病院の窓
石川啄木
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野村良吉は平日より少し早目に外交から歸つた。二月の中旬過の、珍らしく寒さの緩んだ日で、街々の雪がザクザク融けかかつて來たから、指先に穴のあいた足袋が氣持惡く濡れて居た。事務室に入つて、受付の廣田に聞くと、同じ外勤の上島も長野も未だ歸つて來ないと云ふ。時計は一時十六分を示して居た。
暫時其處の煖爐にあたつて、濡れた足袋を赤くなつて燃えて居る煖爐に自暴に擦り附けると、シュッシュッと厭な音がして、變な臭氣が鼻を撲つ。苦い顏をして階段を上つて、懷手をした儘耳を欹てて見たが、森閑として居る。右の手を出して、垢着いた毛糸の首卷と毛羅紗の鳥打帽を打釘に懸けて、其手で扉を開けて急がしく編輯局を見𢌞した。一月程前に來た竹山と云ふ編輯主任は、種々の新聞を取散らかした中で頻りに何か書いて居る。主筆は例の如く少し曲つた廣い背を此方に向けて、煖爐の傍の窓際で新着の雜誌らしいものを讀んで居る。「何も話して居なかつたナ。」と思ふと、野村は少し安堵した。今朝出社した時、此二人が何か密々話合つて居て、自分が入ると急に止めた。──それが少からず渠の心を惱ませて居たのだ。役所𢌞りをして、此間やつた臨時種痘の成績調やら辭令やらを寫して居ながらも、四六時中それが氣になつて、「何の話だらう? 俺の事だ、屹度俺の事に違ひない。」などと許り考へて居た。
ホッと安堵すると妙な笑が顏に浮んだ。一足入つて、扉を閉めて、
『今日は餘程道が融けましたねす。』
と、國訛りのザラザラした聲で云つて、心持頭を下げると、竹山は
『早かつたですナ。』
『ハア、今日は何も珍らしい材料がありませんでした。』
と云ひ乍ら、野村は煖爐の側にあつた椅子を引ずつて來て腰を下した。古新聞を取つて性急に机の塵を拂つたが、硯箱の蓋をとると、誰が使つたのか墨が磨れて居る。「誰だらう?」と思ふと、何だか譯もなしに不愉快に感じられた。立つて行つて、片隅の本箱の上に積んだ原稿紙を五六十枚掴んで來て、懷から手帳を出して手早く頁を繰つて見たが、これぞと氣乘りのする材料も無かつたので、「不漁だ。不漁だ。」と呟いて机の上に放り出した。頭がまたクサクサし出す樣な氣がする。兩の袂を探つたが煙草が一本も殘つて居ない。野村は顏を曇らせて、磨れて居る墨を更に磨り出した。
編集局は左程廣くもないが、西と南に二つ宛の窓、新築した許りの社なので、室の中が氣持よく明るい。五尺に七尺程の粗末な椴松の大机が据ゑてある南の窓には、午後一時過の日射が硝子の塵を白く染めて、机の上には東京やら札幌小樽やらの新聞が幾枚も幾枚も擴げたなりに散らかつて居て、恰度野村の前にある赤インキの大きな汚染が、新らしい机だけに、胸が苛々する程血腥い厭な色に見える。主筆は別に一脚の塗机を西の左の窓際に据ゑて居た。
此新聞は昔貧小な週刊であつた頃から、釧路の町と共に發達して來た長い歴史を持つて居て、今では千九百何號かに達して居る。誰やらが「新聞界の桃源」と評しただけあつて、主筆と上島と野村と、唯三人でやつて居た頃は隨分暢氣なものであつたが、遠からず紙面やら販路やらを擴張すると云ふので、社屋の新築と共に竹山主任が來た。一週間許り以前に長野と云ふ男が助手といふ名で入社つた。竹山が來ると同時に社内の空氣も紙面の體裁も一新されて、野村も上島も怠ける譯にいかなくなつた。
野村は四年程以前に竹山を知つて居た。其竹山が來ると聞いた時、アノ男が何故恁麽釧路あたりまで來るのかと驚いた。と同時に、云ふに云はれぬ不安が起つて、口には出さなかつたが、惡い奴が來る事になつたもんだと思つて居た。野村は、假令甚麽に自分に自分に好意を持つてる人にしても、自分の過去を知つた者には顏を見られたくない經歴を持つて居た。けれども、初めて逢つた時は流石に懷しく嬉しく感じた。
野村の聞知つた所では、此社の社長の代議士が、怎した事情の下にか知れぬけれど、或實業家から金を出さして、去年の秋小樽に新聞を起した。急造の新聞だから種々な者が集まつたので、一月經つか經たぬに社内に紛擾が持上つた。社長は何方かと云へば因循な人であるけれど、資本家から迫られて、社の創業費を六百近く着服したと云ふ主筆初め二三人の者を追出して了つた。と、怎したのか知らぬが他の者まで動き出して、編集局に唯一人殘つた。それは竹山であつたさうな。竹山は其時一週間許りも唯一人で新聞を出して見せたのが、社長に重んぜられる原因になつて、二度目の主筆が兎角竹山を邪魔にし出した時は、自分一人の爲に折角の社を騷がすのは本意で無いと云つて、誰が留めても應かずに到頭退社の辭を草した。幸ひ此方の社が擴張の機運に際して居たので、社長は隨分と破格な自由と待遇を與へて竹山を伴れて來たのだと云ふ事であつた。打見には二十七八に見える老けた所があるけれど、實際は漸々二十三だと云ふ事で、髭が一本も無く、烈しい氣象が眼に輝いて、少年らしい活氣の溢れた、何處か恁うナポレオンの肖像畫に肖通つた所のある顏立で、愛相一つ云はぬけれど、口元に絶やさぬ微笑に誰でも人好がする。一段二段の長い記事を字一つ消すでなく、スラスラと淀みなく綺麗な原稿を書くので、文選小僧が先づ一番先に竹山を讃めた。社長が珍重してるだけに恐ろしく筆の立つ男で、野村もそれを認めぬではないが、年が上な故か怎うしても心から竹山に服する氣にはなれぬ。酒を喰つた時などは氣が大きくなつて、思切つて竹山の蔭口を叩く事もある位で、殊にも此男が馴々しく話をする時は、昔の事──強ひて自分で忘れて居る昔の事を云ひ出されるかと、それはそれは人知れぬ苦勞をして居た。
野村は力が拔けた樣に墨を磨つて居たが、眼は凝然と竹山の筆の走るのを見た儘、種々な事が胸の中に急がしく往來して居て、さらでだに不氣味な顏が一層險惡になつていた。竹山も主筆も恰も知らぬ人同志が同じ汽車に乘合はした樣に、互にそ知らぬ態をして居る。何方も傍に人が居ぬかの樣に、見向くでもなければ一語を交すでもない。彼は此態を見て居て又候不安を感じ出して來た。屹度俺の來るまでは二人で何か──俺の事を話して居たに違ひない。恁うと、今朝俺の出社したのは九時半……否十時頃だつたが、それから三時間餘も恁う默つて居ると云ふ事はない。屹度話して居たのだ。不圖すると俺の來る直き前まで……或は其時既に話が決つて了つて、恰度其處へ俺が入つたのぢやないか知ら。と、上島にも長野にも硯箱があるのに、俺ンのを使つたのは誰であらう。然うだ、此椅子も煖爐の所へ行つて居た。アレは社長の癖だ。社長が來たに違ひない。先刻事務の廣田に聞いてくれば可かつたのにと考へたが、若しかすると、二人で相談して居た所へ社長が來て、三人になつて三人で俺の事を色々惡口し合つて……然うだ、此事を云ひ出したのは竹山に違ひない。上島と云ふ奴酷い男だ。以前は俺と毎晩飮んで歩いた癖に、此頃は馬鹿に竹山の宿へ行く。行つて俺の事を喋つたに違ひない。好し、そんなら俺も彼奴の事を素破拔いてやらう、と氣が立つて來て、卑怯な奴等だ、何も然う狐鼠狐鼠相談せずと、退社しろなら退社しろと瞭り云つたら可いぢやないか、と自暴糞な考へを起したが、退社といふ辭が我ながらムカムカしてる胸に冷水を浴せた樣に心に響いた。飢餓と恐怖と困憊と悔恨と……眞暗な洞穴の中を眞黒な衣を着てゾロ〳〵と行く乞食の群! 野村は眼を瞑つた。
白く波立つ海の中から、檣が二本出て居る樣が見える。去年の秋、渠が初めて此釧路に來たのは、恰度竹の浦丸といふ汽船が、怎した錯誤からか港内に碇泊した儘沈沒した時で、二本の檣だけが波の上に現はれて居た。風の寒い濱邊を、飢ゑて疲れて、古袷一枚で彷徨き乍ら、其檣を眺むるともなく眺めて「破船」といふことを考へた。そして、渠は、濡れた巖に突伏して聲を出して泣いた事があつた。……野村は一層堅く目を瞑つた。と、矢張其時の事、子供を伴れた夫婦者の乞食と一緒に、三晩續けて知人岬の或神社に寢た事を思出した。キイと云ふ子供の夜泣の聲。垢だらけの胸を披けて乳をやる母親は、鼻が推潰した樣で、土に染みた髮は異な臭氣を放つて居たが、……噫、淺間しいもんだ那麽時でも那麽氣を、と思ふと其夫の、見るからに物凄い鬚面が目に浮ぶ。心は直ぐ飛んで、遠い遠い小坂の鑛山へ行つた。物凄い髯面許りの坑夫に交つて、十日許りも坑道の中で鑛車を推した事があつた。眞黒な穴の口が見える。それは昇降機を仕懸けた縱坑であつた。噫、俺はアノ穴を見る恐怖に耐へきれなくなつて、坑道の入口から少し上の、些と許り草があつて女郎花の咲いた所に半日寢ころんだ。母、生みの母、上衝で眼を惡くしてる母が、アノ時甚麽に戀しくなつかしく思はれたらう! 母の額には大きな痍があつた。然うだ、父親が醉拂つて丼を投げた時、母は左の手で……血だらけになつた母の額が目の前に……。
ハッとして目を開いた野村は、微かな動悸を胸に覺えて、墨磨る手が動かなくなつて居た。母! と云ふ考へが又浮ぶ。母が親ら書く平假名の、然も、二度三度繰返して推諒しなければ解らぬ手紙! 此間返事をやつた時は、馬鹿に景氣の可い樣な事を書いた。景氣の可い樣な事を書いてやつて安心さしたのに、と思つて四邊を見た。竹山は筆の軸で輕く机を敲き乍ら、書きさしの原稿を睨んで居る。不圖したら今日締切後に宣告するかも知れぬ、と云ふ疑ひが電の樣に心を刺した、其顏面には例の痙攣が起つてピクピク顫へて居た。
内心の斷間なき不安を表はすかの樣に、ピクピク顏の肉を痙攣けさせて居るのは渠の癖であつた。色のドス黒い、光澤の消えた顏は、何方かと云へば輪廓の正しい、醜くない方であるけれども、硝子玉の樣にギラギラ惡光りのする大きい眼と、キリリと結ばれたる事のない脣とが、顏全體の調和を破つて、初つて逢つた時は前科者ぢやないかと思つたと主筆の云つた如く、何樣物凄く不氣味に見える。少し前に屈んだ中背の、齡は二十九で、髯は殆ど生えないが、六七本許りも眞黒なのが頤に生えて五分位に延びてる時は、其人相を一層險惡にした。
