接吻
齋藤茂吉



       一


 維也納の Gürtelギユルテル 街は、ドナウ運河の近くの、フランツ・ヨゼフ停車場の傍から起つて、南方に向つて帯のやうに通つてゐる大街である。そこには、質素な装をした寂しい女が男を待つてゐたりした。金づかひの荒くない日本の留学生は、をりふし秘かにさういふ女と立話をすることもあつた。

 西暦一九二二年の或る夏の夕に、僕はささやかな食店で一人夕食を済した。そして、いつしか一人で Gürtel 街を歩いてゐた。僕はステツキも持たずに、かうべをして歩いてゐる。街道が大きいので、人どほりがさう繁くないやうに思はれる。平坦な街道がいつの間にか少し低くなつて、そこを暫く歩いてゐる。

 太陽が落ちてしまつても、夕映ゆふばえがある。残紅がある。余光がある。薄明がある。独逸語には、Abendröte があり、ゆふべの Dämmerung があつて、ゲーテでもニイチエあたりでも、実に気持よく使つてゐる。これを日本語に移す場合に、やまと言葉などにいいのが無いだらうか。そして、夕あかり。うすあかり。なごりのひかり。消のこるひかりなど、いろいろ頭のなかで並べたことなどもあつた。欧羅巴の夏の夕の余光はいつまでも残つてゐた。

 僕は少し感傷的な気分になつて、ゆふべの余光のなかを歩いてゐる。さうすると、いそがしい写象が意識面をかすめて通る。いまやつてゐる僕の脳髄病理の為事しごとも、前途まだまだ遠いやうな気がする。まだ序論にも這入はひらないやうな気がする。きのふの午後に見た本屋の蔵庫にあるあの心理の雑誌は、いくばくに値切るべきであらうか。あの続きを揃へようとせばライプチヒに註文して貰へばいい、日本にゐる童子は、学校でも遊び友だちは殆どないといふ妻からの便りがあつた。が、おれに似たのかも知れん。云々である。写象は起つて忽ち過ぎ去つた。実は千万無量の写象である。

 僕はすでに長い長い Gürtel 街をとほり過ぎようとしてゐた。ゆふべの余光が消え難いと謂つても、もうおのづから闇のいろが漂つてゐる。そのうち街は細つて来た。街の中に歩道があつて、そこに香柏樹の並木が遙か向うまで続いてゐる。香柏樹はすでに暗緑の広葉で埋つてゐる。香の高い花は遠のむかしに散つて、今は柔い青いいろの実を沢山につけてゐる。そしてアムゼル鳥の朗かなこゑは、ときどき夕の空気を顫動せんどうさせてゐる。歩道にはところどころにベンチが据ゑてあつて、そこに人が群がつて腰をかけてゐる。老いたるも若きもみな貧しき人々である。墺太利の貨幣の為換かはせ相場はそのあたりはぐんぐん下つて行つた。僕はしづかなところから、ざわざわしてゐるところに来たやうな気がして少しいそぎ足で歩いた。小さい童子がちよこちよこ僕のそばに来て、をぢさん、切手持つてゐない。持つてゐたら僕に頂戴。などと云つたりした。けれども僕はさういふものにはかかはらずに歩いた。歩道はやや寂しくなつて人どほりも少い。闇のいろはおのづから濃くなつたけれども、西方の空には、まだ淡黄の光を再び絹ごしにしたやうないろが、澄み切つたあをい空のいろにまじつて残つてゐる。

 そこの歩道に、ひとりの男とひとりの女が接吻をしてゐた。

 男はひよろ高く、痩せて居つて、髪は蓬々としてゐる。身には実にひどい服をまとひゐる。うつむき加減になつて、右の手を女の左の肩のところから、それから左手は女の腰のへんをしつかりおさへて立つてゐる。口ひげが少し延びて、あをざめた顔をしてゐるのが少し見える。女はのびあがつて、両手を男の頸のところにかけて、そして接吻してゐる。女は古びた帽をかぶりゐる。それゆゑ、女の面相は想像だもすることは難い。

