半日
有島武郎
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地には雪、空も雪の樣に白み渡つて家並ばかりが黒く目立つ日曜日の午後晩く相島は玄關にあつた足駄をつツかけて二町計りの所に郵便を入れに行つた。歸り路に曲り角で往來を見渡したがそれらしい橇の影も見えぬ。「今日は廢めたのか知らん」と思ひながら横道を這入つて覺束ない足駄の歩みを運ばすと子供が凧の絲目をなほして居るのに遇つた。多分は父親でも造つてやつたのだらう、六角形の四枚張りで隅に小さく「佐倉」と名前が書いてある。日本の軍人が支那兵の辮髮を握つて劍を振上げた畫の赤や青に、雪がちら〳〵と降りかゝつて居る。「御免よ」と云ひながら相島は軟い雪に一足踏み込んでよけながら通つた。小兒は眞赤な顏を一寸上げて相島を見たなり又絲目をそゝくつて居る。
もう一つ角を曲ると自分の門が見えて、其の前には待ち設けた橇が留つて居た。齡の若さうな痩せた鹿毛が鼻尖で積んだ雪に惡戲をして居る。相島は其の馬をさすりながら又足駄を雪の中に踏み込んで門を這入ると、玄關の前に井田が居た。
「やア」
と相島は心の中で喜びながら快活に云ふと、井田は疲れた樣子でそれでもほゝゑみながら點頭いて見せた。
相島は大急ぎで中の口から上つて、自分の書齋を通り拔けて玄關に出ると、書生が既に戸を開けて、暗い家の中から明るい雪の庭が眩しい樣に見える。其の中に井田は矢張り少し氣の拔けた風で立つて居た。
橇は丁度門の前にあつて荷がそつくり見える。竹行李が二つ、柳行李が一つ、漬物樽が一つ、ストーヴが一つ、大きな風呂敷包が一つ、書棚が一つ、それ等がごつたに折り重なつた上に、簡單な机が仰向けに積んであつた。井田が黒の二重マントを式臺に脱ぐ中に出面は机を卸しにかゝる。相島は玄關の障子と奧の襖を外づす。書生は玄關につツ立つて其の力強い腕に荷を運ばうと待ちかまへた。
井田は外套を脱いで身が輕くなつたと共に不圖淋しい心持がしたが、それも束の間で、直ぐ机の下にあつた行李を運び始めた。恐らくは井田が淋しく感じた其の時であらう。相島は出面が運んで來た机の隅にくツついて居る雪を指先でさらひながら「まア宜い事をした」と何んの事はなくさう思つた。
電光の如くぱつと輝いた其の思ひはまた消えて相島は一心に荷物を己れの書齋の隣の八疊に運び出した。相島と書生とが梭の樣に這入つたり出たり五六遍すると、荷は室の中に運ばれてしまつた。井田は懷中から蟇口を出して出面に拂ひを濟ますと、出面は一寸禮を云つて馬の轡を引いた。
「おい、そりや馬方のぢやないかい」
と相島が井田の脱ぎ捨てた外套を指すと、井田は例の輕い樣で居て沈んだ語調で、
「いゝえ、是れは僕んです」
と云ひながら式臺に腰を下して靴を脱ぎにかゝる。相島は橇の鈴に氣を取られて暫らくは耳を澄ました。
書棚の位置も定まりランプや炭取はそれ〴〵の所に仕舞はれて、井田が住む可き室は彼處此處に雪のこぼれ、堆い皺くちやな新聞紙、赤と白のカタン絲で亂れた。それをまとめて書生が掃除にかゝると、井田はさも疲れた樣子で隣の相島の書齋に這入つて來た。相島は仕切りの襖を締めて廊下に出て、其處の押入れから茶碗を二つと土瓶と茶筒とをつかんで來た。
相島が前膝をついてそれを雜多に疊の上に置くと、
「未だ挨拶もしないで」
と云ひながら井田は一寸ゐずまひを直して頭を下げる。相島は無頓着な風で茶筒から茶をこぼし〳〵土瓶に移してストーヴの上の藥罐を下しながらにこついて居る。書生が隣から座敷を掃きながら、
「井田先生の來るのは大分評判になつて居ますよ。隣家ではフラヘットさんで先生の齡を卜つたら三十四とかの人だと答へた相です」
