イワンとイワンの兄
渡辺温
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1
父親は病気になりました。あんまり年をとり過ぎているので再び快くなりませんでした。父親は自分の一生がもうおしまいになってしまったことを覚って、二人の息子を──即ちイワンの兄とイワンとを枕元へ呼び寄せて遺言しました。
先ず兄に云いました。
『お前は賢い息子だから、私はちっとも心配にならない。この家も畑もお金も、財産はすべてお前に譲ります。その代り、お前は、イワンがお前と一緒にいる限り、私に代って必ず親切に面倒をみてやって貰い度い。』
それからさて父親は小さな銀製の箱を寝床の下から取り出しながら、イワンの方を向いてこう云いました。
『イワン。お前は兄さんと引きかえて、まことに我が子ながら呆れ返る程の馬鹿で困る。お前には、畑やお金なぞをいくら分けてやったところで、どうせ直ぐに他人の手に渡してしまうに違いない。そこで私は、お前にこの銀の小箱をたった一つ遺してゆこうと考えた。この小箱の中に、私はお前の行末を蔵って置いた。お前が、万一兄さんと別れたりしてどうにもならない難儀な目に会った時には、この蓋を開けるがいい。そうすれば、お前はこの中にお前の生涯安楽にして食べるに困らないだけのものを見出すことが出来るだろう。だが、その時迄は、どんな事があってもかまえて開けてみてはならない。さあ、此処に鍵があるから誰にも盗まれぬように大切に肌身につけて置きなさい。……』
イワンの兄も、イワンも、決して不平は云いませんでした。
二人はただ父親の冥福を神に祈りました。
最早や思い残すことのない父親は、やがて、エンゼルの姿をした二人の息子に手をとられて色とりどりの麗わしい花園を歩いている夢を見ながら、天国へ去りました。
2
兄弟はよそ目にも羨しい程仲よく暮しました。
『さあさあ、イワンや、眼をおさまし。仕立屋が二人お揃の縞羅紗の散歩服を届けてくれたよ。今日はそれを着て遊園地にでも遊びに行こうではないか……』
朝ならば、イワンの兄はそんな事を云って、寝坊なイワンを起こしてくれました。
信心深いイワンは安息日の礼拝に出席するのを怠るようなことはなかったとしても、その他の日は、一日爐ばたに寝そべって独将棋をしたり、遊園地へ行って観覧車に乗ったり、さもなければ二階の窓から遠方の嶺に雪の積っている山を眺めたりして、気儘に暮すばかりでありました。
父親が生きていた時は、父親は馬鹿な息子の身を案じて、そんな風なイワンを時々叱ることがあったけれども、イワンの兄は何時も何時も優しい笑顔を見せてくれました。
イワンは兄の親切に満足して、少しの苦労もありませんでした。
晩になって、晩御飯がすむとイワンは直ぐに眠くなりました。すると、イワンの兄はイワンに寝仕度をさせながら云いました。
『お休みよ、イワン。楽しい夢を見たらば、憶えていて、明日の朝兄さんにも聞かしておくれ。──』
イワンの兄は、裸になったイワンの胸から三角に細い銀鎖を引っぱってその端にさがっている銀の鍵を見ると、さて決まったように、こう云うのでありました。
『イワンや、金貨一袋とこの鍵とを取り換えてはくれまいか。』
『金貨一袋だって?──でも、だめだよ。』とイワンは答えました。
『畑も半分上げよう。』
『だめだよ。』
『屋敷を半分上げてもいいのだよ。』
『だめ、だめ!……』イワンはひどく困ってしまうのでした。『お父さんが死ぬ時に誰にもこの鍵をやってはいけないと云ったんだもの。』
『本当にそうだっけ!……いいよ、いいよ、大切にしてしまってお置き。』
だが、兄は毎晩々々必ず同じ言葉を繰り返してイワンを弱らせました。
3
イワンの兄は、イワンが寝てしまってから、イワンなぞの知らない悪い仲間と一緒に夜遊びに行って、夜明けになって帰って来ました。
ある夜のこと、もうじき噎っぽい朝に近かったのですが、イワンの兄は、遊園地の裏の青い瓦斯灯の下に、夜通し夜露に濡れながら立っていた娘を見つけました。娘は、けばけばしい色の新しい靴下を穿いて、それを使い古したリボンで結いて留めていましたが、娘は孤し児で暮しに困ったため、その晩はじめてそんな処に立ったのでした。それだから、娘の姿は野菊の花のように哀れで清らかでした。イワンの兄が娘のその風情に惹きつけられたのは無理もない次第だったのです。
『僕のお嫁さんにならないか?』とイワンの兄は娘に云い寄りました。
『あなた、あたしを愛して下さるの?』娘は薔薇色の紅が褪せてしまった唇をやっと開いてそう訊きました。
『勿論さ。誓ってもいいよ。』
『あたし、それじゃ、あなたのお嫁さんにして頂くわ。』
『明日の晩、結婚式をあげよう。』
そこでイワンの兄はその孤し児の娘を連れて家に帰りました。
4
イワンの兄はふとした拍子で、美しい花嫁を迎えることが出来たから、一方ならず嬉しく思いました。
『イワンや、目をさましなさい。こんな気分のいい朝に寝坊をするなんて不幸の骨頂だよ。早く起きて、そして窓の外を見てごらん。』
イワンの兄は、その朝そう云ってイワンを揺り起しました。
イワンは窓から金色の朝日のいっぱいにさしている庭の景色を眺めました。するとイワンのおどろいたことには、花畑の間を、今迄についぞ見たこともない人形のように可愛らしい娘が、如何にも楽しげに、小踊りしながら歩き廻っているではありませんか。イワンは眼を瞠ったまま訊ねました。
