貝殼追放
先生の忠告
水上瀧太郎



 或日曜の朝の事であつた。寢坊をした床の中でぼんやりして、起きようか寢てゐようか迷ひながら、枕頭まくらもとの火鉢の上の鐵瓶の口から、さかんに立昇る湯氣を見てゐるところに、こまつちやくれの下宿の小婢ちびが、來客のある事を告げに來た。その取次いだ名前が昔の學校友達のそれと同一だつたので、自分は一緒に惡戲いたづらつ子だつた中學時代の友達の、今川燒のやうにまあるく平べつたくて、しかもぶよぶよしてゐた顏中を想ひ出しながら、狼狽あわてて飛起きて洗面場に馳けて行つた。

 身じまひをして、玄關に出て見ると、其處にはまだ十八九の見馴れない少年が一人ゐるばかりだつた。側に立つてゐる小婢に、

「お客は。」

 とくと、

「そのお方です。」

 と指差した。

「先生ですか。」

 少年は意外だつたといふ表情を包まずに、此方こつちを見上げてから帽子を取つて頭をさげた。

「お上んなさい。」

 先生と呼びかけられた自分を、けげんさうに見守つてゐる小婢の目を避けるやうに、心中少し狼狽しながら、さつさと先に立つて自分の室に少年を導いた。先生と呼ばれた丈で、何の爲めに此の少年が自分を訪問したか、彼が如何なる種類の人間であるかが直感された。自分は寧ろ不機嫌で、相手の態度を見守つた。

 少年は一見不良少年らしい沈着さで、初對面の年長者の前で、惡びれもしずに煙草をふかしたが、紺がすりの着物に紺がすりの羽織で、海老茶の毛糸で編んだ羽織の紐が如何にも子供らしかつた。

「私をたづねて來たのは如何いふ御用です。」

 と自分の方から切出した。

「實は朝日新聞の○○さんが、先生を紹介してやらうと云うて下さつたので……」

「○○さん?」

 自分はいくら考へてもそんな人は知らなかつた。

 少年の云ふところに據ると、○○といふのは大阪朝日新聞の社會部の記者であるが、少年が文學に熱中して、文學談ばかり持ちかけるので、それでは此頃大阪に來てゐる水上に紹介してやらうと云つて、下宿の所在迄教へて呉れたのださうだ。どうしても自分にはそんな知己は無いので、腑に落ちない話だつたが、例の新聞記者一流の出たらめをやつたんだなと思つて苦笑するより他に爲方が無かつた。

 時に甚だしく口の重い事のある自分に對して、訪問者もはか〴〵しく口をきかず、次第に手持無沙汰らしく見えて來るので、無理に何か話材をこしらへても、相手は兎角簡短な應答をするばかりで、且つ最初は不良少年かと思つた程無遠慮な態度に似ず、返事をする時は羞しさうにさへ見えるのであつた。

 彼はその頃甲種商業學校の五年生で、目の前に卒業試驗を控へてゐた。

「學校はいやでいやでかなはん。」

 と駄々子だゞつこの物言ひをして、文學以外の學課に興味が無く、卒業出來るかどうかもわからないといふ意味の事を云つた。

 父親は死んでしまつたけれど、その父が生前殘した事業があつて、母親は學校を卒業すると同時に其處で働かせるつもりでゐる。彼は學校なんか今日からでもやめて、小説の作家になり度いのであつた。

「學校なんぞは役にたちませんなァ。」

 と少年は少し雄辯になつて、自分の同感を求めた。

 聽いてゐるうちに自分の目の前には、その少年の年頃の自分自身の姿が浮んで來た。學課は怠けて運動場を馳𢌞り、文學書以外には殆ど何も本は讀まず、一ヶ月の缺席數は出席數よりも遙かに多く、落第に落第の續いた時代である。自分には苦も無く目前の少年の心持になり切る事が出來た。けれども自分はとつくの昔臆病な大人になつてゐるので、相手の一本調子にうつかり相槌は打てないぞと、腹の中で、油斷のない狡猾な注意を忘れなかつた。