と云ふ。それを相島は引きとつて、
「うむ、長屋のアマゾン連も二三人出て見て居た」
と云ふ。井田も稍〻元氣づいて、
「隣とは何處です、彼處永丘? ア、飛んだお嫁さんが舞ひ込んで……蕎麥でも配らなけりやいけないのか知らん」
而して其の最後の蕎麥の事は稍〻眞面目で云つたのであつた。然し相島は平氣で居る。
「今日は君の爲めに湯を沸かして置いたから、少し休んだら一つ片付けて仕舞つて這入つたら如何です」
と云つたが井田は容易に立ち上らうとはしなかつた。而して二人は隣の長岡家に居る白痴の青年の話を始めた。
「妾の何んなんですか」
と井田が聞く。
「さうです。妾の子でもう二十八だ相です」
「大佐は矢張り一處に居るんですか……東京ですか」
「大佐は死んでしまつたんだ──もう餘程前ですよ」
と相島が説明する。
「三十四は驚くな、然し僕は此の頃何んだか青年と云ふ時代と別れる樣な氣がしてならないけれども」
井田は二十七歳である。實にいゝ齡だ。情は熱し未來の到達は未だ夢の儘で居る。實にいゝ齡だと考へながら相島は自分が既に三十二になつたのに思ひ入つた。而して屹と頭を擧げて、
「何、君」
と勢よく口を切る。
「未だ〳〵そりや人は僕等を青年としてはもう許さんかも知れないが、僕は未だ何處までも若い積りだ。さうだね、人は許さないだらうね」
と云つて齒を喰ひしばる樣にした。井田は、
「さうですね」
と云つてほゝゑんだ。井田は相島に對してほゝゑみつけたから、ほゝゑんだのであるが、心の中では深く相島の言葉を憐れんだ。而して又しても起る淋しい思ひをせき留め得なかつた。
「僕は君が來る前から思つて居たんですがね、是れから必ず毎週一篇づゝ創作をやつて、土曜の晩に朗讀會をしたら如何かと思ふんですが」
と相島は男らしい安坐の膝を組み直して又快活な事を云つて居る。井田は疑はし相に、
「出來るでせうか」
と又ほゝゑんだ。
「出來るさ……出來すさ」
と相島もにこついた。
斯う云ふ樣な話を低い聲で續けて居る中に、冬の日は急に暗くなつた。窓障子の紙の色が黒みがゝつた薄紫になつた。十日の月が光り出したのだらう。
井田は、
「それでは一寸片付けて仕舞ひますから」
と云ひながら立上つて隣に行つた。時々紙のがさつく音や重い物を疊の上に置く音がする。室は恐ろしく暗くなつて來る。相島は取殘されて疊に落ちた茶の葉を指先にくツつけてストーヴの臺の所に捨てて居る。書生が來て、
「先生、湯が沸きました」
と開きの外から云つてランプの掃除にかゝつた。井田の心の中には此頃、おツかぶさる樣な暗い一つの影がさまよつて居るのである。是れは恐らく彼れ程の年頃の者には誰れにでも起る影であらう。前途には眼もくらむ樣な輝きがある。彼れは今迄それを心の眼でぢつと眺めて、云はば心の中にある五官とも名づくべきもので、しみ〴〵と味はつて其の中に甘い悲しみと燃ゆる喜びとを感じて居つたのであるが、手を反へした樣に此頃其の感じが薄らいで、彼れは肉と靈との間の痛切な吸引力に動かされずには居られなくなつた。事實に觸れ度い、事實、事實、事實、事實と彼れの全身全靈はをめき叫ぶのである。
それのみならず周圍の境遇は井田に逼つて結婚の決心を促した。こんな事は是れまで井田が思ひもよらぬ事であつた。此の不可思議な人生の一事件を全く客觀的に見て、井田は隨分大膽な解釋を爲して居たが、事實に踏み込まうと云ふ彼れの心と其の友等の熱心な勸告と、斷ち切り難い人の習慣とが激しい權威を振つて彼れの上に臨むのである。若い彈力性のある心が、善惡は兎あれ、是れに抵抗はずに居られようか。
井田の血色が惡くなつて時々淋しい心になつた。
