貝殼追放
愚者の鼻息
水上瀧太郎



 人をつかまへて親切めかして忠告するのは、人をつかまへて無責任に罵倒するのと同じ位いい氣持なものである。

 これは自分の座右の銘では無い。大正七年二月深川區猿江町吉村忠雄と封筒には署名し、半紙七枚に鐵筆で細かく書いた「水上瀧太郎君に與ふ」といふ文章に次郎生と名つた人から難詰状を受取つた時に、ふと自分の腦裡に浮んだ安價なる詭辯である。

 吉村忠雄氏事次郎生、若しくは次郎生事吉村忠雄氏、或はもつと正確にいへば吉村忠雄及び次郎生事某氏は、

瀧太郎君足下

余は君とは昵近の間柄のものである。否獨り君のみとは言はず君の一族同胞には格別なる近親の者である──君の生立や兩親や乃至は平常生活から家庭に於ける起居皆一々手に取る如く知り拔いて居るものゝ一人である。

ではあるが君が文學に趣味を持つて居る、文才に長けて居るといふ事を他人から聞き傳へたり紙上で見たりしたのは比較的後の事に屬するのである。

それは何故かといふに君が筆を執る際は必ず姓名共に別名を用ひて居ること、も一つは余が餘りに君とは近親であるから平常君が文學書などひもといて居るのを知つて居ても、所謂文士仲間にう言はれる程では勿論ないし、猶又何にの子供が──といふ觀念が先入主となつて居た事とが、余の君の文才を知ることのおくれた主たる原因であると申したい。

 と書出して、扨てその人は自分が「所謂文士の仲間入りをして居る」事を知り、

彼の子供がんな事を書くだらうとか、どんな文藝上の手腕をもつて居るだらうとか、或は題材は何んなものを捉へるだらうとか、それはそれは余の君に對する期待は蓋し豫想外に大きなものであつたのである。

 と稱してゐる。而して御苦勞樣にも「多忙な身ではあるが、三田文學に出た作品は一つ殘らず讀み」、先頃大阪毎日及び東京日日新聞に連載された「先生」といふ小品も毎日缺かさず讀んだのださうである。けれども、

余の期待の餘りに大き過ぎた爲であつたか、或は又余の文學に對する眼識が偏狹であるかは知らぬが、左程までに大なりし余の期待は君の作品を漁り行くに從つて次第々々に薄れて、果ては大なる失望と化し去つたのである。特に「先生」の一篇を見てからは更に其感を深くした次第である。

 と殘念がつてゐる。

 以上が吉村忠雄氏又は次郎生の「水上瀧太郎君に與ふ」のはしがきで、自分及び自分の家をよく知つてゐて、水上瀧太郎を「なんの彼の子供が」と思つてゐると稱する大人は、次の如き詰問と慢罵に移つて行つた。

瀧太郎君足下

余は勿論君とは生活状態も違ふし、文藝に就いて彼是れ議論を戰はす程の素養を持つては居らぬ。

が少し君に尋ねて見度いと思ふ事がある。それは外ではない、文藝の價値といふ事である。それも總括的に文藝其物に就てでなく新聞紙の如きあらゆる階級に──階級といつても上下卑賤をさすのではない、主として文藝を解する解せないを標準としてである──に接する機關に公表する場合のものをいふのである。余は斯うした場合の價値は其作品即ち小説なり隨筆なりが一般讀者の感興を惹くことの多少と、勸善懲惡的な誘導力の多少とにり決するものと思考するものである。そして此點が文藝雜誌などにて發表する場合と違ふ事と思ふのである。君は之に關し如何樣な意見を持て居らるゝか御高見を伺ひ度い。余は後者に於ては其讀者が前者のそれとは違ふし、又後者其物の天職も前者とは違ふ。同じ「先生」でも後者にはあれでも宜いか知れぬが前者には不向なものと思ふ。單に不向な許りでなく第一物になつちや居ない。余はれを讀んで何等の感興を催さなかつた。