「けれどもね、矢張り學校は續けてやつた方がよござんすよ。」

 自分は學校では別段小説家に特に必要な智識を與へては呉れないにしても、學問の根柢があると此の世の中を知る上に深みを増すに違ひ無いなどゝ、もつともらしい顏付をして云つた。

 少年は「金色夜叉」を幾度も幾度も愛讀した事を話し、「蒲團」に感心した話をし、谷崎潤一郎氏の作品を好む事を話し、曾て友人と小遣を出しあつて雜誌を發行し、創作を發表した事を話した。その癖時々思ひ切つて愚劣な質問をして先生を困らせた。

「一體新聞小説家になる方がいいでせうか。」

 などと眞顏で訊きもした。

「それで滿足してゐられればね。」

 少し中腹ちゆうつぱらで返事をしても、彼には通じないところがあつた。

 話をしてゐる中に、最初不良少年かと思つた程無遠慮に見えたのも、口のきき方のぞんざいなのも、要するに彼がぼんぼんだからだと解つて來た。女の姉妹きやうだいはあるが男は一人きりだといふ彼は、父母の懷に甘つたれて育つたに違ひない。さう思つた時、自分は我儘らしい少年の態度を是認した。

 元來未見の人に逢ふのを好まない自分は、たまたま知らない人に面會を求められるのを、何よりも迷惑な出來事の一に數へてゐる。

 紹介も無しに突然人を訪れるのは新聞記者か雜誌記者に多いが、行儀が惡く、人擦れてゐて、且つ他人の迷惑には頓着しない點に於て、世に所謂文學書生も新聞記者に劣らない者である。

 自分は平素貴下の作品を愛讀してゐるものであるが、一度親しく謦咳に接して御高見を拜聽し度いといふやうな申出は、難有ありがた迷惑な次第には違ひ無いが、たとへ斷るにしても叮嚀に斷るべき筋合であらう。手酷しいのになると、自分は「文章世界」の投書家で、田山花袋氏選の懸賞募集文に幾囘か當選した前途有望の青年であるが、物質的窮乏に壓迫されて、自由に才能を延ばす事が出來ないから、どうか先生と同居させて下さいなどと、一時間も二時間も坐り込んでゐて動かないのがある。さういふ連中に比べて、此の少年の邪氣の無い態度は自分をして餘り苛々させなかつた。

 長い間兎角途絶え勝ではあつたが、何とまとまつた事も無く、いろんな話をした後で、

「どうか此の次には私の書いた小説を持つて來ますから直して下さい。」

 と云つて少年は歸つて行つた。

 それ以來自分を先生々々と呼ぶ少年は度々訪れて來るやうになつた。

 幾篇かの小説の原稿を持つて來て見せもした。極端に幼稚拙劣な字で書いた假名づかひも文法も滅茶めちや々々の文章で綴つた小説で、隨分讀みにくいものであつたが、多分飜譯物で覺え込んだらしい直譯體に近い形容や句切りが、全く類の無い文體を形成して、噛みしめてゐると存外味が出て來るのであつた。題材はぼんぼんに似合はず苦勞人の見た世の中らしく、かなり深刻に觀察して、一種重苦しい氣分を起させるやうなものが多かつた。谷崎潤一郎氏の華々しい小説を愛讀すると云ひながら、彼自身の作風はどつちかと云へば自然派の物に近かつた。その文章の亂雜な通り、一篇の結構も緊縮を缺いてだらだらしているが、その癖妙に力の籠つたところがあつて、割合に大まかな味はひを持つて居るのであつた。自分はそれらの小説を讀んで上手うまいとも下手まづいとも決める事が出來なかつた。

「是非批評して下さい。」

 と膝を進ませる相手に對して、

「面白いには面白いけれど、隨分文字や假名づかひは亂暴だね。」

 などと當らず觸らずの事を云ふより他に爲方がなかつた。

「字なんかどないだつて構やせん。」

 少年は自信のある口をきいて、飽迄も字づかひなどは念頭に浮べず、間違ひだらけの儘で押し通した。

 書上げると直ぐに持つて來て見せる小説を讀んでゐるうちに、自分は面白い發見をした。それは彼の作品の何れにも必ず或エロテイツクな場面の出て來る事である。學校教員の生活を描いても、會社員の生活を描いても、何かしら性慾の壓迫から起る事件を結び付けなくては承知しなかつた。「蒲團」を愛讀し、谷崎氏の作品を愛好する理由が、初めて自分にも解つた氣がした。