渠が其地位に對する不安を抱き始めたのは遂此頃の事で、以前郵便局に監督人とかを務めたといふ、主筆と同國生れの長野が、編輯助手として入つた日からであつた。今迄上島と二人で隔日に校正をやつて居た所へ、校正を一人入れるといふ竹山の話は嬉しかつたものの、逢つて見ると長野は三十の上を二つ三つ越した、牛の樣な身體の、牛の樣な顏をした、隨分と不恰好で氣の利かない男であつたが、「私は木下さん(主筆)と同國の者で厶いまして、」と云ふ挨拶を聞いた時、俺よりも確かな傳手があると思つて、先づ不快を催した。自分が唯十五圓なのに、長野の服裝の自分より立派なのは、若しや俺より高く雇つたのぢやないかと云ふ疑ひを惹起したが、それは翌日になつて十三圓だと知れて安堵した。が、三日目から今迄野村の分擔だつた商況の材料取と警察𢌞りは長野に歩かせることになつた。竹山は、「一日も早く新聞の仕事に慣れる樣に。」と云つて、自分より二倍も身體の大きい長野を、手酷しく小言を云つては毎日々々使役ふ。校正係なら校正だけで澤山だと野村は思つた。加之、渠は恁麽釧路の樣な狹い所では、外交は上島と自分と二人で十分だと考へて居た。時々何も材料が無かつたと云つて、遠い所は𢌞らずに來る癖に。
浮世の戰ひに疲れて、一刻と雖ども安心と云ふ氣持を抱いた事のない野村は、適切長野を入れたのは、自分を退社させる準備だと推諒した。と云ふのは、自分が時々善からぬ事をしてゐるのを、渠自身さへ稀には思返して淺間しいと思つて居たので。
渠は漸々筆を執上げて、其處此處手帳を飜反へして見てから、二三行書き出した。そして又手帳を見て、書いた所を讀返したが、急がしく墨を塗つて、手の中に丸めて机の下に投げた。又書いて又消した。同じ事を三度續けると、何かしら鈍い壓迫が頭腦に起つて來て、四邊が明るいのに自分だけ陰氣な所に居る樣な氣がする。これも平日の癖で、頭を右左に少し振つて見たが、重くもなければ痛くもない。二三度やつて見ても矢張同じ事だ。が、今にも頭が堪へ難い程重くなつて、ズクズク疼き出す樣な氣がして、渠は痛くもならぬ中から顏を顰蹙めた。そして、下脣を噛み乍らまた書出した。
『支廳長が居つたかえ、野村君?』
と突然に主筆の聲が耳に入つた。
『ハア、支廳長ですか? ハア居まし……一番で行きました。』
『今朝の一番汽車か?』
『ハア、札幌の道廳へ行きましたねす。』と急がしく手帳を見て、『一番で立ちました。』
『札幌は解つてるが、……戸川課長は居るだらう?』
『ハア居ります。』
野村は我乍ら可笑しい程狼狽へたと思ふと、赫と血が上つて顏が熱り出して、澤山の人が自分の後に立つて笑つてる樣な氣がするので、自暴に亂暴な字を五六行息つかずに書いた。
『じゃ君、先刻の話を一應戸川に打合せて來るから。』
と竹山に云つて、主筆は出て行つた。「先刻の話」と云ふ語は熱して居る野村の頭にも明瞭と聞えた。支廳の戸川に打合せる話なら俺の事ぢやない。ハテそれでは何の事だらうと頭を擧げたが、何故か心が臆して竹山に聞きもしなかつた。
『君は大變顏色が惡いぢやないか。』と竹山が云つた。
『ハア、怎も頭が痛くツて。』と云つて、野村は筆を擱いて立つ。
『そらア良くない。』
『書いてると頭がグルグルして來ましてねす。』と煖爐の方へ歩き出して、大袈裟に顏を顰蹙めて右の手で後腦を押へて見せた。
『風邪でも引いたんぢやないですか。』と鷹揚に云ひ乍ら、竹山は煙草に火をつける。
『風邪かも知れませんが、……先刻支廳から出て坂を下りる時も、妙に寒氣がしましてねす。餘程温い日ですけれどもねす。』と云つたが、竹山の鼻から出て頤の邊まで下つて、更に頬を撫でて昇つて行く柔かな煙を見ると、モウ耐らなくなつて『何卒一本。』と竹山の煙草を取つた。『咽喉も少し變だどもねす。』
『そらア良くない。大事にし給へな。何なら君、今日の材料は話して貰つて僕が書いても可いです。』
『ハア、些と許りですから。』
込絡かつた足音が聞えて、上島と長野が連立つて入つて來た。上島は平日にない元氣で、
『愈々漁業組合が出來る事になつて、明日有志者の協議會を開くさうですな。』
と云ひ乍ら直ぐ墨を磨り出した。
『先刻社長が見えて其麽事を云つて居た。二號標題で成るべく景氣をつけて書いて呉れ給へ。尤も、今日は單に報道に止めて、此方の意見は二三日待つて見て下さい。』
長野が牛の樣な身體を慇懃に運んで机の前に出て『アノ商況で厶いますな。』揉み手をする。
『ハ、野村君は今日頭痛がするさうだから僕が聞いて書きませう。』
『イヤソノ、今日は何も材料がありませんので。』
『材料が無いツて、昨日と何も異動がないといふのかね?』
『え、異動がありませんでした。』
『越後米を積んで、雲海丸の入港つたのは、昨日だつたか一昨日だつたか、野村君?』と竹山が云つた。長野が慣れるうち、取つて來た材料を話して野村が商況──と云つても小さい町だから十行二十行位いのものだが──を書くことにしてあつたのだ。
『ハア、昨日の朝ですから、原田の店あたりでは輸出の豆粕が大分手打となつたらうと思ひますがねす。』
『遂聞きませんでしたな。』と云つて、長野はきまり惡げに先づ野村を見た目を竹山に移した。
『警察の方は?』
『違警罪が唯一つ厶いました。今書いて差上げます。』
と硯箱の蓋をとる。
野村は眉間に深い皺を寄せて、其癖美味さうに煙草を吸つて居たが、時々頭を振つて見るけれども、些とも重くもなければ痛くもない。咽喉にも何の變りがなかつた。軈てまた机に就いて、成るべく厭に見える樣に顏を顰蹙めたり後腦を押へて見たりし乍ら、手帳を繰り始めたが、不圖髭を捻つて居る戸川課長の顏を思出した。課長は今日俺の顏を見るとから笑つて居て、何かの話の序にアノ事──三四日前に共立病院の看護婦に催眠術を施けた事を揶揄つた。課長は無論唯若い看護婦に施けたと云ふだけで揶揄つたので、實際又醫者や藥劑師や他の看護婦の居た前で施けたのだから、何も訝しい事が無い。無いには無いが、若しアノ時アノ暗示を與へたら怎うであつたらう、と思ふと、其梅野といふ看護婦がスッカリ眠つて了つて、横に臥れた時、白い職服の下から赤いものが喰み出して、其の下から圓く肥つた眞白い脛の出たのが眼に浮んだ。渠は擽ぐられる樣な氣がして、俯向いた儘變な笑を浮べて居た。
上島は燐寸を擦つて煙草を吹かし出した。と、渠はまたもや喉から手が出る程喫みたくなつて、『君は何日でも煙草を持つてるな。』と云ひ乍ら一本取つた。何故今日はアノ娘が居なかつたらう、と考へる。それは洲崎町のとある角の、渠が何日でも寄る煙草屋の事で、モウ大分借が溜つてるから、すぐ顏を赤くする銀杏返しの娘が店に居れば格別、口喧しやの老母が居た日には怎しても貸して呉れぬ。今日何故娘が居なかつたらう? 俺が行くと娘は何時でも俯向いて了ふが、恥かしいのだ、屹度恥かしいのだと思ふと、それにしても其娘が寄席で頻りに煎餅を喰べ乍ら落語を聞いて居た事を思出す。頭に被さつた鈍い壓迫が何時しか跡なく剥げて了つて、心は上の空、野村は眉間の皺を努めて深くし乍ら、それからそれと町の女の事を胸に數へて居た。
兎角して渠は漸々三十行許り書いた。大儀さうに立上つて、其原稿を主任の前に出す時、我乍ら餘り汚く書いたと思つた。
『目が眩む樣なもんですから滅茶々々で、……』
『否、有難う。』と竹山は例になく禮を云つたが、平日の癖で直ぐには原稿に目もくれぬ。渠も亦平日の癖でそれを一寸不快に思つたが、
『あとは別に書く樣な事もございませんが。』と竹山の顏を見る。
『怎も御苦勞、何なら家へ歸つて一つ汗でも取つて見給へ。大事にせんと良くないから。』
『ハア、それぢや今日だけ御免蒙りますからねす。』と云つて、出來るだけ元氣の無い樣に皆に挨拶して、編輯局を出た。眼をギラギラ光らして舌を出し乍ら、垢づいた首卷を卷いて居たが、階段を降りる時は再顏を顰蹙めて、些と時計を見上げたなり、事務の人々には言葉もかけず戸外へ出て了つた。と、鈍い歩調で二三十歩、俛首れて歩いて居たが、四角を右に曲つて、振顧つてモウ社が見えない所に來ると、渠は遽かに顏を上げて、融けかかつたザクザクの雪を蹴散し乍ら、勢ひよく足を急がせて、二町の先に二階の見ゆる共立病院へ……
解雇される心配も、血だらけな母の顏も、鈍い壓迫と共に消え去つて、勝誇つた樣な腥い笑が其顏に漲つて居た
四年以前、野村が初めて竹山を知つたのは、まだ東京に居た時分の事で、其頃渠は駿河臺のとある竹藪の崖に臨んだ、可成な下宿屋の離室にゐた。
今でも記憶えて居る人があるか知れぬが、其頃竹山は詩里に居ながら、毎月二種か三種の東京の雜誌に詩を出して居て、若々しい感情を拘束もなく華やかな語に聯ねた其詩──云ふ迄もなく、稚氣と模倣に富んでは居たが、當時の詩壇ではそれでも人の目を引いて、同じ道の人の間には、此年少詩人の前途に大きな星が光つてる樣に思ふ人もあつた。竹山自身も亦、押へきれぬ若い憧憬に胸を唆かされて、十九の秋に東京へ出た。渠が初めて選んだ宿は、かの竹藪の崖に臨んだ駿河臺の下宿であつた。
某新聞の文界片信は、詩人竹山靜雨が上京して駿河臺に居を卜したが、近々其第一詩集を編輯するさうだと報じた。
此新聞が縁になつて、野村は或日同縣出の竹山が自分と同じ宿に居る事を知つた。で、渠は早速名刺を女中に持たしてやつて、竹山に交際を求めた。最初の會見は、縁側近く四つ五つ實を持つた橙の樹のある、竹山の室で遂げられた。
野村は或學校で支那語を修めたと云ふ事であつた。其頃も神田のある私塾で支那語の教師をして居て、よく、皺くちやになつたフロックコートを、朝から晩まで着て居た。外出する時は屹度中山高を冠つて、象牙の犬の頭のついた洋杖を、大輪に振つて歩くのが癖。
其頃、一體が不氣味な顏であるけれども、まだ前科者に見せる程でもなく、ギラギラする眼にも若い光が殘つて居て、言語も今の樣にぞんざいでなく、國訛りの「ねす」を語尾につける事も無かつた。
半月許りして其下宿屋は潰れた。公然の營業は罷めて、牛込は神樂坂裏の、或る閑靜な所に移つて素人下宿をやるといふ事になつて、五十人近い止宿人の中、願はれて、又願つて、一緒に移つたのが八人あつた。野村も竹山も其中に居た。
