人を殺す犬
小林多喜二
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右手に十勝岳が安すッぽいペンキ画の富士山のように、青空にクッキリ見えた。そこは高地だったので、反対の左手一帯はちょうど大きな風呂敷を皺にして広げたように、その起伏がズウと遠くまで見られた。その一つの皺の底を線が縫って、こっちに向ってだんだん上ってきている。釧路の方へ続いている鉄道だった。十勝川も見える。子供が玩具にしたあとの針金のようだった、がところどころだけまぶゆくギラギラと光っていた。──「真夏」の「真昼」だった。遠慮のない大陸的なヤケに熱い太陽で、その辺から今にもポッポッと火が出そうに思われた。それで、その高地を崩していた土方は、まるで熱いお湯から飛びだしてきたように汗まみれになり、フラフラになっていた。皆の眼はのぼせて、トロンとして、腐った鰊のように赤く、よどんでいた。
棒頭が一人走っていった。
もう一人がその後から走っていった。
百人近くの土方がきゅうにどよめいた。「逃げたなあ!」
「何してる! ばか野郎、馬の骨!」
棒頭は殺気だった。誰かが向うでなぐられた。ボクン! 直接に肉が打たれる音がした。
この時親分が馬でやってきた。二、三人の棒頭にピストルを渡すと、すぐ逃亡者を追いかけるように言った。
「ばかなことをしたもんだ」
誰だろう? すぐつかまる。そしたらまた犬が喜ぶ!
眼下の線路を玩具のような客車が上りになっているこっちへ上ってくるのが見えた。疲れきったようなバシュバシュという音がきこえる。時々寒い朝の呼吸のような白い煙を円くはきながら。
*
その暮れ方、土工夫らはいつものように、棒頭に守られながら現場から帰ってきた。背から受ける夕日に、鶴尖やスコップをかついでいる姿が前の方に長く影をひいた。ちょうど飯場へつく山を一つ廻りかけた時、後から馬の蹄の音が聞えた。捕かまった、皆そう思い立ち止まって、振り返ってみた。源吉だった。
源吉はズブ濡れの身体をすっかりロープで縛られていた。そしてその綱の端が棒頭の乗っている馬につながれていた。馬が少し早くなると(早くするのだ)逃亡者はでんぐり返って、そのまま石ころだらけの山途を引きずられた。半纒が破れて、額や頬から血が出ていた。その血が土にまみれて、どす黒くなっている。
皆は何んにも言わないで、また歩きだした。
(体を悪くしていた源吉は死ぬ前にどうしても、青森に残してきた母親に一度会いたいとよくそう言っていた。二十三だった。源吉が、二日前の雨ですっかり濁って、渦を巻いて流れていた十勝川に、板一枚もって飛びこんだということはあとで皆んなに分った)
* *
飯がすむと、棒頭が皆を空地に呼んだ。
まただ!
「俺ァ行きたくねえや……」皆んなそう言った。
空地へ行くと、親分や棒頭たちがいた。源吉は縛られたまま、空地の中央に打ちぶせになっていた。親分は犬の背をなでながら、何か大声で話していた。
「集まったか?」大将がきいた。
「全部だなあ?」そう棒頭が皆に言うと、
「全部です」と、大将に答えた。
「よオし、初めるぞ。さあ皆んな見てろ、どんなことになるか!」
親分は浴衣の裾をまくり上げると源吉を蹴った。「立て!」
逃亡者はヨロヨロに立ち上った。
「立てるか、ウム?」そう言って、いきなり横ッ面を拳固でなぐりつけた。逃亡者はまるで芝居の型そっくりにフラフラッとした。頭がガックリ前にさがった。そして唾をはいた。血が口から流れてきた。彼は二、三度血の唾をはいた。
「ばか、見ろいッ!」
親分の胸がハダけて、胸毛がでた。それから棒頭に
「やるんだぜ!」と合図をした。
一人が逃亡者のロープを解いてやった。すると棒頭がその大人の背ほどもある土佐犬を源吉の方へむけた。犬はグウグウと腹の方でうなっていたが、四肢が見ているうちに、力がこもってゆくのが分った。
「そらッ!」と言った。
棒頭が土佐犬を離した。
犬は歯をむきだして、前足をのばすと、尻の方を高くあげて……源吉は身体をふるわしていたが、ハッとして立ちすくんでしまった。瞬間シーンとなった。誰の息づかいも聞えない。
土佐犬はウオッと叫ぶと飛びあがった。源吉は何やら叫ぶと手を振った。盲目が前に手を出してまさぐるような恰好をした。犬は一と飛びに源吉に食いついた。源吉と犬はもつれあって、二、三回土の上をのたうった。犬が離れた。口のまわりに血がついていた。そして犬は親分のまわりを、身体をはねらしながら二、三回まわった。源吉は倒れたままちょっとの間ピクッピクッと動いていた。がフラフラと立ち上った。と土佐犬は吠えもせず飛びかかった。源吉はひとたまりもなくはね飛ばされて、空地を区切っている塀に投げつけられた。犬はまたせまった! 源吉は犬の方に向きなおった。そして塀に背をもたせ、背中でずって立ち上った。皆んな思わずその方を見た。こっちに向けた顔はすっかり血だらけで分らなかった。その血が顎から咽喉を伝って、すっかりムキだしにされて、せわしくあえいでいる胸を流れるのが分かった。立ち上ると源吉は腕で顔をぬぐった、犬の方を見定めようとするようだった。犬は勝ち誇ったように一吠え吠えると、瞬間、源吉は分けの分らないことを口早に言ったか、と思うと、
「怖かない! オッ母ッ!」と叫んだ。
そしてグルッと身体を廻すと、猫がするように塀をもがいて上るような恰好をした。犬がその後から喰らいつた。
* *
その晩棒頭が一人つき添って土方二人が源吉の死骸をかついで山へ行った。穴をほってうずめた。月夜で十勝岳が昼よりもハッキリ見えた。穴の中にスコップで土をなげ入れると、下で箱にあたる音が不気味に聞えた。
帰りに一人が、ちょうど棒頭の小便をしていた時、仲間に「だが、俺ァなあキットいつかあの犬を殺してやるよ……」と言った。
底本:「日本文学全集43 小林多喜二 徳永直集」集英社
1967(昭和42)年12月12日発行
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2005年1月16日作成
2014年8月5日修正
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