 氣が附いて見ると、彼は曾て一度も、エロテイツクな場面を持たない小説をほめた事が無い。少くとも所謂無戀愛小説は讀む氣にもならないらしい。「海上日記」以來まるつきり戀愛小説に縁の遠くなつた自分の如きは、面とむかつて攻撃された。

「先生の物は昔の方がよろしいな。」

 とも云ひ、

「何かもつと濃厚な物を書いたらどうですか。」

 とも云つた。

 少し邪推してみると、彼は屡々中學の文藝愛好家にみる如く、所謂文士の生活を、遊蕩と必然の關係のあるものとして憧憬してゐる傾向があつた。その文士の集まつてゐる東京では、年が年中寄合ひがあつて、賑かな生活をして居るものと推測してゐるらしかつた。恰も大阪の不良少年が、あの大阪式の言語道斷に俗惡な酒場バアで、毎晩々々給仕女を張つてゐるやうな生活をさへ、彼は藝術家の特權か何かと考へてゐるらしかつた。わざわざ變な服裝をするのも藝術家の一資格かと思ひ違へてゐるらしかつた。

 從つて、物堅い家に育つた若者の服裝をして、酒場に入浸るよりも下宿に閉ぢ籠つて居る日の方が多いかくいふ先生の如きは、最初彼にとつて幻滅の感を抱かせたに違ひない。

 自分は又しても大人の臆病心に襲はれて、機會さへあれば眞面目な顏付をして訓戒めいたことを口にした。若し彼の推測するやうに、文士といふものが酒と女にばかりかかりあつてゐたら、時間と精力を消耗して創作なんか出來なくなるに違ひ無い。第一流の作家の現在營んでゐる生活は極めて眞面目なもので、たとへその作品には遊蕩の巷を描いてばかり居る人も、必ずしもぬらくら遊んでゐるものではない。偉い作家に限つて到底想像もつかない程勉強家であるなどと繰返して云つた。さういふ時に、自分は一種くすぐつたい心持と、冷汗を覺えながらも、此の少年の素行に間違ひの起らない事ばかりを、主として自分自身を守る利己的な心持から念じてゐた。萬一彼が文藝即遊蕩ともいふべき興味から身を持ち崩されては、その母親や何かに對しても先生と呼ばれる立場として、申譯が無いと思ふいい子になりすまし度い心からであつた。

 自分は最初から此の少年に先生々々と呼ばれる事に迷惑を感じてゐたが、次第にその迷惑の度を高めて、一種の輕い不安が絶えず少年の出現と共に自分を襲ふやうになつて來た。

 たつた一人で散歩するのを好む自分は、馴れない大阪の市中を地圖を懷にして歩き𢌞つてゐたが、さうと知ると少年は、

「先生私が何處かに御案内しませうか。」

 と云ふのであつた。

 何處かに御案内するといふ言葉の意味を、自分は明瞭につかむ事が出來ないで、彼の心事を疑つたが、餘り勸めるので、

「それでは何處にでも連れて行つて呉れ給へ。」

 と同意する事になつた。

「サア何處というて私もよくは知りませんけれど、平生私達の行く處でよろしいですか。」

 と幾度も念を押した上で、彼は道頓堀の北河岸の西洋料理屋兼カフヱに自分を連れて行つた。

 平生自分が、大阪特有の安音樂の絶間なく奏されてゐる酒場バアを、口を極めて罵倒してゐるので、

「此處は靜でよろしい。」

 と案内者が自慢する通り、少し陰氣に思はれる程ひつそりした家だつた。

「今晩は、お久しうおまんな。」

 とお白粉しろいを塗つた給仕の女は少年を見て挨拶した。

「近頃は××は來ないか。」

「つい昨日も見えてでした。」

は。」

 彼は一緒に此の家に集る友達の名前を云つて訊いた。

 餘り上等で無い料理を喰べながら、何か酒を飮むかと云ふと、

「強い酒でなければ醉はんからつまらん。」

 と答へて、先生は麥酒ビールを飮んでゐるのに、彼はアプサンを命じた。赤木桁平氏ではないけれども、此の少年を前にして自分は遊蕩文學撲滅論をしないでは安心してゐられない心持に惱まされた。