 僕は夕闇のなかにこの光景を見て、一種異様なものに逢著したと思つた。そこで僕は、少し行過ぎてから、一たび其をかへり見た。男女は身じろぎもせずに突立つてゐる。やや行つて二たびかへりみた。男女はやはり如是によぜである。僕は稍不安になつて来たけれども、これは気を落付けなければならぬと思つて、少し後戻りをして、香柏の木かげに身をよせて立つてその接吻を見てゐた。その接吻は、実にいつまでもつづいた。一時間あまりも経つたころ、僕はふと木かげから身を離して、いそぎ足で其処を去つた。

 ながいなあ。実にながいなあ。

 かう僕は独語した。そして、とある居酒屋に入つて、麦酒ビールの大杯を三息みいきぐらゐで飲みほした。そして両手もろてで頭をかかへて、どうも長かつたなあ。実にながいなあ。かう独語した。そこで、なほ一杯の麦酒を傾けた。そして、絵入新聞を読み、日記をつけた。僕が後戻して、もと来し道を歩いたときには、接吻するふたりの男女はもう其処にゐなかつた。

 僕は仮寓にかへつて来て、床のなかにもぐり込んだ。そして、気がしづまると、今日はいいものを見た。あれはどうもいいと思つたのである。


       二


 西暦一九二三年一月一日。けふは元日だと思つて床からすべり出た。冷い水で髭を剃り、朝食をぐんぐん済まして、三十八番の電車に乗つた。電車はまだすいてゐる。ゆうべは除夜で、〔Cafe'カフエ Atlantisアトランチス〕 のなかに入り、真夜中に、恭賀新年の杯を高く挙げて、午前三時ごろ其処を出た。街はいつもよりも少し暖く、一めんにもやがかかつてゐた。中天の月はあたかも秋の月のやうであつた。ゆうべは豚の児を撫でてやつたから、今年は運が開けるだらう。こんなことを電車のなかで思つた。

 電車は Grinzingグリンチング の終点で止まつた。そこで電車を降りて僕はゆきずりの男に道をたづねた。

今日こんにちは。Kobenzlコベンツル へまゐるには、どう行つたらいいのですか」かう僕は、帽子をとつてその男にたづねた。

「今日は。ああさうか。君は日本人か。君はドクトルSを知つてゐるか。かれは戦争まへに僕の友達ぢやつた」その男はいきなり手を僕の肩にかけてこんなことを云つた。

「君は、Kobenzl に何しに行くか。散歩か」

「けふは幸福さいはひをさがしに行きます」

「ははは。けふは上天気ぢやから、こんなに大きな幸福がおつこつてゐるぢやらう。ただあそこのめしは少し高いよ」

「そらあそこにほこらが見えるぢやらう。あそこから左の方の道を何処までも行きたまへ」

「ありがたう。さよなら」

「さやうなら」

 こんな会話がとりかはされた。その男は、幸福に、so grosse といふ形容詞をつけて、両手を大きくひろげて見せたりした。

 Kobenzl は、維也納の背後に控へてゐる、いはゆる維也納森林帯ウイネルワルドの一部をなしてゐる山峰である。Kahlenbergカーレンベルク, Leopoldsbergレオポルヅベルク, Hermannskogelヘルマンスコーゲル などはその姉妹山峰と看做みなしていい。維也納の背後に維也納森林帯のあるのは、伯林ベルリンの背後に緑林帯グリユーネワルドのあるにひとしい。ただ緑林帯の稍人工的なるに比して、維也納森林帯はおのづからなる寂びと落付とをもつてゐる。

 僕は Kobenzl にたどりついた。僕は太陽に向つて開運をいのつた。少年のころ、東海の生れ故郷でしたやうに、異邦の山上にたどりついて、目をつぶり首を垂れたのであつた。すると細い細い絹糸のやうな悲哀がこころの奥からいでてくるのをおぼえた。