野村は其頃頻りに催眠術に熱中して居て、何とか云ふ有名な術者に二ケ月もついて習つたとさへ云つて居た。竹山も時々不思議な實驗を見せられた。或時は其爲に野村に對して、一種の恐怖を抱いた事もあつた。
渠は又、或教會に籍を置く基督信者で、新教を奉じて居ながらも、時々舊教の方が詩的で可いと云つて居た。竹山は、無論渠を眞摯な信仰のある人とも思はなかつたが、それでも机の上には常に讚美歌の本が載つて居て、(歌ふのは一度も聞かなかつたが、)皺くちやのフロックコートには、小形の聖書が何日でも衣嚢に入れてあつた。同じ教會の信者だといふハイカラな女學生が四五人、時々野村を訪ねて來た。其中の一人、背の低い、鼻まで覆被さる程庇髮をつき出したのが、或時朝早く野村の室から出て便所へ行つた。「信者たる所以は彼處だ!」と竹山は考へた事があつた。
渠は又、時々短かい七五調の詩を作つて竹山に見せた。讚美歌まがひの、些とも新らしい所のないものであつたが、それでも時として、一句二句、錐の樣に胸を刺す所があつた。韻文には適かぬから小説を書いてみようと思ふと云ふのが渠の癖で、或時其書かうとして居る小説の結構を竹山に話した事もあつた。題も梗概も忘れて了つたが、肉と靈、實際と理想と、其四辻に立つて居る男だから、主人公の名は辻某とすると云つた事だけ竹山は記憶して居た。無論小説は、渠の胸の中で書かれて、胸の中で出版されて、胸の中で非常な好評を博して、到頭胸の中で忘られたのだ。一體が、机の前に坐る事のない男であつた。
小説に書かうとした許りでなく、其詩に好んで題材とし、又其眞摯なる時によく話題に選ぶのは、常に「肉と靈との爭鬪」と云ふ事であつた。肉と靈! 渠は何日でも次の樣な事を云つて居た。曰く、「最初の二人が罪を得て樂園を追放された爲に、人間が苦痛の郷、涙の谷に住むと云ふのは可いが、そんなら何故神は、人間をして更に幾多の罪惡を犯さしめる機關、即ち肉と云ふものを人間に與へたのだらう?」又或時渠は、不意に竹山の室の障子を開けて、恐ろしいものに襲はれた樣に、凄い位眼を光らして、顏一體を波立つ程苛々させ乍ら、「肉の叫び! 肉の叫び!」と云つて入つて來た事があつた。其頃の渠の顏は、今の樣に四六時中痙攣を起してる事は稀であつた。
渠は大抵の時は煙草代にも窮してる樣であつた。が、時として非常な贅澤をした。日曜に教會へ行くと云つて出て行つて、夜になるとグデングデンに醉拂つて歸る事もあつた。
竹山は毎日の樣に野村と顏を會せて居たに不拘、怎したものか餘り親しくはなかつた。却つて、駿河臺では野村と同じ室に居て、牛込へは時々遊びに來た渠の從弟といふ青年に心を許して居たが、其青年は、頗る率直な、眞摯な、冐險心に富んで、何日でもニコニコ笑つてる男であつたけれど、談一度野村の事に移ると、急に顏を曇らせて、「從兄には弱つて了ひます。」と云つて居た。
渠は又時々、郷里にある自分の財産を親類が怎とかしたと云つて、其訴訟の手續を同宿の法學生に訊いて居た事があつた。それから、或時宿の女中の十二位なのに催眠術を施けて、自分の室に閉鎖めて、半時間許りも何か小聲で頻りに訊ねて居た事があつた。隣室の人の洩れ聞いたんでは、何でも其財産問題に關した事であつたさうな。渠は平生、催眠術によつて過去の事は勿論、未來の事も豫言させる事が出來ると云つて居た。
竹山の親しく見た野村良吉は、大略前述の樣のものであつたが、渠は同宿の人の間に頗る不信用であつた。野村は女學生を蕩して弄んで、おまけに金を捲上げて居るとか、牧師の細君と怪しい關係を結んでるさうだとか、好からぬ噂のみ多い中に、お定と云つて豐橋在から來た、些と美しい女中が時々渠の室に泊るという事と、宿の主婦──三十二三で、細面の、眼の表情の滿干の烈しい、甚麽急がしい日でも髮をテカテカさして居る主婦と、餘程前から通じて居るといふ事は、人々の間に殆んど確信されて居た。それから、其お定といふのが、或朝竹山の室の掃除に來て居て、二つ三つ戲談を云つてから、恁麽話をした事があつた。
『野村さんて、餘程面白い方ねえ。』
『怎して?』
『怎してツて、ホホヽヽヽヽ。』
『可笑しい事があるんか?』
『あのね、……駿河臺に居る頃は隨分だつたわ。』
『何が?』
『何がツて、時々淫賣なんか伴れ込んで泊めたのよ。』
『其麽事をしたのか、野村君は?』
『默つてらつしやいよ、貴方。』と云つたが、『だけど、云つちや惡いわね。』
『マア云つて見るさ。口出しをして止すツて事があるもんか。』
『何時だつたか、あの方が九時頃に醉拂つて歸つたのよ、お竹さんて人伴れて。え、其人は其時初めてよ。それも可いけど、突然、一緒に居た政男さん(從弟)に怒鳴りつけるんですもの、政男さんだつて怒りますわねえ。恰度空いた室があつたから、其晩だけ政男さんは其方へお寢みになつたんですけど、朝になつたら面白いのよ。』
『馬鹿な、怎したい?』
『野村さんがお金を出したら、要らないつて云ふんですつて、其お竹さんと云ふ人が。そしたらね、それぢや再來いツて其儘歸したんですとさ。』
『可笑しくもないぢやないか。』
『マお聞きなさいよ。そしたら其晩再來ましたの。野村さんは洋服なんか着込んでらつしやるから、見込をつけたらしいのよ。私其時取次に出たから明細見てやつたんですが、これ(と頭に手をやつて、)よりもモット前髮を大きく取つた銀杏返しに結つて、衣服は洗晒しだつたけど、可愛い顏してたのよ。尤も少し青かつたけど。』
『酷い奴だ。また泊めたのか?』
『默つてらつしやいよ、貴方。そしたら野村さんが、鎌倉へ行つたから二三日歸らないツて云へと云ふんでせう。私可笑しくなつたから默つて上げてやらうかと思つたんですけどね。呍咐つた通り云ふと穩しく歸つたのよ。それから主婦さんと私と二人で散々揶揄つてやつたら、マア野村さん酷い事云つたの。』と竹山の顏を見たが、『あの女は息が臭いから駄目なんですツて。』と云ふなり、疊に突伏して轉げ𢌞つて笑つた。
牛込に移つてから二月許り後の事、恰度師走上旬であつたが、野村は小石川の何とか云ふ町の坂の下の家とかを、月十五圓の家賃で借りて、「東京心理療院」と云ふ看板を出した。そして催眠術療法の效能を述立てた印刷物を二千枚とか市中に撒いたさうな。其後二度許り竹山を訪ねて來たが、一度はモウ節季近い凩の吹き荒れて、灰色の雲が低く軒を掠めて飛ぶ不快な日で、野村は「患者が一人も來ない。」と云つて悄氣返つて居た。其日は服裝も見すぼらしかつたし、云ふ事も「清い」とか「美しい」とか云ふ詞澤山の、神經質な厭世詩人みたいな事許りであつたが、珍らしくも小半日落着いて話した末、一緒に夕飯を食つて、歸りに些と許りの借りた金の申譯をして行つた。一番最後に來たのは、年が新らしくなつた四日目か五日目の事で、呂律の𢌞らぬ程醉つて居たが、本郷に居ると許りで、詳しく住所を云はなかつた。歸りは雨が降り出したので竹山の傘を借りて行つた限、それなりに二人は四年の間殆んど思出す事もなかつたのだ。が、唯一度、それから二月か三月以後の事だが、或日巡査が來て野村の事を詳しく調べて行つたと、下宿の主婦が話して居た事があつた。
其四年間の渠の閲歴は知る由もない。渠自身も常に其麽話をする事を避けて居たが、それでもチョイチョイ口に出るもので、四年前の渠が知つてなかった筈の土地の事が、何かの機會に話頭に上る。靜岡にも居た事があるらしく、雨の糸の木隱に白い日に金閣寺を見たといふから、京都にも行つたのであらう。石井孤兒院長に逢つた事があると云つて非常に敬服して居たから、岡山へも行つたらしい。取わけ竹山に想像を費さしたのは、横濱の棧橋に毎日行つて居た事があるといふ事と、其處の海員周旋屋の内幕に通曉して居た事であつた。鹿角群の鑛山は尾去澤も小坂もよく知つて居た。釧路へは船で來たんださうで、札幌小樽の事は知らなかつたが、此處で一月許りも、眞砂町の或蕎麥屋の出前持をして居たと云ふ事は、町で大抵の人が知つて居た。無論これは方々に職業を求めて求め兼ねた末の事であるが、或日曜日の事、不圖思附いて木下主筆を其自宅に訪問した。初めは人相の惡い奴だと思つたが、黒木綿の大分汚なくなつた袴を穿いて居たのが、蕎麥屋の出前持をする男には珍らしいと云ふので、偏狹者の主筆が買つてやつたのだと云ふ。
主筆は時々、「野村君は支那語を知つてる癖に何故北海道あたりへ來たんだ?」と云ふが、其度渠は「支那人は臭くて可けません。」と云つた樣な答をして居た。
北國の二月は暮れるに早い。四時半にはモウ共立病院の室々に洋燈の光が華やぎ出して、上履の辷る程拭込んだ廊下には食事の報知の拍子木が輕い反響を起して響き渡つた。
と、右側の或室から、さらでだに前屈みの身體を一層屈まして、垢着いた首卷に頤を埋めた野村が飛び出して來た。廣い玄關には洋燈の光のみ眩しく照つて、人影も無い。渠は自暴糞に足を下駄に突懸けたが、下駄は飜筋斗を打つて三尺許り彼方に轉んだ。
以前の室から、また二人廊下に現れた。洋服を着た男は悠然と彼方へ歩いて行つたが、モ一人は白い兎の跳る樣に驅けて來ながら、
『野村さん〳〵、先刻お約束したの忘れないでよ。』と甲高い聲で云つて玄關まで來たが、渠の顏を仰ぐ樣にして笑ひ乍ら、『今度欺したら承知しませんよ。眞實ですよ、ねえ野村さん。』と念を推した。これは此病院で評判の梅野といふ看護婦であつた。
渠は唯唸る樣な聲を出しただけで、チラと女の顏を見たつきり、凄じい勢ひで戸外へ出て了つた。落着かない眼が一層恐ろしくギラギラして、赤黒く脂ぎつた顏が例の烈しい痙攣を起して居る。少なからず醉つて居るので、吐く呼氣は酒臭い。
戸外はモウ人顏も定かならぬ程暗くなつて居た。ザクザクと融けた雪が上面だけ凍りかかつて、夥しく歩き惡い街路を、野村は寒さも知らぬ如く、自暴に昂奮した調子で歩き出した。
「何を約束したつたらう?」と考へる。何かしら持つて來て貸すと云つた! 本? 否俺は本など一册も持つて居ない。だが、確かに本の事だつた筈だ。何の本? 何の本だつて俺は持つて居ない。馬鹿な、マア怎でも可いさと口に出して呟いたが、何故那麽事云つたらうと再た考へる。
