川
岡本かの子
|
かの女の耳のほとりに川が一筋流れてゐる。まだ嘘をついたことのない白歯のいろのさざ波を立てゝ、かの女の耳のほとりに一筋の川が流れてゐる。星が、白梅の花を浮かせた様に、或夜はそのさざ波に落ちるのである。月が悲しげに砕けて捲かれる。或る夜はまた、もの思はしげに青みがかつた白い小石が、薄月夜の川底にずつと姿をひそめてゐるのが覗かれる。
朝の川波は蕭条たるいろだ。一夜の眠から覚めたいろだ。冬は寒風が辛くあたる。をとめのやうにさざ波は泣く。よしきりが何処かで羽音をたてる。さざ波は耳を傾け、いくらか流れの足をゆるめたりする。猟師の筒音が聞える。この川の近くに、小鳥の居る森があるのだ。
昼は少しねむたげに、疲れて甘えた波の流れだ。水は鉛色に澄んで他愛もない川藻の流れ、手を入れゝばぬるさうだが、夕方から時雨れて来れば、しよげ返る波は、笹の葉に霰がまろぶあの淋しい音を立てる波ではあるが、たとへいつがいつでも此の川の流れの基調は、さらさらと僻まず、あせらず、凝滞せぬ素直なかの女の命の流れと共に絶えず、かの女の耳のほとりを流れてゐる。かの女の川への絶えざるあこがれ、思慕、追憶が、かの女の耳のほとりへ超現実の川の流れを絶えず一筋流してゐる。
かの女は水の浄らかな美しい河の畔でをとめとなつた女である。其の川の水源は甲斐か秩父か、地理に晦いをとめの頃のかの女は知らなかつた。たゞ水源は水晶を産し、水は白水晶や紫水晶から滲み出るものと思つて居た。春はその水晶山へ、はら〳〵と一重桜が散りかかるのを想像する。春は水嵩も豊で、両岸に咲く一重桜の花の反映の薄べに色に淵は染んでも、瀬々の白波はます〳〵冴えて、こまかい荒波を立てゝゐる。筏乗りが青竹の棹をしごくと水しぶきが粉雪のやうに散つて、ぶん流し、ぶん流し行く筏の水路は一条の泡を吐いて走る白馬だ。筏板はその先に逃げて水と殆ど一枚板だ。筏師はあたかも水を踏んで素足でつつ走る奇術師のやうだ。そのすばしこさに似合ふやうな、似合はぬやうな山地のうすのろい唄の哀愁のメロデーを長閑に河面に響かせて筏師は行く。
或る初夏の夕暮、をとめのかの女は、河神が来て、冴えた刃物で、自分の処女身を裂いても宜い、むしろ裂いて呉れと委せ切つた姿態を投げた──白野薔薇の花の咲き群れた河原のひと処、夕闇の底に拡がるむら花のほの白さが真珠の床のやうに冷たくかすかに光り、匂やかな露をふくんでをとめのかの女を待つてゐた。をとめのかの女は性慾を感じ始めて居た。性慾の敏感さ──凡て、執拗なもの、陰影を持つもの、堆積したもの、揺蕩するもの等がなつかしく、同時にそれ等はまたかの女に限りなく悩やましく、わづらはしかつた。かの女はをとめの身で大胆にもかの女の家の夕暮時の深窓を逃れ来て、此処の川辺の夕暮にまぎれ、河原の玲澄な野薔薇の床に横たはる。薄い毛織の初夏の着物を通す薔薇の棘の植物性の柔かい痛さが適度な刺戟となつて、をとめの白熱した肢体を刺す。寝転んで、始め鼻を当てると突き上げるやうな蕊のにほひ、それにも徐々に馴れて来る。五分、十分、かの女はまつたく馴れて来た。ひそかな噎ぶやうな激情が静まつて、呑気な放心がやつて来る。体をひねり、持つて来た薄い雑誌をむざ〳〵花床の上に敷いて片肘まげる。河の流れへ顔を向けて貝の片殻のやうに展げた掌に頬を乗せる。眺め入る河面は闇を零細に噛む白波──河神の白歯の懐しさをかつちりかの女がをとめの胸に受け留める。をとめは河神に身を裂かれ度いのだ。