過去世
岡本かの子



 池は雨中の夕陽の加減で、水銀のやうに縁だけ盛り上つて光つた。池の胴を挟んでゐる杉木立と青あしとは、両脇からび込む腐蝕ふしょくのやうにくろずんで来た。

 窓外のかういふ風景を背景にして、室内の食卓の世話をしてゐる女主人の姿はあやしく美しかつた。格幅かっぷくのいゝ身体に豊かに着こなした明石あかしの着物、面高おもだかで眼の大きい智的な顔も一色に紫がゝつたくり色に見えた。古墳の中の空気をゼリーでこごらして身につけてゐるやうだつた。室内でたつた一人の客の私は、もうをともしてもいゝ時分なのを、さうしないのは、今宵私を招いた趣旨のほたる見物に何か関係があるのかも知れないと思ひ、すこしは薄気味悪くも我慢して、勧められるまゝ晩餐ばんさんのコースをはかどらせて行つた。だん〳〵募る夕闇の中に銀の食器と主客の装身具が、星座の星のやうにきらめいた。

 女主人久隅雪子は私と女学校の同級生で、学校を卒業するとしばらく下町の親の家に居たことだけは判つたが、直ぐ消息を断つた。それから十年あまりして私は既に結婚してゐて、良人おっとに連れられて外遊する船がナポリに着いた時、行き違ひに出て行かうとする船に乗り込むあわただしいかの女に、埠頭ふとうでぱつたり出遭であつて、わずかにおたがいに手を握つた。あとは私の帰朝後を待つてといひ残してわかれてしまつた。

 二人ともいはゆる箱入娘で、女学生にしてもすでに知らねばならない生理的の智識にうといところがあり、よく師友から笑ひ者にされた。その代り二人は競つて難しい詩や哲学の書物を読んだ。さういつた関係から、双方無口であり極度の含羞はにかみやでありながら、何か黙照し合ふものがあるつもりで頼母たのもしく思つてゐた。だが私が四年目に帰朝し、それから二三年もつたのに、かの女からは再び何の消息もなく、同窓の誰も知らなかつた。一度こちらから親の家へ尋ね合した手紙は、久しく前に移転して住所不明の附箋ふせんで返されて来た。

 ところが突然かの女は郊外の新居といふのから電話して来て、車を廻して寄越よこし、自宅で蛍見物をさすといふのに、のん気な昔の友人訪問の気持を取り戻して、私は来て見たのであつた。



 淡い甘さの澱粉でんぷん質の匂ひに、松脂まつやにらん花を混ぜたやうな熱帯的な芳香ほうこうが私の鼻をうつた。女主人は女中から温まつた皿を取次いで私の前へ置いた。

「アテチヨコですの?」

「お好き?」

「えゝ。でも、レストラントでなくて素人しろうとのおうちでかういふお料理珍しいと思ふわ」

「素人ぢやございませんわ。店の司厨長シェッフを呼び寄せて、みな下で作らして居ますのよ」

「わざ〳〵、まあ、恐れ入りました」

「私、最近に下町で瀟洒しょうしゃなレストラントを始めようと思つて、店や料理人を用意してありますのよ」

 女主人はレモンの汁を私の皿の手前に絞つてれ、程よく食塩と辛子からしを落して呉れた。私は大きな松の実のやうな菜果を手探りで皮を一枚づゝぎ、剥げ根にちよつぽりかたまつてついてゐる果肉に薬味の汁をつけて、その滋味を前歯でき取ることにこどものやうな興味をわかしながら、

「まあ、あなたがお料理屋を、どうして」

「──何かして紛らしてゐなければ──独身女はしじゆう焦々いらいらしますのよ」

 さう云つて友はちよつとまゆを寄せたが、友の内心には何処どこさとりめいたくつろいだ場所が出来、一脈の涼風が過不及かふきゅうなしの往来をしてゐるらしくも感じられる。下手な情感的な態度を見せては案外友をうるさがらさぬともかぎらない。

「それよりも、私、私が今度買ひ取つて落着くやうになつたこの家に就いて不思議な因縁話があるの、あなたに聴いて頂かうと思つて……さう陽気な話ぢやありませんの。をつけて話しますわ」

 夕顔の花のやうな照り色のシヤンデリヤがぽつとついた。室内の照明に負けて窓外の景色はたちまち幕を閉ぢて、雨の銀糸が黒い幕面にかすれた。一たん眼をつむつた友はまたぱつと開いて私の顔を真面まともに見た。これも昔見た友の癖である。



