるまいのみやびて見えつるか、青年はまた楓の葉を一つ摘みて水に投げたり。木の葉は少女おとめの手もとに流れゆきぬ、少女おとめは直ちに摘まみてまたかの大皿おおざらにのせたり。しかし今洗うは最後の品なり。

 こたびは青年手に持ちし小枝をそっと水に落とせば、小枝は軽く浮かびて回転めくりつつ、少女おとめの手もと近く漂いぬ。少女は直ちにこれを拾い上げて、くれないの葉ごとに水のしたたり落つるを見てありしがまたかの大皿にのせ、にわかに気づけるもののごとく振り向きたり。青年わかものの目と少女おとめの目とそらに合いし時、少女はさとそのかおを赤らめ、しばしはためらいしが急に立ちあがりかの大皿のみを左手ゆんでに持ちて道にのぼり、小走りに駆け入りしは騎馬隊の兵士が常に集まりて酒飲むこのちまた唯一ゆいつの旗亭なり。少女は軒下にて足をとどめ、今一度青年の方を見たり。

 今こそ思いでぬ、今の少女の顔のよくたりというはわが治子はるこなるを。げに治子の姉妹はらからなりと言わんもわれいかでたやすく疑いべき、ことに最初わが方を振り向きし時のまなざしは治子のと少しもたがわず、かの美しき目とかくまでに相たるまなこを持つ少女おとめのまた世にあらんとは思わざりしに。

 されどこれもまたわが心の迷いなるべきか、われ治子を恋うる心の深きがゆえなるべきか。かく思いつづけて青年わかものが手はポケットの中なるある物を握りつめたり、その顔にはしばらく血ののぼるようなりしが、愚かなると言いし声は低ければつえもて横の欄打ちし音は強く、足下あしもとなる犬は驚きて耳を立てたり。たちまち顔は常の色にかえりつ、あとをも見ずして静かにちまたをのぼりきぬ。

 犬はかれに先立ちてちまたを駆けのぼり早くかなたにありて青年わかものを待てり。登りつむればここは高台の見晴らし広く大空澄み渡る日は遠方おちかた山影さんえいあざやかに、国境くにざかいを限る山脈林の上を走りて見えつ隠れつす、冬の朝、霜寒きころ、しろかねの鎖の末はかすかなる空に消えゆく雪の峰など、みな青年わかものが心を夢心地ゆめごこちに誘いかれが身うちの血わくが常なれど、今日きょうは雲のゆきき早く空と地と一つになりしようにて森も林もおぼろにかすみ秋霧重く立ちこむる野面のづらに立つ案山子かがしの姿もあわれにいずこともなく響くつつの音沈みて聞こゆ。青年はしばし四辺あたりを見渡して停止たたずみつおりおり野路のみちよぎる人影いつしか霧深き林の奥に消えゆくなどみつめたる、もしなみなみの人ならば鬱陶うっとうしとのみ思わんも、かれはしからず、かれが今の心のさまとこの朝の景色けしきとは似通うふしあり、霧立ち迷うておぼろにかすむ森のさまは哀れに物悲し、これ恋なり。されどその幻に似て遠きかなたに浮かべるさまは年若き者の夢想をおもかげにして希望のぞみという神の住みたもうがごとく、青年わかものの心これに向かいてはただ静かに波打つのみ。

 林の貫きて真直ますぐに通う路あり、車もようよう通いるほどなれば左右のこずえは梢と交わり、夏はの葉をもるる日影鮮やかに落ちて人の肩にゆらぎ、冬は落ち葉深く積みて風吹く終夜よすがら物のささやく音す。一年ひととせ五月いつつきの間にかれこの路を往来ゆききせしことを幾たびぞ。この路に入りては人にあうことまれに、おりおり野菜のたぐいを積みし荷車ならずば馬上巻煙草まきたばこをくわえて並み足に歩ませたる騎兵にあうのみ。今朝けさもかれはこの路をえらびてたどりぬ。路の半ばに時雨しぐれしめやかに降り来たりて間もなく過ぎ去りしのち左右そうの林の静けさをひとしおに覚え、かれが踏みゆく落ち葉の音のみことごとしく鳴れり。この真直ますぐなる路の急に左に折るるところに立ち木ややまばらなる林あり。青年わかものはかねてよくこの林の奥深く分け入り、切り株などに腰かけて日の光と風の力とに変わりゆく林の趣をめで楽しみたりければ、犬もまたこの林になずみけん、今日も先に立ちて走り入りぬ。

