すゞろごと
樋口一葉



        ほとゝぎす


 ほとゝぎすの声まだしらねば、いかにしてか聞かばやと恋しがるに、人のひ来て、「何かは聞えぬ事のあるべき。我が宿やど大樹おほきにはとまりてさへ鳴くものを、夜ふけまくらにこゝろし給へ。近く聞く時は唯一たゞひとこゑあやしきに聞きなさるれど、遠くなりゆく声のいと哀れなるぞ」と教へられき。

 時はふるき暦の五月さつきにさへあれば、おのが時たゞいまと心いさみて、それよりのな〳〵目もあはず、いかで聞きもらさじとまちわたるに、はかなくて一夜ひとよは過ぎぬ。そのつぎのもつぎの夜もおぼつかなくて、何時いつしか暁月夜あかつきづくよの頃にもなれば、などかくばかり物はおもはする、いとつれなくもあるかなと憎くむ〳〵なほまつに弱らで一夜ひとよまちあかしゝに、ある暁のいとねぶうて、物もおぼえずしばし夢結ぶやうなりしが、耳もと近くその声あやまたず聞えぬ。まだ聞かざりしをさやかに知るは怪しけれど、疑ひなきそれとまくらおしやりて、居直ゐなほれば又ひとこゑさやかにぞなく。故人こじんがよみつる歌の事などさま〴〵胸に迫りて、ほと〳〵涙もこぼれつべく、ゆかしさのいとへがたければ、ねやの戸おして大空を打見うちみあぐるに、月には横雲少しかゝりて、見わたすをかの若葉のかげ暗う、過ぎゆきけんかげも見えぬなん、いと口惜くちをしうもゆかしうもたゞ身にしみてうちながめられき。

 あけぬれば歌よむ友のもとに消息せうそこして、このほこりいはゞやとしつるを、事にまぎれてさて暮しつ。に入れば又々鳴きわたるよ。こたびはよひよりうちしきりぬ。人の聞かせしやうにこまやかなる声はあらねど、たゞものゝ哀れにて、げに恋する人の我れに聞かすなと言ひけんも道理ことわりぞかし。おもふ事なき身もと、すゞろに鼻かみわたされて、日記のうちには今宵こよひのおもふこと種々くさ〴〵しるして、やがて哀れしる人にとおもふ。

 かくて二日ふつかばかり、三日みつかのちなりけん、ゆくりなくし友あり。いとうれしうて、今やこの事かたりいでん、しばししてやおどろかすべき、さこそは人のうらやましがるべきをと、嬉しきにもなほはゞかられつゝ、あらぬ事ども言ひかはすほどに、折しもかの子規ほとゝぎす軒端に近う鳴く声のする。「あれ聞き給へ。此宿こゝはこゞゐの森にもあらぬを、この夜頃よごろたえせず声の聞ゆるが上に、ひるさへかく」と打出うちいだしたれば、友はときがたきおもゝちして、「何をかのたまふ」とたゞに言ふ。かく〳〵と語れば、「そはけがたき事」とうちかたぶき打かたぶきするほどに、又も一声ひとこゑ二声ふたこゑうちしきれば、「あれが声を郭公ほとゝぎすとや。いかにしてさはおぼしつるぞ、いとよき御聞おんききざま」と、友は口おほひもしあへずみくつがへる。「いつもあかつきよりなきいでゝ夕ぐれまでは御軒おんのきのものなるを、いかにしてさは聞き給ひけん、物ぐるほしくもおはしますかな」といよ〳〵笑ふに、「さにはあるまじ。いかで山がらすをさはおもふべき。あのなくね聞き給へ、よもあやまらじ」と不審いぶかしうなりて言へば、「月夜に寝ほうけて鳴出なきいづる時は常の声ともことなりぬべし。今のなくは何かは異ならん。あれ見給へ、飛びゆく姿もさやかなるを」と指さゝれて、あはれこの子規ほとゝぎすいつも初音はつねをなく物になりぬ。めずは夢のをかしからましを。

底本:「全集樋口一葉 第二巻 小説編二〈復刻版〉」小学館

   1979(昭和54)年101日第1版第1刷発行

   1996(平成8)年1110日復刻版第1刷発行

入力:もりみつじゅんじ

校正:浅原庸子

2003年323日作成

青空文庫作成ファイル:

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