歳月
宮本百合子



 わたしたちの時代には、学校がそこにあった関係から、お茶の水と呼んでいた附属高女の専攻科の方が見えて、雑誌に何かかくようにと云われた。いまその原稿をかきはじめている、わたしの心持には複雑ないろいろの思いがある。そして、そういう思いは、わたしと同級生であった誰彼のひとたちが、もしその雑誌をよむとしたら、やっぱり同じように感じる思いではなかろうかと思う。なぜなら、随分久しい間、わたしは、自分が少女時代の五年間を暮した学校と縁がきれていた。ざっと十年以上。縁がきれたことには、わたしの方からでない理由の方が大きく作用していた。

 わたしは、女学校を卒業してじき、文学の仕事をしはじめた。自分の生活についていろいろ考えてゆくと、やはり女学校時代の若い心情に蒙ったさまざまの感銘が思いかえされ、そこに、人間として苦しかった折々のあったことを忘れかねた。一九一一年(明治四四年)から一六年にかけての女学校生活には、現代の、とくに一九四五年八月以後の女学生には想像も出来ないような苦しさがあった。それも、ごく些末なことについて。髪の形とか、顔の化粧とか、襷の色と幅とその結びかたについてとか。小さいことごとに、大きな重い感情がきつく示され、そのことでまで稚い心はいためられた。よしんば、そのことがわたし自身にかかわったことでなくても。

 大人の女と少女の感情の間のくいちがいは家庭の内にもある。学校生活の中にもある。そしてそれは文学のテーマとなっている。そこで少年が主人公ではあるが有名なルナールの「にんじん」をはじめとして。

 きょう、そういう心理的な問題については、一般的にある程度は理解されている。女性にも一人一人の性格がある、ということを認めていると同じように。三十年という歳月は、ほんとに意味なく経過したのではなかった。

 わたしは何となくいつも心に苦しさのある生徒だったが、卒業してからは、謝恩的な感情に支配されるのが普通とされている卒業生の雰囲気にとって、一つのとげのような存在となってしまった。わたしは一度ならず、女学校時代の思い出の痛苦をかいたから。そしてそれはまざまざと書かれた。

 五年生だったとき、一人の同級生が、ある日きれいに薄化粧して来た。朝の第一時間がはじまったとき、担当の年をとった女先生から、その顔をすぐ洗って来るようにと命ぜられた。その一人が教室に戻って来るまで授業ははじめられず、みんな着席したまま固唾をのんで待っていた。やがて涙も一緒に水道の水でごしごしこすった顔を因幡の兎のように赤むけに光らして、しんから切なさそうにそのひとが席へ帰って来たとき、三十二人の全級はどういう感じにうたれたろう。こわさと一緒に惨酷さがわたしの体をふるわせた。

 こういう忘れられない情景が、さながらに描き出されたとき、そこに奇妙な現象がおこった。客観的に描かれてみれば誰の目にも、そういう命令の与えかたのむごさははっきりしたのだけれども、そのむごさが鮮明に感銘されればされるほど、そういうものを書くのは忘恩的だという判断が、わたしに向けられた。そんなにその頃は、絶対性が卒業生の気分を支配していたのだった。

 その上、わたしの不運は、同級生のなかに仕事をもってそれで生きて行こうとしている友達が殆ど一人もなかったことからも起った。自分で選んだ結婚をして、数年後、その生活が破れた。このことも友達たちの生活と一つ調子に進行しなかった。もっと都合のわるかったことは、日本に治安維持法という法律がつい先頃まであったことだった。治安維持法が非人間な悪法であるということを理解しなかった人たちにとっては、自分の学校の卒業生が女のくせに、そういう法律にとがめられて入獄するというようなことは、恥辱のことと思われたのだろう。いまは、それらの人たちも「愛情は降る星の如く」に対して、けがらわしい死刑囚の書簡集だとは云うまいけれども。

 いくつかのこういう事情がたたまって、わたしは学校と疎遠になっていたのだった。それを別のひろい表現で云えば、旧い日本の上流中流の生活を支配していた常識の狭さや無智にされているままの偏見との間に、そんなに永年の摩擦があったのであった。

 きょう、こういう文章をかいていて、わたしは、常識の内容のうつりかわりについて、愕くほどの心持がある。いま、わたしの書いたものが学校の雑誌にのるのも、きょうの常識がそれをうけ入れているからである。かつて卒業生一同の穢点と考えられたのも、その非条理そのものが常識の一部分であったからこそである。一人一人の罪がどこにあるだろう。しかし、やはりわたしたち一人一人に責任はある。なぜなら、社会の歴史の進歩は、わたしたちめいめいの前進の総和であるし、常識の内容が新しい命をうけて生きてゆくのも、どこかで、誰かがその生活の現実で常識の古びた垣をひろく新しく結びなおそうと努力しているからである。

 常識というものは、いつでもそれぞれの社会の歴史が可能としている進歩の最低限を示すとともに、それぞれの社会のもっている保守の最頂点を示しているものである。そういう常識の本質をつかんで、人間の幸福に向って、絶えず常識の能動な面を刺戟してゆくことこそ、人間らしさではないだろうか。女性が常識のなかで実利的にばかりなってしまったり、固着した低俗に陥ってしまったりしては悲しいと思う。因幡の兎のようにされたわたしの同級の可哀そうな插話にしろ、もしあの時代の令嬢たちが、卒業すればあとにはお嫁に行くことしか目標がないような教育をうけず、家庭の空気がそういう風でなかったら、どうしてはっきりわかるほどの薄化粧などして学校へ来たりするだろう。青春の美しさは、それなりの麗わしさとして感ぜられず、娘盛り、お嫁入りと常識のなかで結びつけられていたからこそ、白粉が匂うことにもなったのだと思う。女性の一生の見かたのなかに日頃からそういうモメントがふくまれていることには寸毫も思いめぐらさないで、全級の前での嘲りをこめた叱責と水で洗いおとさせるという処置しかできなかったのも、おそらくはその時分の正しさについての常識の粗野さであったろう。

 こんな自然な話が自然な話として語られるようになるまでに、わたしたちの日本は、あんまり多くの犠牲を払わなければならなかった。

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年320日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房

   1953(昭和28)年1月発行

初出:「お茶の水」第60号、お茶の水女子高等師範学校附属高等女学校校友会誌

   1948(昭和23)年

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年915日作成

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