 木の葉半ば落ちて大空の透かし見らるる林を秋霧立ちこむる朝わばいかに心騒がしき人もわれ知らず四辺あたりの静けさに耳そばたつるなるべし。世のちまたに駆けめぐる人は目のみを鋭く働かしめて耳を用いざるものなり。衷心うち騒がしき時いかで外界そとの物音を聞き得ん。

 青年の心には深き悲しみありて霧のごとくかかれり、そは静かにして重き冷霧なり。かれは木の葉一つ落ちし音にも耳傾け、林を隔てて遠く響くわだちの音、風ありとも覚えぬに私語ささやく枯れ葉の音にも耳を澄ましぬ。山鳩やまばと一羽いずこよりともなく突然ほど近きこずえに止まりしが急にまた飛び去りぬ。かれが耳いよいよさえて四辺あたりいよいよ静寂しずかなり。かれは自己おのが心のさまをながむるように思いもて四辺あたりを見回しぬ。始めよりかれが恋の春霞はるがすみたなびく野のごとかるべしとは期せざりしもまたかくまでに物さびしく物悲しきありさまになりゆくべしとは青年わかもの今さらのように感じたり。

 かれに恋人あり、松本治子はることて、かれが二十二の時ゆくりなく相見て間もなく相思うの人となりぬ。十年互いに知りてついに路傍の石に置く露ほどの思いなく打ち過ぐるも人と人との交わりなり、今日きょう見て今夜こよい語り、その夜の夢に互いに行く末を契るも人と人との縁なり。治子がこの青年を恋うるに至りしは青年わかものが治子を思うよりも早く、相思うことを互いに知りし時は互いの命は互いの心に取りかわして置かれぬ、これ相見てより一月ひとつきとはたざる間の事なり。親々おやおやはこの恋を許さざりき、そのゆえはと問わば言葉のかずかずもて許し難き理由いわれを説かんも、ただ相恋うるが故にこの恋は許さじとあからさまに言うの直截ちょくせつなるにしかず。物堅しといわるる人々はげにもと同意すべければなり。げにそのごとくなりき。かくて治子は都に近きその故郷ふるさとに送り返され、青年わかものは自ら望みて伯父おじなる人の別荘に独居し、悲しき苦しき一年ひととせを過ぐしたり。

 青年わかものは治子の事を思い絶たんともがきぬ、ついに思い絶ち得たりと自ら欺きぬ。自ら欺けるをかれはいつしか知りたれど、すでに一度自ら欺きし人はいかにこれを思い付くともかいなく、かえってこれを自ら誇らんとするが人のこころの怪しき作用はたらきの一つなり。そこには必ず一個ひとつの言いわけあるものなり。この青年わかものはわれに天職ありと自ら約せり。この約束を天の入れたもうや否やは問うところにあらず。

 かれは文学と画とをあわせ学び、これをもって世に立ち、これをもってかれ一せいの事業となさんものと志しぬ、家は富み、年は若し。この望みはかれが不屈の性と天稟てんりんの才とをもってしては達し難きものにあらず。かれはこれを自信せり。一年ひととせの独居はいよいよこの自信を強め、恋の苦しみと悲しみとはこの自信と戦い、かれはついに治子を捨て、この天職に自個をささぐべしと自ら誓いき。後の五月いつつきはこの誓いと恋と戦えり。しかしてかれ自ら敗れ、ついに遠く欧州に走らばやと思い定めき。最初父はこれを許さざりしも急にかれの願いを入れて一日も早く出立しゅったつせよと命ずるごとくに促しぬ。

