女の学校
宮本百合子
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女学校しか出ていない日本の女性に、「学生生活」の思い出というようなものがあるだろうか。女学校というところは、中学校とさえもちがって、いかにも只少女時代という大ざっぱな思い出の中にくり入れられてしまうような気がする。卒業してからの生活も、私たちの時代の娘たちはみんな夫々親の選択による結婚で、すっかり事情がちがってしまうから、友情さえも永くもち越される場合が少いように思える。まして、同級生の中で、いくらか違った生きかたをしたものは、まるで別ものになって、たとえば私は、自分の卒業した女学校の会友名簿からは除名になるという名誉をになっているらしい。らしい、というのは、はっきりそういう通知さえよこさないから。
こういう一事でもわかるように、大正初頭の女学校の気風は、本当に保守的であったし、個性の特色をよろこばなかった。私の卒業した官立の女学校は、所謂品のよい、出来のよい画一にはめこまれていて、個性のつよさを愛さなかったから、当時の女学生として、力量は無くはなかったのに、社会的に能力を示す人は非常に少い。あとになってからは、大分変化したが。一級の中でも、女の生徒同士の嫉妬や競争を刺戟しないように、ということが先で、専門学校への入学ということやその準備についてなど、教師は全く消極的であった。無事に女学校教育を終らせて、嫁入らせようとしている親の手にわたすのが、一貫した目的であったから、万事が事大主義で、髪の形まで、干渉した。ほんの何年か経ったあとには、すべての女学生はおかっぱとさえなったが、一般がそうなればその女学校の先生たちも決して驚いたり、叱ったりはしない。つまり自分として一定の見識があるわけでないから、「その時の事情」に盲従するばかりであった。私の場合は、受持の女教師がへつらいのある性格の人であったから、いろいろの点で反撥した。
女学生の時分を思い出して、心から懐しむのは、その女学校の構内の風景である。そして、そこの五年間に、最も私の心につよい影響をもったのも、つまりは、その独特な風景の味ではなかったろうか。
女学校はお茶の水の聖堂のとなりに、広大な敷地をもっていた。聖堂よりに正門があって、ダラダラ坂の車まわしをのぼると、明治初代の建築である古風な赤煉瓦の建物があった。年を経た樫の樹が車まわしの右側から聖堂の境に茂っていてその鬱蒼とした蔭に、女高師の学生用の弓場があった。弓場のあるあたりは、ブランコなどがある広くない中庭をかこんで女学校の校舎が建てられているところから遠くて、長い昼の休み時間にしか遊びにゆけなかった。低い丘のようになった暗い樫の樹かげをぬけ、丘の一番高いところに立って眺めると、一面の罌粟畑で、色様々の大輪の花が太陽の下で燃え立ち咲き乱れていた。それは、女学生になって初めての夏の眺めで、翌年から、そこに新校舎の建築がはじめられた。
女学校の方で使っていた古い校舎のつくりかたも、明治初年の洋風でなかなか風趣があった。退屈きわまる裁縫室の外には、ひろい廊下と木造ながらどっしりしたその廊下の柱列が並んでそういう柱列は、表側の上級生の教室のそとにもあった。日がよく当って、砂利まで日向の香いがするような冬のひる休み時間、五年生たちがその柱列のある廊下の下に多勢かたまって立って、話したり動いたりしていた。今の女学校の上級生の晴れやかな稚さ、青春の門口のたっぷりした長さと思い合わせると、本当に不思議な気もちがする。長袖の紫矢がすりに袴をはき前髪をふくらませた長い下げ髪をたらし、手入れのよい靴をはいた十八九の娘たちは、一目みて育ちのよさがわかるとともに、何とだれもかれも大人っぽく、遊戯なんか思いもかけず、もう人生の重大さを知っているという様子をしていたことだろう。彼女たちは、本当は何にも知ってはいなかったのだ。それは、今になってはっきりわかる。あの身ぎれいな、行儀のいい女学生たちの重々しさは、知識の重々しさでも希望の重要さでもなくてつまりは、暢びやかでない若さの重み、将来というものにちっとも見とおしがなくて、漠然と充満している若い女の期待の重苦しさであったのである。
上級生になってから、学校の図書館に出入りしてよいことになった。丁度その頃、千葉安良先生という一人の女先生が西洋歴史からやがて教育と心理学とを受持たれた。この先生こそ、私にとって忘られない先生である。千葉先生が、教科書以外に図書室から借りてよめるいくつかの本を教えられた。ヘッケルの『生命の神秘』という本もあった。文学の本は自分の滅茶な選択でもおのずから整理されてよめたが、文学以外の読書のひろがりを示して頂いたのは、ほかならぬ千葉先生であった。心理学という学課が入って来た五年生の時、野上彌生子の「二人の小さきヷァガボンド」が、『読売新聞』に掲載された。この作品で、はじめて野上彌生子という作家も知ったのであった。
メレジェコフスキーの「トルストイとドストイェフスキー」などを、自分なりの理解で熱中してよみ、長い昼休みの時間、そういう本をもって、本校と云われた古い赤煉瓦の建物の、閉ったきり永年開けられることのない大きい扉の外の石段にかけて読むとき、何にたとえん、と云う満足であった。すこし引込んだ庭かげになっているそういう石段は、夏でもひいやりとして、足もとには羊歯などが茂っていた。遠くには大勢の人気のある、しかもそこだけには廃園の趣があって優美な詩趣に溢れていた。わたしは自分の隅としてそこを愛し、謂わばその隅で生長したのであった。
日本女子大学の英文科予科に一学期ほどいたことがある。ここの学校でも心に刻まれているのは、構内の雑木林である。網野菊、丹野禎子という友達たちと、そこで喋った雑木林が忘られない。学校そのもの、女学生そのものについて、いい感じはなかった。成瀬氏の伝統で、「天才」だの「才能」だの美辞は横溢しているくせに、級の幹事が、ここで女教師代用で、髪形のことや何かこせこせした型をおしつけた。その頃の目白は、大学という名ばかりで、学生らしい健全な集団性もなく、さりとて大学らしい個性尊重もされていなかった。
学生というはっきりした資格でもなくて、その寄宿舎に暮したりしたニューヨークのコロンビア大学も構内の芝生が美しかった。第一次欧州大戦が終ったばかりで、人道的な英雄としてベルギーの皇帝・皇后がコロンビア大学に招待された初夏の光景は壮麗に思い出される。勇敢な看護婦・皇后エリザベスは小柄で華奢で、しかも強靭な身ごなしで、歩道によせられた自動車から降り立った。その背たけはすぐわきに立っていた私より、ほんの頭ぐらいしか高くなかった。どこでも、私はその学校ナイズすることが不得手で、大正の初めに苦しい少女時代を過したのであった。
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「学生評論」
1946(昭和21)年11月再刊第2号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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