 かの女は女学校を卒業して親の家で結婚前の生活をしてゐる期間に、望まれて父親の知合ひで郊外に隠寮を持つ退職官吏Yの家へ客分として預けられることになつた。

 退職官吏Yの考へでは、自分の蒐集品しゅうしゅうひんことにこまかい細工ものゝ昔人形や、壊れものゝすえもの類は、骨董こっとう美術品商の娘であるかの女のれて丹念な指先が、手入れ保存に適当だと思つたからであつた。かの女の父はまたかの女がたとへ富んだ老舗しにせの長女でも、下町の娘であるからにはしつけに至らぬ我儘わがままなところがあらう。一度は上層智識階級の家へ入れて見習はしたいといふ昔風の考へがあつた。雪子の父はなまじなよその夫人よりY家の主人を非常に厳格な躾け正しい人と信じてゐたから……

 かの女はちよつとした嫁入支度ほどの調度を持つて、Yの隠寮へ寄寓した。



 あてがはれた庭向きの客座敷の隣の八畳へ調度を収めて、女らしい部屋にしてかの女は落着いた。家長のYは、かの女が落着くとすぐ部屋に兵児帯へこおびをちよつきり結びにした大兵だいひょうの体を唐突に運び入れて来て、衣桁いこうにかけた紅入りの着ものや、刺繍ししゅうをした鏡台の覆ひをまじ〳〵と見て、

「娘の子を一人持つたやうだ」

 これが精一杯のお世辞の挨拶あいさつだといふやうに、ぶつきら棒に云つた。そして直ぐえんから盆栽棚のたくさん並んでゐる庭へ下りて行つた。

 その後はYは一度も部屋に見舞つて来なかつた。そしてとても仕切れないほどの所蔵品の手入れを命じたり、観賞するためにあれこれと蔵から出し入れさせられてうるさかつた。彼は偏執症の蒐集慾以外に精力を使ふことを絶対に嫌つた。早く妻にわかれてからは、異性には全然関心を持たなかつた。それは彼の最も世の中で価値ありとする品とか気位とか悧巧りこうとかを誑惑きょうわくする魔性ましょうのものにほかならなかつた。たゞ彼は気短かになつて、しば〳〵癇癪かんしゃくを起した。それらの性癖の諸点がかえつて彼を厳格端正に表面化させたのだと雪子はYに就いての世評の裏を知つた。



 何にでも極度に好き嫌ひをつけるYは、自分の息子兄弟にもそれをした。弟息子の梅麿うめまろは父の唯一の寵児ちょうじだつた。彼はやゝ下膨しもぶくれの瓜実顔うりざねがおの、こんもり高い鼻の根に迫らぬやう切れ目正しくついてゐる両眼の黒い瞳に、長い睫毛まつげを煙らせて、地を見入つてゐるときには、何を考へてゐるか誰も察しがつかなかつた。きりの花のやうに典雅でつくねんとした美しさが匂つた。声も鋭さをなめして楽しい響きを持つてゐた。彼はいつでも不機嫌に近く黙つて孤独で、地へ向けて長い睫毛を煙らせてゐた。雪子は新しく家族の仲間に加はつた自分に対し、若い女性に対し、何の影響をも示さないこの少年に、焦立いらだたしさと、不満を含まないわけにはゆかなかつた。

 だが、その美しさには雪子も呆然ぼうぜんとして息を吐いた。父は梅麿を自分の蒐集物しゅうしゅうぶつ愛玩あいがん品の中に数へ、しかもその中で最も気に入つた一つのものゝやうに、書斎で、庭で、二人は大概一緒だつた。そして父はこの息子に下手したてからお世辞を使ふ態度を取つてゐた。梅麿は父がお世辞を使ふ気持を見抜いて、とぼけて悠々とお世辞を使はれてゐた。だが決して調子に乗らなかつた。そして、父が理由もなく癇癪かんしゃくを起しかけて来ると、少女よりやゝしつかりした綺麗きれいな唇を嬌然と笑みかけて、あどけないことを云つたり、親をおだてたり、他人の悪口を云つたり、およそ父の弱点が喜びさうなところをいて、素知そしらぬ顔で父の気分を持ち直させることに、気敏けざと幇間ほうかんのやうな妙を得てゐた。