 そこの家かげに残つてゐる堅雪のうへで、童子どもがスキーの真似ごとをして遊んでゐる。棒きれを足にくくり付けて辷る真似をするのであるから、童子どもはころころと転がつた。ここから見おろす維也納の街は、はるかに黄褐色のもやにつつまれてゐる。その澄みがたき靄のなかに寺の尖塔がかすかに見えてゐる。午後一時ごろここの食店で簡単に午食を取つた。安料理の匈牙利ハンガリーグラシユが、一万五千クロネであるから、なるほど、「あそこの飯は少し高いよ」であつた。僕は食後の咖啡コーヒーをしづかに飲ほしてそこを出た。

 ある人の銅像などが立つてゐる。そこを過ぎると宏大な市有のホテルがあり、いま閉ぢてゐる。その裏は直ぐ森林に続いてゐる。道は落葉にうづまり、雪解の水で靴を没するほどである。僕は爪先あがりの山道をなづみながら上つて行つた。森林はおほむね落葉樹林であるが、ところどころに松の木が繁つてゐて松かぜのおとがする。のぼつて行く山道のあるところに水が湧いて、そこに少しばかり青い小草をぐさが生えてゐる。「かりうどのみづ」などいふ小さい木札がぶらさがりゐる。

 そこを通つてのぼり行くと、規模が開けて大きくなつて来てゐる。木立が高く、ひろい谿間たにまを見おろすことが出来る。その谿間は一めんに落葉でうづまつてゐる。そして、しいんとして仕舞つて、今は一鳥だも啼かない。ここで満山の落葉を見おろしてゐる気持は、あはれな留学生の身の上でも、やはり感ずるに堪へたるものであつた。僕は、「空山寂歴として道心生ず」といふシナ文人の詩句などをおもひおこしながら、しばらくそこに停立してゐた。

 僕ののぼつて来た道はもうずつと細くなつて下の方に見えてゐる。そのとき、遙か下の方から人ふたりが上つて来た。男と女だ。その遠人ゑんじん目なしの男女が、少しづつ大きくなつて来るのを見てゐるのがいい気持である。すると、その二人は坂のなかばでひよいと抱合つて接吻をした。接吻はなかなか離れない。

 山水中に点出せられた豆人形ほどの人間の接吻はほとんど小一時間もかかつた。それから二人はほぐれて、だんだん僕のゐるところに近づいて来た。そして二人は、何かひそひそ話しながら僕の前を通つて行つた。

 その時、僕は何だかさげすむやうな気持で二人を見つめてやつた。男は痩せて鋭い顔をしてゐる。山のぼりの仕度をして、背嚢ルツクサツクを負つてゐる。女は稍ふとじしで、醜い顔をしてゐる。白いジヤケツを著て、おなじやうに背嚢ルツクサツクを負つてゐる。この男と女は、これから山越をして、この維也納森林帯の何処かに宿るつもりらしい。ふたりはいつしか谿の向うに見えなくなつた。

 僕は大いそぎで山を下りた。食店レストランのあるところから以下には間道があるので、僕はそれを下りた。途中で、やはり間道を下りて来た巡査に追越された。午前にあれほど晴れてゐた空は曇つて、つひに細かい雨が降つて来た。電車に乗る。夕食。活動写真をみる。帰宅。体を拭く。寝。けふは元旦であつて、どうも僕はいいものを見た。そして、開運と何か関係があるやうな気がして、ねむりに落ちた。


       三


 埃及エヂプトカイロー博物館にある、王アメノフイス四世が児を抱いて接吻しようとしてゐる、細部が見えなくなつた石の彫刻も僕の注意をいた。王も児も裸形のやうに見える。巌丈な椅子に腰かけてゐて、児は王の膝の上に乗りゐる。王は右の手で児の膝のところを抱き、左の手が児の後ろに廻つてうなじのところを支へてゐる。そして接吻するところである。全体が単純でも、旅人の僕の注意を牽いた。

 おなじくカイローの博物館に、ゼンヲスレト一世がプタ神を抱いて接吻するところがある。これは石柱の一部分で浮彫になつてゐる。王は神の腹のところを両手で抱いてゐる。神は右手を挙げ右を向き、王は左を向いて、鼻と鼻が既に接してゐるが、埃及流の直線的構図では唇を接せしめることが出来ない。そこで、唇と唇とが未だ少しく離れてゐる。国王が神明に接吻する図なども、旅を来てまたこれから旅をしようとする僕にはめづらしかつた。