あの人間が人間の体を裂き弄び喜ぶのは、重くろしく汚はしく辱かしい気がする。かの女が今しがた忍び出て来た深窓の家には、二組の夫婦と、十人あまりの子供達が堆積し、揺蕩し、かの女もそのなかの一人であることが、此頃かの女には何か陰のある辱かしさ、たつた一人の時に殊にも深く感ずる面伏せな実感である。をとめは性慾を感じ出したことによつて、却つて現実世界の男女の性慾的現象に嫌悪を抱き始めた。人の世のうつし身の男子に逢ふより先、をとめのかの女は清冽な河神の白刃にもどかしい此の身の性慾を浄く爽やかに斬られてみたいあこがれをいつごろからか持ち始めて居た。
「お嬢さま。」
男の声、直助の声だ。草土堤の遠くから律儀な若者の歩みを運ばせて来る足音。
「お嬢さま。」
今一度、呼んだら返事しよう、家の者に言ひつかつて、かの女を呼びに来たに違ひないのだ。
「お嬢さま。」
だん〳〵直助の声が家の者から言ひ付かつた義務的な声ではなくなり、本当に直助自身のかの女を呼ぶ熱情がこもつて来る。直助がかの女を秘かに想つて居ることを、かの女はだん〳〵近頃知るやうになつて居た。だが、かの女はそのことを深く考へようとしなかつた。身辺に何か頼母しい者が自分を見守つてゐて呉れる安心に似た好意を感じてゐれば好いと思つて居た。かの女の生理的に基因するものか、その頃のかの女は人間的な愛情や熱情がむしろ厭はしかつた。
かの女の十一の歳から足かけ六年、今年二十二になる直助は地主であるかの女の家の土地台帳整理の見習ひとして、律儀な農家の息子の身を小学校卒業後間もなく、三里離れた山里から、都会に近いかの女の家に来て、子飼ひからの雇ひ男となつたのである。直助は地味な美貌の若者だ。紺絣の書生風でない、縞の着物とも砕けて居ない。直助はいつも丹念な山里の実家の母から届けて寄越す純無地木綿の筒袖を着て居た。
直助は秘かにかの女を慕つてゐるらしかつたが、黙つて都の女学校へ通ふかの女の送り迎へをして、朝は家からの淋しい道を河の畔まで来て、夕方にまた迎へに来た。年頃の若者になつても、鼻唄一つうたふでもなく、嫌味な教会通ひの若者となりもしない、何処から得たか西行の山家集と、三木露風の詩集を持つて居た。そして八犬伝やアンデルセンの『月物語』をかの女の兄から借りて読んで居るのだつた。夜など近所の若者の仲間入りをして遊んで居たことはなかつた。野山の仕事に忙しい時期には、多くの作男と一緒になつて働きに出かけた。直助はそれでも土くさい色黒男にはならなかつた。と言つて腺病質のなま蒼い体質では勿論ないのだ。何と言はうか、漆黒の髪が少し濃過ぎる位の体質の眼の覚めるやうな色白な男女がある。あの健康な見ざめのしない色白なのだ。でも野山で手足も男らしく使ひならしてあるので、何処か新鮮な野山の匂ひも染んでゐた。
「私ね、この頃希臘の神話を読んでゐるのよ。その本の中に河神についてこんな事が書いてあるのよ。(かの女は頁を繰つて)古人の信ずるところに依れば河神は、変装の能力を備へて居り、河底あるひは水源に近き洞窟の裡に住み、その河の広狭長短に随ひ、或は童児、青年、老夫に変相、その渓を出でて蜿蜿と平原を流るゝ時は竜蛇の如き相貌となり、急湍激流に怒号する時は牡牛の如き形相を呈し……まだいろ〳〵な例へや面白い比喩が書いてあるけれど……」
直助はだしぬけに口を切つた。
「子供のうち、私の考へてゐたことゝよく似てをりますな。」
「どう考へてゐたの。」