渠は二時間の間此病院で過した。煙草を喫みたくなつた時、酒を飮みたくなつた時、若い女の華やいだ聲を聞きたくなつた時、渠は何日でも此病院へ行く。調劑室にも、醫員の室にも、煙草が常に卓子の上に備へてある。渠が、横山──左の蟀谷の上に二錢銅貨位な禿があつて、好んで新體詩の話などをする、二十五六のハイカラな調劑助手に強請つて、赤酒の一杯二杯を美味さうに飮んで居ると、屹度誰か醫者が來て、私室へ伴れて行つて酒を出す。七人の看護婦の中、青ざめた看護婦長一人を除いては、皆、美しくないまでも、若かつた。若くないまでも、少くとも若々しい態度をして居た。人間の手や足を切斷したり、脇腹を切開したりするのを、平氣で手傳つて二の腕まで血だらけにして居る輩であるから、何れも皆男といふ者を怖れて居ない。怖れて居ない許りか、好んで敗けず劣らず無駄口を叩く。中にも梅野といふのは、一番美しくて、一番お轉婆で、そして一番ハイカラで、實際は二十二だといふけれど、打見には十八位にしか見えなかつた。野村は一日として此三つの慾望に餓ゑて居ない日は無いので、一日として此病院を訪れぬ日はなかつた。
渠が先づ入るのは、玄關の直ぐ右の明るい調劑室であつた。此室に居る時は、平生と打つて變つて渠は常に元氣づいて居る。新聞の材料は總て自分が供給する樣な話をする。如何なる事件にしろ、記事になるとならぬは唯自分一箇の手加減である樣な話をする。同僚の噂でも出ると、フフンと云つた調子で取合はぬ。渠は今日また頻りに其麽話をして居たが、不圖小宮洋服店の事を思出した。が、渠は怎したものか、それを胸の中で壓潰して了つて考へぬ樣にした。横山助手は、まだ半分しか出來ぬと云ふ『野菫』と題した新體詩を出して見せた。渠はズッとそれに目を通して、唯「成程」と云つたが、今自分が或非常な長篇の詩を書き始めて居ると云ふ事を話し出した。そして、それが少くとも六ケ月位かかる見込だが、首尾克く脱稿したら是非東京へ行つて出版する。僕の運命の試金石はそれです、と熱心に語つた。梅野は無論其傍に居た。彼女は調劑の方に𢌞されて居るので。
それから渠は小野山といふ醫者の室に伴れて行かれて、正宗とビールを出された。醫者は日本酒を飮まぬといふので、正宗の一本は殆ど野村一人で空にした。梅野とモ一人の看護婦が來て、林檎を剥たり、鯣を燒いたりして呉れたが、小野山は院長から呼びに來て出て行くとモ一人の方の看護婦も立つた。渠は遽かに膝を立直して腕組をしたが、懵乎とした頭腦を何かしら頻りに突つく。暫し無言で居た梅野が、「お酌をしませうか。」と云つて白い手を動かした時、野村の頭腦に火の樣な風が起つた。「オヤ、モウ空になつてよ。」と女は瓶を倒した。野村は醉つて居たのである。
少し話したい事があるから、と渠が云つた時、女は「さうですか。」と平氣な態度で立つた。二人は人の居ない診察所に入つた。
煖爐は冷くなつて居た。うそ寒い冬の黄昏が白い窓掛の外に迫つて居て、モウ薄暗くなりかけた室の中に、種々器械の金具が侘し氣に光つて居る。人氣なき廣間に籠る藥の香に、梅野は先ず身慄ひを感じた。
『梅野さん、僕を、醉つてると思ひますか、醉はないで居ると思ひますか?』と云つて、野村は矢庭に女の腕を握つた。其聲は、恰も地震の間際に聞えるゴウと云ふ地鳴に似て、低い、澤のない聲ではあつたが、恐ろしい力が籠つて居た。女は眼を圓くして渠を仰いだが、何とも云はぬ。
『僕の胸の中を察して下さい。』と、さも情に迫つた樣な聲を出して、堅く握つた女の腕を力委せに引寄せたと思ふと、酒臭い息が女の顏に亂れて、一方の手が肩に掛る。梅野は敏捷く其手を擦り拔けて卓子の彼方へ逃げた。
二人は小さい卓子を相隔てゝ向ひ合つた。渠は、右から、左から、再び女を捉へようと焦慮るけれど、女は其度男と反對の方へ動く、妙に落着拂つた其顏が、着て居る職服と見分けがつかぬ程眞白に見えて、明確ならぬ顏立の中に、瞬きもせぬ一双の眼だけが遠い空の星の樣。其顏と柔かな肩の辷りが廓然と白い輪廓を作つて、仄暗い藥の香の中に浮んで、右に左に動くのは、女でもない、人でもない、影でもなければ、幻でもない。若樹の櫻が時ならぬ雪の衣を着て、雪の重みに堪へかねて、ユラリユラリと搖れるのだ、ユラリユラリと動くのだ。が、野村の眼からは、唯モウ抱けば温かな柔かな、梅野でも誰でもない、推せば火が出る樣な女の肉體だけが見える。
何分經つたか記憶が無い。その間に渠の頭腦は、表面だけ益々苛立つて來て、底の底の方が段々空虚になつて來る樣な氣分になつた。それでも一生懸命女を捉へようと悶躁いて居たが、身體はブルブル顫へて居て、左の手をかけた卓子の上の、硝子瓶が二つ三つ、相觸れてカチカチと音を立てて居た。
ガタリと扉が開いて、小野山が顏を出した。
『此處でしたか、何處へ行つたと思つたら。』
と、極りが惡さうにした顏に一寸眼を光らして、ヅカヅカ入つて來た。
『怎したんです。』と梅野へ。
『アッハハハ。』と、女は底拔な高い聲を出して笑つたが、モウ安心と云ふ樣に溜息を一つ吐いて、『野村さんが面白い事仰しやるもんですからね、私逃げて來たの。』
『何です、野村さん?』醫者は妙に笑つて野村を見た。野村は氣が拔けた樣に、石像の如く立つて、目には女を見た儘、身動もせぬ。
『また催眠術をかけて呉れるからツて仰しやるの。』と女は引取つた。『そしたら私の行きたい所は何處へでも伴れてつて見せるし、逢ひたい人には誰にでも逢はせて下さるんですツて。だけど私、過日でモウ皆に笑はれて、懲々してるんですもの。ぢや施けて下さいつて、欺して逃げて來たもんだから、野村さんに追驅けられたのよ』
『然うでしたか』
野村は、發作的に右の手を一寸前に出したが、
『アハハハ。ぢや此次にしませう、此次に、此次には屹度ですよ、屹度施かけまよ。』と變に硬張つた聲で云つて、物凄く「アッハハ。」と笑つたが、何時持つて來たとも知れぬ卓子の上の首卷と帽子を取つて、首に捲くが早いか飛び出して來たのであつた。
脈といふ脈を、アルコールが驅け𢌞つて、血の循環が沸り立つ程早い。さらでだに苛立勝の心が、タスカローラの底の泥まで濁らせる樣な大時化を喰つて、唯モウ無暗に神經が昂奮つて居る。野村は頤を深く首卷に埋めて、何處といふ目的もなく街から街へ𢌞り歩いて居た。
女は渠の意に隨はなかつた! 然し乍ら渠は、此侮辱を左程に憤つては居なんだ。醫者の小野山! 彼奴が惡い、失敬だ、人を馬鹿にしてる。何故アノ時顏を出しやがつたか。馬鹿な。俺に酒を飮ました。酒を飮ますのが何だ。失敬だ、不埒だ。用も無いのに俺を探す。默つて自分の室に居れば可いぢやないか。默つて看護婦長と乳繰合つて居れば可いぢやないか。看護婦? イヤ不圖したら、アノ、モ一人の奴が小野山に知らしたのぢやないか、と疑つたが、看護婦は矢張女で、小野山は男であつた。渠は如何なる時でも女を自分の味方と思つてる。如何なる女でも、時と處を得さへすれば、自分に抱かれる事を拒まぬものと思つて居る。且夫れ、よしや知らしたのは看護婦であるにしても、アノ時アノ室に突然入つて來て、自分の計畫を全然打壞したのは醫者の小野山に違ひない。小野山が不埒だ、小野山が失敬だ。彼奴は俺を馬鹿にしてる。……
知らぬ獸に邂逅した山羊の樣な眼をして、女は卓子の彼方に立つた! 然しアノ眼に、俺を厭がる色が些とも見えなかつた。然うだ、吃驚したのだ。唯吃驚したのだ。尤も俺も惡かつた。モ少し何とか優しい事を云つてからでなくちやならん筈だ。餘り性急にやつたから惡い。それに今夜は俺が醉つて居た。醉つた上の惡戲と許り思つたのかも知れぬ。何にしても此次だ、今夜は成功しかねたが此次、此次、……
だが、モウ五分間アノ儘で居たら? 然う〳〵、俺が出て來る時何とか云つた。ハテ何だつたらう? 呍「約束を忘れるな。」か! 「約束」は適切だ。女といふものは一體、男に憎まれる事が嫌ひなものだ。況んや自分の嫌つても居ない男にをやだ。殊に俺は新聞記者だ、新聞記者に憎まれたら最後ぢやないか。幸ひに竹山の奴まだ土地の事情に眞暗だ。俺が云ひさへすれば何でも書く。彼奴に書かしたら又、素的に捏ね𢌞して書くからエライ事になる。イヤ待て、待て、若しも竹山がアノ病院に出入する樣になるとしたら、然うだ、矢張一番先に梅野に眼をつけるに違ひない。竹山の下宿は病院の直ぐ前だ。待て〳〵、此次は明日の晩にしよう。善は急げだ。
若し小野山さへ來なかつたら、と考へが再同じ所に還る。アノ卓子が無かつたら怎だつたらう? 否、アノ卓子を俺が別の場所へ取除けちやつたら怎だつたらう? 女は二三歩後にたじろぐ。そして輕く尻餅を突いて、そして、そして、「許して下さい。」と囁いて、暗の中から眞白な手を延べる。……噫、彼奴、彼奴、小野山の奴、アノ畜生が來た許りに……。
渠は恁麽事を止度もなく滅茶苦茶に考へ乍ら、目的もなく唯町中を彷徨き𢌞つて居た。何處から怎歩いたか自身にも解らぬ。洲崎町の角の煙草屋の前には二度出た。二度共硝子戸越に中を覗いて見たが、二度共例の恥かしがる娘が店に坐つてなかつた。暗い街から明るい街、明るい街から暗い街、唯モウ無暗に驅けずり𢌞つて、同じ坂を何度上つたか知れぬ。同じ角を何度曲つたか知れぬ。
が、渠は矢張明るい街よりも、暗い街の方を多く選んで歩いて居た。そして、明るい街を歩く時は、頭腦が紛糾かつて四邊を甚麽人が行かうと氣にも止めなかつたに不拘、時として右側に逸れ、時として左側に寄つて歩いて居た。一町が間に一軒か二軒、煙草屋、酒類屋、鑵詰屋、さては紙屋、呉服屋、蕎麥屋、菓子屋に至る迄、渠が其馬鹿に立派な名刺を利用して借金を拵へて置かぬ家は無い。必要があればドン〳〵借りる。借りるけれども初めから返す豫算があつて借りるのでないから、流石に渠は其家の人に見られるのを厭であつた。今夜に限らず、借金のある店の前を通る時は、成るべく反對の側の軒下を歩く。
幸ひ、誰にも見付かつて催促を受ける樣な事はなかつた。が唯一人、浦見町の暗闇を歩いている時に、
『オヤ野村さんぢやなくつて? マア何方へ行つしやるの?』と女に呼掛けられた。
渠は唸る樣な聲を出して、ズキリと立止つて、胡散臭く對手を見たが、それは渠がよく遊びに行く郵便局の小役人の若い細君であつた。