井田は尚ほ暗闇の中に片づけ物をして居る。相島は井田が持つて來た「帝國文學」を開いて眉を顰めながら窓明りで井田の文を讀んで居た。相島はまだ獨身だが實は既に婚約をした身である。世に彼れ程外觀内容のちがつた人間も珍しからう。彼れは始終快活で呑氣でそゝつかしい骨太ではあるが、頸や手足が小さくて何處かに女性的な小兒らしい面影が見えぬでもない。然るにその内部の傾向は餘程外貌とは異なつて居る。富裕な家に生れて攫むべき機會は幾何も與へられながらそれに對して冷淡な事は驚く計りである。一かどの專門家たり得べき才能を持ちながら、それを其の方向に用ゐようとはしない。三年程外國にも行つて居たが、歸つて來ても格別見識學問を増した樣子もなく、身のとりなしが丸で二十二三の青年同樣である。結婚の問題の如きも、昔から提供せられたものだが、彼れは超然としてそれを跳ね付けた。恐らく彼れの父なる人の頭に白髮が増さなんだならば、彼れは何處までもそんな調子で居たかも知れぬ。其の癖眞身に彼れの心の戸を敲くものがあると、思ひがけない藍色の悲哀がふいと顏を出す樣な事もあつた。
井田が室内を片づけ終つた時は既に夕餉の支度が出來て居た。井田は湯に這入らうと持つて來た石鹸や手拭をランプ棚の上にのせて中の口に出て來た。此には五分心のランプがチヤブ臺の上に載つて居る。加賀産れで丸々と克明な門徒のばアやがもご〳〵云ひながら挨拶すると、井田も口の内で何か云ひながら、世話になると云ふ心を示した。チヤブ臺の上には豆腐の汁と何か魚の煮たのと井田の持つて來た淺漬とが置いてある。書生を合せて鼎座で箸を取つた。
「今日僕は教會に行きますがね。ひよつとすると楠が來るかも知れないが、さうしたら教會に居るからツて、さう云つて呉れ給へ」
と相島は書生に言ひながら井田と共に食卓を立つた。而して一寸休んだ後、袴をはいて黒い毛絲の頸卷をまき付けて氣輕相に出掛けて行つた。
井田は自分の室からソフォクレースの悲劇集を持つて來て開いて讀まうとすると、書生が來て湯の事を云ふので這入りに行つた。暗いランプの下には濛々と湯氣の立ち籠めた狹い風呂場ではあるが、長く下宿屋の生活をして町湯にばかり這入りつけた彼れには一種家庭的な心地がする。井田は暖く濕つた手拭を顏に押しあてた儘暫く解ける樣な疲れの味を味つた。「相島と云ふ男は何んだつて教會へなんぞ行くんだらう、矢張り囚へられてる連中か知らん」と思つたが、さうは解釋し度くなかつた。今井田が住む町で相島が一番趣味の合つた話相手なのである。井田は顏から手拭を取つて上向き加減に湯氣の奧の暗やみを見やつて又何と云ふ事なしに考へた。不圖隣の長岡家からけたゝましい驚いた鷄の樣な聲が、手に取るばかりに聞えたので不思耳をひき立てた。それが二度三度と聞える。「白痴の青年だな」と井田は思つた。而して不思議にも彼れの想ひは東京の自分の家に飛んで、弟の面影がまざ〳〵と眼に浮んだ。井田の眉は烈しくひそんで同時に眸が異風に輝いた。すると又叫びが聞える。井田は舌鼓を打ちながら「傳染り相な聲だな」と不知に獨語して頭からまくしかゝる或者をつき破るかの樣な勢で、さつと風呂から立上つた。
相島は其の頃丁度教會に着いて居た。辷り相な石段を上つて男子入口の戸を開けると暖い空氣と華やかな光とが暗と寒とに逆らつて流れ出た。見ると牧師は腰掛の一端に倚りかゝつて後向に一人の青年と話をして居たが、相島の這入るのを見ると、其のつや〳〵しい長い髮を電燈の光に輝かして一寸挨拶をした。相島は地味な衣服を着た居竝んだ一群の婦人席を一寸顧みて末席に腰を下した。
「それでは少し讚美歌の練習をしませう」