「私は河が生きてゐるやうに思つてをりました。河上はずつとこの辺の河より幅が狭いのですけれど、水面が引締つてゐて、活気があるやうです。私の母は気が優しくてぢき心を傷めますので、私は友達と喧嘩して口惜しかつたり、何か欲しいものがあつても買へなかつたり、そのほか悲しい時や辛い時には、自分の部屋の障子の破れたところから水を見ては気持ちを訴へてをりました。河は水であつても、河の心は神様か人であつて、何でも人間の心が判つて呉れるやうに思ひました。
母は私のその様子を見てをりまして、大方筏師にでも見とれてゐるのだらう、そんなに好きなら筏師になれとよく申しました」
「さうよ、ね、何故筏師にならなかつた? 素晴らしいぢやないの、筋肉の隆々とした筏師なんか。」
「は、ですけど、どうせ筏師は海口へ向つて行くんです。それを思ふと嫌でした。」
「海、きらひ?」
「は、海は何だかあくどい感じがします」
直助のやうな若者には海の生命力は重圧を感じるのであらう。かの女は希臘神話がこんなにも直助の興を呼んで話させたのが不思議でかの女の河に対する神秘感が一そう深まるのだつた。
「あんた、いま、この川をどう感じて」
「──お嬢さまのお伴してゐると、川とお嬢さまと、感じが入り混つてしまつて、とても言ひ現し切れません。お嬢さまは。」
「さあ、──今は、上品な格幅のいゝ老人かも知れないわね。」
「おまへも、お読み」と言つて、かの女は直助に希臘神話の本を貸し与へた。
かの女の食慾が、はか〴〵しくなかつた。やはり青春の業かも知れない。熟した味のある食品は口へ運べなかつた。直ぐむかついた。熟した味の籠る食品といふものは、かの女に何か、かう中年男女の性的のエネルギーを連想さした。
まだ実の入らない果実、塩煎餅、浅草海苔、牛乳の含まぬキヤンデイ、──食品目は偏つて行つた。かの女は、人の眼に立たぬところで、河原柳の新枝の皮を剥いて、『自然』の素の肌のやうな白い木地を噛んだ。しみ出すほの青い汁の匂ひは、かの女にそのときだけ人心地を恢復さした。滋養を摂らないためか、視力の弱つたかの女の眼に、川は愈々、漂渺と流れた。
裳! 陽炎を幾千百すぢ、寄せ集めて縫ひ流した蘆手絵風の皺は、宙に消えては、また現れ、現れては、また消える。刹那にはためく。
だが裳だけ見えて、河神の姿は見えないのだ。かの女はもどかしく思つて探す。かの女はいつか眼底を疲らして喪心する。美しい情緒だけが心臓を鼓動さしてゐる。
「うちの総領娘が、かう弱くては困るな。」
「体格はいゝのですから、食べものさへ食べて呉れたら、何でもないのですがね。」
「直助に旨い川魚でも探させろ。」
両親からの命令を聴いて、椽側で跪いた直助は異様に笑つた。両親のうしろから見てゐたかの女は身のうちが慄へた。直助の心にも悪魔があるのか。今の眼の光りは只事ではない。若い土蕃が女を生捕りに出陣するときのあの雄叫びを、声だけ抜いて洩した表情ではないか。直助はこれから魔力のある食べものを探して来て、それを餌にして私を虜にしようとするものではないかしらん。
「直助なんかに探させなくつても」
かの女は言つた。すると父親よりも先に直助が押へた。
「いえ、わたくしがお探しいたします。」
「白鮠のこれんぱかしのは無いかい。」
「石斑魚のこれんぱかしのは無いかい。」
「岩魚のこれんぱかしのは無いかい。」
「川鯊のこれんぱかしのは無いかい。」
