田端の汽車そのほか
宮本百合子



 東京に対する空襲ということが段々まじめに考えられるようになってから、うちではよく夕飯後に東京地図をもち出した。その頃もうわたしは目白の家をひきあげて友人がそこに住み、本郷の弟の家に暮しはじめていた。

 弟の一家は三人の子供に夫婦ぎりであるけれども、なかの女の児がひどく弱くて、五歳を越しても歩けず、物云えない病体でいる。その児のためには、防空演習さえも無理であった。防空演習が、防空という実質より、一致精神の鍛錬めいたものとなってからは、そんなに弱い娘の子がいて運搬がむずかしいという実際さえも、何か精神の不一致を意味するように見られて、うちのものは漠然と気味わるがった。田舎に避けて暮す、ということも強制疎開などという言葉が出来なかった時分は、家内の相談という形をとり、しかもそれもひっそりとするような工合であった。東京の市民は東京を死守せよ、一歩も出さない、という風なこわい気風もあったのであった。

 東京地図などが持ち出されるのは、大抵従弟で、戦争を実地に経験して来たような客のある晩であった。

 どうだろうねえ、どう思う? そんなことから、どれ、東京地図あるかい、という調子で地図が出され、その地図を開いてテーブルの上にひろげ、両膝をついて先ずのり出して来るのは九歳の太郎であった。

 従弟のような経験のある人は、地図をひろげて大体重要工業地帯と諸官省の中心地帯とをさした。地図の上で指されるそれらの地区は本郷区のぐるりのどこかに隣接してはいてもうちのある林町界隈までは距っていた。心配は直接本郷あたりが襲撃されることではなくて、思いがけず大規模の被害が生じたときその真中に安全な本郷、またはこの辺が、逃げ場のない袋の中に入ったことになるかもしれないことだ、という風に話された。

 誰の話でも、本郷あたりは何かあっても最後だろうと考えられていた。上からみれば木ばかりみたいなこんなところ! と、憫笑する人もあった。弟嫁は、まるい黒い瞳を見はって、それらの意見をきき、やっぱりそうなのねえ、と日頃良人である弟のことを信用しなおすのであった。

 上落合に半年ばかり住んだことがあった。国民学校の真上の家で、家を見に行ったときは、学校の庭にコンクリートをうっているときで、子供らは一人も外でさわがず、本当に静かだった。そういう事情があると思いもそめず、家賃が手頃なのや一人暮しに快適な間どりの工合やらにひかれて契約した。そして引越したら、二三日で、溌剌騒然たる小学校の賑わいが、別して朗々たるラウド・スピーカアの響きとともに、朝から夕刻まで、崖上に巣をかけた私のしず心を失わした。夜間、青年学校が開かれるようになって遂に苦しさは絶頂に達した。この家は、外部の力で、持てなくなって、友達たちがよりあって、私のいなくなった家を片づけてくれ、私の姿をスケッチした額の下でその家解散の記念写真をとっておいてくれた。

 この家に移ったとき、火災保険の外交員が訪ねて来た。借家だときいて一時に索然とした表情になったが、思い直して動産保険をすすめた。そのとき、東京市内で保険率の少い区の名を云った。本郷や上落合はその中にこめられていた。保険には入らなかったが、保険率のやすいところ、つまり火事が伝統的に少いところとして、本郷のことも上落合のあたりも、心には深くとめられた。

 関東大震災のときも、本郷は大丈夫であった。西方町という火事なしが名物の一区画さえある。本郷も随分変化して、いくらかあぶなっかしくはあるかもしれないが、先ずそれもあとのこと。火事と空襲とは別箇のものと十分知りながら、わたしも本郷安全説に追随していた。

 ところが、一九四五年一月末日神田と本郷の一部が真先に空襲をうけた。それから五月下旬まで、毎月一回、きまって本郷の各部が爆撃をうけつづけた。丹念に、のこった部分につづく地域から被害をうけて、レイダアと云われる機械の精密さをおどろかされた。幾回かの襲撃の間に、うちのぐるりもひどくやられて、唐子の前髪のように動坂のところから団子坂にかけて浅い奥ゆきが残った。

 動坂の上にたって今日東の方を眺めると、坦々たる田端への大通りの彼方にいかにも近代都市らしい大陸橋が見え、右手には道灌山の茂みの前に大成中学校の建物が見える。それにつづいて上野の森がある。