 雪子はいやらしいと思ふ以上に、その技巧のえに驚嘆した。だが、梅麿は父以外にはその手は絶対に使はなかつた。

 父の気紛れが、面白くない仕辛しづらい仕事を望むときには、梅麿はすーつと脇へけた。夜中に急に風呂を沸かさせたり、えんの下の奥にしまつてある重いものを取出さしたり──さういふときには兄の鞆之助とものすけが、ぶつ〳〵いふ召使を困りながら指揮して、そのしょうに当つた。

 父はこのことを知つてゐて、

「梅はずるいやつだ」

といつて笑つたが、その狡さが気に入つてもゐた。

 兄の鞆之助は反対に調法のほか、何から何まで、父の気に入らなかつた。父は兄息子の顔を見るとむつと黙つて仕舞しまふか、癇癪を浴せかけた。命令通り出来上つた仕事も、その命令通りにした愚直なことが、そこに叱言こごと隙間すきまもないことで父を怒らせた。兄はしじゆうおど〳〵してゐて、眼鼻立ちに神経の疲労とうれひの湿りがあつた。濃い頭の捲毛まきげだけが兄弟似寄つてゐた。兄弟は父が現代教育の方針に不満といふ理由で、一人は中学を、一人は高等学校を、途中から退学させられて、通つて来る二三人の家庭教師にかされてゐるが、実は父が家庭に於ける享楽きょうらく生活に手不足をきたすのを、父は極力嫌つたためでもあつた。

 兄の鞆之助は雪子の部屋へよく遊びに来た。雪子が部屋の周囲に、蔵から出して来た、ほんものゝ植物以上に生々と浮き出てゐる草花が染付けられてゐる鉄辰砂しんしゃの水差や、てのひらの中に握り隠せるほどの大きさの中に、恋も、嘆きも、男女の媚態びたいも大まかに現はれてゐる芥子けし人形や、徳川三百年の風流の生粋きっすいが、毛筋で突いたやうな柳と白鷺しらさぎ池水ちすいきざみ込まれた後藤派の目貫めぬきのやうなものを並べて、自分の店から持つて来たいろ〳〵の専門の道具や薬品を使つて手入れしながら、面倒臭く思つて伸びをしたり、または芸術といふ不思議な幻術がき入れる物憎い恍惚こうこつひたつたりしてゐると兄はおづ〳〵入つて来る。

 彼はかの女の傍に立膝たてひざしてすわると、いくらか手入れを手伝ひながら、かの女の気配を計つた。かの女の丸い顔をいぢらしさうに見た。

「うちは、これでね、思つたほど豊かぢやないんですよ。何しろ父はあゝいふ風でせう。何でも見付け次第買つちまつて、とき〴〵月末の生活費の払ひの現金にも困ることがあるんです」

 かの女は興味索然としながら話に釣り込まれた。

「あなた方ご兄弟は将来どうするお積り」

「父が生きてゐるうちは今の財産を使つちまつても、父の恩給で米代ぐらゐはありますが、父が死んだらこんな道具類でもぽつ〳〵売つて喰つて行くより手はありません。それにしても贋物にせものが多くて」

「持参金附きのお嫁さんでもおもらひになつたらいかゞ。ご兄弟とも美男子だしお家柄はよし」

 かの女は揶揄からかつた。鞆之助はに受けた。

「だめですよ。第一僕等に学歴はなし、それにかう見えて、僕は女に対してうんと贅沢ぜいたくな好みを持つてゐるんです」

「弟さんは」

「あれは父と同じに女嫌ひらしいです」

 さうかと思ふとまたの日は急に朗らかで、いそ〳〵して来て、どこから探し出して来たか、古風なみだらな絵巻物をかの女にそつと拡げかけるやうなこともあつた。かの女は極力平静を装つて、彼の顔を正視した。

「それどこが面白いのでございます」

 すると、彼は照れて、

「僕にはものを考へないといふモツトー以外には生きる方法はないんです。単に刹那せつな々々の刺戟しげきのほかには……」

と負け惜しみのやうなことを云ひながら、手持ち不沙汰ぶさたにそれを巻き納めて部屋を出て行くのだつた。



 父のYは旧幕の権臣の家の後嗣こうし者であつた。旧藩閥の明治の功傑たちは、新政府に従順だつた幕府方の旧権臣の家門をねぎらふ意味から、その後嗣者を官吏として取り立てた。Yは相当なところまで出世した。しかし、Yの持つて生れた度外れの気位と我執がしゅうの性質から、たうとう長上ちょうじょうと衝突して途中で辞めて仕舞しまつた。遺産のあるまゝに生来の蒐集癖しゅうしゅうへきふけつて、まだ壮年をちよつと過ぎたくらゐの年頃を我儘三昧わがままざんまいに暮さうと決めてしまつた。恐るべきエゴイストの墓標のやうな人間であつた。