 これは吉村忠雄氏又は次郎生の文藝觀で、如何に大人といふものは頭腦あたまの惡いものであるかを證明してゐる。最初に「彼是議論を戰はす程の素養も持つてはおらぬ」と公言してはゐるものゝ、續いて自己の文藝觀を説いて相手方の意見を伺ひ度いと云つてゐるのは、即ち「彼是議論を戰はし」度いのであつて「素養も持つて居らぬ」といふのは單に自らを低くし得たりとする習慣的禮儀に過ぎないので、實は存外自分の功利的文藝觀に滿足してゐるのである。かうして自分の立場を明かにして置いて、吉村忠雄氏又は次郎生は「先生」の一篇に對して批評を下した。

恐らく余ばかりでなくああいふ書きなぐり物では天下の人皆さうであらう。先生は天下の人の認めて、以て偉人とする偉人である。さういふ人の平素の洒落しやらくな處を寫さう偉なる言行を寫さうとするならば、もつと讀者の興味をそそり深刻なる印象を頭に殘す樣なものでなけらねばなるまいと思ふ。彼の作は此點に於て先づ全然失敗して居るものではなからうか、即ち題材としての平素の言行の取り方が當を得て居ない。はやきこと風の如きものの後には動かざること巖の如きものを、靜なること林の如きものの後には波瀾幾千丈といつた風のものを配するとか、坦々でなく紆餘曲折端睨すべからざる中に偉人の俤を偲ぶといふ風にするのが眞に是れ偉人を偉人として遇し、讀者の興味をいやが上にも湧き立たせ、且つは後世の人々をして其俤を偲ばしむる眞の方法ではあるまいか、文筆の炳乎日月の如く後世を照らすとは實に此事を言つたものではなからうか。或は足下は言はん、先生はる波瀾に富んだ性行の人ではなく、世に平凡なる偉人と言はれし通り頗る常識の發達せる平凡なる人であつたと。併し足下よ言ふ勿れ、當時は吾國開闢以來の思想の動搖轉換期にして實に先生は其の先唱者にして又中心點なりしなり。其の言行や奇拔にして當時の人にしては奇想天外より落つるといふ樣なことばかりされた人である。

君の「先生」に對して詳密なる批評を下すといふことは又他日に讓るとしよう。茲では單に何等讀者に感興を起させない作は價値に乏しいものである、そして君の「先生」は正しく斯る種類のものであると云ふに止めて置き度い。

 此の一節は吉村忠雄氏又は次郎生が、最もいい氣持で書いたものらしく、陳腐な形容詞を澤山持ち出して、見當違ひの議論を吹掛けてゐるところは、近代の文章特に「先生」の鼓吹したやうな進んだ文章に馴れた若い者には、到底吹出さないでは讀めない程愛嬌に富んでゐる。自分は非常なる興味を以て讀んだ。若しも低級なる興味でも敢へて構はず、讀む者を面白がらせるのが文章の第一義だと吉村忠雄氏又は次郎生が考へてゐるならば、期せずして人を失笑せしめる氏の文章なども「炳乎日月の如く後世を照らす」種類のものかもしれない。

 次に吉村忠雄氏又は次郎生は、自分に忠告して左の如く述べてゐる。故意か粗忽か今度は、

瀧太郎足下

 と君の一字が無くなつてしまつた。

夫れから次にも一つ御尋ねしたいのは君が文章に親んで居られるのはあれは好きからに、弄んで居られるのか、或は本職的に沒頭されて居るのか、余は何れでも宜しいのであるが、右とか左とかそれに依つて些か注文があるのである。

あながち君に對して興味を棄てよと云ふのではないが、内々に好きからに筆を執つて樂んで居るといふのならば餘り駄作は公表せぬがよいではないか、些か自ら文筆に得意なといふので鼻にかけるのは宜ろしくない。時々の創作物を可然しかるべき先生なり先輩なりに添削して貰つて樂んで居ればよい譯である。何も公表して見せびらかす必要はあるまい。それから本職として居るといふならば誠に情けないことだと思ふ。先きにも一寸述べた通り世間でう云ふからどんなかと思つて居たらまだあんなものを書いて居る!五年も七年も其途に親んで居て夫れでまだ彼れ位のものだとすれば一層の事止した方が宜しからう。それよりも君が專門に修めたものでも確乎しつかりとやつたがれ位國家を益するか知れやせぬ。二兎を追へば一兎をも得ずで兩方とも半噛りになつてしまふ。

