下町
林芙美子



 風が冷いので、りよは陽の当たる側を選んで歩いた。なるべく小さい家を目的にして歩く。昼頃だつたので、一杯の茶にありつける家を探した。軒づたひに、工事場のやうな板塀を曲つて、銹びた鉄材の積み重ねてある奥をのぞくと、硝子戸の中で、ぱちぱちと火の弾ぜてゐる小舎があつた。後から自転車で来た男が、片足を地へつけて「葛飾の区役所はどこだね?」と訊いた。りよは知らなかつたので、「私も、通りすがりのもので知りませんね」と云ふと、自転車の男は小舎の方へ行つて、大きい声で区役所はどこだらうと聞いてゐる。硝子戸を開けて、鉢巻をした職人風な男が顔を出した。「四ツ木の通りへ出て、新道をまつすぐ駅の方へ行けば判るよ」と教へた。りよは、鉢巻の男の様子が、人柄のいゝ人物のやうに思へたので、自転車をやりすごしてから、おそるおそるそばへ行つて、「静岡のお茶はいりませんでせうか……」と小さい声で聞いてみた。暗い土間では、七輪に薪を燃やして、鉄棒の渡しをかけた上に大きいやかんが乗つかつてゐた。「お茶?」「はい、静岡のお茶なンですけどねえ……」りよは、微笑しながら、さつさとリュックを降ろしかけた。鉢巻の男は何も云はないで、土間の腰掛に行つた。りよは、勢よく燃える火に、ほんのしばらくでもあたらせて貰ひたかつたので、「随分、歩いたンですけど、とつても寒くて……少し、あたらせて下さいませんでせうか?」とおづおづと云つてみた。「あゝいゝとも、そこンとこ閉めて、あたつて行きな」男は股の中へ小さい腰掛をはさみかけてゐたが、その腰掛をりよの方へやつて、自分はぐらぐらする荷箱の方へ腰をかけた。

 りよはリュックを土間の片隅に降ろして、遠慮さうに蹲踞しやがんで、火のそばへ手をかざすと、「その腰掛へかけなよ」男は顎でしやくるやうに云つて、炎の向うにほてつてゐるりよを見た。なりふりかまはないかつかうではあつたが、案外色白い器量のいゝ女であつたので、「お前さん、行商に歩いてゐるのかい?」と訊いた。

 やかんの湯がちいんと鳴り出した。

 煤けた天井に、いやに大きい神棚がとりつけてあつて、青々としたさかきが供へてある。窓の下には黒板がぶらさげてあり、穴だらけのゴム長が一足、壁ぎはに置いてある。「この辺がいゝつて聞いたものですから、今朝早く来たンですけどね、一軒きりしか商売がなくて、もう、帰らうかと思つたンですけど、どこかで弁当でもつかはせて貰つて、と思ひましてね、そンなところを探して歩いてゐたンです……」「弁当はこゝでつかつて行けばいゝさ……商売つてものは、その日の運不運でね、もう少し、家のこんでるところでもまはれば、案外、またいゝ商売もあるかもしンねえよ」男は、歪んだ本箱のやうな棚から、黄いろくべとついた新聞包みを出して鮭の切身を出すと、やかんをおろして鉄棒の渡しへ乗せた。香ばしい匂ひがした。「さア、その腰掛へかけて、ゆつくり弁当をつかつたらどうだね……」りよは立つて、リュックから弁当箱の風呂敷包みを出して、腰をかけた。「何の商売も楽ぢやアねえな、静岡の茶つて云ふのは、百匁いくら位するンだい?」男は手で鮭をひつくり返した。「売りは百二三十円つてとこなンですけど、屑も出ますし、高くしちやア仲々売れませンしね……」「さうさなア、年寄りでもゐる家なら買ふだらうが、若いもンの家ぢやあ、仲々骨だらう」りよは弁当を開いた。まつくろい麦飯に、頬差しの焼いたのが二尾と、味噌漬がはいつてゐる。「何かえ、お前さんの家はどこだえ?」「下谷の稲荷町なンですけどね、まだ東京へ来ましたばかりで、西も東も判らないンです」「ほう、間借りでもしてるンかい?」「いゝえ、一寸、身をよせてるところなンです……」男は汚れた毛糸の袋から、大きいアルマイトの弁当箱を出して蓋をとつた。薯飯がぎしつと押しつぶれる程詰めこんであつた。蓋の上に、焼けた鮭を手でつかんで入れると、またやかんをかけて、小さい木裂こつぱを七輪につつこんだ。りよは、弁当の食べさしを腰掛に置いて、リュックから商売物の茶袋を引き出して、鼻紙に少し取りわけると、「これ、やかんに入れてかまひませんか?」と、尋ねた。男は恐縮したやうに手を振つて、「高いものをいゝのかね」と、にこつと笑つた。大きい皓い歯が若々しく見えた。りよはやかんの蓋をつまみあげて、茶をさつと湯気の中へ放つた。