 ある時、朝はやくヴエネチアを立つてパドワに来た。そこで基督一代の事蹟をあらはしたジオツトの壁画を見てゐた。そこで二つの接吻を見た。

 一つは、聖ヨアヒムに聖アンナが接吻してゐる図である。石門がかいてあるのは、それは即ち黄金門である。門の口は穹をなしてゐる。それが石橋に続き、石橋の終るあたりで、老いて髯の長い聖ヨアヒムと未だ若い聖アンナとが接吻してゐる。アンナは左手でヨアヒムの頤のへんをおさへ、右の手で後頭をおさへてゐる。ヨアヒムは右手をアンナの左の肩にかけてゐる。その容子ようすがいかにも好い。

 穹をなした門の口のところに若い女が四人ゐて皆微笑してゐる。その嬉しさうな面相が四人とも皆違つてゐて、実にいいものである。若い四人は聖アンナの友である。その四人のほかに黒い蔽衣で頭まで蔽うたおうながゐる。それは接吻を見ない振してゐる。左方に若い男が右手に籠をさげ左の肩に何か鍬のやうなものを担いでゐる。これもやはり微笑してゐる。聖ヨアヒムと聖アンナの唇は全く触れて描いてゐるが、二人とも目つきは笑つてはゐない。

 二つは、ユダが基督に接吻する図である。炬をかかげてゐるもの、竹槍、棒などを持つてゐるもの沢山、角笛を吹いてゐるもの一人などがかいてあつて、中央にユダが基督の両肩に抱付いて、唇を尖げて接吻しようとしてゐる。二人が目と目とを合せてゐるところである。その左手に短刀で人の耳朶みみたぶを切落したところがかいてある。その短刀の絵具が半ばげてゐる。この図は、

 起きよ、我儕われら往くべし。我をわたすもの近づきたり、此如かくいへるとき十二の一人ひとりたるユダつるぎと棒とを持ちたる多くの人人とともに祭司のをさと民の長老としよりもとより来る。イエスをわたす者かれらにしるしをなしてひけるは我が接吻くちづけする者はそれなり之をとらへよ。直にイエスに来りラビ安きかと曰て彼に接吻くちづけす。イエス彼に曰けるは、友よ何の為に来るや。遂に彼等進み来り手をイエスにかけとらへぬ。──馬太マタイ伝廿六章

 ここのところを描いたのであつた。ジオツトの、単純で古雅で佳麗で確かな技倆は、接吻の図に於てもその特徴を失はない。聖アンナの接吻図などは実に高い気品をつてゐると僕はおもふ。それのみではない。彼の四人の女の微笑をば、僕は日本国君子に伝へたいと思うたこともあつた。今はそれをも諦めて、泥濘の道を歩くにもいきどほりの起るやうなことはなくなつた。


       四


「接吻」の語はすでに陳腐に属する通語とほりことばであるが、佩文韻府にも、字典にも此の成語の無いところを見ると、どうも近世の造語ではあるまいかといふ気がする。僕は嘗てかう想像したことがある。「接吻」の語は、聖書の飜訳を企てたとき、上海あたりで新に造つた語ではあるまいか。すなはち、「接吻」の語は中華人の造つた飜訳語で、日本人はその儘採つて来たにすぎないとかう思つたのである。

 然るに近年版の広東話もしくは官話の漢訳聖書には、「接吻」ではなくて、「親嘴」としてある。たとへば、馬太伝第廿六章のところを次の如くに書いてゐる。売耶蘇嘅也曾俾個記号佢哋話我所親嘴嘅就係佢咯你哋捉住佢囉就即刻到耶蘇処話夫子平安就同佢親嘴。そこで僕は目下、もつと旧い漢訳聖書をしらべてもらふやうに友人に頼んでゐる。中華は古来いはゆる道徳の国であるから、たとひ古くから、「吻合」などの成語があつても之を接吻とは別の意味に用ゐ来つてゐた。以上の如く僕は想像したが、近頃日本で出来る漢和字典には既に「接吻」をば熟語として採録してゐる。そこで、ひよつとしたら「接吻」の語は、近世の和製語であるかも知れないと思ふこともある。なほしばらく考ふべきである。