君が先年笈を海外に負ひたるも何の爲であつたか、徒らに「汽車の旅」を書く爲ではなかつたらう。必ずや其修め得た處のものを以て大に活動せんが爲であつたらう。今や國事は日々に多端で三文文士の御託ごたくを聞くよりも一人でも多くの實際家を必要として居る。思想界の如きは少數の天才肌の人に任せて置けば宜しい。趣味を持つて居るとか多少の文才があるとか云つて、レベル若くはレベルより稍々上へ出た位の者が吾も吾もとウヨウヨ集まる必要はない。思想界の明星となつて國民を左右するのも宜いが、目下の急務はハンマアを能く使ふ人を國家はより多く要望して居る。思想界の中でも君のは小説や隨筆の樣なもので目下大して缺乏して居るものでもない。

 論旨は益々亂暴になつて、攻撃されて居る筈の自分は寧ろ喜劇を見てゐるやうな笑ひを止める事が出來ないのである。

瀧太郎君足下

第三に君に尋ねたいのは君の文藝名である。多くの所謂文士と稱するものは大概皆名前だけ雅號樣のものを用ひて居るのに君は姓までも變へて居る。彼れは何故本姓ではいけないのか、あれは法律で名前だけにしろと定めてある譯でなく各自が勝手に假の名を用ひるので、夫れも是非とも用ひなければならないといふ規定がある譯ぢやなし、であるから余は姓迄も改めて居るのだと言へば夫れまでだが、男子が筆を取つて天下にまみへるのならばすべからく堂々とやるべしだ。それが慣習とか或はさうするに至る歴史とか故事とかがあるといふならば名前だけ雅號を用ひて、姓は本姓にして置けばよいではないか、何うだらう此事は?

 吉村忠雄又は次郎生と稱する「堂々たる男子」で、しかも匿名を用ゐてゐる人は、「先生」が新聞に出てゐる中に此の一文を寄せて掲載を中止させようと思つた程だと云つてゐる。さうして他人の雅號を用ゐる事を云云しながら、

余は今此書を匿名でもつて君に呈上するが、之は暫時許して呉れ玉へ、其中には屹度判る時が來るから、君も此書を手にしたからには何人が寄越したかと屹度疑念を抱くことだらう、何人であるか當てて見るのも一めん面白いことだらうと思ふ。

 といい氣なよたを飛ばした擧句に、

以上の問に對して日々紙上なり三田文學なりへ御答をして下さつたらば、余の頗る幸甚とするところである。(二月十八日夜)

 と最後を結んだ。

 吉村忠雄又は次郎生は、自己の匿名を辯護して、「何人であるか當てて見るも面白いだらう」と云つてゐるが、自分には自分の「近親者」の中にこんな馬鹿々々しい人間を發見する事は出來ない。この「堂々たる男子」は深川區猿江町と封筒には書いて居るけれど、郵便局の消印は三田局で、大正七年二月十九日午前十時と十一時の間に受付けたものである。自分には深川猿江町に住む親類も友人も無いから、これも亦「堂々たる男子」の卑怯なる詐術トリツクに過ぎないのであらう。

 何れにしても自分には誰人の手に成つた一文であるか見當がつかない。文中見るところの目ざはりな田舍訛、例之たとへば「なけらねばならぬ」「好きからに筆を執つて」などと云ふのを見ると、頭腦ばかりでなく起居動作も粗野な人間なのだらうと思ふけれど、そんな粗野な人間を「近親者」の中に見出す事は出來ない。或は吉村忠雄氏又は次郎生は住所を詐り、姓名をかくすのと同一筆法で「近親者」だなどと嘘をついてゐるのかとさへ疑はれる位、誰人の所業か推測さへも不可能である。兎に角自分は自分の近親者の中に、かういふ沒分曉漢わからずやの居ない事を希望する。

 吉村忠雄氏又は次郎生は「あの子供が」と輕蔑した語調で繰返してゐるが、子供は常に大人よりも悧巧である。自分は自分よりも年長の者よりも年少の者に對する時の方が怖ろしい。若き時代は常に一種の脅迫的壓倒力を以て自分の後に迫つて來る。子供を馬鹿にする者は自分の耄碌に氣の附かない人間に違ひない。