 ぐらぐらと茶は煮えたつて来た。男は棚から湯呑みと、汚れたコップを出して壁ぎはの新しい荷箱の上に置いた。「お前さん、旦那は何してるンだい?」男はさう云つて、鮭を半分手でむしつて、りよの飯の上に差し出した。りよはとまどひしながら、有難く鮭を貰つた。「主人はシベリアにゐるんですけど、まだ、戻つて来ませんので、こンな事でもしなくちや食べてゆけないンですわ」男は吃驚したやうに顔を挙げて、「ほう、旦那はシベリアのどこにゐるンだね?」と訊いた。


 バイカルのスウチンと云ふところから、音信があつて、秋がすぎ、また今年の冬をやつと越した。りよは、毎朝眼が覚めて気が滅入ることも習慣になつてしまつてゐる。あまりに距離がありすぎるために、何の実感もないのだけれども、もう、その実感のないと云ふ事にもいまでは慣れて来てゐた。異国の丘と云ふ歌が流行してゐると云ふので、留吉に歌つて貰つたが、その歌を聴いてゐるうちに、りよは侘しくなつて来るのだ。自分の周囲にだけは、まだ、戦争気分が残つてゐるやうに思へた。遠ざかつて行く記憶のもやの中に、自分のところだけが、平和な色あひから取り残されてゐるやうなのだ。神様なンてあるものぢやないわ。りよは口癖のやうに云つてゐた。暑い季節には、毎日が焦々と待ちこがれてやりきれなくなり、少しづつその暑熱の気候があせてゆくと、冬の来るのが責められるやうに淋しかつた。人間の辛抱強さにも限度があるとりよは独りで怒つてゐた。シベリアで四度も冬を迎へる隆次のおもかげが、まるで幽霊のやうに段々痩せ細つて考へられて来る。

 六年間と云ふもの、隆次が出征してからは、りよは飛び立つ思ひの幸福は一度もなかつた。歳月の速度は、りよの生活の外側で、何の感興もなく流れてゐるのだ。いまでは、誰も戦争の事は云はなくなり、たまに、良人はまだシベリアですと人に云ふと、その人は、まるで、使ひに行つたものが戻らないやうな気軽な同情しかよせてはくれない。シベリアと云ふところが、どんなところかは判らないけれども、りよには広い雪の沙漠のやうなところにしか空想出来ないのだ。

「バイカルのそばのスウチンと云ふところださうですけど、まだ戻れないンです……」「自分もシベリアからの引揚げでね、黒竜江に近いムルチで、二年ほどばつさいをやらされたンだがね。──人間、何でも運不運でね、旦那もそりやア大変だが、待つてるお前さんも大変な事だなア……」鉢巻を取つて、その男は、鉢巻の手拭で湯呑みとコップを拭いて煮えたぎる茶をついだ。「まア! 貴方も復員のかたなンですか? でも、よく丈夫で、戻つて来られましたンですね?」「どうやら死にもせンで、日本へ戻れたと云ふもンさ……」りよは弁当箱をしまひながら、つくづくと男の顔を見た。平凡の男のやうに感じられるだけに、りよは気安く話が出来、居心地がよかつた。「子供さんあるのかね?」「えゝ、八ツになる男の子がありますけれど、いま、転入とか、学校の事でごたついてをりますンですよ。配給の手続きが遅れてゐるものですから、その手続きからしなくちやならないし、子供は学校へも上れない始末で、全く、商売で忙しいところへ、毎日手続きの事で区役所へまはつてへとへとなンです」