 焼けなかった頃の動坂は、こまかい店のびっしりとつまったひろい石じき道の坂であった。

 その、もう一つ前の動坂は、私たち本郷辺の子供らになじみのふかい動坂で、坂の幅はもっともっとせまく、舗装もしてない急な坂だった。動坂を下りて、ずっとゆくと、二股になった道があって、そこに赤い紙をどっさり貼りつけられた古い地蔵さんの立っている辻堂があった。田端の駅へゆくときは、その地蔵のところから左へとって、杉林などが見えるところから又右へ入って、どうにかしてゆくと、忘れられない急な切どおしの坂があった。右側が崖で左は平らで梅が咲いたりしている大根畑だった。その崖についてゆくと赭土の高い切りどおしで、子供の身たけでは大変高く感じられた崖が左右にあった。その赭土の崖はいつもぬれている、羊歯、苔、りんどうの花などが咲いた。笹もあった。冬は、その赭土のところに霜柱が立ち、その辺の道は、いてついたままのところやどろんこのところや、ひどい難儀をした。汽車を見に、弁当もちで出かける八つばかりの私と六つ、四つの弟たちは、よくこの難所で小さい靴を霜どけのぬかるみに吸いとられて泣いた。靴がぬげたア、と泣くのであった。すると、ついている大人がかかえ上げて片手に靴をもって、ひどいところを大股にこして乾いたところへおろした。私は姉だから厳粛に自力で困難を征服する。

 そうして切どおしをのぼり切ると、道灌山つづきの高台の突端に出た。子供の時分の田端の駅は、思えば面白い地形に在ったものだ。

 汽車は、平らに低いところを走っている。だから駅も低いところに在らねばならない。そういうわけで、田端の駅は、その高台からまるで燈台の螺旋階段のように急な三折ほどの坂道で、ダダダダと駈けおりたところに在った。その急な小径の崖も赭土で、ここは笹ばかりが茂っていた。穴蔵の中に下りてゆくように夏その坂道は涼しかった。そして、冬は、その坂をのぼり切って明るい高台道の日向に出たとき、急にはっきり陽のぬくみを顔に感じた。

 私たち子供達が田端の汽車見物をしたのは、その坂を下りず、草道を右にきれた崖上であった。ころがり落ちないような柵のあるところで、一人の女の子とそれより小さい二人の男の子とは、永い永い間、目の下に活動する汽車の様子に見とれた。汽罐車だけが、シュッ、シュッと逆行していると、そのわきを脚絆をつけ、帽子をかぶった人が手に青旗を振り振りかけている。貨車ばかり黙って並んでいるところへガシャンといって汽罐車がつくと、その反動が頭の方から尻尾の方までガシャン、ガシャンとつたわってゆく面白さ。白い煙、黒い煙。シグナル。供水作業。実に面白くて帰りたくなるときがなかった。

 その間に、ついて来ていた大人は何をしていたのだったろう。誰がついて来たかは覚えていないが、やがて弁当をひらいて、小さい握飯をたべた。

 それは正午と限ったことはない。とにかく「汽車を見にゆく」ときにはきっとお弁当がいり、それは、田端で汽車を見ながら食べられなければならなかった。

 弁当箱そのものが、子供らには重大な関心をもたれていた。何しろそれはイギリスから父が送ってくれた大小三つの赤トランクであったから。金属製で外側はイギリス好みの濃い赤でぬられているところへ、茶色エナメルでがんじょうな〆皮と金ピカの留金とがついている。それはただ平ったい上に描かれているのではなかった。ちゃんとさわってみると〆皮のところは〆皮のように、留金のところはそのように、高くうち出されている。それが堂々たる茶色と金で光っている。

 父が外遊中、家計はひどくつましくて、私たちのおやつは、池の端の何とかいう店の軽焼や、小さい円形ビスケット二十個。或はおにぎりで、上野の動物園にゆくとき、いつもその前のおひるはお握りだった。母はずっとあとになってからでも、小さい子供たちのために動物園に行くときは、さあおむすびをたべて、とこしらえたものであった。