 詰問者は明かに「先生」に對して義憤を發してゐる。不幸にして自分は彼の一篇に對して自らその出來榮の勝れてゐないのを恥ぢてゐる。從つて彼の作品が「物になつちや居ない」と云はれても爲方が無いと覺悟してゐるが、しかし吉村忠雄氏又は次郎生の言ふやうな見當違ひの攻撃に對しては、甘んじて首肯する事は出來無い。

 第一に吉村忠雄氏又は次郎生は、文藝の價値は「一般讀者の感興を惹くことの多少と勸善懲惡的な誘導力の多少とに由りて決する」ものだと云つてゐる。尤もその前に、それは「新聞紙の如き上下卑賤あらゆる階級」を通じて讀まれるものに公表する場合と斷り、更に上下卑賤とは文藝を解すると否とを標準として決する區別だと説明してゐるが、全體の論旨から推測して、此の制限は餘り重要な意味は無く、難者は勸善懲惡の規矩によつて藝術の作品の價値を定めようとしてゐるものと見做しても差支へないらしい。貴重なる紙面を費して、今更教訓的ダイダクテイツクな藝術の作品は價値の高いものでない事を茲に説明する勞は避ける事にするが、吉村忠雄氏又は次郎生の論理から云へば、浪花節は他のあらゆる音曲よりも價値のあるもの、曾我迺家の仁輪加にはかは歌舞伎劇よりも尊いと云はなければならない。更に他の方面に例をとれば、愚夫愚婦の大衆に信奉される天理教のお婆さんは並ぶものなき偉人であらう。熟々つく〴〵考へる迄も無く吉村忠雄氏又は次郎生の如きは「上下卑賤の階級」の最も卑賤なる部類に屬する人に違ひない。

 曾て乃木大將が腹を切つて死んだ頃、渡邊霞亭といふ小説家がその逸事を集めて小説體で書いた事があつた。勿論「一般讀者の感興を惹くこと」を專一としたもので、忠君愛國の結晶、勤儉尚武の模範として、主人公なる將軍を神の座に押直さうと努めたものであつた。その一節に、將軍の質素を物語るところがあつた。兵營から時たま歸つて來る夫を慰める爲に、夫人は夫の好物の豆腐はもとより、心づくしの料理を膳にのぼせてすすめたが、將軍は數々の料理の並んだのを見て反つて不機嫌になり、豆腐以外には一切箸をつけなかつた。食事が濟むと夫人に向つて、久々に我家でうまい食事をした喜びを述べた後で、「若し豆腐だけで、他のおかずがなかつたらもつとうまかつたらう」と將軍は云つたといふのである。此の話を讀んだ時に、自分は將軍の芝居氣の多かつた事には反感を持つて居たけれど、兎に角珍しい悲劇的性格の人として崇敬もしてゐたのが、意外に安つぽいけちな人間に思はれて來て不愉快だつた。教訓的の作品といふものは、屡々かういふ弊害に傾き易い事を知つて貰ひ度い。學校で教へる二宮金次郎や近江聖人を道具に使ふ修身よりも、狐や烏が物を云ふお伽噺が如何に深く子供の純美なる心に觸れるか。無理押しつけに押しつけて飮み込ませようとする修身が、殆んど教育的効果を持つてゐない事は、實際教育の任に當る人の常に嘆じてゐるところである。

「先生」が「物になつちや居ない」といふ批評は自分の甘受するところである。けれども吉村忠雄氏又は次郎生は、彼の作品が如何どういふ性質のものであるかを全然了解してゐない。如何に「文藝を解せざる卑賤の階級」の一人にしても、あまりに自負し過ぎた賤民である。作品の傾向を了解しないのは爲方が無いとしても、賤民の癖に斯くあれと指導してゐるその指導が、全く作者としての自分の常に避け度いと思ふところを目標としてゐるのだから、その標準から「物になつちや居ない」と罵られるのは寧ろ名譽だといつてもいい。