「勉強したまへ、勉強したまへ。」

 自分は彼の顏を見る度に、眞面目に學校に通つて、眞面目に勉強するのが小説家となるにしても、第一である事を説いた。丁度昔、自分が此の少年の年頃に人々に云ひ聞かされた通りに。

 春になつて、少年は無事に商業學校を卒業し、自分も大に安心した筈だつたが更に又新しい心配が何時の間にか頭を持上げて來てゐた。

「先生、私はどうしても續けて學校に通つて勉強せんとあかんと思ひます。」

 彼は眞劍になつていた。

「そりやァ學校は續ける方がいいさ。」

 自分は、あれ程學校を厭だ厭だと云つてゐた彼が、急に勉強心の出たのを不思議がりもせず、怠けて落第でもされては大變だと、ひどくびく〳〵してゐた後であるから、勉強し度いといふのに安心して一も二もなく贊成した。

「けれどもお母さんが許さんから。」

 少年は殘念さうな口吻で云つた。その殘念さうな口吻に氣が附くと、こいつはしまつたと、自分はとつさに思つたのである。

 母親は息子の卒業と同時に、直ぐにも亡き夫の殘した爲事に就かせようとし、親類も勿論同じ考へで、殊に少年が文士たらんとする志望を抱いてゐる事は、働くといふ事には必ず金錢の利得の伴ふものと思つてゐる人々の不安心の種であつた。

「金儲け金儲けばかり云うて、金なんぞ一文もいらんわ。」

 ぼんぼんはぼんぼんらしい事を云つて、身内の大人達を罵つた。

「しかし文學では喰つて行かれませんよ。」

 自分は又しても大事取りの大人の臆病風に誘はれて、少年の燃えさかる火の手を消さうとした。

「喰はれんかて構はん。」

 ぼんぼんは愈々ぼんぼんになつて語氣も烈しく云ひ放つた。

 その日以來先生は益々不安を感じ出した。中途でしてもいゝと云つて學校通ひを嫌つた時は、學校の難有味を説いて勉強するやうに忠告したが、忽ち彼が熱烈に學校生活を續け度いと夢中になつて來たのを見て、今度は學校も大したものではない、衣食足りてこそ藝術の製作も完全なものが出來るが、喰ふために書く事になれば文學勞働程悲慘なものは無く、作品も必ず儲け爲事の目的と墮落するに違ひ無い、殷鑑遠からず誰も彼も、其處にも此處にも濫作家がゐるではないか、それよりも一層方面違ひの事で衣食して、且つ藝術の製作に努力した方がましであらうと、もつともらしく勸め始めた。それには幸ひ先生自身が、會社員としての俸給で衣食し、同時に文學的創作に勉勵してゐる實例なので、繰返し繰返し納得させようと努めた。けれども實はうつかりした事を云つて、少年がその一家の者の意見に對抗して自己の希望を貫徹しようと夢中にでもなつた場合には、飛んだとばつちりを喰つて、その一家の人々と何等か面倒な交渉を惹き起しはしないか、それが第一に避け度かつたのだ。

「會社になんか行く位なら生きてる甲斐が無いわ。」

 少年は甘やかされて育つた者に限る我儘な調子でつぶやいた。

 けれども次に訪れて來た時は、彼は既にその亡父の爲事であつた或會社の社員にされてゐた。自分はそれを聞くと安心して云つた。

「お目出度う。勤人の生活も存外嫌では無いでせう。」

「イヤもう土臺つまりません。」

 彼は言下に先生のちやらつぽこを拒けてしまつた。

 會社で一緒に爲事をしてゐる大人の愚劣さを、少年は公事を憤る人の口ぶりで滅茶苦茶に嘲笑した。俸給の上つた話、諸會社の賞與の話、物の値段の話、たまに話題が變つたと思ふと、それは猥談に極まつてゐるといふのである。

