声
宮本百合子
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或、若い女が、真心をこめて一人の男を愛した。そして、結婚し、三年経った。けれども、或日その若い女は、
「ああ苦しい、苦しい! 可愛い人。私は貴方が可愛いのよ、だけれども苦しくて、息がつけない」
と、泣き乍ら、男の傍から逃出して仕舞った。
逃げはしたが、女は他に恋した男があったのではない。彼女は、生れた親の家へ戻った。そして、黙って、二粒の涙をこぼし、頭を振り、やがて寂しく微笑んで縁側に坐った。
朝眼を覚すと、一日中、月の出る夜になっても、女は、いつも同じ縁の柱によって居る。
母親は不思議に思い、娘に
「お前、どうしていつも其処に居るの? 内へお入りな」
と云った。
娘は、微笑した。然し、翌日も、その柱からは離れなかった。
柱には、縦に深く一本割れ目がついて居た。女は、きっとその割け目に耳をおしつけて居た。(それを、母親は知らない。)彼女は、そうやって耳をつけ、柱の奥から、嘗て自分の恋をした、今も可愛い男の声を聴いて居たのだ。自分を抱いて名を呼ぶ声、向い合って坐り、朝や夜、種々の物語をした、その懐しい声を聞いて居たのだ。
底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年5月30日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
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