 赤トランクは年の順に大中小とあって、おむすびもいくらか大中小に結んであったのかもしれない。

 その切どおしの崖上に白梅園というところがあったり、その附近に芥川龍之介氏の住居のあることなどが話題になったのは、ずっとずっとあとのことである。

 切どおしの崖の上に一軒の家があって、私が母につれられて行ったことがあった。そこは謙吉さんという母の兄の家であった。謙吉さんという人は若くてアメリカへゆき、財産をこしらえて帰ったが、その頃は発狂して、養生していた。おとなしい気違いで、障子に指をつっこんで穴をこしらえ、一日じゅうそこから外を見て暮している、という話が子供心に印象された。この謙吉さんという人は、母の次兄であった。長男の一彰さんという人は、予備校のどこかへ通っている十六の年、脚気になった。溺愛していた祖母、母の母が、金をもたせて熱海へ湯治にやった。明治のはじめ、官員の若様が金をもって熱海へ来たのであったから、とりまきがついてお酌をあてがった。それがはじまりでこの人の一生は惨憺たるものとなった。祖母は、不良少年のようにしてしまった発端における自分の責任は理解出来ないたちの人であったから、やくざになった一彰さんばかりを家名ということで攻めたてた。親族会議だとか廃嫡だとか大騒ぎをした。そして、そのごたごたの間に母の実家は潰れた形になった。妹である母は、高島田に紫と白のあけぼの染めの絹房の垂れたかんざしをさした頭を下げて、兄の借金の云いわけをしたのであった。

 従って謙吉さんのつよく大きい人柄は誇張されて一家のものから評価され、たよられていたと思われる。そういう実家のごたごたの度に、母は、謙吉さんがいてくれさえしたら、と涙をこぼした。気がちがった謙吉さんのいる家は、それからのち、田端の汽車を見にゆくたびに思い出された。こわさと珍しさ、妙になつかしさの入り交った気もちで左手の崖の方を見上げた。もとよりそうして見上げたからといって、屋根の棟ひとつ目に入るわけでなかったのだけれども。──

 崖が右手に聳えはじめているが、しかし左手はまだ平らで、大根畑などがあるあたりに、更にその奥へ通じる一本の草道があった。そこに一軒のしるこ屋があった。どういう商売の目算で、人家まばらな桜の木の梢に冬の日をうけながら、しること柔かい字で書いた旗が出されたのだったろう。

 どこか心をさそうその風情にうごかされたと見えて、めずらしく通りがかりの母が私たちをつれてそこでおしるこをたべたことがあった。甘くて美味しかった。水色の、角のそげた小さい衝立が立っていた。しかしそこで御馳走になったのは一遍きりで、いつの間にか時がすぎ、あとで思い出したときその店はもう無くなっていた。

 茶料理で有名であり、河童忌や大観の落書きで知られた天然自笑軒が出来たのは、大正のことで、女中が提灯を下げて送って出るその門は、同じ田端でもずっと渡辺町よりにあった。

 漱石は、本郷の千駄木町に住んでいたので初期の作品にはどれもよく団子坂から上野、田端あたりの情景が出て来る。「吾輩は猫である」の中にがらくた中学として有名だった郁文館の中学生のボール悪戯が描かれているのを知らぬものはない。「三四郎」には、明治四十年代の団子坂名物であった菊人形のこともあるし、田端と本郷台との間の田圃のあたりも描かれている。

 後年渡辺治衛門というあかじや銀行のもち主がそこを買いしめて、情趣もない渡辺町という名をつけ、分譲地にしたあたり一帯は道灌山つづきで、大きい斜面に雑木林があり、トロッコがころがったりしている原っぱは広大な佐竹ケ原であった。原っぱをめぐって、僅かの家並があり、その後はすぐ武蔵野の榛の木が影を映す細い川になっていた。その川をわたる本郷台までの間が一面の田圃と畑で、春にはそこに若草も生え、れんげ草も咲いた。漱石の三四郎が、きょうの読者の感覚でみればかなり気障でたまらない美禰子という美しい人に、当時の文展がえりを散歩に誘われ、この辺の田端田圃のどこかの草原に休んで、美禰子が夕映を眺めながら謎のように迷える羊ストレイ・シープというひとりごとをくりかえすのをきいた。