と軈て牧師が男らしい聲で快活に云ふと、女で居ながら人の前で決して面をかぶらない、其の細君は飾氣のない身ぶりで腰掛を立上つてオルガンに近づいた。風呂敷の中から讚美歌集を取り出す音が暫くざわ〳〵と聞えた。
オルガンが鳴り出すと相島は昂然として腰掛から立上つたが、餘の人は坐つた儘で居る。歌が起る。「神よ己が願ふ所は重荷を輕められん事にあらず、願ふはそを負ふに堪ふるの力を與へ給はん事なり」と云ふ意味の歌が離れ〴〵の調子で物惰げに堂に滿ちた。相島は低い力のある聲で半ばまで歌つたが「くだらん」と思ふと本を閉ぢて坐つて仕舞つた。而して眼をねぶつて皆の歌ふのに耳をかたむけた。離れ〴〵の調子で物惰げにゆるく音律が流れて電燈の光までが暗くなる樣に思はれる。「もう少しゆるく歌へば好いんだ、さうすれば基督教なんぞは滅びて仕舞へるのに」と云ふ樣な冷刻な考へが深い淵の中に石が沈んで行く樣に彼れの感情の最下底に落ちて來る。
拔き足で相島の前の腰掛に坐つた人があるので、相島が眼を開いて見ると楠であつた。病院に居る妹の處から來たのだらう、彼男は屹度妹に親切に違ひない。乙に取すました調子で看護婦や妹の友達などが出入する室で色々と世話を燒くのだらう、始終良心に攻められて居る樣な顏をして實際も多少は攻められながら萬人の行く大道を利口に先走りする典型だなと相島は益〻皮肉になる。不圖許婚の自分の妻の事が眼に浮ぶと四圍が急に華やかになる。東京をたつ其の日荷物を造りながら「安子僕の名を呼んで御覽」と云ふと顏を赤めてはにかんで仕舞ふのを近寄つて肩に手をかけながら「安子」と云つても返事をしない、又「安子」と強く云ふと下を向いて前髮を振はしながら聞えない程に「雪雄さん」と云つた。相島は不思心がときめいて、息のつまる程かき抱いて始めて女と云ふものの脣に自分の脣を觸れた。其の時の事を思ひ出したのである。彼れの眼の前には教會もない、讚美歌もない。今まで妻の事を思ひつめながら見詰めて居た、前の腰掛に爪で書いてある「明治三十九年八月二十二日」と云ふ字もない。顏がほてるのさへ覺えて、頬から今日剃つた顎にかけて撫で𢌞すと、はツと夢が覺めた樣になつて相島はふツと氣息を天井に吹いた。同時に「それが何んだ」と云ふ聲が雷霆の如く心を撲つたので、彼れは「へん馬鹿め」と誰れかに鼻の頭でもはじかれた樣な顏をした。
相島が眼をさまして見𢌞すと、會堂には三分程人が坐つて居た。牧師はやをら身を起して講壇に登つたが、例の黒い運動着が又眼に付く。松崎には似合つた代物だが、松崎牧師としては不似合極まると心の顏をしかめながら思つた。讚美歌が濟み聖書の朗讀が濟み松崎は思ひ入つた樣に原稿の皺を伸しながら「モーゼの神と基督の神」と云ふ題で傳道説教を始めた。モーゼが四十年の間アラビヤの砂漠をさまよつた事、基督が四十日の間荒野の中で苦しみ給ひし事、そんな事が時々相島の耳を撲つたが、相島の心は説教に耳を傾けて居ないで、隣に坐つて居る二人の青年のさゝやきに耳を傾けて居た。中學生であらう、二人とも生意氣らしい。一人はにきびの出來た顏に強い近眼の眼鏡をかけて居る。
「おい行かうか」
と一人が云ふと、片方のが指さしをしながら小さな聲で何かさゝやいたが、相島が邪魔で出られないぢやないかと云つたのが相島にはすつかり判つた。又話がつゞく。
「うまいね」
「○○ぢや一番うまい」
「だけど、もう厭やになつた」
「己れもよ」
「來て居るかい」
と一人が婦人席をのぞく。
「馬鹿ツ」