 男はコップを取つて、熱い茶をふうふう吹きながら飲んでゐる。「美味い茶だね」「あら、さうですか? もつといゝ茶があるンですけど、これは二番茶で、原価は一貫で八百円位なンです。──でも、案外美味いつてお客様はおつしやいますわ」りよも湯呑みを両の手に取つて熱い茶を吹きながら飲んだ。

 いつか風向きが変つて、西風が強く吹きつけて、トタン屋根をびよびよ鳴らしてゐた。りよは外へ出るのが心細い気がして、少しでも火のそばにゐたい気がした。「二百匁ほど買つとくかな……」男はさう云つて、仕事着のポケットから三百円出した。「あら、お買ひにならなくても、私、二百匁位なら差しあげますわ」りよは、急いで百匁袋を二本出して、荷箱の上へ乗せた。「なアに、商売は商売だね。ただ貰ふつてわけにやゆかないよ。──また、このあたりに来たら寄つて行きなさい」「えゝ、もう、そりやア寄らせていたゞきますとも……こゝにお住ひなンぢやございませンのでせう?」りよは狭い小舎の中を見まはした。男は弁当箱をしまふと、木裂こつぱの細かくさゝけたところをはがして、それを妻楊枝にしながら、「こゝに住んでるンだよ。こゝの鉄材の番人兼運送係りつて仕事で、飯だけ近所の姉のところから運んで貰つてるンさ……」さう云つて、男は神棚の下の扉を開けた。押入れのやうなところにベッドが出来てゐて、板壁に山田五十鈴のヱハガキが鋲でとめてあつた。「まア! 便利に出来てゐますのね? 気楽でせうね……」りよは、この男はいくつ位だらうと思つた。

 その日からりよは四ツ木へ商売に来るやうになり、この鉄材置場の小舎へ寄ることになつた。男は鶴石芳雄と云ふ名前だと云ふ事も知つた。鶴石は、りよの来訪をよろこび、甘いものを買つたりして待つてゐることもあつた。鶴石のところへ寄れる愉しみが出来たと同時に、少しづつ茶を買つてくれるなじみも出来て、このあたりを歩く商売も楽になつた。りよは、五日目には留吉を連れて四ツ木の鶴石の小舎へ出掛けて行つた。鶴石は留吉を見ると、とてもよろこんで、留吉を連れてどこかへ出掛けて行つたが、暫くしてまだ熱いカルメ焼きの大きいのを二つ留吉が持つて戻つて来た。「これ、坊やがふくらかしたンだな……」鶴石はさう云つて、留吉の頭をなでながら腰掛にかけさせた。りよは、鶴石に細君があるのかどうかと思ふやうになつてゐた。それは別に大した思ひかたではなかつたけれども、留吉も可愛がつてくれる鶴石を見て、ふつと、りよはさう思つたのである。りよは良人の事以外は三十歳になる今日まで考へた事もなかつたけれども、鶴石ののんびりした気心を知るやうになると、鶴石への自分の感情が、少しづつ妙な風に変つて来てゐるやうにも感じられた。りよはこの頃、なりふりも少しづつかまふやうになり、商売にも身を入れて歩くやうになつた。茶のほかに、静岡の親類から鯖や鰮のけづり節も送つて貰つて、それも一緒に売つてみたが、むしろ、茶の方より、けづり節の方が案外よくさばけて行く時もあつた。

 りよが鶴石のところへ行き出して、七八日たつた頃であつたらうか。まだ浅草を見た事がないと云ふ、りよと留吉を案内して、鶴石が一日休みがあるので、二人を連れて行つてやらうと云ひ出した。桜には、まだ早かつたが、時間があつたら上野公園も歩いてみようと云ふので、約束の日に、りよは鶴石に教へられた通り、上野駅のなかの、旅行案内所の前に留吉と立つて待つてゐた。半晴半曇のどんよりした日であつたが、雨さへなければかへつておだやかな日である。十分位もして、鶴石がゆきたけのつまつた灰色の古ぼけた背広姿でやつて来た。