 先生も亦かゝる周圍の中に暮してゐるのであるが、しかも擦れつからしの態度をとつて、人々を心中馬鹿にしながら尚且つ平氣で交際つきあつて行くのであつた。殊に先生は曾て少年の日に於ては目前の少年と同じく、藝術家の生活といふものを一種特別の高尚なものだと思ひ違へてあこがれた事もあつたが、つかず離れずの態度ではあるが何時いつかしら其の仲間にはいつて見ると、尊敬の的だつた藝術家といふものも、意外にも下劣卑賤な人間が多く、中には幇間たいこもちにも劣る連中を發見して忽ち愛想をつかしたのであつた。

「君が結構なものだと思つてゐる文士だつて、君が愚劣がる會社員と同じものですよ。」

 自分は例によつて少年の浪漫主義に水をさした。

 けれどもこれが必ずしも先生の臆病とばかりは云はれないのである。先生はほんとに自分の見聞の範圍内に於て、ほとほと文士といふものに愛想を盡かしてゐるのである。投書雜誌と交互になれ合つて、田舍の投書家に媚びる事を專門にする賣名專門の徒、黨同伐異を事とし、わけもわかりもしない癖に白痴脅こけおどかしの知つたかぶりで、一押二押三押で押の強味で横行してゐる輩、役人役者芝居者を取卷いて飮んでゐる連中、嫉妬深くて奸譎で、得手勝手で愚癡つぽく、數へれば數へる程面白くない卑賤民の仲間のかくいふ先生もその一人に過ぎないのであつた。

「文士なんて下等な人間が多ござんすぜ。」

 と云ふ時は他人を罵倒すると同時に、そんな人間と交際を持つ自分自身をも嘲笑する意氣込みが、不知不識にあらはれてゐるのであつた。

 何れにしても先生は、自分を先生々々と呼ぶ少年の前途を危ぶむとともに、その危なつかしい前途にかゝりあつては堪らないと思ふ念に惱まされる事が多かつた。

 或時少年は、先生が先生と呼ばれないで濟むかはりに、終日貸金の利息を勘定したり、諸拂の傳票に盲目判を押したりする會社員の生活をしてゐる事務室へ電話を掛けて來て、相談事があるから今夜行きますと云つて來た。こいつは困つたと思つてゐると、果して困つた問題を持つて來た。

 彼は度々繰返して愚痴を云つてゐた會社づとめの單調無味に堪へられなくなつて、如何しても學校にはいる決心をしたが、それには何處の學校がいいだらうと云ふのである。

「お母さんも同意したのですか。」

「私がそれ程熱心なら爲方が無いから大阪の家をたたんで、私の卒業する迄東京に住むと云うてなはります。」

 我儘者は凱歌を奏する態度で答へた。

 彼は文學書生の常例にもれず、早稻田大學の文科に入學し度いと希望してゐるのであるが、彼處あそこは風儀が惡いからいけないと身内の者に反對されたさうだ。何故彼が早稻田大學を擇んだかといふと、どんな雜誌を見ても執筆者の大多數はその學校の出身者で、數に於て到底他の學校出身の文士と比較にならない程有力であるから、將來自分が世に出るにも最も有利だらうと考へたのださうである。まことに恐るべきは頭數の勢力である。

「それでは慶應義塾がいいでせう。」

 と先生は曾てその學校で落第した事などを思ひ出しながら云つた。

「あそこは金ばかりつかうてる怠け者の學校だからいかんと云うてます。」

「成程ね。」

 先生は一言も無く參つてしまつて、感服する外に致し方がなかつた。

「それにあの學校からは餘り偉い文學者は出てゐませんだつしやろ。」

 少年の舌はなめらかに動いた。

「さう云へばさうだね。」

 あまりの事の激しさに、流石に先生も殘念に思つたが、りとていくら考へてみても、一流として許せるのは小説家では久保田万太郎氏、美術評論家では澤木梢氏を數へるばかりで、遙に下つたお次には先生自身位なものであるから、聲を高くして反對する勇氣は無かつた。たゞ負惜みもまぜて、平素自分の考へてゐる慶應義塾の特徴をぽつりぽつりと説いた。

