初夏(一九二二年)
宮本百合子



  六月一日


私は 精神のローファー

定った家もなく 繋がれた杭もなく

心のままに、街から街へ

小路から 小路へと

霊の王国を彷徨さまよう。


或人のように 私は古典のみには安らえない。

又、或人のように、

眼の眩めくキュービズムにも。

ダダも 面白かろう、

然しそれとても、

私には 折にふれ

行きすぎ 心を掠める 一筋の町の景色だ。


けれども、私がローファーなのは

決して、淋しい想像で考えて下さらずとよい。

私は楽しく

あらゆるものを見、感じ

滋液を吸って 育とうとするのだ。

アミーバーが

触手を拡げて獲物を圧し包み

忽ち溶かして養分とするように

私は

生活力と云う触手で

あらゆるものに触れ 味を知り

精神の世界を 這い廻るのです。


  感じ


人間は 実に面白く

生きる愉びは限りないものと思う。

何故ならば

考えても御覧なさい

私はきのう イリヤードと ディビナ・コメディアをよむ。

神々の時代と、十三世紀のイタリーが

目のあたり甦って来る。

素朴な人間神の活動、意欲、生死と

厳しい地上社会のいきさつが、

人類を置く精神の赫きに照されて

はっきり 我ことと 思われるではありませんか。


又、今日は哀愁の満ちたベルレーヌの詩をよみ

ルドン、マチス、クリムトの絵を見る。

実に近代の心、思いが犇々ひしひしと胸に来る。

哀訴や、敏感や、細胞の憂愁は

全く都会人、文明人の特質で

古代の知らない病であると云うかもしれない。

然し、等しく、此等は人類の心の過程ではありませんか

我々は、彼の素朴と敏感とを並び祖先に持つ我々は

其等を皆、我裡に感じる。

奇怪な深夜の幻想、

訳知らぬ文明のメランコリア。

又、ともに

最古の原始をも愛し、憧れる。

野を愛し、部族の生活を思い出し

単純に、純朴にと

一方の心は流れ囁く。

而も、一方は無限の視覚、聴覚、味覚を以て

細かく 細かく、鋭く 鋭くと

生存を分解する、又組立てる。


  考 (一)


若し日本人に

ヨーロッパ人のような哲学

神の意識がないなら

生粋ないままでよいと思う。

只、人類の真髄に触れる心力さえあれば

精神の深奥の殿堂に詣れる霊魂さえあれば。


然し、考えなければならないのは

若し、左様に精神が強ければ

きっと、独自な宗教や

哲学──等しく人間、宇宙を極めようとする

意欲、探求の現れが生じるのではないかと思う。


近頃、私は、封建時代、明治三四十年代の日本人と

今二十四五歳の日本人との間に

実に明かな差が生じたのを感じ、

此を、深い考えとして、心に持つ。


  考 (二)


創作をするにも

種々な動機が(内的に)あると思う。


或人はイブセンの如く

燃え立つ自己の正義感と理想とに

写る人間の愚悪に忍びず

詰問から、書く人がある。

或者は、ゲーテの如く(恐らく)

思索の横溢から

或は又、外界と調和し得ぬ

孤独な魂の 唯一の表現として

人類は、多くの芸術を献げられて来た。


さて、

私は何で、一つの小説を書くのだろう、

勿論、共通な、人間の、真に触れたい希望からだ。

然し、憤ってではなく、憂えてではなく

すべてのものを愛して──i・e、

子供のように

種々なものを、よろこび、好奇を持ち

手にふれ、ほぐし、あらためて

又組たてたくて、書くのではないか。

一つ一つ

新らしい現象ケースを究める毎に

私は生命の知識が

それ丈拡がった歓びを 感じずには居られないのだ。


     *


  六月十六日


落付いて、小説を書くようになったら

又私の処から

詩らしい言葉の調子が逃げ去った。


詩は波、揺らぐ日かげ

理性は潜んで、静かにとける情操から

陽炎のように思いが きで燃え立つのだ。


けれども、小説は、全く一面の努力

頭を整え、思いをただし、

運命の神のように

我を失わず、描く人間の運命を支配しなければならないのだ。


麗わしい晩春の日とともに

軽々と高く飛翔した私の心は

今 水のように地下に滲み入り

生えようとする作品の根を潤おす。


     *


わが芸術のことを思い

その孤独さを思うと

私は 朗らかな天を仰がずには居られなる。


神よ、貴方が私に期待して被居るものは何ですか

何が、貴方の命令を満す資として、

私には与えられてありますでしょう?


当なく、茫漠として「夢は枯野を馳けめぐる」

けれど、一点 わが信仰は失せず

身を献げた犠牲台にえだいのように

朝に夕 只管ひたすら清浄な煙を断やすまいとするのだ。


     *


ああ、われは

献納の香炉。

ささやかな火は絶えず

立ちのぼる煙は やまねど

行くかたを知らず 流れ行く途も弁えない。

若しわが献げられた身を

神がよみし給うなら

寂漠の瞬間とき

冲る香煙の頂を

美しい衛星に飾られた

一つの星まで のぼらせ給え。

燦らんとした天の耀きは

わが 一筋の思 薄き紫の煙を徹して

あわれ、わたしの心をとろかせよう

   恍惚と


  六月二十二日


淋しい日々の生活──

あわれな 我良人は

蒼い顔をし 黙り

神経質に パタパタと手づくりの活字を押す。

 私は、

笑うすべもなく

楽しい言葉のかけようもなく

ともに黙し 物を思う。


ああ 淋しい生活!