 りよは青い波模様の、着物地でつくつたワンピースに、これも綿入りの薄茶の背広の上着を着て、何となくおめかしをして留吉の手を引いてゐた。不断より若く見えたし、ひどく背の高い鶴石と並ぶと、りよは洋服のせゐか女学生のやうに背がひくく見えた。

「雨が降らなきやいゝがなあア……」鶴石は人ごみの中を、気軽に留吉を抱きあげて歩いた。りよは大きな買物袋をさげて、それにパンや、のり巻きや、夏みかんを入れてさげてゐた。地下鉄で浅草の終点まで行き、松屋の横から二天門の方へ歩いて、仲店の中へはいつて行つた。

 りよは、浅草と云ふところは、案外なきたいはづれな気がした。朱塗りの小さい御堂が、あの有名な浅草の観音様なのかとがつかりしてゐる。昔は見上げるやうに巨きいがらんだつたのだと、鶴石が説明してくれたけれども、少しも巨きかつたと云ふ実感が浮いて来ない。只、ぞろぞろと人の波である。この小さい朱塗りの御堂を囲んで人々がひしめきあつてゐる。トランペットやサキソオホンの物哀しい誘ふやうな音色が遠くでしてゐた。公園の広場の焼け跡の樹木は、芽をはらんだ梢を風に鳴らして、ざわざわと荒い風にあへいでゐる。

 古着市場のアーチを抜けると、食物屋のバラックが池のぐるりにぎつしり建つてゐた。油のこげつく匂ひや、関東煮の大鍋の湯気が四囲にこもつてゐた。留吉は箸の先に盛りあげた黄いろい綿菓子を鶴石に露店で買つて貰つて、しやぶりながら歩いてゐる。──かりそめのめぐりあひとは云へ、りよは十年も一緒に鶴石とゐるやうな気がして力丈夫だつた。少しも疲れなかつた。映画館やレヴィュー小舎が軒をつらねてゐる。アメリカ風な絵看板が、みんな唸つて迫つてくるやうな大きい建物の谷間を、三人はぶらぶら歩いた。「雨が降つてきたね」鶴石が片手をあげたので、りよも空へ顔をむけた。大粒の雨が降つてきた。折角の遊山も台なしだと思ひながら、りよ達はメリーと硝子行灯の出てゐる小さい喫茶店にはいつて行つた。思ひがけなく桜の造花が天井からさがつてゐるのが案外寒々しく見えた。紅茶を取つて、りよはのり巻きやパンを出して鶴石や留吉に食べさせてやつた。鶴石は煙草を吸はなかつたので食事も案外早く済んだが、雨は本格的になり、雨宿りの客もいつの間にかいつぱいたてこんできた。

「どうしませう? 随分な雨になりましたね……仲々あがりさうもないわ」「一寸待つて小降りになつたら送つてあげるよ」送つてあげると云ふのは、稲荷町のりよの家の事であらうかと思つた。りよの家へは送つて貰つたところで、鶴石を家へあげるわけにもゆかないのである。同郷の知りあひへ、部屋がみつかるまで腰かけにおいて貰つてゐるのだつた。寝る時は玄関の二畳にやすむので、自分の部屋といふものがない。りよは稲荷町よりも、四ツ木の鶴石のところへ行きたかつたのだけれども、鶴石の小舎には、満足に腰掛もないのでしみじみと落ちつくといふわけにもゆかない。