 Yの権高けんだかな気風と、徹底した利己主義に、雪子はやゝ超人的な崇高な感じは受けたが、下町娘の持つ仁侠にんきょう的な志気はYにひどい反抗と憎みを持つた。あはよくば、Yが寵愛ちょうあいしてゐる弟息子を奪つて、父の傲慢ごうまんの鼻を明かしてやらうとさへヒステリカルに感じた。

 兄の息子は、膨れ目蓋まぶたのしじゆう涙ぐんでゐるやうに見える、皮膚の水つぽい青年だつた。女のことで一度落度おちどがあつたといふうわさだが、しかしそのことが原因ばかりでもない蔭の人の性分を十分持つてゐて、父や弟から、身内と召使ひとの中間の人間に扱はれ、雇人やといにんに混つて、自然にこの別寮の家扶かふのやうな役廻りになつてゐた。しかし、見かけほど悲劇的な性格もなく、どこかのん気でおろかなところがあつて、情操的にものを突き詰めては考へられなく、うきくさの浮いたところがあつた。



 母のゐないこの別寮で、兄の鞆之助は主婦のやうな役目にもなつた。雪子が来て二月ほどしたある日、弟の梅麿はかの女の部屋に来てゐた兄のところへ珍しく入つて来て、

「兄さん、僕に出してれた着物、ほころびが切れてるぢやないか」

たもとをあげて脇を見せた。

 すると兄ははら〳〵しながら、美しく重圧して来る弟の黒い瞳に堪へないやうに眼を伏せて目蓋まぶたをぴり〳〵させ、

「だつて、いま、ばあやも女中も使ひに出しちやつてゐないんだから仕方がないよ」

 すると梅麿は苦いものに内部から体をぢ廻されるやうに憂鬱ゆううつな苦悩を表情に見せて、

「もう浴衣ゆかたでなきや暑くて、お父さんにいひつかつた庭の盆栽へ水をやりに行けないぢやないか──兄さん自分で縫つておれよ」

 兄の不甲斐ふがいない性質に対する日頃の不満と、この弟をこごつた瑩玉えいぎょくのやうに美しくしてゐる生れ付き表現のみちを知らない情熱と、生命力の弱いものに対しては肉親でも奴隷どれいのやうにしいたげて使つてしまふ親譲りのエゴイズムとが、異様で横暴な形を採つて兄に迫つた。

 兄は困つたやうな情けないやうな表情をして、突き付けられた浴衣ゆかたに近寄つて行つた。

 しかし、傍に雪子のゐるのを見ると、薄い乾いた下唇をちよつと舌の先で湿らしてから、兄はにやりと笑つた。

「無理をいふなよ──だめだよ。男になんか、縫へなんて……」

 そして腕組みをして昂然こうぜんとした態度を作つた。それには不自然なところがあつた。兄はありたけの勇をふるつて弟の瞳ににらみ合つた。

 雪子の立場が切ないものになつて来た。雪子は彼女の箪笥たんすの観音開きから急いで針道具を取出して来て、弟の持つてゐる浴衣に手をかけた。

「何でもありませんわ。あたし縫つてあげますわ」

 すると、梅麿は浴衣を雪子の手からすつとづして、なほ兄に向つていつた。

「兄さん縫つてお呉れよ。いつもうまく縫ふぢやないか」

 兄は赤くなつた。弟は兄になほも迫つた。場合によつては平気で、兄が雪子に聞かれて、もつと顔を赤くしさうな暴露の意地悪さを用意して、ぜひ兄に縫はせないでは置かない気配を示した。そこにはまた、雪子といふ第三者が入り込むのを潔癖けっぺきに嫌ふいこぢさもあつた。

 雪子は弟が肉親の兄に対する執拗しつような残忍な仕打ちと、また女の身の雪子が折角せっかく申出もうしでていよく拒否された恥とで、心中怒りが盛り上つて来た。何として仕返しをしてやらう──雪子は針道具をそこへ置いたまゝ、青葉の映る椽側えんがわへ離れて行つて、そこの柱へもたれてまじ〳〵と弟を見詰めてゐてやつた。

