小町の芍薬
岡本かの子
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根はかち〳〵の石のやうに朽ち固つてゐながら幹からは新枝を出し、食べたいやうな柔かい切れ込みのある葉は萌黄色のへりにうす紅をさしてゐた。
枝さきに一ぱいに蕾をつけてゐる中に、半開から八分咲きの輪も混つてゐた。その花は媚びた唇のやうな紫がかつた赤い色をしてゐた。一歩誤れば嫉妬の赤黒い血に溶け滴りさうな濃艶なところで危く八重咲きの乱れ咲きに咲き止まつてゐた。
牡丹の大株にも見紛ふ、この芍薬は周囲の平板な自然とは、まるで調子が違つてゐて、由緒あり気な妖麗な円光を昼の光の中に幻出しつゝ浮世離れて咲いてゐた。
国史国文学の研究家であり、好事家である村瀬君助が小野の小町の手植ゑと言ひ伝へられるこの芍薬の傍へ来たときにはかなり疲れて汗を垂らしてゐた。しかし杖を立てゝ美しい花をぢつと眺め入ると、君助の深く閉した憂愁の顔色がうす明るんで
「おゝ、全く小町が植ゑたものゝやうだ」
といつた。
彼は四五日前から横堀駅に泊りがけで、この界隈に在る、小町の父親小野良実の居城の跡の桐木田やら小町の母親の実家町田氏の居館の跡の泉沢やら、およそ小町に因みのある雄勝郡内の古蹟を踏査してみた。最後にこの芍薬だけを残して置いた。これは史実のためといふよりも詩的な感慨に耽るべきものである。
歴史家の立場よりは軽蔑し、好事家の立場からは楽しみになる材料である。さういふ意味から見物は後廻しとなつた。
北国の六月は晩春の物悩ましさと初夏の爽かさとをこき混ぜた陽気である。梨の花も桃も桜も一時に咲く。冬中、寒さに閉ぢ籠められてゐた天地の情感が時至つて迸り出るのだが鬱屈の癖がついてゐるかして容易には天地の情感が開き切らない。開けばじつくり人に迫る。空の紺青にしても野山の緑にしても、百花の爛漫にしても、くゞめた味の深さがあつて濃情である。真昼の虻の羽音一つにさへ蜜の香が籠つてゐた。
芍薬の咲いてゐる所は小さい神祠の境内になつてゐた。庭は一面に荒れ寂れて垣なども型ばかり、地続きの田圃に働く田植の群も見渡せる。呟くやうな田植唄が聞えて来た。
君助はやつと気がついたやうに芍薬の花から眼を離し、空やあたりの景色を見廻した。彼の顔は、はじめて季節の好意を無条件で受け容れる寛ぎを示してゐた。
彼は妻に悩んだ男であつた。妻の方からいへば妻を悩ました夫で彼はあつたかも知れない。
多情多感で天才型のこの学者は魅惑を覚えるものを何でも溺愛する性質であつた。対象に向つて恋愛に近い気持ちで突き進むのであつた。
「魂を吸ひ取るやうな青白い肌色をなしてゐる」かういつて青磁の鉢に凝つたことがある。
「いのちが溶けて流れるやうな絵だ」かういつて浮世絵の蒐集にかかつたことがある。
時には古雛を買ひ集めてみたり、時には筆矢立を漁り歩いたり、奇抜だつたのは昔の千両箱の蒐集であつた。これはよく絵に描いてある見事なものとは反対に、実物は粗末でよごれ朽ちてゐた。
彼の凝り性は、彼の学問の助けにはなつたが経済上の浪費には違ひなかつた。相当に残つてゐた奈良の郷里の不動産はだん〳〵売り減らされ、妻のいはゆる所ふさげのがらくたものと形を替へた。
妻はしきりに苦情をいつた。妻の心配には理由があつた。まだ幼ない発育不良の一人息子の教育資金も他に出どころはなし、自分たちの老後の生活費も気に懸つた。家門の体面といふ事もある。それやこれやで夫の郷里の資産は出来るだけ崩潰を喰ひ止めて置き度い。わがまゝな夫は、将来、どんなに窮しても学問を金に替へることなどしさうもない柄であつた。
も一つ、妻の苦労の種は、夫の凝り性が、もし生ける女性にでも向けられるとなつたときの惧れである。今こそ夫は物に溺れることを知つて、人に溺れることを知らないから無事なやうなものゝ、全然異性に対して免疫性の人間ではなささうだ。
どつちからいつても早く夫の性分のマニアを癒して、家庭的の常識人になつて貰ふことは一家の浮沈にも係る大事であつた。
夫と妻の闘争は根気よく続いた。夫が物事に偏愛執着の気振りを見せると妻は傍から引離した。夫が陶酔に入らうとすると妻は覚まして水をかけて
「何です、たかゞ土でひねつた陶ものぢやありませんか、おまけにひゞの入つてゐる──」
「こんな虫喰ひ人形、どこがいゝんでせう」