『貴女でしたか。』
と云つて其儘行過ぎようとしたが、女がまだ歩き出さずに見送つてる樣だつたので、引返して行つて、鼻と鼻と擦合ひさうに近く立つた。
『貴方お一人で何方へ?』
『姉の所へ行つて來ましたの。マア貴方は醉つていらつしやるわね。』
『醉つて? 然うです、少し飮つて來ました。だが女一人で此路は危險ですぜ。』
『慣れてますもの。』
『慣れて居ても危險は矢張危險ぢやないですか。危險! 若しかすると恁うしてる所へ石が飛んで來るかも知れません、石が。』と四邊を見𢌞したが、一町程先方から提燈が一つ來るので、渠は一二歩後退つた。『僕だつて一人歩いてると、チト危險な事があります。』
『マア。ですけれど今夜は、宅が風邪の氣味で寢んでるもんですから、厭だつたけど一人行つて來ましたの。』
『然うですか。』と云つたが、フン、宅とは何だい、俺の前で嚊ぶらなくたつて、貴樣みたいな者に手をつけるもんか。と云ふ氣がして、ツイと女を離れたなり、スタ〳〵驅け出した。腥さい笑に眼は暗ながらキラ〳〵光つて居た。
恁麽風に、彼は一時間半か二時間の間、盲目滅法驅けずり𢌞つて居たが、其間に醉が全然醒めて了つて、緩んだと云つても零度近い夜風の寒さが、犇々と身に沁みる。頤を埋めた首卷は、夜目にも白い呼氣を吸つて、雪の降つた樣に凍つて居た。雲一つない鋼鐵色の空には、鎗の穗先よりも鋭い星が無數に燦いて、降つて來る光が、凍り果てた雪路の處々を、鏡の缺片を散らした樣に照して居た。
三度目か四度目に市廳坂を下りる時、渠は辷るまいと大事を取つて運んで居た足を不圖留めて、廣々とした港内の夜色を見渡した。冷い風が喉から胸に吹き込んで、紛糾した頭腦の熱さまでスウと消える樣な心地がする。星明りに薄りと浮んだ阿寒山の雪が、塵も動かぬ冬の夜の空を北に限つて、川向の一區域に燈火を群がらせた停車場から、鋭い汽笛が反響も返さず暗を劈いた。港の中には汽船が二艘、四つ五つの火影がキラリ〳〵と水に散る。何處ともない波の音が、絶間もない單調の波動を傳へて、働きの鈍り出した渠の頭に聞えて來た。
と、渠は烈しい身顫ひをして、又しても身を屈ませ乍ら、大事々々に足をつり出したが、遽かに腹が減つて來て、足の力もたど〳〵しい。喉から變な水が沸いて來る。二時間も前から鳩尾の所に重ねて、懷に入れておいた手で、襯衣の上からズウと下腹まで摩つて見たが、米一粒入つて居ぬ程凹んで居る。彼はモウ一刻も耐らぬ程食慾を催して來た。それも其筈、今朝九時頃に朝飯を食つてから、夕方に小野山の室で酒を飮んで鯣の焙つたのを舐つた限なのだ。
淺間しい事ではあるが、然しこれは渠にとつて今日に限つた事でなかつた。渠は米町裏のトある寺の前の素人下宿に宿つて居るけれど、モウ二月越下宿料を一文も入れてないので、五分と顏を見てさへ居れば、直ぐそれを云ひ出す宿の主婦の面が厭で、起きて朝飯を食ふと飛び出した儘、晝飯は無論食はず、社から退けても宿へ歸らずに、夕飯にあり附きさうな家を訪ね𢌞る。でなければ、例の新聞記者と肩書を入れた名刺を振𢌞して、斷られるまでは蕎麥屋牛鍋屋の借食をする。それも近頃では殆ど八方塞がりになつたので、少しの機會も逸さずに金を得る事許り考へて居るが、若し怎しても夕飯に有附けぬとなると、渠は何處かの家に坐り込んで、宿の主婦の寢て了ふ十時十一時まで、用もない茶呑談を人の迷惑とも思はぬ。十五圓の俸給は何處に怎使つて了ふのか、時として二圓五十錢といふ疊附の下駄を穿いたり、馬鹿に派手な羽織の紐を買つたりするのは人の目にも見えるけれど、殘餘が怎なるかは、恐らく渠自身でも知つて居まい。
餓えた時程人の智くなる時はない。渠は力の拔けた足を急がせて、支廳坂を下りきつたが、左に曲ると兩側の軒燈明るい眞砂町の通衢、二町許りで、トある角に立つた新築の旅館の前まで來ると、渠は遽かに足を緩めて、十五六間が程を二三度行きつ戻りつして居たが、先方から來た外套の頭巾の目深い男を遣過すと、不圖後前を見𢌞して、ツイと許り其旅館の隣家の軒下に進んだ。硝子戸が六枚、其内側に吊した白木綿の垂帛に洋燈の光が映えて、廂の上の大きなペンキ塗りの看板には、「小宮洋服店」と書いてあつた。
渠は突然其硝子戸を開けて、腰を屈めて白木綿を潜つたが、左の肩を上げた其影法師が、二分間許りも明瞭と垂帛に映つて居た。
此家は、三日程前に、職人の一人が病死して葬式を出した家であつた。
三十分許り經つと、同じ影法師が又もや白木綿に映つて、「態々お出下すつたのに何もお構ひ申しませんで。」といふ女の聲と共に野村は戸外へ出て來た。
十間も行くと、旅館の角に立止つて後を振顧つたが、誰も出て見送つてる者がない。と渠は徐々歩き出しながら、袂を探つて何やら小さい紙包を取出して、旅館の窓から洩れる火光に披いて見たが、
『何だ、唯一圓五十錢か!』
と口に出して呟いた。下宿料だけでも二月分で二十二圓! 少くとも五圓は出すだらうと思つたのに、と聞えぬ樣にブツ〳〵云つて、チヨッと舌打したが、氣が附いた樣に急がしく周圍を見𢌞した。それでも渠は珍らしさうに五十錢銀貨三枚を握つて見て、包紙は一應反覆して何か書いてあるかと調べた限り、皺くちやにして捨てて了つたが、又袂を探してヘナ〳〵になつた赤いレース絲で編んだ空財布を出して、それに銀貨を入れて、再び袋に納つた。
さてこれから怎したもんだらう? と考へたが、二三件向うに煙草屋があるのに目を附けて、不取敢行つて、「敷島」と「朝日」を一つ宛買つて、一本點けて出た。モ少し行くと右側の狹い小路の奧に蕎麥屋があるので、一旦其方へ足を向けたが、「イヤ、先づ竹山へ行つて話して置かう。」と考へ附いて、引返して旅館の角を曲つたが、一町半許りで四角になつて居て、左の角が例の共立病院、それについて曲ると、病院の横と向合つて竹山の下宿がある。
竹山の室は街路に臨んだ二階の八疊間で、自費で据附けたと云ふ煖爐が熾んに燃えて居た。身の𢌞りには種々の雑誌やら、夕方に着く五日前の東京新聞やら手紙やらが散らかつて居て、竹山は讀みさしの厚い本に何かしら細かく赤インキで註を入れて居たが、渠は入ると直ぐ、ボーツと顏を打つ暖さに又候思出した樣に空腹を感じた。來客の後と見えて、支那焼の大きな菓子鉢に、マシヨマローと何やらが堆かく盛つて、煙草盆の側にあるのが目に附く。明るい洋燈の光りと烈しい氣象の輝く竹山の眼とが、何といふ事もなしに渠の心を狼狽させた。
『頭痛が癒りましたか?』と竹山に云はれた時、その事はモウ全然忘れて居たので、少なからず周章したが、それでも流石、
『ハア、頭ですか? イヤ今日は怎も失體しました。あれから向うの共立病院へ來て一寸診て貰ひましたがねす。ナニ何でもない、酒でも飮めば癒るさッて云ふもんですから宿へ歸つて今迄寢て來ました。主婦の奴が玉子酒を拵へてくれたもんですから、それ飮んで寢たら少し汗が出ましたねす。まだ底の方が些と痛みますどもねす。』と云つて、「朝日」を取出した。『少し聞き込んだ事があつたんで、今𢌞つて探つて見ましたが、ナーニ嘘でしたねす。』
『然うかえ、でもマア悠乎寢んでれば可かつたのに、御苦勞でしたな。』
『小宮と云ふ洋服屋がありますねす。』と云つて、野村は鋭どい眼でチラリと竹山の顏を見たが、
『彼家で去年の暮に東京から呼んだ職人が、肋膜に罹つて遂此間死にましたがねす。それを其、小宮の嚊が、病氣してゝ稼がないので、ウンと虐待したつて噂があつたんですから、行つて見ましたがねす。』
『成程。』と云つたが、竹山は平日の樣に念を入れて聞く風でもなかつた。
『ナーニ、恰度アノ隣の理髮店の嚊が、小宮の嚊と仲が惡いので、其麽事を云ひ觸したに過ぎなかつたですよ。』と云つて、輕く「ハッハハハ。」と笑つたが、其實渠は其噂を材料に、幸ひ小宮の家は、一寸有福でもあり、「少くも五圓」には仕ようと思つて、昨日も一度押かけて行つたが、亭主が留守といふので駄目、先刻又行つて、矢張亭主は居ないと云つたが、嚊の奴頻りにそれを辯解してから、何れ又夫がお目にかゝつて詳しく申上げるでせうけれどもと云つて、一圓五十錢の紙包を出したのだ。
これと云ふ話も出なかつたが、渠は頻りに「ねす」を振𢌞はして居た。一體渠は同じ岩手縣でも南の方の一ノ関近い生れで、竹山は盛岡よりも北の方に育つたから、南部藩と仙台藩の区別が言語の調子にも明白で、少しも似通つた所がないけれども、同縣人といふ感じが渠をしてよく國訛りを出させる。それに又渠は、其國訛りを出すと妙に言語が穩しく聞える樣な氣がするので、目上の者の前へ出ると殊更「ねす」を澤山使ふ癖があつた。
程なくして渠は辭して立つたが、竹山は別に見送りに立つでもなかつた。で、自分一人室の中央に立上ると、妙に頭から足まで竹山の鋭い眼に度られる樣な心地がして、疊觸りの惡い自分の足袋の、汚なくなつて穴の明いてるのが恥しく思はれた。
戸外へ出ると、一寸病院の前で足を緩めたが、眞砂町へ來るや否や、早速新らしい足袋を買つて、狹い小路の奧の蕎麥屋へ上つた。
二階の四疊半許りの薄汚ない室、座蒲團を持つて入つて來たのが、女中でなくて、印半纏を着た若い男だつたので、渠は聞えぬ程に舌打をしたが、「天麩羅二つ。」と吩附てやつてドシリと胡坐をかくと、不取敢急がしく足袋を穿き代へて、古いのを床の間の隅ツこの、燈光の屆かぬ暗い所へ投出した。「敷島」を出して成るべく悠然と喫ひ出したが、一分經つても、二分過ぎても、まだお誂へが來ない。と、渠は立つて行つて其古足袋を、壁の下の隅に、大きな鼠穴が明いてる所へヘシ込んで了つた。
間もなく下では何か物に驚いた聲がして、續いて笑聲が起つたが、渠は「敷島」を美味さうに吹かしながら、呼吸を深くして腹を凹ましたり、出したり、今日位腹を減らした事がないなどと考へて居た。
所へ階段を上る音がしたので、來たナと思つたから、腹の運動を止めて何氣ない顏をしてると、以前の若い男が小腰を屈めて障子を明けた。