 りよは鶴石に見られないやうに、買物袋の中の財布をしらべてみた。七百円ばかりの金があつたので、これで、どこか雨宿りさせてくれる宿屋のやうなところはないものかと思つた。「どこか、宿屋みたいなところはないでせうか?」宿屋はないかと云はれて、鶴石は妙な顔をしてゐた。りよは、遠慮しないで、自分の家のことを正直に話した。「だから、私、このまゝで帰りたくないンですの。映画も見て、小さい旅館でもあつたら、そこで、休んで、おそばでも取つて貰つて、愉しくさよならしたいンですけど……ぜいたくかしらね」鶴石も同じやうな事を考へてゐたと見えて、自分の上着をぬぐと、それを留吉の頭からかぶせて、りよと雨の中へ出て行き、近くの映画館の軒下へ走り込んだ。──映画は椅子もなく立つて見なければならなかつたので、人いきれと立つてゐるのでへとへとになり、留吉はいつか鶴石の背中でぐつすり眠つてしまつてゐた。早く旅館へ行つた方がいいと云ふので、一時間位して、映画館を出ると篠つく雨の中を旅館を探して歩いた。芭蕉の葉を叩くやうな音で、雨は四囲に激しく鳴つてゐる。やつと、田原町の近くに小さい旅館を見つけた。

 節穴だらけのぎしぎしとなる廊下の突きあたりに狭い部屋があり、そこへりよ達は通された。べとついた柔い畳が、気持ちが悪かつた。

 りよは濡れたソックスをぬいだ。留吉は床の間の前にごろりと寝ころがして置いた。鶴石が汚れた座蒲団を留吉の枕にしてやつてゐる。樋もないのか、膨脹した水の音が、ばしやばしやと軒にあふれて滝になつてゐた。鶴石は黄いろくなつてゐるハンカチを出して、りよの髪の毛を拭いてやつた。自然なしぐさだつたので、りよも何気なくその好意に甘えた。雨音のなかにすがめるやうな幸福な思ひがりよの胸に走つてくる。なぜ愉しいのだらう……。長い間の閉ぢこめられた人間の孤独が、笛のやうにひゆうと鳴るやうな気がして来る。「こんな処で、食べ物を取つてくれるかな?」「さうね、私、訊いてくるわ……」りよは廊下へ出て茶を持つて来た洋服姿の女中に尋ねてみた。中華そばならとれると云ふので、それを二つ頼んだ。

 茶を飲みながら、二人は火のない箱火鉢を真中にして暫く向きあつてゐた。鶴石は足を投げ出して、留吉のそばに横になつた。りよは少しづつ昏くなりかけてゐる雨空を窓硝子越しに見てゐた。「おりよさんはいくつだね?」突然鶴石がこんな事を聞いた。りよは顔を鶴石の方へ向けてくすりと笑つた。「女の年は判らないよ。二十六七かね?」「もう、お婆さんですよ。三十です」「ほう、自分より一つ上だ……」「まア! 若いのねえ、私、鶴石さんは三十越してンだと思つたわ」りよは珍しさうに鶴石の顔をみつめた。鶴石は眉の濃い人のいゝ眼もとをちらと染めるやうに輝かせて、投げ出した自分の汚れ足をみてゐた。鶴石も靴下をぬいでゐる。

 雨は夜になつてもやまなかつた。

 遅くなつて、冷えた中華そばが二つ来たので、りよは留吉をゆり起して、眠がる留吉に汁を吸はせたりした。──二人は泊つて行くことに話をきめた。鶴石が帳場へ行つて、泊り賃を払つてきてくれた様子で、案外こざつぱりした夜具が三枚運ばれてきた。りよが蒲団を敷いた。部屋の中が蒲団でいつぱいになるやうな感じである。留吉のジャケツだけをぬがせて、厠へ用をたしに連れてゆき、蒲団の真中に寝かせた。「夫婦者だと思つてるね」「さうね。お気の毒さまですね……」りよは蒲団を見たせゐか、何となく胸さわぎがして、良人に済まないやうな気がしてゐる。さきの事は判らないけれども、雨が降るから、仕方なくこんな風になつたと思ひたかつたし、心で、そンな云ひわけをしてゐた。