 昨夜治子より手紙来たり、今日ひる過ぎひそかに訪問おとずれて永久とこしえの別れを告げんと申し送れり。永久とこしえの別れとは何ぞ。かれの心はかき乱されぬ。昨夜はほとんど眠らざりき。行く末のかれが大望たいもうは霧のかなたに立ちておぼろながら確かにかれの心をき、恋は霧のごとく大望を包みて静かにかれの眼前めのまえに立ちふさがり、かれは迷いつ、怒りつ、悲哀かなしみ激昂げっこうとにて一夜ひとよを明かせり。明けがた近くしばしまどろみしが目さめし時はかれの顔さおなりき。憂えも怒りも心の戦いもやみて、暴風一過、かれが胸には一片の秋雲凝って動かず。床にありていずこともなく凝視みつめしまなこよりは冷ややかなるなみだ、両のほおをつたいて落ちぬ。『ああ恋しき治子よ』と叫びてね起きたり。水車場のおきなはほぼかれが上を知れるなり。

 この時またもや時雨しぐれまばらに降り来たりぬ。その軽き一滴二滴に打たれてこずえより落つる木の葉の風なきにひるがえるさまを青年わかものは心ありげにながめたり。時雨しぐれの通りこせし後は林のうちしばし明るくなりしが間もなくまた元の夕闇ゆうやみほの暗きありさまとなり、遠方おちかたにてつつの音かすかに聞こえぬ。青年わかものは身を起こしてしばし林のうちをたどりしが、直ちにみちにはいでず、路に近けれど人目に隠るる流れのかたわらにいでたり。こはかれが家の庭を流れてかのちまたを貫くものとは異なり、遠き大川より引きし水道のたぐいゆえ、幅は三尺に足らねど深ければ水層みずかさ多く、林を貫くあたりは一直線に走りて薄暗きかなたより現われまた薄暗き林の木陰こかげに隠れ去るなり。村の者が野菜洗うためにとてこの流れの幅をことさらに広く掘り、小さき入り江をなせる、いつもかれが好みてい来るところにいで落ち葉を敷きつ、ちがや、野ばら、小笹おざさたぐい入り乱れし藪叢やぶを背にしてうずくまり、前には流れの音もなく走るをながめたり。

 熱沙ねっしゃ限りなきサハラを旅する隊商も時々は甘き泉わき緑の木陰涼しきオーシスに行きあいてえ難きかわきと死ぬばかりなる疲労つかれいやする由あれど、人生まれ落ちての旅路たびじにはただ一度、恋ちょう真清水ましみずをくみ得てしばしは永久とこしえの天を夢むといえども、この夢はさめやすくさむれば、またそのさびしき行程みちにのぼらざるを得ず、かくて小暗おぐらき墓の門に達するまで、ついに再び第二のオーシスに行きあうことなく、ただむなしく地平線下に沈みうせぬるかの真清水ましみずおもうのみ、げにしかり、しかしてわれ今、しいて自らこのオーシスに分かれんとす、しいて自らこの夢を破らんとす。これまことにわれの堪えべき事なるか。

 恋の泉はいつもいつもわきて流れ疲れし人をまてど、この泉のほとりにて行きあう年若き男女の旅人のみは幾度か幾度か代わりゆき、かつ若者に伴いし乙女おとめ初めは楽しげにこの泉をくめどたちまちその手を差しいれてこれを濁し、若者をここより追いやりつ、自己おのれもまたあえぎあえぎその跡をうて苦しき熱きさびしき旅路にのぼる。わが友の上にもこの事あり、わが読みしふみうちにもこの事多し。されど治子は一度われをこの泉のほとりに導きしより二年ふたとせに近き月日を経て今なおわれを思いわれを恋うてやまず、昨夜の手紙を読むものたれかこの清き乙女おとめあわれまざらん。しかしてわれ今、しいて自らこの乙女を捨てて遠く走らんとす。この乙女を沙漠さばく真中まなかにのこしゆかんとす。これまことにわれの忍び得ることなるか。