と一人が大きな聲で云つて、二人で高笑ひをする。聽衆は過半振反つて青年を見たが、相島は振囘つた聽衆を睨みかへしてやりたかつた。相島は此の二人の青年と此の振囘つた聽衆との間に伍する事が腹の立つ程厭やになつた。而してぶツつり下を向いて腕を組むと遂に彼れの心の底の蓋が口を開いた。相島ははツと生れ代つた樣に眞面目になつた。超越した人生を送るのに何の誇りがある、我が見る所聞く所が人生ではないか、人とあるなら見事に其の中に生き通せ、彼等に伍し彼等を愛し得られぬ位なら死んで仕舞へ。天才と稱せられる少數の人の間に呼吸をするのは、最も醜惡な空氣を最も高尚に吸ふ事だ。其の人は最もまとまつた人生の圈外を歩くものだ。高い所から下を見てあざわらふ、そんな卑劣な惡魔的な態度に安住すべきでない。
最も高尚な空氣を最も醜惡に吸つて生きろ。
相島はひし〳〵と基督の人格に觸れた樣に思つた。漁夫や税吏や娼婦やマグダレナのマリヤやザーカイやの間にまじつた基督の顏を見る樣に思つた。而して殆んど涙にあふれんとする眼を擧げて牧師を見た。説教は進んで牧師の意氣も昂つて居た。あの牧師は科學の思潮には最も觸れ易い學校の出身者で、實生活と云ふものにも鋭敏な感覺を有つた人であるのに自ら好んで基督の宣傳者となり、其の同窓等が一かどの科學者として宗教其の者の存在をすら疑はうとして居る間に、獨り目立たぬ苦鬪をして居ると思ふと、相島は眼の前に一個の殉教者を見る樣な心持がして熱心に其の姿を見やつたのであつた。而して相島は嘗て日記にフォックスの事を書いて「われは彼れを尊敬す。されど神は歩むべくわれに他の道を賜へり」と結論した事や「人は其の終局に於て遂に孤立せざる可らず」と書いた事やを思ひ出した。
禮拜が終ると相島は楠に一言二言云つて直ぐ教會を出た。外套を着ない懷に夜風がしみて空の星が交る〴〵近くなつたり遠くなつたりする樣に光る。急いで淋しい町に這入つて何んとなく唯〻急いだ。「他の道」「孤獨」と云ふ樣な字を繰返し〳〵考へたり、やめたりして、彼れの心はせき立てられる樣な不安に充ちた。
家近くの露地で相島は突然雪の上にすべつた。彼れは元氣よく起き上つて手袋を脱いで腰の雪を拂ひかけた途端、
「貴樣はすべる時屹度人の居ない所ですべるぞ」
と云ふ聲が心の奧でした。彼れは雪を拂ふのをやめてしまつて肩を怒らしながらづか〳〵と歩いて家に着いた。書齋の唐紙を開けると明るいランプの下に井田はソフォクレースを讀んで居た。相島は火を見る事が好きな男で、蝋燭の火が一番綺麗だとか、油煙の立つランプ程癇癪の起るものはないとか云つて、此の町に來てから四度ランプを取り代へた。彼れは今此の明るい火を見て總ての事を忘れた樣な快濶になつて黒い頸卷と鉢の高い帽子とを玄關になげ出したなりどつかりストーヴの側に腰を下した。井田は書物から眼を放して稍〻遠慮げにほゝゑんだ。
「唯今……湯に這入りましたか」
と云つて相島は井田の机の上に眼をやつて、
「其のソフォクレースの表裝は大したものですね」
と腕を伸してそれを取つた。
「えゝ是れは安くつて一寸好ござんす」
「あゝ本當の皮ぢやないんですね。是れが本當のだといゝんだが……古いのはいゝですね」
「えゝ」
「どうです是れは面白う御座んすか」
「矢張り希臘のものには云はれない好い所があつて、何んだか大きい深い樣な所がある樣ですね」
「はアさうかナ」
と云つて相島は小兒の樣に羨まし相な顏をした。而して話題は暫く希臘の世界に這入つて行つた。井田は何時でもかうなると顏が冴える。聲にも力が出てパリスの悲劇を語り出した。相島は依然として羨まし相にそれを聞いた。而して不圖思ひ出した樣に立上つて隣の室の書棚から古びた一册の書物を持つて來た。
「何んです」
相島は意味の分らないほゝゑみかたをした。
「是れはねえ、是れでも僕が……學校に居た時は夢中で愛した本だ。こんな風に表裝までさしたんです」