 夜中になつて、りよがいゝ気持ちにうとうとしてゐると「おりよさんおりよさん」と、鶴石の呼ぶ声がした。りよがはつと枕から顔を挙げると、「おりよさん、そつちに行つてもいゝかい?」と鶴石がさゝやくやうに云つた。雨脚が少し弱まつて、軒の水音もたえだえにきこえる。「いけないわ……」「やつぱり、いけないかね?」「えゝ、困るわ……」鶴石は深い溜息をついた。「ねえ、鶴石さんは、私、聞かなかつたけど、奥さんはどうなすつて?」「いまゐないよ」「前はあつたの?」「あゝ」「その方、どうなすつて……」「兵隊から戻つたら、別の男と一緒に暮してゐたよ」「貴方、怒つたでせう?」「うん、まアね、やつぱり怒つたね。──だけど、行つちまつたものは仕方がないね……」「さうね、でも、よくあきらめられたわね……」鶴石はまた暫く黙つてゐた。「何か話しませうか?」「うん、別に話をする事もないよ。……あの、中華そばはまづかつたなア」「……えゝ、本当ね、一杯百円だなンて……」「君達も、部屋があるといゝね……」「えゝ、鶴石さんの近くにないかしら……私、鶴石さんのそばに引越したいわ……」「まづ、ないね。そりやア、あつたらすぐ話してやるさ。──おりよさんは偉いなア」「あら、どうして?」「偉いよ。女はみンなだらしがないつてわけでもねえンだな」りよが黙つた。一緒に抱きあつてみたい気がした。そして……。りよは鶴石に知れないやうに、少しづつ、ちぎつて捨てるやうな苦しい溜息をついた。腋の下が熱くなつて来た。家をゆすぶるやうにトラックが往来を走つて行く。「戦争つて奴は、人間を虫けらみたいにしちまつたね。大真面目で狂人みたいな事をやつてたンだからなア。自分は二等兵で終つたが、よく殴られたもンだよ。もう、二度なンか厭だなア……」「鶴石さん、お父さんやお母さんは……」「田舎にゐるよ」「田舎は、どこ?」「福岡だよ」「お姉さんは何してるの?」「おりよさんみてえに独りで、子供二人そだててる。ミシン一台持つて洋裁やつてるよ。亭主は華中で早く戦死したンだ……」鶴石は、少しばかり気が持ちなほつたのか、話声もおだやかになつた。

 りよはかうした夜の明けてゆくのがをしまれてならない。鶴石があきらめてくれたのだと思ふと気の毒な気がした。まんざら始めから知らない人間なら、かうしたことも何でもないのかも知れない。鶴石は、りよの良人については一言も訊いてくれようとはしなかつた。

「あゝ、何だか眼がさえちやつて寝られねえなア……どうも、馴れねえ事はするもンぢやねえよ……」「あら、鶴石さん、貴方、遊びに行つた事はないの?」「そりやア、男だもの、あるさ。玄人ばかりが相手だ」「男は、いゝわねえ……」りよは、男はいゝわねと、つい口に出したが、さう云ふか云はないうちに、鶴石がさつと起きて来て、りよのそばへ重くのしかゝつて来た。蒲団の上からであつたので、りよは男の力いつぱいで押される情熱に任せてゐた。りよは黙つたまゝ暗闇の中に眼をみはつてゐる、鶴石の黒い頭がりよの頬の上に痛かつた。ぱあつと、瞼の裏に虹が開くやうな光が射した。りよの小鼻のあたりに鶴石の不器用な熱い唇が触れる。

「駄目か……」りよは蒲団の中で脚をつつぱつてゐた。ひどい耳鳴りがした。「いけないわ……私シベリアの事を考へるのよ」りよは思ひもかけない、悪い事を云つたやうな気がした。鶴石は変なかつかうで蒲団の上に重くのしかゝつたまゝぢいつとしてしまつた。頭を垂れて、神に平伏してゐるやうな森閑としたかつかうだつた。りよは一瞬、済まないやうな気がした。暫くして力いつぱいで鶴石の熱い首を抱いてやつた。