魚籠を提げて、川上、川下へ跨がり、川魚を買出しに行く直助の姿が見られた。川上の桜や、川下の青葉の消息が彼の口から土産になつて報じられた。彼は一通りそれらの報告をして、生魚の籠を主人達に見せてから女中達のゐる広い厨に行き、買ひ出して来た魚を、自分で生竹の魚刺を削つて、つけ焼にした。
「出来ました。お喰りなさい。」
直助は、魚の皿を運んで来る女中のうしろから、少し遠ざかつてかの女に手をついた。
父から頼まれたとしても、何故、この召使はわたしにかうも熱心に食べものを勧めるのだらう。かの女は直助が父に、かの女の食べものを探すことを云ひつかつたときの異様な眼の光りを観て取つた上、かういふ熱心な態度をされるので、つむじを曲げた。
「いやだと言ふのに、直助。生臭いおさかななんかは。」
「でも、ご覧になるだけでも……。」
直助の言ひ淀む言葉には哀願に似たものが含まれてゐる。
川魚は、みな揃つて小指ほどの大きさで可愛ゆかつた。とつぷりと背から腹へ塗られた紺のぼかしの上に華奢な鱗の目が毛彫りのやうに刻まれて、銀色の腹にうす紅がさしてゐた。生れ立ての赤子の掌を寵愛せずにはゐられないやうな、女の本能のプチー(小さくて可愛いゝ)なものに牽かるゝ母性愛的愛慾がかの女の青春を飛び越して、食慾に化してかの女を前へ推しやつた。少しも肉感を逆立てない、品のいゝ肌質のこまかい滋味が、かの女の舌の偏執の扉を開いた。川海苔を細かく忍ばしてある。生醤油の焦げた匂ひも錆びて凜々しかつた。串の生竹も匂つた。
「男の癖に、直助どうして、こんなお料理知つてんの。」
「川の近くに育つたものは、必要に応じてなにかと川から教はるものです。」
直助は郷土人らしく答へた。だが、かの女はしら〴〵しく言つた。
「……私、べつにこれおいしいとも何とも思はないわ……けど……。」
かの女は何人からでも如何なる方法によつても、魂の孤立に影響されるのを病的に怖れた。
「けれども、お礼はしたいわ。私、あんたのお母さんに、似合ひさうな反物一反あげるわ。送つてあげなさいな。」
直助は俯向いて考へてゐた。少し息を吐き出した。
「お話は難かしくてよく判りませんが、母へなら有難く頂戴いたします。」
のさ〳〵と魚の食べ残しの鶯色の皿を片付けて行く直助の後姿を、かの女は憐れに思つたが我慢した。毎日の川魚探しに直助の母の手造りの紺無地の薄綿の肩の藍が陽やけしたのか少し剥げてゐた。
若鮎の登る季節になつた。
川沿ひの丘には躑躅の花が咲き、どうだんや灌木などが花のやうな若葉をつけた。常盤樹林の黒ずんだ重苦しい樹帯の層の隙間から梅の新枝が梢を高く伸び上らせ、鬱金色の髪のやうにそれらを風が吹き乱した。野には青麦が一面によろ〳〵と揮発性の焔を立てゝゐた。
「ヷン・ゴツホといふ画描きは、太陽に酔ひ狂つたところは嫌味ですが、五月の野を見るときは、彼を愛さずにはゐられなくなりますね」
近頃、都からよく遊びに来る若い画家が、かう言つた。ロココ式の陶器の絵模様の感じのする、装飾的で愛くるしい美しい青年だつた。天鵞絨の襞の多い上衣に、細い天鵞絨のネクタイがよく似合つた。
彼はまづ、かの女の母の気に入つた。母は言つた。
「あの晴々しい若者を、娘の遊び友だちにつけて置いたら、娘もおつつけ病気がよくなるでせう。」
父と兄は苦もなく同意した。それほどこの若い画家は都会文化に灰汁抜けて現実性の若い者同志間の危険はなかつた。
美貌の直助は美貌の客をたちまち贔屓にした。若い画家が訪ねて来ると、「えへん〳〵」とうれしさうに笑ひながら、饗応の手伝をした。かの女が画家と並んで家を出て行くのを見ると、一層「えへん〳〵」とうれしさうに笑つて見送つた。