 兄は雪子の気配を察するだけに、いよ〳〵その場の処置が困難になつて、ただなま返事をして萎縮いしゅくしてゐた。

 雪子はふと、母もなく我執の父の下に育つて、情のしこつた弟息子の親への甘えごころが、兄へかうも変つた形を採つて現はれるのではないかと気がついた。そして、生命力の薄い、物にうかやすい兄は、到底弟のこの本能の一徹な慾求を理解もし負担もしてやる力はないのだと思つた。兄は彼の紛らしやすい性分から、彼の愛の慾求を何かに振りき、つなぐことによつて、彼自身だけの始末をつけてゐた。彼はこの頃いよ〳〵雪子に向けて心を寄せる傾向が見えてゐた。

 兄は雪子の眼の前で針仕事をする姿を、何としても見せたくないらしく、いかに弟に迫られても薄笑ひしてゐて、応じなかつた。そして顔色をあおざめさしたり、急に赤めたり、しかもわきへ避けて行かないで、だん〳〵眼と口とが茫漠ぼうばくとなるところを見ると、一種の被虐性の恍惚こうこつに入つてゐるものゝやうに見えた。

 弟はこれに対してます〳〵執拗しつようになり、果てはあらゆる侮誣ぶふの言葉を突きつけて兄に向つた。

 雪子は見てはゐられない気がした。こんなに執拗に取組まなければ愛情の吐け口を得られない兄弟の運命や性格の原因をどこへ持つて行つたらいゝか、その詮索せんさくをするのさへいま〳〵しいほど、心を不快に底からき廻された。いまから考へると多分の嫉妬しっともあつたやうに思ふ。さういふけわしい石火いしびり合つて、そこの裂目さけめからまれる案外甘い情感の滴り──その嗜慾しよくに雪子は魅惑を感じた。雪子の細胞には、他人のさういふ仕打ちの底の心理を察してうらやむだけの旧家きゅうか育ちの人間によくある、加虐性も被虐性も織り込まれてゐた。



 弟はたうとう兄の薄皮の手首を、女のやうにじーつとつねつた。兄は真赤に顔をゆがめてそれを堪へてゐた。雪子は激動の極、少し痴呆ちほう状態になつてかえつて逆に刺戟しげきを求めるこゝろから、もつと眼の前で惨劇の進むのに息詰まる興味を持つやうになつてゐた。

 それが終ると弟は浴衣ゆかたほうり出して、手早く帯を解いて、それから着てゐたあわせも脱いだ。

「僕、縫つてれないなら、裸で庭へ出て行くから──」

 行きかける風さへみせた。

 兄はあわてゝ弟をとらへた。

「だめだよ。そんななりで、君、感冒かぜをひくぢやないか」

 兄は弟が小さい時感冒から肋膜ろくまくの気になつたのを覚えてゐて、それを気遣きづかつたものゝ、もつと大きな原因は、この兄弟は生まれつき肉体の露出については不思議な羞恥しゅうちの本能を持つてゐた。他人に見られるやうなところで、どんな必要の場合でも肌を脱いだり、すそをからげたりは決してしなかつた。兄弟同志の間では、なほ更それはみだらなものを見るやうに嫌つた。

 いま弟がそれをあえてするのは、必死の羞恥を突き付けて、兄に必死の決意を促す最後の脅迫手段だつた。

「君、裸を垣根から通る人に見られるぢやないか」

「かまふもんか」

 兄弟は死のやうにあおざめて争つた。

 兄は息が切れるやうにあえいだ。眼を伏せて、なるべく見ないやうにして、着物を弟に着せようとした。弟は肩ではねのけた。幾度か少青年の白磁色の身体が紺竪縞こんたてじまの大島の着物に覆はれてはけ出た。兄はその所作の間に、しばしば雪子の方を振り向いてかの女の気配をうかがつた。

 兄の気持を察すると、弟の童貞で魅惑的な肉体を、自分が心を寄せかけてゐる若い娘に見られることはねたましくいとはしかつた。だが我意をつらぬくことゝ兄をおどすことの一図にふける弟は、今は全く雪子の存在などは無視した。弟は一体ふだんから雪子の存在をどう考へてゐるのか、女といふものに対してどういふ感受性を持つてゐるのか、全く不明だつた。それは雪子を寂しく焦立いらだたしいものにしたが、この場合、彼が何人なんぴとに対しても嫌ふ裸身を雪子の前ですらりと現はすといふことは、たとへその目的は兄に向つてゞあるとはいへ、副作用として雪子は無視の軽蔑けいべつはすに受けないわけにはゆかなかつた。だが、こゝに至つて雪子は怒らうと思つてもなぜか力が脱けた。