それは若くて死んだ一基督教青年の遺稿であつた。黒皮の表裝で中には相島が自分で描いた揷畫が入れてあつて、詩や文には赤青の線が引散らしてある。相島はなつかし相に彼處此處とページをまくつて躊躇して居た樣子であつたが、やがて其の中の一つの詩を讀み上げた。聖書の雅歌其の儘の調子で意味のまとまらぬ樣な事が書いてある。井田は、
「いかにたゝへん、いかにほめん」
とか、
「あまつそらに、今日始めて歌の組の首となり
香とび散る百合の影に」
とか、
「此世にて又遇ふべきか──遇はざるか
此世にて又遇ふ事のなかれかし。
又遇ふとは恨の井戸を深く掘りなして
若水くむなり」
とか云ふ句を處々聞きながら默つて首を下げて居た。下らん何んで相島は時々あゝ平凡になるんだらうと考へながら彼れの心は今迄で熱烈に彼れを捕へて居た希臘の悲劇に飛んで居る。一つの歌を讀み終ると、相島も氣が付いたらしい、自分もつまらなさ相に其の本を投出したが又拾つてページをばら〳〵とやつて又なげ出した。井田は何んだか氣の毒になつて其の書物を取上げて見たが、どうしても下らんので下に置いた。話が一寸途切れる。
相島は側にあつた籃を引寄せて、其の中から皮の色の見事に紅い林檎を選んで、器用に皮をむいて口に入れるとさく〳〵と渇いた人の樣に噛んで居たが、やがて眼をつぶつて林檎をふくんだ儘で默つて居る。やがて、
「うまい」
と眼をつぶつた儘で云つた。
其の時突然玄關の戸を動かしたものがある。相島は一寸立つたが思ひついた樣に後がへりして先刻の古い本を持つて出た。玄關の所で話聲がする。
「先刻は失敬」
と相島の大きな聲がすると、小さな聲が何か云つて居た。
「是れは僕が嘗て愛讀したんだが、此の外には一寸日本の本はないからまあ持つて行つて見給へ……こんなものでも病人にさはるといけないから、初めに君が讀んで見てくれ給へ。それで關はないと思つたら病院に持つて行きたまへ」
「楠だな」と井田は思ひながら、すつと奧齒に氣息を引いて小腕を膝頭に乘せた儘「大和」を拾ひ上げた。
楠は夜更くなつて濟まなかつた事や、本を貸して呉れた事の禮やらを今夜は殊に丁寧に小さな聲で云つて歸つて行つた。相島は楠が返してよこした書物三四册を抱へて書齋に這入つて來た。
フラウ・ゾルゲとハイマートとサンクト・ヨハニス・フォイエルとインガソールの文集とであつた。井田は其の中からフラウ・ゾルゲを取上げて、
「貴方も是れをお持ちですね、僕は此間丸善に註文して置いたが」
と云つた。
相島は井田がフラウ・ゾルゲの飜譯に着手しようとして居るのを知つて居る、而して「あれが井田の弱點だ。井田は動かされ過ぎる、も少し執着するといゝんだ」と思つた。此の時相島は自分の企てて居る飜譯の仕事が井田の心を動かしたのだと推して居たのだ。
それから二人の間にフラウ・ゾルゲの内容に就て話が進んだが、どうした調子か話頭が戀愛の事になると、相島は突然彼れの周圍に起つた種々の事件を語り出した。彼れの妹が道ならぬ戀の爲めに死なんとした事や、弟に夫婦約束をした女のある事や、其の他其の友達の上に起つた事迄も大膽に打開いて物語つた。井田は此の話を聞きながら相島を見ると、其の眼は異樣に輝いて、繰出す言葉には熱がある樣である。相島は如何にも井田を親しいものの樣に思つた。何にもかにも今夜を過さず云つて仕舞ひたくなつた。而して井田が、
「今度は君の懺悔を聞き度いものですね」
と云ふと、彼れは淋しく笑つてかう云つた。