『ヘイ、これは旦那のお足袋ぢや厶いませんか? 鼠が落こちたかと思つたら、足袋が降つて來たと云ふので、臺所ぢや貴方、吃驚いたしましたんで。ヘイ、全く、怎も、ヘイ。』と、妙な薄笑ひをし乍ら、今し方壁の鼠穴へヘシ込んだ許りの濡れた古足袋を、二つ揃へて敷居際に置いたなり、障子を閉めて狐鼠々々下りて行く。
呆然として口を開いた儘聞いて居た渠は、障子が閉まると、クワッと許り上氣して顏が火の出る程赤くなつた。恥辱の念と憤怒の情が、ダイナマイトでも爆發した樣に、身體中の血管を破つて、突然立上つたが、腹が減つてるのでフラフラと蹌踉く。
よろめく足を踏み耐へて、室から出ると、足音荒く階段を下りて來たが、例の女中が恰度丼を二つ載せた膳を持つて來た所で、
『オヤ。』
と尻上りに叫んで途を披いた。
『モウ要らん。』と凄じく怒鳴るや否や、周章下駄を突懸けて、疾風の樣に飛出したが、小路の入口でイヤと云ふ程電信柱に額を打附けた。後では、男女を合せて五六人の高い笑聲が、ドッと許り喊の聲の樣に聞えた樣であつた。
二町許り驅けて來ると、セイセイ呼吸が逸んで來て、胸の動悸のみ高い。まだ忌々しさが殘つて居たが、それも空腹には勝てず、足を緩めて、少し動悸が治まると、梅澤屋と云ふ休坂下の蕎麥屋へ入た。
『お誂へは?』と反齒の女中に問はれて、「天麩羅」と云はうとしたが、先刻の若い男の顏がチラリと頭に閃いたので、
『何でも可い。』と云つて了つた。
『天麩羅に致しませうか? それとも月見なり五目なり、柏も直ぐ出來ますが。』
『呍、その、何れでも可い。柏でも可い。』
かくて渠は、一滴の汁も殘さず柏二杯を平らげたが、するとモウ心にも身體にも坐りがついて、先刻の事を考へると、我ながら滑稽になつてつい口に出して笑つて見る。手を叩いて更に「天麩羅二つ」と吩附けた。
それも平らげて了ふと、まだ何か喰ひたい樣だけれど、モウ腹が大分張つて來たので、止めた。と、眠氣が催すまでに惡落着がして來て、悠然と改めて室の中を見𢌞したが、「敷島」と「朝日」と交代に頻に喫ひながら、到頭ゴロリと横になつた。それでも、階段に女中の足音がする度、起直つて知らん振をして居たが、恁麽具合にして渠は、階下の時計が十時を打つまで、隨分長い間此處に過した。一度、手も拍たぬのに女中が來て、「お呼びで厶いますか?」と襖を開けたが、それはモウ歸つて呉れと云ふ謎だと氣が附いたけれど、悠然と落着いて了つた渠の心は、それしきの事で動くものでない。
恁許り悠然した心地は渠の平生に全くない事であつた。顏には例の痙攣も起つて居ない。物事が凡て無造作で、心配一つあるでなく、善とか惡とか云ふ事も全く腦裡から消えて了つて、渠はそれからそれと靜かに考へを𢌞らして居たが、第一に多少の思慮を費したのは、小宮洋服店から如何にしてモット金を取るべきかと云ふ問題であつた。それに自分一人よりも相棒のある方は都合が可いと考へついたので、渠は其人選にアレかコレかと迷つた末、まだ何も知らぬ長野の奴を引張り込まうと決心した。
と、渠はその長野の馬鹿に氣の利かぬ事を思出して、一人で笑つた。それは昨日の事、奴が竹山から東京電報の飜譯を命ぜられて、唯五六通に半時間もかかつて居たが、
『ええ一寸伺ひますが、……怎もまだ慣れませんで(と申譯をしておいて、)カンカインとは怎かくんでせうか。』
『感化院さ。』と云つて竹山が字を書いて見せた。すると、
『ア然うですか。ぢやモ一つ、ええと、鎌田といふ大臣がありましたらうか? 一寸聞きなれない樣ですけれど。』
『無い。』
『然うですか喃。イヤ其、電文にはカナダとあるんですけれど、金田といふ大臣は聞いた事がないから、鎌田の間違ぢやないかと思ひまして。』
『ドレ見せ給へ。』と竹山は其電報を取つて『何だ、「加奈太大臣ルミユー氏」ぢやないか。今度日本へ來た加奈太政府の勞働大臣さ。』
『然うですか。怎も慣れませんもので。』
これで皆が思はず笑つたので、流石に長野も恥かしくなつたと見えて、顏を眞赤にしたが、今度は自分の袂を曳いて、「陸軍ケイホウのケイホウは怎う書きませう。」と小聲で訊ねる、「警報さ」と書いて見せると、「然うですか、怎も有難う。」と云つたが、「何だい、何だい?」と竹山が云ふので、「陸軍ケイホウです。」と答へると、「ケイホウは刑罰の刑に法律の法だぜ。」と云ふ。俺もハッとしたが、長野は「然うですか。」と云つたきり、俺には何とも云はず、顏を赤くした儘、其教へられた通り書いて居た。すると竹山は、以後毎日東京や札幌の新聞を讀めと長野に云つて、
『鎌田といふ大臣のあるか無いかは理髮店の亭主だつて知つてるぢやないか。東京新聞を讀んで居れば、刻下の問題の何であるかが解るし、翌日の議會の日程に上る法律案などは札幌小樽の新聞に載つてるし、毎日新聞さへ讀んでれば電報の譯せんことがない筈なんだ。昨晩だつて君、九時頃に來た電報の「北海道官有林附與問題」といふのを、君が「不用問題」と書いたつて、工場の小僧共が笑つてたよ。」
長野の眞赤にした大きい顏が、霎時渠の眼を去らないで、悠然として笑を續けさせて居た。
それから渠は、種々と竹山の事も考へて見た。竹山が折角東京へ乘込んで詩集まで出して居ながら、新聞記者などになつて北海道の隅ツこへ流れて來るには、何かしら其處に隱された事情があるに違ひない。屹度暗い事でもして來たんだらう。然うでなければ、と考へて渠は四年前の竹山について、それかこれかと思出して見たが、一度下宿料を半金だけ入れて、殘りは二三日と云つたのが、到頭十日も延びたので、下宿のアノ主婦が少し心配して居つた外、これぞと思ふ事も思出せなかつた。
竹山の下宿は社に近くて可い、と思ふ。すると又病院の事が心に浮ぶ。それとなき微笑が口元に湧いて、梅野の活溌なのが喰ひつきたい程可愛く思はれる。梅野は美しい、白い。背は少し低いが、……アノ眞白な肥つた脛、と思ふと、渠の口元は益々緩んだ。醫者の小野山も殆んど憎くない。不圖したら彼奴も此頃では、看護婦長に飽きて梅野に目をつけてるのぢやないかとも考へたが、それでも些とも憎くない。梅野は美しいから人の目につく。けれども矢張彼女は俺のもんさ。末は怎でも今は俺のもんさ、彼女の擧動はまだ男を知つて居ないらしいが、那麽に若く見える癖に二十二だつていふから、もう男の肌に觸れてるかも知れぬ。それも構はんさ。大抵の女は、表面こそ處女だけれども、モウ二十歳を越すと男を知つてるから喃。……
十時の時計を聞くと、渠は勘定を濟ませて蕎麥屋から出た。休坂を上つて釧路座の横に來ると、十日程前に十軒許り燒けた火事跡に、雪の中の所々から、眞黒な柱や棟木が倒れた儘に頭を擡げて居た。白い波の中を海馬が泳いでる樣に。
少し行くと、右側のトある家の窓に火光がさして居る。渠は其窓際へ寄つて、コツコツと硝子を叩いた。白い窓掛に手の影が移つて半分許り曳かれると、窓の下の炬燵に三十五六の蒼白い女が居る。
『蝶吉さんは未だ歸らないの?』
と優しい低い聲で云つた。
『え、未だ。』と女は窓外を覗いたが『マア野村さんですか。姐さん達は十二時でなくちや歸りませんの。』
これは彼がよく遊びに行く藝者の宅で、蝶吉と小駒の二人が、「小母さん」と呼ぶ此女を雇つて萬事の世話を頼んで居る。日暮から十二時過までは、何日でも此陰氣な小母さんが一人此炬燵にあたつてるので、野村は時として此小母さんを何とか仕ようと思ふ事がないでもない。女は窓掛に手をかけた儘、入れとも云はず窓外を覗いてるので、渠は構はず入つて見ようとも思つたが、何分にも先程から氣が悠然と寛大になつてるので、遂ぞ起した事のない「可哀さうだ。」といふ氣がした。
『又來るよ。』と云ひ捨てた儘、彼は窓際を離れて、「主婦はモウ大丈夫寢たナ。」と思ひ乍ら家路へ歩き出した。
四角を通越して浦見町が、米町になる。二町許り行くと、右は高くなつた西寺と呼ぶ眞宗の寺、それに向合つた六軒長屋の取突の端が渠の宿である。案の如く入口も窓も眞暗になつて居る。渠は成るべく音のしない樣に、入口の硝子戸を開けて、閉てて、下駄を脱いで、上框の障子をも開けて閉てた。此室は長火鉢の置いてある六疊間。亭主は田舍の村役場の助役をして居るので、主婦と其甥に當る十六の少年と、三人の女兒とが、此室に重なり合ふ樣になつて寢て居るのだが、渠は慣れて居るから、其等の顏を踏附ける事もなく、壁際を傳つて奧の襖を開けた。
此室も又六疊間で、左の隅に据ゑた小さい机の上に、赤インキやら黒インキやらで散々樂書をした紙笠の、三分心の洋燈が、螢火ほどに點つて居た。不取敢その惢を捻上げると、パッと火光が發して、暗に慣れた眼の眩しさ。天井の低い薄汚ない室の中の亂雜が一時に目に見える。ゾクゾクと寒さが背に迫るので、渠は顏を顰蹙めて、火鉢の火を啄つた。
同宿の者が三人、一人は入口の横の三疊を占領してるので、渠は郵便局に出て居る佐久間といふ若い男と共に此六疊に居るのだ。佐久間はモウ寢て居て、然も此方へ顏を向けて眠つてるが、例の癖の、目を全然閉ぢずに、口も半分開けて居る。渠は、スヤスヤと眠つた安らかな其顏を眺めて、聞くともなく其寢息を聞いて居たが、何かしら恁う自分の心が冷えて行く樣な氣がする。此男は何時でも目も口も半分開けて寢るが、俺も然うか知ら。俺は口だけ開けてるかも知れぬ、などと考へる。
煙草に火をつけたが、怎したものか美味くない。氣がつくとそれは「朝日」なので、袂を探して「敷島」の袋を出したが、モウ三本しか殘つて居なかつた。馬鹿に喫んで了つたと思ふと、一本出して惜しさうに左の指で弄り乍ら、急いで先ののを、然も吸口まで燒ける程吸つて了つた。で、「敷島」に火をつけたが、それでも左程美味くない。口が荒れて來たのかと思ふと、煙が眼に入る。渠は澁い顏をして、それを灰に突込んだ。
眼を閉ぢずに寢るとは珍しい男だ、と考へ乍ら、また佐久間の顏を見た。すると、自分が一生懸命「閉ぢろ、閉ぢろ。」と思つて居ると、佐久間は屹度アノ眼を閉ぢるに違ひないと云ふ氣がする。で、下腹にウンと力を入れて、ギラギラする眼を恐ろしく大きくして、下唇を噛んで、佐久間の寢顏を睨め出した。寢息が段々急しくなつて行く樣な氣がする。一分、二分、三分、……佐久間の眼は依然として瞬きもせず半分開いて居る。