「そりやァ便利な人間はあの學校からは出ないかもしれないが、そのかはり比較的素直な心持を持つているところがいいと思ふ。」

 と云ふのがその要旨であつた。

 少年は餘り感心もしない顏をして聞いて歸つたが、數日後に又やつて來た時は、前とは全く調子が變つて、愈々慶應義塾に入り度いから、甲種商業學校出の者でも入學出來るかどうかを確めて呉れと云つて來た。

 先生は又してもこれはしまつたと思ひながら、兎に角その學校に教鞭をとつてゐる友人にきいて見ようと約束した。

 考へてみると此前の時、少し慶應義塾をほめ過ぎたやうに思はれて後悔した。あれは少年が自分の母校を罵つたので、人情として些かせき込み過ぎたのと、もう一つは彼れが慶應に入るまいと思つて安心してゐたので、うつかり提灯を持つてしまつたのである。萬一彼が入學して、金ばかりつかう怠け者になられては、先生の立場として厄介だと考へると、どうしても甲種商業學校出身者には入學の資格を與へない方が合理的であるやうに思はれて來た。

 一週間後、友人から商業學校出では入學出來ないと囘答して來た時は、先生は大なる災厄を免れた氣持がして、平生の無精に似ず自ら少年の許へ電話を掛けてその旨を通じて、さうして始めて安心した。

 それから後しばらく、自分は會社の用事で地方へ旅行して歸つて來てからも、少年には成るべく會ひ度くないと思ひながら何時の間にか夏を迎へたのである。暑い暑い大阪の貧乏下宿の二階で汗を流して暮してゐると、豫て惱み勝だつた持病が堪へ難い容體になつて來た。それに船や車で旅をして來た事も、平素たしなむ酒の應報むくいもあつたのであらう、しまひには會社で机にむかつてゐるのが苦しくなつて來た程、病氣は加速度で進行した。たうとう我慢し切れなくなつて休暇を貰つて數日中に東京へ歸り、入院して治療を受けようと考へてゐた。

 ところへ、日曜の朝であつたが、家中の疊にさし込む強烈な夏の日光に、頭の先から足のさき迄汗を流して、いとど病氣の身をもてあましてゐると、突然少年がやつて來た。しかも彼は一人でなく、年配の婦人を伴つて來た。

「お母さんをつれて來ました。」

 と挨拶する迄も無く、一見して親子とわかる目鼻立の母親に面して、先生は愈々豫感してゐた迷惑な舞臺に身を置く事になつたのを感じた。

 雙方とも汗を拭き拭き挨拶を濟ますと、目の前の息子の先生の、意外にも若僧なのに驚いたと同時に安心したらしい母親は、そろそろ用件を語り出した。

 元來會社の爲事に熱心だつた父親の子に似ず、息子は商賣が嫌ひで學校時代には學校から歸つて來ると、只今では會社から歸つて來ると、二階の自室に閉ぢ籠つて机に向つて本を讀むか書き物をしてゐる。