 二日ほどして、りよは、留吉を連れていそいそと四ツ木の鶴石のところへ出掛けて行つた。何時もその時刻には、小舎の硝子戸のところに、鉢巻をして立つてゐてくれる鶴石が今日は見えなかつた。りよは不思議な気がして、留吉をさきに走らせてみた。「知らない人がゐるよツ」留吉がさう云つて走つて戻つた。りよは胸さわぎがした。入口のところへ行つて小舎の中をのぞくと、若い男が二人で、押入れの鶴石のベッドを片づけてゐるところである。「何だい、をばさん……」眼の小さい男が振り返つて尋ねた。「鶴石さんはいらつしやいますか?」「鶴さん、昨夜、死んぢやつたよツ」「まア!」りよは、まア! と云つたきり声も出なかつた。煤ぼけた神棚におあかりがあがつてゐるのも妙だと思つたけれども、まさか鶴石が死んだ為とは思はなかつた。

 鶴石が、鉄材をのつけたトラックに乗つて、大宮からの帰り、何とかと云ふ橋の上から、トラックが河へまつさかさまに落ちて、運転手もろとも死んでしまつたのだと教へてくれた。今日、会社のものや、鶴石の姉が大宮で鶴石の死骸をだびにふして、明日の朝は戻つて来ると云ふのである。りよは呆然としてしまつた。呆んやりして、二人の男の片づけ事を見てゐると、棚の上にりよが初めの日に買つて貰つた茶袋が二本並んでゐた。一本は半分ほどのところで袋が折り曲げてあつた。「をばさん、鶴さんとは知り合ひかい?」「えゝ、一寸知つてるもンですから……」「いゝ人間だつたがなア……何も大宮まで行く事はなかつたンだよ。つい、誘はれて昼過ぎから出掛けちやつたンだ。わざわざ復員して来て、馬鹿みちまつたと云ふもンだなア……」肥えた方が、山田五十鈴のヱハガキをはづして、ぷつとヱハガキの埃を口で吹いた。りよは呆んやりしてしまつた。七輪もやかんも長靴もそのまゝで、四囲は少しも変つてはゐない。黒板に眼がいくと、赤いチョークで、リヨどの、二時まで待つた、と下手な字で書いてあつた。りよは留吉の手を取つて、重いリュックをゆすぶりあげながら、板塀を曲つたが急にじいんと鼻の奥がしびれる程熱い涙があふれて来た。「をぢさん死んぢやつたの?」「うん……」「どこで死んだンだらう……」「河へはまつちやつたンだとさ……」りよは歩きながら泣いた。涙が噴いて眼が痛くなるほど泣いた。

 りよと留吉が浅草へ出たのは二時頃であつた。駒形の橋の見える方へ出て、河添ひに白鬚の方へ歩いた。こゝが隅田川と云ふのだらうと、りよは青黒い海のやうな水を見て歩いた。──もしもの事があつて、子供が出来たら困ると云つたら、鶴石はどんな責任でも負ふから心配しないでくれと云つて、あの朝別れる時に、鶴石はりよに、毎月二千円づつ位は、自分にもめんだうをみせてくれと云つた。鉛筆をなめながら、小さい帳面にりよの稲荷町の住所を書きとめてゐた。別れしなに、鶴石は田原町の洋品屋で留吉にネーム入りの野球帽子を買つてくれたりした。雨のあがつたぬかるみの電車通りを、やつとミルクホールを探しあてて三人で一本づつ牛乳を註文して飲んだ。