何だ馬鹿々々しいと氣のついた時、渠は半分腰を浮かして、火鉢の縁に兩腕を突張つて我ながら恐ろしい形相をして居た。額には汗さへ少し滲み出して居る。渠は平手でそれを拭つて腰を据ゑると、今迄顏が熱つて居たものと見えて、血が頭からスウと下りて行く樣な氣がする。動悸も少ししてゐる。何だ、馬鹿々々しい、俺は怎して恁う時々、淺間しい馬鹿々々しい事をするだらうと、頻りに自分と云ふものが輕蔑される、…………
止度もなく、自分が淺間しく思はれて來る。限りなく淺間しいものの樣に思はれて來る。顏は忽ち燻んで、喉がセラセラする程胸が苛立つ。渠は此世に於て、此自蔑の念に襲はれる程厭な事はない。
と、隣室でドサリといふ物音がした。咄嗟の間には、主婦が起きて來るのぢやないかと思つて、ビクリとしたが、唯寢返りをしただけと見えて、立つ氣配もせぬ。ムニヤムニヤと少年が寢言を言ふ聲がする。漸と安心すると、動悸が高く胸に打つて居る。
處々裂けた襖、だらしなく吊下つた壁の衣服、煤ばんで雨漏の痕跡がついた天井、片隅に積んだ自分の夜具からは薄汚い古綿が喰み出してる。ズーッと其等を見𢌞す渠の顏には何時しか例の痙攣が起つて居た。
噫、淺間しい! 恁う思ふと渠は、ポカンとして眠つて居る佐久間の顏さへ見るも厭になつた。渠は膝を立直して小さい汚ない机に向つた。
埃だらけの硯、齒磨の袋、楊枝、皺くちやになつた古葉書が一枚に、二三枚しかない封筒の束、鐵筆に紫のインキ瓶、フケ取さへも載つて居る机の上には、中判の洋罫紙を赤いリボンで厚く綴ぢた、一册の帳面がある。表紙には『創世乃卷』と氣取つた字で書いて、下には稍小さく「野村新川。」
渠は直ちにそれを取つて、第一頁を披いた。
これは渠が十日許り前に竹山の宿で夕飯を御馳走になつて、色々と詩の話などをした時思立つたので、今日横山に吹聽した、其所謂六ケ月位かかる見込だといふ長篇の詩の稿本であつた。渠は、其題の示す如く、此大叙事詩に、天地初發の曉から日一日と成された絶大なる獨一眞神の事業を謳つて、アダムとイヴの追放に人類最初の悲哀の由來を叙し、其掟られたる永遠の運命を説いて、最後の卷には、神と人との間に、朽つる事なき梯子をかけた、耶蘇基督の出現に、人生最高の理想を歌はむとして居る。そして、先づ以て、涙の谷に落ちた人類の深き苦痛と悲哀と、その悲哀に根ざす靈魂の希望とを歌ふといふ序歌だけでも、優に二百行位になる筈なので、渠は此詩の事を考へると、話に聞いただけの(隨つて左程豪いとも面白いとも思はなかつた、)ダンテの『神聖喜曲』にも劣らぬと思ふので、其時は、自分が今こそ恁麽釧路あたりの新聞の探訪をしてるけれど、今に見ろ、今に見ろ、といふ樣な氣になる。
嗚呼々々、大初、萬有の
いまだ象を……
と、渠は小聲に抑揚をつけて讀み出した。が、書いてあるのは唯十二三行しかないので、直ぐに讀終へて了ふ。と繰返して又讀み出す。恁うして渠は、ものゝ三十遍も同じ事を續けた。
初は、餘念の起るのを妨げようと、凝然と眉間に皺を寄せて苦い顏をしながら讀んで居たが、十遍、二十遍と繰返してるうちに、何時しか氣も落着いて來て眉が開く。渠は腕組をして、一向に他の事を思ふまいと、詩の事許りに心を集めて居たが、それでも時々、ピクリピクリと痙攣が顏に現れる。
軈て鐵筆を取上げた。幾度か口の中で云つて見て、頭を捻つたり、眉を寄せたりしてから、「人祖この世に罪を得て、」と云ふ句に亞いで、
人の子枕す時もなし。
ああ、
と書いたが、此「ああ」の次が出て來ない。で、渠は思出した樣に煙草に火をつけたが、不圖次の句が頭腦に浮んだので、口元を歪めて幽かに笑つた。
ああ、み怒りの雲の色、
審判の日こそ忍ばるれ。
と、手早く書きつけて、鐵筆を擱いた。此後は甚麽事を書けばよいのか、まだ考へて居ないのだ。で、渠は火鉢に向直つて、頭だけ捻つて、書いただけを讀返して見る。二三遍全體を讀んで見て、今度は目を瞑つて今書いた三行を心で誦した。
「人の子枕す時もなし、ああみ怒り……審判の日……。」「人の子枕す……」然うだ、實際だ。人の子は枕する時もない。人の子は枕する時もない。世界十幾億の人間、男も、女も眞實だ。人の子は枕する時もない。實際然うだ、寢ても不安、起きても不安! 夢の無い眠を得る人が一人でもあらうか! 金を持てば持つたで惡い事を、腹が減れば減つたで惡い事を、噫、寢てさへも、寢てさへも、實際だ、夢の中でさへも惡い事を! 夢の中でさへも俺は、噫、俺は、俺は、俺は…………
恐ろしい苦悶が地震の樣に忽ち其顏に擴がつた。それが刻一刻に深くなつて行く。瞬一瞬に烈しくなつて行く。見ろ、見ろ、人の顏ぢやない。全く人の顏ぢやない。鬼? 鬼の顏とは全くだ。種々な事が胸に持上つて來る。渠はそれと戰つて居る。思出すまいと戰つて居る。幾何壓しつけても持上がる。あれもこれも持上がる。終には幾十幾百幾千の事が皆一時に持上る。渠は一生懸命それと戰つて居る。戰つて戰つて、刻一刻に敗けて行く。一瞬一瞬に敗けて行く。
「俺は親不孝者だ!」と云ふ考へが、遂に渠を征服した。胸の中で「一圓五十錢!」と叫ぶ。脅喝、詐僞、姦通、強姦、喰逃……二十も三十も一時に喊聲をあげて頭腦を蹂躙る。見まい、聞くまい、思出すまいと、渠は矢庭に机の上の『創世乃卷』に突伏した。それでも見える、母の顏が見える。胸の中で誰やら「貴樣は罪人だ。」と叫ぶ、「警察へ行け。」と喚く。と渠は、横濱で唯十錢持つて煙草買ひに行つた時、二度三度呼んでも、誰も店に出て來なかつたので、突然「敷島」を三つ浚つて逃げた事を思ひ出した。渠はキリキリと齒を喰しばつた。噫、俺は一日として、俺は何處へ行つても、俺は、俺は、……と思ふと、凄じい髯面が目の前に出た。それは渠が釧路へ來て泊る所のなかつた時、三晩一緒に暮した乞食だ。知人岬の神社に寢た乞食だ。俺はアノ乞食の嚊を二度姦した! 乞食の嚊を、この髯面の嚊を……髯面がサッと朱を帶びた。カインの顏だ。アダムの子のカインの顏だ。何處へ逃げても御空から大きな眼に睨められたカインの顏だ。土穴を掘つて隱れても大きな眼に睨められたカインの顏だ。噫、カインだ、カインだ、俺はカインだ!
俺はカインだ! と總身に力を入れて、兩手に机の縁を攫んで、突然身を反らした。齒を喰しばつて、堅く堅く目を閉ぢて、頭が自づと後に垂れる。胸の中が掻裂かれる樣で、スーッと深く息を吸ふと、パッと目があいた。と、空から見下す大きな眼! 洋燈の眞上に徑二尺、眞黒な天井に圓く描かれた大きな眼!「俺はツ」と渠は聲を絞つた。
「ウヽ」と聲がしたので、電氣に打たれた樣に、全身の毛を逆立てた。渠の聲が高かつたので、佐久間が夢の中で唸つたのだ。渠は恐しき物を見る樣に、佐久間の寢顏を凝視めた。眠れりとも、覺めたりともつかぬ、半ば開いた其眼! 其眼の奧から、誰かしら自分を見て居る。誰かしら自分を見て居る。…………
野村はモウ耐らなくなつて、突然立上つた。「俺は罪人だ、神樣!」と心で叫んで居る。襖を開けたも知らぬ。長火鉢に躓いたも知らぬ。眞暗で誰のだか解らぬが、兎に角下駄らしいものを足に突懸けて、渠は戸外へ飛出した。
西寺の横の坂を、側目も振らず上つて行く。胸の上に堅く組合せた拳の上に、冷い冷い涙が、頬を傳つてポタリポタリと落つる。「神樣、神樣。」と心は續け樣に叫んで居る。坂の上に鋼鐵色の空を劃つた教會の屋根から、今しも登りかけた許りの二十日許りの月が、帽子も冠らぬ渠の頭を斜めに掠めて、後に長い長い影を曳いた。
十二時半頃であつた。
寢る前の平生の癖で、竹山は窓を開けて、煖爐の火氣に鬱した室内の空氣を入代へて居た。闃とした夜半の街々、片割月が雪を殊更寒く見せて、波の音が遠い處でゴウゴウと鳴つて居る。
直ぐ目の下の病院の窓が一つ、パッと火光が射して、白い窓掛に女の影が映つた。其影が、右に動き、左に動き、手をあげたり、屈んだり、消えて又映る。病人が惡くなつたのだらうと思つて見て居る。
と、眞砂町を拔ける四角から、黒い影が現れた。ブラリブラリと俛首れて歩いて來る。竹山は凝と月影に透して視て居たが、怎も野村らしい。帽子も冠つて居ず、首卷も卷いて居ない。
其男は、火光の射した窓の前まで來ると、遽かに足を留めた。女の影がまた瞬時窓掛に映つた。
男は、足音を忍ばせて、其窓に近づいた。息を殺して中を覗つてるらしい。竹山も息を殺してそれを見下して居た。
一分も經つたかと思ふと、また女の影が映つて、それが小さくなつたと見ると、ガタリと窓が鳴つた。と、男は強い彈機に彈かれた樣に、五六歩窓際を飛び退つた。「呀ツ」と云ふ女の聲が聞えて、間もなく火光がパッと消えた。窓を開けようとして、戸外の足音に驚いたものらしい。
男は、前より俛首れて、空氣まで凍つた樣な街路を、ブラリブラリと小さい影を曳いて、洲崎町の方へ去つた。
翌日、野村良吉が社に出たのは十時少し過であつた。ビクリビクリと痙攣が時々顏を襲うて、常よりも一層沈んで見えた。冷たい疲勞の壓迫が、重くも頭腦に被さつて居る。胸の底の底の、ズット底の方で、誰やら泣いて居る樣な氣がする。
氣が拔けた樣に懵乎として編輯局に入ると、主筆と竹山と、モ一人の洋服を着た見知らぬ男が、煖爐を取圍いて、竹山が何か調子よく話して居た。
野村も其煖爐に近づいた時、見知らぬ男が立つて禮をした。渠も直ぐ禮を返したが、少し周章氣味になつてチラリと其男を見た。二十六七の、少し吊つた眼に才氣の輝いた、皮膚滑かに苦味走つた顏。
『これは野村新川君です。』と主筆は腰かけた儘で云つた。そして渠の方を向いて、『この方は今日から入社する事になつた田川勇介君です。』
渠は電光の如く主筆の顏を偸視たが、大きな氷の塊にドシリと頭を撃たれた心地。
『ハア然うですか。』と挨拶はしたものの、總身の血が何處か一處に塊つて了つた樣で、右の手と左の手が交る交るに一度宛、發作的にビクリと動いた。色を變へた顏を上げる勇氣もない。
『アノ人は面白い人でして、得意な論題でも見つかると、屹度先づ給仕を酒買にやるんです。冷酒を呷りながら論文を書くなんか、アノ温厚な人格に比して怎やら奇蹟の感があるですな。』と、田川と呼ばれた男が談り出した。誰の事とも野村には解らぬが、何れ何處かの新聞社に居た人の話らしい。