君助はその度に夢の世界から現実の世界へ引戻される気がして、功利一方の妻の醜くさを感ずると共に、酔ふものを奪はれたあとの世の中の落寞に白け切つた。
彼はだん〳〵精神のまはりに灰色の殻を厚めて行つた。彼の情熱は書籍上の研究に集中された。いつとなく夫と妻とは闘ひ疲れて、無為を望む消極的の平和が家庭に幕を降したのである。
その時妻は死んでしまつた。病身の一人息子も死んでしまつた。彼だけが在野の国史国文に関する権威者の一人となつて残つた。
孤独の身となつて見ると彼には何事も判るやうな気がした。うるさいと思つた妻も、やはり弱い一箇の女であつたのだ。家のため、子のため老いのために、これはどうしても闘つたのが当然であると思はれて来た。妻が平凡な女だつただけに彼には却つて憐れみが残つた。
彼はまだ壮年だつたが、再婚する気は全然無かつた。何といつても妻といふものには懲りた上、精神のまはりに附いてゐる厚い殻はさういふ現実上の繋縛に再び牽かれることをすつかりおつくうがつてゐた。
しかしながら彼のやうな性質の人間が全く枯淡な冷灰の生活に諦め切つて生きて行けるものではなかつた。寂しさを増したため却つて埋み火のやうに心の奥へ封じ込められてゐた情感がうづいて、何等かのあたたかみを求めるのであつた。彼は始めて女性の魅力といふものに真から恋ひ出した。死んだ妻とは単なる媒妁結婚だつた。
生きた女もなま〳〵しく嫌だ。さればとて歴史上の女に慰められるにはまた史実に固定され過ぎて彼女等は干からびてゐる。縹渺とした伝説の女こそ、今の彼の心を慰める唯一の資格者だ。しかも彼女が飽くまで美しく、魅惑を持つ性格として夢みられ、彼に臨んで来なければ、彼のやうな灰人を動すには足りなかつた。彼は小野小町を考へ当てた。初恋の女のやうに夢中になつて弘仁朝の美女の研究に取付いた。
頃は明治二十八九年日清の戦役が終つた頃である。戦役中に起つた古典復活の勢はなほしばらく彼の調査に便宜を与へた。珍らしい史料や典拠も手に入つた。
彼の初めの目的は伝説から来る超現実の美女の俤を心に夢み味ひしめることに在つたが、ある程度までの史実的存在の基礎は掴みたかつた。
彼は先づ小野家の系図から調べにかかつた。あの有名な遣唐使篁朝臣の子の良真の女として小町が記入されてゐるのもあり、無いのもある。
次に典拠になる考証を調べた。古来、名だたる学者が甲論乙駁して主張は数説に岐れてゐる。だが主流になる説は二説であつた。小町は近畿在住の小野家一族中に姫として出生し、直ちに宮中へ仕へたといふ説と、飽くまで伝説通り、良真が出羽守として赴任中妾腹に生れ、後京都に上つたといふ説とである。そして小町の古蹟と呼ばれてゐるものも近畿地方と出羽国との双方に多く割拠してゐる。
君助は強ひて真偽を定めなかつた。美人の素姓に於て、謎の深いことは魅惑の強いことにもなるからだ。
君助は楽しんで、伝説の小町の研究に入つて行つた。草紙洗小町、雨乞小町などといふいはゆる七小町の類から六歌仙の一人としての歌仙小町、それから人生の栄枯盛衰にかけてあはれ深く説きなした玉造小町、業平東下りの条の髑髏の小町などまで、およそ絶世の美女の上に空想される詩的構想を、あらゆる角度から伝説は充たしてゐる。そしてこれ等の空想の翼は、かなり小町の歌と世に通つてゐるものから飛翔してゐるのに気付いて、今度は彼女の歌の研究に入つて行つた。
小町集の全部はあてにならないにしても、これと古今、後撰などと照し合せて小町の歌らしいものを捕捉することが出来た。
ときには、男を揶揄するほどぴんとして気嵩なところがあり、ときには哀切胸も張り裂ける想ひが溢れ、それでゐて派手で濃密である。小町の美女としての人格がこれ等の歌の綜合感から出発してゐることを君助は初めて知つた。
研究の副産物として小町もときには恋愛し、ときには恋人に疎んぜられ恨みをのんだらしい形跡をも君助は見出した。従つて生涯無垢だといはれる巷間の噂話も、打消されるわけだが、なぜかこゝまで来ると彼の鋭い考察のメスはぴたりと止つた。そして頭を振つて言つた。
「小町は無垢の女だ。一生艶美な童女で暮した女だ」
友人はこれを聴いて、君助は孤独の寂しさから、少女病にかかつて、どの女も処女だと思ひ込むのだといつたが、君助はそれでもいゝ、結局男の望む理想の女はさうした女なのだと言ひ放つた。