昔、娘であったとき

彼を恋わぬ前

自分は

このように寥しい生活が

此世にあると思っただろうか。


何が、貴方の心をそんなに閉すのか

どうぞ さっぱりと云っては下さらぬか


 云い知れぬ不満や不快が

 家に満ち 我心をくい

 なやませる。


私は、楽しい晴々した生活がしたい。

我心に満ちる愛やまごころを思えば

それの与えられぬのが不思議に思う。


彼と云う、我ただ一人の愛しい人は

私に、ひたすら、涙を流させるために

私の前に現れたのか


  涙


ながれちるわが涙

どこにそそごう──

私の愛す人の胸は遠くかたく

涙にとけるとも思えない。

ああ わが涙──


歎くまい。私はひとりささやかな

我芸術の花園に

此 水のしずくを送ろう。


土が柔らかなら花床よ

私の涙をしっとりと吸い

優い芽をめぐませて呉れ

花も咲くように──

   涙はあまり からくないか。──


     *


彼ゆえに

幾千度

ながす わが涙ぞ。

なまじいに

逢わざらましを。


  七月十二日


夕暮五時の斜光ひかり

静かに 原稿紙の上におちて

わが 心を誘う。──


純白な紙、やさしい点線のケイの中に

何を書かせようと希うのか

深みゆく思い、快よき智の膨張

私は 新らしい仕事にかかる前

愉しい 心ときめく醗酵の時にある。


一旦 心の扉が開いたら

此上に

私の創る世界が湧上ろう。

一滴 一滴

水の雫が金剛石ダイアモンドの噴水を作るように

一字一字

我書く文字のひまから

生き、泣き、笑い、時代を包む人生が

読者の胸に迫るのだ。


ほの白い原稿紙

午後五時のひかり

暫く その意味深い空虚のままに居れ。

やがて お前等は

繰れど、繰れど

つきぬ 人類の喜怒に

愕き 畏れて 静かなケイを震わせる時が来るだろう。


  八月三十日


不図 軌道を脱れた 星一つ

   宏い 秋の空間を横切って

         墜ちた。


何処へ行くのか──

自然は息をひそめ

その青白き発光体の尾を凝視みまもる。

何処へ落ちようと云うのか──


 私は 知って居る。

自ら わが心の流れよる

かの遠い 遠い 樹林の蔭に

青春の

落ちた 星はあるのだ。


  パンよ!


パンよ! パンよ!

快活な古代のパン!

どうぞ お前の愉快な 牧笛で

わが 胸を浄めて呉れ

この寂しい微笑を忘れさせて呉れ

一生の恋 わが愛

わが愛はあわれな〔五字分空白〕となる。

憤りもし得ず、わが痴かな恋人の面影も 忘れ得ず

身を喰う苦しさが

しんしんと魂にしみ入るのだ。


ああ 昔の無心が欲し

(十八歳の理性!)

あの 雲のない 空が恋し


パンよ、パンよ

お前の笛の音によって

私の若さは還らないか。

きらめく 五月の光は戻らないか。


     *


わが ひと

貴方は 今 何をして居ます

都会から数百里

淋しい田園の裡にあっても

貴方の、面影は わが心の前に立ち

動作が、ありありと眼に写ります。


やや古びた八畳

大きな机や 水鉢の金魚

貴方は白い浴衣を着

今は書籍の前に

今は 縁に

又は水を打った庭樹の面を

いかにも東洋人の安易さを以て

ひっそりと打眺めて居られるでしょう。

遠く離れ

心では 又と会うまいと知りつつ

静かに 面影を描く

私の心が わかりますか。


一度ひとたび、わが良人と呼べば

縁は深く 絆は断ち難い

ただ一人の女として 私はどれ程

男たる貴方に恋着するだろう。

打ち顫える抱擁と

思い入った瞳を思い起せば

私は 心もなえ

獣となって 此深い

驚異すべき情に浸りたいとさえ思う。


けれども

わが ひとよ!

わが ひとよ!

ああ 貴方は。──


神よ。

私は

授けられた貴方 命を

おそれ畏こみ従おうとしつつも

わが胸の苦しみを

殆ど耐え難く思います。


     *


何と云う 哀愁!

八月の空には雲が多く

白く金色に 又紫に輝いて

地に 穀物は実り たわわなれど


ああ 何と云う哀愁!

心 堪え難く痛み

耀きも 色彩も

その悦びを忘れ果たようだ。


嘗て わたしの歓に於て無二であった人

今は

この寂寥を生む無二の人

貴方は

何処の雲間に

見なれたプロファイルを浮べて居ますか。


  三十一日


うたわず 云わぬ我心を

西北の風よ

かなたの胸に 吹きおくれ

澱んだ水のように

凝っと動かぬかなたの心に。

底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年530日初版発行

   1986(昭和61)年320日第2版第1刷発行

初出:同上

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2004年215日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。