 同じその四十年代の明治に子供であった私達は、同じその田端田圃の畦道を、三四郎がとこうとして悩んだ悩みもなく、「きいてき一声、新橋を、はやわが汽車ははなれたり」と声はりあげて歌いながら歩いた。余りながく崖の上で汽車を見ていて、この田圃にかかる頃は、もうあたりにいくらか夕靄がこめ、町々に豆腐屋のラッパがきこえはじめる時刻になることもある。子供らは先頭にわたし、しんがりにおとな、という順序で、急な母恋しさに畦道をいそいだ。行手には雑木山があった。子供には、すごく深くおそろしく思ったその雑木山の裾を左へとって、暗いしめっぽい樹の匂いのする急な坂をのぼりきると、松平さんの空地と呼ばれていた広地のからたち垣が見えた。そのからたち垣は、ほんとうに長くて、それについて又左へうねって行くと、大給という華族の黒い大きい門があり、自然に折れて丸善のインク工場の前を通った。そこも右手はまだ松平の空地つづきで、せまい道幅いっぱいによく荷馬車がとまっていた。私たち子供は一列になって息をころして馬のわきをすりぬけ、すりぬけるや否や駈け出し、やがてとまってあとをふりかえってみた。こわいくせに、そのこわくて大きな馬の後脚の間に、ホカホカ湯気の立つ丸い馬糞が落ちていたのは、まざまざと見て覚えるのであった。

 からたちの垣は、表の大通りにある門のところまでつづいて、松平さんの桜といえば、その時分林町のその往来に美しく立派なお花見をさせた。からたちの垣がくずれているところから草の茂った廃園が見え、奥の方に丘があってその上に茶室めいたつくりの小さい家が白く障子をしめて建っているのなどもわかった。からたちの垣に白い花が咲くころ、柔かくゆたかな青草が深くしげったその廃園の趣は、昔、植えられた古い庭木が枝をさしかわししげっているためもあって、云うに云えない好奇のこころを動かされた。からたち垣のこわれたところから、女の子はあこがれのこころをもって、その人気なくて、しかも人間に近い廃園をのぞいた。この廃園は昭和に入ってから、市島という越後の大地主に買いとられた。からたちの垣はもうすたれて、いかめしい非常に高いコンクリート塀がこの一区画をしきることになった。きょう、塀そとを通る私たちに見えるものは、昔ながらの丸善工場のインクの匂う門のあたりに、繁った古い樫の梢ばかりである。

 その時分、この辺にほんとに、からたちの垣根が沢山あった。松平の空地をめぐって、からたち垣があるばかりでなく、その斜向いの千種さんの家のからたちの垣が、うちの古びた門につづいていた。あとでは分譲地になった、すぐ近所の須藤さんの杉林がからたち垣だった。うちの裏がやはりからたちで、シロという犬がその下をくぐって出入した。そればかりか、藤堂さんの森のぐるりを囲むのもからたち垣だった。この森では、つい先年まで梟が鳴いた。空襲がはじまってから、どういうレイダアのお告げだったのか、藤堂さんのところに先ず爆弾がおちて、ほんの僅かの距離しかないうちのゆずり葉の下の壕にかがんでいた私を震撼させた。次の月には焼夷弾が落ちて、全焼してしまった。その火の粉は、うちの屋根にふりそそいだ。又その次の月には、焼けのこった藤堂さんの石垣にぴっしりと爆弾が投じられた。森も何も跡かたなくなった。今年の夏、医者通いをして久しぶりにこの裏通りを通ってみれば、もと藤堂の樫の木や石倉でさえぎられていた眺望は一変して、はるばると焼けあと遠く目路がひらけた。九尺に足りないその裏通りのあちらの塀から這い出した南瓜の蔓と、こちらの塀から伸びた南瓜の蔓とを、どこの若い人のしたことか、せまい通りの頭の上で結び合わして、アーチにしてあった。大きい葉の間に実にはならないながら黄色の濃い花が点々と咲く南瓜のアーチは、その下を往来するものに結び合わせた人のこころもちの興までを笑ましく思いやらせた。

 動坂の手前の焼跡に立つと、田端の陸橋が一望のうちに見えるようになったとおり、空襲のあとは、東と西に低地をもつ林町辺の地形がくっきりむき出された。そして、又おのずからこれまでにない眺望を与えている。森鴎外が住んでいた家は、団子坂をのぼってすぐのところにあった。坂をのぼり切ると一本はそのまま真直に肴町へ、右は林町へ折れ、左の一本は細くくねって昔太田ケ原と呼ばれた崖沿いに根津権現に出る。その道が、団子坂から折れて入ったばかりの片側は柵の結ばれた崖で、土どめをうった段々が、崖下へ向ってつけられていた。その崖の上には下町一帯が見晴らせて、父に手をひかれて吉原の大火をその崖から眺めた。丁度日曜日で、目黒の不動へ、筍飯をたべにつれられて行ったそのかえり道に弟と私と二人で、それぞれ父の手につかまって来た。夕方、人々がさわいでその崖上に集り、火事をみているのであった。