書斎の研究はこの辺で一まづ打切つて、丁度季節も暖になつたので、君助は夢を事実に追ふやうな事蹟踏査に出たのであつた。
君助がゆつくり空やまはりの景色を見廻した眼を再び芍薬に戻すと、いつの間にか紫紅の焔のやうな花の群がりの向う側に一人の少女が立つて居た。
君助はあつと心に叫んで驚いた。それが幻ではあるまいかと疑つて、自分の眼を瞬いた。
少女はやゝ黄味がかつた銘仙の矢絣の着物を着てゐた。襟も袖口も帯も鴾色をつけて、同じく鴾色の覗く八つ口へ白い両手を突込んで佇つてゐた。憂ひが滴りさうなので蒼白い顔は却つてみづ〳〵しい。睫毛の長い煙つたやうな眼でじつと芍薬を見つめてゐた。
「お嬢さん! あなたはどちらのお子?」
君助は思はず訊いてしまつた。そして何といふ美しい娘だらうと険しくなる程無遠慮な眼ざしで瞠つた。
少女はまるで相手に関はぬ態度で、しかし、身体つきをちよつとかしげた顔に生れつき自然に持つ媚態とでもいつた和みを示し、ふくよかに答へた。
「あたくし、あすこのうちの者よ」
少女の指した神祠の茂みの蔭に、地方の豪家らしい邸宅の構へがほんの僅か覗いてゐた。
「おいくつ?」
「十六」
「名前は」
「采女子」
問答は必要なことを応答するやうな緊密さで拍子よく運んだ。君助はこの幻のやうな美少女が現実の世界のものであることをやゝはつきり感じて来た。彼は渇いたものが癒されたときの深い満足の溜息を一つしてから
「学校へは行かないのですか」
「東京の学校へ行つてましたが、あんまり目立ち過ぎるつて、家へ帰されましたの。つまんないつてないの」
つまんないと云ふ少女の失望の表情が君助まで苦しめて、彼は怒を覚えて詰るやうに訊いた。
「目立ち過ぎるつて、何が目立ち過ぎるんです?」
少女は、くつくと笑つた。
「いへないわ」
君助はもうこの時、直感するものがあつて言ひ放つた。
「あなたがあんまり美しいので、学校でいろ〳〵な問題が起つて困る。それで帰されたのでせう」
すると少女はもう悪びれずに答へた。
「をぢさま、よくご存じでいらつしやるわ」
陽は琥珀色に輝いて、微風の中にゆらぐ芍薬と少女は、閃めいて浮き上りさうになつた。少女はもう何事も諦め、気を更へて、運命の浪の水沫を戯ぶ無邪気な妖女神のやうな顔つきになつてゐる。しなやかな指さきで芍薬の蕾の群れを分け、なかで咲き切つた花の茎を漁り、それを撮まうとしながら少女は言つた。
「をぢさま、この土地の伝説をご存じない?」
「知りません」
「この土地は小野の小町の出生地の由縁から、代々一人はきつと美しい女の子が生れるんですつて。けれどもその女の子は、小町の嫉みできつと夭死するんですつて」
「ほゝう⁉」
少女は漸く、気に入つた開花を見付けて、ぢつと眺め入つてゐた。それから、また眼を上げて君助の顔を見た。下ぶくれの下半面についてゐる美事な唇に艶が増して来る。
「?」
「をぢさま、人間ていふものは、死ぬにしても何か一つなつかしいものをこの世に残して置き度がるものね。けども、あたしにはそれがないのよ」
然し、さういひながらも少女は情熱に迫られたやうに、矢庭に顔を芍薬に埋めて摘んだ花に唇を合せた。紫に光る黒髪がぶる〳〵慄へてゐる。君助は、そつと片唾をのんだ。
花から唇を離した少女の顔は青白く冴えてゐた。見るさへたゆげに肩を落し、後向くと夕風の吹く方向へ急に病気らしい咳をせき込みながら、白い踵をかへして消えるやうに神祠の森蔭へかくれて行つて仕舞つた。
失神したやうになつてゐた君助は、やがて気がつくと少女が口づけた芍薬の花を一輪折り取つた。彼は酔ひ疲れた人の縹渺たる足取りで駅へ引き返した。君助は東京へ帰つてから、かなり頭が悪くなつたといふ評判で、学界からも退き、しばらく下手な芍薬作りなどして遊んでゐるといふ噂だつたが、やがて行方不明になつた。
底本:「花の名随筆6 六月の花」作品社
1999(平成11)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第一巻」冬樹社
1974(昭和49)年9月第1刷発行
※「良実」と「良真」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2002年4月24日作成
2014年6月16日修正
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