「向ふの丘へ行つて異人館の裏庭から、こちらを眺めなすつたらいゝ。相模の連山から富士までが見えます。」
二人がたまには彼を誘つても、彼はどうしてもついて来なかつた。彼は川が持場であるといつた強情さで拒絶した。「いや、わたしは晩のご馳走のさかなを少し探しときませう。」
異人館の丘の崖端から川を見下ろすと、昼間見る川は賑かだつた。河原の砂利に低く葭簾の屋根を並べて、遊び茶屋が出来てゐた。その軒提燈と同じ赤い提燈をゆらめかして、鮎漁りの扁長い船が鼓を鳴らして瀬を上下してゐた。鷦鷯のやうに敏捷に身を飜して、楊柳や月見草の叢を潜り、魚を漁つてゐる漁師たちに訪ね合はしてゐる直助の紺の姿と確かりした声が、すぐ真下の矢草の青い河原に見出された。
「これんぱかしの若鮎はないかい。丸ごとフライにするのだ。」
日が陰つたり照つたりして河原道と川波の筋を金色にしたりした。
手頃な鮎が見付からぬかして、浅い瀬を伝ひ〳〵、直助の姿はいつか、寂しい川上へ薄らいで行つた。渚の鳥の影に紛れてしまつた。
「素焼の壺と、素焼の壺と並んだといふやうな心情の交渉が世の中にないものでせうか。」
画家は云つた。
「芭蕉に、逝く春や鳥啼き魚は目に涙といふ句がありますが、何だか超人間の悲愁な感じがしますわ。」
かの女も画家も、意識下に直助によつて動揺させられるものがあり、二人ともめい〳〵勝手にあらぬことを云つてるやうで、しかも、心肝を吐露してる不思議な世界を心に踏みつつ丘の坂道を下つた。かの女の足取りは、ほぼ健康を恢復して確かりして来た。
かの女は十八歳で女学校を出ると、その秋、都会のその明るい顔をした青年画家の妻に貰はれて行つた。
半年ほどの交渉のうちに、若い画家は、かの女の持つ稀有の哀愁を一生錨綱にして身に巻きつけ、「真面目なるもの」に落付き度いといひ出した。彼のやうな三代相続の都会人の忰は趣味に浮いて、ともすれば軽薄な香水に気化してしまふ惧れがあつた。かの女も同じ屋の棟に住むなら、鮮かな活ける陶器人形がかの女の憂鬱には調和すると思つた。
兄は云つた。
「これが愛といへるだらうか。」
父は黙つてゐた。
母は賢かつた。
「この子は、どうせ誰かに思ひ切つて宥めたり、賺かされたりしなければ、いのちの芽を吹かない子なのです。けれどもまた、あんまり手荒く、宥めたり賺かしたりする相手では、却つて芽を拗らせてしまふといふこともありませう。私はあの人ならちやうどいゝ相手だと思ふんですが。」
腕組してゐた父は眼を開いていつた。
「よし、よし、直助を呼びなさい。川に仮橋をかけることにしよう。嫁入りの俥を通す橋を」
直助は毎日仮橋の架設工事の監督に精出してゐた。秋も末に近く、瀬は殆ど涸れてゐた。川上の紅葉が水のまにまに流れて来て、蛇籠の籠目や、瀬の縁に厚い芥となつて老いさらばつてゐた。
近い岸より、遠い山脈が襞目を碧落にくつきり刻み出してゐた。ところどころで落鮎を塞ぐ魚梁の簾に漉される水音が白く聞える。
結び慣れてゐた洋髪から島田髷に結ひ直すために、かの女は暫く髪癖を直す手当てをしなければならなかつた。かの女は部屋に籠つて川にも人にも遇へなかつた。直助には障子越しに一度声をかけた。
「川はどう?」
「こゝのところ川は痩せてをります。」
直助の言葉は完全に命令遵奉者の無表情に還つてゐた。直助は思ひ出したやうにある朝自分の部屋から取つて来て、障子をすこしあけて希臘神話をかの女に返して行つた。