『然う然う、其麽癖がありましたね。一體一寸々々奇拔な事をやり出す人なんで、書く物も然うでしたよ。恁麽下らん事をと思つてると、時々素的な奴を書出すんですから。』と竹山が相槌を打つ。
『那麽いふ男は、今の時世ぢや全く珍しい。』と主筆が鷹揚に嘴を容んだ。『アレでも若い時分には隨分やつたもので、私の縣で自由民權の論を唱導し出したのは、全くアノ男と何とか云ふモ一人の男なんです。學問があり演説は巧いし、剩に金があると來てるから、宛然火の玉の樣に轉げ歩いて、熱心な遊説をやつたもんだが、七八萬の財産が國會開會以前に一文も無くなつたとか云ふ事だつた。』
『全く惜しい人です喃、函館みたいな俗界に置くには。』と田川は至極感に打たれたと云ふ口吻。
野村は到頭恁麽話に耐へ切れなくなつて、其室を出た。事務室を下りて煖爐にあたると、受附の廣田が「貴方新しい足袋だ喃。俺ンのもモウ恁麽になつた。」と自分の破れた足袋を撫でた。工場にも行つて見た。活字を選り分ける女工の手の敏捷さを、解版臺の傍に立つて見惚れて居ると、「貴方は氣が多い方ですな。」と職長の筒井に背を叩かれた。文選の小僧共はまだ原稿が下りないので、阿彌陀鬮をやつてお菓子を買はうと云う相談をして居て、自分を見ると「野村さんにも加擔ツて貰ふべか。」と云つた。機械場には未だ誰も來て居ない。此頃着いた許りの、新しい三十二面刷の印刷機には、白い布が被けてあつた。便所へ行く時小使室の前を通ると、昨日まで居た筈の、横着者の爺でなく、豫て噂のあつた如く代へられたと見えて、三十五六の小造の男が頻りに洋燈掃除をして居た。嗚呼アノ爺も罷めさせられた、と思ふと、渠は云ふに云はれぬ惡氣を感じた。何處へ行つても恐ろしい怖ろしい不安が渠に踉いて來る。胸の中には絶望の聲──「今度こそ眞當の代人が來た。汝の運命は今日限りだ! アト五時間だ、イヤ三時間だ、二時間だ、一時間だツ!」
上島に逢へば此消息を話して貰へる樣な氣がする。上島は正直な男だ、と考へて、二度目に二階へ上る時、
『上島君はまだ來ないのか、君!』
と廣田に聞いて見た。
『モウ先刻に來て先刻に出て行きましたよ。』
と答へた。然うだ、十時半だもの、俺も外交に出なけやならんのだが、と思つたが、出て行く所の話ぢやない、編輯局に入ると、主筆が椅子から立ちかけて、
『それぢや田川君、私はこれから一寸社長の宅に行きますから、君も何なら一緒に行つて顏出しして來たら怎です?』
『ア然うですか、ぢや何卒伴れてつて頂きます。』
と田川も立つた。二人は出て行く。野村も直ぐ後から出て、應接室との間の狹い廊下の、突當りの窓へ行つた。モウ決つてる! 決つてる! 嗚呼俺は今日限りだ。
明日から怎しよう、何處へ行かう、などと云ふ考へを起す餘裕もない。「今日限り!」と云ふ事だけが頭腦にも胸にも一杯になつて居てて、モウ張裂けさうだ。鵜毛一本で突く程の刺戟にも、忽ち頭蓋骨が眞二つに破れさうだ。
また編輯局に入つた。竹山が唯一人、凝然と椅子に凭れて新聞を讀んで居る。一分、二分、……五分! 何といふ長い時間だらう。何といふ恐ろしい沈默だらう。渠は腰かけても見た、立つても見た、新聞を取つても見た。火箸で煖爐の中を掻𢌞しても見た。窓際に行つて見た。竹山は凝然と新聞を讀んで居る。
『竹山さん。』と到頭耐へきれなくなつて渠は云つた。悲し氣な眼で對手を見ながら、顫ひを帶びて怖々した聲で。
竹山は何氣なく顏を上げた。
『アノ!、一寸應接室へ行つて頂く譯に、まゐりませんでせうかねす?』
『え? 何か用ですか、祕密の?』
『ハア、其、一寸其……。』と目を落す。
『此室にも誰も居ないが。』
『若し誰か入つて來ると……。』
『然うですか。』と竹山は立つた。
入口で竹山を先に出して、後に跟いて狹い廊下を三歩か四歩、應接室に入ると、渠は靜かに扉を閉めた。
割合に廣くて、火の氣一つ無い空氣が水の樣だ。壁も天井も純白で、眞夜中に吸込んだ寒さが、指で壓してもスウと腹まで傳りさうに冷たく見える。青唐草の被帛をかけた圓卓子が中央に、窓寄りの煖爐の周圍には、皮張りの椅子が三四脚。
竹山は先づ腰を下した。渠は卓子に左の手をかけて、立つた儘霎時火の無い煖爐を見て居たが、
『甚麽事件です?』
と竹山に訊かれると、忽ち目を自分の足下に落して、
『甚麽事件と云つて、何、其、外ぢやないんですがねす。』
『ハア。』
『アノ、』と云つたが、此時渠は不意に、自分の考へて居る事は杞憂に過ぎんのぢやないかと云ふ氣がした。が、
『實は其、(と又一寸口を噤んで、)私は今日限り罷めさせられるのぢやないかと思ひますが……』と云つて、妙な笑を口元に漂はしながら竹山の顏を見た。
竹山の眼には機敏な觀察力が、瞬く間閃いた。『今日限り? それは又怎してです?』
『でも、』と渠は再び目を落した。『でも、モウお決めになつてるんぢやないかと、私は思ひますがねす。』
『僕にはまだ、何の話も無いんですがね。』
『ハア?』と云ふなり、渠は胡散臭い目附をしてチラリと對手の顏を見た。白ツばくれてるのだとは直ぐ解つたけれど、また何處かしら、話が無いと云つて貰つたのが有難い樣な氣もする。
暫らく默つて居たが、『アノ、田川さんといふ人は、今度初めて釧路へ來られたのですかねす?』
『然うです。』と云つて竹山は注意深く渠の顏色を窺つた。
『今迄何處に居た人でせうか?』
『函館の新聞に居た男です。』
『ハア。』と聞えぬ程低く云つたが、霎時して又、『二面の方ですか、三面の方ですか?』
『何方もやる男です。筆も兎に角立つし、外交も仲々拔目のない方だし……。』
『ハア。』と又低い聲。『で、今後は?』
『サア、それは未だ決めてないんだが、僕の考へぢやマア、遊軍と云つた樣な所が可いかと思つてるがね。』
渠は心が頻りに苛々してるけれど、竹山の存外平氣な物言ひに取つて掛る機會がないのだ。一分許り話は斷えた。
『アノ、』と渠は再び顏をあげた。『ですけれども、アノ方が來たから私に用がなくなつたんぢやないですかねす?』
『甚麽譯は無いでせう。僕はまだ、モ一人位入れようかと思つてる位だ。』
『ハ?』と野村は、飮込めぬと云つた樣な眼附きをする。
『僕は、五月の總選擧以前に六頁に擴張しようと考へてるんだが、社長初め、別段不賛成が無い樣だ。過般見積書も作つて見たんだがね、六頁にして、帶廣のアノ新聞を買つて了つて、釧路十勝二ケ國を勢力範圍にしようと云ふんだ。』
『ハア、然うですかねす。』
『然うなると君、帶廣支社にだつて二人位記者を置かなくちやならんからな。』
渠の頭腦は非常に混雜して來た。嗚呼、俺を罷めさせられるには違ひないんだ、だが、竹山の云つてる處も道理だ。成程然うなれば、まだ一人も二人も人が要る。だが、だが、ハテナ、一體社の擴張と俺と、甚麽關係になつてるか知ら? 六頁になつて……釧路十勝二ケ國を……帶廣に支社を置いて、……田川が此方に居るとすると俺は要らなくなるし……田川が帶廣に行くと、然うすると雖も帶廣にやられるか知ら……ハテナ……恁うと……それはまだ後の事だが……今日は怎うか知ら、今日は?……
『だがね、君。』、と稍あつてから低めの調子で竹山が云つた時、其聲は渠の混雜した心に異樣に響いて、「矢張今日限りだ」といふ考へが征矢の如く閃いた。
『だがね、君。僕は卒直に云ふが、』と竹山は聲を落して眼を外らした。『主筆には君に對して、餘り好い感情を有つてない樣な口吻が、時々見えぬでも無い。……』
ソラ來た! と思ふと、渠は冷水を浴びた樣な氣がして、腋の下から汗がタラタラと流れだした。と同時に、怎やら頭の中の熱が一時に颯と引いた樣で、急に氣がスッキリとする。凝と目を据ゑて竹山を見た。
『今朝、小宮洋服店の主人が主筆ン所へ行つたさうだがね。』
『何と云つて行きました?』不思。
『サア、田川が居たから詳しい話も聞かなかつたが……。』
竹山は口を噤んで渠の顏を見た。
『竹山さん、私は、』と哀し氣な顫聲を絞つた。『私はモウ何處へも行く所のない男です。種々の事をやつて來ました。そして方々歩いて來ました。そして私はモウ行く所がありません。罷めさせられると其限です。罷めさせられると死にます。死ぬ許りです。餓ゑて死ぬ許りです。貴君方は餓ゑた事がないでせう。嗚呼、私は何處へ行つても大きな眼に睨められます。眠つてる人も私を視て居ます。そして、』と云つて、ギラギラさして居た目を竹山の顏に据ゑたが、『私は、自分の職責は忠實にやつてる積りです。毎日出來るだけ忠實にやつてる積りです。毎晩町を歩いて、材料があるかあるかと、それ許り心懸けて居ります。そして昨晩も遲くまで、』と急に句を切つて、堅く口を結んだ。
『然う昨夜も、』と竹山は呟く樣に云つたが、ニヤニヤと妙な笑を見せて、『病院の窓は、怎うでした?』
野村はタヂタヂと二三歩後退つた。噫、病院の窓! 梅野とモ一人の看護婦が、寢衣に着換へて薄紅色の扱帶をした所で、足下には燃える樣な赤い裏を引覆へした、まだ身の温りのありさうな衣服! そして、白い脛が! 白い脛!
見開いた眼には何も見えぬ。口は蟇の樣に開けた儘、ピクリピクリと顏一體が痙攣けて兩側で不恰好に汗を握つた拳がブルブル顫へて居る。
「神樣、神樣。」と、何處か心の隅の隅の、ズッと隅の方で…………。
底本:「石川啄木作品集 第二巻」昭和出版社
1970(昭和45)年11月20日発行
※底本の疑問点の確認にあたっては、「啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房、1967(昭和42)年7月30日初版第1刷発行を参照しました。
※底本では、一部新旧漢字が混在している箇所がありますが、旧漢字に統一しました。
※底本123頁上段2行目、140頁上段6行目の慒は、懵に置き換えました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2003年3月20日作成
2011年4月19日修正
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