 鴎外が、そういう見晴らしに向って立っていた自分の二階を、観潮楼と名づけた由来も肯ける。没後、そちらの門から出入りする部分には誰かが住んで、肴町への通りにある裏門に表札がかけられていた。おとなしい門の上に古風な四角いランプ型の門燈が立てられて、アトリエらしい室が見えた。門のすぐわきにバスの停留場があった。

 空襲ではそこも焼かれた。翌る朝、鼻をつくやけあとの匂いとまだ低く立ちこめている煙の間に、思いがけず鴎外の大理石胸像がのこっていた。ぐるりに迫る火のほてりの熱さを生きた体そのまま耐えがたく思いやって、家の人々が逃げるその際にかぶせたらしいバケツを、その大理石像はかぶっていた。バケツをかぶらされてそこの焼あとにのこっている大理石の鴎外は、通りすがった私の胸に刻みこまれた。

 時を経た今、その焼あとは清潔なおかぼの畑になっている。夏の頃日に日に伸びるそのおかぼ畑の中で、大理石の鴎外は無帽の髪に夜つゆをうけていた。住む二階を観潮楼と名づけた、その家と庭との工合からも、勢よく上にはねた髭をつけた鴎外の顔は、果もない下町の廃跡に向って立っている。きっと、頼んだひとのこのみであったのだろう。書斎の鴎外ではなくて、おそらくは軍医総監としての鴎外が、襟の高い軍服をきっちりつけた胸をはり、マントウの肩を片方はずした欧州貴族風の颯爽さで彫られている。立派な鴎外には相異なく眺められた。けれども、私はやっぱりそういう堂々さの面でだけ不動化されている鴎外を気の毒に感じた。「雁」や、日露戦争時代の百首の和歌、「阿部一族」その他の小説は、どんな俗人も感服するこの風丰だけでは書けなかった。ましてや、アンデルセンという北欧の文学者を、その本人の精神よりもロマンティックに日本に紹介した「即興詩人」の訳は出来なかったであろう。文学のえらさはいつもどこか世間並のえらさのけたをはずしている。ゲーテは十八世紀末から十九世紀の初頭にかけてアポロと云われたそうだけれども、ベートーヴェンの伝記をみていたら、同時代人としていろんな芸術家の写真がのこっていた。シューベルトとゲーテとの写真がそばにあって、自然見くらべられた。シューベルトの表情の正直さ、かけひきのない顔つきは彼の音楽を思いおこさせ、見くらべるゲーテの相貌の見事さにかかっている俗な艷出しにおどろいた。偉大な俗物というゲーテへの判断をうなずいた。

 おかぼの穂がみのり、背高いキビが野趣にみちて色づき初冬に近づいたこの頃、大理石の鴎外はべつのかぶりものをもった。それはアンペラである。丁寧に、繩の結びめも柔かくアンペラで頭部をかくまわれた。雪と霜とで傷められるのに忍びないのであろう。

 キビの葉は乾いた音をたてて、この辺の焼けあと、あちこちに立っている。白山の停留場に立っていると、昔から鶏声ケ窪と云われた窪地が今はじめて私たちの目の前に展開されている。窪地に廃墟が立ち、しかし樹木はこの初夏格別に美しい新緑をつけた。高低のあるこの辺の地勢は風景画への興味を動かすのである。ほんとうに、ことしの新緑の美しかったこと。地べたの中にアルカリが多くなっていたせいか、新緑は、いつもの年よりも遙かに透明ですがすがしく、エメラルド・グリーンに輝いたフランスの絵の樹木の色を思い出させた。焦土に萌える新しい緑へのよろこびからばかり、その美しさが見えたのではなかった。

〔一九四七年七月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年320日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房

   1953(昭和28)年1月発行

初出:「婦人」創刊号

   1947(昭和22)年7月発行

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年915日作成

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