あとがき(『宮本百合子選集』第十五巻)
宮本百合子
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ここには、一九三二年の一月の創刊で、日本プロレタリア文化連盟から出版されていた『働く婦人』に書いた短いものからはじまって、一九四一年(太平洋戦争のはじまった年)の一月執筆禁止をうけるまで婦人のために書いた感想、評論、伝記、書評など四十篇が集められている。一九三二年から四〇年いっぱいといえば八年の年月だが、その間には一九三八年(昭和十三年)から翌年の初夏までつづいた作品の発表禁止の期間がはさまり、通算六百日ばかりの拘禁生活の期間がある。ここに集められている評論、伝記は主として一九三七年(昭和十二年)一九三九、四〇年にかかれたものが多い。
こんにち、日本の人民生活全体のおかれている悪条件は、もっともきびしい形で女性の生活に反映している。しかも、苦しいことは、若い少女の感情を不安定にし、荒びさせている社会悪の諸条件は、家庭の妻に、働く婦人のすべてに、未亡人をふくむすべての母の生活に深刻に作用していて、きょうの日本の女性の問題を現象的におっかけて見ても、ほとんどそれとしては解決のめどもないように思えることである。人民生活のごまかしようのない逼迫は、あらゆる女性の問題を、むき出しに社会問題として、半封建の特権者によって行われているファシズムへの傾きをもつきょうの政治の破綻としてわたしたちの毎日にほこさきを出しているのである。女性の風俗、モードの問題ひとつをまじめにとりあげても、こんにちではそこに、日本の流行が植民地的な文化趣味に従属させられてはならないという課題が立ちあらわれる。同時に、日本の独自性というものが一般の関心をひいている現在を利用してふたたび、超国家主義的な感情へ、戦争準備的な方向で「日本」を復活させようとするファシズムの明らかな意図と、しっかりたたかわなければならないという必要がおこっている。戦争によってこれだけ深い犠牲をはらった全日本の女性の、将来の戦争と再びはびころうとしているファシズムへのつよい反対がないならば、女性の苦痛にみちたきょうの生活そのものが打開されてゆく道はまったくないのである。
婦人に向けられる失業や、女子学生のアルバイトの問題。職業と家庭生活との矛盾の問題。最悪な人民経済の事情から女性は家庭からどしどしはたき出されているのに、生活を求めて女性がたたかってゆく社会では、昔ながらの封建性が克服されていないばかりか、数年前には知られなかった複雑微妙な堕落のモメントが、女性の一歩一歩に用意されてある。
戦争の時代にかかれた婦人についての評論や感想は、時間的にいって、自然きょうのそれらの諸現象にはふれていない。軍部の煽動にのって若い女性が、明日にかくされている生活の破滅に向ってヒロイズムでごまかされないように、戦争的美名にかくされた資本主義の搾取の現実を見とおすように、荒くれたかぶった世間の気風のうちに、ひとすじの人間らしさと、その発展のための努力を失うまいとしているけなげな女性たちの心の友であろうとして、この集におさめられている文章はかかれた。
そういう面からみれば、これらの文章は、きょうのものではない。けれども、わたしたちがきょうのこの紛糾した苦しい矛盾をしのいで、将来によりましな社会をうみ出してゆこうとする気力と行動とを失わないでいるのは、何の魔力によってだろう。苦しみながら、ときには涙も出ない思いをかみしめながら、それでもなおわたしたちの頸すじは明日の希望に向ってもたげられている。それは、決してわたしたち女性がおろかな生物だからではない。生の根源というものは、どんな歴史の現実に深く根をおろしているものであるかということの証拠であると思う。小船は、一つ一つの波にはゆられているが大局からみればちゃんと一定の方向で波全体を漕ぎわけてゆく。そのようにわたしたちは、起伏する社会現象をはげしく身にうけながら、そこからさまざまの感想と批判と疑問とをとり出しつつ、人間らしい人生を求める航路そのものを放棄してはいない。昔の女性が世間智でとりあつめた常識は、すでにやぶれた。身のまわりに渦巻く現象が新しい要素を加えてめまぐるしくなればなるほど、わたしたちは、そのめまいを起させるような現象の底にある社会的動力をつかんで全体を理解しようと欲するし、その動力の本質を、よりよいものへ、より人間らしい方向へ働き得るものに発展させ改変させようと欲している。現代のすべての女性はおそろしく高価な教訓によって、一身の幸福といい不幸ということが、社会事情との連関なしに語れないという現実だけは、はっきりと学びとった。