 われ近ごろ、たけ巨蠎おろちと、沙漠の真中まなかにて苦闘するさまを描ける洋画を見たり。題して沙漠の悲劇というといえどもこれぞ、すなわちこの世の真相なるべきか。げにこのわれなき世こそ治子のまなこにはかくも映るなるべし。しかしてわれはいかん、われはいかん。

 青年わかものは恋をおもい、人の世を想い、治子を想い、沙漠を想い、ウォーシスを想い、想いは想いをつらねてまわり、深きかなしみより深き悲しみへと沈み入りぬ。風の音は人の思いを遠きに導き、水の流れは人の悲哀かなしみを深きにいざなう。かれが前なる流れは音もせでよどみなく走るを、初めかれ心なくながめてありしが、見よ、水上みなかみより流れ来たる木の葉を、かれはひたすらながめ入りぬ。紅の葉、黄色の葉、大小さまざまの木の葉はたちまち木陰こかげより走りいでてまた木陰にかくれ走りつ。たちまち浮かびたちまち沈み、回転めぐりつ、ためらいつす。かれは一つを見送りつまた一つを迎え、小なるを見失いては大なるをまてり。かれが心のはげしき戦いは昨夜にて終わり、今は荒寥こうりょうたる戦後の野にも等しく、悲風惨雨さんうならび至り、力なく光なく望みなし。身もたまも疲れに疲れて、いつか夢現ゆめうつつの境に入りぬ。

 林あり。流れあり。こずえよりは音せぬほどの風に誘われて木の葉落ち、流れはこれを浮かべて走る。青年わかものあり、外套がいとうえりくびうずめ身を縮めて眠れる、その顔は蒼白あおじろし。四辺あたりの林もしばしはこの青年に安き眠りを借さばやと、枝頭しとうそよがず、せきとして音なし。流れには紅黄こうこう大小かずかずの木の葉、たちまち来たりたちまち去り、ゆるやかに回転めぐりて急に沈むあり、舟のごとく浮かびて静かに流るるあり。この時東の空、雲すこしくほころびて梢の間より薄き日の光、青年の顔に落ちぬ、青年は夢に舟を浮かべて清き流れを下りつつあり、時はまさに春の半ばなり。左右の岸は新緑の光に輝き、仰げば梢と梢との間には大空澄みて蒼く高く、林の奥は日の光届きかねたれど、木の間よりもるる光はさまざまの花を染めだし、涼しき風の枝より枝にわたるごとに青き光と黒き影は幾千万となき珠玉の入り乱れたらんごとく、岸に近き桜よりは幾千すうせん胡蝶こちょう一時に梢を放れ、高く飛び、低く舞う。流れの淀むところは陰暗く、岩をめぐれば光景瞬間に変じ、河幅かわはば急に広まりぬ。底は一面の白砂はくさに水紋落ちてあやをなし、両岸は緑野低く春草しゅんそう煙り、森林遠くこれを囲みたり。岸に一人ひとりうるわしき少女おとめたたずみてこなたをながむる。そのまなざしは治子にてさらに気高けだかく、手に持つ小枝をもて青年をまねぐさまはこなたに舟を寄せてわれと共に恋の泉をくみたまわずや、流れ流れていずこまでゆかんとしたもうぞ、流れの末は波荒き海なるをといえるがごとし。流れの末を打ち見やれば春霞はるがすみたなびきたり。かれはしばしためらいつ、言い難き悲哀かなしみ胸をいて起こりぬ。少女おとめは見て、その悲哀をいやす水はここにありと、小枝を流れに浸しこなたに向かいて振れば、冷たきしぶき飛び来たりて青年のほおを打ちたり。春の夢破れぬ。

 風起こりて木の葉あらあらしく鳴りつ、こずえより落つるしたたりの落ち葉をうつ音雨のごとし。かれは静かに身を起こし、しばらく流れをみつめてありしが、心はなお夢路ゆめじをたどれるがごとく、まなざしは遠き物をながむるさまなり。外套がいとうのポッケットに差し入れし手先に触るる物あるをかれは堅く握りてまなこを閉じつ。