 雪子を女として少しも顧慮されない自分を、急に魅力のない卑しいものに感じて、弟に対して感じてゐるふだんの心の底の寂しさを一層深めた。

「仕方がないやつだなあ」

 兄はたうとう負けて、雪子がそこへ置いて来た針道具を、ちよつとかの女に会釈えしゃくして、手元へ引き寄せた。針さしから手頃の針を抜き取り、針先を頭の髪の毛へ突き込んで油をにじませた。アイヌの郷土細工の糸巻から、弟の着物と似合ひの色糸を見付けて、針のめどへ通した。それからいかにも物馴ものなれた調子でほころびをつくろひにかゝつた。

 男の針仕事──。いかにぎこちなく、わびしい形でそれが行はれることだらう。雪子はあらかじめぞりつと寒気を催すと共に、その不快な醜さによつてかの女の神経の肌質きめをさゝくれ立たされることを覚悟してゐたが、兄の手振りを見ておや〳〵と思つて安心した。より以上に感心した。それは女のする通りの所作に違ひないが、しかしその通りを男の青年がするのに、少しも男の格を崩し、また男の品位を塩垂しおたれさすやうなしいくぼみは見出みいだせなかつた。従容しょうようとして、たゞ優しい仕事に、男がいたはりたずさはつてゐる自然の姿にほかならなかつた。結局、兄の性格としてそれは身についた仕事であり、弟へしてやつてゐる平常からのれであり、実は好みの就業となつてゐるのかも知れない。

「男の針仕事もいゝものだ」

と、雪子は胸の中でさう嘆声をらしてゐた。

 だが、雪子は羞明まばゆいのを犯して、兄の縫ふ傍に立つてゐる弟の裸身に眼をやると同時に、全面的に雪子に向つてき入らうとする魅惑を防禦ぼうぎょして、かの女の筋肉の全細胞は一たん必死に収斂しゅうれんした。すぐ堪へ切れない内応者があつて、細胞はまた一時に爆発した。そしてすつかり困迷して痴呆ちほう状態に陥つた雪子の心身へ、若く甘い魅惑は水の如くひたり込んだ。

 雪子はこの若きダビデの姿をいかに語らう──ミケランヂエロの若きダビデの彫像の写真にしても、このときまだ雪子は知らない。後に欧洲おうしゅう彷徨ほうこうの旅で知つたのである。それは伊太利イタリーフロレンスの美術館の半円周の褐色のめ壁を背景にして立つてゐた。それが持つ憂愁の甘美は、西洋的の動物質と東洋的の植物性との違ひはあるが、梅麿が持つものとほとんど同じだつた──。健かな肉付きは、胸、背中から下腹部、腰、胴へとしまつて行き、こどものひょうを見るやうだつた。流暢りゅうちょうで構梁のたしかな肩の頂面に、つんもり扇形の肉が首の附根の背後へ上り、そこから青白く微紅を帯びたくびもたげられた。

 だが、雪子のせられたのはさういふ一々のものではない。何代か封建制度の下に凝り固めた情熱を、明治、大正になつてまだ点火されず、し点火されたらうらみの色を帯びた妖艶ようえんほのおとなつて燃えさうな、全部白臘で作つたやうな脂肉のいろ光沢つやだつた。それにはまた喰ひ込まれてゐる白金の縄を感じた。



 久隅雪子はほたる見物にことよせて私を招き、文学者である私にだけは是非ぜひこの話をして、自分のこの家に落着く気持を分担してもらいのだつた。この家はその奇矯ききょうな親子兄弟のんでゐた家だつた。雪子は話し終つて、ほつとして云つた。

「その父親が病死するときでしたの、その兄弟が心中しちまつたのは……」

底本:「日本幻想文学集成10 岡本かの子」国書刊行会

   1992(平成4)年123日初版第1刷発行

底本の親本:「岡本かの子全集 第三巻 小説」冬樹社

   1974(昭和49)年430

初出:「文芸」

   1937(昭和12)年7

※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。

入力:門田裕志

校正:湯地光弘

2016年116日修正

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