 吉村忠雄氏又は次郎生は「迅き事風の如きものの後には動かざること巖の如きものを、靜なること林の如きものの後には波瀾幾千丈といつた風のものを配するとか、坦々でなく紆餘曲折端睨すべからざる中に偉人の俤を偲ぶといふ風にするのが眞に是れ偉人を偉人として遇し、讀者の興味を彌が上にも湧き立たせ且は後世の人々をして其俤を偲ばしむる眞の方法」だと説いてゐるが、その單純淺薄な英雄化、戲曲化を避けるのが、眞に偉人を偉人として偲ばせるものだと自分は考へる。古來我國の歴史も戲曲も物語も、その中に現れる人物を、極端なる英雄豪傑聖人善人と、極端なる弱蟲卑怯者佞人惡人の二派に分ける慣習があるので、その折角の偉人豪傑、又は反對の惡人極道も、人形芝居の人形よりも更に遙に人間らしさを缺いたものになり下つてしまふ。吉村忠雄氏又は次郎生が要求する處も、即ち此の人間らしからぬ人間として「先生」を描けといふに外ならない。

 自分は「先生」が上野の山の砲聲を聞きながら西洋の經濟書を講義したといふ逸事や、伯爵に敍すると云ふのを拒んだといふ話などよりも、あれ程一から十迄警世の事に一身を任ねた人も家庭に於ては極端に子供を甘やかしたといふ話を聞いた時に、かへつて「先生」の人となりを懷しく思つた。自分は「先生」を曲解して、人形や土偶でくにはし度くない。「先生」を偉大なりと思ふ丈「先生」を人間扱ひし度いのである。

 お氣の毒ながら吉村忠雄氏又は次郎生は、單に文藝を解せざる「卑賤民」であるばかりでなく、全然文字を解さないのではないかとさへ疑はれる。それは「足下は言はん、先生は然る波瀾に富んだ性行の人ではなく世に平凡なる偉人と言はれし通り頗る常識の發達せる平凡なる人であつた」といふ聞き捨てならぬ一節である。自分の「先生」の何處に「先生」を平凡人だと書いてあるか。自分は吉村忠雄氏又は次郎生の考へる如く、常識の發達した人は即ち平凡人だなどゝいふ亂暴な考へは持つて居ない。又偉大なる人は必ず奇行に富むものだなどゝいふ間違つた考へも持つて居ない。「當時の人にしては奇想天外より落つるといふ樣なことばかりされた人である」とさもほこりかに詰問者は書立ててゐるが、「先生」の偉らかつたのは、最も吾々の生活を時勢の進歩に伴はせつつ合理的に導いた事にあるのであつて、滿洲浪人や衆議院々外團のやうな奇行を賣物にする徒輩と同列に見られては堪らない。乃木將軍は腹を切つたから偉いのではない。西郷隆盛は犬を引張つて立つて居るから偉いのではない。我が「先生」は腹ごなしに米をついたから偉いのではないのである。

 これで「先生」に對する答辯は濟んだから、ついでに斷つて置くが、「先生」は新作ではなくて大正一年か二年頃に、小説らしからぬ小説を書き度いといふ欲求の起り始めた時代のものである。特に末尾にその稿了の日附を記して置いたのだが、古い原稿を掲げる事は新聞社の喜ばぬところだつたと見えて、作者には無斷で削つてしまつた。

 次に質問されたのは「好きからに文筆を弄んでゐるのか或は本職的に沒頭してゐるのか」といふ頭腦あたまの古い連中のおきまり文句である。換言すれば道樂か本氣かといふのであらうが、自分の創作慾は〔十七字略〕政治家と稱される人間が憲政を弄ぶのとは、些か趣を異にして居る。自分は文筆で衣食はしてゐないが、それが本氣でない證據にはならない。銀行員が銀行の仕事ばかりしてゐたからといつて、必ずしもその人が本氣だとは限らない。要はその意志にあるので、外觀の差別は問題の外である。自分が勸善懲惡を專一にしたり、「卑賤階級」を顧客として創作をするのなら、それは本氣でないと云はれても爲方が無い。吉村忠雄氏又は次郎生の如き、お粗末な程簡短な人間には、手取早い職業別によつて、人を見る以上に人間性を見る丈の能力は無いに違ひない。