直助が河に墜ちて死んだのは、かの女が嫁入つてから半月ばかり後の夜のことであつた。土地の人たちは直助が過つて河へ墜ちて死んだと信じ切つてゐるやうだ。かの女もさう信じた。けれども、かの女は二十何年後の昨日、ふと直助が返した希臘神話の本の頁の間から、思ひがけなく彼が書いた詩のつもりらしい、埃で赤腐れた紙片を発見した。直助が自分で河へ身を投げて死んだのではないかといふ疑念を急にかの女は起したのである。
お嬢さま一度渡れば
二度とは渡り返して来ない橋。
私も一度お送り申したら
二度とは訪ねて行かない、橋
それを、私はいま架けてゐる。
いつそ大水でもと、私はおもふ
橋が流れて呉れゝばいゝに
だが、河の神さまはいふ
橋を流すより、身を流せ。
なんだ、なんだ。
川は墓なのか。
その夜かの女は何年か振りで川の夢を見る。
一面の大雪原である。多少の起伏はある。降雪のやんだあとの曇天で、しかもまたその後に来る降雪を孕んだ曇天である。一面に拡く重い地上の大雪原の面積と同じ広さの曇天の面積である。曇天の面にむらがある。地上の大雪原の面にも鉛色めいたかげりと漂雪白の一面とが大きいスケールのむらをなしてゐる。
──一面に広い大雪原である。真只中を細い一筋の川──だが近よつて見ると細くはない。大河だ。大雪原の大面積が大河を細く劃つて見せてゐたのである。いつか私はその岸をとぼ〳〵と歩いてゐた。男の猟人の姿に私はなつてゐた。葦がほんのわづかその雪原にたゞそれだけの植物のかすかな影をかすかに立ててちらほらと生えてゐた。その葦を折りながら、私は鉄砲を背負つて歩いてゐた──だが、その猟人の姿はやつぱり私でなくつて直助だつたのだ。私の姿はその時どういふ恰好で大雪原のどの辺にゐたか知れないのだ。私にはだん〳〵私の姿や位置は意識されず、猟人姿の直助がのつしのつしと、前こごみに歩いてゐるばかりしか眼にとまらなくなつた──が、またも私の眼に見え出したものがある。直助の歩みと同列同速力で、川のやゝ岸近に筏が流れてゐたのだ。筏は秩父の山奥から流れて来たものだと私は意識した。きれいに皮をはいで正確の長方形に截つた楓か欅材で、上べがほんのり処女の色をして底は冷たく死のやうに落付いた二枚の板の連りであつた。
かの女は朝覚めて胸の中でいふ。直助よ。お前はとつくに死んでゐるのだ。それだのに昨夜また私の夢の中に見えて、猟人の姿をし、何処までお前は川のほとりを歩いて行つたのだ……。何をおまへはまだ探してゐるのだ。
川は墓でもなかつたのか
川のほとりでのみ相逢へる男女がある。
かの女の耳のほとりに川が一筋流れてゐる。未だ、嘘をついたことのない白歯のいろのさざ波を立てゝ──
かの女は、なほもこの川の意義に探り入らなければならない。
底本:「日本幻想文学集成10 岡本かの子」国書刊行会
1992(平成4)年1月23日初版第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第二巻 小説」冬樹社
1974(昭和49)年6月30日
初出:「新女苑」
1937(昭和12)年5月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:湯地光弘
2005年2月22日作成
2016年1月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。