ここに集められているすべての文章は、一貫して一つの意志をもっている。それは、わたしたちの貴重な、そして誰にとってもかけがえのない一生を気分や現象で、はぐらかされ、かどわかされてしまわないようにという決心である。歴史の進みゆく本質と自分の生活とをまじめに、がんこに見くらべて生きてゆく、ほこりたかい人間としての根気を失わないように、という願いがある。現象から本質を洞察する気力にみちた精神の習慣へのよびかけがある。精神と肉体とが一致し、感情は理性とともにある行為の美しさへの招集と、善は美であり得るという事実についてのいくとおりかの例証がある。
一九四九年八月一日
追記
この集の編輯が終り、再校が出てしまってから、ふとわたしの気にかかることができた。それはこの集に収められている「若い女性の著書二つ」のなかでふれている野沢富美子さんのことについてである。
「煉瓦女工」が出版された当時、商業出版の上で若い作者が不安定な利用にさらされていた当時、わたしは「若い女性の著書二つ」のなかで、彼女のおかれている客観的主観的な困難にふれたのであった。その時分「煉瓦女工」の作者は、わたしの書いたその文章はおそらく読まなかったことだろう。その後野沢富美子さんは、さまざま生活の波瀾に苦しい経験を重ねた末、一九四五年(昭和二十年十二月)共産党に入党した。それから結婚した。党員小池富美子として発表された「女子共産党員の手記」は、まだ多分に、この作者が幼時の環境からしみこまされていたアナーキスティックな爆発があった。しかし、少女時代の労働のために健康を失ったこの作者が、妻、母として、党員として東北の小さい町に負担の多い生活とたたかいながら一つ一つ作品を重ねて来ているうちに、次第に爆発的な悲憤と反抗とが、階級的な作家としてのリアリスティックな能力に高められつつある。
アグネス・スメドレーはアメリカの下層生活から育って来た革命的ジャーナリストである。彼女の「女一人大地をゆく」に溢れているつよい生活力は、彼女の政治的な成長とともに、そのアナーキスティックな要素を力づよく人民の発展的な歴史性に統一させた。今後の小池富美子の成長の道については、階級的婦人、人民的な作家として注目すべきものがある。アナーキスト出身で著名な婦人作家で、その才能の素質と妻としておかれている偽瞞的な環境のためにアナーキズムから社会観を本質的に高められることができず、労働者弾圧にも動員される右翼の暴力団の生活に近接する機会をもつようになって、その描きてとしてあらわれているひともある。そして本質においては反人民的な勢力のスポークス・ウーマンとなりつつあるとき、小池富美子の自然発生の生のたたかいが、岩をめぐり、草の根にしみて、より高い人民的なものに成長しはじめていることは、意義ぶかい現実である。
民主主義革命の道は人民の歴史の実質の高まりである。そして常に苦しい条件におかれつづけている働く婦人、子供、青年の人生のより意味のある社会的価値づけを強く主張している。日本の民主主義の道は、困難をきわめている。けれども小池富美子さんのように、あやうく残酷な商業主義出版の波の下に溺れ死なされそうだった一つの力づよい才能と生活力とが、おびただしい内と外との困難にからまれながらも、階級的成長と人民の運命の打開の可能の上に置きなおされたのは、やはり、人民の歴史そのものの前進によってもたらされたプラスの実例であると思う。
底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年5月30日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「宮本百合子選集 第十五巻」安芸書房
1949(昭和24)年10月発行
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
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