「僕に打込む樣な女を見ると、僕は其の女が低い女だと思うて取りあはないし、僕が打込みたいと思ふ女に遇ふと其の女の愛を受ける事が何うしても出來ないものと獨りで定めて仕舞ふもんだから僕にはローマンスなんかはないんです……考へて見ると僕の行方は皆んな左樣だね、何に一つ取捕まへて固着しなければうそだとは始終思つとるんだが、其處がさう行かないんだ。第一取捕へて仕舞へば其奴が安つぽいものになつて仕舞つてそれに執着するなんて云ふ馬鹿は出來なくなるさ……畢竟僕なんざア斯う云ふ風に安住の地を求めて、それに安住したら一つの仕事をしとげる氣で居て一生涯安住の地なんぞは見もしないで死んじまふ典型だと思ふんです」
と何時もの咄辯に似ずすら〳〵と言ひ切つて、成程と心からうなづいて見せた井田を見やつた。而して暫くしてから懺悔をする人の樣に少し下を向いて、
「つまり僕は心のどん底が臆病なんですよ」
とつぶやく樣に云つたが、ふツと擧げた其の面は見違へる樣に快濶になつて居る。井田はこんな不思議な變化は自分に絶えてない所だなと思ひながら、
「僕もどうも左樣な樣だな」
と低く云つてぢつと相島の顏を見返した。
二人の話は又暫く途切れた。段々と淋しみが二人の胸に逼つて來る。此の二つの心は急に密接した爲めに、今は都て恥かしい樣に一種の遠慮を感じ初めたのである。相島が、
「どうです、もう寢ようか」
と口を切ると、井田も、
「左樣ですね」
と重く贊成をしたが身體は割合に輕く立上つた。
相島は自分の布團をひきながら、
「井田君、君は初めて他人の家に泊る時でも同じ樣に寢られますか」
と聞いた。自分の室に退いた井田は、一變した自分の境涯を見𢌞しながら、
「さうですね、寢る事もあるし……」
と單純に答へる。相島は何か尚ほ話を續けたい樣であつたが、
「今日は疲れたから寢られるでせう……左樣なら」
と云つて床にもぐつて仕舞つた。井田も仕切の襖を締めて床に就いた。消したランプの油煙の匂と蜜柑の皮の香が室に滿ちてストーヴのぬくもりが氣味の惡い程である。井田は寢ながら相島の性格を色々に考へて見たが、其の奧の方に中々分り兼ねる節が一つある。兎に角數箇月彼れと同居するのは面白からう、事實事實さうだ。此處にも事實がある。如何して自分は事實を眼の前に見ながら、其の事實に觸れて見る事をしないのか知らん、東京の姉は今何をして居るだらう。子供の眼がさめて乳でもやつて居るか知らんと思ふと、自分に似た眉頭の邊がまざ〳〵と見えて來る。それが不圖近頃結婚した内山の細君の顏になる。ソフォクレースの悲劇集の中にはさんであつた、内山の去年の夏の手紙の中の、
「われとわが思ひ定めし人の行末は、知る人も知る神もなし……彼女は益〻われに忠實なれば、わが心は切らるるが如し……煙を見よ」
と云ふ樣な煩悶の句がちぎれ〳〵に頭に浮んで來る。事實に觸れなければいかんと思ふ。内山の細君の樣な人を自分も、思ひ切り命かぎり戀して見たい樣な氣がする。内山の妹の十四五の幼な顏が見える。結婚と云ふ事に考へが向くと彼れの眼はぱツと冴えた。此の時隣で相島が、
「君未だ寢ないんですか」
と聲をかけた。
「えゝ未だ寢られません」
と云つて井田は眞面目に寢ようと身體を一ゆすりゆすつた。相島は寢床に這入ると非常に疲れて居た。「井田君は甘く寢られればいゝが」と彼れは心から親切にさう思つた。而して體質の健康な彼れは井田よりも少し早く深い眠りに陷つて居た。
底本:「有島武郎全集 第二卷」筑摩書房
1980(昭和55)年2月20日初版発行
底本の親本:「有島武郎全集 第一卷」叢文閣
1924(大正13)年4月5日発行
入力:土屋隆
校正:木浦
2013年4月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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