「接吻」の語を、聖書では「くちづけ」と訓じてゐること上記のごとくである。しかし、古来日本では「口づけ」をば口癖くちぐせと同じ意味に使つて来たけれども、接吻の意味には用ゐなかつたやうである。

 秘かに思ふに、接吻を「口づけ」とませたのは、聖書の飜訳以来のことではなからうか。そこで、言海でも、辞林でも、言泉でも、稍古いところで雅言集覧、俚言集覧、倭訓栞あたりでも「口づけ」を接吻の義には取つてはゐない。然るに近頃新しい辞書が出来、古い辞書も増補された。その新しい辞書、増補された辞書を見ると、「口づけ」の条に、接吻に同じなどと瞭然書き記してあるやうになつた。中には、キス或は接吻に同じといふものもある。これは言語変遷の一つの例と謂つて好い。

 そんなら、接吻に相当する日本語は古来なかつたかといふに、それはあつた。而して、「口すひ」といふ語で代表されてゐた。秀吉が小田原陣から大阪へ送つた手紙に、「くちをすはせ」といふのがある。つまりあれである。それから、「二つ並んで舞ふ独楽こまのちよつとさはつて退いたるは人目忍んで口吸ひ独楽」などいふのもある。なほ端的なのには、「すはせつすひつしごきあひ」などといふのもある。なほ求むれば幾らでもある。ただ、これを万葉、古今、八代集、十三代集の和歌などに見出すことが出来ないのである。

 日本古来の文学には、「いざせ小床をどこに」「七重ななへるころもにませる児らが肌はも」「根白ねじろの白ただむき」「沫雪あわゆきのわかやる胸を」「真玉手またまで、玉手さしまき、ももながに、いをしなせ」「たたなづく柔膚にぎはだすらを」「にひ膚ふれし児ろしかなしも」などとは云つてゐても、官能を局部的にあらはす「口吸」の用語例は殆ど皆無と謂つてよい。おもふに古代の日本人も「口吸」をあからさまにいふことが、得手でなかつたのかも知れぬ、宇治拾遺あたりの「口すひ」の語は、近世の洒落しやれ文学の方嚮はうかうに発達して行つた。

 然るに、明治の文学は西洋流を交へたから、与謝野鉄幹さんあたりの国詩革新のこゑを急先鋒として、「あまき口づけ」といつた調べの短歌なり新体詩なりが、幾つも出た。

 接吻のことを漫然と書いて来て、sittliche Entrüstung といふ語を僕は聯想すべきであらうか否かとふと思つたが、それは恐らく無益であらう。大地震で日本はひどい目にあつて、僕も少しはもののあはれを感じたやうな気がするからである。ただ僕は「口づけ」といふ日本語はどうもまづいと思つてゐたから、いまだにそれが気にかかつてゐる。

 そんなら、「口すひ」を活かすかと謂ふに、神の額に接吻したり、女の手をおし戴いて接吻したりする場合には「口すひ」ではなくなつて来る。僕はいつぞや、「おきな草にくちびる触れてかへりしが」などといふ歌をこしらへたことがあり、ある詩人は既に「くちふれよ」「くちふれあひて」とも用ゐて居る。


補遺。耶蘇降生千八百八十三年米国聖書会社明治十六年日本横浜印行。訓点旧約全書には「其子に吻接せよ」「我に吻接せよ」「父に吻接す」などとあつて、ここでは「吻接」になつて居る。この漢訳から思付いて、邦訳が「接吻」としたのかも知れぬ。右、長崎高等商業学校武藤教授の教示をかたじけなうした。なほ大方博学君子の教示をこひねがつて僕の文を補はうと思ふ。

底本:「現代日本文學大系 38 齋藤茂吉集」筑摩書房

   1969(昭和44)年1129日初版第1刷発行

   2000(平成12)年130日初版第16刷発行

入力:しだひろし

校正:門田裕志、小林繁雄

2003年1212日作成

青空文庫作成ファイル:

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