『兄さん。あの人は誰だろうか?』
『兄さんのお嫁さんさ。』
『それで家の人になったのだね──』
『そうだよ。』
イワンは、そんな綺麗な女の人と一つの屋根の下に住んでいられることを思うと、胸が躍りました。
イワンは併し、娘の姿に見恍れているうちに、だんだんせつなくなりました。
イワンは、娘の頭の先から足の先迄に、恋をしてしまったのです。
イワンは、到頭思い切って云いました。
『兄さん。兄さんはお嫁さんと、僕の銀の箱の鍵とでは、どっちが余計欲しいと思う?──』
『なぜ、そんな事を云い出したのだ?』とイワンの兄は、喫驚してきき返しました。
『僕は兄さんが、金貨や畑なんかではなく、あのお嫁さんと鍵とを取り換えてくれればいいと思うのだけれど。』
『それは本当のことかい? イワンや!』
『本当だとも!』
『よろしい。兄弟同志の事だもの。ちっとも遠慮なぞしなくてもいい。お嫁さんは、どうせどっちかに一人いれば済むのだから、兄さんはお前さえよければ、喜んで取換えてあげようよ。』
イワンは胸から、あんなに大切にして肌身につけていた銀の小箱の鍵をとって、惜しげもなく兄に渡してしまいました。
5
その晩、イワンと娘との盛んな結婚式が挙げられました。──どうしたものか、一家の主であるにも拘らず、イワンの兄は弟の晴れの祝宴に姿を見せようともしませんでした。
娘は何時の間にか、花婿が変ってしまっているのに、おどろきました。
『あなた、あたしを本当に愛して下すって?』と娘はイワンに訊きました。
『神さまに誓ってもいいよ──』
イワンは、生れてない感動に我を忘れて、そう叫びました。
『そう。でも、あなたのお兄さんは、何故あたしに嘘をついたのかしら?──』
『嘘をついたのじゃないよ。誰よりも優しい親切な兄さんだもの!』
イワンは周章て、自分の鍵の話を花嫁に仔細に物語って聞かせました。
すると娘は怒ってみるみる顔色を変えました。
『あなたに引きかえて、あなたの兄さんは、山羊の裘を被った狼です。そして、可哀相にあなたは、あたしのために、折角お父さんが遺して行って下された大切な「行末」を失くしておしまいになったのね。……でも、安心していらっしゃい。あたしが、必ずその銀の小箱の代りに、あなたに楽しい「行末」をこしらえて差し上げますから……』
そう云って、娘はイワンに温い接吻をしました。
イワンの兄は、不思議なことにも、それから幾日経っても、幾月経っても幾十年経っても再び姿を現わしませんでした。そこで、イワンは改めてそこの邸の主となって、愛しい妻と共に何不自由なく仕合せな日を送ることが出来ました。
…………
ところでさて、イワンの兄は一体どうなってしまったのでしょうか。
自分の花嫁と鍵とを取り換えることの出来たイワンの兄は、その鍵で早速箪笥の中に蔵ってあった銀の小箱を開けて見ました。だが中には、ただ一本細い綱を束ねたものが入っているきりでした。その結びめのところに小さな紙片が挾んであって、それに次のような言葉が書きつけてありました。
(窖の北の隅の床石を持ち上げて、その裏についている鉤にこの綱を通して地の底へ降りて行きなさい。そこにお前の安楽な半生が準備してあります。)
イワンの兄は、いよいよ宝の穴を掘り当てたような気持で、その紙片の教える通りを実行しました。もう何十年もの昔から使ったことのない古い窖へ忍び込んで、そこの北の隅の埃だらけの重たい床石をやっと持ち上げてみました。すると果して、その裏側に手頃の鉤がついていたので、それへ銀の小箱の中に入っていた綱をひっかけて、轟く胸をおさえながら、そろそろと地の底へ降りて行きました。ところが、あらかじめ仕掛けがしてあったのでしょう。綱はプツリと音を立てて切れました。呀ッと云うとイワンの兄は忽ち深い深い穴の底へ落ち込みましたがうまい工合に大そう柔いベッドがすっぽりと体を受けとめて呉れました。その穴の何処か一番高い天井の辺から明るい日の光が洩れてくるようにつくられてあったので、そのベッドが未だ新らしい却々上等なものであることが判りました。
イワンの兄は、どうやら其処が宝の蔵ではなさそうなのに気がついて、うろたえて、探し廻りました。穴の中にあったすべてのものは、そのベッドの他に、物々しいパンの山とそして幾十樽かの葡萄酒とでした。
考え深い父親が、馬鹿な息子の身を案じて工夫した食うに困らぬ安楽な「行末」とは、ただそれだけのことでした。
決して他人に邪魔されぬような場所を、わざわざ択んで設けた程のものでしたから、またその中でどのように叫び立てたとて、それが万が一にも誰かの耳に聞えるようなことはありませんでした。
イワンの兄は、そんな穴の底で、イワンの代りにその余生を暮さなければなりませんでした。
みなさんは、それでもイワンの父親がその息子たちのためにして置いた事をば、間違いだとはお考えにならないだろうと思います。
底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」
1928(昭和3)年1月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2000年2月11日公開
2007年10月15日修正
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