 この時犬高くほえしかば、急ぎて路にで口笛鋭く吹きつつ大股おおまたに歩みて野のかたに向かい、おりおり空を仰ぎてはまゆをひそめぬ。空は雲のあしはやく、絶え間絶え間には蒼空あおぞらの高く澄めるが見ゆ。

 青年は絶えずポケットの内なる物を握りしめて、四辺あたりの光景には目もくれず、野を横ぎり家路いえじへと急ぎぬ。ポケットの内なるは治子よりの昨夜の書状てがみなり。短き坂道に来たりし時、下より騎兵二騎、何事をか声高に語らいつつ登りくるにあいたれどかれはほとんどこれにも気づかぬようにて路をよけ通しやりぬ。騎兵ゆき過ぎんとして、あとなる馬上の、年若き人、言葉に力を入れ『……に候間そろあいだ至急、「至急」という二字は必ず加えざるべからず』と言うや、前なる騎兵、『無論、無論……』と答えつ、青年わかものの耳たてし時は二騎の姿すでに木立ちにかくれて笑う声のみ高く聞こえたり。青年はさらに路をいそぎぬ。

       *          *

            *          *

 ──停車の時計、六時を五分過ぎ、下りの汽車を待つ客七、八人、声立てて語るものなければ寂寥さびしさはひとしおなり。ランプのおぼつかなき光、隈々くまぐまには届きかねつ。大空晴れて星の数もよまるるばかりに、風は北よりそよぎて夕暮れの寒さに人々は身をちぢめたり。発車にはなお十分を待たざるを得ず。

 この時切符を売りはじめしかば、人々みな立ちて箱の前に集まりし時、ほかより男女なんにょ二人ふたりの客、静かに入り来たりぬ。これ松本治子と田宮峰二郎なり。青年は切符を買いて治子に渡し、二人は人々におくれてプラットフォームのかたで、人目を避くるごとく、かなたなる暗きあたりを相並びて歩めり。治子はおりおり目にハンケチをあてて言葉なし。青年はきわみなき空高くながめ、胸さくるばかりの悲哀かなしみをおさえて、ひそめし声に力を入れ、『必ず手紙を送りたまえ、今こそわが望みは君が心なれ。』

 慷慨こうがいえざるもののごとく、『君を力にてわが望みは必ず遂げん。』熱き涙一滴、青年がほおをつたいしも乙女おとめは知らず。ハンケチを口にくわえて歯をくいしばりぬ。しばし二人は言葉なく立てり。汽笛高く響きし時、青年は急ぎ乙女の手を堅く握り、言わんとして言うあたわず、乙女がわずかに『御身おんみを大切に』と声もきれぎれに言うや『君こそ、君こそ、必ず心たしかに忍びたまえ、手紙を忘れたもうな。必ず……。』

 青年はその夜、十時ごろ茅屋くさやに帰りぬ。筆を走らして、おりおり嘆息ためいきつきつつ、

『われ君を思い断たんともがきしはげに愚かの至りなりき。われ君を思うこといよいよ深くしてわれますます自ら欺かんと企てぬ。思い断ち得てしかして得るところは何ぞ、われにも君にもながくいやし難き心の傷なるべし。しかしてわがいわゆる天職なるもの果たして全く遂げらるべきや。ああ愚かなる。げにわが血は荒れて事業事業と叫ぶ声のみぞいたずらに高く、その声の大なるに自ら欺かれてわれに限りなき力ありと思いき。』

 この時、風一陣、窓に近きくりこずえものありてみしようなる音す。青年は筆を止めて耳傾くるさまなりしが、

『わが力いずこにありや。口かわきし者の叫ぶ声を聞け、風にもまるる枯葉こようの音を聞け。君なくしてなお事業と叫ぶわが声はこれなり。声かれ血なみだ涸れてしかして成し遂ぐるわが事業こそ見物みものなりしに。ああされど今や君はわが力なり。あらず、君を思うわが深き深き情けこそわが将来ゆくすえまことの力なれ。あらず。われを思う君が深き高き清き情けこそわが将来ゆくすえの血なれ。この血は地の底を流るる春の泉なり。草も木も命をここに養い、花もこれより開き、実を結ぶもその甘き汁はすなわちこの泉なり。こは詩的形容にあらず、君よ今わが現に感ずるところなり。