「こんな者に何が書けますものかとは存じますけれど。」

 と親らしい前置きをして、一體その息子の書く物によつて判斷すれば、將來文士として名を成す事が出來るか如何か先生の御意見を伺ひ度いといふのである。

「それは勉強次第でせう。」

 と先生は暑氣と病氣と、且は又迷惑な自分の地位に惱みながら責任のがれ專一に答へた。

「せめて新聞にでも出るやうな有名な人にでもなります事なら、當人の好きな事でもあり、爲方が無いとあきらめて、學校に通はせてもいいと思ひますが。」

 しつかりした口のきき方をする母親は、次第によつては曾て自分も其處で教育を受けた事のある東京に息子と共に家を構へて、その成業を待つてもいいといふのであつた。

 先生は事の餘りに大がかりなのに吃驚びつくりしたと同時に、愈々自分の責任の重い事と迷惑の大きい事を痛感した。

「默つて會社に勤めて居りますれば、末始終すゑしじゆうは間違ひ無く相當な地位にのぼる事も出來ますのですが文學と申せば先づ風流な事でございますから。」

 第一學校に通はせるにしても月々多額の出費だし、將來存外成功したにしても、なかなかお金にはなるまいといふのが、親として最もあやぶむ理由に外ならなかつた。

「お母さんは又金々ばかり云うて、金なんかいくらあつたかてあかん。」

 息子は苛々した調子で、默つてゐる先生の態度を頼母しくなく思つたらしく、傍から横槍を入れた。

「けれども文學者だつて喰べなくては生きて行かれませんから、それは御心配になるのがもつともです。」

 と先生は母親に向つて調子を合せた。

「ごらんなさい、貴方樣もさうおつしやるではないか。」

 母親は勢に乘つて息子の不平を抑へつけてから、或る知人の子は東京帝國大學の哲學科を出て年三十にして未だ親の脛を噛つてゐる事、或る知人の息子は慶應義塾に通つてゐて月々莫大な金を費消してゐる事、それからそれと實例を擧げて、學問殊に文學の儲けの少い事、大概はマイナスになる事、及び東京へ遊學に出す事の出費と危險を雄辯に説いた。聞いてゐるうちに先生は自分自身が意見をされてゐるのではないかと疑つた程、諄諄と聞かされたのである。

「お母さんなんかに何がわかるもんか。」

 息子は聞くに堪へないらしく、面をあかくして母親を叱したが、さういふ時には先生が必ず母親の味方になつて、

「それは考へてみれば學校に長く通つたつて無駄な事かもしれません。勉強しようと思へば一人でも勉強は出來るのですから。」

 などと頼みにならない事を云ふのであつた。先生は實際平然として應對している樣子は見せながら、心中甚だ困却してゐたのである。可愛い息子の好きな事なら、好勝手すきかつてにさせてやればいいのにと思ひもし、可愛いからこそ息子の將來を心配して、やきもき氣をもみもするのだと、息子にも同情し、母親にも同情した。同時に又、二言目ふたことめにはお金がかかるお金がかかると云ひ、藝術の作品を金錢に計量しなくては承知しない母親の態度にもあきたらず、こんな迷惑な地位に自分をおとしいれ、前觸れもなしに母親なぞを引張つて來た息子の世間見ずの我儘なぼんぼんづらも面憎かつた。

 さはさりながら此の場合、先生が專念に祈つたのは、自分自身がかかりあひになる面倒を避ける事であつたから、その爲めには是が非でも母親側につく方が利益だと考へたのは勿論である。

「まあひとつ會社で出世して、その間に實世間の經驗を積むのも、作家となる上から見ていい事かもしれませんよ。」

 と悄氣しよげてゐる少年に對して、實業家と稱される種類の人間の屡々口癖にいふやうなせりふ迄口の外に出した。

「ではまあ宅に歸りまして、又當人の決心も聞きました上、改めて御相談に伺ひます。」

 と永い時間の對座の後、母親は坐り直して手をついた。

「貴方樣もああおつしやるのだから、貴方もとつくり思案して見なさい。」

 と先生の頼み甲斐無いのに氣の拔けた息子にいひきかせて、

「まことにお邪魔致しました。」

 と頭を下げると、母は子をうながして歸つて行つた。

 先生はホツト一息ついて、額から胸から流れる汗にぐつしより濡れた單衣ひとへの氣持惡く肌に絡みついた體を崩し、親子が立際に置いて行つた大きな菓子折を目の前にして、つくづくと自分の年をとつた事を感じたのである。(大正七年十二月十三日)

──「三田文學」大正八年一月號

底本:「水上瀧太郎全集 九卷」岩波書店

   1940(昭和15)年1215日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:柳田節

校正:門田裕志

2005年117日作成

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