 更に粗雜なる頭腦の持主は、自分が數年間海外に留學したのは小説「汽車の旅」を書く爲ではなく、「必ずや其修め得た處のものを以て大いに活躍せんが爲であつたらう」と難じてゐるが、自分は「汽車の旅」を書く爲めに洋行したのだと答へても構はない。少くともあの一篇は自分が外國から歸つてから書いたものであるから、自分が何かしら海外で學んだものがあれば、それはあの中に含まれてゐる筈である。正直のところ自分は「先生」には自信が無いが、「汽車の旅」の方は多少自分の作品としては、いいものだと信じてゐる。學校で無理に教へる學問などよりも遙に尊いものが、あの小篇の中に潛んでゐる事を思ふと、自分は海外留學の徒事でなかつた事を滿足に思ふのである。

 吉村忠雄氏又は次郎生は、さも知つたふりをして「君が專門に修めたものでも確乎しつかりとやつたがいゝ」などゝ云つてゐるが、自分は此の人々が考へてゐるやうな意味で專門などは何もない。自分は一科の學問をする爲に外國へ行つたのでは無い。自分は自分を最もいい人間にする爲の教養を深めようとは思つてゐたが、本來自分の性質から云つても、罐詰の學問などは修め度くなかつた。「近親者」と名告りながら、その位の事も知らないのは、愈々「近親者」でない證據かと思ふと、自分にとつては限り無き喜びである。

 吉村忠雄氏又は次郎生は「卑賤階級」の人間に特有な「今や國事は日日に多端で三文文士の御託を聞くよりも一人でも多くの實際家を必要としてゐる」と、よく實業家と稱される人間の中の、金力と頭腦の力の不平均なものが、はづかし氣も無く繰返す言葉を口にして自分の教養の無い事を正直にさらけ出した。目前の好景氣に浮調子となつた成金は、如何に頭腦の無い「實際家」の集團によつて國民が衰頽デジエネレエトするかを知らないのである。今「國事日日に多端」なる時に最も必要なのは、ハンマアばかり握つてゐて頭腦の空虚な人間が不必要だと思つて居る人間そのものである。原始時代の人間は食物丈で生きて居たかもしれないが、文明の世の中に於ては人は思想なくしては生甲斐が無いのである。

 匿名好きの吉村忠雄氏又は次郎生は、水上瀧太郎の匿名を何故か威たけだかに詰問してゐる。見聞の狹い「卑賤民」は雅號は單に下の名前丈を變へるものだと考へてゐるが、東西古今を問はず、幾多の文人墨客の中には全姓名に變名を換へ用ゐた例がいくらもある。ピエル・ロテイ、ジヨオジ・サンドなどいふのも筆技名ノン・ド・プリユムである。江戸時代の戲作者の殆んどすべてが本名を用ゐてゐない事は、勸善懲惡主義の匿名好きの吉村忠雄氏又は次郎生も先刻承知の事であらう。近くは春之舍おぼろ、嵯峨之舍おむろ、二葉亭四迷の如き、更に新しいところで太田正雄氏の如きは木下杢太郎、きしのあかしや、地下一尺生、その他めまぐるしい程の變名を用ゐてゐる。自分が自分の崇敬する明治大正の一大藝術家泉鏡花先生の作中の人物の姓名を無斷借用して水上瀧太郎ととなへたのは、別段深い意味はない。子供の時分から物を書く時には、親のつけた名前よりも自分自身で考へた名がつけ度かつたので、さうした迄の事である。しきりに「近親者」だ「近親者」だとしつつこく云ひながら、ちつとも本當の自分を知らないところを見ると、吉村忠雄氏又は次郎生は人違ひをしてゐるのではないかとも疑はれる。斷つて置くが自分の本名は阿部章藏である。

 吉村忠雄氏又は次郎生の愚にもつかない質問に長々と答へながら、自分は自分の正直過ぎるのが馬鹿々々しくなつたが、考へて見ると吉村忠雄氏又は次郎生の如き「卑賤民」は數に於て恐るべき勢力を持つてゐるのであるから、自分が本氣で努力してゐる藝術の爲にも、勞をいとはず返答しなければならないやうにも思はれる。讀者恐らくは、馬鹿々々しい詰問に取合つてゐる自分の愚を救ひ難しとするであらうが、その自分の馬鹿正直をさして即ち「愚者の鼻息」と題したのである。(大正七年六月十八日)

──「三田文學」大正七年七月號

底本:「水上瀧太郎全集 九卷」岩波書店

   1940(昭和15)年1215日発行

入力:柳田節

校正:門田裕志

2005年119日作成

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