 りよは河風に吹かれながらぶらぶらと河ぶちを歩きながら思ひ出してゐるのだ。白鬚のあたりに水鳥が淡く群れ立つてゐた。青黒い流れの上を、様々な荷船が往来してゐた。りよはシベリアの良人のおもかげよりも、色濃く鶴石のおもかげの方が、はつきりと浮んで来る。「お母ちやん、漫画買つてくれよ」「あとで買つてやるよ」「さつき、いつぱい本のある店の前通つたね……」「さうかい」「見なかつた?」りよはまた後へ引きかへした。どこを歩いていゝのかわけが判らない。二度とあゝした男にめぐりあふ事はあるまいと思へた。「お母ちやん、何か食べようよ」りよは次から次とねだつて来る留吉が急に癪にさはつて来る。白い野球帽子の赤いネームのがかはいかつた。どこへ行くあてもなかつた。りよは、河ぶちのしもたや風なバラックの家々を眺めて、家のある人達が羨ましかつた。二階に蒲団を干してあるのが眼について、りよはその家の格子を開けた。「静岡のお茶でございますけど、香りのいゝお茶、如何でございますか?」と、愛嬌のいゝ声で呼んだ。返事がないので、もう一度りよが呼ぶと、正面の梯子段の上から、「いらないよツ」とつつけんどんな若い女の声がした。りよはまたその隣りの家の硝子戸を開ける。「静岡のお茶でございますが……」「はい、いりませんよオ」玄関わきの部屋から男の声で断わられた。りよは一軒々々根気よく玄関に立つたが、一軒もりよに荷をおろせと云ふ家はなかつた。留吉はぐづりながらりよの後から歩いて来る。淋しみをまぎらすために、りよは誰も買つてくれなくても、一軒づつ戸口に立つのが面白かつた。乞食よりはましだと思つた。二貫目あまりのリュックは相当肩にしびれて来る。りよはリュックのベルトのあたる肩のところへ、手拭を一筋づつあててゐた。

 翌る日、りよは、留吉を家に置いて、一人で四ツ木へ出掛けた。子供を連れてゐないせゐかしみじみと独りで鶴石の事を思ふ自由があつた。板塀を曲ると、思ひがけなく小舎の中で火が弾ぜてゐる。りよは、最初の日のことがなつかしくリュックをずりあげながら硝子戸に近よつて行つた。はつぴを着た年を取つた男が七輪に薪を燃やしてゐた。いぶつた煙がもうもうと小さい窓から噴いてゐた。「何だね?」その男が、煙にむせながらこつちをむいた。

「お茶を売りに来てたもンです……」「あゝお茶はまだ上等なのが沢山あるからいらねえよ……」りよは硝子戸へ手をかけてゐたのをやめて、すつと小舎から離れた。あの小舎の中へ這入つてみたところでどうにもなるものではないのだ。あの老人に聞いて、鶴石の姉の家を尋ねて、せめて線香の一本でもそなへて来たいとも考へないではなかつたのだけれども、りよはそれもあきらめてしまつた。どうなるものでもないのだ。いまは、何も彼もものうい気がした。何の聯想からか、りよは、鶴石の子供をもしも、みごもるやうな事があつたら、生きてはゐられないやうな気がして来た。シベリアから何時かは良人は戻つて来てくれるだらうけれども、もしもの事があつたら死ぬより仕方がないやうにも考へられて来る。──だが、珍しく四囲は明るい陽射しで、河底の乾いた堤の両側には、燃えるやうな青草が眼に沁みた。りよの良心は案外傷つかなかつた。鶴石を知つた事を悪いと云つた気は少しもなかつた。

 行商をしてみて、茶が売れなかつたら清水へ帰るつもりで、上京して来たのだけれども、りよは、商売があつても、なくても東京がいゝと思つたし、のたれ死しても東京の方がいまはいゝのだ。

 りよは堤の青草の上に腰を降ろした。眼の下の、コンクリートのかけらのそばに、仔猫の死骸が向うむきに捨ててあつた。りよはすぐ立つて肩の荷をゆすぶりあげて駅の方へ歩いた。ふつと横路地をはいると、玄関の硝子格子に、板の打ちつけてある貧しげな家へ声をかけた。「静岡のお茶はいりませんでせうか?」「さうね、いくら? 高いのでせう?」りよが格子を開けると、足袋の芯縫ひを内職にしてゐるらしく、二三人の女がこつちを向いた。「一寸待つて下さいな。今空鑵探してみますからね」と、次の間へ小柄な女が消えて行つた。自分と同じやうな女達がせつせと足袋底を縫つてゐる。時々針が光つた。

底本:「林芙美子全集 第九巻」文泉堂出版

   1977(昭和52)年420日発行

初出:「別冊小説新潮」新潮社

   1949(昭和24)年4月号

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新字旧仮名にあらためました。

入力:ふるかわゆか

校正:小林繁雄

2006年718日作成

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