黄銅時代の為
宮本百合子



 ト翁は、人間が結婚を欲するのは、情慾に動かされるからだ、と云って居るのを、彼の日記の中に見る。又、個人を愛するのには盲目に成らなければ愛せない。盲目に成らなければ只神と人類を愛し得るのみだ。──神性を愛するよりほか出来なく成る、とも云って居る。結婚の自然的な結果は生殖である。此は生理的の結果で、人間の内に神が死なない限り、人は只異性と公許の交接によって子供を産む事──その事実のみに幸福を感じて満足するものではないのだ。自分は結婚を肯定する。広い範囲に於て肯定する。単に、爾姦淫せざらん為に許りではない。人間は、より高大な、啓発された生活へ自分の霊を育てる為の助力者、試金石、として、先ず最も自分に近く、最も自分の負うべき自明の責任の権化である配偶を持たずには居られない本能を有するのではないか。

 少くとも、自分は自分の結婚に対して、以上のような本能的な直覚と信仰とを持って居た。そして、現在一年余の結婚生活の経験に於て、其は仮令非常に短時間ではあっても、最初の自分の考えは、全然間違って居たものではない事を認めて来た。

 人は、自分の裡に未だ顕われずに潜む多くの力の総てを出し切る機会を持たなければ、其等力の実値を体験する事は出来ない。

 人は結婚によって、少くとも或種の力を自覚させられ、其に就て考慮と反省とを与えられると思う。情慾の力強さ、其の持つ歓びと怖れと悲しみの錯綜した経験などは、其に実際当って見なければ、其がどれ程まで霊と密接なものであり、畏るべきものであるかと云うことは分るまい。

 自分は、二元論者ではない。其故、或時代の人々のように、人間が──異性の間に於て、魂と魂との交通に於てのみ真実な愛の価値があるとは思わない。

 然し、結局に於て収穫と成るものは何かと云えば、経験の綜合から起る真理への進展である。そして、その真理は、只真理に憧れる事を知って居る霊のみが為し能う事なのだと云う事を、私共は忘れてはいけない。若し、子を産む事のみが結婚の全的使命であり、価値であるならば、或場合、非常に相互の魂を啓発し、よき生活に導き合った一対の夫婦が、一人の子をも持たなかった場合、其等の人々の経た結婚生活の価値は如何う定められるべきなのだろう。


 彼等の運命より

「自分が如何なる醜さを、彼女の前に暴露しても、彼女が其を可厭がらない事であった。彼女がよしそれに驚いたにしても 彼女の彼に対する無限な愛と、彼女自身の中の『先天的罪オリジナルシン』とは快く其を宥すのだ。そしてそれが又彼女を暗黒的に喜ばすのだ。」

 此は、人が快感を以て行なう寛裕と云う態度の中の、或点を考えさせるものではあるまいか、特に愛して居る者の間に於ては。

女性と男性との差は、斯う云う心持に於ても何か異っては居ないだろうか。


 ○彼等の運命の裡に於て、長与氏は、性慾を極端にまで厭うべき文字で呼んで居る。

「結婚した許りの夜と同じく獣の真似をして居た。」或は「獣的遊戯」と呼んで居る。然し、性慾は、或は夫婦間の交接と云う事は、左様云うような不正な、根本的に暗黒と、否定と、堕落とを意味するものであろうか。

 勿論、其にふける事は恐ろしい。其の機械として対手を見、その快楽から、人格的価値抜きに対手を抱擁する事は愧ずべき事だ。

 人が、陥り易い多くの盲目と、忘我とを地獄の門として居る為に、性慾が如何に恐るべき謹むべきものであるかと云うことは、昔の賢者の云った通りである。

 然し、本然が暗と罪と堕落なのであろうか。此処に来ると、自分は長与氏、又は、トルストイの考えとは同一仕かねる。

 性慾は、本来に於て、厳粛な責任と、反省と、義務とを負担し伴ったものであると思う。故に、その純粋な場合には必ず其等の一面も影となって人の意識にのぼって来る。

 此点から云うと、性慾生活に於て、或は生理的な条件から其等責任感を、本能的に直感して居る女性の方が、多くの場合、性慾の純粋さを保ち得るのである。

 男性よりも、女性の方が、愛を持たずに性的交渉を持つに堪えない感情を持って居る。

 男性の方が、情慾にのみ左右され得る。然しもう一つ異った場合、仮令えば、夫婦関係に於て、愛から女性は放縦な性慾の対手と成るに甘じる場合がある。

 多くの女性は、斯う云う時、愛から獣に成り下った事を知らない。が、或程まで心のある男は、斯う云う場合に在っても、自分の情慾の暴威を反省する力丈は持って居るのではあるまいか。


 トルストイの性慾論より

「結婚以前には多種多様の方法に依って、神及人類の為に直接尽すことが出来ても、結婚は活動範囲を制限して、独り神及び人類の本来の召使である子供の教養を切に要求させるにとどまる。」

 斯う云う結婚生活の見方は、少くとも今の自分とは合致しない。ト翁は、結婚を性慾的にのみ見たと思わせられる。

底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年530日初版発行

   1986(昭和61)年320日第2版第1刷発行

初出:同上

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2004年215日作成

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