 昨夜までは、わが洋行も事業の名をかりて自ら欺く逃走なりき。かしこは墳墓なりき。今やしからず。今朝けさより君が来宅までわが近郊の散歩は濁水暫時地をくぐりし時のごとし。こはわが荒き感情のされし時なり。再び噴出せし今は清き甘き泉となりぬ。われは勇みてこの行に上るべし。望みは遠し、されど光のごとく明るし。熱血、身うちにおどる、これわが健康のしるしならずや。みな君がたまものなり。』

 青年のまなこは輝きて、そのほおには血のぼりぬ。

『されば必ず永久とこしえの別れちょう言葉を口にしたもうなかれ。永久の別れとは何ぞ。人はあまりにたやすく永久とこしえの二字を口にす。恐ろし二字、おごそかなる二字、人を生かし人を殺す二字。永久の望み、永久の死、人はこの両極に呼吸す。永久の死なき者に永久の別れありや。されど死という一字は人容易に近づきて深く感ずるを得ずといえども、別れの一字は人々の日々親しく感ずるがゆえに、もし人、この一字に永久の二字を加えて静かに思いきわめなばその胸さけん。君とてもしかり。これわれと永久とこしえに別れて無究に相見ず、われは北極の氷と化し君は南極の石となりて、感ぜず思わず、限りなく相見ずと思いたもうともなお忍びたもうことを得るや。愛児を失いし人は始めて死のふちの深きに驚き悲しむと言い伝う、わが知れる宗教家もしかいえり。こは誤感のみ。かれが感ずるは死にあらず、別れなり。そのかなしみは死を悲しむにあらず、別れを悲しむなり。死は形のみ、別れはじつなり。たれか愛と永久とこしえの別れと両立せしめ得るものぞ。千年万年億々年の別れを悲しまず、実に永久とこしえの別れを悲しむ。否、われは永久とこしえの別れを信ぜざるなり。愛の命はこの信仰のみ、われらが恋の望みは実にここにあり。否、君のみにあらず、われは一目見しかの旗亭きていの娘の君によくたると、老い先なき水車場のおきなとまた牛乳屋ちちやわらべと問わず、みなわれに永久とこしえの別れあるものぞとは思い忍ぶあたわず。ああ天よ地よ、すべてほろびよ。人と人とは永久とこしえに情の世界に相見ん。君よ、必ず永久とこしえの別れを軽々かろがろしく口にも筆にものぼしたまいそ。これ実にわれの耐うるところにあらず。君を恋うることの深きによりて、われ初めてこの深き悲哀を知り、さらに限りなきの望みと力とを得たり。運命の力は強し、君とこの世にまた相見ることなかるべきやを思うだに、この心破れんとす、いわんや永久とこしえの別れをや。』

 この時、夜ふけ、遠き林をわたる風の音のかすかに聞こゆるのみ、四辺あたりせきとして声なし。青年はしばし、夢みるごときまなざし遠く、ややありて『わが夜もふけぬ。君今は静かに休みておわさん。わが心かなし。人々みななつかし。わけても君恋し。ああたれか永久とこしえの別れというや。否、否、否……。』

 かれはたなごころもて顔をおおい、ひじを机に立てつ、目の前には牛乳屋ちちや、水車場、小川流るるちまた、林の奥、の葉浮かびて流るるまっすぐの水道、美しき優しき治子、おきなわらべ驢馬ろばに至るまであざやかに浮かびでしが、たちまちみな霧に包まれて消え、夢に見し春の流れの岸に立つ気高けだか少女おとめ現われぬ。そはまことの治子の姿とかわらざりき。

(明治三十一年十月作)

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店

   1939(昭和14)年215日第1刷発行

   1972(昭和47)年816日第37刷改版発行

   2002(平成14)年45日第77刷発行

底本の親本:「武蔵野」民友社

   1901(明治34)年3

初出:「文芸倶楽部」

   1898(明治31)年10

入力:土屋隆

校正:門田裕志

2012年726日作成

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